梗 概
春の闇
海辺に面し険峻な山が連なる災害の多い「鹿毛」を開拓した水辺家。地域伝承には、狐狸妖怪を「生死を操る力」で倒したという伝説もある。実際に山頂には、伝説に由来のある夜泣き石も存在した。水辺家は古くから「始祖神」として信仰されており、地域の社からは宝物が奉納されていた。
水辺家の一人息子である「流」は、柵にとらわれていた。水辺家には不吉な死に見舞われるという言い伝えがあり、流の幼い頃には、父親は発狂して海に飛び込んで死んでいた。「お前も吹っ飛んじまう」などと同級生からいじめを受けた。流は夜になると妙なものを感じてしまい、闇を恐れた。従兄弟で一つ年下の「巽」にだけそのことを話した。解決方法を知るため水辺家の伝承を探っていた中、「闇夜になかぬ烏の声」という言葉に引っかかる流であったが、意味を解明できなかった。
流が進学のため地元を離れて数十年後。鹿毛で融雪による土砂崩れが起き、何名もの行方不明者が出た。巽も行方不明になったという知らせを聞いて、地元に戻った流。巽の母から救いだしてほしいと密かに懇願されるが、「できるわけがない」と流。久しぶりに訪れた水辺家は窓が破られたり、「役立たず」と張り紙がされたりなど迫害されていた。流は救助活動に参加し、その活動の中海辺まで流された夜泣き石を見つける。
夜、烏の鳴き声がする。その鳴き声をたどっていった先には、災害の起きていない「鹿毛」の街そのものがあった。しかし、川は下流から上流へと流れ、日は西から東へと傾き、現実とは微妙に異なっている。街には建物があるものの、人の姿はない。土砂崩れで流されたはずの夜泣き石は、元の場所にあり、赤子の泣き声がする。流は実家に行く道の途中、呆然と佇む巽を見つける。巽とともに水辺家を訪ねるとそこには若い頃の父がいた。父は、一度災害から街を救っていたことを明かす。現実世界を変えるには代償を払わねばならず、父は命を落とした。「すぐ戻れば何も背負わずに済む」と巽を捕まえようとする父。逃げさる流たちであったが、道を戻っても元の世界には帰れない。刃物を持った父に追いつかれ、流は身を挺して巽を守る。「できることなら助けたい、死んでも構わない」「命を助けたければ全ての理をさかさまにしろ」と父は流の手に刃物を持たせて、巽の首を斬らせ、さらには父自身の首をも切らせた。二人の血を滴らせた流はこちらの世界で迷っている行方不明者たちを殺し、夜泣き石を砕き、日と川の流れを呪った。全ての理には自分自身も含まれると悟った流は、自分の胸を貫いた。
目が覚めた流は、東から日が登る世界に戻っていた。巽が生きていることを確認すると発狂したかのように喜ぶ流。突然やって来た流の様子に異変を感じた巽は、そばを離れるなと言う。しかし、流は、その言葉を聞かずに鹿毛を後にしようとする。すると夜泣き石が突然流を目掛けて転がってきて、石に潰され流は命を落とした。
文字数:1204
内容に関するアピール
大国主やスサノオの貴種流離譚と黄泉平坂・根の国の死後の世界をモチーフに考えました。実際に祭祀に携わる立場の悩みを見聞したことが元になっています。運命を受け入れ、立ち向かうことをテーマに置いています。死後の世界を逆さまに捉える習俗は多くあるそうです。「闇夜になかぬ烏の声〜」は有り得ないことを歌って相手を呪う歌、サカ歌の一種です。貴種流離譚は、偉大な英雄を作り出しますが、それも逆さまにしてダークな英雄を描きたいと考えています。
文字数:214
ヨゴモリ
