エウロパのシレーヌ

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梗 概

エウロパのシレーヌ

火星における定住を果たした人類は2年3ヵ月に1度の木星との会合周期に合わせ調査船をエウロパへ送っているが、未だ氷の下の海まで到達し、無事帰還した船はない。

主人公はうだつがあがらない3人組バンドのギター担当。火星で生まれ育ち、他メンバー(ボーカル、ドラム)とともに第8次エウロパ調査隊へ応募し、ほぼ自動操縦の調査船に3人+主人公の飼い猫1匹で乗り込む。

乗組員へは、命の保証がない事やプライベートの確保が限定的といった制約がある一方、会合周期+前後3ヵ月となる2年9ヵ月の調査期間だけでなく、火星への帰還後3年間についても標準以上の生活が担保される。調査船内は長期滞在のための設備や十分な空間が整えられ、水耕栽培で収穫できる米、野菜、細胞培養と3Dプリントによって作られる肉、アクアリウムと閉鎖循環方式を併用した養殖魚を食べられる。

3人と1匹が船内でワイワイ過ごすうちに調査船はエウロパへ到着する。第7次までの調査により、氷殻表面から内部海を目指すには、大小様々な規模の氷殻内の湖の中で一定以上に大きな湖を見つけ出し、その湖を通じて内部海を目指すことが必要とされていた。調査範囲の中で、最も大きな湖の中を深く潜っていく調査船。お調子者のボーカル担当が船外活動の途中で深い亀裂に吸い込まれてしまう。追いかける調査船は遂にエウロパ内部の海へ達するが、ボーカル担当の命綱は切れており、追跡は不可能だ。

主人公達は湖を通じて氷殻の外側へ繋げている命綱が届く範囲でエウロパ内部の海を探索する。ほどなく、ドラム担当は原因不明の意識混濁を起こし、調査船AIによってコールドスリープ処置を施される。恐怖を感じた主人公は氷殻表面への帰還をAIに指示するが、AIは会合周期に合わせた帰還が可能な範囲で海中調査が優先されると言い、当面の海中での滞在を余儀なくされる。途方に暮れ、2日に一度のプライベートタイムに所在なくギターを爪弾く主人公。ボーカル担当への鎮魂のため、海中スピーカーを大音量にしてギターをかき鳴らしていると不意に、普段穏やかな猫が窓に向かって毛を逆立てる。目を凝らすと、人魚のような生き物が船内を覗いていた。ガラス越しに、少しずつ人魚と心を通わせる主人公。

火星への帰還が迫る中、人魚は身振り手振りで主人公を船外へ誘い出す。主人公は船外活動服に身を包み、所持した2本のうちの1本のギターを持ち出して海中で、人魚に内緒で練習していたAngelinaを披露する。人魚は、音楽に合わせ貝殻を打ち鳴らす。帰り際、主人公は人魚にギターを渡す。

次のプライベートタイムの前に調査船は火星への帰還のため、氷殻表面を目指す。
エウロパから火星への帰還中、第9次調査隊の船とすれ違いながら第10次調査隊への応募を決意する主人公。段々と近付いてくる火星や遠ざかる木星には目もくれず、レパートリーを増やすべく、ギターを一心不乱にかき鳴らす。

文字数:1200

内容に関するアピール

月、火星に続く辺境として、木星の衛星エウロパを選びました。火星からエウロパへの航行の様子、エウロパに着いてから内部の海を目指す様子、海の中に滞在させられる様子について、もともと住んでいた者たちと結ぶかもしれない関係も交えて書こうと思います。主人公は音楽の力でシレーヌ(セイレーン)に取り殺されずに済んだ、という設定です。海中の様子はドビュッシーの夜想曲~シレーヌをイメージしましたが、ラストはアコギの有名曲を選びました。イルカやクジラが水中で歌うこともヒントにしていますが、人魚が主人公とのセッションで打楽器を選択したのには理由があります。

長期滞在可能な宇宙船で綺麗な景色を見ながら猫と一緒に美味しい物を食べて音楽にうつつを抜かせるなら作者自身は喜んで暮らしたい、と思いながらこちらの梗概を準備しました。最後の課題でやっと、ペンネームの由来である生姜猫に登場(搭乗)頂けそうで、ほっとしています。

文字数:398

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エウロパのシレーヌ

 2年3ヵ月に1度の木星との会合周期に合わせ火星を飛び立った第8調査船は、概ね衛星カリストまでの航路の約半分を過ぎたところだった。人間が3人に猫が1匹の搭乗員クルー達は、あんまり変り栄かわりばえもしない宇宙の景色に飽きている。

 

「なぁヴェロニカ。このくそ退屈な時間fucking boring timeを過ごすにはどうしたらいいんだ?まだ木星まではもう少し時間がかかんだろ?」

ボブがあくびをかみ殺すようにAIオペレーターに問いかける。俺はいつものことだろと文庫本に目を落とし、リチャードは左腕で無重力用オムツを穿いた生姜猫ginger catのマイケルを柔らかく抱えながら器用にかぎ針を動かし続けている。

「そうですね。久しぶりに皆さんで明るい曲でも演奏してはいかがですか。私あの曲好きですよ」

「おぉ、あれだな。……OK!よっしゃアレックス、リック、やっとくか」

リチャードリックと俺はやれやれと目を交わし、俺は文庫本を船内服のポケットに入れた。リックは編みかけの何かと毛糸玉を丁寧に小さなジッパーにしまって同じく船内服のポケットに入れ、めいめい楽器を取りに行く。

