梗 概
ゼロコネクションランド
人は死ぬと土地になる。
〝意識〟の数理モデルが提唱された。が、わずかな数学者しか理解できない難解なものであった。
その頃、人類にネット空間の情報精神体になることを選択する者が現れ始めた。一般的な他の技術と同様、当初アーリーアダプターが先陣を切ったものの多くの人々は尻込みしていた。多数派は〝永遠の命〟がもたらすデメリットのほうに目を向けていた。自分がいつまでも〝自分〟以外の選択肢を持てない恐怖は、よほどのナルシストでもなければ受け入れがたかった。
だが、ある時、情報精神体の寿命は永遠ではないことが数学的に示される。情報精神体がある一定回数の演算を繰り返すと、〝意識〟の数理モデルの定義を必ず逸脱することが判明。この演算は、高度な思考をするほど消費が早いというものでもなく、ぼんやりしていても単純ループ分の演算を消費する。
これは現実世界を近似する為に便宜的に設けられたネット上の〝時間〟概念に換算しておよそ百年で、ネットへの移住は、現実に住むより寿命の上で若干お得、永遠の命を持たされる欠点もなく、肉体が持つ痛みや疲れなどがなくなるメリットを享受できる魅力的な選択肢となる。こうして、人類は大半がネットへの移住を終わらせた。
ネットでは、人はひとつのノードとなり、他のノードとコネクションを持つことで社会生活を営む。性別はなくなり、しかし人を愛することはできる。情報として溶け合い、混ざり合い、そしてまた二つに別れることで生殖も可能。
ネット上で〝死んだ〟人は生前の人との繋がりにより、ハブ的な役割を果たし、多くの繋がりを持った人は人でごった返す〝都会〟となり、繋がりの少ない人は〝田舎〟となる。
全く孤独に死んでゆく精神体もある。マイナンバーは情報精神体にも振られており、ネット上の〝政府〟によって最低限一本のコネクションがあるがそれだけだ。彼らは死後〝ワンコネクションランド〟と呼ばれる辺境である。
死ぬとマイナンバーとして管理する必要はなくなり、死者は〝センター〟と呼ばれる解放区に接続され、人はあらゆる死者を訪れることができる。つまり墓参である。ワンコネクションランドは、無縁仏である。
ワンコネクションランドばかりを旅する物好きな精神体があり、名をイノウと言った。
イノウは孤独で、死すればワンコネクションランドとなる予定だった。誰にも理解されない趣味としてワンコネクションランドの地図を作っていた。
だがイノウはノードと土地の総量は2の累乗になっておらずおかしいと考え、物理世界で言うダークマターに相当するゼロコネクションランドの存在に気づく。イノウはそこを追い求めるが接続が無いので辿り着けない。イノウは失意のうちに死ぬ。
実は誰とも繋がらずに存在可能な者がいた。この物語の語り手である。語り手は余命僅かで語り手も死ぬ。語り手こそゼロコネクションランドである。人が百万里行ってもけして辿り着けないところ。
文字数:1200
内容に関するアピール
辺境でSFという課題を聞いた瞬間、宇宙ものが多発することを予想しまずはそれを避けようという心のブレーキが働きました。
さて、じゃあどうするか。
初作でSNSものをやりましたが、やはりこれが私の得意分野のようで、そしてネタとしては得意分野でも、人と人が繋がるというのは不得意分野で友達が少ない人生を送ってきました。
人がたくさんいるところが都会なら、SNSになぞらえれば人とたくさん繋がっているアカウントは都会だろうという考え方をしたときに、本作のアイディアは降りてきました。百万人もフォロワーがいるようなところは大都会で、私などはド田舎に違いない。
しかし、土地と言うのは動かないものなので、死者こそ土地としてはどうか、と考えたのが本作です。辺境の地へようこそ。
文字数:333
ゼロコネクションランド
おたあさんとオタアサンがあいし合ってぼくはうまれて、おたあさんもオタアサンも人はひとりでは生きられない、だからきっとお前は人をあいする人になりなさい、人にあいされるよりももっと、人をあいする人になりなさい、そういつも言っていた。
けれどそれは、あいし合った自分たちをこうていするために、ぼくをりようしているんじゃないの? と心の中でおもったりしたけれどくちにはださなかった。
