砂漠の足跡は一瞬に、薬指の噛み痕は永遠に

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梗 概

砂漠の足跡は一瞬に、薬指の噛み痕は永遠に

舞台は地球から数年で移動できる砂漠の惑星。砂はこの星特有の鉱物でそれを利用した効率のいい発電方法が確立されている。砂力発電と称されるそれのために各勢力が競うように開拓を行っている。砂嵐や地形変動のために砂漠の移動も発電所建設も難航している。地球に似た大気中から飲み水を精製する設備がある。微生物がいないので死体は腐敗しない。現在は第二次開拓期と呼ばれ第一次開拓期から百年の隔たりがある。地球での大戦を期にこの惑星との交信が途絶えたためその空白期間に何が起きたかは伝わっていない。第一次開拓期の施設は現存するが解錠できない。

主人公は砂の中から発見された男性型アンドロイド。第一次開拓期の技術で作られた戦闘用の機体であり左手薬指に噛み痕のような傷がある。記憶は全て失っているが人格と知性を備えている。主人公を発見したのは砂漠に放置された死体を回収する葬送屋と呼ばれる集団であり集めた死体はとある企業が提供する宇宙船に運ぶ。彼らは襲撃されることもあるため主人公を護衛として使うことに決める。主人公には砂力発電によるバッテリーが搭載されており砂から充電することができる。

主人公は葬送屋と旅をするうちに開拓者の中で一番規模の大きいグループに誘拐される。彼らは主人公の傷を知っており第一次開拓期の研究施設を主人公の薬指に残る歯形で解錠する。その施設には砂漠を安全に移動するルートや発電施設建設のためのマップがあると思われた。

しかしそこにあったのは主人公にしか解読できないデータであり単なる記憶だった。かつて主人公は薬指の傷を鍵に設定し、流出を防ぐために己の記憶を全てここに保存した。

かつて主人公はとある企業によって製作されその企業が雇った傭兵団に所属していた。仲間は傭兵をするしか身を立てる術の無い者たちだった。その中でも寡黙な青年と主人公は親しくなる。彼は友人を失うことを何よりも恐れていた。

しかし過酷な環境での戦闘により仲間は減っていく。そんな折青年は消えないはずの死体が消えていることに気付く。その理由を探った青年と主人公は雇い主である企業が死体を回収していることを知る。実はこの惑星の砂は死体を伝導体としたときに最も発電効率が良くなるのだった。

死体発電と言うべきその方法に青年は激怒し一人で死体発電所を破壊することを決める。青年は主人公だけが自分のことを覚えていればいいと言い主人公の指に噛み痕を残して去る。惑星上の施設は破壊されたが青年も殺された。

記憶を思い出した主人公は葬送屋の協力を得て死体と共に宇宙船に乗り込む。そうして企業が秘密裏に保持していた死体発電所を暴き破壊する。

埋葬できない惑星の死体は地球へ持ち帰るという惑星法が生まれ、葬送屋が死体を運ぶ先が地球行きの宇宙船になった。元の惑星に戻った主人公は葬送屋と共に業務を遂行する日々を送る。薬指の傷と青年との思い出を抱えて主人公は生き続ける。

文字数:1199

内容に関するアピール

一番描きたかったのは「婚約指輪の代わりに噛み痕を持つアンドロイド」です。この主人公と青年の間にある感情が結婚するパートナーのようなものだと断定するわけではありませんが、アンドロイドの身体に痕跡を残して去る人間の図がいいなあと思い取り入れました。男性同士なのは趣味であり、女性キャラだけの話を書いたばかりだったので男性キャラを書きたいなと思ったからでもあります。

ただ話の核となるのは第一次開拓期の終焉で、これは「辺境」という課題を考慮したときに辺境にまつわる謎を追う筋書きのほうが適切だと判断したからです。ただ辺境ならではの画の美しさを追求したい気持ちもあり、葬送屋や死体発電所などの半ば無理やりな設定を盛り込みました。

文字数:309

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アンドロ・ネクロ・ロマンス

 黒い砂漠が延々と続く世界が朝日の中に現出した。細かい粒子の混じる風が僕の顔に吹き付けてきて、薄明の空と地平線の向こうから顔を出す白い恒星を黒く霞ませている。

 ここはドゥアトと呼ばれる場所だ。古代語で冥界という意味を持つその言葉はこの光景にぴったりだと僕は思う。そう言い出した人物は伝わっていないが、恐らくは百年ほど前の入植期にここを訪れた誰かのはずだ。ドゥアトはこの惑星の陸地の三割を占めるほど広く、その中央は未だ誰も訪れたことがない。

 そんな景色の中で目立っていたのは白い布に包まれた何かだ。僕が歩み寄ると、その白い塊を見守るように佇んでいた黒い獣が顔をもたげる。それは毛皮ではなく、この砂漠の主成分である黒い金属で覆われた機械だ。僕も顔は人間らしく造られているけど、黒いボディスーツの上からは身体のパーツのシルエットが浮いているし、グローブやブーツを脱ぐだけで頑丈そうな金属が現れる。

 機械獣アヌビス——彼らの仕事はドゥアトの巡視だ。正確には都市の護衛が彼らの役目であり、ドゥアトを駆け回って都市に及ぶ危険が無いか見張ってくれている。もし今回のように彼らの知能で判断できないことがあれば、彼らの頭脳を担う僕に信号を用いて知らせる。僕は砂漠より機械鳥ホルスが見張る街の中を歩き回る方が多いけれど、日の光を反射して輝く白髪が目立つせいか、僕の目の前で揉め事が起きることは滅多に無い。