 俺がエレキベースをチューニングしている間、リックはカホンを内腿で器用に挟みながら脚先で器用に体を固定し、肩の上で襟巻になったマイケルの腹が自分の背に軽く当たるように優しく、手近な布をたすき掛けにしてゆるく結ぶ。ボブは水を一口パウチから飲むと、俺たち二人に目配せする。

「んじゃ、よろしく頼むよ」

 リックがとっとっとっとっ、とアップテンポの4拍子をカウントし、俺が1拍目から和音を響かせ、ボブが歌い始める。

 

I’m a hot air balloon that could go to space俺は宇宙までだって行ける熱気球さ

With the air, like I don’t care, baby, by the way, huh空気あんのかって?気になんないね、そんなことよりさ

 曲をリクエストした張本人であるヴェロニカが合成音声のハモりやclapで盛り上げ、ボブを気分良く歌わせる。前半パートが終わり、俺はストロークを休みながら律儀にカホンを叩き続けるリックを盗み見る。ボブは歌いながらふわふわと落ち着きなく船内を漂いつつ、横目で俺を見て何やら所望するような身振りを見せるが無視だ。ほら、もうギターパートが再開するぞ。

 

 ひとしきり歌ったらボブは満足したようで、

「ヴェロニカ、そろそろ腹減った!なんか出してくれ」

と、声を上げた。

「なんか、ですか……。食べやすいランチなら、Japanese rice ballおにぎりとかいかがでしょう」

ヴェロニカがそう提案すると、

「OK、中の具はサーモンにしてくれよ。パウチのmiso soupもよろしく!」

と、威勢よく応える。

「承知しました」

ヴェロニカがそう言うと、ガチャガチャ、ガチャン、ブーン……と料理提供器が唸る音が低く聞こえてきた。

 

 火星を出立して概ね9ヵ月が経った頃だろうか。ヴェロニカが、木星に段々と近付いてきた事を知らせてきた。言われるままに示された方向を見ると暗闇にぽとりと、赤茶色の不気味な球体が浮かんでいる。俺は子供の頃に絵の具で絵を描いていた時の、段々と濁っていった区切られた筆洗を思い出した。赤茶色、黄土色、灰色、こげ茶色が織りなすマーブル模様はグロテスクで、近付く者への穏やかでない威圧を感じる。思わず顔をしかめた俺の心をヴェロニカが勝手に推測したのか、得意気に木星の説明を始めた。

「こちらの木星ですが、半径は地球の約11倍、質量は地球の約318倍の巨大なガス惑星です。縞模様は、東西方向に流れるジェット気流が南北に連なる事によって作り出されています。赤道を流れるジェット気流の速さは、時速480キロメートルにも達すると言われています」

「へぇー、かっけぇな。んで、いつエウロパに俺たちは着くんだよ?」

ボブが口を挟んでくる。

「これより本船は掘削機能を有する探査子機を切り離し、カリストにおける係留ドックにしばらく滞在します。本船はオートロボティクスによるドックの保守管理を行いながら探査子機の帰還を待ち、探査子機は先ず、エウロパへのフライバイを繰り返しながら内部海への到達に最適な氷殻内湖を特定します。その後、探査子機は氷殻表面から湖内を経て内部海へ到達する最適ルートを特定し、到達のためのルートを確保した上で放射線帯を抜け、本船へ帰還します。本船は帰還した探査子機のデータから内部海における放射線量を確認し、内部海における滞在可能期間を算出した上で、エウロパ内部海に向けて出立することが可能となります」

「あー、よくわかんないけど、要するにしばらく待っとけってこと?カリストで船を降りたりできる訳?」

そうですねWell…カリストでは船外活動よりも係留ドックのメンテナンスが優先されますので、当面船外へ出ることはできません。ですので…えぇ、しばらく待っといて下さい。

 また、皆さまに推奨すべき演奏曲を私から提案しましょうか?」

「いや、いいよ。久しぶりに窓の外の景色が変わっておもしれぇから、まだ大丈夫」

 俺はボブの気紛れに付き合うのかと一瞬身構えたが、しばらくは近付きつつある多数の衝突クレーターに覆われたカリストを眺めることにしたようで、ほっと息をついた。

 

 カリストで探査子機を待つ間、俺はここまで来ても、探査子機が何らかのトラブルで帰還困難となり、俺達がエウロパへ向かうことなくしれっと火星に帰ることを期待していた。しかし、そんな淡い期待を打ち砕くように思っていたより早く、ヴェロニカが声を弾ませて言う。

「おめでとうございます。帰還した探査子機を解析したところ、当機は無事に氷殻内湖を経由して内部海へ到達し、放射線量が居住適正habitable値以下であることと、複数の生命反応についても観測することができました」

「……あのさ、探査子機で生体サンプルだけ取ってそのまま火星に帰ればいいんじゃない?いやだよ俺、わざわざおっかないところまで行くなんてさ」

俺がつい口にすると、

「お前はさぁ、今更何言っちゃってんの?」 

ボブがすかさず非難してきた。マイケルを膝の上に載せているリックは一瞬目を上げ、肩をすくめてから又編み物に戻っていき、耳だけで成り行きを見守ることにしたようだ。

「アレックスの不安は生物として無理のない感情であると私は理解しています。えぇ、未開の極限環境へ進むのは、不安を感じますよね。本船そのものがエウロパの内部海へ進入する必要性について、改めて説明することも可能ですが、いかがでしょうか?」

ヴェロニカの口調は淡々としていながらも有無を言わさない。

「あれだろ、確か、搭乗誓約書とやらにもなんか書いてあったじゃねぇか。アレックス。やばそうな船外活動とかは俺が先陣切るからさ。まぁ、行ってみようぜ」 

にやつきながら肩を抱くボブの腕を俺は振り払う。

「わかったよ。ヴェロニカ、俺たちをエウロパへ連れてってくれ」

 