でもしょう来、ぼくが人をあいするようになるのは、どうにもそうぞうがつかない。人はひとりでは生きられないから、二人で生きたり三人で生きたりする。
ユエリくんは三人から生まれたらしい。うちはおたあさんとオタアサンで、ひらがなとカタカナで呼び分けている。文字コードが違うからわかる。ユエリくんは自分の親を、どう呼び分けているのかわからない。
昔々、人間は、全然別の種るいに分かれていたんだって。オトコとオンナという。親のい伝じょうほうが混ざり合って子供ができることは今と同じだけど、オンナの中に子供は十か月くらいいて、それから生まれるらしい。中っていうのがよくわからないけれど、オンナそのものを表すポインタがあって、まざりあった後そこに移動するってことなのかな、って生きていてもポインタがあるのか。
おたあさんの親、おじゃあさんとオジャアサン、は二人とも亡くなり、アーカイブされて読み取り専用フラグがつけられた。おじゃあさんはオジャアサンとしかまざらなかったけど、オジャアサンはもっとたくさんの人とまざったらしい。それがおじゃあさんは嫌だったらしく、そしてオジャアサンはおじゃあさんの考えが古いと言っていたらしい。それこそオトコとオンナがいた時代の考え方だと。
でもおじゃあさんも友達はたくさんいて、それで今は二人とも大都会だった。
おたあさんもオタアサンも、おじゃあさんやオジャアサンほど友達が多くなくて、だから死んだらたぶん田舎になる。
でもぼくはもっと少なかったから、もっともっと田舎になる。
ユエリくんが言うには、オトコとオンナがいたころ、人は死んでも土地にならなかったんだよ、って。
ブッシツセカイ、というものがあって人間はそこから来たんだという。
「それってパラレルワールドとかそういうの」
「いや、完全にレイヤが違う世界なんだ」
ぼくには全く意味がわからない。でもユエリくんにはわかるらしい。
「世界シミュレーション仮説というのがあって」
ますます何だかわからない。ユエリくんはぼくがわからないことを、ぼくがわからないままよく話した。
◇
ユエリは長いこと僕の唯一の友達だったけど、そんな日々にある日変化が訪れた。
僕のことを好きだと言い出したからで、僕はいまだに人を好きになる気持ちがわからず、おたあさんとオタアサンみたいになる、的な将来のイメージが全く掴めない。
変化というには一瞬のことで、僕がごめん、というと、そうか、と言ってそれきり、ユエリはその話をせず、また子供のころからずっと続いていることで、物質世界とやらの話をした。
「つまり、この世界が、あるコンピュータネットワーク上に作られた仮想世界ではないかというのが、世界シミュレーション仮説」
ユエリが言うには、オトコとオンナというのは物質世界の時の人間の呼び名らしい。個人単位の名前とは別に、人間のグループ分けで二つ名前があって、例外はあるけど愛し合うのはおおむねオトコとオンナの組み合わせなのだという。ずいぶんと強い制限で不便そうだけど、僕にはいずれにせよ縁はなさそうだ。
「物質世界で、人間の意識を仮想世界に移す研究はずっと行われていたんだが、そうなったらもう、永遠の命になっちゃうと思われていたんだね。自分が何億年も生きるとか普通に怖いけど、実験動物でも、志願して実験台になった人間でも、移動しちゃった奴らはいて、人間だと百年くらい経つと生命活動が停止していた。なんだこりゃ、っていうことになって意識とは何か、というのをその時ようやく考え始められた。意識を移すことができる技術が先にあって、なのに意識とは何かがわかっていなかった」
そんなオカルトのネタ本はどこのポインタにあるんだろう、と不思議になるけれど、そうやって語るユエリの目はいつもずっと輝いていて、そんなユエリを僕はずっと見ていて楽しかった。
クラスの奴らは、あんな変人とつきあえるのはお前だけだよ、と言っていたけど、別にユエリに何か嫌なことをされるわけでもないし、ユエリの言うことだってわからないけれど、そいつらの言うことはもっとわからなかった。でも、ユエリに一瞬だけ好きだと言われた後になってみると、それはどういう意味だったのか(日本語ではどうして〝つきあう〟という言葉に恋愛の意味と同行の意味と二種類あるんだろう)、混乱してしまった。