 僕が信号を介して元の業務に戻るよう伝えると、機械獣は四肢で砂を力強く踏みしめ、勢いよく駆け去っていった。それが元の巡回ルートに戻ったことを確認し、僕は黒い砂漠の中で際立つ白い存在を見る。

 それは防砂外套に包まった男性だった。広い砂漠を歩く途中で倒れてしまったのだろう。その後ろにはまだ砂を踏みしめた跡が残っており、彼が倒れてから一時間も経っていないだろうと僕は推測する。機械獣が既に確認しているだろうが、僕も一応視界をスキャンモードにして、彼が武器の類や通信機器を携行していないことを確かめた。単一国家が統治するこの惑星では滅多に戦闘など起こらないのだが、それでも僕らの都市を目の敵にする人は多いから念を入れる。

 外套を少しめくると黒い髪と砂が汗で張り付いた横顔が見えた。若くて綺麗な顔立ちだ。長い前髪と髭の無い顎が余計にそう思わせる。ドゥアトに来るようには見えないというのが僕の感想だ。

 僕は彼を背負いながら、彼のこめかみに埋まっているであろう内蔵マイクロチップのデータを読み取った。

 名前はカイス。二十一歳になったばかりの男性。出身はドゥアトよりも東方の街で、家族は健在だが捜索願の提出はされていない。家族がもう彼の帰宅を諦めているか、もしくは家族が彼をドゥアトに送り出したかのどちらかだろう。どちらにせよ、連れ戻しに来ることはない。

 ここに足を踏み入れた者は、その時点で死んだも同然だからだ。

 僕は来た道を振り返る。見据えた地平線上には小さな影が見えていた。三十分も歩けばそこに辿り着く。それまでこの青年が持つかどうかは微妙なところだったが、ここで死のうと向こうで死のうと、きっと彼にとっては同じことだ。

 黒い砂を乗せた風に背を押されるようにして僕は歩いた。やがて絶望の砂漠の中に見えてくるのは、ぎらぎらと輝く都市——ピラミッド・シティ。不毛な景色との強烈な不和こそを求めているのだと言わんばかりにそびえたつ高層ビルの群れが、建設のためにわざわざ宇宙を渡ってきたガラス張りの窓で日の光を跳ね返している。

 しかしそれらは惑星間を旅行するような一部の富豪だけが利用する高級ホテルであり、本当の住民が暮らす下層はあんなに輝かしいものではない。あの見栄っ張りな巨人の足元には、踏みつけられた土塊のような地域が広がっている。

 僕はそんな階層構造の際立つ街の守護者だ。都市の護衛と下層地区の監視。それがピラミッド・シティの機械警備隊——スフィンクスの任務だった。

 ようやく僕が都市の外縁部に足を踏み入れた頃には、空にその全貌を現した恒星から強い日差しが降り注いでいた。ドゥアトの砂が吹き込んでくる路地の左右には黒い煉瓦で建てられた背の低い住宅が密集している。一階部分が店になっているものもあり、手作り感のある看板やメニューの文字を砂が霞ませていた。この辺りは夜になると酷い騒ぎが頻発するのだが、その反動で昼は皆眠りこけているようだ。

「お、メネスじゃないか」

 そのとき路地に面した建物の中から男が姿を現した。日々酒気に晒されている髭が砂すらも蓄えて互いに絡みついている。ほとんど肌着の軽装にはすっかり砂がしみ込んでいて、日ごろから防砂外套の着用を怠っているのが明らかだ。指の先が黒ずんでいるのは決して汚れのせいではなく、そこから腕にかけて黒い血管が走っているのが見える。

「サミール。朝に会うなんて珍しい」

「お前こそ。朝っぱらから仕事かい」

 この辺で一番不摂生なのに一番長く酒場を営んでいるサミールは、すっかり僕の行動パターンを把握しているようだった。彼がこの都市に来てからもう三年は経つ。二十年以上この都市を見守ってきた僕の記憶する中でも、彼ほど長く生きている人は数少ない。

 僕たちの会話で目が覚めたのか、僕の背中の上でもぞもぞと動く気配がした。

「なあメネス。背中のは?」

「砂漠で倒れてた人」

 僕がそう答えると、サミールは不思議そうな顔のまま続ける。

「へえ。それにしちゃあ随分元気そうだな」

 その言葉に僕が首を傾げるより先に、固い音と共に僕の背中から衝撃と信号が伝わった。僕が振り向くと青年が拳を抑えてうずくまっている。

 予想外の行動だった。彼は僕が機械だと知らないのだ。僕の後背部は前面部と比べて滑らかで、背負われている感覚だけで機械と気づくのは難しいだろう。それに人と機械を明確に区別するこの社会で、僕のように人を模し、人と会話もできるアンドロイドはそういない。

 僕の体表に張り巡らされた触覚センサーは、後背部からまだ微弱なアラートを発し続けている。簡易スキャンを済ませて異常が無いと分かればすぐに止むだろう。触覚センサーによる警告は僕自身も忘れていた機能だ。これが痛みというものか。

 僕はうずくまる彼の目の前に立った。すると彼は長い前髪の隙間から僕を見上げる。その目が丸くなったかと思えば、彼はまたすぐに視線を地に落とした。恐らく僕が機械であることにようやく気が付いたのだろう。

