梗 概
辺境の言い伝え
その辺境には、語られる一つの言い伝えがあった。
その辺境自体が、実は辺境ではないという奇妙な言い伝えだ。
そこに住む少数の人々の殆どは、その言い伝えを信じていなかったが、たまにその言い伝えを信じて確かめようとする者もいた。
文字数:112
内容に関するアピール
辺境が見せ掛けの実験場であるという設定です。
文字数:22
ヘンキョウ・トウキョウ
「あなたは、最近ここへ流れてきた人だね」
初夏の風の中、ずばりと言い当てられて、カナメは眉をひそめた。仕事柄、周囲に溶け込み、雑踏に紛れることは得意とするところなのだが、この娼女の目は欺けなかったのだ。
「何故そう思うんだ?」
カナメは腰に手を当て、足を止めて娼女を見据えた。ほっそりとした娼女は、歓楽街の人通りの中、広葉樹の葉のような明るい緑色の髪を靡かせ、鳶色の双眸に人懐こい笑みを湛えている。纏った薔薇柄の着物の襟は胸元まで大きく開き、裾は膝が見えるほどはだけて、白い肌を陽光に晒していた。華奢な素足には簡素な草履を履いている。
「わたしは一度見た人の顔は忘れないし、毎日この通りを眺めているからね。トウキョウへ来て、一度もこのカブキチョウ通りへ来ない男性はいない。だから、そう思ったんだ。正解でしょ?」
娼女はそっとカナメの腕に両手を絡め、大したことのない胸を押しつけてきた。背丈は、百七十糎のカナメより十糎以上低い。
「ねえ、今晩どう?」
「――まだ日は高いぜ?」
カナメがちらと太陽を見上げて素っ気なく応じると、娼女は耳元で囁いてきた。
「だから、今晩までずっとって意味だよ。一人で夜を過ごすのは、とてもとてもつらいから」
付け加えられた言葉には重い響きがあった。どういう意味か見当は付く。そもそもの目当てもこの娼女だ。カナメは安い誘いに乗り、導かれるまま店へ入った。
「いらっしゃいませ」
店の女将は、人間を模した顔に満面の笑みを浮かべてカナメを迎えると、一気に捲し立ててくる。
「旦那様はお目が高い。このホタルは当店でも一、二を争う人気者でして古株のお客様方から引っ張り凧なのですよ。そのホタルを今から独り占めとは、早い内からいらして下さったからこその幸運でございましたねえ」
「幾らだ」
カナメが短く問うと、女将はささっと手許の算盤を弾く。
「まずは一晩でようございますか? 延長は幾らでもできますから」
「ああ」
「では十万円でございます」
トウキョウの店にしては高い。女将は吹っ掛けてきたのだ。人工知能の癖に悪どいことである。儲けは恐らく自身の改良に使うのだろう。何にせよ構わなかった。少々儲けさせてやってもカナメの懐は痛まない。上着の隠しから財布を出してトウキョウでのみ流通している現金で全額支払うと、女将はすぐに娼女に顎をしゃくって見せた。娼女は頷いてカナメの靴を脱ぐよう促し、自らも草履を脱ぐ。カナメの片腕に絡めたままだった両手で奥へ――二階へと引っ張っていった。
「部屋はこっちだよ。何か食べる? それとも――すぐがいいかな?」
「すぐだ」
即答したカナメに怪しく微笑んで、娼女は二階の廊下に面した襖を開いた。そこからは無言だ。窓の帷が下ろされた薄暗い部屋の中、カナメは後ろ手に襖を閉めてから、布団に寝た娼女の体を静かに暴いていった。
「――ホタルって名は、こういうことか」
熱を持った白い素肌が、ぼんやりと柔らかな緑色に光る。娼女の愉悦そのままに、光が強くなる。自身の光に仄かに顔を浮かび上がらせた娼女は微笑んだ。
「そうだよ。わたしが感じるたびに肌が光るよう、DNA改造されているんだ」
成るほど、あの女将の言もあながち口から出まかせという訳ではないらしい。火照った部分の肌を透き通るが如く淡く光らせる娼女は文句なく扇情的だ。そして、人気の理由はもう一つあるだろう。
「おまえ、初めてって訳でもないだろうに、これはどういう絡繰だ?」
布団には、ホタルから流れた鮮血が付いている。緑色の髪に顔を半分隠した娼女は、顕になった華奢な肩を竦めた。
「初めての体が好きという人が多いからだろうね、これもDNA改造の結果だよ」
有尾両生類と同じように再生遺伝子が活性化されているのだ。資料の通りである。
「わたしの体はすぐに元通りになるんだ。怪我をしても明日には治るんだよ。酷い人がいて、指を切られたこともあったけれど、切られた跡から新しい指が生えて元に戻ったんだ。一ヶ月間くらい痛かったけれどね」
「確かに、そういう趣味の奴らには人気だろうな」
カナメは目を眇めてホタルの体を解放し、布団の上に座った。
「もういいの?」
名残惜しげに肌を光らせたホタルも着物を乱したまま起き上がって、こちらを見てくる。薬物による発情はまだ治まり切らないらしい。薬漬けにされていることは最初に囁かれた時から察していた。さすがヘンキョウ・トウキョウ。通称〈人間の屑捨て場〉だ。百年ほど前、地球温暖化による海面上昇で主要部が水没した東京は、人間の規格から半ばはみ出したような者達が多数を占める辺境の地と化した。そして今や外部から隔てられて独自の発展を遂げている。
「腹が減った。食べたら続きだ」