でもどのみち、僕がユエリにも他の誰かにも恋愛することはなさそうなので、奴らの言うことなんて全く気にしなければいいだけかもしれなかった。
「そこでようやく、意識の数理モデルが考えられて、意識活動はシミュレーション上に便宜的に導入された時間の単位にして、だいたい百年くらいすると意識の定義から逸脱することがわかって。永遠の命の刑なんて無い、ってわかったら続々と人が移住してくるようになったんだって……」
「で、意識はどんな数式で表せるんだよ」
「別レイヤでの数学だから伝わってないんだよ」
「なんだそりゃ」
さすがに説明に無理がある。なんだっけ、この手のやつ、昔の習慣を知っている人間がことごとく殺されたから伝わってない、みたいなのも最近聞いた気がする。EdoSigserとか言ったか……?
物質世界はとにかくいろいろと不自由で、痛み、というのは、人間関係と関係なく起こるとか、とにかく汚いデータを自分の中に抱えていて定期的に廃棄するとか、とにかく面倒なんだとか。
おたあさんは、オタアサンもだけど、最近僕に、学校に好きな子とかいないの、と訊いてきてうっとうしい。
死ぬときにワンコネクションランドになったら寂しいよ、そう言う。
誰とも関わりをもたず、ひとりで死ぬと、政府からのマイナンバーの繋がり以外辿ることができない土地になって、それは寂しい、と。
死んだあとが寂しいよ、という理屈は一番わからなかった。死んだら感情もなにも無いのだ。もし、僕を好きな人がいて、僕が死んだら、残された人が寂しいことになるから、人を好きになんかならない方が人は寂しくないというほうがよっぽど理屈になる。
◇
ユエリがいなくなった。
死んだのではない。死んだら土地になっているはずだからそれはない。ただいなくなった。
ユエリの三人の親が、心当たりのポインタを訊きにきたが、ユエリのいそうなところどこにもユエリはいなかった。三人は、僕以外のユエリの友達に心当たりはないらしい。僕にも、ユエリに僕以外の友達がいるなんて話は聞いたことがなく、僕にだけいそうな場所を訊いて、それでしまいだった。
三人は揃って泣き崩れてしまった。
ほら、寂しい。残された人こそが寂しい、という理屈のとおり。三人は、親だから当たり前だけど、ユエリのことが大好きだった。
僕は、ユエリが嫌いとは言わないが、別に一瞬だけユエリが僕を好きだと言ったような意味合いでユエリが好きだったわけじゃない。
だから僕は寂しくはない。
でも、僕の心の中の穴のようなものは、いったい何なのだろう。
クラスメイトの何人かは、僕の隣のユエリがいた場所に収まろうとした。
僕はそいつらも嫌いというわけではない。いや、僕は大抵の人が嫌いではないのだ。そういう感覚は妙に熱情的な奴らにしてみると理解不能らしい。
誰のことを好きでもなく誰のことも嫌いではない。
そういう感覚は異常なものらしい。
ともかく、そうやって僕はニュートラルなはずなのに、そこにユエリがいた場所に座ろうとした奴らはどうにも収まりが悪く、僕が追い出したわけでもなく、自分からいつの間にかいなくなっていた。
さらにごくたまに、僕を好きだという人が現れ、それは一瞬ユエリが僕に対して持った感情ということになるが、その子のありよう、というか、まとう雰囲気のようなもの、は少しもユエリに似ておらず、少しもユエリに似ていない者がユエリのようなことをしても、決してユエリになることはなかった。
その子には大変申し訳ないことをしてしまったのだけど、もしかしたら僕も他の人たちのように恋のまねごとをすれば、心の穴が埋まるのかもしれないと思い、いわゆるデートということをやってみたりもした。僕のオジャアサンは、僕たちの間ではかなり知られた大都会だったからそこでデートした。
そこで初めて、その子もオジャアサンの孫だとわかった。僕たちは従兄弟だったのだ。
物質世界では血が濃いと結婚できなかったんだよ、というユエリが言っていたことを思い出したりした。
ここはその物質世界ではないから問題はないけど、問題とは関係なく、僕はユエリに対してできないのと同様に、恋、というのはできないのだと痛感してしまった。
その子は、
「結局君はユエリのことが忘れらないんだね」
