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オリザ/チューリング/デュシャン/藤井洋平

  1. 「リツイート!」とわざわざ口に出すこと
高橋源一郎の小説を原作とした『日本文学盛衰史』が、2018年6月に青年座によって舞台化された。平田オリザの作家性から見ると必然性の感じられる原作であり、エンターテイメントとして成功している場面が多く見られた舞台だったが、一方で「現代口語演劇」と呼ばれる彼自身の演劇論が必要としたようなリアリティが、現代の鑑賞体験としてアップデートできていないのではないかという違和感を持つ場面があった。
具体的には、SNS・スマホの使い方である。
登場人物は日本の過去の文学者達だが、過去の平田オリザ作品や高橋源一郎の小説がそうであるように、彼らは舞台上で現代のサブカルチャー・メディアに親しんだ生活者として現れる。文学者たちはスマホを持っていて、ツイッターに言葉を投稿している。しかしこの際、彼らはその内容や投稿をわざわざ口に出すのである。さらに他人のツイートをシェアする際の「リツイート」も登場する。連鎖的に行われていくような時間感覚が表現されており、ツイッターというメディアの特性を考えて演出されているように見えるが、やはり役者が口に出すのである。「リツイート!」と。
生活上のリアリティから言えば、私たちはリツイートする際にわざわざ口に出さない。これは口語演劇の作家としてのセルフパロディだろうか?
本論ではこの演出の危うさへの違和感から出発し、平田オリザが演劇論を立ち上げた際に必要だったリアリティーを現代に置き換えて考えてみたい。
  1. 「現代口語演劇」とバブル期・バラエティ番組
平田オリザの「現代口語演劇」作品を鑑賞すると、動きが少なく、言語のやりとりが主に扱われていることがわかる。現代口語の使用は、それまでの日本の演劇文化へのカウンターとして日常的な言語を用いる必然性から出てきたものと理解できるし、そのため舞台上での動作も当然日常の所作や移動といった程度のものになる。「平田オリザの現場」シリーズのDVDには冒頭に平田オリザ本人のインタビューが収録されており、彼の初期の作劇のモチベーションがバブル時代日本の世間への違和感と反抗意識にあり、演劇論は日本文化や歴史への視点と一続きであることが説明されている。また、自伝的な戯曲と言われる『冒険王』は海外の安宿に居る日本人の旅人達を扱っており、日本的なコミュニケーションとグローバリズムの間の齟齬も作家としての原点と考えられる。
平田オリザの演出は、役者に人間としての内面を設定するのではなく、発語等のタイミング(0.5秒早く、など)や立ち位置を細かく指定することによって行われる。それによって心があると見える演劇を作ることができる、ということである。ではこの場合の心とはなんなのだろうか。
ここで、バブル期との関係が補助線となるだろう。時代・場所における経済環境というのは外在的に決定しているもので、それが私たちの思考の楽観性や悲観性に影響を与える。バブル期の日本の会社やそこでの飲み会の多くで行われていた会話を想像してみる。その場のノリや流れで適当な盛り上がりが生まれ、笑いが起こり、なんとなく色々決まっていくことが多かったのではないだろうか。そういった人々の雰囲気に違和感を感じていただろう平田オリザは、そのような状況は全て記述できると考え、記述することにしたはずだ。つまり、日本におけるコミュニケーションをリアリズムによって記述することで、時代の戯画化を行なった。このリアリズムというのが、例えば発語のタイミングなどで作られるノリや雰囲気によって他者の実体を幻視し、様々なことが進んでしまうという風景だったのだろう。
現在、平田オリザの過去作品を鑑賞してみると、1980年代〜1990年代前半に活躍した芸人が出演するテレビのバラエティ番組や、それを観て影響を受けている人々の日常会話が混ざったもののように見える。バラエティ番組で行われる、ノリや文脈を踏まえないと即座に突っ込まれキャラ付けされる会話のような雰囲気に生活の中で身を任せようとしたお調子者が、しかし一瞬考え込んでしまった「間」のようなもの。特に、平田オリザの認知度が上がりつつあった時期には、リアリティのある戯画として見ることができたに違いない。一方、マスメディアとしての効力をテレビが持たなくなった現在、この類似性が際立つということだろう。2018年の『日本文学盛衰史』における文学者達の群像にも、同様の類似性を観ることができた。その中で出てきたのが、「リツイート!」である。この違和感は、テレビ的なコミュニケーションとインターネット以降のコミュニケーションの齟齬ということなのだろうか。