ゆらりと黄緑色にひかる丸い点が、宙に浮かんでいた。それをじっと見ることができなくて、僕は布団の中まで潜った。外壁に当たる風と、風に揺れるブナ林のブーンブーンと鳴く音が聞こえてくる。その音に耳をすまそうと僕は意識を集中する。屋根に何かが当たる音がして、僕は、膝を抱えるようにして、布団の中で丸くなった。
ブナ林の鳴き声に混じって、何か別の音がした時。それは、何かが近づいてくる予兆であった。それは、窓を叩いたり、ドアを叩いたり、壁を叩いたりもする。気づかないうちに、それは小屋の中に入り込んでしまう。近づいてくると、それはもっと明瞭に聞こえてしまう。「くすくす」とか「ふふふふ」だったり、「キャハハハハ」という笑い声だったりする。その声が聞こえた時が超注意で、それは、こっちに喋りかけてくる。それの発する言葉に耳を傾けてはいけないし、反応してはいけない。聞こえているとわかって、どんどんどんどん入り込んできてしまうからだ。
予想していた通り、それは、僕に語りかけてきた。布団を挟んでその向こうから、声を掛けている。
こういう時、とっさに思い浮かぶ何かに僕は縋りつくしかなかった。頭の中に浮かんできたのは「7」という数字だった。ラッキー7のなな。きっとこれには意味がある。僕がそれをずっと頭の中で唱え続けて、それの発する言葉を聞かないように必死に耐えていた。一体何回唱えたのかわからない。頭の中が「777777」で埋め尽くされて、何も考えなくなった時、ずずずと背中から何かが抜けるような感覚があって、頭の中に響いていた声は消えてしまった。しばらくしても僕は、空気の薄くなった布団の中で呼吸を続けた。流石に息が辛くなって、布団から、ゆっくりと頭を出して、目を閉じたまま息を吐いた。冷たい空気が鼻を伝って、体へと通った時、僕はやっと眠ることができる、と安心した。
朝日とともに起きて、六畳しかない小屋の中で、身支度を整えた。畳んだ布団に寄りかかりながら、照明から伸びた紐の先端についている蓄光の丸いストラップを手で叩いた。暗闇の中で見るあの黄緑色の光は妙に苦手なのに、どうして朝になると平気なのかよく分からない。僕は、思い立って、小屋の外にでて、小屋の後ろのいっぱい生えている熊笹越しに、遠くの方にある大岩を覗き見ようとした。
太陽が出ていていても、なんとなく、あの大岩のことは少し怖かった。大岩をぐるっと結んでいるしめ縄が、チラリと見えた。後ろの方から、枝の折れるパチパチとした音で振り向くと、ちょうど下の車道から小屋の方まで登ってくる車が見えた。
寝癖をつけたままの巽が、車から降りてきた。起きたばっかりなのか、瞼はまだ腫れぼったかった。叔母さんが、車の後ろのドアを開けてくれて、僕は巽と一緒に布団を運び、後部座席に乗った。
「ねえねえ、おばけとかでた?」巽は、車が発進すると同時に言う。こらっ黙ってなさいと叔母さんはすかさず言うもんだから、僕は答えることができなくなってしまって、巽はふてくされて、助手席で丸くなって俯いてしまった。
「もう慣れたかい、1人で眠るのは」と叔母さんは言う。叔母さんが、鏡越しにこっちを見ているのが気配でわかったけど、僕は叔母さんの方を見ないで「うん、さすがに慣れたよ」と言った。
おじいちゃんが病気で亡くなってからは、僕ひとりで「ヨゴモリ」をやっている。『どんなに怖くたって、ひとりでこなさなきゃいけない』おじいちゃんはずっとそう言っていた。
ブナ林のある陰山から、なだらかな坂を降ってうねうねと蛇行した道を進んでいくと、谷底を流れる葛川が見えてくる。町に向かっていくにつれて川幅が広がって、葛川の河川敷で、釣りをしている人の姿がチラチラと見えた。
家に着くと、お母さんが玄関先にある荷物を家に運んでいた。段ボールが九つくらいあって、そこには旬のいちごがいっぱいに詰められたやつとか、野菜だけがまとめられたやつがあった。