そんなことを言うけれど、それはまるでユエリに僕が恋をしていたみたいな言い方だ。僕は恋に致命的に向いておらず、今までもこれからも恋をすることはない。それだけのことなのに世の中は常に、人と人が手を取り合い、番組配信はラブ・ストーリーをこれでもかと流しクライマックスで主題歌を入れてくる。
愛は美しく、友情も美しく、シブヤの街は他の誰よりも多く交わった人の死体で出来ている。
◇
人のいないところに逃げたかった。人が嫌い、誰が嫌い、というのではなく、人の密度が多いところが嫌いなのである。しかし世界はどこもかしこも人だらけだ。家にいても息が詰まるのは、家というところは常に、親世代の宝物だからだ。
僕は学校を卒業すると独り暮らしを始めた。
〝物質世界では距離というものがあって、その値が大きいと移動するだけで時間がかかってしまうのさ。だから物質世界では、職場や遊びに行く場所は大抵都会にあって、距離が小さい場所ほど家賃が高い。距離が小さいことをChikaiという〟
ユエリが言うには、そうやって都会そのものではなくて都会にChikaiところに皆住みたがるという。何の誓いなのか、よくわからない。移動にも何ステップも段階があって、それがあまりに多いとJorudanじゃないよ、と嘆いて大変なんだとか、本当に用語がわからない。
ワンコネクションランドは集合住宅には最適な場所で、それが建てられた時点でワンコネクションランドではなくなる。大家と店子の数だけは少なくともリンクができるし、それ以上のリンクができる可能性もあり、実際そんなところでめくるめく生活を送る系統の人はたくさんいるらしいが僕には縁がない。
ワンコネクションランドは、そうやって削られてゆく。無価値なものが有価値のものに転換されてゆく。元ワンコネクションランドが、生前どこの誰であったのか、思い出す人は誰もいない。
僕がワンコネクションランドになって死んでゆくのがいけないというのなら、死んだあとで転換できる可能性もある、そんなことを親に言ったこともあるが、そんな話をしてるんじゃなくて、と言われてじゃあどんな話なんだよと思った。
おたあさんは、人が生きてきた証だと言った。オタアサンは、人が生まれてくる意味だと言った。
証だとか意味だとか、そういうもの、何が大事なのかわからなくて、ユエリの使う言葉くらいわからない。
人はただ生きて、ただ死ぬ。それだけのことではないんだろうか。
だから僕は、ただ生きてただ死ぬために、独りで暮らし始めたんだ。
◇
同期は未来への希望に満ちていた。仕事への情熱という、世の中には他にも生きる意味を語る人たちがいて、この世が意味に満ちていて意味意味意味とうるさい。
僕はただ生きてただ死ぬという、人生の目標ができたので(これも意味?)、彼らと仲良くする理由もなくなっていた。
でも業務上必要な知識は身につけなければならず、会社指定の教育は受けなければいけない。何もしなければ仕事が全くこなせずに苦しむだけだ。単に知識を、僕は仕事で苦痛を味わわないための手段としてとらえていた。
なので定時後の英会話教育(業務上必要であるにもかかわらず残業代は出ない)も受けることになる。
ユエリが言っていたのは、
〝物質世界から移るときに言語の壁がなくなると期待した人もいたんだけど、結局日本人は日本人の、アメリカ人はアメリカ人の言語にいったん翻訳したあとで思考しているわけだから、別に言語未満の状態で思考できるわけでもなくってバベルの塔はなくならなかったんだよね〟
ということで特に最後のほうの用語がわからなくて、言語の話をしている時に唐突に塔? と思ったけれどとにかく日本人は英語を勉強しないといけない、という現実がある。
お決まりの、”What did you do last weekend?”という質問に答えなくてはいけない。研修室に集まっている何人かのメンバはそれに答える。流暢には答えずたどたどしく答えるのは、日本人の英語レベルはいまだに世界底辺クラスだからだ。
だが、それは英語表現が拙いからであり、きちんと週末を何かをして楽しんだ、ということは間違いなさそうだった。
僕は一日中寝てました、と正直に言うと、
“Why!? How lazy you are!”