  1. ロボット演劇とチューリングテスト、デュシャン
「現代口語演劇」は、その後ロボット演劇に応用された。認知心理学にも接近していた平田オリザは、大阪大学で鷲田清一のアレンジにより石黒浩らのロボット研究者とプロジェクトを開始した。タイミングの管理によって「心がある」とみせることが出来る、という演劇論における演者を、プログラムで動くロボットと同様とみなし、実際にロボットを登場させて行った「ロボット演劇」である。
2015年以降、世界的に「AIスピーカー」と呼ばれる製品が販売されている。Amazon社が他社に先駆けて発表したEchoは、スマートフォンの次の時代を担う電子機器として、製造業界や経済界に歓迎された。製品が具現化したAIのイメージは、スタンリー・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」に登場したHAL 9000に近いと言えるだろう。視覚的には、生物的な親近感を抱かせない円筒形のスピーカーと、リング状のLEDの光がある。インターフェースは音声であり、「Alexa,」と声を掛けて何かを頼めば、感情的な抑揚をもたない女性の声が、クールに受け答えをしてくれる。スマートな未来の生活のアシスタントというイメージに基づいて宣伝される。現在市場にあるAIスピーカーは、工業製品として当然、現時点での技術的な制約の中で作られている。AIスピーカーと呼ばれてはいるが、応用されている工学技術の中心は音声認識である。もちろん音声認識自体がパターンマッチングの一分野としてのAIの応用領域の一つでもある。複数マイクによる音源位置検出によって、生活環境中で話者の音声が効率よく入力される。声をかける際の名前はウェイクワードと呼ばれ、機器が返答のための処理を行う対象の入力として扱う発話の開始時点のトリガーとして用いられる。製品が行なうことは認識された言語入力をキーとした検索やサービスとのマッチングであり、トリガー後のユーザーの音声データはクラウド上で解析され、ウェブ上の文字情報を音声で伝達したりマッチしたサービスが実行されたりする。ユーザーとのインタラクションでの役割に着目すればこれは検索型や一問一答型と呼ばれるAIの形式である。
このようにAIの技術分野は様々な領域に渡っている。定義自体が研究者の間でも異なるし、特に日本では翻訳を経過し曖昧になった定義が、経済的に利用されてきた。古くは、Just Systemによる日本語ワープロソフトも人工知能搭載と宣伝されていた。一時流行したのち行方不明になる人工知能商品もある。ワトソン君はどこへ行ったのか。
最もシンプルなAIの分類は、ジョン・サールによる「強いAI・弱いAI」となるだろう。サールによる「中国語の部屋」という思考実験では、中国語を理解できない人を小部屋に閉じ込めて、マニュアルに従った作業をさせる。小部屋に課せられたタスクは、中国語で書かれた質問に対する中国語の回答である。小人は中国語を理解しないが、細分化した記号処理の方法はマニュアルに記載されており、その通り処理すれば、回答は作成される。これは内面に意味論的理解がなくとも、局所的な記号処理によって外部から見れば知能が存在しているように見える状況が可能だという状況を記述したものだ。意味論的理解というのが「強いAI」、記号処理が「弱いAI」ということになる。人工知能が作れるか?という問題設定に対し、そもそも知能や理解の定義は可能かという疑問を突きつけた思考実験だ。
この実験のもとになっているのが、数学者アラン・チューリング(1912〜1954)の提案した「知能の存在をテストする」方法、チューリングテスト(1950)である。情報科学の始祖と言われるチューリングによるチューリングテストのコンセプトでは、文字通りテストの合格基準を設定されている。その基準は、「判定者が、言語で会話する相手がプログラムか人間かを判定し、人間だと判定されれば、そのプログラムは知能を持つとしてよい」とするものだ。さらにここでの会話というのは、文字情報のみをやりとりする端末として仮定されていた点に注目したい。身体は考慮されておらず、文字による言語のみのコミュニケーションという姿は、現在のSNSまで繋がっている。これは当然のことで、チューリングが情報学の始祖と言われる理由は初めての計算機械を作った功績によるためである。
