九十九つくもの神と荒稼ぎ

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梗 概

九十九つくもの神と荒稼ぎ

 最上もがみ槻子つきこは家業が倒産したため、私立から公立の高校へ転校するが、学校に馴染めずに不登校になる。一方で槻子は、同じ私立へ通っていた幼馴染の千寿せんじゅ電機でんきの息子・隆からの援助は断っていた。

 ある日槻子が電気街を通ると、街は異形の者が跋扈する夜街に変わっていた。彼女は廃棄パソコンの前で困惑する付喪神の親玉とはち合わせする。親玉の話では、彼は廃棄された道具を付喪神化する役割を持つが、パソコンの機能が分からないので付喪神化できないとのこと。付喪神化できないごみは、魂を持たない廃棄物になってしまう。

 槻子は廃棄パソコンの中に、学校で使っていた旧機種のマックがあることに気づく。彼女はデザイナーになりたかったが、美大進学はお金がかかるため諦めかけていた。槻子が親玉にパソコンの説明をするとマックは付喪神・ツク太になり、槻子に従うようになる。

 親玉にしばしばバイトを依頼された槻子は、windowsやLinuxなどのパソコンを説明し、付喪神の増加に貢献した。やがて自分のパソコンの知識に限界を感じた槻子は、隆を誘って夜街へ赴く。隆のおかけで、データ格納用の大容量サーバなどの細分化された付喪神が誕生し、妖怪や神の仲間が増えた。槻子たちは感謝される。

 槻子は隆から、槻子がツク太を救ったのは、学校に通いたいという気持ちが残っていたからだと指摘される。自分の気持ちを自覚した槻子は、公立学校へ登校し始める。槻子はツク太を使って妖怪たちの絵を描き、部活で活躍する。またネットで絵師として活躍して小遣い稼ぎをし、美大への学費を溜めようとする。

 槻子と隆は、ある日付喪神化したパソコンが、槻子の家業が倒産するきっかけになった情報漏洩事件に使われていたことに気づく。そのパソコンは犯罪者の入力機にされ、踏み台のマシンへ接続して攻撃を行っていた。二人は踏み台のマシンが槻子の学校のサーバであることと、今も踏み台は同じものが使われていることを知る。

 二人は何度か犯罪の邪魔をしたが、犯罪者の正体は突き止められない。二人は大きな犯罪が決行される日時を知り、夜の公立学校へ忍び込み、リモート接続では参照できない記録等を見つけて犯罪者を解析する。一時停電にも構わずに作業をしていた二人は犯罪者の正体を突き止めるが、学校が何者かに包囲されていることを知る。犯罪者は、停電にも関わらず踏み台のマシンが動作したため、自分たちを妨害する人物が電源を復旧させ、現地にいると踏んで乗り込んできたのだった。

 二人はツク太で付喪神たちを招集し、校舎を付喪神化する。犯罪者は腰を抜かし、翌日逮捕される。槻子が通う公立学校には隆が転校してくる。

文字数:1118

内容に関するアピール

昔からの神が現代で活動する場合、勝手が分からず困惑することもあるだろうと思い、今回の話になりました。なお、道具が付喪神化するのは節分の夜とのことなので、時候にも合っているかなと思います。

道具を長く使うことは貴ばれますが、PCは短いサイクルで入れ替えるのがよしとされます。またウイルス感染など、人に近い形容をされる特殊な道具だと思います。

道具が付喪神になるためには百年必要だそうですが、PCはもっと早く付喪神化でき、校舎は相当古いという設定です。付喪神化したPCたちは、百鬼夜行に参加しても、見た目が箱で絵的に地味だと言われてがっかりする、といった話を入れたいと思っています。

付喪神や妖怪たちは、学校で踏み台にされているPCは集団で憑依されていると思っており、犯罪者を魔物だと見なしていますが、犯罪者はハイスキルのハッカーではなく、犯罪としてはやや凡庸なものを想定しています。