 カリストを発った調査船は放射線帯に突入する前に全ての窓が閉ざされて船外の様子を窓から見ることはできなくなったが、ヴェロニカがカメラ経由で船外の様子をディスプレイに映して搭乗員たちに見せていた。

 木星はその姿をどんどん大きくしていき、ぼんやり淡く光っているエウロパの氷殻の合間から眺めるそれは、殆ど大気を持たない真っ黒な空にどっかりとその巨体を鷹揚に占め、大赤斑が睨みつけるようにエウロパの表面を見下ろしていたが、放射線によるダメージを最小にするため、調査船は最短時間でエウロパ氷殻内の湖の奥深くに向かって突き進んでいく。

 

 氷殻表面からそれなりの深さに至った頃だろうか。ヴェロニカが、調査船の放射線防護カバーを少しずつ解除し、窓から外の様子を少しずつ見えるようにしながらアナウンスする。

「もうじき内部海へ侵入します。内部海は氷殻湖内と比較し、海流のうねりの予測が困難です。また地球の海と異なり、巨大な構造物の浮遊も確認されています。ボブ。船外活動をするなら今がチャンスだと思いますが?」

「お、やっとじゃん。待ちくたびれたよ」

ボブはそう応じるといそいそと船外活動服に身を包み、ヴェロニカからの各種留意事項instructionに耳を傾け、あっという間にエアロックとハッチを兼ねた出入口へ向かう。

 リックと俺が船内リビングの中で最も船外を見渡せる大きな窓の前に立つと、しばらくして船外活動服に命綱テザーをつけたボブと思しき人影が現れた。船外はぼんやりと明るく、薄い緑色の空間が広がっている。

「Yeah!これで火星に戻ったら俺はヒーローだな。エウロパの氷殻内の大きな湖を探索している俺。どうだ、いい絵は撮れてるか?」

浮かれた調子で調査船方向に体を向けながらボブがケーブルを通じて声を届けてくる。

「ビデオは記録できてるみたいだがお前の顔は全く見えないな。ヘルメットの内側から透過率を操作できるんだろ?」

と俺が応じると、

「そりゃ深刻な問題だな。ちょっと待ってくれ」

そう言って少し経つと、ヘルメットの中のボブのにやけた顔が見えるようになった。

「どうだ」

「お前のにやけ顔なんかいつまでも見たくないね。ほら、ヘルメットについたカメラもオンになってんだから、とっとと行けよ」

呆れた様子で促すリックに、

「そんな急かすなよ。がっつきすぎんのはモテないぜ」

と更ににやけた顔で応じたボブはくるりと体を返して調査船へ背を向ける。リックは憤りを隠さずに小さく中指を立てた。ボブは段々と仄暗くなる湖の底を目指し更に潜っていく。フィンを取り付けた船外活動服はボブの背中についた推進ジェットの力を借りて少しずつ調査船を離れ、後姿がどんどん小さくなる。

「あれ?…ありゃなんだ…?……おいちょっと、待てよ!おいったら!」

少し経ち、途切れがちな通信を介しても判るような、ボブの明るく弾んだ声が聞こえてきた。

「ボブ?何があったんだ?」

「いや、よく見えなかったんだけどさ、なんか、人魚みたいな?でかい魚って言うよりはイカしたねぇちゃんがさっき見えた気がしてさ……」

リックと俺は眉を顰めて顔を見合わせる。ボブは推進ジェットをガンガン加速しているようで、命綱の長さを示す数値が加速度的に大きくなっていく。10m、15m、そもそもこれは何メートルくらい伸びるものなんだ?通信の途切れはひどくなるばかりだ。ライトの光量を最大にしボブの後姿を照らそうとするが、命綱だけが頼りなげに闇の向こうへ吸い込まれている。

「おい、こんなとこまで来ていい加減にしろよ。どこまで欲求不満だよ。お前の声、マジで聞こえにくいんだ。一旦命綱の延長を止めて待っとけ。船をそっちに寄せる」

リックは刺のある声で苛つきを隠さず大きな声で言うが、手元のディスプレイに表示されるロープ長を示す数字がどんどん大きくなっていく。25m、35m、50m……

「はぁ?待てねぇよ……見失っちまう……ザザッ………綱は俺の腰にばっちりついてるからさ、心配すんじゃねぇよ。お前らの声なん…ザザーッ…あっちのケツを追いたいんだ、俺は」

「おい」

「ザザーッ……ザザーッ……ザッ………ザッ…………プツッ」

声は少しずつノイズに変わっていき、ついにはそのノイズすら全く聞こえなった。

 

 俺とリックは顔を見合わせ、

「とりあえず、ボブの命綱を少しずつ巻き戻しながら近くまで船を進めるぞ」

そう言いながら命綱を巻き戻すべく端末を操作しようとすると、

「無理な巻き戻しは命綱の断裂を引き起こす可能性があります。まだ、ボブは船外活動服の推進力をセーブすることなく湖の底へ向かっているようです。命綱を少しずつ縮めながら、調査船を進めていきますがよろしいですか?」

と、ヴェロニカが確認を求めてきた。

「俺たちは氷殻表面に打ち付けられたどでかい杭に繋がった|主命綱<マザーテザー>が届く範囲で潜ってんだと聞かされてるが、そいつはまだ大丈夫なのか。俺たちはここから更に深く潜って問題ないのか」

「はい。もともと、湖を介して内部海を目指す事を目的として設計されたこの調査船は、今のところ順調にそのミッションを遂行しています。氷殻表面における主命綱の固定についても、有線ケーブル経由で周囲の状況を確認する限りにおいて問題ありません。更に深いエリアへ調査船を進めていく事は現在十分に可能であり、全く問題ありません」