と大仰に返ってくる。
ただ生きてただ死ぬ以上、僕は週末にまで頑張るつもりはない。意識の高い人々には理解できないのだろうが、僕も意識高い人々を理解しない。
とはいえ、この世の日本人はそんなに勤勉なのだろうか、とこのお決まりの英文を打ち込んでネットで検索すると、どこぞの掲示板にまさに同じ悩みを投稿している人がいて、ベストアンサーとして質問者が選んだのが、
〝別に毎週出かけられないから捏造してますよ〟というもので、
〝マジすか〟と四文字だけの質問者コメントがついていた。
マジすか……。
次の週に僕は週末に恋人とデートした、という捏造をしてみたのだが、捏造は捏造で大変にエネルギーの要るものだった。
そもそも、この場合嘘をつくことに二重の構造があって、まず恋人の存在を捏造しなくてはならず、ついでデートしたことを捏造しなくてはいけない。もっと一重構造の捏造を選べばよかった。
わざわざ週末に誰かと出かけるのも労力だが、嘘をつくのも労力だった。
講師は妙に興奮して、恋人の人となりを訊いてくるのだが、何しろ存在しないので人物像はブレまくる。矛盾点を暴き立てた講師が、犯人はあなただ! と断定するのではないかと(そしてここで主題歌が流れる)ひやひやしている。
ただ嘘をついている思考のあいまに、ユエリの顔がちらついた。
◇
人のいないところにいたいから、週末ひきこもりをしている。苦痛を味わわないための手段としてひきこもっている。なのに、そのために捏造という労力を使い、苦痛を味わっている。本末転倒だ。
だったら、人のいるところではなく、人のいないところに出かければよいのではないか? これは合理的な演繹と言える。
死後マイナンバーからのリンクはその役目を終え、アーカイブされ、書き換え不可フラグを付加されそのアドレスが死亡者一覧の末尾に付け加えられる。誰にも縁がない無縁仏はそのリンクだけが唯一のコネクションで、そういう土地がワンコネクションランドである。
なので、ワンコネクションランドに行けば誰もいないがどこかに出かけたという既成事実を作ることができる。
しかし、完璧に思えたこの計画は思いついた次の瞬間に破綻した。
死亡者一覧を見ても、どこがワンコネクションランドなのかわからないのだ。うっかりそのリンクを踏んだ瞬間、世間に疎いので知らなかったが実はオジャアサンと同レベルの大都会で、めくるめく人海に悶え苦しむかもわからない。
やむなく、末尾から順に実際に行ってみて探すことにした。行って何か存在していればすぐに引き返す。
やってみて、実はワンコネクションランドというのは存外少ないことが判明した。初日、百件くらいあたってみて、ようやく一件見つけた。
多くの人はみな、何かしら、誰かしらと繋がって死んでゆくのだ。
その一件に長時間とどまり、ただただぼんやりとしていた。
週明けの英会話でone connection landに行ってました、と言うと、講師はReally? と反射的に言ったあと、二の句が継げずしばらく沈黙した。
何もないと思うけど、どんなところが楽しいんですかね? たぶんそういう意味の英文を講師は繰り出しそれは、いやお前頭おかしいわ何もないのに楽しいわけねぇだろ、という裏返しの意味を言外に含んでいる。
これに対して反論を組み立てなくてはいけないのなら、結局は労力を使い、苦痛を味わうことになる。
ワンコネクションランドを英会話のネタにするのは、これきりにした。
◇
死亡者リストは死ぬほどたくさんあるから、ワンコネクションランドを探す素材に困ることはなかった。だいたい千件から二千件にひとつワンコネクションランドがある。
