梗 概
一切が空
死刑囚Yの意識は東京拘置所の第七サーバ内でブートした。人口二千万人となった日本社会ではもはや国家が人命を奪うことはなく、死刑執行は俗に《地獄》と呼ばれる仮想現実上のプログラムを受刑することで代替されるようになっていた。
目覚めたYに対して、罪状が読み上げられる。妻子の殺害と自宅への放火。Yがすべてを認めるのと同時に《地獄》プログラムの開始が予告された。
次の瞬間、Yは犯行現場である自宅と思しき場所にいた。供述書から再現されたであろう場面の中で、Yの記憶とは少し違う状況で妻と娘がいる。違和感に戸惑っているうちに、実際には存在しなかった第三者として見知らぬ男がその場に現われる。男はこの《地獄》のプログラムのガイドで《デーバダッタ》を名乗る。デーバダッタはこの場での行動はその後のプログラムには影響しないと保証して、思うとおりに行動するようYに示唆する。Yはひとまず妻子を置いてその場を離れようとするが、結局犯行時と同じように妻と言い争いになり、弾みで妻を殺してしまう。自宅には火の手が上がり、Yはやむなく自宅から避難する。《地獄》のプログラムはいつ始まるのかとYが訊ねると「すでに始まっている」と答えがある。
気がつくと、場面が変わってまた元通りの自宅の前にいた。玄関を開けると、何事もなかったかのように妻子が出迎える。今度は慎重に数日ほど何事もなかったように過ごしてみるが、車で外出をした際に事故に遭い、燃える車の中に取り残された妻子が焼け死ぬのを見ていたが、二人の死に様に見とれていて救助をしなかった。
次の光景は見知らぬ街中だった。Yはデーバダッタに《地獄》受刑の終了条件を訊ねる。「仏」を見つけること。と答えが返ってくる。Yは街中を歩くが、何も見つからない。体感で三日ほど彷徨ったところで、また妻子の住む自宅を見つける。そしてまた妻子の死に立ち会う。「仏」は見つかりそうになかった。
同じ事を繰り返すたび、周りの風景は抽象的になり、たどり着くべき目的地も遠くなっていった。どれほど時間が経過したか分からなくなってきた頃には、辺り一面が霧がかった白い世界を、あてもなく歩いていくことになっていた。
やがてYは違和感を覚えはじめる。この《地獄》は未完成だ。デーバダッタを問い詰めると、あっさりとそれを肯定する。《地獄》の苦しみが未完成である限り、救済もあり得ないため「仏」は見つからない。Yの刑期が明ける見込みは今のところはないと判明する。それを聞いたYは、次に見つけた妻子を可能な限り残酷な方法で殺害する。「地獄が未完成なら、俺が完成させてやる」と、自身の体験をシステムにフィードバックするようデーバダッタに要求した。
未完の《地獄》を彷徨い、その完成のためにYは仮想世界で罪を犯し続ける。もしかするとそれ自体が真の《地獄》である可能性も感じながら、Yは体感上無限の時間をそこで過ごすのだった。
文字数:1195
内容に関するアピール
仏教の地獄のイメージをベースに、芥川龍之介の『地獄変』に出てくる絵仏師良秀と、仏陀に反し阿闍世に殺人を教唆する提婆達多(デーバダッタ)をキャラクターにアレンジしました。
実作では詳しい地獄の様子や、それと対になる救済(仏)の存在、罪を犯した人間の罪悪感と改悛の余地といったテーマを煮詰めて描いていけたらと考えています。
文字数:158