未だ画竜点睛の時にあらず

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梗 概

未だ画竜点睛の時にあらず

その昔、九の龍の身体が九つの橋となり、人々が住まう土地になったと言い伝えられる九龍ガオロンの人々にとって、獅子舞は橋を守る大切な手段だった。今はもういない獅子と呼ばれる生き物の殻を加工し作られた絡繰りを用いて、橋の間に浮かぶ靄の海や天から橋を食らいに訪れる災いを退治することが出来るからだ。形や舞に地域差はあるものの、災いの脅威から守られ平穏に暮らせるという点はどの橋の獅子舞も同じだった。

龍の橋の一つ、龍井ロンジン橋に生まれ育った子供・グンは、道楽で身持ちを崩した片親から逃げて以来、生まれ持った身軽さを生かしスリや盗みで食い繋いでいた。ある日店先の饅頭をくすねようとした弓は、目撃者の一人に追われる。弓以上に身軽な追手は、逃げ疲れた子供を捕まえると「君、獅子になる気はないか」と息も切らさず尋ねてきた。レイと名乗るその人物は龍井橋を守る獅子舞の舞手の一人で、弓の身軽さに目を付けたという。断ればこのまま饅頭屋に引き渡され袋叩きにされるだけだと観念した弓は、しぶしぶ雷の勧誘に応じる。

親の記憶やひねくれた気質のせいで、獅子舞の稽古に身が入らない弓。龍井橋の獅子舞は二人一組で舞う。背丈の合わない雷との獅子の稽古を通じて雷の獅子への真摯な向き合い方に触れ、親にはない優しさを大らかな雷から受けた弓は、いつしか雷を師として、家族として慕うようになり、少しでも追いつこうと稽古にも打ち込むようになる。

月日が経ち、弓の背丈は雷に追いついた。獅子舞の技術も磨かれ、小さな災いなら難なく祓えるようになったが、雷には未だに認めてもらえない。雷は自分に追いつこうという気持ちのままでは足りないと言う。獅子が自分の半身を追うものかと。
 その頃、龍井橋では次に訪れるだろう災いに不安が広がっていた。百年に一度訪れる「眼」は、橋として眠る龍にとり憑き、追い払おうとした龍が暴れ出すため、橋に大きな被害をもたらすと言われていた。弓は雷と共に獅子に扮し、他の獅子舞たちと橋に辿り着く前に「眼」を退治するため待ち構える。
 遂に現れた「眼」に苦戦する獅子舞の面々。戦いの最中、「眼」に狙われた弓を咄嗟に庇った雷が怪我を負う。自分を置いて逃げろと言う雷に弓は首を振る。獅子が半身を置いていくかと。
 レイの怪我を庇いながら獅子として再び舞い始めた二人は、さながら手負いの獅子のようだった。神経を研ぎ澄ませて踊る中、弓は何かが共にいるのを感じる。それは踊る弓と雷に宿り、やがて二人は一体の獅子となる。獅子は「眼」を食い破り、橋の危機は去った。

「眼」の襲来の後、弓は雷の見舞いに向かう。遂に一体の獅子として舞えた弓を、雷は初めて一人前になったと誉める。「けど」続けた雷は次々と課題点を挙げ始めた。あそこの踏み込みが甘い。ここの調子が外れた。自分も弓もまだ完璧には程遠いと言う師匠に、早く怪我を治してくれと弓は笑う。

文字数:1199

内容に関するアピール

九龍の世界は、世界各地の「巨大な生き物/神の身体が土地になる」という神話と、ベトナムのホイアンで橋の上に建つ廟を見て以来、ずっと書いてみたかった光景が掛け合わさりできました。

龍の身体は我々の世界でいう海底の鯨の死骸です。地球では死骸の栄養を求め鯨骨生物群集が出来ますが、九龍の人々にとって龍(橋)は解体されては困る場所。そのため龍を食おうと現れる生物たちを「災い」と呼び、災いを捕食した古生物・獅子の遺した殻を用いて作られたパワードスーツによる獅子舞で対抗します。

神話生物の獅子を模した舞は世界各地で様々な形がありますが、概ね共通して魔や邪、災いなどを祓うと信じられています。今回は昔住んでいた時に見た香港の獅子舞をモチーフに、二人一組で災いを退治するバディものになりました。
 いつか世界中の獅子舞が出てくる国際獅子舞SFも書いてみたいです。
参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=RJM5H4iMuqk 

 

文字数:420

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未だ画竜点睛の時にあらず

それはとある生き物が、停止する時だった。

殻の継ぎ目が擦れる音が、生き物の気配の少ない空間に響く。
 引き摺るように動かす足元では、龍がその巨大な体を横たえて眠っている。再び目覚めて天高く舞い上がるまでには、長い時がかかるだろう。
 九体の龍が飛び廻っていた空から下へ、深く深く沈んでいった先のこの靄の海の上には、龍の身を喰らおうと訪れる生き物は見当たらない。やがて奴らはこの空の底へと辿り着くかもしれないが、まだ遠い先の話だ。
 あれほど空を飛んでいた、鱗を喰うものを狩ることができない。
 それはすなわち、彼らの飢えを意味していた。
 彼らが無理やり動かす殻の中で、四肢の後脚を担っていた仲間たちはとうに動きを止めている。
 連動しない脚を連れ、殻の中で残された仲間たちが前へ、前へと進もうとする。かつて龍の背を蹴り軽やかに空を跳んだ殻は、今では重い枷となっていた。
 途中、彼ら以外の殻の横を通り過ぎた。
 まだ小さい殻だった。とうに中身が止まっていたらしく、彼らが目の前に来ても動く気配はない。
 ただ空っぽの殻が風に揺られて、微かに乾いた音を立てていた。
 それを置いて前へ進む、彼ら自身も長くはないだろう。
 仲間の動きが噛み合わなければ、この外殻は思うように動かせない。欠けた仲間の動きを補うには、今やあまりにも多くが動きを止めてしまった。
 それでも、わずかでも迷い込んだ獲物を探し、前へと進もうとする。
 龍の身を喰わんとするものはいないかと、動きの少しずつ鈍くなり始めた頸をもたげ、かつてのように一つの生き物の如く振舞おうと殻を動かす。
 次に動かなくなったのは背だった。支えきれなくなった半身を切り捨てることも出来ず、彼らの身は殻の軋む音と共に倒れ込んだ。
 二度、三度起き上がろうと起こした身は、その度に止まりかけた前脚から崩れ落ちる。
 少しずつ、殻の中で彼らは眠りについていく。
 やがて前脚も震えるほどにしか動かせなくなった頃。
 唯一残された頭の殻がもう一度持ち上げられた後、観念したように龍の鱗の上へと横たわった。

それが――――遠い未来、他の生き物に「獅子」と呼ばれた殻の最後の主が、ついに動きを止めた瞬間だった。

 

◇◆◇◆

 

龍井ロンジン橋の家屋が連なる中、屋根の上を子供が必死に駆けていた。
 息が上がる。足がもつれそうになる。空腹がいよいよ堪えてきた。懐の中に突っ込んだままの、盗んだ饅頭はとっくに冷め切っているに違いない。
 こんなに逃げたのは初めてだった。屋根から屋根へと管伝いに移っても、相手は平気な様子で追いかけてくる。家々を仕切る柵を飛び越えても、よじ登ることなく軽々と手をかけて越えてくる。
 大抵の大人なら、グンが高いところへと逃げ切りさえすれば、一通り怒鳴り散らしてから諦めるのに。

