森に鳴くもの

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梗 概

森に鳴くもの

先の未来、地球のどこか。
ネットやAIは失われ、バイオテクノロジー中心の歪な科学が残っていた。

ある森の深く、一人で生きる女性「わたし」がいる。
自給自足で穏やかに生きるわたしのまわりに、鳥の声が満ちている。
植物がもたらす力で農具が動き、自給自足を助けてくれる。
わたしは、誰も取りに来ることのない手紙をポストへ出し続けていた。

時間はさかのぼり、その森のある村。
幼い主人公の「わたし」、男友達のユツキ、女友達のヒイナ。
三人は一緒に育った。
森の奥には「神の鳥」と言われる絶滅危惧の鳥がいた。
三人は、鳥の巣を大切に見守っていた。

わたしは都市で学び、失われていく動物を守るために『生体術』の研究者になった。それは、かつてバイオテクノロジーと言われていたものに近い何か。
ユツキも学ぶことを願ったが叶わなかった。

地元に帰り二人と再会する。ユツキとヒイナは恋愛関係になっていた。
その姿に嫉妬したわたしは、彼を好きだったことに気づく。
村には、生態収束工場――自然からエネルギーを搾取する工場――の開発の波が押し寄せていた。
ユツキはヒイナたちとともに鳥を守る反対運動していた。

開発会社が、巣に迫るように森を壊す様子を目の当たりにする。
ユツキは言う。「動物に効かず人間だけに苦痛を与える『霧毒』はつくれないか? ――ばらまけば誰も鳥のそばに来れない。あいつらを追い払うまででいい」
頷くわたしに、彼は続ける。
「伝説で、神の鳥は仇なすものを地獄の痛みで罰するとした。俺たちが、技術で伝説を再現するんだ」

甘い逢瀬の先で、わたしはその『霧毒』――かつて生物科学兵器と呼ばれた何か――を作りあげた。
喜ぶユツキに抱きしめられながら、わたしは満たされた。
それを森の周囲にばらまく小さなテロを彼と企む。
あくまでわずかな量で少しの間、脅すために開発者たちに罰を味わせるだけだ。

しかし決行日、わたしとともに潜伏したユツキは開発者に見つかり衝突。偶発的にすべての霧毒を爆散させてしまう。
開発者たちが激痛のなか失神していく。
防備していたわたしとユツキにも激痛が襲う。命も危ない。
ワクチンである『中和滴』は二本精製できていた。無意識のうちに自分に一本を打つ。

「これを早く!」ユツキは興奮し受け取る。
しかし、舞う鳥へ目を離した瞬間、彼は駆け出し、姿を消した。
鳥の声の先にいたのは、ヒイナに中和滴を打つユツキだった。
そのままユツキは倒れ、痛みにのたうちまわり絶命する。
呆然とするわたし。
森の奥へ逃げ出す背後で、村人たちの悲鳴とわたしを呼ぶヒイナの声がする。

人が住めなくなった村が残った。
霧毒が「半ば減じる」まで三十年。神の鳥は守られた。

わたしは、償いのように手紙を出し続ける。彼の屍の上に花が咲く。
「わたしは自分を許せないのです。
あのとき、彼と二人きりで森の奥で生きられると喜んだ自分を」
孤独と引き換えに、わたしは制御を失った工場から鳥を守りつづける。

文字数:1200

内容に関するアピール

ただ一人の人間だけが生きる森、という辺境を考えました。
情景の静謐さと、感情の生々しさを同時に描ければと思います。
一部、手紙形式にしてフックにするかもしれません。