「カイス」

 呼びかけると彼はまた視線を上げた。今度は鋭かった。どうして名前を知っているのかと言いたげな目つきだ。僕は自分のこめかみを指で軽く叩き、彼のそこにあるチップを覗いたと暗に示した。

 すると彼の目から剣呑さが消えて、諦めが表れる。

 そして彼は立ち上がろうとして、眩暈がしたのか少しふらついた。

 僕はすかさず彼の身体を抱き留めた。健康的な青年期の身体はしっかりとした重みがある。チップから読み取ったデータのおかげで、僕は彼の身体に病も傷も無いことを知っていた。水分を取ればすぐに回復するだろう。

「サミール。少し店に上がらせてもらっても?」

「はいよ」

 僕たちの会話を聞いたカイスは、水分不足による気分の悪さを感じているだろうに、僕の腕から逃れようと藻掻きながら口を開いた。

「世話は要らない。俺は死ぬために来たんだ」

「駄目だ」

 僕は左腕を彼の背中に回したまま右手で暴れる腕を掴んだ。そのままもう片方の腕もまとめて捉えてしまうと、目を見開いた彼は従順になって動きを止める。

「ドゥアトの風に染まるまでは駄目だ」

 僕は彼としばらく視線を交差させていた。ドゥアトの空のように薄っすらと黒く、それでいて澄んだ瞳だった。

 この辺りで最も一般的な建材である黒い煉瓦と黒い金属で構成された店は、店主のだらしない恰好が勿体無く思えるほどシックで落ち着いた雰囲気だ。僕はほとんど無理やりカイスを連れ込むと、照明が薄い光を投げかけるカウンター席に彼を座らせた。

 ちょうどサミールが持ってきた水を飲むと、青かったカイスの顔に段々と赤みが戻ってきた。グラスを持ってぼんやりとするその横顔は少し幼い。外套を脱いだ彼は僕と同じくらいの体格で、若い筋肉が柔らかく骨にまとわりついているのが白い服の上からでも分かった。

「落ち着いた?」

 僕が隣に座って尋ねると、カイスは目を伏せたまま口を開いた。

「さっきはすみませんでした。急に殴っちまって」

 低く澄んでいて響く声だ。だからこそ声色の暗さが目立つ。

「気にしないで」

 そう返すと彼はますます身を硬くした。僕が威圧的に見えるのかもしれない。サミールのように気の良い住民からは優しそうな顔立ちだと言ってもらえるが、そんな頭部を乗せた硬い身体は異質に見えるだろう。

「お前さん、若ぇのになんでこんなところに来たんだ」

 サミールがカウンターの向こうで料理の準備をしながらカイスに尋ねた。彼が取り出しているのは米、パスタ、豆——どれも他の星からの輸入品だ。農作も牧畜も向いていないこの惑星で流通する食糧は栄養調整食品ばかりで、料理らしい料理をしようとすると輸入品に頼らざるを得ない。

 惑星メセウト——かつて死の星と呼ばれたここは、メセウト鉱という奇跡の鉱石が発見されたことにより、宝の山へと変貌した。それらは熱電変換効率に優れる構造を有し、恒星の光を浴びるだけで街一つを賄えるほどの電力を発生させる。ドゥアトのほとんどを占める砂状のメセウト鉱は加工の困難さと引き換えに、より無駄のない熱電気発電を可能にした。

 ただ光ある所には影もあるように、砂状のメセウト鉱にはもう一つ無視できない性質がある。この街にやってくる人々の狙いはむしろその影の方で、サミールが「こんなところ」と言ったのもそれが念頭にあるからだろう。

 カイスは何も答えないまま、ただ視線を地に彷徨わせていた。心の中に答えはあるものの、それを外にどう表していいのか分からないといった様子だ。今まで自分の思考を抑圧して生きてきたのだろう。ピラミッド・シティにやってくる者は大抵そうだ。

 サミールもそれを気取ったらしく追及はしなかった。その代わり、手際良く作った食事を彼の前に置く。

「地球の伝統料理さ。食ってみな」

 炭水化物と豆が入り混じったものにトマトスープをかけただけの簡素な料理。サミールはメセウト上の都市で生まれ育ったはずだが、メセウトの社会を嫌っているせいか、よくこうして地球の料理を作っては「地球こそ俺の故郷だ」と言い張るのだった。

 メセウトの歴史は百年以上前に地球上で勃発した宗教戦争から始まる。聖地を巡って行われた聖戦に敗北した国々は、当時先進国が牽引していた惑星開発ブームに遅れて乗り出し、宇宙の外に希望を探し求めた。後の無い彼らは誰も見向きをしなかった死の星を懸命に探究し、メセウト鉱という恩寵を手に入れた。そうして彼らはメセウト鉱が生む膨大なエネルギーを元に技術を著しく進展させ、メセウトを安定した国家にのし上げた。

 しかし聖戦の敗北を忘れられないメセウトの人々は、技術によって人の意志決定を操作することにより、聖典の名の下に従順な民を作り始めた。聖典に沿った人格になるよう投薬によって脳内物質を調整するのだ。神の存在が証明できなくても神の名の下に団結する有用性は歴史が証明している。だから宇宙の始まりが神の御業だと信じていないとしても、ほとんどの人は隷属を選び、技術による矯正を受け入れる。