後から思い返してみれば、その日の弓は朝からついていなかった。
 最近見つけたねぐらで目覚めれば夜中の雨漏りで裾が濡れていたし、掏った巾着はただの飴入れで金目のものは入っていなかった。せめてと口に入れた飴は不味いし、巾着の方は手製だったのか生地は良いのにつくりが粗く、露天商に売り払っても大した額にならなかった。腹の膨れそうなものを買うには僅かに足りない小銭を持て余し、どこかの店から食べ物をくすねようと橋でも指折りの大通りを歩けば、芝居の声が耳に入り、逃げ出した生家を思い出していっそう腹が立つ。
 おまけに角の出店で少し冷めた饅頭を懐にしまおうとした正にその時、何の拍子か店の主人とばったり目が合ってしまった。
 久しぶりに聞く饅頭屋の怒号を背に走り出した弓は、人混みを縫い素早く通りの脇へと向かうと、そのまま一番手近な窓の縁に手をかける。そこから通りに競うように張り出した看板や、僅かな隙間を残し身を寄せ合う建物に巻き付く管を足場に次々と飛び移ると、客として入ったことなど一度もない商家の欄干から屋根へと登り、いつものようにまんまと逃げおおせた。
 龍井ロンジン橋の大通りでは一般的な二階建の屋根は、普通は梯子が無ければ上れない。今から梯子を取りに戻れば、その間に弓は逃げ失せる。かといって弓が立つ家の主に事情を説明していても間に合わない。
「もう勘弁ならねぇ! 毎度ひょいひょい逃げやがって。降りてこい、くそ餓鬼!」
 店からそのまま飛び出してきたらしい饅頭屋の罵声は、屋根の上からでもよく聞こえた。
 降りろと言われて、素直に降りる馬鹿がいるもんか。
 舌でも出してやろうかと屋根から見下ろした先では、騒ぎに気付いた通りすがりが何人か足を止め、弓の身のこなしに目を丸くしていた。
 そう、ここまではいつもの通りだったのだ。
 多少はついていなかったかもしれないが、それでも無事に今日の飯は確保できたし、弓は捕まらずに済んでいた。だが。
 地団太を踏む店主の脇に、一つの人影が近付いてきたことから、弓のその日の運勢は急降下していく。
 饅頭屋の巨体に比べると小さく見えるその人影は、宥めるようにその背を軽く叩くと、一言二言何かを言ったようだった。
 こちらからでは聞き取れない穏やかな声がつい気になり、何を言っているのだろうと耳をそばだてたのも、後から思えば失敗だった。饅頭屋が人影に気を取られている隙に、さっさと姿を隠すなり遠くに行くなりすれば良かったのだ。
 話が終わったらしいそいつは、弓の方を見上げたまま、散歩にでも行くような調子で足を数歩進めた。立ち去るつもりではなさそうな足取りに、気になってそのまま眺めていると、張り出した看板の一つの下で立ち止まる。
 そして饅頭屋と弓が見ている中、助走もなしに看板にひょいと手をかけて飛び乗ってみせたのだ。
 そのまま軽々と窓の縁を渡り始めたそいつが隣の家の窓からこちらに移ろうとするのを見て、我に返った弓は弾かれたように屋根の上を走り始めた。
 弓にとって、その日一番ついていなかったこと。
 それは、彼と同じくらい身軽な奴が、盗みを働いた弓を追いかけてきたことだった。

いや、結論から言えば、そいつは彼以上に身軽だった。
 こうして逃げ回り続ける中、弓は相手との距離がどんどん縮まってきているのを感じていた。無理やり吸い込んだ息で胸は苦しいし、身体は次第に重くなっている。足場が悪い場所でなければ、とっくに手を伸ばされて捕まっていただろう。
 走り疲れている弓とは逆に、追手の足取りには余裕があった。それどころか、どこで捕まえれば良いだろうかと考えながら追いかけている気配までして、ますます弓を焦らせた。
 少しでも距離を稼がなければと、隙間の空いた隣家目掛けて屋根の縁を蹴る。
 疲れのせいか、空腹からか。
 思ったよりも足に力が入らなかったことに気が付いたのは、身体が屋根を離れた後だった。
 しまったと悔やんだ時にはもう遅い。このままでは落ちる。ただでは済まない。けれども、少なくとも追手からは逃げられる――――
 そんな考えが次々頭を過った弓の身体はしかし、落下を始める前にガクンと奇妙な衝撃と共に動きを止めた。
 宙にぶら下がった手足が、その場で揺れる。
「やれやれ。全く、無茶をするなぁ」
 頭上から溜め息と共に降ってきた声は、思ったよりも若かった。
 背中が引っ張られている感覚から察するに、咄嗟に衣の背中を掴んだ追手に救われたらしい。
 屋根から乗り出した相手が身を起こしながら引き上げる途中、何気なく下に目をやった弓は、路地に積まれたがらくたの中に硬そうな滑車があるのを見てぞっとした。あのまま落ちていたらぶつかっていたかもしれない。
「体力が落ちている時に無茶はしない方が良い。それよりもなるべく足場の安定したところで、休み休み進んだ方が結果的には距離が稼げる」
 弓の身を屋根の縁から離れた場所に降ろしながら、何故か助言をしてくる相手を後ろに見上げる。
 散々こちらを追いかけ回していたくせに、追手は息も切らさずけろりとしていた。
「あんまり追い詰めて悪かったよ。怪我はないかい?」
 おまけにこちらを気遣われて、弓はカッと顔が熱くなるのを感じた。
「うるさい、放せ! あんたに心配される筋合いはない!」
 助けられたことも忘れて背中を掴んだままの手から離れようと暴れ出すと、それすらもおっと威勢が良いなぁとのんびりした声で返された。数本束にしてやっと饅頭屋の主人の腕と同じくらいになるんじゃないかという位のひょろりとした手足なのに、弓が足掻いてもちっとも手を放しそうにない。
「それにしても、ずいぶん身軽なんだな。何か武道でもやっていたのか?」
「知らない! いいから放せって!」
 振り向きざまに引っ掻こうとした腕はあっさりと避けられた。代わりに反対の腕に捕らえられる。
「生まれつきか。そりゃあすごい。いつもああやって逃げているのか」
「だったら何だって言うんだ! 店にでも突き出す気か!」
「まさか。これだけ身軽で、高いところで飛び移れる度胸もある。おまけに思ったよりも粘り強い。饅頭屋の親父さんに突き出して終わりにするには実に惜しい」
 半ば自棄になって喚いた弓に返されたのは、予想外の言葉だった。思わず歯向かうのも忘れて相手を見上げる。
 騒ぐのも暴れるのも止めた子供の顔を覗き込むと、追手はニッと口の端を上げて笑ってみせた。
「君、獅子にならないか?」
 弓の口は半開きになった。誰が、何に、なるだって?
「獅子?」
「そう、獅子」
 大らかな笑みを深くして頷く相手とは逆に、弓の眉間には皺が寄った。何を言っているんだろう、こいつ。
「私は獅子舞の舞手でね。君も祭りの時なんかに見たことがあるだろう。ほら、絡繰りに乗って二人一組で動く、あれだよ」
 相手の言う獅子には、確かに弓も見覚えがあった。
 まだ家がまともだった頃、祭りの日に家族に連れられて、通りで大きな絡繰りが巧みに動いていたのを見た覚えがある。絡繰りは色鮮やかで、まるで本物の生き物のように動き回っては、軽業師のように棒の上を渡り歩いたり、屋根の上を跳ねたりしていた。
 これがただの舞踊の稽古の誘いなら、弓は何も考えずに間髪入れず断っていた。
 芸事は嫌いだ。いや、嫌いになったのだ。芝居も、舞踊も、今となっては道楽に溺れた親を思い出して反吐が出る。
 だが、龍井橋を含むこの九龍ガオロンの人々にとって、獅子舞は舞踊を意味しない。
「とはいっても、祭りに出るのは主な役割じゃない。悪いことを追い払って幸運を呼び込んでくれという儀式的なものというか……まぁ、本来の役割から派生した、おまけみたいなものさ。本職はあまり見たことがないかもしれないが――――」
「それくらい知っている。災いから橋を守るんだろ」
 弓が黙り込んだままなのを勘違いしているのか、延々と説明を続けそうな相手を、馬鹿にするなと遮った。
 九つの橋で構成される九龍では、橋の間に浮かぶ靄の海や天から訪れる「災い」と呼ばれる生き物たちは天敵だ。
 かつて龍の身体だった橋を喰らおうとする災いに、昔から人々は苦しめられてきた。
 それを追い払い、退治するのが獅子舞だった。
 弓の言葉に満足そうに頷いた相手は、絡繰りの形の都合上、獅子の舞手には身軽さが求められるのだと更に続けた。
「その点、君は合格以上だ。実際に乗るようになるのは大きくなってからだろうから、まずは住み込みで稽古に入ってもらう形になる」
「……断ったらどうなるんだ。饅頭屋にでも突き出すのかよ」
「うーん、まぁ、それが良いなら別にそうしても良いんだけどなぁ」
 せめてもの反抗にと自分で聞いておきながら、いざ相手に同意されると思わず身体が強張るのを感じた。それがますます悔しくて、せめてもと相手を睨みつける。睨まれている方はといえば、どこ吹く風でこちらを覗き込んでいた。
「君にとっても悪い話じゃあないはずだ。獅子舞の舞手になれば、寝床もあるし飯も出る」
 そしておまけに、盗んだ店の人にとっ捕まる心配もなくなる。付け足された言葉に、弓はぐぅと唸り声をあげた。
 さっき屋根から見下ろした時、饅頭屋の親父はカンカンに怒っていた。今突き出されたら、袋叩きにでもされかねない。いや、あそこの菓子屋の婆さんも、炒り豆売りの男も加わって、今まで弓が盗んだ分について何かを言われるかも分からない。
 食事と寝床、そして身の安全を取るか。それとも芸事嫌いのまま生き続けるか。
 悩んでいると、弓の腹がぐうと大きな音を立てた。そういえば、朝からほとんど何も食べていない。
 どうする、と自分を捕まえたまま尋ねてくる相手に、しぶしぶといった体を崩さず弓は頷いて見せた。獅子舞や芸事はともかく、腹を満たす方が大事だ。
 よしと一つ頷くと、追手はようやく弓の背を掴んでいた手を離した。そして律儀に弓の正面へと回ると、目線を合わせて屈んだまま手を伸ばす。
レイだ。今日からよろしく」
 差し出された手にはそっぽを向いて無視をする。
 誘いに乗りはしたものの、この追手と慣れ合うつもりはさらさらなかった。