文字数:387

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九十九祓い

1.
「これで、しばらくは大丈夫」
 白衣をまとった女性は、椅子に腰掛けた少年の右腕に触れながら告げた。彼は安堵したように頷く。
「でも、君は成長期だから、すぐに小さくなるかもしれない。違和感があったら、すぐにおいで」
女性は、少年が腕を曲げ伸ばしする様子をじっと見つめる。手を離すと少年は立ち上がって小さく会釈し、診察室を立ち去った。彼女が立ち上がって伸びをしていると、少年と入れ替わりに青年が入ってくる。華奢でゆったりとした動作、高身長の女性とほぼ同じ背格好だ。
「瑠衣さん、次の患者です」
「わかった。通して」
 瑠衣と呼ばれた女性が白衣の裾を直しながら告げると、青年が少し口を濁らせる。
「それが……もう来ています」
 彼は、手にしていたものを、ゆっくりと瑠衣の前に掲げる。
 白くて細いそれは、さっきまで彼女が触れていたものと同じ、腕のかたちをしていた。

 御厨瑠衣は、壁にかかった複数のモニターを覗き込んでいた。記録されたデータを見る限り異常はないようだ。視線をずらすと、先ほどの青年、逸美洋治がぶらさげてきた腕が置かれている。
 デスクの上に置かれたその腕は白くかたちよく、手のモデルができそうなくらいに整っている。爪の先にはベージュのマニキュアが品良く塗られており、深爪しがちな瑠衣よりずっときれいに手入れされていた。皮膚は人工とは思えない質感で、自然なのに実際の皮膚より滑らかだ。その優しげな手が、色とりどりの無数のセンサーにつながれていると、まるで拘束されて蹂躙されているように見えた。
「あ、ちゃんと調査してるんですね。良かった」
 間延びしたような声がした。瑠衣が目を向ける。
「帰ったんじゃなかったの」
「いや、ほったらかさないかと思って」
「そうしたいところだけど、私たちの師匠が手掛けた腕とあれば、調査しないわけにはいかないでしょう」
 溜息をつきながら瑠衣は呟いた。ここ海道ラボは、BMI義肢で一定の評判を得ている研究所だ。ラボを立ち上げてその名を高めた海道武は既に亡く、今は複数の研究者が海道の遺志を継いでいる。瑠衣もその一人で、彼女は洋治と共にBMIの義手を担当していた。
「しかも持ち主は娘さんですからね、師匠の」
 からかうような洋治の言葉に、瑠衣は憂鬱そのものといった顔で返す。
「マヤちゃん、だっけ? 責任重いし、本音言えば、断りたいけどね」
「またあ、BMI技師は不親切だって言われちゃいますよ。で、不具合は治ったんですか? 指が動かないとかっていう」
 首を傾げる洋治に、瑠衣は言葉を返す。
「不具合もなにも、どこも悪くないんだけど。それどころか、一般人よりスムーズな動きだと思う。クライアントはなんて言ってきたの?」
「ピアノがうまく弾けないって。正確には、特定の曲を弾こうとすると、意図せず指が動いたり、動かそうとして止まったりするんだそうです」
 その言葉に、瑠衣は今回のクライアントの名前と、師匠の苗字が結びついた。
「もしかして、師匠の娘さんって、昔、天才少女って騒がれた、海道真矢さん?」
 首を縦に振る洋治に、瑠衣は強い不安を覚えた。

