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銀河鉄道の幕が上がる

『幕が上がる』の入れ子構造

平田オリザは高校演劇を舞台とした処女小説『幕が上がる』において、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』をモチーフとした入れ子構造を描いている。これはどういうことか。まずあらすじについて触れておくと、主人公たちの属する演劇部は弱小演劇部であり、地区大会を勝ち抜くことすらできない。しかし吉岡先生という優秀な指導者、中西さんという演技の才能を持つ仲間が加わり、演劇部部長であるさおりが作・演出に専念することによって状況が少しずつ変わり始める。そして彼女たちが次の大会に向けて選択した演目が『銀河鉄道の夜』であり、それによって地区大会、県大会、ブロック大会を勝ち抜き、全国大会出場を決める。

つまり本作では『銀河鉄道の夜』を演目として決定することで、彼女たちの人生は大きく舵を切り、揺れ動くことになった。ここで『銀河鉄道の夜』の物語を振り返ってみると、そもそもこれは決別の物語であったことに気付く。ジョバンニはカンパネルラと共に銀河鉄道の旅に出るが、後に同乗したカンパネルラは死者であったことが判明し、この物語は過去や居なくなった人物との決別の物語であることが分かる。また本作における平凡な自分を認めながらも、同時に「等身大の悩みや苦しみや喜び」を表現することに抵抗するという内容は、ジョバンニの抱える孤独と似たような性質を持っており、『銀河鉄道の夜』での質問に対する答えが分かっていながらも表現することができない失語症のような感覚は、『幕が上がる』での作・演出と演技の関係性と重なり合っている。このように本作においては『銀河鉄道の夜』がただ単に演目として使用されるだけではなく、物語全体に入れ子構造的に埋め込まれ、演出されている。

ジョバンニとカンパネルラ

そこでこのように『銀河鉄道の夜』と『幕が上がる』を対比して考えていくと、『銀河鉄道の夜』におけるジョバンニとカンパネルラは、『幕が上がる』における登場人物の一体誰と誰に該当するのだろうかという疑問が頭に浮かぶ。結論から言えばさおりがジョバンニであり、吉岡先生がカンパネルラである。これは作中劇でユッコがジョバンニを演じ、中西さんがカンパネルラを演じているという事実と照らし合わせれば、一見意外に思うことかもしれない。しかしこの奇妙なずれにこそ、『幕が上がる』が劇作家、演出家である平田オリザによって書かれた小説であることの真骨頂が表れている。つまりこれは作中劇の『銀河鉄道の夜』で登場人物が演じている役割とは別に、元の『銀河鉄道の夜』の登場人物を小説の別の登場人物が演じるという構造になっており、その仕掛けによって物語全体が『銀河鉄道の夜』のメタファーとして読み込めるようになっているということだ。このように小説の登場人物を別の物語の登場人物として演技させるという発想は、劇作家、演出家ならではのものである。

まずさおりに関して言えば、彼女は冒頭からずっと何かしらの違和感を感じながら生きている。それは「高校生らしさ」に対する違和感であったり、演劇との関わり方に対する違和感であったり、周囲の人間関係に対する違和感であったりする。そしてそれらは思春期や青春特有の違和感であると言えばそれまでなのだが、こういった違和感によって周囲から浮いてしまうような感覚はジョバンニにも共通する感覚だ。またジョバンニはカンパネルラと一緒に銀河鉄道の旅に出ることになるが、「どこまでも一緒に行こう」という約束が最終的に破られ、ジョバンニだけが現実に取り残される場面はさおりと吉岡先生の関係そのものである。さおりは吉岡先生に対して精神的に依存していたが、地区大会突破後にその関係が解消されることにより、結果として自分の道を歩み出すことになる。このように本作におけるさおりにはジョバンニとの共通点が見られ、取り残された後のさおりの活躍は、『銀河鉄道の夜』には描かれなかったジョバンニのその後を描いているとも言える。

また吉岡先生に関して言えば、彼女は元「学生演劇の女王」として明らかに女優の才能がありながら、教師としての仕事を選ぶ。しかし演劇部副顧問としてさおりたちを指導していくうちに「やっぱり私は、教師ではなく女優」であることに気付く。そして教師を辞め、さおりたちと別れて女優の道を歩むことになる。元々カンパネルラは他者の身代わりとして溺死したとされるが、吉岡先生も他者を手助けした後に後戻りできない女優の道へと全てを投げ捨てて旅立ったのであり、両者には明らかな類似性がある。またカンパネルラには既に亡くなっているであろう母親の幸せについて、何が彼女の幸せだったのかと自問自答し、許しを請う場面がある。これに関しても吉岡先生が母親の期待を裏切ってまで自分のやりたいことを優先した場面がその問いに対する答えとして機能している。さらに女優として向こう側の世界に旅立ってしまった吉岡先生は既に幽霊的な存在であり、それ故に退職時には他の先生たちを含め誰も彼女と関係することができなかったと捉えることができる。このように本作における吉岡先生はその魅力や他者との関わり方を含め、明らかにカンパネルラとして振舞っている。