俺はリックと再び目をあわせた。リックが促すように俺に向かって頷く。

「わかった。そうしてくれ。命綱の断裂を防ぎつつ、ボブを船内に回収できるように、更に深く潜って行ってくれるか」

「わかりました、アレックス」

 ヴェロニカによって調査船はどんどん深く潜っていく。しばらく船の外が暗くなっていったと思ったら、ある時がくんと、船が大きく揺れた。

「流速の急激な変化を確認。安全装置を作動」

ヴェロニカの人工音声とともに、ガチャン、ガチャンと船の中にも金属的な音が響く。リックは右手で近くの手すりにつかまり、左手でマイケルを抱えている。しばらくするとまた周りがほんのりと明るくなり、船の上方には氷の底が見えた。船はしばらくグラグラと揺れていたが、よくよく周りを見ると、大小さまざまな魚やエイに似た何かが泳いでいる。

「本船はしばらく、氷殻にできるだけ近い深さを維持しながら調査活動を継続します」

「おい、ボブはどうした」

リックがそう問うと、

「はい。命綱の断裂を防ぎながら調査船をここまで進行させてきましたが、ある時点からその張力の急激な減少がありましたので巻き戻したのですが……残念ながら、ボブの姿はありませんでした」

淡々としたヴェロニカのアナウンスの後、船内は静寂で満たされた。

「命綱だけが回収された、つまり、ボブは回収されなかったんだな?」

「はい。その通りです。確認されますか?」

 

 俺たちはヴェロニカの案内に従い、船外活動服に身を包んでから出入口へ続く部屋へ入った。そこには無造作に、途中で切り落とされたような命綱が置いてあった。切り口は何か鋭利なもので切り離されたように見え、強い力でちぎれたという感じではない。 

「…………こうしてボブは、深い深い海の底へ旅立って行った、なんてな」

リックが鼻先で笑ったようにも聞こえ、思わず睨みつける。

「お前、そんな言い方……!」

「アレックス、知らないだろ。俺からメアリーかっさらっていったの、あいつだぜ」

「は?」

「何度も言わすんじゃねぇ」

「……まじか。女の恨みってのはこえぇな」

少し間があいて、

「もしかして、俺がどうにかしてロープ切ったとか思ってんのか?流石にそんなこたしねぇよ。あのくそやろうとは思ったけど、そこまではできねぇな。ってかあの時、俺とお前、すぐ近くにいたろ。どうやって切るんだよ。これ、恐ろしく滑らかな切り口じゃないか。俺が切りようもないだろ」

「いや……あぁ、勿論、そんなことする奴じゃないと思ってる。うん、不可能だよな」

俺はリックの肩をポンと叩き、ため息をつきながら背を向け、俺たちはめいめいの個室へ向かった。

 

 翌朝、いつもの時間になってもリックは部屋から出てこなかった。俺はマイケルの自動給餌器と水飲み器を確認し、水飲み器の周りを拭いてからトイレを掃除した。火星の半分以下の重力なら、そりゃ今までよりも飛び散るよなぁ。マイケルは俺の献身的な忠義には目もくれず、ほんのりと明るい窓の向こうを眺めながらかぎ尻尾を柔らかく左右に振っている。

 手を洗い、キッチンに立ってぼんやりと考える。ヴェロニカは気を使ってるのかどうなのかわからないが、俺が話しかけるまでだんまりを決め込んだままだ。そうしているうちリビングの扉が開き、リックが入ってきた。

「クソみたいな朝だな。食べる気はしねぇけど、なんも食べないっつぅのもなぁ」

そう言いながらぼりぼりと尻をかいている。

「火星にいた頃さ、ライブに客が来なくて俺ん家でヤケ酒飲んで、次の朝食べたやつ覚えてるか?」

「ん……?あぁ、なんかべしゃべしゃしたやつか。あれなんつったっけ。いいぜ、食おう」

リックがそう言いながらダイニングの長椅子にとすんと腰を下ろすと、マイケルがとっとっと近寄ってきていつもの定位置、リックの左脇に体を寄せ、背をつけてとぐろを巻いた。リックは左手で柔らかくその背をなでる。

 俺は箱形の料理提供器の端末を操作し、梅干し茶漬を2個、と選択する。出来上がりを待つ間にコップに麦茶を注ごうとするがそれは、火星にいた頃よりもゆっくり、ふわりとコップの中に漂いながら落ちていく。持ち運ぶのに気を遣うのでコップの半分くらいしかよそう気になれない。出来上がった茶漬をすすってリックがぼやく。

「おい、この茶漬、少しぬるいんじゃないか」

「火星とは重力が違いますので、安全のために温度は低めに設定しています」

リックのぼやきに俺が返す前に、ヴェロニカが淡々と説明する。俺も確かにぬるいかな、と思ったが、冷や汁ならちょうどよく食べられるんじゃないか。流石に朝飯が茶漬で昼飯が冷や汁ってわけにはいかないけど。俺も食欲はなかった筈だが、生ぬるい茶漬を啜るうちに次に食べたいものを考えるなんて、さすがに即物的すぎる気もするな。少し口の端があがった俺を見咎めるように、リックが言う。

「おい、なんだよ」

「いや、こんな時でも腹は減るし飯はうまいんだな。とりあえず、氷殻表面に繋がってるとかいう主命綱マザーテザーの長さは固定でいいよな」 

 昨日に比べると、だいぶ船内の揺れは少なくなっていた。俺は船の外側に時々現れる生き物たちを眺めながら、

「なんつーか、これ以上深いところへ潜るよりかは、このどでかい水族館に放り込まれたまま、放射線の影響から逃れつつ、深すぎないところで帰還までの時間を待つのがいい気がするんだよな」