文字数:80

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森に鳴くもの

 わたしは、ポストに手紙を落とした。
 木々の向こうで、鳥だけがそれを見ている。
 底で紙の山が揺れる小さな音を聞いて、わたしはポストを離れた。かつて鮮やかな赤だった表面も、スギゴケとテイカカズラの蔦に覆われて久しい。
 わたしは月に一度ここを訪れ、誰も取りに来ない手紙を出し続けていた。この儀式がなくなったら、人間らしい年月の感覚を忘れてしまうことだろう。
 ポストから住居に戻る道は、草に覆われて曖昧になっている。背の低い雑草と、気まぐれに残されたわずかな剥き出しの地面。もはや踏み固められることはないその上を、わたしはゆっくり歩く。柔らかく弱い茎が、麻靴の裏で折れて潰れる。長く伸びたセイタカアワダチソウが頬を撫でる。
 朽ちかけたリター層から菌糸の乱暴な香りが漂い、ミズナラの若葉の苦い芳香と混ざり合う。植生は年を追うごとに渾然としていく。それは「豊か」という陳腐な言葉では表現しきれない何かへの回帰だった。
 こんもりとした茂みが続く奥に、ひときわ大きな茂みが見えた。わたしの住居だ。壁はナツヅタで覆い尽くされ、窓の四角だけがかろうじて空白になっている。ゆるやかに地面から緑が立ち上がり、建物との境目を完全に隠していた。
 扉を押し入ると、木部のセルロースが分解される甘酸っぱい匂いがした。
 扉の下から侵入してきた蔦を切り落とす。見えている長さはわずかだったが、気づいた時点で処理しなくてはならない。気を抜けば、すぐに家じゅうをまた蔦が這い回り、羽虫が湧く。
 ローズウッドの椅子に身を沈める。体を委ねるとひどく軋んだ。窓際で、ミズヨリを改造した植物の根から伸びた細い管が、濾過器を経て水差しにしずくを落としている。わたしは水をコップに移し、喉へと注いだ。真水に近い味わいのなかに、わずかなゲオスミン臭がした。
 目を閉じる。まぶたの裏で鋭い木漏れ日の残滓がちらつく。木々の葉が擦れる音がする。陽だまりは、葉の影が揺らぐことで、水たまりのようだ。
 まどろみから覚めると、日が傾き始めていた。
 裏手の畑に向かう。段丘のひとつである黒い土のうえで、生体耕具が静かな音を立てて、蠕動運動を繰り返している。横長の太い主茎に張り巡らされた管へ道管液が根圧によって送り出され、左右に四対ついた歯車を不均一に回し続けている。泥土を巻き上げながら緩慢に進む様子は、水底の藻類がうねる姿を連想させた。畑を取り囲む壁に触れると、先端が接触を感知してぴくっとする。補助茎が片側に巻き付くことで体節が左に折れて、来た方向に対して三十度ほど傾きを変えて新たな経路を進み始める。
 順調に動いているようだ。窒素とリン酸とカリウムを養液管に注いだ。
 この生体耕具は、わたしが学んだ生体術で組み上げた農具のひとつだった。生体狩具や生体摘具も時期が来れば使う。そして実った作物を収穫し、食し、また耕す。その繰り返しを、わたしは何年も続けていた。
 一日の作業を終え、わたしはベッドに横たわった。湿気を含んだ麻布がひんやり肌に触れる。森の木々は黒々としていて、月の出ている空の方が明るい。
 目を閉じる。植物を巡る液の音に混じって、遠くで鳥の声が聞こえた。
 神の鳥。
 その声を聞くたび、わたしの孤独は少しだけ満たされる。
 声色に耳を澄ます。また危険を感じているのかもしれない。明日は腐枯剤を抱えて巣へ行くことを決める。
 わたしは、神の鳥を守らなければならない。
 わたしの決意は、眠気の中へ溶けていった。夢を見た。あの頃の三人の夢だ。

 わたしたちが幼かった頃、村は人で賑わい、植相は整えられていた。細い村道が木々のあいだを縫い、その脇に田畑や果樹園を挟みながら家々が点在していた。
 村から森の奥へと進むわたしたちの足取りは、いつも軽かった。
 「待ってよ! ユツキ」
 ヒイナの高い声が後ろから届く。エノコログサを振り回してユツキは先頭を行っていた。「おっそいなあ」
 その頃わたしはいつも、二人のあいだを歩いていた。
 「こっち向いてごらん、ルタ」ユツキは、ふさふさしたエノコログサの穂先をわたしの頬に当てる。くすぐったい。笑い声が出る。
 ルタ、なにか面白いことあったの? 追いついたヒイナが聞く。ユツキはにやにやした顔でそっぽをむく。わたしにも教えてよ、ルタ。
 ルタ。昔、わたしはそう呼ばれていた。長いあいだ呼ばれていない、わたしの名。
 森の奥へ進むほど、木々の密度は増して、陽光は薄くなっていく。
 道の右側で、小さな川が並んで流れる。透き通った水の底に、白い砂利が見える。川面には木漏れ日が煌めいている。ユツキが中心となって、ヤマメを釣ることもあった。道とは苔むした岩で隔てられている。

 ユツキの足が止まった。「ほら、あっち」
 彼が指差した方から、鳥の声がしている。咽び泣く声にも高笑い声にも聞こえる、特徴的な鳴き声。
 「神の鳥」だ。
 声のする方へ向かう。大きなカシの樹の幹の根元、日陰に隠れるように小枝で編まれた巣があった。
 鳥は美しかった。黒に近い深い藍色の羽毛。目の周囲には鮮やかな銀色の皮膚があり、太陽が当たると輝いた。鳥が体を揺らすと、胴の下から白いものが見えた。
 「卵がある!」ユツキの声に、わたしとヒイナは巣を覗きこむ。ヒイナは嬉しそうに手を胸の前で合わせ、無言ではしゃいでいる。
 鳥と目が合う。黒い宝石のような眼球の奥に自意識のようなものを感じ、戸惑った。その黒い眼を見ていると、大人たちが「神の鳥」と呼ぶのが分かる。
 神の鳥はわたしたちを守る村の魂。それが村での伝承だった。
 村の大人たちは神の鳥を、畏れを込めて語った。鳥を守る限り村は守られる。鳥に害なすものは地獄の苦しみを味わう。祖母が教えてくれたことを、わたしは鮮明に覚えている。村人たちは、鳥を恐れるとともに深く敬っていた。
 しかし、神の鳥はひどく数を減らしていた。卵が孵ることも稀だった。
 鳥は人に近寄ることもないから、村人たちは滅多に見ることができなかった。鳥を見た日はハレコメが家庭でふるまわれるほどに、その出来事は特別だった。だが不思議なことに村の大人たちとは違って、わたしたちが近寄っても神の鳥は逃げなかった。
 まもなく神の鳥は消えてしまうかもしれない。村の長が集いで口にしたことは村人たちを青ざめさせた。
 だからわたしたちが神の鳥の巣を見つけ、神の鳥が受け入れたことは運命なのだと思った。
 わたしたちが神の鳥を見守るのだ。村の魂を、絶やさないために。
 そう思うと、自尊心があふれんばかりに満たされた。わたしたちは、可愛らしい使命感と好奇心に突き動かされて、巣のある場所に毎日のように通っては、夕暮れが訪れるまでゆっくり遊びながら道を戻った。