自分はぼんやりと、いずれ僕も死んでワンコネクションランドになるのだろうと思っていた。だが、これはなかなかに難題なのだ。
人と関わらない、そんな主観的な意識だけでなれるものではなかった。誰かに、熱烈に愛される。それだけで、相手から一方向だけの熱烈なリンクが張られる。
では、誰もに嫌われるような人間であればワンコネクションランドになるのかというと、それはそれで巨大な怨念をもって想われてしまい、これもまた熱烈なリンクが張られてしまう。
必要なのは、誰にも想われないこと。みんなが、ああそういえばそんな奴もいたね、程度の記憶になること。そういう厳しい条件があるのだとわかった。
僕は、ワンコネクションランド探しに妙に夢中になった。
大都会に繋がってしまう苦痛はあるが、すぐに離脱すればいいだけの話で(本当にここが物質世界でなくてよかった)、一種宝探しの楽しさがそれに打ち勝った。
そしてワンコネクションランドに滞在してぼんやりとするのは本当に心地よかった。
ワンコネクションランドには何もない。
そんな風に言われるし、事実僕も移動先がそれかどうかという判定に、何もないかどうか、という感覚で判断している。
しかしそれには語弊があって、そこにないのは、コネクションだ。
人を愛するため、人と繋がるため、人と関わるために人は生まれた、という人たちが見たがるようなものは何もない。
だが、目をこらすと、というか、コネクションへの感覚と別の感覚を研ぎ澄ますと見えてくるものがあって、それはアーカイブされた故人の記憶だ。コネクションなどなくとも、故人に閉じた記憶というのがある。
それは絵であったり小説であったりキャッチコピーであったり、退職でコネクションの切れた仕事の苦しかったり辛かったりたまに楽しかったりする記憶だ。
見ず知らずの人の記憶を覗くのは楽しかった。
そしてそんな記憶の中には、恋の記憶もあった。
最終的にワンコネクションになってしまった人なので、その恋は破れてしまう。死別ではない。愛し合う人が愛し合ったまま死んだなら、その瞬間にアーカイブされて書き換え不能なコネクションがあるはずだからそう判断できる。
ワンコネクションランドの恋の記憶は、原理的に双方生きたまま互いに断ち切ったものだ。
僕には恋はできないが、けして僕に向かってこない恋の話を見るのは楽しいのだ、とわかった。もしあのとき、ユエリが好きな人が僕でなかったら、僕はずっとユエリを見続けることができたのに、あれ、でも結局ユエリがいなくなるその時まで、僕たちは互いを見ていたはずだから、そんなの関係ないんだろうか。
僕は僕自身のことについては首を振って考えないことにして、見ず知らずの人の恋の話、しかも必ず最後に悲恋で終わる話に心動かされている自分に驚いていた。
しかし、驚くようなことでもなかった。これはフィクションと似た構造だ。フィクションで起こる事件や語られる言葉は原理的に読者に向かってこない。
これは恋ではないけれど、僕がワンコネクションランドとなったとき――僕が誰かに愛され続けることはないだろうが、憎まれ続けることはあり得そうだがうまいこと恨まれなかったとして――、誰かが僕の記憶を覗いて、双方生きたまま互いに断ち切ったコネクション、ということで、ユエリとのコネクションの残骸を見ることだろう。少なくとも僕は断ち切った、はずだ。恋ではないのだから、時たま思い出すだけだ。
そしてユエリも消えてしまったのだから、きっと僕へのリンクなど、断ち切っているはずなのだ。
◇
