印刷

いま、ことばの向こうからやってくる

 

 

 

平田オリザによる現代口語演劇。静かな演劇とも呼ばれる実践は、現在まで数多くの言説によって探求されてきた。しかしそのほとんどは、質・量ともに充実した著書の存在からもわかるように、平田自身の言葉によってあらかじめ言語化されてきた思考の繰り返しだといっても良いだろう。

平田が目指すのは、近代演劇でもっとも重要視されてきた「心理」や「感情」といった精神的な概念ではなく、「喜怒哀楽といったレベルの感情のさらに深い部分にある「意識」とでも呼ぶべきもの、そしてその意識と他者との関係」の抽出である。

文学研究者の松本和也が指摘するように、このような演出方針は、俳優(人間)と環境との自明視されがちな主従関係を反転させ、舞台上における環境(場・他の俳優・他の台詞・照明・音響など)こそが俳優の演技を規定していくという考えとも繋がるだろう。平田の稽古では、実際に発話そのものよりも発話の際の条件(環境)が指示される。これは人間の行動が環境から身体への働きかけを動因とするとした、アフォーダンス理論にも通底するものである。

「リアル」を目指した平田の演劇作品が、素朴に現実の日常を「そのまま舞台にあげる」といった乱暴な考えに基づかないことは、もはや強調するまでもない。喋り方から身体の動き、見え方に至るまで、現実を形作る様々な要素を解析した上で、いったんフィクションへと変換する。虚構の中に演劇を一度トレースするという作業の後に改めて再構成した表現こそが、平田の演出する日常の風景なのである。

そのアプローチの一つとして、先のアフォーダンスを援用した舞台づくりが存在するというわけだ。登場人物または俳優の内面を掘り下げるような方向には進まない。発語や身振りに関わる「関係や環境」を関数として演技に導入することで、演劇という虚構において「リアル」なものが提出される。

戯曲の言葉、俳優の身体、劇場空間、舞台上に存在する様々な環境とアフォード。混在する要素の全てが平田オリザという演出家を軸として調和し、相互の関係性の帰結としての過渡的な「状態」が上演されていく。それこそが平田オリザ・青年団の「現代口語演劇」なのである。

 

 

 

 

「現代口語演劇」の理論とは異なる角度から、青年団演劇の特徴として「見えないものを想像する」ことの効果も挙げておきたい。作品を見続けてきた観客にはおなじみかもしれないが、しばしば舞台上では客席に背を向ける俳優が存在する。それも物語の展開を左右する局面で、行為はしばしば繰り返されるのである。

『東京ノート』における、女子大生と元家庭教師の男が美術館内で偶然出くわし会話する場面を例にとってみよう。女子大生は彼との関係で妊娠したと告げるが、男が驚いた後にはすぐにそれが嘘だと述べ、発言を取り下げる。このとき、彼女が客席に背を向け表情を見せないことで、観客は真相を「考えさせられる」。

平田は意図的にこの演出を行うことで、観客の想像力にフックをかけ、駆動を促そうとするのである。『S高原から』では、背を向けて横たわった人物が眠っているのか死んでいるのかがわからない−ラストシーンが有名だ。また、恋人から別れを告げられる入院中の男の表情の表情なども、計算したように客席から隠される。舞台上に生まれる「空白」の中に、登場人物の複雑な心持ちを慮る想像力が流れ込む。

『砂と兵隊』では、いつどこから銃を持った人間と対峙するかわからない状況の中で、登場人物たちが互いに牽制をし合う場面がある。ここで機能するのは、舞台上に用意されたスロープ状の空間と、そのゆるい坂の先端にある丘状の段差である。深刻な場面であるにも関わらず、客席に背を向けた俳優と、段差の向こうにいる俳優たちの表情を伺うことは難しい。このように発話能力を伴った「死角」が複数に分岐するケースも存在するのだ。

さらに、青年団のように毎回の講演をDVDなどにアーカイヴし販売している劇団ともなると、観客の「見えないものを想像する」興味はより刺激される。なぜなら、多くの作品ではカメラ位置が複数存在し、劇場では見えなかったものまでもがちらちらと散見されるからである。

例えば『ソウル市民』では韓国併合前年の在朝日本人一家の日常が切り取られるわけだが、女中として雇われている日本語の話せる韓国人が、他の日本人の悪意すらない差別感覚に囲まれる場面は有名だろう。彼女はこのとき客席に背を向けるようにして椅子に座っている。そして、差別的な発言を浴びせられ反応に困る彼女の表情は、DVD版では何度も横から映されることになるのだ。

『南東俘虜記』においても、先の『東京ノート』のように女性が男性に妊娠についての話題を訪ねる時があるが、左右に振られる複数のカメラアイによって、彼女の表情は多角的に捉えられる。

