梗 概
空白のコートを纏って
ファッションAI《フェイシオン9.6》の専属モデルとして宇宙圏で絶大な影響力を持つインフルエンサー、アラン=ヴィスは、ある日、地球の辺境から発信された一枚の画像に目を奪われる。それは風に揺れる、一着の服。誰も着ておらず、AIが評価を下さない所謂『空白の服』と呼ばれるものだった。
AIに問い合わせると即座に「非適合」と断じ、アランにも「適合率0.6%、着用推奨外」と警告する。しかしアランはそこに適合率では語れない何かを感じた。自身の着るものがすべて他者のために選ばれてきたと気づいた瞬間だった。
旅客船を乗り継いでアランは地球にたどり着く。ターミナルを出た矢先、経験したことのないふかふかとした感触が足元から伝ってくるのを覚える。噂に聞く『繊維の地表』の特徴そのもの。
この数百年いらい、人類の生活圏が宇宙へと広がる中、地球は『循環実験場』として衣服廃棄を引き受けてきた。微生物による分解に賭けた計画は失敗し、名ばかりの処理が今も続いている。天然繊維、バイオ素材、ナノ構造体、すべてが分解しきれずに地層をなし、表層は光沢ある最新衣料が漂い、深層に連れて旧世代の服が眠っている。
アランはファッションの墓場を彷徨い、布の山を掻き分けるようにして『Vestigia』という仕立屋を訪ねる。
仕立屋の主人は名前も明かさず、ただ黙々と手を動かしていた。彼のアトリエには数百着の服が吊るされている。それらはすべて店主が地層から拾い上げた布を元に縫い上げた服だった。
独創的なデザインに心を奪われつつ、それでもアランは問いかける。
「この衣装は市場に取引されることはないのかい?」
「どれも誰かが着るためには作っているわけではない。でもね、誰かが来ると信じて縫っているんだよ」
アランは最初こそ半信半疑だったが、日を追うごとに服に刻まれた記憶のようなものに引き込まれていく。生地の歪み、補修の跡、かすかに残留する香り。それらが自身のうちに秘める感情を静かに照らしていった。
数日後、アランは自然に手が伸びた一着を選び取る。くすんだ緑の外套。裏地には聞き覚えのない言葉が刺繍されており、ポケットの中には誰かが取り忘れた鍵が入っていた。だぼだぼで、身体には全く合わない。しかし、その違和感こそが自分の体型を知る手掛かりだった。
アランはその服を着て、宇宙へ戻る。最新AIはその服をスキャンし、「形状不規則/素材混在/判定不能」と断じた。
一枚の写真を投稿する。
《これは、誰の服でもない。わたしのための服だ。》
その投稿は、彼の11.6億人のフォロワーを中心に議論が巻き起こった。『これは評価対象なの?』、『推奨値は出せるんですか?』──誰もが困惑しAIが何も言わないことにざわめいた。
それでもアランはその服を着たまま街を歩く。やがて誰かが、また別の一着を求めて地球に降り立つかもしれない。
文字数:1197
内容に関するアピール
最近SFマガジンでも特集が組まれたファッションSFですが、自分も挑戦してみました。特集の短編をしっかり読みこんではないのですが、プロダクトデザインやエシカル消費の方面でも投げかけることができそうだと思い書いてみました。主人公の立場はインフルエンサーにしましたが、未来のファッションの「正解」を導くための攻略本のような属性を狙っています。
お題への応答は人類の宇宙進出が進んだ末に逆に地球が辺境になるという設定です。
廃棄された衣類からリビルドする「仕立屋」のアイデアはファッションデザイナーの中里唯馬さんの活動から着想を得ました。ドキュメンタリー映画「燃えるドレスを紡いで」は好きな作品です。正直、ディティールの問題はたくさんありますが(地球の微生物によってどれくらいのレベルで生地が分解されるのか、作中の社会における正解の服とは?などなど)、詳しい人にお話を伺って上手く書き上げたいと思います。
文字数:396
空白のコートを纏って
最初に降り立ったとき、地球の光は思ったよりも、ずっと乾いて見えた。
船の気密扉が開いて、ぼくはステップの端から片足を下ろす。思わず声が漏れた。足の裏からふわっと沈む感触が伝わってきて、すぐにそれが噂に聞いた〈繊維の地表〉だとわかった。砂利でもアスファルトでもない。生地の山が圧縮して出来上がった──らしい、地面。
「お客様、足元にご注意ください」と、ポートステーションのアナウンスが響いていた。 ぼくの靴には、接地圧に応じてソールの硬さを調整する高度な感圧素材が組み込まれている。都市圏ではとても快適だった。でも、どうやらこの地表じゃ誤作動ぎみらしい。どうやら〈繊維の地表〉は地面のふりが下手すぎるみたいだ。どこにどう重さをかけていいのか、ぼくの足は無意識のうちに迷ってしまう。
歓迎されてない感じがするな、とぼくは思った。ここはかつてぼくたちの故郷だった筈なのに。
この数百年のあいだに、人類の居住圏は軌道上から外惑星、果ては楕円周回軌道上のテラス・ステーションにまで拡張した。その結果、地球には一つの役目が回ってきた──不要になった衣服を自然に還す、循環実験場としての役割。けれども、行政の期待に反して計画は失敗した。天然繊維、バイオ素材、構造織布──あらゆる時代の繊維が地層のように積もり、この惑星上を覆い尽くしている。微生物による分解速度が間に合わず、処理記録だけが今日も律儀に日付を更新しつづけてる。地球は今、「服の墓場」だ。