 数日後、瑠衣と洋治は、今回のクライアントで二人の師匠の娘である海道真矢の元に向かっていた。あと少しで春になるはずなのに、空気はきんと冷えている。車窓から見る太平洋側の海は澄んでいるが、きっと水温は低いのだろう。
 真矢からあずかっている義手は、きちんと梱包してはいるが、無造作に網棚に乗せるのは何となくはばかられて抱えこんでいる。そのため身動きがしづらい。
「寒いっすね」
 洋治が軽口を叩く。彼は体脂肪が少ないくせに常に薄着で、その日も薄手のセーターにショートコート、デニムにスニーカーという軽装だった。
「そうだね」
 頷きながら瑠衣は温かい缶コーヒーを渡してやったが、洋治はなおも文句を重ねる。
「調査しても何も不具合が見つからなかったんですよね? こうやって行くことで、何かわかるんですかね。そもそも、BMIの腕が勝手に動くとか、ないと思うんですが」
 その通りだった。義肢が勝手に動いてしまっては危険すぎる。
 そんなこと、私も分かってるよ。言語化しても不毛な言葉を頭の中に留めながら、瑠衣はその時ふと、師匠の海道の言葉を思い出していた。
「BMIの義肢で、不具合がなくても動く時があるって、聞いたことがある」
「亡霊か何かですか?」
 からかうような洋治の言葉に対し、瑠衣は肯定も否定もしないことにする。
「師匠が言ってた。開発してる時、BMI義肢で勝手に動く時があったんだって。そう言う時は『付喪神が憑いてる』って表現するらしい」
 誰もさわっていないのに物体が動く事態は、西洋世界ではポルタ―ガイストとして扱うのだろう。亡霊というのはそう遠くない表現かもしれない。しかしながら、海道師匠らがその怪現象に対してつけた名称は、なんとも古風な「付喪神」だった。
 付喪は九十九、つまり多種多様な万物という意味だ。BMI義肢は、ユーザの要望を99%叶えるところまで来たという定評ではあるが、今後は人間の肉体以上の拡張を与えるのか、
もしくは義肢の方が脳のアップデートを働きかけるようにするのかなど、まだ協議段階の要素が多々ある。人間の歴史の中でも、かなり後に登場した道具といえよう。
 瑠衣は海道の、付喪神にまつわる発言を思い出そうとした。最先端の開発者が何を言っているんですか、付喪神なんていませんよ、と抗議する瑠衣に対し、いや多分いるんだ、義肢が持ち主の意志から離れて動くことはあるんだよ、などと呟いて、ラボの隅でうまそうに煙草を吸っていた記憶がある。
 海道はヘビースモーカーだった。瑠衣が諫めると、海道はにやりと笑い、煙草好きが急に煙草をやめるとぱったり死ぬんだと言って笑っていた。肺がんになって亡くなる直前も、全然後悔していないと豪語していたものだ。
「付喪神? そんなものが憑いてたら、どうするんですかね」
 現実的な洋治の言葉に、瑠衣は我に返った。
「祓えないから、一緒に生きていくしかないって言っていたな」
「神様と? そんなこと、できるんですかねえ」
 呟きながら洋治は、缶コーヒーの蓋を開けることに集中しはじめていた。
瑠衣はふと、海道が空き缶を灰皿代わりにしていたことを思い出した。感傷的になりたくなくて、車窓から外の景色を眺めた。昼の光を帯びた海の青さが、やけに胸に迫ってくる。

2.
 勝手に動く腕の持ち主である海道真矢の家は、ターミナル駅に近い一軒家で、高い塀に囲まれた、昔ながらの洋館といった佇まいだった。寒空の下、さほど歩かずにすんだことに感謝しながら、二人は海道家のインターホンを押した。
 ジャーマンシェパードらしき屈強な犬たちの、値踏みするような視線を感じながら中に入ると、エレガントなワンピースを着た海道真矢が待っていた。生前の海道は、娘は母親に似て良かったと言っていたが、視線の強さの中に父親の影を感じた。
 凍えながら入ってきた二人を、真矢は香り高い紅茶を淹れてもてなしてくれた。ラピスラズリに似たロイヤルブルーの釉薬が鮮やかなカップには金の唐草文様の装飾がなされ、オリエンタルな雰囲気を漂わせる。茶を口に含むと、ダージリンと緑茶をブレンドしたような複雑で深い味わいが広がった。
「調査したところ、悪いところは何も認められませんでした」
 義手を包んできたバッグのチャックを開けながら瑠衣がきりだすと、真矢が溜息をついた。
「そう言われるような気もしていたのです。実際、日常生活を送るのには支障はないので」
 そう告げると真矢は、テーブルの脇で腕を出した。上腕の部分ですぽりと義手を外し、代わりに瑠衣が包んできた腕を装着する。真矢用にカスタマイズされた義手は、彼女の断端と接触すると瞬時に結合する仕様になっている。先ほどまで優雅な手つきで紅茶を注いでいた腕は、静かにテーブル下のラックへと収まった。
 真矢は装着した腕を曲げ伸ばし、指を一本ずつ動かして見せた。全ての動作がスムーズで、何の問題もないように見える。
 瑠衣は海道の話を思い出していた。真矢は先天的に右腕がないから、足りないところを他の部位で補っていたそうで、海道はその自然なたくましさに驚嘆したという。義手で訓練するようになったら瞬く間に使いこなし、使いにくいところの的確なアドバイスもくれたそうだ。海道ラボの影の立役者ともいえるような役割を果たしてくれたことになる。 
「どういう時に問題が起きるのか、確かめたくて来ました」
 瑠衣は居間のグランドピアノに目をやった。黒いつややかなピアノは優雅な曲線を描き、昼の明るい光を反射している。
「ピアノを弾く時に、ひっかかる感じがします。しかもそれは、ある曲に限って起こります」
「でも海道さんは、今までずっと演奏活動をなさっていましたよね。なぜ今頃?」
 洋治の素朴な質問に、真矢は幾分暗い面持ちで頷く。
「私は今度、コンクールに出場する予定でいます。課題曲がモーリス・ルイスの『輝ける水』なのですが、その曲を弾こうとすると、うまく指が制御できなくて」
 真矢はゆっくりと立ち上がり、グランドピアノの蓋をあけた。
 巨大な黒の塊に対し、鍵盤の白さが鮮やかだ。瑠衣は思わず目を細める。
 演奏がはじまると、二人は圧倒された。
 真矢の音は「輝ける水」そのものだった。澄みきった水が風に舞い、一瞬レースのような白い模様を描き、地上に落ちては吹きあがる。カッティングガラスのように煌めく水と反射する光が響き合い、強烈な輝きに意識がくらむ。音が再現する水の、めくるめく世界。
 ふと音が濁り、真矢は指を止めた。清冽な水で身も心も浄化されつつあったところから、いきなり乾いた現実に引き戻されたような不快感を覚える。二人が真矢を見ると、彼女は左手で右手を押さえ、鍵盤を睨んでいた。やがて溜息をついてこちらを見ると、椅子から立ち上がった。
「……この曲を弾くと、いつもこうなるのです。まず指がぶれて鍵盤に引っ掛かり、我にかえって指が止まる。他の曲ならすぐに没入できるのですが、この曲に限ってはうまくいかなくて。そして、自分にはこの曲を弾く資格などないと思ってしまうのです」
 悔しそうに窓の外を見つめる真矢は、小さな声で続けた。
「今まで、この曲を弾かずにきました。でもコンテストの課題になったので、もう避けられないと思って相談したのです。あと、なぜこの曲だけ駄目なのか、それも知りたくて」
 小雪のぱらつく灰色の空と、悩める真矢を交互に見つめながら、瑠衣は思い切って言った。
「なかなか相談できなかったのは、『輝ける水』が、お母様の得意とする曲だったからですか?」
 振り返って瑠衣を見つめる真矢の視線は、外の空気のように鋭利で重かった。