◇◆◇◆

獅子になるという誘いに頷いた翌日、弓はさっそく道場の中庭で獅子と対面していた。

あの後弓は使っていたねぐらを引き払い、雷に連れられて片手で足りる荷物と共に龍井橋の獅子舞道場の一つへと向かった。
 龍井橋の獅子舞たちは、常に一か所に集まっている訳ではないのだという。
 何せ長い龍の身体だ。やれあっちに災いが出た、こっちにも出たという度に逐一はるばる出ていたのでは、規模がどうあれ獅子舞が辿り着く前に橋が食い荒らされてしまう可能性が高くなる。
「だから三つに分かれていてね。東西と中央にそれぞれ詰所があるんだ。災いがやって来た時は、それぞれ一番近い詰所にいる舞手が対応することになっている」 とは、頼んでもないのに弓の荷物を持ち、道すがら一方的に話し続けていた雷の説明だ。あれこれ話しかけては弓のことを訊いてくる雷を何度か突っぱねていたところ、詮索されるのが好きではないのだと考えたらしい。自身が身を置くという東の道場へと歩きながら、獅子舞のことなどをあれこれ一方的に弓に語って聞かせていた。
 そのまま辿り着いた先の広大な屋敷で突然東の館長だという人物に引き合わされ、あれよあれよという間に屋敷の者に身なりを整えられ、数年ぶりに卓の上に並べられた飯を食い、これまた久しぶりに質素ながらもきちんとした寝床で身を休めた。
 翌朝も目が覚めてすぐ、見慣れぬ天井に昨日の出来事は夢か何かではなかったかと頭が整理を始めるより先に朝食が用意され、食べ終わればさっそく見せたいものがあると雷に手招きされ、普通の家の何倍もある中庭へと出た。

そして今に至る。

目の前で鎮座する獅子は、昔屋根の上から眺めた時に予想していたよりも遥かに大きかった。巨漢だった饅頭屋の親父よりもずっと高いところから、ぱっちりと見開かれた両の眼が弓を見下ろしている。されたことがないので分からないが、背の高い大人に肩車をしてもらった弓の上に更にもう一人の弓が肩車をされて、ようやくあと頭一つ二つで届く、といったところだろうか。
 両眼の周りだけでなく、全身が靄の海に浮かぶ雲よりもふわふわとした白銀の毛で覆われている。その毛と交互に顔をのぞかせて鱗のように見える装飾は、それぞれの個体で違う色を誂えているそうだ。今弓の目の前にいる獅子は、花で見かけるような深い青だった。
「どうだい、弓坊。間近でこんなに獅子舞の装甲を見ることなんて初めてだろう」
 屋敷に着いてからも取り繕い続けていた反抗的な姿勢も忘れ、頭上の目に吸い込まれるように見入っていると、横から館長の低い忍び笑いが聞こえてきた。
 我に返った弓が声の方に振り向くと、思ったよりもすぐ近くに道着姿が立っていて思わず身を固くする。その姿を見た館長は気を悪くした様子もなく、今度はケラケラと声を上げて笑った。
「そんなに警戒しなくても良いじゃないか、冷たい餓鬼だねぇ」
 昨晩、いくら尋ねても頑なに名乗らぬ弓に「何だい自分の名前も言いたくないのかい。そんなら言う気になるまであたしら全員、お前のことは家出小僧って呼ぶよ」と言い放ち、それを屋敷の中の者全員にまで徹底させたのがこの館長だ。初めに紹介された時には、厳密には次期館長だよ、もうしばらくは爺が居座っているからねなどと細かく訂正をしてきたくせに、弓の呼び名について指示していた様は大変に館長らしかった。
 名前もまだ分からぬ者に事あるごとに家出小僧と呼ばれ続け、とうとう苦笑しながら雷までもが「家出小僧」と遠慮がちに呼びかけてきて、弓はあっさりと初日で根負けして名前を言う羽目になった。お陰で屋敷に来て一日もしないうちに、弓はこの館長がもう苦手だ。
「綺麗な青だろう。東館にはこの藍型あおがたの他にもう三体いてね、どの装飾も綺麗だよ。獅子舞は橋によって装飾も舞の形も少しずつ違うけど、龍井橋の獅子はとりわけ煌びやかなものが多いな」
「こんなに着飾って、意味があるのかよ。どうせ災いと戦ったら剥がれるだろ」
 弓が獅子に見入る様を後ろでにこにこと眺めるばかりだった雷が会話に加わり、これ幸いと返す。昨日自分を散々追いかけ回した奴だとしても、館長と話し続けるよりははるかにましだ。
「補強を兼ねているんだ。太古に死んだ生き物の殻を使っているからね、脆い部分や欠けているところもそれなりにある。戦闘の度に貴重な殻が欠けちゃあまずいっていうんで、表は装飾で、裏側は鱗鋼石で強くしているのさ。後はまぁ、まじないの意味もある。額の宝珠なんかは特にそうだな」
 険のある物言いを忘れぬ弓に少しも堪えた様子のない雷は、むしろ獅子舞に興味を持ってもらえたと嬉しそうだ。にこにこを崩さぬまま、反対にまたもやへの字に戻った弓の頭に軽く手を置く。
 その仕草が頭を撫でる、という行為だとしばらくしてから弓が思い出すよりも前に、ああ、と何かを思い出したらしい雷の手は弓の頭上から去っていった。
「呼び出した本題を忘れていたな。弓、こいつに乗ってみないかい?」
 先に簡単にでも仕組みを見ておいた方が、稽古に入りやすいだろうという。まさか乗れるとは思っていなかった弓は、思わず雷の顔を見上げた。期待の籠ってしまう眼差しを、抑えようとするがあまりうまくいかない。
 だが、結局弓は青い獅子舞に乗ることができなかった。
 小さい身体では届かないだろうと、底のぶ厚い靴を履かされても、装甲の留め具にまで足が届かなかったのだ。残念そうに弓の脚からぶかぶかの靴を回収した雷が、屈んだまま館長の方を見上げる。
「館長、黑型を出しても良いですか」
「まだ次期だと言っているだろう。……腹の修理の仕上げ前なんだけど、どうしたもんかねぇ」すかさず訂正した館長は腕を組んで一つ唸る仕草の後、ほとんど悩むことなく顔を上げた。 「まぁ、戦う訳じゃなく少し動き回るだけだし、良しとしようか」
 雷の顔が途端に明るくなる。ありがとうございますと急ぎ一礼をしてからいそいそと屋敷の奥に引っ込んだ雷は、しばらくの後、二人がかりで滑車のついた板を引いて戻ってきた。
 板に乗せられて現れたのは、黒い獅子だった。
 藍型よりも一回り小さい体躯は、同じように銀の混ざった白い毛であちこちを縁どられている。毛の間から覗く装飾は弓の知っているどの黒よりも華やかで、隣の青い獅子に少しも見劣りしていない。修復中だという左の腹だけが、のっぺりとした漆喰のようなもので塗りつぶされ、虫食いのように煌びやかな体から浮かんでいた。
 振り落とされないようにと脚の装甲を腰から下まで、いくつもの帯で固定される。本来はここから更に、舞手自身の足の動きと連動する絡繰りに繋げる必要があるらしい。支えを外せぬまま立つ脚の中、やはり留め具に届かぬ足先をぶらぶらさせながら、手早く自身の脚の装甲を身に着ける雷を眺めて弓は訝しんだ。結局動かせないのなら、何のために獅子を変えたのだろう。
 その答えはすぐに出た。
 館長たちの手を借りつつ、雷が残りの装甲を二人の上にかぶせる。弓のすぐ横で、後脚と上部の装甲を留める音がした。
 獅子舞の中は絡繰りまみれだった。
 あちらを見てもこちらを見ても、様々な歯車や石が繋がっている。すっかり景色の変わった頭上からは、弓の手が辛うじて届かない場所にいくつもの帯が垂れ下がっていた。きょろきょろと見回す弓の前方で、前脚と装甲の上部を自力で留め具で固定していた雷が振り返った。
「操縦用の帯だよ。そいつを操作して脚以外の部分を動かすんだ」
 そう説明しながら、後脚の弓と自分の間に垂れ下がっている帯のいくつかに手を伸ばし、前方の自分に手が届くよう帯の長さを調整する。
 弓の目の前には鏡が置かれていた。覗き込んでみると、外にいるはずの館長たちの姿が映る。その目線がいやに高いのに首を傾げた後、あの獅子の両目から見れば丁度これくらいの高さだと気が付いた。
「そいつは同鏡どうきょう。こっちの視鏡しきょうの方が獅子の目から見た景色を映していて、それに連動しているんだ。前脚の方を操る舞手がかしら役で、後脚の方がうしろ役。まぁ、部品の名前や仕組みはおいおい覚えていけばいいさ」
 前脚側の前方に置かれた鏡と交互に指さしての解説を終えると、さて、と雷は口の端を上げて笑って見せた。弓を獅子舞に誘った時と同じ笑みだ。
「この黑型は特別製でね。二人乗りの龍井橋の獅子舞の中では唯一、一人でも操縦できるんだ。ちょっとばかりコツがいるけど、私はこいつに慣れているから安心してくれ」
 ああでも、舌を噛まないようにだけ気をつけなよと付け加えると、雷は頭上にある取っ手を前に倒し、帯の一つを二、三度と引っ張った。
 ガゴン、と大きな音を立てて獅子舞の内部が揺れる。
 一拍置いた後、取っ手の近くの歯車が動き始めた。
 手際よく雷の手が他の帯を引っ張ると、次々と他の部位の歯車も動き始める。生き物の身体が目覚めるように、あちこちが起動し始める。
 一通り絡繰りが動き始めたのを確認した雷が、再び帯に手をかける。駆動音と共に、獅子の頭がふる、と揺れる。また別の帯を引っ張ると同時に、雷が下肢にぐ、と力を込めた。