けれども、ぼくがここに来たのはそれを見にきたわけじゃない。あの画像のことを、どうしても忘れられなかった。
発端は、ぼくのSNSタイムラインに流れてきた一枚の写真を見たことだった。それは風に靡く一着の服。案山子のように組み上げられた十字の棒に、無造作にかけられていた。コメントもなく、タグもなく、評価もされていない──画像だけがそこに放り出されたような風情。なぜそれがぼくのおすすめに出たのか、アルゴリズムを疑った。当初はただの布の束とも勘違いしてしまった。位置情報すらもつけられていなかったが、背景の布の地層がなだれるように崩れている様子はどこか見覚えのある形をしていた。AIに照会をかけたら、地球圏の旧投棄ゾーンという位置情報と、その類似率92パーセントという解析結果が返ってきた。推定としては十分だった。
画像に写っている服は、正直に言えばダサかった。部位のどこかしこで素材が違うし、形も今季のどのトレンドにもかすってない。見せ方の工夫もゼロ。ディレクションの努力が一切見受けられない。
AIの提案なら、即座に『非推奨』って表示が出るやつだ。試しにAIに問い合わせてみると、回答は早かったし内容も予想通りだった。
『非適合。適合率0.6%。着用推奨外』。つまりこのファッションは不正解そのものだ。
ファッションAI〈フェイシオン9.6〉はぼくのデータを知り尽くしてる。体型から呼吸のリズム、食事のバランスなどなど、膨大なデータベースによってファッションにおけるぼくの正解を完璧に知っている。フェイシオンがぼくに用意する服は、誰にも否定できない正解だった。ぼくが何を着るかでトレンドが変わる。11.6億人のフォロワーの誰もが、ぼくの着るファッションを参考にする。それは確かにフェイシオンのおかげだ。だから信用している。少なくとも、これまでは。
とどのつまり、こんな服、ぼくが気にするような服じゃない筈なんだ。そんなぼくが、なぜその画像に目が止まったか──まるで、わからなかった。わからないまま、地球にきた。
荒涼とした景色はどこまでも透き通っている。とはいえ、空気はどこか、湿ったような匂い奥に残る。湿度調整でもしてるのかと考えたが、それらしい設備がないのでおそらく間違った予想だろう。その空気に混じって時折、不意に混ざる別の匂いもあった。焦げたような、それもだいぶ前に焼けたような、ぐぐもった残り香。なんでそんなものがこの辺りに漂ってるのか、ぼくにはいまいちわからなかった。
ターミナル内は無人じゃなかった。いや、対応しているのは施設内の案内をする特化型AIばかりで生身の職員はほとんど見かけない。ただ、ぼくと同じように到着ゲートを通過する人影がちらほらいるくらいだ。燃料補給で経由する物流企業のスタッフか、廃棄処理局の管理員かのどちらかだろう。誰もが仕事に熱心な目線をしている。
ただ、カフェラウンジの端っこに一人だけ雰囲気が違う人がいた。フードの奥にレンズを一つつけていて、板状で手に収まる大きさの古い端末をいじっていた。おそらく現地の住人だろうと思い、ぼくは声をかけてみることにした。
「すみません。この写真、見たことありませんか」
ぼくは左手の甲に人差し指で小さな円を描いた。皮膚の下に埋め込まれたタッチセンサが反応し、視線に連動してスマートレンズが起動する。すると空中にホログラムが浮かび上がった。服が風に揺れている、例の画像だ。
フードの男は、少しだけ視線を持ち上げて言った。
「またこれか。ときどき聞かれるな」
「知っているんですか?」
「いやまったく。誰が撮ったかも、どこで撮ったかも、私には知らん。ただ、この服だけは見たことがある」
ぼくが詳細を訊ねると、男はそうだなぁ、とこぼして不器用な手つきで端末を操作し、古い地図アプリを立ち上げた。画面に指を滑らせながら、ある一点を示す。
「今はこの辺だと思う。ここに縫製場があってな。素朴な工房だが、ケチくさい店主がいて、布地を拾っては服を縫っているんだ。正規の流通には載ってない」
「なんでそんな工房があるんです?」
「そんなの、こっちが知りたいくらいだ。誰かが言うには服を売る気もないのに、一心不乱に縫っているって話だ。まったく気味が悪ぃ」
男は肩を振るわせた。表情は読めなかったが軽く笑ったのだろう。あるいは嘲けた、と言い換えた方が正しいかもしれない。とりあえずぼくは男に礼を伝えて、座標をぼくのナビに転写してもらった。ターミナルからは歩いて数時間かかる距離らしい。シャトル輸送もあったけど、ぼくは使わないことを選択した。地球の空気を、もう少しだけ感じてみたかった。衝動に近い。でも、こういうのは──たぶん歩いた方が良い。
今度こそ、足元に注意して歩かないと。この星は引っかかるものばかりだ。
※※※