 ここに来るのは矯正を拒んだ者や、人を無理やり従わせる社会に反抗した者たちだ。そういった存在がここに流れ着いて、互いに協力しながら残りの人生を謳歌する。

 そんな自由が許されているのは、ここが彼らの墓地だからだ。

 壊れた部品を次々取り換える僕には、どうして彼らが残りの人生を捨ててまで自分が作り替えられることを拒むのか分からない。

 しかしそう尋ねたことは無かった。その答えを得ることは僕の役割となんの関係もないからだ。今目の前で湯気を立てる食事の温もりを、この街に生きる人々の心の平穏を守ることこそが僕の存在意義だ。

 サミールの料理をひと匙食べたカイスは目をきらきらと輝かせる。

「美味い」

「だろ」

 サミールは笑って返した。死を望む者同士とは到底思えぬやり取りだった。

 やはり僕の演算通り、二人とも互いのことを気に入ってくれたようだ。

「サミール。カイスをここに住まわせてやってくれないか」

 出し抜けに僕がそう言うと、喉にパスタやら豆やらを詰まらせたらしいカイスが酷くむせ込んだ。水すら一度は拒んだ彼にとって僕の提案は相当なお節介なのだろう。一方サミールは僕がそう言い出すのを分かっていたらしく、穏やかな笑顔で頷いた。

「ちょうど人手が欲しかったんだ。一人で店を切り盛りすんのは寂しくてな」

 険しい顔のカイスだったが、サミールのその言葉を拒む気にはなれなかったようだ。その代わり彼は鋭い目を僕の方へ向ける。しかしそれは一瞬のことで、また彼の視線は所在無さげに宙を彷徨い始める。次に僕の顔を見たときにはもうその瞳から鋭さは消え、むせたせいで張った涙の膜が光を跳ね返しているのが見えた。

「じゃあ、あんたはどこへ帰るんです」

 それを聞かれたのも初めてだった。スフィンクスの統率者である僕のもう一つの役割を知る者は、自然と僕の帰る場所がどこであるかに思い当たる。この街の住民が僕に敬意を払うのは、警備隊という武力を有するからではなく、そのもう一つの役割を担うのが僕であるからだった。

「ピラミッドへ」

 僕がそう返すとカイスは一瞬目を見開き、安堵したように初めて柔らかな表情を見せた。

「やっぱりあんたがそうなんだな。死者の都ネクロポリスの機械王」

「メネスと呼んでくれ」

 僕の頼みにカイスは青年らしく笑った。

 

 そうしてカイスはサミールの店に居候することになった。腕の症状が酷くなってきているサミールにとって、カイスは店を預ける相手にぴったりだったのだろう。サミールもまた、先代店主の居候になって店を引き継いだ人物だった。僕はさらにその先代も先々代も、彼らのこの街に来てから死ぬまでは全て覚えている。

 メセウト鉱との同化——それはドゥアトの風が吹きすさぶこの街特有の死病だ。優れた熱電変換効率を実現するメセウト鉱の粒子は、人間の体内の物質と結びついて異常を引き起こす性質がある。血管、神経、あらゆるものが身体の末端からメセウト鉱に置換されていき、その黒い侵食が心臓に辿り着くと直に命が尽きる。早ければ数か月で完了するその絶命のために、死以外行き場のない人々がピラミッド・シティに住み着くのだ。

 その中でもサミールは症状の進行が遅い方だった。しかし急に悪化するかもしれない。いつそのプロセスが完了するかは末期にならないと推測すらできない。動けなくなると急速に症状は進む。サミールよりカイスが先にその境地へ至る可能性も否定できなかった。

 僕たちスフィンクスの視界には体内のメセウト鉱の粒子量を測る機能もある。それが基準値を超えた者は、僕がストゥムの元へ連れていく。そしてストゥムの下で埋葬の準備が進められるのだ。死期を伝えるその役割は、スフィンクスではなく僕にだけ与えられたものだった。

 ストゥムとはピラミッド・シティを統治する組織であり、都市の西側にそびえる黒い四角錐状の発電施設——通称ピラミッドの管理者でもある。

 ピラミッド・シティはピラミッドの付属物として発展した都市だ。ドゥアトの砂の有用性が確認された五十年前、砂状のメセウト鉱を利用した発電方法が確立され、ピラミッドは完成した。その建設に尽力した研究者や技術者の末裔がストゥムなのだ。彼らはドゥアトのさらなる解明に主眼を置いており、彼らにとってはピラミッドもピラミッド・シティもその手段に過ぎない。

 ストゥムが駐在するピラミッドは生者と死者の境界でもある。その向こうにはピラミッド・シティと同規模の集団墓地——死者の都ネクロポリスが広がっている。ピラミッド・シティに集まる人々の目的はそこに葬られることだ。

 メセウト鉱に置き換わった身体を発電機の一部としてもらうために。

 同化によって死に至った人体にはメセウト鉱の回路が形成される。それは死後も続く同化作用によって増幅効果を有し、ピラミッドによって生み出された電力の量をさらに高める。要するに、死者の都ネクロポリスはピラミッドの増幅装置なのだ。

 結局のところメセウトでは、生きているうちに利用されるか、死後利用されるかの二択しかないのだ。

 僕の取り換えられた部品はどこへ行くのだろう。僕自身はどこへ行くべきなのだろう。

 ふとそんなことが気になったが、考えても仕方のないことだと判断して、僕はすぐにその思考タスクを強制終了した。

 

 ストゥムからカイスの面倒を見るように命じられ、僕はサミールの店によく顔を出した。元々新参者の監視はなるべくするように努めているから、ストゥムからの指示が無くともそうするつもりだった。