映画『イミテーションゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(2014)は、アラン・チューリングの功績と人生を様々なものに見立てた作品だ。劇中でチューリングが作るマシンは、「クリストファ」と名付けられている。これはチューリングが思春期に出会い、共に暗号を作成して楽しんだ最愛の友人の名前から取られている。クリストファーは実際に存在したチューリングの友人で、思春期の只中で亡くなっている。映画では、チューリングの彼への思いがチューリングマシンに結実したと見立てられる。さらに映画では、シャイで変わり者のチューリングが一人の女性への思いを扱うために様々な嘘を繰り返すという形式が取られている。史実研究で言えば、チューリングマシンは「クリストファ」と名付けられてなどいないし、チューリングは同性愛者であり、当時の社会制度の中で悩み、ホルモン注射治療を受ける中自ら命を絶ったとされている。この見立ては良くできており、友情と性愛を巧みに入れ替えながら、亡くなった人への思いや恋愛感情というものの普遍性を表すことに成功している。
さて、AIスピーカーは西洋SF的な見立てによって技術的制約を製品コンセプトに集約させた。論理的にやりとりされる会話は、西洋における知能というものの見方を表しているし、スピーカーの幾何学的な形状は「2001年宇宙の旅」のモノリスそのものである。しかし、日本文化的に使って眺めてみれば、そのアイテムにもタイミングによって起こる可愛さのようなものを発見可能である。
Alexaに呼びかけると、LEDのリングにおけるハイライトが一瞬さまよった後に話者の方を向く。これは体験的には猫に話しかけた時のような感覚をもたらしている。また、Alexaが返答している間でも、話を遮って名前を呼ぶことで再度質問を投げかけることが可能になっている。これは権威やマウンティングへの欲望によって、話している相手の言葉を遮って自分語りを続ける演技をしているような体験をもたらし、英国風のジョークを思わせる。映画『オースティン・パワーズ デラックス』でドクターイーブルが息子の話を”Shhh!”で遮り続ける場面を再現しているような笑いをもたらす。
https://www.youtube.com/watch?v=mlv7Bp-L2MM
もちろんこんなこと現実にはしたくない。だからこそ笑ってしまう。
また、マイクロソフトの開発したチャットボットである「りんな」は、女子高生AIと呼ばれ、LINE上で会話することができる。2014年に開発され中国でリリースされた「シャオアイス」が輸入されたものだが、これは「人工無能」と分類される。チャットボットは記号処理であることが明らかにされているにも関わらず、人々はその相手に恋心を抱くことができてしまう。
チューリングの生まれた1912年は、美術界においても重要な年だった。マルセル・デュシャンが、「階段を降りる裸体」を展覧会から取り下げた年だ。ここから芸術分野は言語を取り扱うことになった。
  1. 藤井洋平のグローバル性
平田オリザの『下り坂をそろそろと下る』(2016)では、司馬遼太郎の文章がいくつか参照されている。その中でも終章に登場する夏目漱石の三四郎を取り上げた「 日本人の二十世紀」(『この国のかたち 四』)では、「亡びる」という言葉の周辺が引用される。この言葉は、『日本文学盛衰史』でも夏目漱石の言葉として出てくる。言語表現が成立した瞬間から、この国では見立てが止まらない。文学者のどんな言葉にも、権力者は裏の意図を読む。民主主義は亡びる。
最後に司馬遼太郎の国家観である、文明と文化の対比をみてみよう。この国には文化は生まれるが、文明は生まれないのだという。
藤井洋平『どうせおまえはわかっちゃくれない』(2014)は、グローバルな音楽文明となったブラックミュージックの形式で、エロスを歌っている。
https://www.youtube.com/watch?v=FCnIasSnmFw
エロさの残り香を残したおじさん達(彼らももちろん、大変そうな黄昏を背負っている)の中で、私も一緒に叫んでいるときがある。「お前のあそこを俺のものにしたい、そこが何かは聞かないで」と。

 

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