「みてみて、今年もいっぱいお返しもらっちゃった、これもなっちゃんのおかげね」
お母さんは車から降りた僕の頭をわしゃと撫でた。巽は、「僕も触る!」と言って触ろうとする。「やめてよ」僕は、ジャケットのフードをかぶって、二人から逃げるように家の中に入った。玄関にある鏡に映った自分を見て、やっぱり変だなと思う。「ヨゴモリ」のたびに僕は坊主になる。お母さんはチクチクして気持ちいいじゃんとか言うけれど、僕は嫌だった。じっと鏡を見ていたら、「今年よりも少ないんじゃないか、まぁ運ぶの楽だからいいけど」と叔母さんが荷物をもってリビングへと入っていった。キッチンテーブルには、瓶酒やジュース瓶が並んでいて、隣にはお菓子の袋詰めが山をなしてた。
「うちじゃ食べきれないから、たっちゃんも選んでもってってね」
「いちごがいい!」と巽は、叔母さんが運んできたばかりの、パックに入ったいちごが盛りだくさんの段ボールを指さした。叔母さんは、「悪いね」と僕を見て苦笑いした。
「ヨゴモリ」の後は、必ずこうやって、神社の人たちから「オソナエ」がもらえた。神社では夜店祭りが行われていて、そこで奉納された品々を、夜の間に運んでくれるのだった。お母さんは、地蔵の恩返しみたいなものとよく言う。
「なっちゃん、これ、渡してきてくださいな」
そう言って、お母さんは、僕にずっしりと重たい白い巾着袋を手渡した。うけとった弾みで、ジャリ、と金属同士が擦れあう音がする。僕は、小さく頷いて、和室にある仏壇へとそれを運んだ。おじいちゃんの写真が、小さな写真立てに納められて、仏壇の中央に飾られているところに、その巾着袋を置いた。写真のおじいちゃんは、僕と同じ丸坊主で、笑窪のあるいい顔で写ってた。
「オソナエ」には、お賽銭も含まれた。「ヨゴモリ」を行う日のお賽銭は、全部うちのものになった。『お賽銭は、仏壇にあげて、その後ちゃんと洗いなさい』おじいちゃんの教えの一つだ。
僕は、手を合わせた。「無事に終えたよ、おじいちゃん」
おじいちゃんは、僕にこの水辺家の長男としてやらなきゃいけないことを徹底的に教え込んだ。おじいちゃんは、僕が生まれたその年にでも、「ヨゴモリ」に参加させようとしたくらいだ。けれど、お母さんの猛烈な反対にあって、「ヨゴモリ」に参加できたのは3歳になってからだった。おじいちゃんの後を継げるのは、僕だけで、でもおじいちゃんは、もう年で、病気も持ってて、仕方がなかった。
「水辺家っていうのは、この町をひらいた一族で、元々このまちは、災害が多かった。陰山から、流れてくるんだな、葛川を通って雪や土砂が。葛川が耐えられなくなったら、あたり一面は土砂に塗れて大変なことになる。そこで、軟弱な山を強くするために山にブナを植えたのが、ご先祖さん。ブナは山を強くするって知ってたんだな、だからブナ林は普通の人は入れんし、勝手に切ったりすることはできないんだな。よう覚えておきなさい」
「ヨゴモリ」の日には、必ずおじいちゃんはその話をした。小屋で眠りに落ちるまで、訪れてくる何かに僕が怖がらないようにと、途切れなく話をしていてくれた。
「ここは、元々は、陰っていう名前の土地で、今では鹿と毛って書くけれど、これはわざと使っているんよ。災害が何年かごとにずっとあって、起きるたびに、ここん人は妙なもんを見た。死んだと思っていたら、実は生きていたり、死んだはずの人の影を見かけたりな。街の人も外から来た人も君が悪くって住めねえって言って、街を去って言ってしまう。それじゃあいけねって言うんで、その原因探ってたら、ちょうどその悪さをしているのが葛川から流れてきた大岩のあたりってわかった。陰山の伝説、そこにある大岩には狐が住んでて、人にしょっちゅう悪さをしてたんだな。狐は人の死体を使ってひっくり返って物に化ける。見知らぬふりして通った人が、大岩のすみでひっくり返った狐をまたひっくり返して、化けないようにさせて、懲らしめた。ここの小屋から奥の方にある岩がその岩で、それを山に戻したのがご先祖さんだな」