3.
「えっと、お母さんの『輝ける水』が素晴らしかったから、演奏を聞いていた義手が、娘の真矢さんにはその曲を弾く資格がないと判断してると思い込んでる、ってことですかね」
 帰りの列車で洋治が呆れたように言った。義手は今日の演奏時のデータを取るため、梱包してバッグに詰めてある。
「そう馬鹿にしないで。思い込みの強さで勝負に勝てたりもするみたいだから」
 瑠衣が取りなすと、洋治が不承不承頷いた。
「そんなもんですかね。でも瑠衣さんは、なぜあの曲が母親に関わっているって知ってたんですか?」
 瑠衣は小さく頷いて言った。
「真矢さんの母、つまり師匠の奥さんの海道亜里は、ルイスが得意だった。特にあの曲は、師匠がよくラボで流してたんだよ。だから私も知ってたんだけど」
「通りで。瑠衣さんがクラシックに詳しいというイメージはなかった」
「まあね。私はクラシックよりジャズとかの方が好きだから。もっともルイスは、現代音楽のジャンルが近いらしいけど」
 列車は目指す駅に到着した。洋治はそのまま帰途についたが、瑠衣はラボに戻った。義肢に機材を接続し、モニターを覗き込む。ルイスの曲を弾いてもらった時の脳活動から、真矢の計測値を取得する。波形を確認するとともに、海道とのかつての会話を思い返していた。
「なぜこの曲ばかりを流すんです?」
 瑠衣は教養として音楽を学んでいたが、それほど詳しくなかったため、『輝ける水』の曲名も分からなかった。瑠衣は、マタギのような荒くれた外見の海道には、繊細なピアノの旋律は似合わないと思っていた。すると武は苦笑して言った。
「これは、妻の亜里が得意だった曲なんだよ」
「じゃあ、日常的に聞いてるんですよね」
 瑠衣の質問に、師匠はさらりと返した。
「亡くなったんだ。数年前」
 想像していなかった答えに、瑠衣がしばし絶句した。
「……すみません」
「いいんだ。伝えてなかった俺も悪い。そんなわけで、しょっちゅうこれを流すのは許してほしい」
 自分がどんな反応をしたのか覚えていない。多分、頷くのが精一杯だっただろう。流れるピアノの音を聞きながら、武が懐かしそうに呟いていたのを覚えている。
「この曲はいずれ、娘の真矢が弾くことになる」
 その時武は熱く語っていた。娘が始めて妻の演奏を聴いていた日の、幸福そのもののような情景を。
 瑠衣はしばし考え込んで、ラボから洋治に連絡した。数コールの後、洋治は電話に出た。
 「なんなんですか、こんな夜中に」
 眠そうな声の中に、当惑がにじむ。一杯やってから寝付いたのか、息遣いがなんとなく荒い。
「いや、ちょっと思いついてね。私は真矢さんの義手の調整の最終段階に入る。君にはちょっと、やってほしいことがあって」
 説明を始めると、寝ぼけた様子だった洋治の声が、次第に明瞭になっていった。