文学的想像力と演劇

ここで一旦論点を整理した上で次の段階に入っていきたい。まず『幕が上がる』を直接的に捉えるならば、平田オリザが関わった高校演劇での実体験を通した演劇論が、小説の形を取って描かれていると捉えることができるだろう。今回の論考ではそのことに触れていないが、何故かと言えば着目したいのはその点ではないからだ。むしろ今回は『幕が上がる』と『銀河鉄道の夜』の対比に拘ってきたが、それは平田オリザの持つ文学的想像力が劇作家のみならず、演出家としての仕事にも深く関わっているという確信があるからだ。文学的想像力とは自分自身のリアリズムを言葉を使用して表現することと言い換えることが可能だが、その意味で言えば平田オリザの演劇は彼の文学劇想像力を俳優の身体を通して忠実に実装した演劇と言うことができる。よってここからは平田オリザの実際の演劇を通して、文学的想像力によって駆動され、演出される演劇について考えてみたい。

『S高原から』、『南島俘虜記』、『走りながら眠れ』のDVDの冒頭では、平田オリザによる作品紹介を兼ねた解説が語られているが、そこで語られる彼の問題意識は極めて明確である。まずそれぞれの作品のあらすじを簡単に説明しておくと、『S高原から』では我々が社会と呼ぶ日常空間と地続きの存在としてサナトリウムに住む人々の人間関係や物語が展開されている。また『南島俘虜記』では架空の南東を舞台として、戦時中捕虜として囚われた日本兵の生活を描いている。最後に『走りながら眠れ』では大正時代アナキズム運動の象徴的存在であった大杉栄と伊藤野枝が、甘粕事件によって虐殺される直前の同棲生活を描いている。そしてこれらの作品を通して描かれているのはあくまで彼なりの現代の社会、人々、生活に対するリアリズムであり、それはテーマが何であれ、俳優や女優が誰であれ共通していることだ。病気、戦争、震災はそれぞれ前後において決定的に人々を変化させてしまうものであるが、平田オリザはそれらを劇的な風景として描くのではなく、あくまで日常の風景として描くことでその余韻を現代の風景と繋げる余地を残している。

ここで正直に告白しておくと、これらの作品を鑑賞した際に、物語の筋を追うことはほとんどできなかった。しかしそのことには平田オリザの演劇を特徴付ける重要な意味がある。よって原因を考察してみると、まず同時多発的かつ複数に分岐する人々の物語を全て追うような鑑賞態度を取ってしまったこと。特に『S高原から』では同時多発会話が頻発するが、同時多発会話はある程度聞き流さないと総体としての意味が浮かび上がってこないのと同様に、物語のすべての筋を追ってしまうとむしろ何も掴めずに終わることになる。日常の風景とはどこを切り取っても日常の風景であることが重要なのであって、そこにメリハリや起承転結のようなはっきりとした構造が存在しないことを意識しなければならない。また俳優や女優に全く感情移入できなかったことを原因に挙げることもできるだろう。彼らはあくまで戯曲をプログラミングされた身体であり、鑑賞者はRPGで言えば主人公や魔王不在のノンプレイヤーキャラクター同士の会話を聞いているかのような錯覚に陥る。しかしこのような構造を逆説的に捉えれば、日常の風景の延長線上、ノンプレイヤーキャラクター同士の会話だからこそ、演劇を鑑賞者の現実のリアリティに引き付けて理解することが可能になるとも言えるのである。

これを文学的想像力の観点から考えてみると、平田オリザは演劇を通して近代的な私小説的リアリズムとは別の方法で、彼なりのリアリズムを表現しようとしていると言えるだろう。私小説では実体験を通して語ることで感情移入を促し、物語の中に没入させることを狙うが、平田オリザの演劇では必ずしも実体験ではないが彼の捉えた世界のリアリズムを主体として感情移入を排し、物語の中に没入させることを拒むことで、逆説的に観客のリアリズムを書き換えることを狙っている。これは平田オリザの世界観の表現という意味ではあくまで文学的なのだが、一方で彼の想像力は俳優や女優と観客が地続きである、もしくは非日常と呼ばれる世界が日常の地続きであるような極めて退屈だが本質を突いたフラット化した風景にまで拡張していく。

銀河鉄道の幕が上がる

上記のことをまとめると、まず平田オリザは『幕が上がる』で『銀河鉄道の夜』を入れ子構造として物語全体に埋め込むことに成功した。青春小説に擬態した演劇論として書いた小説の中で、そのメタな構造を発想することは彼の文学的想像力の賜物であり、それは彼の劇作家、演出家としての仕事にも深く関わっている。そこで文学的想像力の観点から彼の演劇を解釈してみると、非日常と日常、プレイヤーとノンプレイヤーキャラクターの関係性は解体され、登場人物への感情移入も、物語への没入をも阻害することで観客も含めた全てがフラット化した風景が描かれることになる。つまり平田オリザの演劇においては、驚くべきことに幕が上がると同時に幕は下がっている。そして日常の風景に取り込まれ、暗闇の中で置き去りにされた観客に対してのみ、宇宙へと繋がる銀河鉄道の幕が上がるのである。

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