 村外れの花畑が見えてきた。
 ナノハナやヒマワリやコスモスやスイセンが狂い咲いている。春と夏と秋と冬の花が混じっている。小さな家の敷地ほどの地面に、原色が満ちている。
 生体術だ。
「きれい!」
 うっとりと花弁を見つめながら、ヒイナが無邪気に喜ぶ。花々のあいだの狭い隙間をぴょんぴょんと巡っている。
 どの植物も葉がやたら艶やかだった。
 ユツキは、熱を帯びた目で花を見ていた。
「すげえな。どの花も完璧だ」
「うん、この生体術はすごいよ」
 生体術を学んで村に帰ってきた数少ない生体術士は、こうした愉しい実験をするだけでなく、村の食生活や医療などを実際に支えている。わたしは、彼らに憧れていた。
「こんなふうに命を操れるなら、あの卵だって今度こそ孵せるはずだ」
 ユツキの目には期待があふれていた。言葉を聞いていると、わたしの胸も高鳴った。
「俺も生体術士になる」
 風が吹いて、混じり合った花の香りがわたしたちの鼻先を撫でる。濃密で、甘い。
 ヒイナは、コスモスに鼻を寄せている。ユツキは厚いツワブキの葉を撫でている。
 花畑は、夕闇のなかで未来のように眩しかった。

 わたしは 成人の儀式を済ますと、村を出て遠くにある都市へ出た。生体学校に合格したのだ。
 しかし、村の生体術士の手ほどきをわたしとともに受けていたユツキは、不合格だった。
 「つらくなったら、いつでも帰ってきていいんだからね」
 ヒイナは笑顔で見送ってくれた。ユツキは、明るいとまでは言えないものの穏やかな表情を浮かべて見送ってくれた。
「つらくてもやりきらなきゃだめだろ、ルタ」
「そうだね。行ってくる」
 手を振り、村の外へ歩き出すと、胸に違和感が去来した。おそらくそれは独りになることへ恐怖であり、いま克服すべきものだと自分を納得させた。わたしは振り返らずに歩を進めた。

 都市は村とはまるで違った。木と家の割合が、村のそれと逆だった。太陽は森ではなく、屋根に沈んだ。道は土ではなく細かく砕かれた石が敷き詰められており、すれ違っても人同士で挨拶しなかった。
 学校でわたしは、生物の理を扱う生体術に三年間を捧げた。はじめの頃は新しい技術を得るたびに、減っていく村の動物や植物のこと、結局孵らなかった鳥の卵のこと、ユツキやヒイナや村の人たちの顔なんかが頭に浮かんだ。
 だがやがて、思考は純化していった。二重螺旋の完璧な彫像。アデニンとチミンとグアニンとシトシンによる極上の織物。わたしは生体術という学問に夢中になった。研究室に泊まりこんでいると、不意に解法がひらめく瞬間が訪れた。真っ白い積もりたての雪に足跡を残すような悦びが、そこにはあった。
 研究室の窓からは緑地が見えた。植物は整然とならび、濃い緑から淡い緑へと移ろうように術で計算されていた。
 わたしは月に一度、手紙を書いた。ヒイナからは毎月、ユツキからは二月に一度手紙が返ってきた。森で採れるきのこや山菜の美味しさ、先代を継いだばかりの村の長のまつりごと、学んでいることへの質問……。穏やかなやりとりの数々。寂しさや恋しさについてはわたしも二人も、書かなかった。
 だが二年目、研究が佳境に差し掛かった時期に、わたしは返信を三ヶ月ほど怠った。それをきっかけに筆を取る間隔が伸び、手紙の束は研究資料の下に埋もれた。
 教師からは学校に残ることを勧められていた。村に知識を還元する夢は忘れていなかったが、その誘いにもわたしは惹かれていた。
 そして生体術士として認められた卒業の夜。わたしは学校からの帰りに聞き覚えのある鳥の声を聞いたのだ。
 こんなところにいるはずがなかった。都市には巣をつくれる森などない。
 けれど、耳に残った声はあまりに生々しかった。
 突き動かされるように、わたしは五日あとに村への帰途に着いていた。
 帰郷を知らせる手紙を、追いかけるように。