次の瞬間、弓は獅子の内部が思いきり揺れるのを感じた。

衝撃に思わず声をあげ、絡繰りのない部分にしがみつく。浮遊感と、同鏡から見えた先ほどよりも遥かに遠い地面に、雷の操る獅子舞が跳んだのだとようやく気が付いた。
 黑型の獅子はひらりと重さを感じさせない軽やかさで屋根に降りたつ。獅子の目が映す景色は、昨日まで屋根の上を身一つで逃げ回っていた時と全く違う高さで、弓は見知らぬ場所に来たかのような気分になった。
 獅子は屋根の上を二、三度と往復すると、軽々と屋根の上からまた跳躍してみせた。
 その間も雷の両手は次々と帯を手繰り、自分の足と同じように脚を動かす。
 中庭へと戻ってきた獅子は、そのままぐるりと数周してみせた。
 弓の意思とは関係なく動く後脚の装甲に、つられて自分の足が小さく揺れる。その間も絡繰りは周囲で連動し、弓には理解の出来ない複雑な動きを続けている。その中心で巧みに帯を動かす雷の、ぼさぼさの髪をいい加減に結わえた頭が、同鏡の置かれた向こうに見える。
 最後にもう二度、三度と跳躍して屋根の上を渡り歩いた後、獅子は庭の中央へと着地して動き回るのを止めた。
 一つ一つ、起動したときとは逆の手順で雷が絡繰りの動きを止めていく中、弓は呆然としたままだった。
 今起こったことを、獅子の動きを、何度も頭の中で思い返す。この大掛かりな絡繰りが、生き物みたいに跳びはねている様を見た内側から思い出し、次に屋根の上の黒い獅子を外から見た光景を思い浮かべる。
 これが、獅子舞なのか。
「――――すごい」
 とげのある物言いも忘れて、思わず口から感嘆の息が漏れた。ぶすくれた態度ばかりの餓鬼の素直な感想に驚いたのか、雷が目を瞬かせているのも気にならない。
 こんな風に跳ね回りながら、訪れる災いと、本物の生き物のように戦って、橋を守るのか。
 ぼんやりとした興奮の冷めない弓を見て、雷が穏やかな笑みを浮かべる。
 そして子供が獅子舞から降りるのに手を貸すため、装甲の帯を外し始めた。

 

あれほど獅子舞に乗って心を震わせたにも関わらず、翌日からの稽古は中々進まなかった。
 逃げるからだ。教わる当の弓が、である。雷や他の舞手が少し目を離した隙に、稽古場から逃亡する。
 生家のことを思い出すからだった。
 芝居道楽で身持ちを崩しても、そのせいで家の中に険悪な空気が漂っても、弓の親は道楽の方を優先した。観に行くだけでは飽き足らず、少ないはずの金で家に舞や芝居の先生を呼んでは、自身も稽古を受けていた。先生とは言っても、あの頃の弓の家で呼べる程度なのだから、立派でも何でもない、演者よりは詐欺師に近い者だったのだろう。弓でも分かる程の下手糞でいい加減な稽古にご満悦の笑みを浮かべていた親にうんざりして、とうとうある晩家を逃げ出したのだ。
 獅子舞の道場の稽古は厳しい。あのいい加減な稽古など比べようもない高い技術を求められるし、師匠である雷も、時折災いを退治しに館を留守にする雷の代わりに弓を指導する館長や他の舞手たちも、皆が一流なのは弓にでも分かる。何せ龍井橋を守る人々なのだ。一流も一流に決まっている。
 それでも稽古の途中、弓の頭にはどうしても、生家の下手糞な稽古の光景がちらついてしまう。
 そのせいで、稽古の途中で手が止まる。どんなにうまくいっていても、稽古の途中で身軽に動いていたはずの手足が止まってしまう。
 だから芸事は嫌いだったのだ。それなのに今、またあの絡繰りに乗るためにと大真面目に稽古に打ち込む自分に気付いて、途中でふと我に返っては過去の腹の立つ光景を思い出し、どうすればいいのか分からなくなってしまう。それで居心地が悪くなって、稽古から逃げ出すしかなくなる。
 逃げ出す癖がつくと、今度は戻り方が分からなくなる。真面目に取り組みたくても取り組めない。これではあの下手糞な親の稽古と何も変わらない。弓の心は更にぐちゃぐちゃになって、余計に逃げ出すしかなくなる。悪循環だった。
 散々弟子に逃げられても投げ出されても、師匠の方はといえば全く匙を投げる様子が見られなかった。
 雷は厳しい師匠だった。稽古の最中は一切甘やかさない。誉めるところは誉めるが、足りないところは足りぬと、大らかな態度だけは崩さずハッキリ言う。その割には、弓が逃げ出しても何故かさほど怒らなかった。「まぁ、戻ってきたらまたやればいいさ」とぼさぼさ頭を掻くばかりだ。それどころか、弟子が逃げたせいで時間を無駄にした他の舞手に、弓の代わりに頭を下げる始末。稽古が終われば雷は弓の世話を焼きたがった。ひねくれた子供に何かと理由を付けては突っぱねられても大らかなまま、少しも気にした様子がない。
 だが一度だけ、稽古でわざと高い足場から踏み外して落ちた時にはひどく叱られた。
 逃げるのにも戻るのにも嫌になり、いっそ舞手の素質がないと思われて追い出されればいいと自棄になった弓が、下手糞なふりをしようとしてのことだった。
 落下による怪我を防ぐため、足場の下には幾重にも柔らかな布が敷いてある。おまけに元々弓は身軽だ。怪我無く着地できる自信もある。
 大したことのない足場から落ちるくらい才能がないのだと、呆れられることを期待していただけなのに、落ちた弓に駆け寄った雷は青ざめた顔でまず弓の怪我を心配した。次にわざと落ちたことを見抜かれ、そして聞いたことのない厳しい声で叱られた。
「私が半ば無理やり連れてきたようなものだ。稽古に気乗りがしないなら、逃げ出したって構わない。獅子舞の舞手になりたくないなら、そう言ってくれて構わない。スリでも舞手でもない、違う道を探したっていいんだ」
 屈んで弓と目を合わせた雷の顔はいつもと違い険しかったが、ほんの少しだけ、何だか泣き出しでもしそうな顔も混ざっていた。
「だけど、わざと自分を怪我させるようなことだけはするな。それだけは約束してほしい」
 芝居道楽に溺れた弓の親は、日に日に弓を含む家族たちの顔つきが暗くなっても、一向に見向きもしなかった。他の家族たちは怒ることにばかり必死で、屋根の上に逃げ出した弓を気に掛けることもしなかった。
 いつも鷹揚とした態度をほとんど崩さぬ師匠の見慣れぬ声と表情に、ようやく自分が心配されているのだと分かった弓は、その時何も言えずに小さくひとつ頷くしかなかった。