 数日後、二人は真矢の家を再訪した。彼女は待ちわびた様子で瑠衣の持っていたバッグを見つめた。渡すとすぐに腕を装着し、安堵の表情を浮かべる。
「大変申し訳ないのですが、手がかりは見つかりませんでした」
 瑠衣が詫びると、真矢は頷いた。
「そうですか……でも、そんなにすぐに結果は出ないですよね」
 右腕をさすりながら独り言のように呟くと、真矢は二人に向き直って言った。
「いろいろ調査していただいて、本当にありがとうございます。でももう仕方ないですね。あの曲に関しては、諦めようと思います」
「諦める前に、一つ試していただきたいことがあります」
 瑠衣の言葉に、真矢は目を見開いた。
「試すって……何を」
 二人はタクシーを拾い、当惑する真矢を乗せた。着いた場所は公園内の瀟洒なレストランだった。瑠衣はテラス席を指定する。最初は戸惑っていた真矢だったが、だんだん席から見える風景を楽しんでいる様子を見せた。冷たい空気の中、沈みゆく夕日の色は鮮やかで、花壇では春の気配が芽吹き始めている。足元には温かいヒーターが置かれていて、緩やかな風が頬をなでる。
 ワインも入ってひと心地着いた頃、心地よいメロディが流れてきた。見れば店内にあったピアノがテラスに運び込まれ、演奏がはじまっている。普段は学生と思しき若者が、着慣れないスーツに身を包んで一心に鍵盤を叩いていた。恐らく無意識なのだろう、真矢は指を動かしながら音楽に浸っている。
 離席していた洋治が戻ってきて、瑠衣になにごとか事づけた。瑠衣は頷いて真矢の手を取る。
「真矢さん、次、ピアノを弾いていいそうです。ここで演奏してみませんか?」
 気分が高揚していた真矢は立ち上がり、促されるままにピアノの椅子に腰掛けた。
 店のスポットライトの輪郭はぼんやりしていたし、ピアノは真矢の家にあるようなグランドピアノではなく小さなアップライトだ。小さな椅子はおんぼろで、床板はギシギシとひび割れた音をたてる。しかし一度弾き始めると、そんなことは関係なかった。真矢の演奏は、明るいポップスからアップテンポのジャズのナンバーへとバリエーション豊かに移り変わった。曲が終わるたびに大きな拍手が湧く。佳境に入った頃、瑠衣は立ち上がり、真矢の肩に手を置いた。
「今ここで、『輝ける水』を弾いてみて。水の音を体感しながら」
 今まで夢心地だった真矢が、はっとしたように瑠衣の顔を見る。そして静かに頷くと、『輝ける水』を弾き始めた。
 既に夜の闇が訪れ、公園はライトアップされている。中でも一際鮮やかだったのは噴水のライティングで、吹き上げる水が光を無数に反射している。その輝かしい水の流れは演奏中の曲と連動する。真矢の音は粒が細かく流麗で、噴水から吹き上がった水が、なめらかな孤を描いて落下する瞬間の一つ一つを鮮やかに拾い上げて再現しているようだった。音は水滴に変わり、メロディは奔流となり、真矢の演奏は今、輝ける水そのものとなった。
 固唾を呑んで見守っていた瑠衣と洋治の緊張は、曲が進むにつれてほどけていった。そしていつしか音に身を委ね、純粋に音楽を楽しんでいた。演奏が終わると真矢は、万雷の拍手の中で優雅にお辞儀をした。それは真矢が自分の『輝ける水』を獲得した瞬間だった。