 村に戻ったわたしを迎えたのは、木々より高いところに見える巨大な人工物だった。その歪な輪郭は、遠くからでもよく見えた。
 表面は灰緑色の蔓に覆われ、規則正しく波打つ樹皮のような外殻が、ゆっくり脈動している。太い搾根が地中に突き刺さり、地中から養分を吸い上げる音が響く。森そのものに実った巨大な果実のようだった。
「やっぱり驚くよね、実際に見ると」
 隣を歩くヒイナがつぶやいた。村の入り口まで迎えに来てくれた彼女は、奥二重がくっきりとした二重になり、あばたが消えていた。
 「うん……予想以上だね」
 生態収束工場。学校で学んではいたが、目にするのははじめてだった。國のエネルギー政策の要。生体術を応用して森の土壌からエネルギーを抽出し収束させるための施設だ。拡大する都市を支える存在でもあった。
 工場に近づくほど、そこで働く開発者たちが見えるようになった。灰色の制服を着て、外殻に打ち込まれた階梯を蟲のように上り下りしている。
 ヒイナは工場が点在する森を見た。
 村の人は、はじめは小さいからって聞かされて許可を出したの。それが、いまはどんどん拡張されていって。動物たちも、鳥も――
 不意にヒイナは言葉を止め、口角を上げた。視線の先に背の高い男性が立っている。彼は振り返り、こちらへ歩いてくる。
「ルタ、久しぶり」
 彼は、太くなった腕を上げて挨拶した。面影をほのかに残しながらも、顎や頬骨が明確な線を描き、精悍になっていた。日に焼けた肌は、意志を秘めた眼差しに似合っている。その瞳の力強さは、わたしの記憶にある彼そのものだった。
 わたしは懐かしい名前を呼んだ。
「ユツキ」
 そのとき、ヒイナは彼に駆け寄り肩を寄せた。二人の距離がゼロになった。
 突如、わたしの胸が、軋んだ。違和感がすぐ痛みになる。
 心臓が早鐘を打つ。自分の感情に戸惑いながら、歩き出した二人に急いで並んだ。
 ヒイナは、ユツキの腕に自分の腕を絡めた。その仕草は、いまの彼らの関係を理解するのに十分なものだった。
 ユツキは目を細め、安らいだ顔をヒイナに向けている。
 記憶にある少年の顔と重なる。神の鳥を守りたいと語る横顔、ふざけあって笑う目、花畑の前で憧れをつぶやく口元。
 ずっと、わたしの視線は彼を追っていたのだ。
 ああ。遅すぎた。
 わたしは、ようやく彼への気持ちに気づいたのだった。
 生体術に没頭したのは、彼と離れている焦燥感を忘れるためだったのかもしれない。
「戻ってきてくれて、よかったよ」
 ユツキが、ヒイナを挟んで明るく言った。
「……帰ってくるのが遅くなって、ごめん」
「生体術士になれたんだよな、おめでとう」
「おめでとう、ルタ!」
 ユツキとヒイナが笑顔を向ける。わたしは曖昧に微笑む。
「これからはまた三人一緒だね」
 ヒイナは左腕を彼に絡めたまま、右腕をわたしの腕に絡めた。
「うん」
 わたしは、二人の視線から逃れるように工場へ顔を向けた。
「反対運動してる、って聞いたけど」
「ああ」
 ユツキがわたしの視線の先を追ってうなずいた。
「あれが来てから、神の鳥が現れなくなった」
「工場のせいで森が……」ヒイナが眉根を寄せる。
「生体術の研究者のあいだでも、賛否は分かれてるのに」
わたしは研究室で、都市育ちの学生たちと討論したことを思い出していた。
「明日も抗議しに行く」
「活動に協力してくれる村の人たちがいっぱいるんだよ」
 二人は顔を見合わせてうなずきあった。その様子を見て、喉元に澱んだものが這い上がる。
 ユツキがわたしに真剣に目を向けた。背筋に薄い痺れが走った。
「明日、ルタも来てみないか」

 村人たちが、工場との境界地帯に集まっている。
 森を搾取するな! 話が違うぞ!
 拡声花を手に、抗議の声をあげている。増幅した音は、森の葉を突風のように揺らす。
 境界部は、トゲバラの茎で編まれた網で区切られていた。
 その向こう側に工場があった。大きな膨らみを見上げる形になる。外殻は別の外殻へと太い並体結合管を通して、ゆるやかに連なっている。工場同士で溶液を融通しているのだ。
 「開発者」たちの何人かは、網越しにこちらを無表情に眺めている。墨で染めたと思しき灰色の制服は、周囲の緑と対照的だった。多くの開発者たちは顔も上げず、養液を塗り込んだり根毛を磨いたりと作業に勤しんでいる。
 声を上げる集団のなかに、ユツキとヒイナを見つけた。ヒイナが手招きする。わたしはその隣に加わった。
 ユツキは、トゲバラの網ぎりぎりまで工場へと近づいた。バラが鋭い棘を硬直させた。
 彼は、拡声花を口の前に当てて叫んだ。
「俺たちには、神の鳥を守る責任がある!」
 声の大きさに反応して、大振りの花弁が反り返っていく。村人たちが、そうだ!そうだ!と重ねる。
 ヒイナの抗議の言葉が続く。「森を返して!」
 ヒイナは、高揚した顔で、わたし手のひらに拡声花を押し当てた。わたしは困惑し、彼女と視線を交わした。その眼差しは真剣だった。
 ユツキが、ヒイナ越しに手を伸ばした。ぎゅっとわたしの手を掴む。手の甲に、彼の手の熱さを感じた。大きな手は、拡声花の花柄をわたしの手に握らせた。
 迷ったあと、わたしはヒイナと同じ言葉を叫んだ。