ワンコネクションランド一覧は、現在から過去に遡る方向で作成して、週末のたびに一件見つけて約50件ほどになった。つまり一年ほど経った。
誰とも関わりたくないというのに、妙に自己顕示欲の幼体みたいなやつはあって、今日もワンコネクションランド見つけました、楽しいです、などといったことだけをSNSに投げるとそれなりにいいねがついたりする。
つまり同好の士はそれなりにいるということだ。
〝誰とも関わりたくない〟という件で関わり合う関係はそれ自体が矛盾したものだが、結局人間は自分を肯定されたい本能がある。人間の二大欲望(ユエリによれば物質世界では三大欲望といって、なにやら食事とか料理とかいうよくわからない概念があったらしく説明されてもよくわからなかった)のほかにも人間にはいろいろな欲望があってそのひとつというわけだ。
〝ワンコネクションランドで無為に過ごす、贅沢な一日。〟という見出しをつけてブログ記事を適当に書き散らかしてみたら、何も考えていないのに何か考えた感を装えることに感動してしまった。
僕が自分自身に感動できるぐらいだから、僕の記事に感動してしまった人というのがいて、コメントがついたりSNSでフォローされたりした。
その人が自分もワンコネクションランドでぼんやりしてみたい、紹介してほしい、という人も出てくる。複数出てくる。何人かにはDMした。
ああ、価値を見出されないことに価値を感じてくれる人、というのはいるんだ、と同好の士を見た気になっている。
ああ、そうか、僕たちは仲間なんだ。同じものを好きな人が連帯するのは同じものを嫌いな人が連帯するよりもはるかに健全なことではなかろうか。
こんな仲間たちのために、僕が見つけたワンコネクションランド一覧を公開リンク集としよう――そこまで考えて、はっと気がついた。
ワンコネクションランドは公開した瞬間にワンコネクションランドではなくなるのだ。
それは当たり前のことだった。一か所を除きどこからもリンクされていない場所が、リンクされてしまう。原理上、公開する行為が対象を破壊してしまう。
僕は公開直前で押しとどまった。そして何か所か教えてしまったポインタは一覧から削除した。公開されたとは限らないが、複数の人間が知っているという時点でこれももう、ワンコネクションランドとは言えないかもしれない。
そしてブログ記事も削除した。たとえポインタを共有しなくても、僕と同じ死亡者リストを使って同じように辿っていけば、その人は僕と同じように見つけてしまう。一切共有しなかった場所で、誰かと鉢合わせてしまう。
昔アイドルの同担拒否という概念を聞いた時に、ずいぶんばからしい考え方だと思ったけれど、ワンコネクションランドは原理的に同担拒否以外あり得なかったのだ。
同好の士が増えれば増えるほどワンコネクションランドは破壊される。
だからワンコネクションランドなどというものを好むのは僕だけで十分だった。僕ひとりであるべきだった。ひとりになりたい場所を求める行為はひとりでやりましょう。そういう話だった。
◇
ワンコネクションランドのアドレスを眺めてみた。
ナマの16進数で眺めてみた。1エントリあたり256ビットのアドレス空間に、それは一様に散らばっていた。いや、……いない。
ワンコネクションランドには、その分布において偏りがあるのか? 一様に分布しているように見えて、ところどころ穴がある。
孤独な人間に規則性があるとしたら、それは孤独性、あるいは社交性はそもそも何らかの規則性によって決められる? 星占いは正しかった? 本日のラッキーアイテムを身に着けて人は出かけるべき?