「この小屋にくるのも、その狐なの?」
「そうかもしれないな」
初めて、あの小屋で一晩を過ごしたとき、何かの正体がとりあえずわかって、僕はやっと落ち着いて眠ることができたのだった。
「今年は、女の人だったんだね、去年は、犬の鳴き声だったけど」
僕の部屋で、巽はノートに僕が話したことをメモしている。そのメモの隣のページに、女の人の落書きが途中まで書いてあって、髪の長い、顔の見えない女の人の幽霊みたいな感じだった。
「おじいちゃんがいなくなって、一人で眠るようになってから、よくわかるんだ。この前思いついたのは、7って数字だったよ」
巽は、ノートをめくって、去年のメモを確認した。「去年は、四葉四葉って言ってたらしいよ」ノートの隅には、犬と、四葉のクローバーが描かれていた。犬っていうよりは、牙の出ている狼のような感じに描かれていて、巽にはそう聞こえてたらちょっと申し訳なくなる。
「なっちゃんの、7みたいなもんだったのかもしれないね、なっちゃんのおじいちゃんのお話って」巽は、女の人の体を描きながら言った。裾がギザギザで、ボロ切れのようなものを着た女の人は、だんだん幽霊というよりはゾンビって感じになって、裾からは立派な足が伸びつつあった。
「おじいちゃんは、怖いなんて一言も言ってなかったよ。僕に聞かせてただけだよ」
「でも、なっちゃんがちっちゃい頃から連れてったじゃん、それって怖かったんじゃない?」
巽は、とうとう女の人に、太くて立派な両足を生やしてしまった。本当に足が生えていたのかはっきりしないけど、こうやって描いてくれると、別に怖くないのかもしれないと思えてくるから不思議だ。僕は一人だけで、あの時のことを思い出して記しておくことができなかった。おじいちゃんが亡くなって、初めて一晩を過ごした時のことを僕はあんまり覚えてない。巽は、部屋に閉じこもって泣いてばかりいる僕のそばで、ノートとペンを出して、変な落書きを書いては見せてくれた。ぽつりぽつりと話した僕の言葉を絵にしてくれたことがきっかけで、それ以来ずっと続いている。はじめの時のノートのメモには、「叫び声」と書かれてあって、漫画の効果音みたいに強調された文字で、「ギャー」とか「ワー」とかがノートを埋め尽くして書かれていた。
僕は、勉強机の鍵のかかる引き出しの中から、オソナエとしてもらった海苔のカンカンを取り出した。そこに、巽の書いたノートをしまっておく。
「おじいちゃんは、別に怖くなんてなかったと思うよ、僕と違ってさ」
カンカンの中には、今ままで、巽と一緒に集めてきた、水辺家の伝説にまつわる資料が入っている。そこには、必死で探した、お父さんの写真も入っている。
「こないだ、お母さんに、あんまり行かないでって言われちゃった」
そばに、巽が寄ってきて、カンカンの中の、写真を覗き込んだ。
「そっか」
僕は、もう一度、お父さんの写真を見て、ゆっくりカンカンの蓋を閉じた。
おじいちゃんが病気で亡くなったのは、三年前。お母さんは働いていて、家にはおじいちゃんと僕だけでずっと過ごしていて、おじいちゃんは僕の世界で、おじいちゃんがいなくなったということは世界が終わったということだった。おじいちゃんの部屋で泣いてばかりいる僕を引っ張って、最後の別れをさしてくれたのは叔母さんだった。