 森が日に日に削られていく。工場の搾根が、周囲の樹木の根をめくりあげる。膨らむ外殻が幹を引き裂く。土壌の栄養が貧しくなりひび割れる土が増える一方、栄養に富み過剰に藻が発生する池が増えた。
 わたしたち三人は、ときにバラの網越しに、ときに遠巻きに、ただその様子を見つめた。わたしが二人のために出来たことといえば、拡声花に生体術を施して、発する音量を増やす程度のことだった。
 その日の夕暮れ、わたしたちは森の奥へ向かっていた。
 ところどころ、大地に人が入れるほどの穴が穿たれている。作業員が土を黒々した塚へと運んでいる。こぼれ落ちた土は川に流れ込み、底が見えないほど濁らせていた。
 新しい工場の建設がはじまっていた。取り囲むトゲバラの網に沿って回り込みながら、工場の育ち具合を観察する。外殻は家一軒ほどの大きさに育っている。周囲の木々の根が、地上へ剥き出しになっている。地下で工場の搾根が養分を横取りしようと、押し上げているのだ。
 近くのニレの幹には亀裂が走り、枝先の葉が丸まっている。表皮は老いた獣の皮膚のようだった。
 ヒイナがはっとした。視界の端に見覚えのあるカシの木がある。
 開発は、すでに神の鳥の近くへと及んでいたのだ。
 根元に巣はなかった。一枚だけ、それらしき羽根が落ちている。
 ユツキは、羽根を手に下唇を噛み締めた。彼の恋人が弱々しく息を吐く。彼はその腰をそっと支えた。
 わたしたちはほかにも神の鳥の痕跡を探すが、見つからない。
 そこに、開発者の男たちが通りがかった。
 何をしている。工場から離れろ。網のなかに入るんじゃない。
「ここがなんの場所か知ってるのか」ユツキは開発者たちを睨みつけた。わたしはヒイナの隣で遠巻きに見ながら、ただはらはらとする。男たちの冷たい表情が嘲笑へと変わる。
 なんだこいつ。よく抗議に来てる奴だ。ああ、こいつ俺知ってるぜ。
 頭が足りなくて生体術士になり損ねたバカだ。
 ユツキはそう言った男の胸ぐらをつかんで、カシの幹に押し付けるようにした。しかし彼の攻勢はそこまでだった。彼を男たちが取り囲む。拳の骨をぽきぽきと鳴らす音がする。
 わたしとヒイナが村人たちを連れてくるまで、ユツキは落ち葉のなかで蹴られながら身をかがめ続けていた。

 夜更けに、窓を叩く音で目が覚めた。窓の外には、幻光茸にうっすら照らされたユツキの顔が見えた。
 急いで扉を開けると、彼は声を潜めた。
「相談がある」
 わたしは、無言でうなずいた。
 彼のあとをついて歩き出す。夜の村は静かで、工場の呼吸音のほかは、足元で落ち葉がかすれる音だけしかなかった。
 かつて四季を集めた花畑があった、村はずれに差し掛かった。今はただ土塊があるだけだった。
「鳥を守るために何かできないか、考えてた」
 ユツキの声は掠れていた。「このままじゃまずい、手遅れになる」
「うん、でも、抗議も限界だよ」
 わたしは、あの活動を単なる怒りの捌け口であり、気休めだと思っていた。
「分かってる」
 ユツキは遠くの工場をじっと見つめた。わたしも同じ方向を向いた。夜空に巨大で歪な物体が浮かび上がっていた。
 ユツキが低い声で言った。
「開発者たちを物理的に遠ざけたい」
「どういうこと……?」
「ルタ、協力してくれ」
「え?」
「『霧毒』、ルタなら知ってるだろう」
 わたしは絶句した。かろうじて言葉を捻り出す。
「生体術師には禁止されていて――」
「なあ。動物に効かず、人間にだけ苦痛を与える『霧毒』をつくれないか?」
 ユツキがわたしの左右の腕を掴んだ。彫りの深い顔が近くなる。こんなときなのに、自分の顔が紅くなるのが分かる。
「駄目だよ……」
「あいつらの横暴をそのままにしておくのか?」
「それはよくないけれど」
「なら!」
 弱々しく首を横にふるわたしの腕を、彼が強く握る。彼から離れなければと身を捩る。夜露に濡れた葉で滑り、わたしは後ろに倒れそうになる。咄嗟に、彼は背中へ手を回した。
 勢いのまま彼の胸にぶつかった。彼の匂いが鼻先に漂う。逃れようとしたが、不思議なほど身体に力が入らない。
「殺しはしない。神の鳥の近くから、あいつらを追い払うだけでいいんだ」
「本気なの?」
「お前が頼りなんだ」
 耳の近くでささやかれる彼の言葉が、わたしの脳髄を揺さぶった。彼の瞳には強い意志が宿っていた。
「神の鳥は、仇なすものを地獄の痛みで罰する。俺たちが、技術で伝説を再現するんだ」
 いつのまにか、彼の胸に手を置いていた。逞しい感触が手のひらから伝わってくる。心音が速く刻まれている。
「お前の力が必要なんだ、ルタ」
 その言葉で、わたしの中の抵抗が崩れ去った。彼の胸の中で感じる体温や、わたしに向けられる熱っぽい視線は、ずっと無意識に求めていたものだったのだ。
 わたしは、分かった、とあえぐように答えた。

