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「イクミ」になりたかった君へ。

※これは2018年の「私」から、約20年前の「君」に宛てた【手紙】です。

久しぶり。あれから、もう20年が過ぎようとしているのか。それじゃあ、君が心の師と仰いだ予備校の先生が、今ではスーツを着て大学で教壇に立っているのも不思議じゃないね。

君は、その師から聞いたのだった。ワールドワイドウェブ(WWW)で起きていることは、「iモード」どころではないことを。そして、私立高校に通う友人から「チャット」という存在を知り、君は密かに希望を感じていたね。「やっと私の時代が来る」と。

だって君は、SFが描くような、思ったことを話さずに伝わる世界に憧れていたから。「みんなそうだったら、いい世界になるのだ」とまっすぐに信じていた。目の見えない人がどのように見えないのかがわかるようになる。話すことのできない人の言葉がわかるようになる。そして何より、君にとって切実だったのは、誰でも「どもる」ことなく、淀みなく伝えることができる世界。メルヴィルのビリー・バッドも死なずにすむであろう世界。それを、君は欲していた。

そして苦手な計算すらしていた。人類が空を飛んでから、ほんの数十年語に月へ行ったことを考えたら、このまま技術的な革新が起きて、早くそういう世界になっているのではないかって。そうなったら「私も普通にセリフの言える俳優になれるかも」なんて。一瞬でも夢見ていましたね。うん、やっぱり君は、計算が苦手なんだよ。

そうは言っても、2018年現在、君の予測は、半分正しかったと言える。最近では「シンギュラリティ」という言葉があちこちに躍っている。シンギュラリティとは「技術的特異点」。人工知能の第一人者が生み出した概念だけど、技術が人間の知性を超えることによって、人間の生活に大きな変化が起こるということ。実際、人工知能、いわゆる「AI」の技術は、ものすごい進化を続けています。いや、いや、待って。君が思い描いているよりは遅い進み方ですけどね。データ処理が飛躍的に伸びて、AI自体が「答えを類推する」ことが早く正確にできるようになって、機械が知識を蓄積して、体系化していくこともできる。つまりは、人間がするよりも、機械が早く正確にできることが増えていく、そんな時代。それで2045年には、予測不可能な状況が訪れるといわれています。仕事が乗っ取られるとか言われていますが、本当のところはどうなんだろう? 予測不可能っていうくらいだから、きっと思いも寄らないことが起きるんだろうね。でも意外と、人が馴染んでいったら、たいしたことじゃやないのかもしれない。君のおばあさんは、センサーといくつかのパターンで「おはなし」ができるロボット人形を可愛がりながら、鬼籍に入ったのだったし。

覚えておいて。君は大学に入ってから、恋する度にケータイを買い換えるから。そんな風に、君の生活にはテクノロジーが欠かせない状態になる。そう、大丈夫、あの恋なんてすぐに忘れてしまう。

2018年の今も、コミュニケーションの難しさは、あの頃から変わっていない。言語的なもの、非言語的なもの、どちらも、君の望んだ形で表に出ることがないから。

まずは見た目。君が大学を卒業して、社会人2年目の2005年に出版されてベストセラーになった、竹内一郎の新書『人は見た目が9割』に代表されることだね。君は「小さくて愛されるキャラ」になりきれずに悩んでいた。幼稚園の頃から身体が大きいほうで、たしかに中学から背は伸びなかったけど、持ち上がりのような環境で、多くの人が「身体の大きい人」という認識だったから、そこまで小さいとか言われてこなかったのだった。高校に入るや否や、悪意のない「小さいイコールかわいらしいだよ」という同級生の声に晒されて、キャラクターが形成されていくのに戸惑いを覚えていたよね。中身は、たいして変わっていないのに。

そして、胸の大きさだ。好きで大きくなったわけじゃないのに、制服やスーツというのは、なぜあんなに不必要に目立たせるのだろう。少年漫画で「胸の小ささ」をネタにするシーンがあるけど、それって嘘だよね。ネタなるのは大きいほうだから。

しかし何より問題なのは、「どもる」ことだ。ごめん、これは2018年になっても変わってない。どうやら、幼児期に治らないものは、定着化してしまうらしいよ。それでも、語彙は増えたから、言い換えの技術はレベルアップしている。瞬時に「どもらなそうな」言葉に差し替えるとか、間投詞を続けたりして、多くの場合はやり過ごしている。だからこそなんだけど、そこまで語彙力のない英語は難しい。

でも、社会に出ると、どうにもならないことがある。正式な場所で上司を「あだ名(別名)」で呼ぶことはできないし、クライアントの商品名を思い出せない振りをして「あれです、あれ」では通用しない。それから、やっぱり社会には自分より物を考えている人や、自分より一回りも早く思考をする人がいるわけで、そういう人と渡りあおうとすると、語彙のセンサーを同時に使うことは、ほんとに厳しい。そうなると、言葉が出るのが遅くなったり、間投詞をムダに使ったり、意味のつながりのない単語を並べたりする。それって結局、「緊張しがちな人」「頭の悪い人」、つまりダメな人と分類される。