「流くん、ちゃんとおじいちゃんにお別れを言わないと後悔するよ、もう二度と会えないんだから」
そう言って、叔母さんは僕の手をつかんで、和室の中央に据えられたおじいちゃんの棺までつれていってくれた。家にはたくさんの人が来ていて、僕は初めて知らない人たちをあんなにみた。おじいちゃんの棺の前に並んでいた人たちが、僕に順番を譲ってくれた。棺は、テーブルの上に置かれていて、棺の中から、太い縄が沢山垂れ下がっていた。僕の身長ではその棺の中を覗くことはできなかった。叔母さんが僕を抱いてくれて、ようやく覗くことができた。棺の中のおじいちゃんは、白い服を着ていて、その白い服の上に、おじいちゃんの体を締め付けるように、太い縄がいくつも結ばれていた。
「流くんも結びなさい」叔母さんはそう言って、僕の手に棺から伸びる一本の縄を持たせた。その縄は、おじいちゃんの体の下を通っていて、両端を結び合わせるのだった。「生き返ってしまうから」と叔母さんの隣に立っている人がぼそっと呟いた。叔母さんに抱かれたまま、僕はぎゅっと縄を結んだ。その結び目は、丁度おじいちゃんの胸のあたりで、結んでいる間、僕は眠ったおじいちゃんの顔をずっとみていた。僕は強く結んだつもりだったけれど、ゆるかったみたいで、隣に立っていた人が、ぎゅっぎゅっと硬く結ぶと、おじいちゃんの体はその力で一瞬持ち上がった。
たくさん並んでいる人たちは、おじいちゃんの体を結びに来ている人たちだった。叔母さんは、僕を縁側に座らせて、「おじいちゃんのそばにいてあげな」と言って頭を撫でてくれた。僕はまた泣いてしまって、一人でうずくまっていた。なんでおじいちゃんを結ばないといけないのか、僕はよくわからなかったし、僕はおじいちゃんを結びたくなかったと、だいぶ経ってからそう思った。
「水辺さんは、よかったな往生できて。息子は大変だったじゃないか」
「ああ、あの子が、漁くんの? 流くんだっけ」
僕は、その声に振り返ると、縄を縛ってくれた男の人と、知らないおばさんが、僕をみていた。視線が合うと、パッと顔を背けて、部屋の奥へと消えていった。僕は、自分の家にいるはずなのに、少しも落ち着くことができなかった。後ろを振り向けば、おじいちゃんの棺がそこにある。棺から垂れる縄の量がさっきよりも少なくなっていて、おじいちゃんの体にたくさんの縄が結ばれている様子が目に浮かんだ。
「なんだ、メソメソ泣きやがって」
縁側に座っている僕の前に、男の子が立っていた。こんがりと日焼けした肌と太い腕。
「普通に死んだらああなるか、狂って海に飛び込んな、お前も」
「飛び込む?」
「お前の親父だろ」
僕は、男の子の言っていることがよくわかっていなかった。男の子が、僕をみていたおばさんに呼ばれて、「変なやつ」と言って去っていった。
お父さんが一体どんな死を遂げたのか、僕は知らされてなかった。あのあと、すぐお母さんにも聞いたけど、「ああ、神社の子ね、オソナエするのがいやだからそういうのよ。気にしちゃだめよ」そう言って、話してはくれなかった。
唯一、叔母さんだけが、僕に教えてくれた。
「流が生まれる前に、突然行方不明になったんだ。そのあと、海から水死体が上がったんだ。なぜそんなことになったか、誰もわからない。ただ、」
叔母さんは、言うのを迷うそぶりを見せて、髪を掻きむしった。僕は、叔母さんが躊躇する理由が分からなくて、叔母さんの手を握りしめた。
「変に思わないでくれ、これは噂だし、誰もそれを本当だとは思っていないんだ」
「何? 何なの? 早く言ってよ!」
