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オペラ「海、静かな海」のためのスケッチ

○現実の震災を題材にとるということ

2017年の横浜トリエンナーレを知人と観に行ったときのことである。一通り見終わった後に、どの作品が一番良かったか議論になった。というより、議論をするまでもなく、互いに畠山直哉の陸前高田を写した写真が一番印象に残ったという結論を出した。そしてその結論と共に、軽い絶望感も同時に共有した。震災にまつわる絶望だけでない。それより芸術作品の無力さに対する絶望である。現代アートの祭典なのだから、いくらでも趣向を凝らした造形物がそこかしこに並んでいたのであるが、なかには、いやどれでもそうかもしれないが、鑑賞するものにショックを与える意図が明確なものもあったのである。それにも関わらず、人工物の消え去った町の写真のほうがはるかにうったえるものがあった。

これは芸術上の進歩史観の敗北に思われた。もちろんあの陸前高田の写真のもつちからが、写真家の連綿と受け継がれるメチエによって生み出されていることは百も承知であるし、あれほど素朴に見えても、報道写真とは全く異なるものであり、素人でも撮れるなどと思う人間はよもやどこにもいまい。しかしそうした事情を差し引いても、思念的にこしらえた造形物より、自然の造形物の方が美しい―そう、あの写真はあれほど悲惨な被災地を写しているのにも関わらず美しかったのである―という感慨に、憂鬱にならざるを得なかった。

このことは、芸術と現実の関係について考えさせる。芸術が現実に接近すると、芸術はそこから糧を得る。社会問題を題材にとって、審美面より倫理面が凌駕することにより、その作品は失敗作と言われることを回避する。もちろん、その社会問題について理解が及んでいないのでは、という批判を浴びる可能性はあるだろう。しかしなにより少なくとも、社会問題の重みにより、その作品の存在理由を悩む必要はなくなる。そうした作品は失敗作となることができない。その代わりに、芸術作品とは別の領域の、ジャーナリズム面での諸活動が競合相手となる。生のままの現実を客観的に写し出そうとするルポルタージュや報道活動に、引けを取らないものかどうか、この点で判断される。そうすると、芸術作品の勝ち目は少ない。というのも、審美面こそが目の敵にされることになろうから。被災地に美を見出すとはなんと不謹慎なことか、などと言われて。それでは敗北しない可能性はどこにあるか。ジャーナリズムが写し出せない個別的な現実を、写し出すことにおいて、である。現実に接近した芸術作品は、現実の個別性に活路を見出す。

さりとて、芸術の現実への接近は、野蛮さを引き受けた上でしか成立しえない。仮に、現実から糧を得て自らの作品に力を宿そうなどという作り手の下心など見えでもしようものなら、とんでもないことになる。しかし、芸術作品が現実から糧を得るということは、長らく普通に行われてきたことだ。あまりに現実が、芸術作品が指し示す以上の、人々の想像力をはるかに凌駕するような悲惨さ、野蛮さを持ったときに、それに対して芸術の側があまりに無力だったときに、両者の邂逅は、芸術の側へのバッシングという結末に至るのである。芸術作品はもともと下心を持っている。

 

○オペラ「海、静かな海」のこと

2016年1月にハンブルク州立歌劇場で初演された、平田オリザ原作、細川俊夫作曲のオペラ「海、静かな海」は、東日本大震災からいくばくか経過した、福島を舞台に展開される。津波により、前夫との間の息子・マックスと、日本人の夫・タカシを亡くしたドイツ人女性・クラウディアを軸に、彼女の周辺の人間関係が描写されていく。舞台は町人たちの灯篭流しのシーンからはじまる。クラウディアは夫の死は受け入れたようであるものの、息子の死は受け入れることができていない。そこに前夫シュテファンが、ドイツに帰ろうと言ってクラウディアに会いに来る。その際彼は、「現実を見ろ」とクラウディアに諭す。

新しい人生に踏み出すよう、提案するのである。彼女はその申し出を拒絶する。「この海がマックスのおうちだから」と言って。

劇中で彼女は、息子の死について、矛盾した態度をとる。灯篭流しに参加した際、「今朝釣りに行った息子がもうすぐ来るの」と発言したり、シュテファンにドイツに帰ろうと説得されたときには、「絶対帰らない。この海がマックスのおうちだから」と発言する。つまるところ、クラウディアは狂女である。

 

○子を亡くした母というものについて

ところで、エドワード・ボンドの〈戦争戯曲集〉の「第三部 大いなる平和」にもまた、子を亡くした母というものが登場する。彼女は核戦争後の荒廃した世界を、彼女が子であると信じているぼろ包みと共に、放浪し続ける。道中彼女が遭遇する人々にとり、ぼろ包みの内実は変容する。特に軍人の一団には、ぼろ包みはぼろ包みにしか見えない。ぼろ包みを母から取り上げ、単なるシーツであると暴露する。しかしその後彼らはやがて、互いに「死体化」を望んで、本当に実行する。生きているのか死んでいるのかわからないものとは、ぼろ包みのことではなく、彼等自身のことだったのである。

そのぼろ包みは劇の鑑賞者にとって、何らかの象徴として、想像力を喚起するものとして、提示され続けることになる。ぼろ包みは想像力の試金石である。

しかしながら、クラウディアの場合はどうか。彼女が息子の死を受け入れているかどうか、二者択一の問いが鑑賞者の想像力に投げられているのではない。受け入れているのであり、受け入れてないのであるという矛盾した事態そのものが、実際の現実そのままである。そこに解釈の余地はない。

「現実を見ろ」とシュテファンとハルコ(タカシの母)に諭されたとき、おもむろにクラウディアは彼女自身が晒された現実を、慟哭しながら語り出す。それは、津波発生から何日間かの、遺体捜索のシーンである。津波が戻した遺体は、損傷が激しく、そして安置所の遺体は日にちが経つにつれ腐敗し始める。その現実の描写を、シュテファンとハルコは悲痛な叫びをあげて、止めようとする。それを押し切ってクラウディアは、彼女の現実を語り切る。そして最後にこう締めくくる。「皆には本当の現実が見えていない!」

なるほどクラウディアは劇中では狂女とみなされる。息子マックスの死を受け入れていないと思われているからだ。しかし、津波で遺体を亡くした親族のおもいというのは、矛盾したままのかたちこそ、まったき現実の事象だ。クラウディアが「受け入れた? もううんざり、何を受け入れるの」と絶唱するとき、劇の外の現実にいる、幾多のクラウディアと同等の存在が照射される。こうして劇中の狂女はまったき現実を語る。

劇的現実と現実的現実の橋渡しをするのが、細川の両義的な音楽だったといえよう。打楽器のアンサンブルは、地震の描写か、それとも不安定な胸の鼓動か。弦楽器の嘶きは、海の描写か、それとも人間相互の無理解の歪であるか。細川の音楽は内的自然、外的自然、両方を描写する。

 

 

参考資料:

「オペラ 『海、静かな海』」キングインターナショナル、2016年(DVD)

石井光太『遺体 震災、津波の果てに』新潮社、2011年

エドワード・ボンド著 近藤弘幸訳『戦争戯曲集三部作』あっぷる出版社、2018年

文字数:2966

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