ターミナルを出てすぐに気づいた。この惑星には、道と呼べるものはほとんどない。舗装もされていないし、道標もない。あるのは、斜面だけだった。繊維から成る地面はかろうじて人の歩いたらしい凹みが続いていたが、それも歩いているうちにすぐに見えなくなった。だから、傾斜の緩いところだったり締め固まって安定している場所を本能的に選び取って進んでいた。きっとこれが、地球の歩き方かもしれない。
生地の山は、ところどころで風にはためいていた。遺棄されて新しいバイオポリマー繊維の布が強い日差しに照らされて熱をもち、空気がじっとりと濁っている。発火対策のスプリンターらしき装置がところどころ見えていたが、どれも稼働する様子はなかった。事が起きないことを期待しているように。
歩く足はまだ迷っていた。感圧ソールはちぐはぐなままで、負荷調整うまく働かない。沈むでもなく、滑るでもない、ただ、どこに重心を置けばいいのか一歩ごとに探っているような感覚だった。ふと立ち止まると、靴裏に白い糸くずがまとわりついていた。ほどけた縫い目なのか、崩れた裾なのか。確かめる気にはならならない。丘の山肌にはところどころに杭のようなものが突き刺さっていた。先端には何もかかっていなかったが、針金のフックだけが折れて残っていた。投棄されているのは繊維や布だけじゃないらしい。きっと、誰かの服がハンガーに吊られたままでここに棄てられたのだ。
少し進むと、めくられたコートのようなものが地面にぴたりと貼りついていた。くすんだ色合い。左袖は半分ほど焦げていた。傍には子ども服らしき小さなシャツがある。布地の山に吸い込まれるようにして埋もれているそれは一部は焦げていて、ひどくボロボロだった。サイズ感でしか子ども用だと判断できなかったけど、きっとそうなのだと思う。この足元に沈んでいるのは、もう誰のものでもない布たちだ。けれど──ひとつひとつに、何かを選んだ誰かが、確かにいたはずだった。
服が、死ぬなんて、思ってもみなかった。『服の墓場』というレトリックは、大昔の環境活動家がメディアに放った言い回しが、時間とともに一般化されたものだ。それを初めて聞いたとき、ぼくはどこか冷笑していた。でも今は違う。誰にも着られることなく、ただここで少しずつ沈んでいく。その光景を前にすると、あの言葉はまったく的確だと思えてしまう。
ここにあるのはどれも服だったものだ。
もう着られない。もはや誰のものでもない。ただ、ここにあるだけ。この風景は、どうにも終わりを感じさせる寂しさが溢れかえっていた。風が吹くたびに布と布が擦れて、めくれる音がする。ゆっくりとずれる音。すぐ近くで誰かが歩いているような錯覚があった。姿はないはずなのに、なぜか息をひそめてしまう。この星の大気が、幽霊めいた気配を作り出しているようだ。
けれども、その発想はひどく不気味だ。見慣れたはずの布が、こうも静かに世界を覆っている。それを足で踏んで歩くことに、ぼくは安心よりも罪悪感を覚えた。どこかでずっと誰かに見られているような気もした。
──この星は黙っている。でも、全てをまなざす力があるのではないかと、そう思えてしまった。
いくつかの丘を越えると、繊維の海の向こうに、黒い建物の輪郭が現れた。
あれが──多分、フードの男が言った工房だろう。
〈Vestigia〉。布地でできた看板にその名前が縫い込まれていた。
およそ建物とは呼びがたかった。何本もの柱のあいだに布が垂らされていて、回廊のような構造をしている。中を覗くと、そこには無数の服が天井から吊るされていた。風が吹くたびに、布が擦れる音がする。服は誰にも着られてないのに、まるで意志を持った生き物の群れのようだと錯覚した。
「いらっしゃい。どなたですかい?」
ぼくがその情景に圧倒されていると、布のあいだから声がして、ひとりの人物が現れた。背は高かった。でも、すぐに目が行ったのは人物の着る服だった。彼の着るそれはサイズがまるで合っていなかった。いくつも縫い合わせの跡がある。褪せた赤色の布地が基調だった。ただ胸元には炭化したような黒い染みが、じわりと滲んでいた。
ぼくは反射的に挨拶しようとしたが、喉元にくる前に遮られた。
「よく来たね。写真、見たんだろう?」
「……ええ。偶然ですけど」
「偶然でも必然でも、どっちでもいい。ここに来た人には、ちゃんと話ができるようにしてある」
そう言うと、彼は入口の布をひとつめくって、奥の方を示した。そのあいだ終始、彼は無言を貫いていたが、明らかに招いている様子だった。向こうは見えない。空間にぽっかりと穴が穿たれたような深い闇。ぼくは歩を進めるのに躊躇したが、従うしかなかった。
中は、想像していたよりもずっと広かった。建物の骨組みは金属だったが、壁も天井も布でできていて、あらゆるところが柔らかく、たわんでいた。吊り下げられている服の数は、数え切れない。すべてが一着ずつ、異なる輪郭を持っていた。コート、ドレス、ジャケット、ローブ、シャツ、インナー──そして用途のわからない形状のものもある。服は、ただ吊られているだけなのに、かすかに揺れていた。風が入り込んでいるせいか──でも、それだけでは奥まっているから説明がつかない。
「これ、全部、あなたが?」
「そう。拾って、縫って、吊るした」
「着せる相手もいないのに?」