4.
「本当に、ありがとうございました」
 別れ際、真矢は二人に告げた。
「いえ、お礼を言われることではありませんよ。きっとお母様もあなたの演奏を認めたのでしょう」
「ええ。母の音を知っているこの手が、私の音を認めてくれたのだと思います」
 そう告げると真矢は、二人にふかぶかと頭を下げた。
 瑠衣は、去り際に見せた真矢の笑顔に、なにか凄みがあるような気がした。

「ああすればうまくいくって、なんで分かったんです?」
 帰りの列車の中、缶コーヒーで手を温めながら洋治が尋ねた。
 瑠衣はゆっくりと頷いて告げる。
「私だって分かっていたわけじゃない。ただ、手の方にヒントがあった」
 そう告げると、義手の入ったバッグに手をやる。今日の演奏時の計測を行うため、真矢に頼んで持ってきたものだ。
「前回の計測値で、何か分かったってことですか」
「あの曲を弾く時、真矢さんは極度の緊張状態にあった」
「だからリラックスすれば解決すると? そんな簡単な話だったのか」
 呆れるように呟く洋治。瑠衣はシートを大きく倒し、体を預けた。
「そう簡単でもないよ。母親と同じくらいに上手く弾かなければならない、それがストレスになっていたんだと思う」
「それだったら、大きい噴水の見える店で演奏しなくても、もっと簡単なやり方があったでしょうに。ああいう店を見つけて話をつけるの、結構大変だったんだから」
 洋治の言葉に、瑠衣は苦笑した。
「師匠が言ってた。真矢さんは、亜里さんの演奏する『輝ける水』を、噴水の見えるテラス席で、師匠の膝の上で聞いてたんだって」
 瑠衣が海道の生前に聞いた話だ。膝の上の真矢の義手はまだとても小さくて、海道は繊細な手を壊さないように握っていた。真矢の右手は海道の心臓の鼓動に、左手は亜里の奏でる音のリズムに合わせて動いていた。それは夢のような情景だっただろう。
 瑠衣は思った。私は亜里さんの演奏を聴くことはできない。でも今日の真矢さんの演奏の音は、才能が無限に湧き出す噴水のようだった。
「昔の情景を再現して、かつリラックスできれば弾けるだろうという気がして」
「じゃあ腕が、彼女を認めたっていうのは」
「方便みたいなものだよ。それで彼女が自信をとりもどせるなら、それでいいと思って」
 瑠衣が笑みを浮かべて言うと、洋治は溜息をついた。
「いやあ、なんか、怖いですねえ」
 瑠衣はラボに戻った。義手を機器に接続し、計測値をチェックする。一連の演奏の中でも、『輝ける水』を弾いている時に最も意識が高揚し、腕の細かい部分まで使っていることが確認できた。瑠衣は予想通りの結果に満足し、椅子に身を投げ出した。
 どさ、という音がした。見ればケーブルが全て外れ、義手が落ちている。細い指がキーボードの上で動いていた。その指の運びは、真矢が『輝ける水』を弾く時の運指と類似しているようだった。
 瑠衣は呆然として、指の動きを見つめた。
 やがて動きが止まった。義手を持ち上げ、そっと触れてみる。
 その時、生前の武とのやりとりが、鮮烈によみがえった。

瑠衣が、付喪神なんていませんよ、というと、海道は、
「いや、多分いるんだ、義肢が持ち主の意志から離れて動くことはあるんだよ」
と呟き、煙草に火をつけた。うまそうに吸いながら、なおも続けた。
「俺たちの研究所の義肢は、脳からの指令で動く。でもそれだけじゃない、義肢からの信号は脳に伝わって、脳を育てもするんだ」
「それが付喪神と、どう関係あるんですか?」
 尋ねる瑠衣に、海道はどこか遠い目をしながら言った。
「義肢に育てられた脳は、義肢に更なる指令を出す。それは俺たちが想定できない動作になるはずだ。もしかすると、司令官が不在でも命令を蓄積して動作できるような、そんな器官をつくりだすかもしれない。自律して動くのなら、付喪神がついてるってことになる。祓えないなら、一緒に生きていくしかない」

 私たちは、真矢から、母の幻影を祓ったつもりだった。
 それとも付喪神は、指に、義手に憑いたままだというのか?
 
 祓えないなら、共に生きるしかない。 
 瑠衣は義手の全ての接続と電源を切った。
 指ががくりと折れた腕は、命の尽きた物体のように見えた。
 しかしピアノを弾くような指の動きは脳裏に焼き付き、残像はいつまでも消えなかった。

文字数:8592

課題提出者一覧