 カイスが来てから一週間ほど経った日の夜。サミールの店はいつもより騒がしかった。

「メネス、いいところに! すまんがカイスを頼む!」

 店に入って早々サミールに声をかけられた僕は状況を把握する暇もなく、ぐったりとしたカイスを抱えて彼らが生活する二階へ上がる羽目になった。

 ここに来るのはこの店の先代店主をピラミッドへ連れていったとき以来だ。それなりに整えられた一階とは違い、二階は煉瓦壁が剥き出しになっている。僕は生活感のあるリビングを抜け、かつて先代店主が使っていた部屋へ向かうと、恐らくカイスが使っているのであろう寝台に彼を寝かせた。この綺麗な使い方はサミールではないはずだ。

 カイスの運搬という仕事を終えた僕は、部屋の明かりを点けて彼の様子を見た。全体的に血の気が増していて、吐く息は酒気を帯びている。今日サミールの店に来ていた客はかなり盛り上がっていたから、もしかすると誰かに付き合って酒を口にしたのかもしれないと僕は推測した。

 これ以上にできることがあるだろうかと思案していると、脳内に鋭い信号が割り込んできた。それは下層地区の巡視をする機械鳥ホルスからの異常信号だ。その視界データを確認し、酔っぱらった住民同士のちょっとした喧嘩だと僕は判断する。ここからそう遠く離れた場所ではない。僕が行けばすぐに収まるはずだ。

 そうして僕が立ち去ろうとした途端、左の手首からざわめくような信号が伝播する。見るとカイスが弱々しく僕の腕を掴んでいた。

「どこ行くんすか」

 彼は薄く開いた目でじっとこちらを見ている。僕は何故か、簡単に振り払えるはずの彼の手を解くことができなかった。

「少し外の様子を見に行くだけ」

「行かんでください」

「すぐ戻るよ」

 口は動くのに身体は動かなかった。もしかするとストゥムの命令が僕の身体に制限をかけているのかもしれない。それ以外に考えようが無かった。スフィンクスの異常信号を受けて身体が動かなくなるなんて、今までに起きたことが無かった。

「行くな。頼む」

 酒のせいか、カイスの声はいつも以上に弱々しかった。

 僕が逡巡しているうちに、機械鳥ホルスからの異常信号が止んだ。その視界のログを覗いてみると、どうやら住民たちは待機する機械鳥に気付き、喧嘩を止めたようだった。僕が行かずとも解決するのはよくあることだった。その場に佇む機械鳥ホルスは僕が来る前兆のようなものだし、そもそも住民同士の喧嘩も店の切り盛りと同じように、余生を楽しく過ごすためのごっこ遊びのようなものだからだ。

 僕はカイスの枕元に戻り、跪いて彼と視線を合わせた。

「分かった。ここにいるよ」

 カイスは嬉しそうに微笑んだ。彼は気が緩んだのか僕の手首を掴むのを止め、今度は僕の手のひらを楽し気に弄び始める。グローブの上から金属の凹凸をなぞる彼の指は、見ているだけで熱が伝わってくるかのように熱い。

 彼の気が済むまで遊ばせようと考えた僕は、彼の指がグローブを脱がしにかかっていることに気付いて一気に考えを翻した。

「駄目だカイス。君の指が挟まると危険だ」

 既に手首との境目が見えかけていた。カイスの指は僕の手のひらのくぼみに入り込み、僕のグローブをぐいぐい引っ張っている。人間の手の動きを限りなく模法した僕の手のひらは、小さな金属が複雑に連結することによって成り立っており、生身の指を挟めば切断には至らずとも流血沙汰にはなるだろう。

「あんたが手を動かさなきゃいいだろ」

 しかし彼は僕の制止を聞かず、ついにグローブをすっかり脱がせてしまった。手を動かすなと言ったくせに僕の手を好き放題にする彼は、あちこちの可動域を確かめ、彼の手で撫で擦った。

 僕の触覚センサーは微かな信号を発し続けている。警告が出るほどではないにせよ、不規則に伝播する信号は僕の気を休ませてくれない。恐らく、これがくすぐったいという感覚なのだろう。

「スフィンクスってのが何者か、あんたは知ってるんですか」

 不意にカイスはそう口にした。僕はその真意を推測できないまま答える。

「聖戦によって破壊された遺跡の守護者だ」

「あんたたちをそう名付けたのは誰です」

「ストゥムだ」

 いつの間にか僕の手は彼の口元にあった。

「ストゥムの意味は」

 彼の息が僕の指にかかった。

「神官」

「じゃあ、この街の意味は」

 僕がこの場に相応しい答えを演算していると、手のひらからぞわぞわとした信号が伝わってきた。基節骨と中節骨を模した骨格パーツの境目を、彼はわざと舌を挟ませるようにして舐めた。

 少しでも指を動かしたら、彼の舌が圧迫されてしまう。

 左手の動作制御に集中しようとすると、余計にカイスの問いの答えが分からなくなる。

 答えを返せない。人に傷をつけかねない。

 そんな状況が僕の思考タスクを膨大に積み上げていき、何を考えることもできなくなりそうだった。

「俺にとっては墓場です」

 カイスは彼の唾液が付いた僕の手のひらを指でなぞった。

「そして、この街以外は地獄だ」

 そうして今度は母指球の辺りの比較的大きな部品を舐め上げる。

「メセウトでは成人を迎えると脳の検査が行われる。聖典のルールから逸脱する恐れがあれば治療するために。脳内物質を操作する薬を打てば、どんな背信者も殉教者に生まれ変わる。酒を厭う身体に。——異性愛者にだって」