カナメが言うと、ホタルは嬉しげに破顔して着物を直しながら立ち上がった。
「分かった。出前を取るよ。何がいい?」
「いや、外へ食べに行く。美味そうな蕎麦屋があった」
カナメが主張すると、ホタルは少し困った表情になった。
「女将さんが許してくれるか分からないよ? わたしを攫おうとする人も多いからね」
予想通りだ。ホタルが店の前で客引きをしている時も、それとなく見張っている強面の男衆達がいた。彼らは、ホタルの逃亡というよりは連れ去りを警戒していたのだ。連れ去られた結果、ホタルが命を落とす可能性は高い。商品としてのホタルを守っているという訳だ。
「なら、出前でも構わない」
情報を得たカナメがあっさり折れるとホタルは安堵した表情で頷いた。
「ありがとう。何蕎麦にする?」
「天麩羅蕎麦だ」
「いいね、わたしも好きだよ。少し待っていて」
ホタルは軽やかな足取りで襖から出ていった。その後ろ姿を見送ったカナメの耳に、無愛想な声が響く。
〈いつまでごっこ遊びをしている。さっさと知っている顔を全部吐かせて殺せ。いつまでおれを待たせる気だ〉
「羨ましいか?」
通り向かいにある宿屋の二階に潜んでいる相棒の不機嫌な顔を思い浮かべ、カナメは呟いた。顎に埋め込んだ小型通信機が骨伝導を拾って相手に伝えるのだ。
〈おまえこそ妙な情をかけるなよ。その苦界で生きるよりは安楽死させるほうが慈悲だ。難しいなら、おれが代わる〉
「おまえにゃ無理だ。口下手過ぎて何にも聞き出せないだろ。まあ、待ってろ。発情をある程度発散させたら聞き出すのも早いはずだ。急がば回れってな」
相棒を適当に黙らせてカナメは小さく溜め息をついた。
――「わたしは、一度見た人の顔は忘れない」
ホタル自身も口にした能力――超認識力。人間の約二パーセントにした現れないそれが問題となっている。DNA改造までして創り出した娼女に、そういう特性があることは、少なくとも利用者の周辺人物達にとって予定外だった。結果、カナメが受けた指令は、彼女が記憶している顔の照合を行い、捜している情報を確かめ、更なる情報があれば聞き出したのち、始末せよというもの。彼女の記憶の一部は大変に都合の悪いものであるため、既にそう決定されているのだ。娼女として創られたホタルに人権はない。保護された後、暫定措置としてトウキョウで生かされてきたが、彼女の処分を阻む法律はないのだ。
「すぐに持ってきてくれるって」
言いながら襖を開けて戻ってきたホタルは、カナメの目の前にぺたんと座った。
「そろそろ、あなたの名を教えてくれないかな?」
にこりと笑って請われて、カナメは苦笑とともに告げた。
「ロンだ」
今し方文句を垂れてきた相棒の名である。
「あれ、苗字はないの?」
ホタルは小首を傾げた。トウキョウに苗字を持つ者など殆どいないはずだが、そういう知識は持っているのだ。
「それとも、聞いちゃいけないのかな?」
悪戯っぽい笑みには、ホタルの来し方が去来していた。
「おまえこそ、苗字はあるのか?」
カナメが問いに問いで返すと、ホタルは肩を竦めた。
「ないよ。わたしを創った人達には娼女に苗字を付けようなんて考えはなかったし、それが当たり前じゃないのかな」
「お待ちどお。天蕎麦二つ、お持ち致しやした!」
襖の外から、威勢のいい声が響いた。
「ああ、ありがとう」
ホタルがすぐに立って襖を開ける。
「いつも早くて助かるよ」
どうやら件の蕎麦屋とは互いに贔屓にしている関係らしい。湯気の立つ蕎麦二つが乗った盆を部屋へ入れて、ホタルは襖を閉じた。
「さあ、食べようか」
蕎麦を見つめる茶色の双眸がきらきらとしている。付き合いでなく腹は減っていたらしい。カナメはさっさと盆の箸を取って、先に蕎麦を啜り始めた。
「旨いな!」
予想以上の味である。トウキョウは料理に関してはかなりの水準を保っているようだ。
「そうでしょ」
ホタルは自らも蕎麦を啜りながら得意げだ。
「あそこは、わたしの一押しの蕎麦屋さんなんだ。ここに来たわたしの、幸せの種の一つになってくれた店だよ」
「ここに来る前は何をしてたんだ?」
カナメがさらりと切り込むと、ホタルは天麩羅を噛み締める口の動きを一瞬止めた。
「していることは何も変わらないよ」
部屋に染み付いた薄暗さの中、娼女は微笑んで答える。
「ただ、ここでは商品で、あっちでは玩具だったっていうだけの違いだよ。商品のほうが大切にされるんだ。自分一人のものじゃないからね。だから、わたしはここの暮らしのほうがいい。あなたみたいに優しい人にも出会えるし」
「おれが優しいか?」
片頬だけで笑ったカナメに、ホタルは唇の笑みを深くして頷いた。
「うん。わたしの見る目は確かだよ。それに、ここには言い伝えがあるんだ」
カナメの反応を置き去りにホタルは夢見がちな眼差しになる。
「女将が教えてくれたんだけれど、このトウキョウのどこかで青い鳥を見つけたら、本当の幸せが手に入るって」
「何だ、それは」
上手く呆れたような声を出せただろうか。カナメは背中が僅かに疼くのを感じつつ、蕎麦の汁を飲み干した。
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