「漁がいなくなったあの日、漁が俺を殺したんだ。包丁で、首筋を切られたことを今でも覚えている。でも、漁は、何もしてない。現に俺は生きているんだから。でも、あの感覚は嘘じゃないし、夢ではなかった。あれは、本当に起こったこと何じゃないかって」
空を睨んでいた叔母さんの目が、僕の顔を睨みつけるかのようにまじまじと捉えた。瞬きを忘れてしまったかのように、僕のことをじっと捉えて話さなかった。その目を、僕はこれまでに何回も見てきた気がする。
「誰も本当って思ってないってどういうこと? 一体誰なの?」
叔母さんは、視線を背けて、小さく「みんな」と呟いた。
あの鹿毛の街で一生を終えること、僕には絶え間のない苦痛でしかなかった。小学校に上がってから、僕はますます、自分がどういう立場の人間なのか思い知らされた。叔母さんの、あの目、あの目は、街の大人が僕を見る目そのものだったのだ。同級生も、僕のことは、何となく知っていた。あの神社の子もそうだっただろう。
僕は、おじいちゃんに守られていた。でも本当にそれが守っていたことになっていたのか、今でもよく分からない。
この町を出ると決めたとき、開口一番お母さんは、「ヨゴモリには帰ってくるでしょう?」と言った。その時は、当たり前だよと言ったけれど、結局僕は、おじいちゃんとの約束を破って、「ヨゴモリ」から逃げた。水辺家の伝説からも、噂話からも。
進学のために、東京で一人暮らしを始めてから、一度も故郷には帰らなかった。
4月の春のあの晩だけは、僕は眠ることができなかった。巽から連絡が来たのは、後にも先にもあの時だけだった。巽は、僕が外に出ることに反対してたから。
「なっちゃん、本当に帰ってこないの?」久しぶりに、自分のことをなっちゃんと呼ぶ声を聞いて、鹿毛での日々が思い出される。苦しいことも多かったけれど、巽との思い出は、どれも懐かしかった。
「ごめん、巽。やっぱり帰らないよ、鹿毛には」
僕が告げた後、しばらくの間が空いて、僕の声が巽に届いているのか心配になって、僕は「巽?」ともう一度いう。
「もし、なっちゃんが帰らないなら、誰が代わりにやるの」
ヨゴモリの順番。誰かが代わりにあの小屋で一晩過ごさなければならない。水辺家のもので、長男である僕が行かない場合、誰か近しいものがやらなきゃいけなくなる。
「お母さん、になるのかな…」僕は、逃げた。わかってて、嘘をついた。
「違うでしょ、僕でしょ、女の人はできないんだから、僕がやるしかなくなるんだ」
電話越しに聞こえる巽の声に、雑音が混じって聞こえてくる。
僕は、ごめんと小さく呟いた。
あの4月の晩から、僕は普段の夜の中でも、何かの気配を感じるようになってしまった。「ヨゴモリ」をしなかった僕への罰なのか、それはわからなかったが、僕は夜を恐れ、誰かとともに眠ることも、癒されることもなかった。
僕は大学を卒業後も、鹿毛には戻らず、仕事を転々として過ごしていた。
ある日、僕はいつものように、テレビと照明をつけたまま、寝椅子に横になりつつも眠れない夜を過ごしていた。すっと寝落ちできるのが一番ベストだったけれど、そんなことはなかなかなくて、何かの声を聞かないように、必死に朝がくるのを待っていた。
寝落ちをするかどうかの瀬戸際で、僕の目と耳に、聴き慣れた言葉が飛び込んできた。「カゲ」と「クズカワ」だった。けれど、テレビに映る、その光景は、僕の住んでいた街とは思えなかった。融雪による陰山の雪崩で、流れ込んだ土砂は葛川を溢れて、街を覆ってしまっていた。
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