「そうだな。いや、もう恨みがどうのとかは言わねぇけどさ、この海、深さが60km以上とかなんだろ?正直あいつについては、もう探しようもないよなぁ」

窓の向こうへ目をやったリックに倣い、俺もうっすらと仄暗い海中に目を向けた。

 

 ヴェロニカは残された2人と1匹を適当にあしらいつつ、得体の知れない生物達をせっせと捕獲しては船内の水槽に入れているようだった。しばらくたったある日の夜。

「アレックス、夜遅くにすみません。リックの生体信号に異常を検知したため、これからコールドスリープ処置を施します。恐らく、火星に帰還するまで処置は施されたままとなるでしょう。リックは処置の前にアレックスとの会話を希望しています。リックの部屋まで向かって頂けますか」

 個室でギターを弾いていた俺は穏やかでないアナウンスを受けて急ぎリックの部屋へ向かった。

「入るぞ」

 寝台に横たわるリックの顔色はだいぶ悪く、目が虚ろで朦朧としている。

「どうした?何があったんだよ」

リックは焦点の合わない目を俺にぼんやりと向け、

「アレックス、お前さ、セイレーンってわかるか?」

「は?」

「あれだ、ギター、ちゃんと弾けよ。絶対だぞ」

そこまで言うと一瞬白目をむきそうになってから目をつぶった。リックに触れようとした俺を遮るように硬質なカバーが両側からせり出して寝台ごとリックの全身を包み、ヴェロニカの人工音声が響く。

「これよりコールドスリープ処置を施します」

 

 1人と1匹になってしまった船内はがらんとして、これまでよりずっと広く感じた。これまでリックにべったりしていたマイケルは、窓の向こうのほの明るい海中を眺めている俺の太ももに登ってきた。

「お前も寂しいよな。リックの方が撫でるのうまかっただろ」

俺の顔を覗き込んでくるマイケルの小さな顔を両手で挟みこみ、親指で目の上から耳の前までの毛の薄い部分をすっ、すっと撫でていく。

 マイケルの首には、その瞳の色に似たやわらかな手触りの青緑の手編みの首輪がほんのりとラメを煌めかせている。暇に任せてリックがせっせと編んでいた首輪の青が、明るいオレンジの毛色によく映える。俺はしばらくマイケルを撫でていたが、心ここにあらずという様子をかぎ取ったのか、マイケルはひとしきり撫でられた後、すとんと俺のももの上から降り、外をよく見ることが出来るお気に入りの大窓の前でとぐろを巻いてしまった。俺はももの上の寂しさを埋めるべく、とりあえずギターを手にとって歌うことにした。

 

ーあなたの小さなmistake いつか想い出に変わる 

ー人生はあなたが 思うほど悪くない

 

 何がまずかったのか。そもそも、ボブに言われたまま、あまり深く考えずエウロパまで来てしまったのが間違いだったのか。ばあちゃんグランマ、俺が友達とけんかしたり、いやな事があってしょげてると大体この曲を弾いてたな。ばあちゃんは大体、あったかいお茶とぼそぼそしたクッキーをダイニングに置いてくれてたけど、口をつけようとしない俺を見て、この曲を弾いてくれたっけ。「いや、俺、別に失恋とかしてないし」って思ったけど。元気でやってんのかな。火星に帰れたら、ばあちゃんがいる地球に行きたいな。ってか、放射線帯を抜けて通信可能になったらまず、ばあちゃんに連絡だな。生き延びて戻ってきてるんだぞって……いや、そもそも帰れんのかな。リックがいきなり倒れた原因だってわからないのにな。ぐるぐる考えながらも何回か歌っていると少し気持ちが落ち着いたので、他の曲も弾いてみた。

 

ーほらね そっくりなサルが僕を指さしてる

ーきっと どこか隅の方で僕も生きてるんだ

ー愛を下さい Woh wow…

 

 リックとはそれなりの付き合いになるけど、ボブはどうして俺たちに声をかけたんだっけ。そしてどうして、エウロパ調査船にメンバー3人で応募しよう、なんてことを言い出したのか。俺もリックも、あまり深く考えないでついて来ちまった気がするな。

 そんなことを考えて歌い続けていたが、窓の外を見ていたマイケルが急に背を山なりにして毛を逆立て、低い声を出した。俺はストロークを止め、マイケルに近づこうとする。

「おいどうした。珍しいじゃないか、マイク」

声をかけながらマイケルの視線の先を見て、俺は息をのんだ。

 

 はじめは何か、きらりとした丸いものが窓の向こうに見えたような気がした。よく目を凝らすとそれは、豊かなまつげに縁取られたヘビクイワシのような両目を持つ人魚で、豊かな髪をゆらめかせて海に揺蕩い、ガラス越しにマイケルをじっと見つめている。マイケルは目をあわせながら毛を逆立て背を山なりにし、唸りながらととっ、ととっ、と左右に小刻みなステップを踏む。

 俺は左手でギターのネックを握りながら、リックの言葉を思い出した。

「お前さ、セイレーンってわかるか?」 

 おいおい、マイケルまでどうこうしようってのか。勘弁してくれ。俺は船外スピーカーがオンになっていたことを確認してギターを大きめにジャン、と鳴らす。人魚はその美しい両目をパチパチとしばたたかせ、マイケルから目線を外すとガラスの向こう側から船内をきょろきょろとのぞき込み、ついに俺の姿を見つけた。ヘビクイワシの両目が俺を捕捉し、覗き込むように見つめる。確かに、これは、息をのむくらいの美女かもしれない。それで、あれだろ。歌って船乗りを狂わせるんだろ。させるか。