雷に叱られてからの弓は、逃げ出さずに稽古に打ち込むことが多くなった。
 本当は親の稽古姿が頭を過り、すぐにでも逃げ出したくなる時が何度もあった。だが、今度はそれと同時に、雷に叱られた時のことを思い出して、もう少しだけやってみようと手足を動かすことが出来るようになった。
 少しずつ、少しずつ逃げ出す時間が減り、出来ることが増えるにつれて、かつて弓の頭にこびりついていた親の影は薄れていった。
背が少しだけ伸びてからは、ようやく獅子舞に乗っての訓練が始まった。
 雷の作った補助具付きでなら、小さい黑型には乗れるようになったのだ。この頃には、もう親の影を思い出すことはほとんど無くなっていた。操縦帯に手の届かぬ部分は雷に動かしてもらいつつ、少しずつ弓は絡繰りの仕組みを覚えていった。
 黑型の獅子舞について館長からこっそり教えられたのは、その頃のことだった。
「雷の奴、どうせお前に話していないだろうからね。あたしが代わりに教えてやるよ」
 頼みもしていないのにケラケラ笑ってそう話す館長は、ついこの間次期館長から本物の館長になったばかりだった。出会った頃よりも館長に身構えなくなった弓を道場に残し、水分補給のための竹筒を取りに行った雷がいない間の出来事だ。
「あれが一人でも操作できるようになったのはね、雷の研究の賜物だよ」
 黑型の元になった獅子の殻は、今の獅子舞姿からも分かるように、他の殻と比べて一回り小さかった。恐らくまだ成獣になり切っていない個体だったのだろう。
 そのためどれだけ補強しても、完成した獅子舞は他と比べて小さいままだった。
 それでは何が困るのかというと、
「お陰で黑型は、乗れる奴が限られちまうんだよ」
背の高い者は、窮屈で乗れないのだという。乗れることは乗れるのだが、装甲の上部に頭を擦らせる心配をしながら操縦しなければならない。
 おまけにこの小さな獅子の殻は、他の獅子舞の元となった殻より柔らかかった。その性質上、しなやかで瞬発力のある動きが可能な獅子舞が出来上がったが、それと同時に他と比べて扱いが難しいものにもなってしまったそうだ。
「雷はあの通り、龍井橋の大人にしちゃ背が低い方だ。おまけに腕も良い。だから黑型の扱いもすぐに習得できた」
 けれども雷と共に黑型に乗ることができるような、腕が良くて背が高すぎない舞手が、黑型が出来上がった時にはいなかった。
「そこで大人しく他の型に乗ろうとしない辺りが、あの獅子舞馬鹿の凄いところでね」
 獅子舞の型の数は橋の数だけある。九龍の橋の中には、龍井橋と異なり一人で操縦する獅子舞もあるそうだ。
 その獅子の型を雷は学び、技師と共に一人でも操縦できるように改造を施したのだという。
「せっかくあたしらに見つかって、獅子舞として蘇ることが出来たのに、誰にも動かされずに埃を被っていちゃあ申し訳ない、なんて言ってね」
 ――――何より、私がこの小さな獅子になってみたいんですよ。
 加えて、獅子の脚を撫でながら、そんなことを言っていたらしい。
 前々から感じていた師匠の獅子舞馬鹿ぶりに笑う弓を見下ろした長身の館長は、にやりと不気味な笑いを浮かべて更に続けた。
「ま、そんな訳でお前が来るまでは、黑型は龍井橋で唯一の一人乗りの獅子舞だったのさ」
 今、黑型は初めて二人の舞手によって操縦されている。
 そのうちの一人は、まだ補助具なしでは足の先も留め具に届かないような子供だけれども。
「あいつ、楽しみにしていたよ。弓と黑型に乗れるなんて、ってね」
 雷はそのために、自分を獅子舞の世界へと招き入れたのだろうか。そう尋ねた弓を、そんなことがあるもんかと館長は笑って切り捨てた。
「弟子のお前なら知っているだろう。あいつはお人好しなんだ。黑型の相棒がいなかったことと、お前を拾ったことは全くの別だよ」
 雷は弓を連れてきた時、別に獅子舞の舞手にさせなくても良いと言っていたらしい。
「ただ、盗みで生きるひねた身軽な餓鬼を引き取るのに、他にうまい理由が思いつかなかったのさ」
 何せ獅子舞馬鹿だからねと、館長は肩をすくめて笑った。
 ――――あの子がただあそこで燻りながら暮さずに済むよう、何かをしてやりたいと思ったんです。
 そうして子供が進む道が、その身軽さの活かせる獅子舞であれば尚のこと良い。もしも駄目なら駄目で、盗み以外の道を見つけるきっかけにでもなればいい。
 だからしばらくあの子をこの道場に置かせてくれと、そう館長に頭を下げてきたそうだ。それは弓が稽古に身が入らず、逃げ出してばかりだった頃にも度々言っていたという。
「お前もとんだお人好しを師匠に持ったもんだねぇ」
 座り込んだままの弓が久しぶりに口をへの字にしたのを見下ろして、館長はもう一度カラカラと響く声で笑った。
 その日の休憩の後、弓はますます真剣に稽古に取り組むようになった。
 雷は驚きはしたものの、特に疑問に思う様子はなかった。ただ、少しずつ動ける箇所が増えていく黑型を眺めながら意味ありげに笑って見せる館長に、やっぱりこの人は少し苦手だと弓は思った。 

 

◇◆◇◆

 

道場の稽古場に向かう廊下を歩きながら、弓は重い溜め息を吐いていた。
 全く、この頃どうにもうまくいかない。
 いや、傍から見れば弓は獅子舞の舞手として順調に成長をしている。背は伸びてとっくに補助具なしでも黑型に乗れるようになったし、それどころかあと少しで師匠である雷も越せそうだ。小さい頃は踏み込みにより力が必要だからと後脚を避け、かしらばかりに乗せられていたが、その制限も外れてうしろの訓練も受けている。先日は遂に実戦でも後脚を担い、災いを難なく退治できた。
 稽古を逃げ回ってばかりだったくそ餓鬼が、まぁずいぶんと立派になったもんだ。東館のほとんどの者は口を揃えてそう言うだろう。
 だが、弓と組んで獅子舞に乗る雷にだけは、未だに認めてもらえていなかった。
 細かい技術の上達は誉められる。実戦での判断を誉められることもある。稽古の後には、屈まずとも合う視線にしみじみと、大きくなったなぁと嬉しそうに言われる。
 けれども、獅子舞の舞手として一人前だと言ってもらえたことは、まだ一度もなかった。
 今日も橋を訪れた小さな災いを退治したが駄目だった。幼い頃から慣れた前脚の操縦でならと期待したが、空振りだ。手早く退治できて良かったと言われたものの、弓の求める言葉は無かった。
 一度、自分に何が足りないのかと、弓は雷に直接尋ねたことがある。
 幼い頃から鍛えられ、扱いが難しいと言われる黑型の操縦にも慣れている。災いを退治するのも上達した。雷の動きにだってついていけている。
 後何があれば、自分は雷に認めてもらえる舞手になれるのだろうか。
 そう言う弓に雷は首を振ると、きっぱりとした調子でそれでは駄目なんだと答えた。
「獅子が自分の半身を追うなんて話、聞いたことがないだろう」
 自分に追いつこうとする気持ちのままでは足りない。そろそろ変わるべきだと言われても、弓はその言葉をうまく飲み込めないままでいる。
 首を捻りながら道場の入り口を潜ると、奥で胡坐をかいていた館長が、手を上げて弓の方を手招きした。その前には数名の舞手たちが既に並んで座っていた。
「今日の退治、お疲れ様。相棒はまだかい」
「先ほど黑型を仕舞うついでに、技師長と話をしていました。もう少しかかるかもしれません」
 空いている場所に腰を下ろしつつ、すっかり身に付いた敬語で返す。そうかと館長が返した丁度その時、慌ただしく当の雷が入り口を潜ってきた。小走りで道場の奥へと進みながら、遅れてすいませんと頭を下げる。
 雷が腰を下ろしたのを見届けてから、館長はよしと一つ頷いて正面の弓たち舞手の方を向いた。
「年明け早々、集まってもらってすまないね」
 東館の少ない舞手たち、一人一人の顔を見ながら、二年前に舞手を引退した館長は真剣な面持ちで切り出した。
 集まってもらったのは他でもない、次に訪れる大きな災いについてだという。
「燈台守の観測で、今度の『眼』の訪れる日に検討がついた」
 館長の言葉に、おおよその予測がついていた舞手たちの間にも緊張が走った。
 百年に一度、龍井橋を訪れるという災い。
 橋として眠る龍にとり憑き、それを追い払おうとする龍が暴れ出すため、橋に大きな被害をもたらすと言われていた。
 道場に集まっている者たちに、「眼」を見たことがある者はいない。
 それでもその恐ろしさと甚大な被害については、龍井橋の獅子舞の舞手であれば誰もが知っていることだった。
 加えて今年は、記録に残る最後の「眼」の襲撃から丁度百年。周期通りであれば今年のいつかに来るだろうと、舞手たちの間でも近頃話に上ることが増えていた。
「知っているだろうが、追い払うためには東館だけじゃなく、龍井橋の全ての獅子舞で応戦する必要がある。被害を抑えるために、今日から準備を始めるよ」