 わたしは、祖母が使っていた納屋を生体研究室にした。村の中心から外れたところにひっそりと位置している。祖母が亡くなってからそこは、ただの物置になっていた。
 古びた鍬や埃をかぶった収穫籠をよけて、蒸留器や培養槽といった実験器具を並べた。乾燥した薬草があった棚には、遺伝子配列を記録する紙束を置いた。時間を気にせず作業するため、寝具も持ち込んだ。土埃の匂いは、培地や薬品の人工的な臭気に上書きされた。
 夜半に納屋の木戸が、カッコウの鳴き声のリズムで小さく叩かれた。ユツキだ。
 開けると、わずかな隙間から月の光が差し込んできた。
「あとどれくらいだ」
 彼は小さな声で尋ねた。暗がりのなかでも瞳が光って見えた。
「もう少しだよ」
 彼の手が、わたしの手を探り当てた。わたしは、その手に指を絡ませる。彼は握り返してくれる。その反応は、わたしの不安を溶かしていく。ふわふわと身体が浮くような心地がする。
「怖いか」
「うん、少し」
「ほんの少しだ。ほんの少しのあいだ、開発者たちに罰を与えるだけだ」
 ユツキはわたしの目をまっすぐに見た。
 わたしたちは、森の周囲に霧毒をばらまく小さなテロの計画を進めていた。わずかな量で、脅すため開発者たちに苦痛を感じさせるのだ。
「ヒイナはどうしたの」
「寝てるよ」
「あの子は昔から一度寝たらなかなか起きなかったもんね」
「……ルタ、ありがとな」
 耳元でささやかれた言葉が、砂糖水のように身体に染み込む。
 わたしは、彼のうなじを両手で包んだ。どれくらい見つめ合っただろう。
 彼の唇が、わたしの額に触れた。柔らかい感触。心拍が速くなる。
 彼の手がわたしの腰を引き寄せた。鼓動が共鳴していくのがわかる。わたしは、唇を彼の首筋に埋めた。
 彼はわたしの顎を持ち上げた。目を閉じる。
 そして、わたしたちは共犯になった。
 どれほど望んだだろう、この瞬間を。罪を共有することで、ようやくわたしは彼の一部になれたのだ。

 わたしの吐息が、上になったユツキの鎖骨を湿らせる。骨ばった手櫛が、髪をすいてくれる。彼の胸がわたしの胸を押して、境界が薄れていく。肌を触れ合わせるたびに、夜の冷気にさらされた身体に、熱がこぼれる。唾液が、細胞膜へ浸透していく。
 わたしたちは、互いの輪郭を失い闇に堕ちていった。

 昼間には、ヒイナに会った。
 ヒイナの家の庭で、わたしたちは三人でテーブルを囲んだ。ユツキがヒイナの隣に座り、わたしは向かい側に腰を下ろした。ハーブを煎じたお茶を飲みながら、とりとめのない話をした。
「ルタ、ちゃんと眠れてる? なんだか疲れてるように見えるのだけど」
「うん、大丈夫。学校から実地研究を頼まれてるだけだから」
「また難しい研究?」
「まあ、そんなとこ」
 ヒイナの肌は、日差しに透けるようだった。
 湯気の向こうで、ユツキの顔を盗み見た。まるで屈託のない様子で笑っている。
 昨夜、わたしたちが肌を重ね、互いの息を感じ合っていたことを、ヒイナは知らない。
 ヒイナは、新しい抗議の方法について話し出した。 
 「開発者が使っている道や境界線のあたりに植物を植えるの。茎が硬くなる植物。それで作業しにくくして」
 ヒイナは真剣な目で語った。
「――そうすれば、わたしたちが自然と一緒になって抵抗してる、って伝わるんじゃないかな」
「いいアイデアだな」
 ユツキが明るく言うと、ヒイナは嬉しそうに続けた。
 悪いことかな。でも早くしなきゃだもん。ありがとう、ルタも手伝ってくれるの? うん、植物探しはわたしがやる。大変だけど、でも。
「二人がいるから頑張れるんだ」
 そうだね、三人一緒ならきっと。彼女に微笑みを返しながら、わたしはテーブルの下でユツキの靴に自分の靴先を軽く押し当てた。

 逢瀬に励まされるように、わたしは「霧毒」を作り上げた。
 その紫色の液体は、瓶のなかでゆるやかに薄い煙を揮発させていた。培養液を照らすおぼろげなランプの光を透かして、宝石のように煌めいた。
 わたしはガラス瓶を革手袋越しに手に取り、かすかに揺らした。瓶底から細かな粒子が静かに舞い上がる。
 ユツキの瞳が輝いていた。
「完成したのか?」
「うん」
 彼は瓶に顔を寄せた。「あ、気をつけて」
 ユツキは、玩具を贈られた子供のように目を細めている。
「これさえあれば」
 わたしがうなずくと、彼もうなずき返した。
「俺も一緒に罪を背負う」
 わたしが瓶を台に戻すと、彼はわたしの身体を引き寄せた。そのくちづけは、肉食の獣を連想させた。達成感と罪悪感が混じり合い、興奮となって身体の奥を駆け巡る。
 耳元で、彼がささやいた。
「これでもう大丈夫だ、ルタ」
 わたしはただ、共犯者の腕に抱かれて満足だった。

 これは? 深夜、彼は棚の試験管立てを見て言った。二本だけ緑色の液体が入った試験管が並べられている。
 立ち上がった彼の剥き出しの背中は大きく、窓から差し込む月の光にひっそりと照らされていた。
 それは、中和滴だよ。
 わたしは応えた。
 霧毒の解毒剤、なにか大変なことが起こったときの安全策だよ。
 たった二本、か。
 うん。素材が貴重で、合成が難しいんだ。
 難しい顔をして、ユツキは試験管を眺めた。
 なあ、ルタ。もう一本だけ、作れないのか。
 ユツキの言葉に、わたしは首を振った。