劇場という空間を飛び越えたところ、つまり映像の中では、「見えないものを想像させる」演出の加減が変化する。作品の映像アーカイヴ化を積極的に推進し、作品数を積み上げてきた青年団のような劇団だからこそ、この演出の面白みは増長される。リアルタイム上演とアーカイヴ映像との兼ね合いで演出が発展する可能性を今後も引き継いていくが故に、平田オリザ演劇の特徴として、この見えないものを想像力で補わせ、見えさせるような試みには触れておかなければならない。

 

 

 

 

だがしかし、見えないものが見える工夫が施されているからといって、聞こえないものが聞こえるかどうかはまた別の話だ。

一方で、平田オリザの演劇においては、舞台上で「聞こえないもの」へ観客の想像力を促す設計が、あまり機能していないのではないか。これは作品の「リアリティ」に関わる問題にも発展するため、見過ごすことが難しい論点だとも思われる。どういうことか。

ここで取り上げたいのは吃音(どもり)の問題である。美学研究者の伊藤亜紗は『どもる体』の中で、この吃音について「からだのコントロールを外れた状態」だと表現している。たとえば吃音の代表的なものとして挙げられるのは、「連発」−「最初の音を繰り返す症状」である。「たまご」と言おうとしたけれど、「た」から「ま」へのモーフィング(あるものをなめらかに別のものへと変形させていく手法)がスムーズに行かず、「た」でアイドリングが生じて結果「たたたたたまご」のようになる。

連発は「する運動」ではなく「なってしまう」運動である。別の言い方をすれば「私の運動」でありながら「私のものでない運動」。わざと連発をすることは不可能なのだ。それはしゃべるというオートマ制御の運動に生じるエラーであり、ゆえに当事者はそのタガが外れた体をどこか他人事のように俯瞰したり見守ったりしているのだと伊藤は指摘する。

青年団の演劇では、この吃音が聞こえない。それは戯曲を読んでも明らかで、そこにある平田の言葉はとてもスムーズでなめらかなものなのである。観客によっては、いくら舞台上に現れるものが(虚構としての演劇であり、かつそれが)日常的なリアルを立ち上げようとしているのだと理解していても、この吃音のなさというシンプルな事実のみによって、その場に何か現実ではないものを感じ取ってしまう場合もあるのではないだろうか。

2018年の現代社会では、意識的にも無意識的にも吃音症状とともに「共生」している人の数はかなり増えている。周囲の注目を浴びる場面でどもってしまったり、さらにはどもるのが嫌で逆に言葉が出てこなくなるような症状(「難発」)を経験する機会は、ごく身近なところにもあるはずだ。よって「吃音」無しでひたすら続いていく発話というものが、日常の自然さ、またその先の「リアリティ」を減少させる効果を持っていてもおかしくはない。

また、そもそも演劇の中でどもること自体が難しいといっても良い。見せかけのどもりは演出できても、台詞を読むという行為自体がそもそもどもりのメカニズムと逆行するため、それを表現しきる難易度はかなり上がるはずなのである。前述の伊藤は「リズム」と「演技」、どもりの出にくい2つのシチュエーションに共通している特徴として、それに没頭する間、人々が「運動を部分的にアウトソーシングしている状態」にあることを指摘する。

「リズム」があれば、法則性に依存し、それとともに運動するから楽にしゃべることができる。「演じる」ことも「パターンの使用」に他ならない。台本があれば、すでに知っているしゃべり方のパターンが予め用意される。その場で初めて体から出す言葉であっても、既存のパターンに当てはめてそれを発話することによって、「新しい運動を過去にやった運動の応用に変える」ことができるのだ。それゆえにどもりは起こりづらくなるし、発話をゼロコンマ数秒の単位で慎重に管理する平田の演劇にとっては、どもりを表現することはさらに難しくなる。吃音は意識とは遠いところからやってくる。そして、内面や意識に頼らない方法だとしても、そう簡単に現前させられるものでもないのだ。伊藤は以下のように続ける。

「言語でなく体が伝わる」ことは、その受け手にとっては、独特の生々しい経験です。「言葉をやりとりする」限りであれば、それは「記号をやりとりする」ということであり、相手の体から出た音はすべて記号に、そしてその意味へとただちに変換されます。ところが、連発においては、記号化できないその人の体の質を、ダイレクトに受け取ることになる。しかもそれは意識的にコントロールされていない運動ですから、社会的な「◯◯さん」という人格に回収できない質を受け取ることを意味します。[i]