 僕は彼の口元をじっと見ているしかできなかった。赤い舌が毒を求めるように黒い金属を突きまわしていた。その体温と同じように、彼の言葉も熱を帯びていく。

「俺は、聖典が禁じる恋しかできない男だった。昔は、俺を背負ってあちこち連れていってくれた男のことが好きだった。でもそいつは俺を裏切って、聖典のために心を変える方を選んだ。俺はそんなズルい奴も、ズルを強制する社会も嫌いだ」

 彼は僕の人差し指、中指を順に口に含んだ後、薬指に舌を這わせようとして、ふと僕の目を見つめ返した。

「知ってるか。婚約指輪はどの指に嵌るのか」

 彼の真っ赤な口に僕の薬指が吸い込まれていく。そうして硬い歯が指を覆う装甲に当たったかと思った直後、彼の口の中から、ばきと何かが割れた音がした。

「あ」

 熱交換器を通り過ぎた空気が勢いよく口から漏れた。身体の冷却が追い付いていなかった。

 僕の触覚センサーは馬鹿になってしまっていた。一度大きな波を迎えたかと思えば、断続的に小さな波が押し寄せてくる。数々のタスクを退けた警告が、左手薬指基節骨パーツへの損傷を訴え続けていて、思考にメモリを割くことができない。

 処理しきれない情報を無理やり流し込んでくる視覚と聴覚を一時的にシャットアウトし、僕は簡易スキャンを済ませた。装甲の損傷と骨格の歪曲が見つかる。パーツを取り換えるしかないと判断し、僕はようやく警告を消した。

 触覚センサーから伝わってくる信号は多少落ち着いていた。思考を行う余裕が戻ってきた僕は、数秒しか経っていないことを確認し、センサーからの情報を再び受け取り始める。

「メネス」

 震える声が近くから聞こえた。視界は暗く、僕はどうやら布団に突っ伏してしまったらしいと判断する。ゆっくりと上体を起こすと、カイスの潤んだ瞳と目が合った。

「カイス——」

 僕は何を言うべきか迷って何も言えなかった。この行為の理由を尋ねるべきか、そもそもこの行為の意味を尋ねるべきか、もしくは彼の咥内へのダメージを気にするべきか、最適解が分からなかった。

 いつの間にか彼は僕が目覚めたことに安堵したのか、僕の左手を口元に沿わせたまま、穏やかな寝息を立てていた。僕の濡れた薬指の付け根には、指輪のように大きなひびが入っていた。

 翌日、目覚めたカイスは、まだ僕が横にいるのを見て心底驚いたようだった。

「なんでここにいるんすか」

「ずっと手を掴まれてたから」

 空いた右手で唾液が乾いた左手を指さすと、彼ははっとした顔になり、眉を下げて僕の顔を見上げる。

「すみません。こんなことをしてしまって」

「気にしないで」

 そう返すと彼は俯き、掲げるように僕の左手を額に当てて声を溢した。

「実はずっと思ってるんです。あのとき薬を受け入れていたら、男じゃなくて女を好きになる人生を受け入れていたら、俺はどうなってたんだろうって」

 鼻をすする音が聞こえた。僕は何も言わず彼の言葉を待った。

「それなりの職に就いて、それなりの相手と出会って、それなりの家庭を築いて……。聖典が守ってくれるんですから、人並みには幸せになれたはずだ。生まれた子供を可愛がって、親孝行だってできたかもしれない」

 僕の左手に込められる力が強まった。

「それでも俺は社会から逃げて、家族すらも裏切って、こんなところまで来ちまった……」

 僕は返す言葉を思いつかなかった。それでもずっと傍にいた。身体と身体が触れ合うだけでも伝わるものがあると気付いた。

 僕の左手には、すっかり彼の体温が移っていた。

 やがて彼は片手で目元を拭い。申し訳なさそうな顔を上げると、僕の左手を点けっぱなしだった照明の光にかざして眺めた。

「ちゃんと修理してくださいね。俺が言うことじゃないすけど……」

 確かに僕の手はパーツを交換しなければならない損傷を負ってしまっていた。骨格パーツが歪んでしまった影響で、今の僕は薬指を動かすことができない。

 だけど薬指を交換した僕は、昨日の感触を覚えていられるのだろうか。

 僕はカイスが指を這わせる僕の薬指のひびを見た。そしてはっとして右手を伸ばし、彼の手を掴んだ。

 その指先は、いつの間にか黒ずんでいた。

 昨日の夜には無かったはずだ。僕が視界のモードを切り替えると、彼の体内にはまだ数日しか経っていないというのに、かなりの量のメセウト粒子が蓄積していた。

 ここまで症状の悪化が早いのは前例がない。ひと月持つかどうかも怪しいだろう。

「ああ、もう始まっちまった」

 カイスは死の徴が現れたというのに、むしろそのおかげで落ち着いたとでも言うかのように、先ほどまでの動揺を潜ませ、静かな瞳で絡む二人の指を見つめていた。

 

 それから僕はカイスを避けて過ごした。メセウト鉱が利用された僕の身体は彼にとって猛毒だ。だとしても、今までの僕はむしろ早くストゥムの元へ連れていくために住民と接するようにしていたし、住民もまた僕の存在が死を早めると知っていてもなお僕を拒まなかった。何故か僕はカイスにだけ、長く生きていて欲しいと思うようになっていた。