 我に返った俺は無我夢中で、知っている限りの中でできるだけ激しい曲を全力で弾いた。人魚の姿はできるだけ見ないようにした。マイケルは窓から離れてどこかに隠れたようだった。

 流石に何曲も弾き続けて疲れ果てた頃、窓の外をそっと見ると人魚の姿はなかった。荒い息を整えて汗を拭う俺に近づいてきたマイケルを見て、俺はどっと気が抜けてしまった。

 

 それからしばらく、人魚はちょくちょく気紛れのように現れた。現れる度に船外スピーカーをオンにしてエレアコエレクトリックアコースティックギター を弾いてみるが、人魚はその音を嫌がるというよりは、何ならリズムに乗せて体を揺らしたり、くるくる、ひらひらと美しい衣類をゆらめかせたりして笑っている。しまいには右手に二枚貝のようなものを持ち、俺のギターに合わせてカチカチ、とリズムを合わせるようになっていた。俺のギターに合わせて水中で舞い続ける人魚は例えようもなく美しい。いつの間にかマイケルもガラス越しに手を合わせようとじゃれついたりして、そんなマイケルを人魚は微笑みながら見つめている。

 いつの間にか人魚の訪問を待ち望むようになっていた俺とマイケルに先回りするように、言い含むように、ヴェロニカが諭してきた。

「アレックス。無事に放射線帯を抜けたら火星に向け、これまでにない調査レポートを送ることが出来そうで、私も嬉しく思います。ご存じだと思いますが、知的生命体との過度の接触は未知のリスクが伴います。帰還まで、私はあなたとマイケル、リックの安全を最優先する行動をとります」

  

 火星への帰還が迫り、俺は意を決してヴェロニカに伝えた。

「ヴェロニカ、提案……ってか。お願いがあるんだ」

「はい、なんでしょう?」

「もうあと数日もしたら、俺たちは火星に向かって帰還するんだよな?」

「はい」

「船外活動については、その危険性から鑑みて、搭乗員の同意がある時のみに実施され、ヴェロニカにはできうる限り搭乗員の要望を満たすことが求められている。これは今でも有効?」

「はい。有効です」

「知的生命体との過度の接触に対する君の警告は理解しているつもりだけど……」

ヴェロニカは俺の二の句を待っているのか、何も言わない。

「多分、だけどさ、俺は人魚がいなかったらここまでギターを弾いてなかったと思うんだ。火星に帰ったら、もう、次にエウロパへ来るのには大分時間がかかるだろ。

 っていうか、もしも、だけど。今回の調査内容について火星や地球の人間達が広く知ったら、俺達が選ばれた時よりも調査船に乗りたいってやつが増えるんじゃないかな」

「調査期間中に搭乗員が見聞きした事柄のうち何が口外可能かについては、搭乗員の皆さまと火星航空基地本部との協議によって定められます。私が現時点で推測することは不適切であると考えます」

「あぁ、まぁ、わかったよ。俺と人魚はさ、言葉も通じないけど……握手くらいさせてくれたって、いいんじゃないか?」

 ヴェロニカは沈黙を守っていたが、しばらくして、諦めたような自動音声を返してきた。

「………わかりました。万全の準備でサポートします。最も頑丈な命綱で必要な一式を準備しますので、船外活動服を準備し、留意事項の再確認をお願いします」

「……ありがとう、助かるよ」

 

 船外活動服に着替えた俺は、命綱を付けてからエレアコのストラップを上からかけた。海中の様子はいまいちわからないので、ピックがどこかに流れていかないように複数枚を船外活動服のポケットへ入れておく。ヴェロニカが要領よく命綱に沿う形で添わせたケーブルにエレアコを接続する。

 準備を済ませ、液体が満ちていくハッチののぞき窓の向こうで、マイクが何回かふわりと飛び上がった。3度目くらいのジャンプで扉の近くに両前脚をかけ窓の向こうから心配そうな目でこちらを見ている。万一の場合はヴェロニカがなんとかするだろう。マイケルは賢いから、ヴェロニカと俺が話してる時だって俺が何をしゃべってるか分かったんだろう。そんな目で見るなよ。すぐに帰ってくるから。

 ヘルメットの口元近くから目線の上まで水面が上がっていくのはあっという間で、とっくに船外活動服の中で呼吸をしているのに、いざ、視界の全てが液体に包まれてしまうとどこか息苦しい気持ちになってつい、呼吸が浅くなる。意識的に長く息を吐こうとしても、息が上がりそうになっている。

 俺はできるだけ息を長く吐いた。吐ききり、苦しいくらいに肺の中をからからにしてから、4つ数えながら息を吸う。1、2、3、4、5、6、7。息を止めてから8カウントかけてゆっくり息を吐きだす。何度か繰り返すうち、呼吸が落ち着いてきた。

「OK。ヴェロニカ。開けてくれ」

 スライド式の扉が一度ガチン、と金属的な音を響かせてから、するすると、海に向かって開いていく。ヴェロニカのサポートで、出入口からリビングまでが見える範囲で、ライトで照らされた海はぼんやりと更に明るさを増している。船外活動服越しでは、海の中が温かいのか冷たいのかは分からない。

 命綱は確かに繋がっているしここまで来たらヴェロニカのサポートを信じるしかないが、念のため、リビングの大窓のすぐそばまで移動し、窓越しにマイケルに手を振った。マイケルは早く戻って来いとでも言いたげな目を向けている。