「慣れれば大丈夫だよ」「警戒しなくても」とか、色々とみんなが言うけれど、結局そういうことではないよね。家でくつろいでいるときに「そのリモコン取って」を緊張する人はいないし、多幸感の中で相手の名前を呼ぶときに、警戒心を持っているわけがない。

そんなわけで、君の期待に添えずに申し訳ないけれど、2018年の今でも私は、「た、た、た、たまご」の連発と「・・・・・・・・・・・ったまご」の難発。そのどちらも抱えながら、私は生きている。

さっきも少し言ったけど、「私も普通にセリフの言える俳優になれるかも」なんて夢を見た君には申し訳ない。君は、台詞をその通り言えないから、「吃音者」の役ならあるだろうが、普通の俳優にはなれない、それならなりたくないと思ったのだった。吃音のない世界に行きたいと。意に添わぬ人格を演じさせられるのであれば、自覚的に演じられる俳優になりたいと。ーーしかし、演じるとは、実際に何をすることだろう?

演じるということは、何か、なんてことは君はたいして思い悩まない。その代わり君は、これから20年近く、コミュニケーションの難しさと向きあうことになる。そのいっぽうで、平田オリザさんは、その間ずっと、コミュニケーションについて、演じることを通じて考えてきた。君は、ただ悩んだだけだが、劇作家は演劇を通してーー高校生演劇のワークショップ、諸外国での授業、様々な活動の中で向き合い、考えてきた。それは君の、閉じた個人の体験よりも、はるかに濃い時間だ。

その論点は、ご本人の言葉を借りれば、下記のようなところ(『対話のレッスン』より)。

[近代演劇は、「対話」の構造を要求する。日本語には「対話」の概念がない。三段論法からいけば、日本に近代演劇は成り立たない。では、日本語で近代演劇を成立させるためには、どのような工夫が必要なのか?]

わからないよね。演劇が「対話」の構造を要求するなんて。どうやら、「対話」という構造は古代ギリシアからあるそうだ。そして、そこから生まれたのが「哲学」であり「演劇」。その演劇は近代演劇まで連なっている。だから近代演劇を獲得するには、そこから習得する必要がある、ということ。

この「対話」は「会話」とは区別されていることにも、注意したい。

[「対話(Dialogue)」とは、他人と交わす新たな情報交換や交流のこと。そして「会話(Conversation)」とは、すでに知り合った者同士の楽しいお喋りのこと]

そして、それは「ディベート」とも違う。あくまでも「対話」は、対等な人間関係に基づく異なる価値のすりあわせだ。つまり、自分の価値観が変わるのもよし、むしろ第三の価値観が得られることに喜びを見出す。

平田オリザさんは続ける。「国語教育」が果たした役割は大きいと。それは、日本が急激に近代化するうえで必要とされたものだ。「演説」のための日本語、「討論」のための日本語、「教授」のための日本語を生み出してきた。しかし、「対話」がなかった結果、コミュニケーションの難しさにぶつかっているのだと。

「富国強兵」や「戦後復興」、「高度経済成長」という大きな目標に向かって進めばよかった明治以降の日本では、「対話」という技術を取り入れる必要がなかった。そもそも、遣唐使の中止以降数百年の間にも、あまり必要のなかった技術だった。

しかし、もはやそんな時代ではない。異なる価値観が日本の中にひしめき合っているのだ。

すでに君の暮らしている日本でも「国際化」とか「女性活躍」とか「多様化」とか言われていると思う。あれから20年経とうとしている今、それはどんどん加速化している。女性が働くことは、君が思っていたように普通になった(もちろん色々とあるけど)。外国から訪れる人の数も増えている。これだけでも、多様な声があることは察しがつくだろう。でも、それ以上のことが、2018年の日本では起きている。

いま、相変わらずの閉塞感が漂っている。それは、バブルで失われた10年どころではないんだよ。「もうこのまま、日本はダメなんじゃないか」って、そんな思いで覆われている。入れ替わる不景気と好景気の波の狭間で起きたのが、2011年の東日本大震災。それは、大きな原発事故につながってしまった。震災があって故郷に帰れなくなった人もいる。この震災と事故が新たな分断を生み、価値観はますます、分散している。

そんな社会で、コミュニケーションの大切さがずっと問われている。問われ続けているということはつまり、解決できていないってことだ。それを解決する手段のひとつとして、日本にいままでなかった「対話」を獲得すること、それに可能性を見出すことを、平田オリザさんはすすめている。

つまり、君がなりたかった俳優の本質は、「対話」なのだ。「役が憑依する」とか「そのもにになりきる」とか、そうしたことは一見すると、役者の本懐に見える。しかし、それは絶対に必要な条件ではない。君は、俳優同士で、あるいは俳優と観客とで、新たな価値観をつくりだしたかったということになる。