いや、これは統計の罠だ。ワンコネクションランドに着目していたが、改めて死者一覧のリンクを見てみた。
これはワンコネクションランドに限った話ではなかった。大都会も、ワンコネクションランドも一切が存在しない空間がある。
ここには、何もない? 本当に何もないのか?
ある人を誘拐し、全てのリンクを断ち切らせ、その人へのポインタは不可視フラグをつけられたプロテクトメモリの中にしか存在しないとしたら?
そのリンクは存在するだろうか?
その人は存在するだろうか?
〝TSUKIは君が見ている時にしか存在しないのか、と言った人がいてね〟これはユエリの言葉。それも伝聞。元は誰の言葉なのだ?
そも、TSUKIというのが誰もが知っている土地だったらしい。メニイコネクションランド、とでも言うべきか。全ての人からのリンクのある土地。おそろしい。TSUKIの中にSUKIがある。それも含めておそろしい。
いやしかし、生きているあいだはマイナンバーのコネクションがあるのだから、生きたままゼロコネクションにするなど不可能だ。
しかしあるいは……そこに、バグがあったら。
バグというほどでなくても、脆弱性があってそれを突ける攻撃をたまたま思いついた人がいたら。
人が思いつかなくても、AIに指示する人がいて、AIが不眠不休のあげく未知の脆弱性を発見したとしたら。
そして、
ユエリがそこにいるとしたら。
いや、いない。
誰からも不可視なものは存在し得ないから。
誰もTSUKIを見ていない時にTSUKIはいない。
誰もSUKIを見ていない時にSUKIはいない。
僕は恋をしない。なぜなら僕をおいて僕の恋を見ることはなく、そして僕が見ないから、不可視なものは存在しないから、僕は恋をしない。
では、僕が、僕を見ている唯一の僕が、それを認めさえすれば、僕は恋をしているのというのか?
何かにつけ、ふとした瞬間に思い出されるユエリという存在、その感情は、ごくシンプルに恋だったのか?
僕はユエリを好きだったのか?
僕はユエリをSUKIだったのか?
だがユエリはいない。どこにもいない。だがユエリが、ゼロコネクションランドにいるとしたら。
そこは、一切のリンクを失った土地。たどりつきようの無い土地!
誰からも観測不可な人間が、存在しているといえるのか。
生きているといえるのか。
ユエリがゼロコネクションランドそのものでもう死んでいるのか、それともゼロコネクションランドにいてぼんやりと一日を過ごしているだけの生きた人なのか。
たとえユエリが死んだとしても、それを通知する経路がない。だからユエリの生も死も存在も不在も知りようがない。
しかしユエリがそこに行けたのなら、たどりつきようがあったということだ。何かの脆弱性……未知の脆弱性……そんな博打のようなものに賭けるしか行く方法はないように思えた。
ワンコネクションランドのことばかり考えていた僕はいつの間にか、ゼロコネクションランドのことばかり考えていた。
行くことができないところに行くということ。
不可能を可能にするということ。
そこにいるかもしれないしいないかもしれないし行くことができたならそれは現実として確定してしまってそれ以上生きるよすがとなるか不明なもの。
気づけば何年も何年もゼロコネクションランドに行く方法ばかり考えていた。僕に関わろうとする者はいよいよいなくなった。
いつしか僕は、じきにお迎えがくる年齢になっていた。
お迎えって、どこから?
もう河を(河ってなに?)渡りはじめたかもしれない意識のなかで、僕はゼロコネクションランドというのが無数にあることにようやく気付いた。
たとえば今行こうとしているあの世とか。
同じメモリ空間を共有しても参照権限の違う領域とか。
パラレルワールドですぐ隣の世界とか。
今ここにいる自分が一辺の物語の登場人物だとして、それを読んでいる読者とか。作者とか。
人間が仮定しうる限り、あまねく存在するゼロコネクションランド。
そしてそこにユエリがいるかどうかについて、ここには書かない。
誰にも知らせたくないから。
いるかいないか、という情報への参照をなくしておきたかったから。
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