 そうして一週間ほど経った頃、僕はストゥムに呼び出された。

 騒ぎの少ない昼間、僕はピラミッド・シティを西へ抜け、そびえるピラミッドへ向かう黒い煉瓦の道を歩いていた。両脇には道と同じ煉瓦製の柱が並び、それらが支える天井が辛うじて砂の堆積を防いでいる。やがて道の先に集光コーティングが鈍い輝きを放つピラミッドが見えてくる。その下には、役目を終えた宇宙船の建材を再利用して作られた五十年来の研究施設が点在している。

 煉瓦の道の端に着き、施設群を囲う煉瓦壁の中に足を踏み入れると、ちょうど向かいからこちらにやってくる人影があった。黒い防砂外套のフードを目深に被り、砂の吸入を防ぐことで同化の症状を遅らせるマスクを着けたその姿は、まるで二本脚で立つ獣のように見える。

「メンテナンスです。メネス」

 声を聞き分けてようやく僕は彼を特定する。アンクセティ——ストゥムの中でもスフィンクスの整備を担当する技術者で、その名の由来は先祖の知識を保持する者という意味の古代語だ。機械の動物で構成されたスフィンクスを親から引き継いだ彼は、メネスという機械王を造った。

 僕は彼の後ろについて歩き、ピラミッドに近い研究施設に入る。そこにはアンクセティの下で働くストゥムが数名おり、機械獣アヌビスの砂が入り込んだボディパーツの洗浄や、機械鳥ホルスの飛行モジュールの調整を行っていた。

 その中に、人の身体に似た機械を発見して僕は足を止める。

 もうそんな時期かと思った。

 それは僕の新しい身体だった。最新の技術をなるべく反映させるため、僕はおおよそ五年に一度身体を乗り換える。

 今まで何度も繰り返してきたことだ。

 それでも今は何故か、そんな命令は到底受け入れられないという思考に陥ってしまう。

「メネス。損傷したパーツを入れ替えます。全体の演算機能を停止してください」

 アンクセティが言う。僕は少し考えて口を開く。

「近いうちに身体全体を入れ替えるのでしょう。損傷しているのは薬指だけで、全体に支障はない。今パーツを交換するのは不必要なコストでは」

 動かない薬指はもしかすると致命的な欠陥になり得るかもしれない。それでも、カイスの痕跡をただ消し去ってしまうのは惜しいと感じた。

 僕はこの傷を手放したくなかった。

 アンクセティは考えるように、犬のマズルのようなマスクに指の背を添わせる。しばらくしてそのマスクからくぐもった声が聞こえてきた。

「それがあなたの判断なら尊重いたします」

 技術を鎖に使う聖典派に反抗するストゥムらしい返答だった。

 その数日後の夜、下層地区の南の方で起きた騒ぎを沈めた僕は、東の方からよたよた走ってくる人影に気付いて動きを止めた。

 距離が離れていても一度見た顔は判別できる。あの髭面はサミールだ。

「サミール!」

 僕が急いで駆け寄ると彼はぜえぜえと息を吐いた。

「メネス、お前、なんで来なくなったんだ」

「僕の身体はカイスにとって有害だ」

「そんなの俺相手じゃ気にしないだろ。それとも、カイスには長く生きて欲しいのか」

 僕が返答に窮すると、サミールは荒い息を繰り返しながらも笑みを浮かべて僕を見た。

「そんなにカイスのことを大事に思ってんならよ。気にせず顔出してくれや。あいつはもう、あんたが来ようと来まいと、そう長くは持たねえ」

 それを聞いたとき、僕はどんな顔をしたのだろう。

 サミールは慰めるように僕の背中を軽く叩いた。僕はカイスと初めて会った日のことを思い出した。

 あのとき背中に受けた衝撃に、この薬指に残った傷。

 僕の身体は彼の痕跡だらけだ。

 サミールに続いて店に入ると、すっかり黒くなった腕で皿を洗っていたカイスが目を丸くする。

「メネス。俺はてっきり、もう、来てくれないのかと」

 彼は言葉を紡ぎながら俯いた。落ち着いた印象の声はすっかり上擦っていた。僕はそんな彼の傍へ行き、その視界に入るよう左手を差し出す。

「パーツの交換はしなかった」

 カイスははっと僕を見上げた。どうして、と視線で尋ねられているような気がして、僕は答えた。

「僕の手元に残しておきたかったから」

 すると彼は少し唖然とした後、子供っぽい笑顔を覗かせた。

「なんだ。あんたも傷を消したくない人だったか」

 その夜はサミールも交え、三人で酒を飲み交わした。僕はただ匂いを堪能するだけだったが、それでも楽しいと思えた。

 

 カイスの容体は日に日に悪くなっていった。僕は、僕が彼を連れていくときのことを考えずにはいられなくなった。

 僕がストゥムの元へ連れていった末期の人々は、ピラミッドの傍の施設に入り、そこに設けられたメセウト鉱の同化症状を進行させる装置の中で死に至るまでの数分間を過ごす。ドゥアトの砂が敷き詰められた透明な棺のようなその装置の傍で、僕は人々の死を見届ける。彼らが安らかに逝けるように。