この皮肉はターミナルで出会ったフードの男の受け売りだ。けれども、仕立て屋は頷くでもなく否定するでもなく、肩をすくめた。あくまで泰然とした態度を貫いている。
「着るかどうかは、後の話さ。縫うときは、着る相手がいない方がいい。自由だから」
その言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がした。けれど、ぼくが関わってきた『ファッション』の意味とは、まったく別の次元の話だ。
「服って誰かが着るためにあると思ってました。だから縫う時には、着る人のことを考えて当然だって──それに、そもそも自由な服だなんて、着こなせるものなんですか?」
そう訊ねると、仕立て屋は初めて声をあげて笑った。歪んだような、それでいて水を打ったような落ち着いた笑いだった。
「たまに、そういう人が来るんだよ。試すように、見に来る。でも、持っていく人はほとんどいない。理由はいつも違うけど、結果は同じだ」
その時、ぼくは知らず知らずのうちに冷たい視線を向けていたのかもしれない。有り体に、強い言葉を使ってしまえば軽蔑に似た視線。彼がどこか横柄な理屈を語られているような気がして──そして、それを完全に否定しきれないのが、何よりもなんともやりきれなかった。
布のあいだを歩きながら、ぼくは足を止めた。ある一着の服に、針と糸が刺さったままになっていた。縫いかけだ。
「これは……」
「いま作ってるところ。気になった?」
「──ちょっとだけ」
「良い眼の使い方だ。君の『ちょっとだけ』気になったってのが、一番大事なことだ」
そう言われて、ぼくは思わず辺りを見渡した。確かに、ここにある服はどれも『ちょっとだけ』気になる。強烈に惹かれるわけじゃないけど、一瞬だけ引き戻される──それの繰り返しだった。
吊るされた服のあいだをぼくはゆっくりと歩き出した。仕立て屋は特に案内も解説もしなかった。ただ、そのまま、こちらの様子を眺めていた。
袖の折れ方が不自然なシャツ。左右で丈の違うパンツ。そして、ちぐはぐな色彩バランスのジャケット。素材も形もバラバラだけど、それぞれに完結した空気を纏っていた。仕立服にしては雑多だし、既製服にしては手が込みすぎている。未完成でもなく、破綻でもない。なにかの途中にある感じ。
その中の一着、オリーブ色のコートに思わず目を奪われた。奇抜なプロポーションは他の展示品と大きくは変わらない。ポケットの内側には赤い糸で小さな記号のようなものが刺繍されていた。意味はわからない。これは言葉だとしたら知らない言語だ。
「これ、売約済みですか?」
口にした瞬間、自分で自分に驚いた。なんでそんな言い方をしたんだ。まるで高級ブティックにでもいるみたいだ。その前にやるべきことがあるだろう、と頭のどこかが言っていた。〈フェイシオン9.6〉に照会をかけて、適合率を出す。それが『正しい順序』だった。
けれど、ぼくの手は動かなかった。レンズも、起動しなかった。
「その言葉、久しぶりに聞いたねぇ。……けど、それを買うのかい?」
ぼくは咄嗟に何かを返そうとして、言葉に詰まった。すると仕立て屋は、服のそばに歩み寄って、そっとその裾を撫でた。
「でも、どちらにせよ、まだ譲るわけにはいかない」
「──どうしてですか」
「それを選んだと、君はまだ言ってないから」
彼の声は穏やかだった。そこにはある種の決断が含まれていた。
ぼくは無言のまま改めてそのコートを見た。胸の奥にざわつきがあった。けれども、それが欲しいのか似合うのかはわからなかった。ただ、少しだけ触れてみたいと思った。
何かを選ぶことって、こんなに手が止まるものだっけ。
「……もし、ぼくが選んだって言ったら?」
仕立て屋は少しだけ口元を歪めた。
「そうしたら考えるよ。譲るかどうかは、またその後の話だ」
※※※
〈Vestigia〉を訪れたその日は、珍しい晴れの日だったと、ぼくは後になって知った。それから何日過ごしても、雲ばかりの空に太陽の気配はほとんどなく、それでも夜になっても熱はこもったままだった。昼と大差ない暑さが身体にまとわりつく。湿度も一日じゅう高く、息が苦しくなるような空気が布地の隙間を漂っている。寝苦しくて、目が覚める夜も何度かあった。
時折、吹いてくる風が、布の隙間をすり抜けて焦げたような匂いを運んでくる。外でボヤでも起こっているんじゃないかと心配になるほどだが、仕立て屋の店主はそのことにいちいち反応しなかった。──きっと、この星では珍しくもないことなんだろう。そう思ったら、取るに足らない些細なことのように思えてしまった。
ここでどれくらい滞在したのか、ぼくは詳しく覚えていない。正確な時間はスマートレンズを起動すれば測れるはずなのに、それを確かめようという気が起きなかった。眠ったら一日が終わり、起きたらまた一日が始まる。そんなふうに、日々を数えていた。
その日も、ぼくは特に目的もなく、〈Vestigia〉の回廊を歩いていた。布たちはゆっくりと揺れている。風は昨日より幾分か強く、吊るされた服たちは一斉に揺れていた。金具の音や布が擦れる音は細波のように響いている。整頓されているようでいて、秩序は感じられなかった。仕立て屋はよく服を「展示する」とか「飾る」言ったけど、それにしては前提となる何かが抜け落ちている気がする。むしろ、ただそこにあるだけ、といった趣だった。
