梗 概
辺境団地の終わり
鎌田は東京郊外の古い公営団地に住んでいた。
彼が入居した半世紀余り前は建物もまだ新しく、団地全体にも活気があった。団地内の商店が入る区画ではたいやきの歌が流れ、入居者は皆若かった。妻と小さな子を伴い、2DKで最上階のこの四階の部屋に引っ越してきた時は誇らしく思った。
それから彼は、同じ部屋に住み続けた。
団地は古くなり、住人も目に見えて減っていった。鎌田自身も仕事を二度変わり、息子は独立し、八十近い年齢になった。目も耳も悪くなったが、十年前に団地内の診療所の医師を介して補聴器と一体型の老眼鏡を買ったおかげもあって、そのあたりは不便なく暮らしていた。
しかし平穏な老後という訳にもいかなかった。団地の所有と管理をする公社が、建て替えをすると言い出した。建物も設備も古く、入居率も低い。全体を立て替えれば新しく魅力的になり、収容世帯数も上がり、耐震補強の必要もなくなるという。ずっと無視をしていたが、次第に住人が転居していき、やがて公社の担当者が鎌田のところに日参してくるようになった。もっといい部屋を用意する。便利になる。建替えのための職人や建材はタイミングを逃すと確保できない。言うことは毎回同じだった。鎌谷はその担当者の切実さを理解せず、煩わしく思うだけだった。長年この部屋に住んできた。俺の家を他人に指図されたくない。鎌田はそう思っていたが、賃貸なことも、階段が大変なことも、駅までバスなことも、直面する場面以外では忘れていた。
ヘルパーが来て、公社の担当は帰った。ヘルパーも決まった時間で去っていった。
ヘルパーは生活用品の買い物もやってくれるが、煙草は対象外だった。妻に買ってくるよう言うが、彼女は毎回一歩も動きはしない。空の煙草の箱を潰して投げつけても無視された。鎌田はむしゃくしゃし、逃れるように外に買いに出かけた。
季節は秋だったが気温はまだ高かった。団地と同じ年齢のケヤキが立ち並ぶ。誰ともすれ違わない。団地の間を風が通り抜けるが、木々の葉擦れは鎌谷は聞こえていない。団地の商店街に足が向いたが、閉じたシャッターが並ぶだけだった。鎌田はバスに乗ろうとしてシルバーパスも財布も持って来ていないことに気づき、喚きながら乗るのをやめた。
以前に団地内の診療所にいた時田医師が、今も月一回住人のために診察してくれていた。だが時田は診療所一帯も解体されるから次で最後だと言う。街の病院に行くようにと。鎌田は公社とグルだと怒鳴るが、時田医師は首を振るだけだった。
ある日、息子がきた。公社から何度も連絡を受け、しぶしぶと。転居を促す息子と昔のことで言い合いになるが、息子の言葉と鎌田の記憶は食い違う。鎌田は自分の記憶に一瞬だけ疑問を感じるが、激高に流される。息子は十年前に妻が死んだのも鎌田のせいだと怒鳴る。しかし妻はそこにいる。鎌田は怒鳴り散らすが、ついに息子に殴られ、老眼鏡が弾け飛び、鎌田の視界と届く音が変わった。
目の前にいた妻が消えていた。息子に尋ねるが、とうに死んでいると繰り返される。息子は何かに気づいて老眼鏡を拾い、鎌田に外を見ろと言う。窓から見た景色は、団地の建物の多くが解体されたり工事シートに覆われたりしていた。並木も切り倒されていた。
「これがスマートグラスだってわかってるか? あんたは現実を見ていないんだよ。いや、元々都合のいいことしか覚えていない人だったか」
文字数:1399
内容に関するアピール
東京の辺境、としての郊外の古い集合住宅型団地を書こうと思いました。
東京郊外には団地がたくさん存在し、それぞれに様々な曲折を経ています。建て替え、リノベーションからの復活、外国籍の割合増加、この前の東京オリンピックのため取り壊し、ただただ高齢化しているものなどなど。
この話の舞台は複数の団地をモデルにしています。その中のひとつ、祖師谷住宅というところは現時点(2025.4.18)で古い建物や給水塔がそのまま残っていて興味深いです。ここは東京都住宅供給公社(現JKK東京)というところの建物で、日本住宅公団(現UR)でもなく都営住宅でもなかったため、建て替えが他より遅く、私が想像するに、だからこそ現存しているのかもしれません。
余談ですが、昔八王子にあった集合住宅歴史館が、今は赤羽台団地にURまちとくらしミュージアムとして再オープンしたらしいです(予約制)。
文字数:383