環世界より

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梗 概

環世界より

+3℃の温暖化が進んだ未来。生物多様性は大きく損なわれ、地球の種の三割がすでに失われた。干ばつと砂漠化が進み、人類は都市に集約され、かろうじて文明を維持していた。基礎研究など「余白の営み」は切り捨てられ、生存優先の社会になっていた。

地球物理を専攻していた久遠は、博士課程を修了後、研究職のポストが得られず食料生産の企業に就職した。夢を手放し、日々の仕事に埋もれていた。
彼のもとに、ある日、訃報が届く。かつての親友であり、同じ研究室で未来を語り合った志摩が亡くなったという。
数日後、小さな包みが届く。中には鍵と座標のメモ、そして短い手紙が添えられていた。

久遠へ
地球は終わったように見える。でもそれは人間の目に映る世界だ。
僕はこの場所で、もうひとつの世界を見た。
――志摩

座標を衛星地図で調べると、山岳地帯の頂上にある旧式の天文台だった。志摩は研究資金も支援も絶えた中で、ひとり環境観測を続けていたのだ。
誰にも使われていないその施設へ、久遠は三ヶ月の休職をとって向かう決意をする。
天文台は、風と岩に囲まれた孤独な場所だった。水道はなく、通信も衛星電話のみ。霧からわずかに水を濾過する装置があるが、故障したら命はない。
呼吸や汗から水分を回収するスーツを着て、久遠は持参したレーションで生活を始める。
動物の気配はない。風が地表を這うだけの土漠だ。

天文台には志摩の観測ノートが残されていた。紐綴じのノートに鉛筆でびっしりと書かれた記録と考察。几帳面な筆跡は学生時代と変わらず、久遠は思わず笑みをこぼす。観測機器も自動で動き続け、温度、湿度、気圧、放射線、地磁気などのデータが今も蓄積されていた。
久遠は規則正しい生活を送る。毎朝ログを確認し、昼はノートを読み、夜には志摩が棚に遺していた安物のスコッチを少しだけ口に含む。志摩と対話するような時間だった。
ノートを読み進めていると、一週間分だけ記録が抜けている箇所があった。ちょうど五年前。
その後から、志摩の記述は微かに変化し、「人類の活動が弱まり、環境は回復の兆しを見せているのでは」と書かれていた。

ある朝、空に分厚い雲がかかり、風の匂いが変わった。観測ログには「五年ぶりの降雨」と記録された。雨は七日間続き、三日目の夜、蛙の鳴き声が響き始める。
久遠が外に出ると、硬く閉じていた土の割れ目から草が芽吹き、橙色の花が咲き乱れ、足の短い蛙たちが歩きまわっていた。
蛙たちは五年に一度、雨とともに時間が動き出す。
彼らにとって、この地は終わってなどいない。「環世界(Umwelt)」――それぞれの種が持つ独自の知覚と時間。その世界が、確かにここにあった。
久遠はスーツを脱ぎ、雨に濡れながら地面に膝をつく。地球は終わったように見える。でもそれは人間の目に映る世界にすぎない。

その夜、彼は蛙の声に包まれて眠る。夢の中で、百年後の地球にも、静かに雨が降り続けていた。

文字数:1192

内容に関するアピール

「辺境を描くSF」というお題に対し、地理的な“遠さ”ではなく、知覚と時間の“遠さ”にある辺境を描こうと思いました。

描きたかったのは、終末を迎えたと思い込んでいるのは、あくまで人間の時間と視点においてであって、他の生命にとってはまったく違うリズムと世界が流れているという事実です。
逆に、人間のとっての楽園が生物にとっては感覚汚染になっているという例もあるので、そのテーマでも書いてみたいと思いました。

文字数:199

課題提出者一覧