 俺はリビングから見える位置で調査船につかまり、できるだけ足で体を固定し、ギターを構えた。ポケットから注意深くピックを一枚取り出してチューニングを始める。ヴェロニカに依頼した通り、船外スピーカーはまだ控えめな音量だが、船内で聞いている音とは結構違うんだな。俺はヴェロニカがヘルメット内で鳴らしてくれるチューナーの音に合わせ、チューニングしていく。よし、こんなもんか。  

「いいよ、ヴェロニカ。いつもの音量にしてみてくれ」

そうリクエストした後、そっとストロークする。あぁ、これくらいの大きさだったのか。OK。そうだな…そもそも待ち合わせしたってわけでもないけど。俺はこれまでで人魚が一番楽しそうに踊ってくれた曲を弾き始めた。8分音符3つ3つ2つ、の独自のリズム。人魚は上手にカッ……カッ……カッ…カッ……カッ……カッ…って、二枚貝をカスタネットみたいに打ち鳴らしながら踊ってたな。

 エレアコの海中での響きを確認しながら丁寧に前奏を演奏していく。この曲、人魚の赤くてひらひらした服によく似合ってるんだよな。1番を歌い終え、スキャットとギターソロをユニゾンさせていると、仄暗い海の向こうから彼女がやってきた。船の外にいる俺をみつけ、いつも以上に明るく華やかな笑顔をぱっと見せると、少し離れたところで赤くてキラキラ、ひらひらした衣装をはためかせながら二枚貝を打ち鳴らす。

 曲が終わると、人魚は俺に顔を近づけ、何も持たない左手をそっと俺に向けて伸ばす。俺はピックを左手に持ち換え、右手をその左手に合わせようとする。俺たちの指先が少しだけ触れたところで、人魚は手を引っ込めてしまった。はにかむように笑った人魚は船内から見た時よりも少し幼く見え、おれはつややかなイチゴを一粒食べたような心地になる。 

テスtestテスtest……聞こえるかい?can you hear me?人魚はさっきより少しだけ離れたところで揺蕩い、美しい瞳をぱちぱちとさせて俺を見つめている。俺はもう一度、聞こえるかい?と訊ねてから、時々人魚がこれまでやっていたように、右手の指先を揃えてパクパクと手のひらにあてる動作をしてみた。人魚はにっこりしながら右手に持った二枚貝の殻をカチカチ、と鳴らす。

「よかった。ちょっと待ってね。それじゃ、何曲か歌うよ。いつもみたいに踊ってくれたら、嬉しいな」

俺の言葉が人魚に届いているかどうかは判らないが、水中に響く俺の声を聴いた人魚は、円を描くようにくるくると回るように泳いでこちらを向き、貝を持つ右手と何も持たない左手の両方をカチカチ、パクパク、とさせながらキラキラとした笑顔で俺を見つめる。

 海の中でスピーカーを通して聞く自分の声もギターの音も何だか変な感じだったが、人魚は時に近くで、時に少し遠くで楽しそうに俺のまわりを泳ぎ、ヴェロニカに指示された船外活動時間の制約の中で準備したセットリストはあっという間に終わりが近付いてくる。

「歌うのは次でラストだよ。……これまで聴いてくれて、ありがとう」

 最後に、今まで海中スピーカーをオフにして密かに練習していた歌を献呈した。ばあちゃんが産まれる前からあったらしいその曲は、とりあえず男が女の子を置いてどこか遠くへ行くらしい、という歌。汽車なんて俺は見たこともないけどね。

 人魚は、顎から首元にかけてつけている何か滑らかにピカピカときらめくものを少し撫でたかと思うと少し口を開けようとしたがすぐにまた口をつぐみ、非難するような顔で唇を噛んで俺を見つめながら、それでも最後まで曲を聴いてくれた。

 

 演奏が終わると、人魚は少し目を伏せてから俺をまっすぐに見つめ、右手に持った二枚貝をカチカチカチ、と小さく鳴らしてから、再び俯いてしまった。華奢な両肩がさらに小さくなっている。

 たまらなくなり、俺はピックをしまって推進スイッチを操作し、ギターをはさんで手の届くところまで人魚に近付いた。人魚の豊かな髪が視界に拡がる。俺がそっと人魚へ右手を伸ばそうとすると、人魚は左手を伸ばし、今度はしっかりと、互いの指の付け根まで指を絡めてきた。7本の長くて細い指が、俺の指の間と手首に巻き付く。強く手を握られると手首が逆に返ってしまいそうになり、慌てて少し強く握り返すと、人魚は少し目を大きくして俺を見つめ、左手の力を加減して俺をじっと見つめる。俺は左手をギターのネックから離し、そっと人魚の右頬に触れた。目を閉じた人魚の瞼をそっと撫で、揺らめく豊かな髪に何度か触れた後、首筋にかけて左の手のひらを沿わせてゆく。人魚は貝殻を服の中へしまって空になった右手を脱力していたが、左手はきゅっと指の付け根同士をつけたままだ。俺は自分の吐く息が熱くなったことに気がつき、つと、左手をギターのネックに戻して右手は繋いだまま、できるだけ優しく声をかけた。