そのとき、一着の服が、他と違う軌道で回転した。強めの風に煽られたせいかもしれない。けれど、まるで「見てくれ」とでも言うように、ぼくの正面で止まった。
くすんだクリーム色のシャツだった。裾が破れていたり、ボタンはいくつも取れていた。でも、異様に丁寧に補修された跡があった。脇の下の裂け目を、違う色の糸で、子どもが縫ったように粗く直してある。その糸が、不釣り合いなほど鮮やかな赤で、やけに目についた。
ぼくは手を伸ばした。
触れた瞬間──なぜか、指先がびくっと反応した。温度でも質感でもない。何か、触れてはいけないものに、触れてしまったような感覚。ごく弱く、皮膚の内側で、布の囁きのようなものが響いた気がした。
いくつかの情景が、走馬灯のように頭をよぎった。雨の音。白い手。抱きしめる瞬間の布の重さ。誰かの匂い──そして、そのすべてが、言葉にできないまま消えていった。記録ではなく、何かの熱だけが残った。
「アランくん、どうしたんだい」
ぼくを呼びかける声で我に返った。仕立て屋の声だ。視線を向けると、彼はじっと見据えていた。
「これは、誰の服なんですか?」
思わずそう訊ねていた。仕立て屋はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと近づいてきた。
「覚えている人はいない。でも、布は忘れない。赤い糸は、何かを繋ごうとしていた痕だよ」
「繋ごうとした……?」
「きっと、誰かの手と、誰かの心を。あるいは、失う前の記憶を」
〈フェイシオン9.6〉は、ぼくのすべてを知っていた。知っているはずだった。でも、あのシャツの糸が語るものは、どこにも記録されているものでもない。あれは、誰かの体温が沈んだまま忘れられた、澄んだ記憶だった。
その言葉の意味はよくわからなかった。でも、ぼくの指はまだそのシャツの縫い目に触れている。
そして、仕立て屋がふと笑った。
「……アランくん。君は、感じ取れるんだね。忘れられた服の声を」
「どういうことですか……」
「もう、気づいている筈だろう? 昔の服は、いろんな情報を記録してた。今ほどじゃないけど、十分すぎるくらいね」
そう言って、仕立て屋はぼくの手のひらをじっと見た。ぼくはさっきまで指先が触れていた感覚を思い出していた。あのとき、確かに──何かが、あった。
「でも君が触れたのは、記録じゃない。記憶だ。誰かの想いが、そこにあったんだよ」
「どうしてそんなものが、服に?」
「むかしの服にはね、Mnemosっていう合成タンパク繊維が織り込まれていたんだ。知ってるだろ?」
名前だけは聞いたことがあった。ぼくがまだ生まれる前──管理社会って呼ばれた時代に流行した、着るだけで健康を管理してくれる衣服。皮膚の温度、汗の成分、心拍、呼吸、歩き方──そういう細かい生体情報をナノ繊維が読み取って、着ている人のデータとして蓄積していたという。
「でも今は、使われてないって聞きました。コストとか、プライバシーの問題で」
「そうだね。今の世界には向かないんだろう。束縛とか牽制というのはそうすればそうしただけ反発する力も大きくなる。でも、情報は繊維に残る。廃棄された布にも、見向きもされない糸屑にも誰も見返さなくなった記憶が沈んでる。でも、不思議なことに今も消えてないんだ」
シャツの襟元を撫でる店主の指先は、かすかに古傷のような白い線が浮かんでいた。縫い針に何度も触れた痕だろうか。
「ぼくは、それを縫い直しているんだ。忘れ去られる前に、かすかでも残せるように」
「それって、記録を保存してるってことですか?」
「いや違うよ。記録なら、〇と一として残せばいいだけの話だ。でもこれは、感覚なんだ。つまり連続的な情報だ。ニーモスが記録するのは、数値だけじゃない。沈んだ体温、拭われた涙、しがみついた袖──そういう記憶は、データじゃなくて、澄んでいくんだよ。波紋みたいに広がって、服に染みていく。だから、わたしは縫い留める。それが、ぼくのやっていることだ。その赤い糸はその目印のようなものさ。わかるかな、アランくん」
そのとき、ふいに自分の名前を呼ばれたことに驚いた。アラン。社会にファッションの正解を提示するインフルエンサー、宇宙資本主義の象徴、などなど。数えきれないほどの価値が含まれている。だけどその響きが、この場所ではどこか異質に思えた。まるで、自分の名前までもが、ここでは余所者のようだった。
けれども、むしろその異物感こそが、今のぼくの位置を指し示しているように思えた。
※※※
その夜は、いつも以上に眠れなかった。
工房の寝床は、昼間に蓄えた熱をいつまでも抱え込んでいて、布と布のあいだから抜けるはずの空気も、なぜか冷えきらない。何度も身体を捩っても、じんわりと背中が蒸されるような感覚が抜けず、まるで地熱の上で寝ているようだった。横になったまま目を閉じていても、あのシャツが持つ記憶の感触が、ぼくの掌の奥にずっと残っていた。布に埋もれて眠る暮らしにも慣れたつもりだったが、今夜ばかりは違った。あの一着だけでは足りなかったのだと思う。シャツを見つけたことで終わったのではなく、その手触りこそが、逆にぼくのなかに空白を照らしてしまった。もっと知りたい。あの滑らかな生地の奥にあるものを。そして、それがどこまで広がっているのかを。