 カイスがそうして息を引き取った後、僕は幾度彼を思い出すことになるのだろうか。

 白い外套を見る度、水の入ったグラスを見る度に、彼と出会ったあの日のことを思い出すだろう。

 酒の匂いを感じる度、グローブを外した自分の手を見る度に、彼が僕に傷をつけたあの日のことを思い出すだろう。

 それを思うと、僕は怖かった。

 信号と警告と記憶と思考に押しつぶされる日が来るのが怖かった。

 いっそのこと、身体をまっさらにして、彼の痕跡を跡形もなく消した方がいいのかもしれない。その方が、傷を引きずり続けるよりも合理的だ。

 そう考えても、僕の演算装置が弾き出すのは、あってはならない答えだった。

 カイスの体内の粒子量が明日明後日にでも基準値を超えるだろうという頃、僕は初めて自分の意志でストゥムの元に赴いた。連絡を受け、外にやってきた生みの親に僕は頼み込む。

「アンクセティ。次の身体には僕の人格の複製を載せてほしい。僕がここからいなくなっても、メネスはここに残り続けるように」

 彼はそれで全てを理解したらしく、外套の下から僕の顔を真っすぐ見つめた。

「それがあなたの判断なら尊重いたします。あなたはこの二十年間、死に行く人々の王として振舞ってくれました。そしてこれからも、あなたは王としてこの地に在り続けるでしょう」

 それで良かった。僕という人格はメネスという王権から剥離するのが一番だ。死に行く人々の名をいつまでも記憶する存在として、僕は一人の人間に肩入れしすぎてしまった。

 いや、逆かもしれない。カイスという一人の人間が、僕に影響を及ぼし過ぎてしまったのだ。

 翌日の夜、僕は初めて機械鳥ホルスの異常信号を無視した。というよりも、僕はもうそれに応える権限を有していなかった。スフィンクスのシステムは僕が生まれる二十年前の物に戻ったらしい。恐らく信号は直接ストゥムが確認し、その上で消してくれるだろう。

 カイスは僕が連れていくと彼らにはもう話していた。

 サミールの店を訪れると、僕もよく顔を知っている常連の姿がちらほら見えた。今日もそれなりに客が集まり、それなりに騒いでいるらしい。

 皆、僕の顔を見て気さくに挨拶をしてくれる。

 その笑顔に、苦しいという言葉を思い浮かべたのは、今日が初めてだった。

「サミール。カイスを迎えに来た」

 僕が口を開くなりそう言ったのを聞き、皆僕が来た理由に思い当たったようだった。サミールの顔が、その半分が髭に埋もれていても分かるほど痛切に歪む。それでも彼は「カイスを頼んだよ。メネス」とだけ、震える声で言った。

 僕が二階へ行くと、身体のほとんどが黒くなったカイスが、ゆっくりと上体を起こした。

「行こう、カイス」

 視線が交差した。白目すらも影が落ちたかのように薄っすら色付いていた。それでも彼の瞳は、ドゥアトの空のように美しく澄んでいた。

「あのときみたいに背負ってください」

「もちろん」

 僕が背を見せてしゃがむと、カイスは遠慮無く僕の背中へ乗っかってきた。その身体は少し軽くなったけれど、僕の前に回された腕はあのときよりも強く僕を抱きしめていた。

 下へ降りると、涙を浮かべるサミールと気の良い客たちが僕たち二人を取り囲み、口々に別れの言葉をかけてくれた。そしてサミールの泣き声と彼を慰める客たちの声をしんみりと聞きながら僕たちは外へ出る。

 冷たい夜の風が路地を吹き抜けていった。ピラミッドの頂点からドゥアトの彼方まで一気に走っていく風だろう。

「ねえカイス。君は賑やかな場所で眠る方が好き? それとも、僕と二人で眠る方が好きかな」

「なんですか。まさか俺の我儘を聞いてくれるっていうんじゃないでしょうね」

 僕の肩に顔を乗せた彼は、ふっと微かな笑い声を漏らす。

「いいや。僕の我儘を聞いてもらおうと思って」

 そうして僕がピラミッドとは逆の方向——ドゥアトの方へ歩き出すと、彼は慌てて言う。

「本気ですか。わざわざ俺のために、あんたを慕うここの人たちを捨てる気なんですか」

「大丈夫だよ。僕はもう王じゃない」

 そう返すと彼は少し黙った後、くすくすと笑い始めた。

「馬鹿ですね。俺と同じくらい、あんたも馬鹿だ」

 両脇の建物が途切れると、道はドゥアトそのものになる。

 黒い砂漠が延々と続く世界。人々が逃避先を求めて彷徨う場所。

 聖戦の敗北を引きずり、この地を初めて目にした人々は、一体何を思ったのだろう。

 きっと、絶望してしまうほど圧倒的な自然の前で、無力な人は団結するしかないと思ったのだろう。

 聖典派は神の名の下に。

 僕たちは平等な死の元に。

 団結して、生きたのだ。

「綺麗な夜だ」

 カイスが囁いた。

「あんたと出会えて良かった」

「僕もだよ。カイス」

 僕も囁きを返す。彼の安心したような吐息は、段々と小さくなっていった。

 やがて黒い砂漠の地平線の向こうから、白く神々しい光の球が昇ってくる。

「カイス。日が出始めた。綺麗な景色だ。——カイス?」

 いつの間にかカイスは静かになっていた。呼吸も聞こえなくなっていた。もう二度と彼の低い声は聞けないのだと思うと僕は寂しかったが、触れ合う身体を意識すると、まだ彼が傍にいてくれているような気持ちになれた。

「お休みなさい。カイス」

 僕は道を少し逸れ、誰も見たことのないドゥアトの中央へ向かって歩き始めた。メセウト鉱の回路を有するカイスがいれば、僕は当分歩き続けられる。

 誰も僕たちを支配できない場所へ逃げよう。

 そしてたった二人きりの王になるんだ。

 機械と死者の王に。

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