 

「何で『追い払う』なんだろうな」
「うん?」
 館長から伝えられた、「眼」の訪れる日の当日。
 道場から離れ、靄の海に面した通りに構えられた陣営の中で待機していた弓の言葉に、横に腰掛けていた雷が顔を上げた。
「そんなにひどい被害が出る災いなら、退治すればいいだろ。何で館長たちはわざわざ追い払うって言うんだ?」
 この頃の龍井橋には、街中に不安が広がっていた。百年前のことを覚えている者はほとんどいないに等しいが、親や年配の者に聞いたことがあるという者は何人もいる。舞手たちほどではなくとも、「眼」の恐ろしさを知る者はそれなりにいた。
 そうであれば、尚のこと皆の不安を取り除くためにも退治すればいいのに、というのが弓の考えである。
「それだけ巨大で、力があるってことだ」
 退治するのが難しいほどの、大きな災い。
 そのような災いを相手にしたことのない弓には、馴染みのない話だった。
「まぁ、要は橋を喰うのを諦めさせればいいんだ。難しく考える必要はないさ」
 ああ、今回は喰うよりも、龍の眼にとり憑かないようにさせるんだったか。そう雷が付け加えた時だった。

カーン、カーン。

 陣営で待機していた弓たちの耳に、聞き慣れない鐘の音が聞こえた。
 龍井橋じゅうに響き渡るほどの大きな音に、思わず他の若い衆と共に天幕を飛び出し、音の聞こえた方角を見上げる。
 街の中で飛び出すように聳え立つ、大小様々な燈籠の吊られた塔。
 橋を訪れるものを見張る、燈台守からの合図だった。
 日頃は鳴らされることのない鐘の音が、更に数回響く。その意味は誰にとっても明らかだった。ずっと橋の見取り図と睨み合っていた館長が、顔を上げてフンと鼻を鳴らす。
「お出ましになったね」
 続けて少し低い鐘の音が、三度響いてから一拍の後、二度響いて鳴るのを止めた。
「おまけに東側うちと中央、どちらの方にまず降りてくるか分からないと来たか。ったく、面倒ったらありゃしない」
 過去に「眼」が現れたという天の方角にいくら目を凝らしても、生身の弓にはまだ何も見えない。
 街の人々はそのほとんどが避難を済ませていたらしい。辺り一帯に、いつもは喧騒に溢れている龍井橋とは思えぬ静けさが漂っていた。今度の災いがいかに大きなものか、改めて突き付けられているようで思わず唾を飲む。
 天幕のすぐ外で天を見上げる弓たちの背に、お前たちさっさと戻ってきな、と館長の声が飛んできた。
「どうせ奴の目的は龍の眼だ。一番近い東側が最終的に迎え撃つことになるんだから、早いところ仕度をしておいた方がいいだろう。良いかい、絶対に橋の頭に近づけさせるんじゃあないよ」
 天幕に残っていた雷の横へ戻ると、既に弓たちの乗る黑型の前で籠手をはめ、脚の装甲に取り掛かるところだった。弓の近づく気配に顔を上げると、視線だけで見えたかと問いかけてきた。
 こういう時、雷が言葉を使わずに尋ねてくるのは珍しい。相変わらずのぼさぼさ頭に、険しいとは言えない顔立ちだが、いつもの大らかな笑みが引っ込んでいる。その視線の強さに少したじろぎながらも弓が首を振ると、そうかぁと溜め息をついた。
 その僅かに間延びした声だけは馴染み深いもので、弓は知らず張っていた肩が少しだけ緩むのを感じた。ようやく非現実的な感覚から解放され、自身も手早く籠手と脚の準備に取り掛かる。
 獅子舞に乗り込み、指示された布陣で待機していた弓たちは、やがて遠くから微かに響く音に気が付いた。
 太鼓、鐘、そして撥の音が、交互に、時に同時に響いてくる。
 それに呼応するように、弓たち東館の天幕からも、今度はハッキリと聞こえる音がする。
 大規模な災い退治の際に使われる、令楽隊の合図だった。
「『眼』は中央に到達……西も応戦中か。余計なものも付いてきたみたいだなぁ」
 後脚の方にいる雷が、音を聞いて微かに眉を潜めた。
 巨大な災いは、その身体に小さな他の災いも引き連れて訪れることがあるという。「眼」の訪れない西館の獅子舞たちも、応援に駆け付けられるのはもう少し後のことになりそうだ。
 建物の影に隠れ、「眼」の姿は黑型の中からは見えなかった。
 じりじりと背中を焼かれるような焦燥感の中、やがて東館の天幕から一際大きな合図が聞こえてきた。ドン、ジャン、ドンと同時に鳴り響く三種の楽器の音がうるさい。
 それの意味することを、獅子舞の舞手たちは理解している。
 弓は操縦帯の一つを引っ張り、起動済の獅子舞の頭をもたげさせた。
 顔を上げた獅子の両目を通し、弓の視鏡と雷の同鏡にも大通りの向こうが映る。
 ふいに弓は、龍井橋の外の海から流れてくる靄が濃い日を思い出した。いつもの空気とは違う何かが、橋全体を覆う気配のせいだろか。
 やがて黑型が見据える視線の先で、ぞるりと何かが動くのが一瞬見えた。
 一本隣の通りにいるらしいそれに追いつくために、雷が背中の操縦帯と両脚に力を込める気配がする。弓もそれに合わせて前脚に力を込めた。
 軽々と屋根の上に飛び乗った獅子の目が捉えた災いの姿に、弓は思わず息を呑んだ。
 災いの姿かたちや大きさは様々だ。弓たちが日々退治ししてるものの中には、生身の弓でも捕らえられそうなほどの小さなものがまとまって訪れる群れもあれば、獅子舞と同じくらい大きいものもいる。だが――――

大通りを滑るように飛ぶ姿は、その高さだけでも獅子より頭一つ分大きい。

頭のない靄底鯰のような身は、家三つ分ほどの長さもある。

先頭で蕾のように窄められている先から生えた無数の触手が、ぞろりぞろりと周囲を警戒するように波打っている。僅かに透ける暗い身体も触手も、どちらも紫の火の色をしていた。

その蕾が、ぱかりと開いた。

紫の火花の触手に縁どられた口の内側で、中央の暗く深い穴を取り囲むようにぐるりと並ぶ細い管が波打っている。
 暗い身体の中で浮かび上がる無数の管は、それだけ見れば鮮やかな白い花弁にも見えた。だが、その中央に沈む穴や、暗い紫に縁どられたその内側全てを一目見て尚、その喩えが浮かぶ者はいないだろう。
 視鏡越しに開かれた口を見た弓は、百年に一度訪れると言われるその災いの名前を一人思い出した。

――――ああ。だから、「眼」と呼ばれるんだ。

「眼」はその長い身体を波打たせると、更に前へと進もうとする。
 その巨体を取り囲むように、弓たちの乗る黑型の他の三頭の獅子たちも屋根の上へと姿を現していた。
 「眼」についてきた他の小さな災いたちは、西館や中央の獅子が相手をしたらしく、ほとんど残されていない。残された巨大な災いはといえば、すでにその身にはいくつもの傷があるものの、全く気にした様子がなかった。
 こんなものが、本当に退治できるのか。いや、退治が出来なかったとしても、追い払うことができるのか。
 一瞬頭を過った思考を振り払う。ためらっている暇はない。
 トトトン、と太鼓の音が響く。東館、総員「眼」の迎撃準備完了。
 雷の背中の操縦帯の動きに合わせて、弓は前脚を蹴り上げた。跳びあがった黑型が、「眼」の巨体目掛けて爪型の刃を振り下ろす。前方では黄型が喰らいついていた。反撃とばかりに身をよじり、鞭のように叩きつけてくる「眼」の触手を跳び退って躱す。鞭が振り下ろされたところを狙った藍型の、触手を引きちぎろうとする動きは逃げられてうまくいかない。
 他の獅子と連携しつつ、少しずつ相手に傷を与えていく。
 だが、相手の方も徐々にこちらの動きに慣れてきたらしい。次第に躱され、反撃されることが多くなっていった。
 雷の動きに合わせつつ、他の獅子との連携を取る。これほど大きな災い相手に、長時間に渡って戦ったことなどなかった。少しずつ増していく疲れと焦りで頭の後ろがじりじりと焙られるのを必死に抑えながら、弓も仲間の動きに、敵に食らいつこうとする。
跳びつき様に「眼」の口のすぐ横に噛みつこうとした黑型の、弓が手繰る顎の動きが、ほんの一瞬だけ雷の後脚とずれた。

――――しまった!