2008年、平田オリザさんは「ロボット演劇プロジェクト」を立ち上げている。アンドロイド研究の第一人者である、大阪大学の石黒浩教授との共同研究。それから数年、青年団による何度かの公演で試行錯誤を重ねて、2012年には、アンドロイドがキャストとして登場する『アンドロイド版三人姉妹』を上演。そう、あのチェーホフ。なんだかイメージ狂うかな。まぁ大丈夫。いきなり「劇的」な舞台をしているわけではありません。世界はそこまで不条理ではないのだから。

そして、君が察している通り「普通の」チェーホフではない。舞台は日本のどこかに置き換わっている。それは、斜陽の帝政ロシアの代わりに、少し未来の日本。かつてアンドロイド・ロボット産業が栄えた、郊外の工業団地の集積地域。三人姉妹の亡き父親は、高級軍人ではなく、数々のアンドロイドを世に送り出してきた天才博士。この姉妹の一家は、かつて「東京」に住んでおり、特に長女は東京への憧れが捨てきれない。長女の理彩子は高校教師。次女の真理恵は主婦。そして三女の育美はジェミノイド(モデルに酷似した外見を持つアンドロイド)の「イクミ」として生きている。本体の育美は、引きこもりをしていて、家族にしか姿を見せず、世間では「亡くなった」とされている。そして、ロシア軍が転地する代わりに、未来を嘱望された若者が、シンガポールへ赴任をすることが決まっており、そのお祝いについての時間が描かれている。

この社会では、人生に疲れたらアンドロイドになるという選択肢もあるようだ。この「イクミ」は、君がかつてなりたかったものだとも言える。君の考えをそのままトレースしてくれて、代弁者になってくれるもの。引きこもりになりたかったわけではないけれど、でも、伝えたいことが、何らかが障害になって伝わらないのであれば、そうなってくれてもいいと、思っていただろう。

しかし、この劇中の最後部で、思いのたけを話し続けるのに我慢ならず、育美は思いあまって「イクミ」の電源を切る。それは、二重に痛ましいものだ。傷ついていることの象徴である、身代わりのアンドロイドの声を止めた。死んだように止まった「イクミ」。そして、それは育美の悲しみが呼んだものなのだ。育美は、ただ「対話」をしたかっただけ、なのだ。言いたいことを、ただ言いたかったわけではない。

コミュニケーションの難しさに悩んでいた当時も、すでに君は、平田オリザさんの書いたエッセーは読んだことがあっただろう。そして、その透明感に惹かれていた。すべてが明らかに語られる世界に憧れていた君にとって「曖昧なコミュニケーションを大切にしていこう」という世界は新鮮だった。それでもいいのかも、と。それは声高に叫ばれる「日本語の乱れ」でもなく「若者がすべて正しい」でもなく、真を突いている、自然なことだと、君は思ったのだった。

『対話のレッスン』でいうところの[明確な情報の伝達よりも、曖昧な感情や気分や感性をいかに表現するかが重要になってくるだろう。知識や、小手先の話術ではなく、身体から出てくる微細で多様な表現が、すなわち全人格が、コミュニケーションの優劣を決定する要素となり手段となる]というようなことだ。

この文章書かれたのは2000年前後。これと同時期に、君は、他人と普通の人と同じようにしゃべることができる、夢のような時間も過ごせたはずだ。それは、冒頭で触れた、チャットが全盛だったころだった。あれは、いい経験だった。思ったことがそのまま、相手に伝えられるんだから。「これが本当の私だ」なんて得意でもいられた(本当の私なんていない、と言われてもいい)。オフ会で、もし思うようにしゃべれなくても「最後には、ちゃんとしたこと言う人」という立場でいられた。

そうかといって、君がこれから20年もの間、常に軽やかに生きていけるとは、はっきりと言えない。君が明るい未来を描くと同時に、怪訝な顔をしていたのも覚えている。この手紙を呼んだところで、「本当にそんなことが、うまくいくのだろうか?」疑心暗鬼になってしまうのも仕方がない。

果たして2018年の日本では、むしろ逆のことが生じている。社会という場所では、曖昧さは嫌われている。明快で、見目麗しい、わかりやすいものが正解であるということが、むしろ先鋭化している肌感はある。そのいっぽうで、最近の若者言葉のなかには「ありがたみ」「かなしみ」のように、「わかりみがある」と使ったりするものもあって、それは柔らかい表現なのかもしれない。

そして、いまようやく、「吃音」とか「どもる」ことに明かりが当たってきた。当事者研究をしている伊藤亜紗が『どもる体』という本を2018年に出していて、静かながら話題になっている。『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』という漫画は映画化もされた。どもりながらコミュニケーションをとる人がいる、という事実が、少しずつ浸透するきっかけになる兆しだ。

だから「イクミ」になりたかった君よ、生きていてくれ。まだ、間に合う。

文字数:6273

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