聞き手にある種の戸惑いを引き起こしながらも、ときに言葉という社会的な約束事のレベルを超えて、メッセージをじかに伝える力が吃音には含まれている。もちろん、平田ならばこの「吃音」でさえ外部的な要因を整えることで演出できてしまう可能性はある。しかしながら、膨大な作品群の中でそのなめらかな言葉が形態を大きく変えていないことを踏まえるならば、吃音を取り入れる演出、もしくは吃音を加えないことにより「聞こえない吃音から何か想起させる」演出に関しては、青年団の演劇とその「リアリティ」は相性が悪いのかもしれない。

平田が研究者の石黒浩と取り組んでいる「アンドロイド演劇」に関しても似たようなことが言えるはずだ。『さようなら』の中では、「ヒューマノイド」である「ジェミノイドF」が登場するのだが、このモデルは青年団所属の女優、井上三奈子が担当している。劇中、観客からは見えないところにあるブースから、井上がリアルタイムで台詞を喋り表情までも創ることによって、ジェミノイドは遠隔操作されるのだ。したがって、普通に生の俳優が演技するのと同じ仕方において吃音も消失せざるを得ない。

一方で、「アンドロイド演劇」より以前に発表された「ロボット演劇」、『働く私』やロボット版『森の奥』には逆に新しい可能性を見いだすこともできる。三菱重工製のロボット「wakamaru」は、確かに予めプログラミングされたことしか話せないかもしれない。そしてその言葉は、人間の内面や身体のダイナミズムとは一切関係のないところから立ち上がるものかもしれない。しかしながら、元々意識からも離れたところにある純粋な「吃音」を演技することが難しい生身の人間とは違って、どこか似たメカニズムから発生する吃音症状を、ロボットは表現できるのではないか。

ロボットが「たたたたたまご」としゃべる。このとき、人間に近いリアリティが表現可能だと考えられる大きな理由は、ロボットというものが原理的に「バグ」と隣り合わせの存在だからだ。それは「連発」の発生状況に近い。ロボットだって、「からだのコントロールを外れた状態」を持っている。そして人間は、観客は、そのことを「知っている」。ゆえに、観客はロボットのどもりをリアリティのある表現として受け取ることができる。平田の取り組むロボット演劇には吃音の表現、さらには吃音を描かないことで「聞こえないものを想像させ、聞こえさせる」高度な表現までもが実践されうる可能性が宿っているのである。

 

 

 

「ロボット演劇」や「アンドロイド演劇」それ自体についても、もう少し議論を深めてみたい。まず言えるのは、この革新的な試みが、平田が俳優とともに洗練させてきた「現代口語演劇」の演出とほとんど矛盾しないということだ。なぜなら過去から現在まで、平田は「リアルな演技というものがあるのではなくて、リアルに見えるということはどういうことなのか」という問いを一貫して引き継いでいるからである。平田にとっては「ロボットも役者も同じ」であり、むしろロボットは「非常に扱いやすい」ものである。演技設計を緻密にすることができるため、ロボットは演技が伝わる正確性を格段に上昇させるのだ。

「リアル」を求めて、平田と石黒は「人間らしさ」に接近する。注意しなければならないのは、平田の演劇では人間が人間を演じるのと同じように、ロボットはロボット役を演じ、アンドロイドはアンドロイド役を演じるということである。それでいながら、先に述べたようにロボットやアンドロイドにも「人間と同じような仕方で」演技を仕込み、様々な角度から機械による「人間らしさ」の表出が実践されているのである。

平田  人間とは何かっていうのを、工学的なテクノロジーで人間に近づけていけば、勝手に人間らしくなると工学者の方たちは思ってたんですけれども、石黒先生のコペルニクス的な転回は、私たちが人間らしいと思うのはどういう要素なのか、あるいはもう少し突き詰めて言うと、人間を人間たらしめている大きな要素は社会的な関係にあるので、どんなに自分が人間らしいと思っていても他人から人間らしいと思われなければそれは人間らしいと言えないんじゃないか、と考えたこと。だとすれば、その人間らしさの要素を抽出して組み合わせることによって、ロボットは人間らしくなっていくんじゃないか、というように発想が180度変わったわけですよね。[ii]

石黒もまた、「何をしたかったかというと、きれいな見かけと豊かな表情、引き込まれる語りを組み合わせて、いわば「最大限の人間」を作ってみようと思ったのだ。この提案を演出家の平田オリザ氏にしたら、二つ返事で同意してくれた。」と語っている。

先に、青年団の演劇が表現する「リアリティ」は、吃音の不在によって崩される可能性があると書いた。そこでは、他者によってコントロール不可能であり、身体からあるがままに流れ出す発話の存在が省かれる。