そっと起き上がった。店主の寝息は聞こえなかった。眠っているのか、それとも最初から眠らない人なのか、いまだによくわからない。
布の隙間を抜けて外に出ると、空にはいくつか星が浮かんでいた。濁っていて、どこか霞んでいる。晴れているのかどうかすら判別がつかない。
〈繊維の地表〉は、夜でも微かに揺れていた。風が波を走らせて、地面のようで地面でない布の起伏が、静かに濃い影を広げていた。空気はまだ熱を含んでいて、踏み込むたび、すえた匂いがわずかに立ち上る。行かなければいけない。触れてしまった以上、引き返せなくなっていた。目を閉じても、あの感触が指先に残っている。なら、もう一度確かめるしかない。たとえ眠れない夜だとしても──いや、だからこそ、行かなければならなかった。
ぼくは〈Vestigia〉を抜け出し、繊維の丘を下りはじめた。あてもなく。ただ歩きたかった。遠くで雷のような低い音が鳴った。崩れる布の音か、どこかで爆ぜた音なのかは、わからない。
スマートレンズは反応しなかった。というより、ぼくがもう起動しようとしなくなっていた。必要性を感じなかった。道に迷っても、それは問題ではないと思えた。
濃紺のジャケットが、地面から片袖だけを覗かせていた。誰かが途中で脱ぎ捨てたような位置だった。裾だけが、しがみつくように布の地面に沈みかけている。
しゃがんで、そっと持ち上げた。驚くほど軽かった。そして──なぜか、その瞬間、身体の内側で何かが反応した。それはあのシャツを触った時と同じ感触だった。
これは、ニーモスかもしれない。
根拠はなかった。一度だけ経験した感覚だけが頼りだった。
布に指を当てると、温度でも質感でもない、別の何かが触れてきた。記憶の熱とでも言えばいいのか。皮膚の下に、ごくかすかに、波のような感覚が届いてくる。
ぼくはその感触を頼りに、布の山のいくつかを掘り返し始めた。黒ずんだコート、黄ばんだシャツ、色が抜けきったブラウス──どれもデータとして記録されるような情報は見当たらない。けれど、手を当てるたびに、ぼくのなかの何かが揺れた。
これはフェイシオンには解析できない。店主がいう、連続的なもの。そこに適合率なんてものはきっと測れないだろう。
その事実は、ほんの少しだけ怖かった。けれど、それ以上に──どこか心地よかった。自分の感覚で、服を選んでいること。正しいかどうかじゃなくて、「気になる」かどうかで選んでいること。
それが、ぼくの中でいつの間にか当たり前になっていた。
振り返ると、どの道から来たのか、一瞬見失っていた。〈Vestigia〉がどの方角にあるかすらもいまいちわからなくなった。それでも、今のぼくにとって些細なことだった。帰ることにはどうでもよかった。手元には、すでにいくつかのニーモスがある。それぞれ、ぼくが迷って選び取った服だ。
今はこの手の中にある服たちのほうが、よほど信じられた。
その重さを確かめながら、ぼくはまた歩き出した。
※※※
異常な匂いに気づいたのは、工房の輪郭が見えてきたときだった。焼け焦げた繊維の甘ったるい匂い──それは日中に漂っていた残り香とは違っていた。今のこれはもっと新しい。もっと生々しい。
風が吹き抜けるたび、遠くで光がちらついた。布の地層の中から噴き出すような橙色の明滅──それは、火だった。そして、その発生源が〈Vestigia〉の建物だと気づいた時ぼくの血の気が引いた。
はじめは気のせいだと思った。けれど、布を踏みしめる足元に、熱がじわじわと滲んできているのがわかる。地熱とは別の質だ。乾いた熱気。息を吸い込むと喉がひりついた。
ぼくは駆け出した。でも〈Vestigia〉の布の回廊が見えたときには、もう遅かった。蒸されたような熱気が工房の回廊にまとわりついていた。服の列が吊るされたまま熱風に煽られ、いつもよりも速く、強く揺れている。空気の層がうねり、服がまるで嘶いているような音を立てていた。
風向きが変わり、布地の端から黒煙が立ちのぼっているのが克明に見えた。どこかの地層で自然発火が起きたのだろう。なんて理不尽な現象なんだ。誰にも知られず、誰にも止められないまま、熱は時間をかけて布に浸透し、今ようやく表面に出てきたのだ。
「店主っ!」
そう叫んだ時、彼は入口に立って空を見ていた。いつもと変わらない顔つきだったが、目の奥だけが、異様なまでに静かだった。ぼくの声に気づいたと思うと、こちらに振り向いて朗らかな笑みをこちらに向けた。
「アランくん。出かけていたんだね。よかった。君はとても幸運な人でもあるんだね」
「何を言ってるんですか。火事なんですよ──早く逃げましょう」
そう言いかけた瞬間、建物の奥──吊るされた服のあいだから、ぱちっと、小さな破裂音がした。どこかの金具がはじけ、布が一枚、炎を孕んだまま宙を舞った。風がそれを押し広げる。次の一瞬、火は連鎖のように回廊を伝い、鈍く垂れ込むような熱が一斉に顔を出した。