 霧毒の散布は、新月の夜を選んだ。星々が梢の隙間からのぞいているだけで、地面すら見えなかった。
 わたしたちは、納屋で防護服に身を包んだ。分厚くて白く、重い服だ。裾を引く指が震える。
「大丈夫か?」
 彼はささやく。
「うん……」
 計画では、霧毒を工場地帯の八方から少量ずつ散布する計画だった。開発者たちに痛みを、ついで恐怖を与える。そして森から遠ざける。
 わたしは蒸留槽から、細い管で、霧吹きのような散布装置へ霧毒を一滴ずつ移した。散布装置に入る液体は試験管一本分程度だったが、開発者たちを痛みつけるのに十分すぎる量だった。
 そのとき、納屋の外で枝が折れる音がした。わたしとユツキは反射的に互いを見た。
 音は急速に近づいていくる。
 「誰か来る!」
 わたしは慌ててガラス瓶や試験管を麻袋に入れる。
 「逃げろ!」証拠品を入れるのに躍起になるわたしの腕を、ユツキは強引に掴む。扉から駆け出そうとしたが、わずかに遅かった。
 扉が蹴破られ、懐中光虫の白い光が伸びてきてユツキの顔をはっきりと照らした。
「お前は……あのときの!」灰色の制服を着た開発者の男が叫んだ。「おい、なんだこの部屋は」
 ユツキはわたしの前に立ち塞がるように飛び出し、男と揉み合いになった。
 騒ぎに引き寄せられたのか、さらに数人の足音が近づいてくる。
 わたしは何か武器になるようなものを探すが見つからない。あわてふためいている間に、複数の人影がユツキの身体を部屋の中へと押し込んだ。
 その拍子にユツキの背中が、蒸留槽に倒れ込んだ。
 霧毒がたっぷり入った、紫色の蒸留槽へ。
 ガラスが床に当たる音がしたあと、耳をつんざく破裂音がした。
「ああああ!!」
 わたしは手を伸ばしながら叫んでいた。液体が床に広がる。そこから紫色の霧が一気に噴き出した。顔面まで覆った防護服を通して強烈な刺激臭がする。霧毒は、玄関の向こうで風に乗って拡散していく。
 開発者たちは激しい苦痛の声を上げ、次々と地面に倒れ込んだ。
 わたしは防護服の上からさらに布を口元に押し当てたが、すでに肺が焼けるように痛い。皮膚を無数の針で刺されているかのようだ。視界が涙で滲む。
「ル、タ……」苦悶に満ちたユツキの声がする。
 朦朧とした意識のなかで、わたしは必死に麻袋のなかをまさぐった。
 中和滴。
 ようやく、手が小さな注射器を二つ探り当てる。
 一本を手に取り、無意識に防護服をめくって自分の腕に突き立てた。灼熱の痛みが少しずつ薄れていく。
 苦痛が遠ざかるとともに、意識が急速に覚醒した。わたしは息を荒げて身を起こした。
「ユツキ!」
 手のひらにはもう一本の中和滴がある。目の前には、木戸の先の地面を這いずりながら、涎を垂れ流しているユツキがいた。
「これを早く!」
 わたしはまだ震えがやまない手で、中和滴を彼に差し出した。
 彼は中和滴を受け取った。わずかな防護服の隙間の目から、喜色がのぞいた。
「ありがとう……」
 彼の表情を見てわたしのなかにあふれた思いを、忘れられない。穏やかで、あたたかく、そして――。
 そのときだった。遠くで鳥の声が響いた。
 わたしは空を見上げた。星々のうえに、羽ばたく影があった。神の鳥。天の川を横切りながら、影は小さくなっていく。

 気づくと、目の前からユツキが消えていた。
 目をこらすと、彼は霧毒が立ち込める先へ駆け出していた。
「ユツキ、待って!!」
 防護服を脱ぎ捨てた彼の背中が、紫に飲み込まれていく。
 わたしは慌てて後を追った。意識を失った開発者たちの身体を残したまま。
 防護服は重く、走りにくかった。
 すでに村中が紫の霧に覆われていた。霧はバラの網を越え、工場地帯にも広がっている。ユツキの姿が見つからない。
 霧の奥から、神の鳥の声が響きわたった。咽び泣くような、高笑いをするような。
 わたしはその声のする場所へ駆ける。。
 霧の先で、倒れ込んでいる人影があった。
 ヒイナだ。
 彼女は、身体を丸めて嘔吐していた。
 そのそばにユツキはひざまずき、中和滴を取り出している。
「ユツキ!」
 彼は振り返らない。彼は、迷いなく、素早い動きでヒイナの腕に中和滴を打ち込んだ。
「んん……」ヒイナがかすかにうめく。
 注射が効きはじめたのだろう、呼吸が落ち着きを取り戻しはじめた。だが、目はうつろで、わたしやユツキが見えているかはわからない。
 ユツキは、その場で前のめりに倒れた。
 駆け寄ると、身体は激しく痙攣している。背を逸らせ、土を掻きむしっている。
「あいしてるヒイナ……」
 彼の唇が、かすかに音をこぼした。それが最後の言葉となった。身体が跳ね上がり、次の瞬間ぴたりと動かなくなった。
 近くで神の鳥の声がした。鳥は彼の身体をふっと横切ると、ふたたび空へ舞っていった。
 呆然とするわたしの頬に、冷たいものが滑り落ちる。膝ががくがくと震え、崩れ落ちそうになる。
 背後から、いくつもの村人たちの悲鳴が聞こえてきた。振り返ると、喉を押さえた人々がこちらへ向かってくる。
 助けて。苦しい。痛い。なんで。神の鳥よ。お願い。助けて。
 わたしは駆け出した。森の奥深くへ向かって。わたしの状況には、言い訳の余地がなかった。
「ルタ! ルタあああ!!!」
 村人たちの声には、わたしの名前を呼ぶヒイナの声も混じっていた。
 だが、わたしはもう振り返ることができなかった。