「ロボット演劇」についてのインタビューを重ねてみれば、平田の言葉のなめらかさが起因するものもわかるだろう。「人間を人間たらしめている大きな要素は社会的な関係にある」。それは人間的であり社会的な、ある種「造形的な」言葉として存在するのである。彼の言葉は日常にあるようでいて美しさも保っているし、「小説」の言葉に近いような印象を受ける観客も多いのではないか。「人間らしさ」を求める態度は言葉を通じて「現代口語演劇」にも現れ、それが平田のロボット演劇、アンドロイド演劇にも引き継がれているのだと整理してみたい。

ゆえに、俳優による「現代口語演劇」同様、ロボット演劇とアンドロイド演劇にも欠けている視点も明らかになってくる。人間が、社会的関係の中で「人間らしさ」を獲得する見方を重視する。それならば、社会的関係に規定されない個、言い換えれば固有の「生物らしさ」に注目する視点が後退してしまうのだ。

俳優のみによる演劇ならば、人間−生物的な要素から出てくる「人間らしさ」ではなく、人間−社会的な要素から導き出される「人間らしさ」に注目するだけで一貫性を崩さない表現が可能になるのかもしれない。しかしながら、問題となるのはロボット&アンドロイド演劇のケースだ。なぜなら、平田と石黒が用意するロボットの振る舞いは「生物らしさ」によっても「人間らしさ」を立ち上げているように思えるからだ。つまり、人々がそれらのロボットを「人間らしい」と称するとき、社会的な要素より生き物としての特性から親近感を生じさせ、「人間らしい」という言葉を出力しているのではないか、ということである。何せ、人間もまた「生き物」であることには変わりはないのだから。

具体なケースを紹介しよう。ロボットクリエイターの近藤那央は、ロボットのファンクションではなく「存在感」にこだわり、新しいコミュニケーションロボットの開発を進めている。それは、人間がロボットに求めているもの、人間が親近感を感じ惹きつけられる要素が、「動物的というか人間「ではない」かたちでの生命性」のもたらす存在感のようなものだという考えの元に展開される。

たとえば『にゅう』では、「ロボットが生き物として存在感を持って振る舞うようにするには常に「呼吸」をすることが大切なのではないかと感じ、さまざまな呼吸パターンを作って一番いいものを実装」したのだという。ロボットが併せ持つ「生き物らしさ」に注目し、その要素を強調したロボットのことを彼女は「ネオアニマ」と名付ける。

このように、人々は「生き物らしさ」からロボットに親近感を覚えてしまう。そしてその時、自らも生き物であるという事実を暗黙の了解としたまま、「人間らしさ」という言葉をしばしば当てはめてしまうのではないか。社会作用から立ち上がる効果よりも、ロボットの「生き物らしさ」をフックに「人間らしさ」が、またその先の「リアリティ」が生み出されていく。

 

 

 

議論をまとめよう。

青年団が洗練させた「現代口語演劇」の理論、さらには演劇の特徴として「見えないものを想像させる」ことの効果を取り上げた。利点の一方で、俳優が演技を行う場合、身体に依存する「吃音」が描かれないことにより、「リアリティ」が失われてしまう懸念が生じるのであった。聞こえないものを想像させる演出のベクトルは、ここではうまく働かない。

そしてこれは、社会関係から派生する「人間らしさ」を言葉で表現していくが故の帰結でもあるのではないだろうか。共通するように、ロボットやアンドロイドに対しても、社会関係から立ち上がる「人間らしさ」の表現が目指される。

しかしこの革新的な演劇では、社会的な「人間らしさ」を強調しようとしても、それが生物的な「人間らしさ」に回収されてしまう懸念が生じる。なぜならロボットは「生物らしい」からこそ「人間らしい」と感じられる磁場を強く持っているからだ。人間は自身が生物であるという自覚から離れ、無意識にその生物的な同調を「人間らしさ」につなげてしまう。

平田オリザの、ほぼ完璧といっても良い理論的な基盤を前にして、批評・批評家が「沈黙」や「単純な同意を繰り返す」こと(それが作家に対しての真摯な態度に繋がらないのは言うまでもない)以外に何をすることができるのか、改めて考え直す時期にきているのではないだろうか。

「会話−日常的なおしゃべり」を戦略的に舞台上で表象させる作家は、「対話−人と人とが違うということを前提にしながら、その違いをお互いに確かめ合っていく作業」こそを待ち望んでいるはずなのだから。

 

 

 


 

参考文献

 

松本和也『平田オリザ〈静かな演劇〉という方法』、2015年、彩流社

伊藤亜紗『どもる体』、2018年、医学書院

『平田オリザ 静かな革命の旗手』、2015年、河出書房新社

石黒浩『どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私』、新潮社、2011年

宇野常寛編『PLANETS vol.10』、2018年、第二次惑星開発委員会

 

引用

 

[i] 『どもる体』p72より

[ii] 『平田オリザ 静かな革命の旗手』p125より

 

 

文字数:7998

課題提出者一覧