「早く、逃げないと……。このままだと──」
「──そう、間に合わなかった服も、ある」
彼の口から出たその言葉によってぼくの中の何かが弾け飛んだ。
ぼくはとっさに工房へ駆け込んだ。荒れ狂う火炎の渦中へ。崩れかけた布の天井、軋む金属の骨組み、煙の中で迷う視界。だがぼくの視線は、自然とある一点に向かっていた。
あのオリーブ色のコート。赤い糸の刺繍がポケットの内側に隠されていた。それは、ぼくがずっと、気にし続けていた服。コートは、吊られたままふらふら揺れていた。火の手は、すぐそこまで来ていた。熱が怪物の吐息のように布の奥からせり上がってくる。次の瞬間には、この服も──燃えて、終わる。
ぼくは、衝動に任せて手を伸ばした。指先が布に触れた瞬間、かすかに服が応答するような感触があった。だが、それは拒むものではなかった。むしろ──迎えるような、やさしさだった。
すぐにコートを抱えて回廊を抜け出そうとする。熱や煙が背後を押し寄せてくる。地獄のように熱された空気に呼吸が浅くなる。火の気配がものすごい勢いで近づくのがわかった。けれど、そのときぼくは怖くなかった。逃げることより、手放すことのほうが──もっと怖かったから。
出口の布をかき分けた先には、夜と静寂が、広がっていた。
遠く離れた丘の上で、ぼくはようやく立ち止まった。汗と煤にまみれた手で、もう一度コートを確かめる。
ぼくは、静かに、袖を通した。
身体に触れる布の質量。内側から包まれるような感覚。ぼくの火照った体温を吸ってくれるようでもあり、逆に熱を優しく抱え込むようでもあった。今まで感じたことのない重さだ。でも、それは不快な重さではなかった。服を纏うという実感が、たしかにそこにあった。
「これが、『着る』ってことなのか」
自分の声が、風の中に消えていった。
気づけば仕立て屋がそばに立っていた。手には焦げた布の切れ端を抱えている。
「間に合ったようだね。その服だけは」
「あのとき、言ってましたね。まだ譲れないって」
彼はゆっくりと頷いた。
「君が選ぶ前だったからね。でも、もう違う」
「これは、ぼくの服ですか?」
少しの間、答えは返ってこなかった。やがて彼は、焦げ跡のついた布をそっと風に放った。それはひらひらと舞い、やがて夜の地表へと溶けていった。
「君のものでもあり、君だけのものでもない。それが、空白の服さ」
「空白?」
「誰にも着られることなくこの星に棄てられる服も多い。ようは新古品というやつだ。そんな服に施されているニーモスは当然ながら記憶を持たない。ぼくは服を分解してその一部をそのコートに縫い直したんだ。私はそういう服を『空白の服』と呼んでいるんだ」
ぼくはコートの襟に手を添えた。そこには何の印もない。タグさえ縫い付けられていない。手の込んだ、市場価値のない品。それでも、この服は──今、ぼくが着ている。
たしかに、選んだ。
※※※
ステーションの気圧ゲートが閉じる音が、やけに静かに感じられた。ぼくの背中には、いまだあの夜の熱が残っている気がした。コートは脱がなかった。焦げた匂いが染みついていて、ステーションの空調の清潔な循環風の中では、いっそう異質に感じられた。
「着用者、スキャンを開始します。静止してください」
音声ガイドが淡々と告げる。以前は聞き慣れていた機械音だった。〈フェイシオン9.6〉の評価モジュールが内蔵されたゲート。ぼくがこの数年、毎日通ってきた場所だった。頭上のスキャナが、ぼくをなぞる。全身の計測、体温、血圧、筋肉の微細な動きを読み取る。いつもなら、それに基づいて『最適化ファッション提案』や『評価シェア』が自動で実行される──はずだった。
だけど、今回は違った。
「エラー。着用アイテム、素材不明。構造不明。製造元、記録なし──適合率の算出が不可能です」
表示されたホログラムが一瞬、ちらついた。再照合がかかる。何度も、何度も。しかしそのたびに、判定不能の表示だけが繰り返される。無音のまま失敗する検査。原因はこのコートだろうが、当たり前だ。〈フェイシオン9.6〉のデータベースにないのだから。
「アラン=ヴィスさん。着用物は登録規約に基づき、提出対象となります」
別の案内音声がそう伝えた。女性の係員が、ぼくの前に立ちはだかる。彼女の目線はぼくでなく、コートに向いていた。
「その服、登録されていませんね。提出をお願いします」
その要請は規約上のものでしかない。強制力もない。そうぼくは知っていた。
ぼくは答えず、ただ首を横に振った。そして、視線を逸らさずに、そのままゲートを抜けた。
背後で係員の声が何かを言っていたかもしれない。なんなら荒げていたかもしれない。でも、もう耳に入らなかった。
ぼくの中では、なにかがもう、決まっていた。
投稿に添える文章を、ぼくは長く考えた。
ほんとうは、何も言わなくていいのかもしれない。でも、ぼくのなかに涵養された手ざわりは──誰かに届けたい温度だった。
だから、たった一文だけ打ち込んだ。
『これは誰の服でもない。わたしが編む物語だ』