「今日は俺の海中ライブに来てくれて、どうもありがとう」

 人魚と目をあわせる。間近で見ると、長く豊かなまつげに縁取られた両目は吸い込まれるような色をゆったりと変化させ、これまで以上につやつやと輝いている。

「歌はさっきので終わりなんだけど、本当の最後にもう一つ、インストの曲もあるんだ。だいぶ難しかったけど、明るくて、優しい曲なんだよ」

 俺が出来るだけ笑顔を作りながらそう言うと、人魚はぎこちなく微笑んでから左手を離す。少し離れたところで目をつぶりながら、全身で音を受け止めるように揺蕩っていた。

 演奏が終わると、ヴェロニカがヘルメットの内側から、そろそろ帰船の必要があるとテキストメッセージを送ってきた。俺はまっすぐに人魚を見つめ、ゆっくりと右手をぱくぱくと合わせる。人魚は寂しそうに微笑みながら左手をぱくぱくさせる。俺はいつまでもその顔を見ていたいという気持ちを振り払うように、そっと人魚の背中側へ回った。肩越しに振り返る人魚に微笑みかけ、海中に大きく広がる髪をゆったりと両手でまとめようとすると、人魚は前へ向き直る。量の多い人魚の髪の毛は豊かに波打ち、調査船のライトの中で柔らかく光を反射している。リックに比べると大分不格好になってしまった手編みの髪飾りで人魚の髪を右側へまとめて寄せ、エレアコのケーブルを外した。そのまま背後から被せるように人魚の左肩にストラップをかける。触れるか触れないかの距離で戸惑うように振り返る人魚に笑いかけ、人魚の左手にネックを持たせ、右腕の上腕をポン、と優しく叩いてから人魚の正面に戻る。ポケットからピックを取り出して人魚へ渡すと、見よう見まねで人魚がストロークをして見せる。ネックを押さえられていないギターはケーブルを介さずに変な和音を海中に響かせたが、俺は笑って右手のサムアップを示してみせた。

 ヴェロニカに急かされて出入口へ戻っていく俺を人魚は追いかけることなく、ピックを7本指の右手でしっかりとつかんだまま、左手をネックから離してパクパク、とさせていた。無事に調査船内に戻った俺は急いでリビングの大窓から人魚の姿を見ようとしたが、そこにはもう人魚の姿はなかった。

 

 目を覚ますと、周りは水中どころか、既にエウロパを発って宇宙空間を航行していた。ヴェロニカによると、俺は船外活動から帰って自室の寝台に横たわった後、しばらく眠ってしまっていたらしい。マイケルの世話はヴェロニカがどうにか遂行していたようだが、ただ一つ、

「マイケルへの無重力用オムツの装着は難儀でした。よっぽど、アレックスを叩き起こそうかと思いましたよ」

と文句を言われてしまった。

 

 また、エウロパへ行くことはできるのだろうか。それまでに、もっと繊細で楽しい曲を沢山弾けるようになっておかないとな。あのこ、俺より指が細くて本数も多かったけどギター、弾けるようになんのかな。俺はギターを渡した時の華奢な肩先やほっそりとくびれた腰をもつ美しい背中のラインを思い出し、その姿を振り払うように船内に残ったアコギを手に取る。人魚に最後に聴いてもらって以来、インスト曲もずっと練習しているが、海の中ってあんな風に音が響くんだな。あのこ、元気にしてるかな。

 

 壁に取り付けられた伸縮バンドに収まって目をつぶっていたマイケルが目を開け、鼻をひくひくとさせて首をぐるりとリビングの入口に向けたかと思うと、突然シューッと扉が開いた。

 かつて見慣れていたはずの太めの脚、胴がすっと視界に入ってきて、少し大柄な髭男が演奏を止めた俺をじっとりとした目で見ながら、

「おいアレックス、お前ってそんな音だっけか?俺の部屋まで少し聞こえるくらいだったぜ。ってかさ、マイクのオムツそろそろ替えた方がいいんじゃないのか?あぁ、ほら」

とあきれ声で言いながらマイケルに近寄り、慣れた手つきでおむつを替えていく。マイケルは時々リックのにおいを嗅ぎながら、心地よさそうにされるがままになっている。

「ほらよ、さっぱりしたな。お前もさ、ひっかくなり噛むなりして飼い主にちゃんと主張したほうがいいんじゃないか。とっとと俺のケツをすっきりさせやがれってさ」

リックに抱かれたマイケルはその小さな顎からほおをぐい、ぐいとリックに擦り付けてから腕を抜けてふわふわと漂い、俺とリックを交互に眺める。

「お前、大丈夫なのか」

「なんか、よく分かんねぇけど、もう、火星に向かってるみたいだな。とりあえず起きてからヴェロニカに水飲めって言われて飲んだけど、この通りだ」

そう言って両手を広げる。

「おまえ、なんなの、本当……」

俺は声を絞り出しながら、左手で両目と鼻を抑える。目の周りに水滴がぽつぽつと浮かび、息が詰まって苦しい。鼻を吸って左手で両目を拭うと、手の先から細かな水滴が散らばっていく。リックはいつもの場所に固定していたカホンを手に取って慣れた手つきで体を固定し、

「さっきの、Angelinaだろ。なんかそれにしちゃストロークが強めだった気もするけど。久しぶりに合わせようぜ。ほれ」

そう言って俺に顎で促した。俺が構えるとリックはカホンに手を置き、キューをとる。

「……ワンツースリーフォー、ワンツー」

俺はリックのテンポに合わせ、すっかり弾き慣れたフレーズを爪弾き始めた。指は申し分なく動くのに、鼻をすする音が折角のフレーズを邪魔している。俺の視界はしばらくぼやけていたが、ケツがすっきりしたマイケルは窓のそばの定位置でオムツの穴から出したかぎ尻尾を大きくゆっくり振りながら、近付いてくる火星を眺めている。

 

曲目(敬称略)

Happy/ファレル・ウィリアムス (DeepLの出力を見ながら意訳)

元気を出して、ZOO、コーヒールンバ、心の旅/福山雅治カバーアルバム”魂リク”

Angelina/トミー・エマニュエル

 

参考:Newton 別冊 最新観測が解き明かす太陽系のすべて 太陽と惑星

文字数:15998

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