「眼」はそれを見逃さなかった。
 僅かに歪な動きをした小さな獅子の前身に、数本の触手が襲いかかる。
迫りくる鞭からの損傷を少しでも軽くするためにと、操縦帯に力を込めた弓の手が引かれるよりも前に、絡繰りが弓の意図せぬ動きをした。
 身を翻して跳び上がった黑型の後脚を、「眼」の触手の束が穿つ。
 装甲越しでも感じる激しい衝撃と共に身体が浮き上がる。吹っ飛ばされたのだと頭が理解するよりも早く、弓たちの獅子舞は屋根を通り越し、遠くの地面に叩き付けられた。
 一通り衝撃をやり過ごした弓の背後から、微かな呻き声がする。
 獅子の身を起こすよりも前に慌てて振り返ると、雷が片足を押さえていた。
「雷!」
「大丈夫だ、死ぬほどの傷じゃない」歯を食い縛る雷のこめかみから、汗が流れる。「眼」の反撃は装甲を貫き、雷の脚にまで到達していた。
「ただ……これは、うしろ役を続けるのは厳しそうだな」
 装甲で強化されてはいるものの、後脚の操縦は力が求められる。時には前身を支えることもあるからだ。
 受け取った布を傷に巻きながらすまん、と続けられ、弓は傷を睨んだまま叫ぶように怒鳴った。
「なんであんたが謝るんだ。おれを庇ったくせに!」
「それでも、結局怪我をしたのは私の失敗だ。もっと良い方法があっただろうし、君が消耗していることにも対処すべきだった」
 痛みを押し殺し、淡々と続ける雷の言葉に唇を噛む。
 いつか言われた、追いかけているだけは駄目だ、という言葉が頭の中で蘇った。
 結局、これまでの弓は二人で動いていなかった。雷の動き一つ一つを追うように動くから、こんな風に遅れたのだ。
 そのせいで、こうして足手まといになり、結果雷を怪我させる羽目になったのだ。
 傷を睨んだまま俯く弓の横で、眼を閉じて深呼吸を繰り返していた雷は、一際深く息を吸うと、ゆっくり、全身から絞り出すように息を吐いた。
「――――弓、黑型から降りなさい」
 滅多に聞かない雷の鋭い声と、予想外の言葉に思わず傷口から顔を上げる。
 雷の目は弓を見ていなかった。同鏡越しに敵の方角を見据えたまま、傷が痛むことを覆い隠す固い声で話を続ける。
「まだ『眼』はこちらに来ていない。今なら装甲を外して逃げられる。私がかしらの方に行くから、一番近い陣営に戻るんだ」
 そこまで言ってからようやく、弓の方に少し目をやり口角を上げて見せた。かつて幼い弓を捕まえ、獅子にならないかと言った時と同じ笑い方だった。
「知っているだろう。黑型は一人でも扱える特別製だ。尾役よりも頭の方が力も要らない。もちろん性能は少し落ちるが、ここで君が私もろとも落ちるよりはましだからね」
 さあ、早く。
 僅かに柔らかさを取り戻した声に促され、弓はむっつりと黙り込んだまま帯を一つずつ外し始めた。
「そう怒るなよ、死ぬ気はないさ。まぁ、もし人手と装甲が足りていたら応援を頼むよ」
 手際よく、しかし不満を隠さぬ手つきでかしらの装備を解除していく弓を苦笑しつつ宥める雷自身も、後脚の装甲から離れる準備を整える。
 手早く上体の装甲を一度外し、雷の装甲を前にして留め直す。
「よし、後は後脚の装甲だけ――――」
 尾部に填めたら逃げてくれ、と言いかけた雷の言葉はしかし、予想外に早く部品が噛み合う音で遮られた。
 振り返いた雷の目が、大きく見開かれる。
 いつも鷹揚とした態度をほとんど崩さぬ師匠の驚いた顔に、弓は少しだけ笑いが込み上げるのを感じた。
「あんたが言ったんだ。獅子が半身を追うもんかって」
 脚の装甲を外さぬまま、尾部に乗り込んだ弓は次々と装甲を身に着けていく。
 その手つきは頭部よりも手慣れた様子はないものの、先ほどよりも遥かに軽やかだった。
「だったら、獅子が半身を置いていくのだっておかしいだろ」
 足手まといが何だ。一体の獅子がそんなことを思うものか。
 まだ牙もある。爪も残っている。敵の姿だって見えている。
 怪我をしたなら、残りの脚で支えればいい。
 それが獅子という生き物だろう。
 一体の獅子として舞う、龍井橋の舞手だろう。
「あんたの言っていたことがようやく分かった。もう追いかけるだけは止める」
 疲れだって、二人で戦うならこれくらいはまだ平気だ。
 だから一緒に戦わせてくれ、師匠。
 最後の装備を身につけた弓は、両手を操縦帯にかけて目の前の雷をきっと見据えた。何を言われても離れる気はないぞと、その両目にできる限りの意志を乗せる。
「……妙に聞き分けが良いと思ったら、そういうことか」
 これは一杯食わされた、とでも言いたげに溜め息を吐かれる。
 数拍の後、反論や説教の一つや二つでも来るかと身構えた弓の耳が捕らえたのは、小さな笑いを含んだ声だった。
「全く、無茶をするなぁ」
 こちらを振り向いたまま苦笑してみせた腑抜けた顔は、すぐに厳しい表情に切り替わった。いつもの稽古で見慣れた、師の顔だ。
「右膝の装甲の帯が緩い。踏み込みの時にうまく連動しないことがあるから、もう少し強く締めた方が良い」
 慌てて操縦帯から手を放し、言われた通りに帯を締め直す。手元を止めずに言われた言葉を反芻した弓は、はたとその意味に気付いて思わず顔を上げた。
 見返した先の雷は、既にこちらに背を向け、頭部の操縦帯に手をかけていた。
「私のせいで時間を食ってしまったな。早く戻ろう」 

 

屋根の上、獅子たちと「眼」が対峙する空間に、トトトン、と太鼓の音が響いた。
 その音を追いかけるように、銅鑼と撥が一定の音を刻む。四の獅子が戻ったという令楽隊の合図だ。
 「眼」にはその音も、音の示す意味も分からない。
 それでも、その見開いた巨大な口の周りにぞろりと配置された触手と、その陰に隠れるように位置する視覚とは、前方に黒い姿を確かに捕らえた。
 先ほど叩き落されたその身は、やはり無事では済まなかったらしい。前脚の片方を少し引き摺るようにして屋根の上へと登ってきた足取りは、群れの色違いの獅子たちと比べると軽やかとは程遠かった。
 だが、どうしたことだろう。
 こちらへ向かってくる手負いの獅子は、先ほどよりもむしろ恐ろしいものに見えた。
 群れの中であの黒を襲ったのは、たまたま近くにいたからだけではない。動きが歪だったから、叩きやすかったのだ。
 それなのに、先ほどよりも、傷を負わせた今の方が、あの前身の爪で切り裂かれることを己は恐れている。
 いや、前身だけではない。あの生き物の、後ろ脚で踏みつけられることも恐ろしい。
 群れの中でも小さな、あの生き物の全身を警戒せよと、今や細胞全てが自分に語り掛けてくる。
 「眼」の身体は思い出していた。
 太古の昔、まだ九つの龍が空を飛んでいた頃。自分を喰らわんと龍の背から襲い掛かってきた、殻を纏った生き物たち。
 似ているのは殻の形ばかりで、姿も色も、動きすら違うのにも拘わらず、「眼」はかつての天敵を前方の黒い影に重ね、反撃のために巨大な口を一層大きく開いた。

 

ぎゅるぎゅるぎゅる、と耳障りな音が前方から響いても、弓の操縦帯を繰る手は止まらなかった。
 それどころか、一層感覚が冴え渡るのを感じる。狩るべき相手の音を、全身が聞いているのが分かる。
 これまで感じたことのない感覚だった。絡繰りの一粒一粒全てがはっきりと見えていながら、その動きの繋がりの線が、同鏡で映されている光景よりもはっきりと頭の中に浮かぶ。
 研ぎ澄まされた感覚のどこか隅の方に追いやられた思考が、その繋がりの中に雷の動きと、雷の操る前身もが組み込まれているのに気付いて驚いていた。
 傷を庇う雷が動かす前脚の片方に負担をかけぬ様に、自分の操る後脚に力を込めて屋根を蹴る。
 獅子の跳ねた後の場所を、しなる「眼」の触手が穿った。
 殻の中、垂れ下がる幾つもの帯を繰る。黒型の三つの脚から出た爪型の刃が、着地した先の「眼」の身に食い込んだ。振り落とそうとのたうち回る「眼」に浮きそうになる体を押さえ、傷付いた脚も加えて一層強く爪を立ててしがみつく。
 今や全てが繋がっていた。殻の内側に張り巡らされた絡繰りも、そこに繋がる自分も雷も、自分たちの繰る帯も、全てが獅子の身の一つであり、獅子の身そのものだった。
 しがみついたままの獅子の頭が振り下ろされ、「眼」に噛みつく。
 固い表皮の内側、透けた「眼」の身は軟らかく、一度牙が通れば簡単に喰い千切ることが出来た。