そして、コートを着た姿を正面から撮った画像を添える。レンズは火事の熱にやられて調子が悪いけど、まだ完全には壊れていなかった。画質は粗い。でも、ちょうどいいと思った。補正もしなかった。タグも、適合率も、ブランドロゴもない。ただの画像。それがすべてだった。
投稿ボタンを押すと、すぐに反応が返ってきた。かつてぼくの動向ひとつで市場が動いたように。今回もそうだった──ただ、まるで逆の方向へ。
『AI非推奨品?』
『倫理違反では?』
『炎上マーケ? 本気ならがっかり』
『これは…失望した』
『裏切ったな』
『似合ってない』
通知は止まらなかった。肯定的なコメントも、確かにあった。でも、それ以上に、怒りと嘲笑の声が膨れ上がっていった。十億人を超えたフォロワー数は、数字ごと音もなく崩れていった。支援契約、次期プロジェクト、広告枠──すべての指標が、赤い警告のグリッドに塗り替えられていく。画面はまるで、炎の中で焼け落ちる街のようだった。『スポンサー契約、精査中』。『違約条項確認のため連絡を』。『インフルエンサー資格の一時停止を要請』。悪評はすぐ広まるようで、投稿してから間もなく連絡窓口に、AI開発元からの通知が届いていた。影響力行使における判断責任。データベース外情報の拡散抑制。服飾信頼スコアへの影響。などと──どれも、見慣れた言葉のはずだった。だが今は、どこか遠い世界のルールのように見えた。
ぼくはしばらく、その画面を眺めていた。そして思わず乾いた笑いが出てきた。
もう一度、確認メッセージが出た。何も答えなければ、インフルエンサーとしてのアラン=ヴィスは、静かに消えるだけだった。けれど、それでいいと思った。選択肢はまだある。でも、ぼくは指を止めなかった。
退会する。
はい。
タップした指先が、わずかに震えた。けれど、画面が暗転した瞬間、ぼくは何も失っていなかったことに気が付く。むしろ、なにかを選びなおしただけに過ぎない。
あの夜、炎の中で選んだ服は、まだぼくの身体を包んでいる。
※※※
再びこの星に降りたとき、コートは少しだけ色褪せていた。陽に焼けたせいか、それとも──ぼくの身体の熱が、何かを奪っていったのかもしれない。けれど、内ポケットの赤い糸の刺繍は、まだそこに残っていた。指を差し込んで触れると、それが確かにあるとわかる。
ぼくはまた、あの丘を越えた。風は以前よりも冷たく、繊維の地表はしんと静まり返っていた。あの火災の焦げ跡はまだところどころに残っている。その上に、新しい布地の層が、灰を覆うように薄く重なっていた。
〈Vestigia〉は再建されていた。
建物の骨組みは少し変わっていたが、柱の間に布が張られ、回廊のような構造は以前と同じだった。無くなった服のぶんだけ、空気が澄んでいた。風が、静かに新しい場所を見つけたかのように、回廊を通り抜けていく。あの日の熱はまだ残っているけれど、それだけがすべてじゃない──そう思えるだけの、空隙があった。
店主の姿は、見えなかった。おそらく、どこかで布でも拾いに行っているのだろう。
ふと、視界の隅に、別の人影が映った。
まだ幼さを残した、細身の人物だった。年齢でいえば、ぼくよりずっと若い。髪は短く、ジャケットの裾はほつれていた。足元は地球用に調整されていない靴で、何度も足を取られているらしかった。けれど、その姿勢はどこか懸命だった。
昔のぼくも、こんなふうだったろうか。
気づけば、ぼくは声をかけていた。
その人影は、こちらを振り返った。驚いたような表情だったが、すぐに緩んで、うっすらと笑みを浮かべた。
「いいえ。写真じゃなくて……ターミナルの構内で、誰かが落としていった布の切れ端を拾ったんです。気づいたら、それを手にここまで来てました」
その言葉を聞いたとき、ぼくは頷くしかなかった。きっと、そういうものなんだ。誰かが落としたものに、ふと手が伸びてしまった。ただ、それだけのこと。それが何かを始めるには十分だったりする。選んだわけでも、決めたわけでもない。けれど、気づけば歩き出していた。そういう偶然が、人を動かすことがある。
ぼくはそっと、コートのポケットから赤い糸の切れ端を取り出した。焦げ跡のある、でもまだかろうじて赤色を保ったそれ。かつて仕立て屋が使っていた糸の端切れだった。
その若者に、それを手渡した。
「これは?」
「──これは、まだ何も縫われていない糸なんだ。だから君に託す。誰の服にもなるし、誰の物語にもなれるから」
「誰の、ですか?」
少しだけ、考えてから口を閉じた。答えはなかった。そもそも、答えをもらうために、ここに来たんじゃない。ただ、どこかにある問いに、自分の手で触れてみたかった。そういう意味げは、若者の目は、まだ問いの途中にあるように見える。その視線が、どこか懐かしかった。
「……あのとき、ぼくもそれを聞きたかったんだ。答えがなくても、問いが残るなら、それでよかった」
若者は黙って頷いた。その仕草だけが、何よりもしっかりと、答えになっていた。
風が吹いた。布の丘がかすかに波打つ。ぼくのコートの裾も空の方へふわりと舞い上がった。
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