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荒廃した科学と宗教のあいだで

1.「S高原から」

僕がはじめて演劇をみたのは、ちょうど5日前、10月24日のことだった。その日は、内野儀をゲストに迎えた批評再生塾の講義があり、講評が終わった後、五反田のマンションの一室で開催された「平田オリザ演劇DVDオールナイト上映会」に深夜から翌朝まで参加した。そこでは「S高原から」「南島俘虜記」「走りながら眠れ」の3作品が順に上映された。大雑把な感想をいえば、「南島俘虜記」「走りながら眠れ」が劇的な仕掛けや魅力に富んでいたように思えたのだが、記憶に残ったのは最初にみた「S高原から」の無機質な空洞だった。それぞれDVDの冒頭にある平田オリザの作品解説(とりわけ「南島俘虜記」)が最も面白いと感じたのが正直なところではあるけれど、「平田オリザ」について書くことは、現代美術でいえば「北川フラム」について書くことに似た難解さを直感せざるをえないので、違和感の残った「S高原から」について書こうと思う。※「平田オリザ」の難解さは、主義主張にあるというよりは、誰のどんな眼で作品がつくられたのか、率直に掴みづらい点にある。それは演劇的なものの特徴、あるいは僕が演劇に不慣れであったからかもしれないが。

2.何もない鳥籠

「S高原から」は、高原のサナトリウムで繰り広げられる病人と面会人と病院関係者のある(鑑賞者からすれば-非日常的な)日常を描いた演劇作品である。舞台中央に配置されたテーブルを囲んで4つのベンチが置かれた舞台美術は(簡素でありながら)何もない鳥籠を思わせた。それは何匹かの魚が泳ぐ水槽というよりは、一羽の鳥さえ存在しない鳥籠というべき舞台空間であったと(事後的に)思わせたのだった。登場人物に着目すれば、「医者」以外の役者は空気のような存在感であり、時折、不快感を与える演技をしていた。(他二作と比べても)おそらく作為的なものだと思われるが、それぞれの役者の無神経と情動の自動性ゆえに、登場人物の名前と性格をすべて把握することが難しい演出となっていた。それは[ある意味で]ワーキングメモリ(作業記憶)に意図的に介入する演出のようにみえた。

「783445という数字を覚え、次に、目を閉じ、この番号を繰り返してみてほしい。それから、99から91まで二つおきに数えて、もう一度上の数字を繰り返してもらいたい。まずできないと言ってよいだろう」と、あるアメリカの神経科学者がワーキングメモリの限界を示していたが、「S高原から」はそれに似た気分を味わうことになる。登場人物は10人以上で、コスチュームを着た医療関係者を除いて、外見だけでは誰が病人で誰が面会客なのか、(ジャージやスリッパを履いているとはいえ)大きくは見分けのつきにくい恰好をしている。それでいて、コロコロ登場人物が入れ替わり立ち代わり、ときに複数の会話が展開し、はっきりとした登場人物それぞれの性格が読めないまま、不意に鑑賞者には何とも言えない気まずさ(あるいは不快感)が与えられる。気まずさの正体は、傍観者じみた面会人と病人とのズレをみることで、鑑賞者自身が傍観者としてあることを(無意識的に)気づかされるからで、不快感の正体は、役者の作為的な悪意を唐突に感じ取るからだといっていい。それゆえ、ぼんやりと舞台を鳥のいない鳥籠のように眺めるのが吉だという意識状態にさせられてしまう。思考が許容度を超えてしまうのだ。

そこには「現実は完全に真理とは一致しない」というべき真理に似た現実がある。ある芸術体験が宗教体験に似た効果を与える一例だといってもいいだろう。気が変になった「ジュースを運んでくる男」がベルを鳴らし続ける終盤まで、物語の筋とは無関係で冗長な会話が散りばめられるのも、そういった効果を高めている。そもそも「演劇」だからか、役者の言葉や行動に何か意味を期待してしまうのだが、サナトリウムの日常会話に現実的な理由を探るのも鑑賞者という立場の悪癖だったといえるのかもしれない。そんなふうに現実を注意深く観察し、なにか行動の理由を十分に知っているわけではないからこそ、ひとは自分を自由だと勘違いして生きられるのだから。

3.現代日本における健康と病

とはいえ、矛盾するようだが物語にも注目してみたい。本作の見どころのひとつは、療養中の画家「西岡」と面会に来た婚約者「上野」の会話に独立的な山場をみることができる。それは上野が西岡に退院して「下」で暮らさないかと説得するの対し、西岡は「自分では決められない」のだと独白するシーンにある。「時間がずぅーって流れてるでしょ。それを眺めている」と西岡は唐突に独白するのだが、それは退院を自分では決められない理由をわれわれに想起させる。もちろん「自由意思を尊重しているので、いつでも退院できますよ」と医者は言うのだが、それを西岡が知らないわけではない。手短に言えば、病によって意識は一定の強度に達するのだが、意識は病的な肉体に隷属させられるがゆえに、不決断こそが美学となりうるのである。現実的には、退院した西岡に「下」での居場所はないのであって、上野との結婚生活の選択は道徳的葛藤を回避できない。破滅を辞さない一か八かの人生を生きる芸術家であれば、例えばイタリアの画家モディリアーニのような生き方もあったのかもしれないが、現代日本に置かれれば、座して死を待つ以外に期待できないのである。別の言い方をすれば、ロシアの行動主義的で啓蒙的で教育的な病んだ小説と比べれば、日本における健康と病は、[死ぬか-死んだように生きるか]の夢遊の貧しさ、決して反転することのない無力な絶望を知ることになる。「S高原から」の魅惑は、非合理的な魔力が効かない場所の憂鬱を「医者」以外の役者たちが抑鬱的な不快さ隠し持って演じていたことにあったのかもしれない。病人であれ、健康人であれ、記憶も忘却も希薄な破滅的な生を-演劇よりもずっと気味の悪い毎日を-じっと眺めることしかできない時代と場所に生きているのだから。

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