全ての絡繰りが、殻が、かつてないほど滑らかに動いている。

雷の駆る半身に追いつこうと、残る半身を必死に操縦していたかつての自分はもういない。その弓の未熟な動きを、弓の知らぬところで補佐していただろう雷もいない。
 二人は最早分かたれた個人としてではなく、ただ、ひとつの生き物を動かすためだけに集中していた。
 伝令の撥と太鼓が鳴る。
 西館と中央からの、獅子舞たちの到着を知らせる音だった。
 黑型以外の獅子舞にも噛みつかれ、爪で切り裂かれた「眼」の抵抗が激しくなる。噛み付いていた「眼」の尾に引き摺られ、紅型の腰の殻が装飾ごと剥がれて飛ばされた。
 弓たちも放り出される前に爪を引っ込めて跳躍すると、くるりと一転して近くの家へと降り立つ。
 同鏡を通して敵の方を見れば、色とりどりの装飾の獅子の群れが跳躍し、「眼」の身体に傷を加えている。
 二人は獅子の身を屈め、じっと前方を窺った。
 狙うは正面。鞭のようにしなる触手の生える、巨大な口の部分だ。
 他の獅子舞と交戦する「眼」が暴れる中、狙いを定めるのは難しかった。のたくる暗く透明な巨体を見据え、辛抱強くその時を待つ。
 焦らず、慎重に。しかしすぐにでも決着をつけるために。
 時間の経過も分からぬ中、好機はついに訪れた。
これまでの傷がいよいよ堪えてきたらしい。西館から来たみどりの獅子が再び噛みついた瞬間、暴れ回る「眼」の動きが僅かに震え、がくりと固まった。

――――――――今!

絡繰りと殻の力を最大限に生かし、弓の後脚が足場にしていた屋根を蹴った。
 稲妻のごとく放たれた黒い身体が、がぱりと大きく口を開ける。
 弓は吠えた。もはや言葉になっているかも分からないし、気にしなかった。その声に混ざって、雷も吠えるのが聞こえたような気がした。
 「眼」が立ち直るよりも早く辿り着いた獅子の顎が、巨大な口の端を触手ごと勢いよく喰い破った。
 辺りに耳障りな音が響き渡る。
 悲鳴のような鳴き声を上げた「眼」は、一際強くその身を捩らせた後、少しでも獅子たちから逃れようと天へと浮かんだ。
 あちこちを喰い千切られ、切り裂かれた災いが宙を泳ぐ。
 再びこちらへと降りてくるかと身構えていた弓は、「眼」がこちらに背を向けたまま、橋から少しずつ離れていっているのに気が付いた。
 同鏡越しに小さくなっていく「眼」を、いつまた向かってきても討てるよう警戒しながら見上げる。
 豆粒よりも小さくなった「眼」が、霧で覆われた天に吸い込まれて見えなくなってから数刻。

カーン、カーン。

燈台守の鳴らす鐘が数回、龍井橋に鳴り響いた。
 続けて、近くの令楽隊の太鼓がトトトン、トン、と拍を打つ。
 それが危機は去ったという合図だと、獅子舞の舞手たちには分かった。
 それを頭では理解していながら、弓はまだ警戒を解けずにいた。
 解き方がよく分からなくなってしまったのだ。あれほど研ぎ澄まされていた感覚は消え去っている癖に、二人で舞っていた時の感覚が身体に残って、頭が妙にふわふわとしている。本物の獅子が乗り移って戦った後、二人を置いてどこかへと去ってしまったようだった。
「痛てててて……」
 ぼんやりとしていた弓の頭を現実に引き戻したのは、前方から聞こえる気の抜けた呻き声だった。
 慌てて操縦帯から手を外し、師の方へと上体を起こした弓に向かって、雷は傷を押さえたまま、へらりと腑抜けた苦笑を浮かべた。 
「今頃、傷が痛くなってきた……」
 その情けない声に、ようやく橋の危機が去ったことを実感する。
 同鏡の方に目をやると、館長たちや薬師たちが駆け寄ってくるのが見えた。他の獅子舞たちも、次々と獅子から降りている。
 一つ、笑みを含んだ息を吐いてから、師匠が獅子舞から降りるのに手を貸すため、弓は装甲の帯を外し始めた。

 

◇◆◇◆

 

龍井ロンジン橋の家屋が連なる中、屋根の上を弓は駆けていた。
 獅子ではなく、生身で街の屋根を歩き回るのはずいぶんと久しぶりだ。街で盗みを働くことがなくなって以来、こんな場所を歩き回る必要もなくなっていた。
 通り過ぎ様に見下ろした大通りは、いつも通り賑わっている。街のどころどころで剥がれた瓦やひび割れた壁だけが、大きな災いの襲来を物語っていた。
 それなりの損害をもたらした「眼」の襲来だったが、館長曰く今回は「上出来」だったという。
「三百年前には橋の一部が崩れ落ちかけたんだ。それに比べれば橋自体の被害は軽いし、獅子舞も完全に壊されたやつは一体もいない。おまけにそれなりの重傷を与えられた。逃げられはしたが、ここまでやれりゃあ充分だろう」
 破壊されはしなかったものの、黑型の傷は仲間内でも大きい方だった。今は「眼」に貫かれた脚の装甲を中心に修復を受けている。また乗れるようになるまでには、もう少し時間が掛かりそうだ。
 時間が掛かりそうな理由は、もう一つあった。
 屋根から屋根へと軽々渡っていた弓は、この辺りにかつての自分の生家があることをふと思い出した。辺りを見回してみるが、もう具体的な場所など覚えていない。恐らくは、と当たりを付けた家から出てきたのは見知らぬ親子だった。仲良く手を繋ぐ姿に、少しだけ口元が緩む。通りを渡るのを見届けた後、再び駆けだした。
 辿り着いたのは立派な建物だった。龍井の中でも大きい屋敷の三階に、弓は欄干や窓を足場に上っていく。
 目当ての部屋では、雷が布団の上で書物を読んでいた。不意に窓から影が差したことに気が付いたのだろう。何気なく顔を上げた雷は、弓の姿を見て二、三度の瞬きの後、耐えきれずに笑い出した。
「まさか窓から見舞いに来るとはなぁ」
「驚いただろ」片手で手早く履物を脱ぐと、よっ、と形ばかりの掛け声と共に療養院の部屋に降り立つ。
「怪我の調子は?」
「順調だそうだよ。ただ、当分は絶対に安静にしていろと言われている」
 溜め息を吐きながら閉じられた本は、他の橋の旅行記らしかった。
「お陰で身体は動かせないし獅子舞にも乗れない。退屈だ」
 だから他の橋の獅子舞について読むくらいしかやることがない、と続けられて弓は苦笑する。先日様子を見に行ってきた館長の、療養していても獅子舞馬鹿は獅子舞馬鹿だ、という言葉が頭に過った。
 「眼」の襲撃の後すぐにこの療養院に入れられた雷に、あれこれと弓は現状を話して聞かせた。橋の復興の状態に、道場の仲間たちの様子、そして昨日見つけた美味い飯屋。
 黑型の修理について話していた弓は、ふと雷がこちらを見て何かを言おうとしているのに気が付いて言葉を止めた。何かあったのかと尋ねると、いや、と静かに首を振る。
「あの時、逃げろと言った私の話を聞かずに黑型に乗り込んだだろう」
 布団から身を起こした雷は、穏やかに笑って弓を見上げた。
「あの後の動きは素晴らしかった。ようやく一人前の君と、黑型に乗ることが出来たんだなと思ったら、嬉しくてね」
 強くなったなぁ、弓。
 弓は思わず俯いた。ずっと望んでいたことなのに、いざ師匠に認められたとなると嬉しいばかりではなく妙に照れ臭くて、どう返したら良いものやら分からない。
 だが、弟子がようよう言葉を探して何かを返そうとするよりも前に、雷の「けど」という言葉が続いた。
「一度踏み込みが甘いところがあっただろう。あそこは改善の余地があるな。避ける時に少しだけ二人の調子がずれたところも気になった。二人とも怪我をしていても合わせられるようにしていった方が良いし……ああ、後は刃の使い方か。爪を身体に喰い込ませるのは良かったけど、他のやり方も考えたいな」
 顎に手をやり、つらつらと課題点を挙げ始めた顔からは、先ほど弓を一人前だと誉めた時の笑顔は引っ込んでいる。
 自分も弓も、完璧にはまだ程遠い。
 そう言いながら君はどう思う、と反省会を始めてしまった雷に問いかけられて、弓は本日二度目の苦笑を返した。
「いいからあんたは、早く怪我を治してくれよ」

 また二人で黑型に乗るには、もう少しだけ時間が掛かりそうだった。

<了>

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