 霧毒は土壌に染み込み、生活水を侵し、作物に入り込んでいった。
 土地に染みついた霧毒の毒性は、数十年かけてようやく半ばまで減ずる。生活圏として致命的な汚染だった。
 村のある森には、人が住めなくなった。中和滴を打った者をのぞいて。
 村人たちはこの地を見限った。

 人が去ったあと、動物たちと植物たちが徐々に戻ってきた。
 たくさんの鹿が無警戒に草を食み、見かけなくなっていた狐が落ち葉の陰に巣を作るようになった。ほかの小動物たちも廃屋の壁の裏や瓦礫の下に住まいを見つけた。
 植物は、自由を謳歌するように人間が暮らした場所を覆いつくした。果樹園だった土地には野生化し小さくなったリンゴが熟した匂いを漂わせる。かつて庭だった場所では草花が光を求めて競うように繁茂している。家屋の残骸を蔓と苔が被膜のように包み、営みの記憶ごと飲み込んでいる。
 生態収束工場は、制御を失ったまま捨て置かれた。崩壊した外殻は、もう脈動こそないが、ときどき思い出したように暴走する。外殻の隙間から無秩序に伸びるいくつもの太い枝が、搾根とともに暴れ回るようになった。突発的で攻撃的な動きは、食虫植物を彷彿とさせた。

 懐かしい夢を見た翌日、わたしは朝早く目を覚ました。
 窓の外では、まだ低い太陽が木々の隙間から差しこみ、葉先に宿った朝露を輝かせている。水滴をまとった蜘蛛の巣は、レースのようだ。
 作業小屋で腐枯剤の中身を確かめる。赤褐色を帯びた粘性のある液だ。暴走する生態収束工場を抑えるために調合した薬剤だった。気を抜けば、また工場は神の鳥を脅かすだろう。
 わたしは腐枯剤の入った重い麻袋を肩にかけ、森の奥へ向かった。かつて花畑だった場所からつづく道はすっかり草に埋もれていたが、わたしはその道筋をよく覚えている。ヒイナやユツキとともに何度も歩いた道だ。
 草むらの先で、スギゴケが一面に広がっている。高級な絨毯のように柔らかい。踏むたびに足裏が少し沈み込む。近くの茂みでは色鮮やかな蝶々が飛び交っている。
 やがて、内圧で割れた生態収束工場の外殻が目に入ってきた。出鱈目に膨らみ、辺りの木々を歪ませながら押し広げている。管理する者たちを失ったいま、無軌道に周囲を侵食し続ける存在と成り果てていた。亀裂の内部から養分が発酵したような、すえた匂いが漂う。
 工場が伸ばした搾根の少し先に、神の鳥の巣があった。
 大きなカシの樹の根元。枝と葉が編み込まれた円の中央に、神の鳥は静かに身を置いている。鳥は、小さく首を動かしてわたしを見上げた。黒々とした瞳。
 胴体の下から、卵がはみ出ている。
 守るから。
 わたしは小さく鳥に告げ、腐枯剤の瓶を開けた。地面に浮き出た搾根へと塗り込む。薬剤を帯びた部分が紅く変色し、収縮をはじめた。浸透し道管液に乗ってゆき、一帯の搾根を壊死させていくはずだ。
 処置が終わり、もう一度巣を見る。神の鳥は、なにごともなかったかのように穏やかに佇んでいた。
 目が合う。
 鳥はゆっくりと羽根を広げ、巣から飛び立った。
 藍色の羽が陽光を浴びて鈍く輝く。鳥の影は地面を滑るように足元を通りすぎ、やがて森の向こうへ溶けていった。風が吹き、葉擦れの音がした。
 
 わたしは、住居に戻ると机に向かった。
 その机は、かつて納屋で実験台として使っていたものだった。表面には薬品によって焦げたような傷跡があり、そこに触れるたびに錯乱の記憶が蘇った。
 墨をペン先に吸わせ、言葉を書き始めた。

わたしは、自分を許せないのです。
あのとき、彼と二人きり森で生きられると喜んだ自分を。


罪がわたしたちを世界から隔絶してくれると、
期待を抱いてしまった自分を。

霧毒が村に広がり、人を傷つけ暮らしを壊しはじめたときに、
彼のぬくもりを独占する未来を想像していました。
胸の奥で、ぞっとするほどの満足を感じていました。

その願いがどれほど勝手なものだったかを、
わたしは知りながら止められなかった。
だからわたしは、孤独という罰を受け入れ、神を守り続けることで罪をあがないます。

 ペンを動かす手を止める。部屋には、淡い茜色が広がっていた。長く伸びた梢の影が壁に落ちて揺れている。
 紙面を眺めた。これからも、わたしは繰り返し同じ意味の言葉を書くのだろう。
 何枚も手紙を書き続け、何度もポストへ入れ続けるのだろう。
 その行為が、わたしが人間であることを支えるのだと思った。

 手紙をポストの口に滑り落とすと、背後から風が吹いた。
 視線を感じて振り返ると、シラカバの樹に神の鳥がとまっていた。
 羽根を折りたたみ、動かないまま悠然とこちらを見つめている。
 漆黒の目が、ただまっすぐにわたしを見据えている。
 沈黙こそがもっとも重い裁きだと、わたしは知っている。

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