梗 概
ピグマリオン・イン・テラー ~自分のために踊りな~
ごく近未来、病気は次々に克服されているが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の治療法はまだない。主人公はALSを患った、若い技術者センイチ。
希望のない地獄のような病態。彼は強く死を望むが、社会は自殺を許さない。彼の唯一の話し相手は「ヒダリー」。左手に寄生する想像上の友人を頼りに、かろうじて地獄の日々をやり過ごしている。
センイチは野球少年だった。父親は厳しかったが、野球は好きだった。自分のことを「ぼく」と呼ぶ程度には文化系だったが、サウスポーというだけで地元の弱小野球部ではレギュラーをとれた。彼にとっては頼れる「ヒダリー」だった。
病気になった父親の姿を見て一念発起、紆余曲折の末、甲子園投手になった。人間には期待されたラインに沿って成果を出す(ピグマリオン効果)傾向がある。
プロの才能はないと自覚しており、大学では父親の介護に役立つテクノロジーの研究者を目指した。しかし間に合わなかった。二重の意味で。父親の葬儀の日、彼自身にALSの兆候が表れた。知らずに逝けたのは、父にとっては幸せだったかもしれない。家族性ALSである。
絶望のなか、死にゆく自分の身体を実験材料として、彼は開発をつづけた。介護の革命となるだろう「動く繊維」をまとい、弱体化する筋力を補う。日本が誇る素材技術の結晶に、筋電位に感応するプログラムを乗せる。動かない身体に鞭打って、彼はコードを書いた。
しかし、もうダメだ。いよいよ呼吸さえできない。呼吸器につながれれば会話も奪われる。苦しい、殺してくれ、もう許してくれ。彼は嘱託殺人を計画するが、すべて頓挫する。計画を見透かし、彼を生かしつづける者がいる。──看護師だ。
仕事としては当然だが、そこには不気味な裏があった。ほとんどボランティア価格で、専門技術を持つ看護師が通い詰めてくれることに、家族は感謝したが、彼自身は恐怖を感じはじめていた。まったく思い出せなかったが、彼女は高校時代の同級生で、甲子園投手に片想いをつづけた陰キャだったらしい。
問題は、彼女のやっていることが表向き正しいことだ。自殺をやめさせ、「生きるという正義」を貫こうとしている──客観的にはそう見える。
しかし、キリスト者という正義の皮をかぶった彼女は、ある日、その欲望を剥きだした。彼が目覚めると、身体じゅうがべとべとする。口のまわりが臭い。股間に違和感がある。ゾッとした。にやにや笑う看護師に、吐き気しかしない。
聖母マリアは昏睡レイプされただけ、と信じる彼女は、自分が神になるつもり満々のサイコパス(狂信者)だった。この先、彼は生きた玩具にされるのだ。
一方で彼女も、奇妙な現象に遭遇するようになっていた。次々、よくある都市伝説のような心霊現象に襲われ、精神的に追い詰められていく。偏愛する男を追い詰めるのと並行して、彼女自身を追い詰めているのは、左手の形をした獣──。
文字数:1199
内容に関するアピール
タイトルはBOØWYの名曲『マリオネット』からですが、ジャスラックに怒られないよう書くつもりです。
人間が「神」や「悪魔」をどうやって「つくった」か。
いかなる形の安楽死をも禁じた教皇のメッセージは、はたして正しかったのか。
宗教を必要とする人々と、それに破壊される人々の葛藤。
作中にはキリスト教徒であるサイコな女が登場しますが、彼女は「命をたいせつに」しているので、だれにも否定できません。
あらゆる宗教が、否定できない正義をかかげています。
しかしその正義が、自分自身の「なにか」を害するとしたら? 否定することの難しい「正義を、倒す」覚悟ができますか? という重い主題を内包しています。
皮相的には、アンドロイドという言葉を世に広めたリラダン『未来のイヴ』の人造人間「ハダリー」が、本作では左手に宿った獣「ヒダリー」として顕現します。
ミギーとは関係ありません……。
文字数:385
ピグマリオン・イン・テラー
視界が赤黒く裏返る。
呼吸が苦しい、というか、できない。
手足はピクリとも動かない。
遠くでアラートが鳴っている。
生命の危機を告げる聞きなれた警告音が、他人事のように意識の喫水線から染み込んでくる。
ぼくはここで死ぬのか。
……いいね、それはいい考えだ。
センイチは、ゆっくりと目を開けた。
視線の端に、心配そうな顔をした母親。
ごろり、と眼球を動かした先には、安堵したような看護師の顔もある。
……見慣れた自室。どうやら救急搬送されたわけではないらしい。
途切れた記憶をたどるまでもなく、意識を失ってから数分ほどしかたっていないのだと理解する。
全身につながるケーブルがバイタルの非常を告げれば、当然そうなるだろうルーティン通り、彼は助けられた。
「ほんとによかったですね、お母さん」
看護師の声に、母親が涙ぐみながらうなずいている。
センイチは無感動に、助けられた自分の命と、それを支える医療器具の数々を、他人の物のように眺める。
こいつにつながっている限り、簡単には死ねない。
「具合が悪くなったら、すぐに呼ばないといけませんよ」
看護師がコードにつながったボタンを、センイチの手に押しつける。
わずかに動く指先で、ナースコールを押せという指示は耳にタコだ。
看護師が、医療機器の数々を調整している。
センイチはその後ろ姿を眺める。見た目は二十代後半から三十代、同年代だ。小太りで、やや不自由な顔つきをしている。しかし驚くほどブスというわけでもないから、陰りのあるその表情さえ改善すれば、どこにでもいる女のひとりとして容易に埋没するだろう。
難病を発症した彼のため、多くの時間を割いてくれている。そう認識している母親は、息子を一瞥してから、看護師に丁寧に頭を下げ、ゆっくりと部屋を出た。
母親自身、あまり丈夫な体質ではない。自分の虚弱体質が息子をこんなにしてしまったのか、という自罰的な意識も持っている。
もちろんそうではない、と息子自身知っている。
ALS──難病として知られる、遺伝子の病気。全身の筋肉がその機能を失う。治療法はない。速やかに死ぬのを待つしかない、業病。
ぎりぎり動く筋肉の数が、どんどん減っている。
センイチは、ゆっくりと視線を持ち上げる。
いまはもう、それだけでたいそうな労働だ。
ごろごろと喉を蠢かせると、察した看護師が、並んだ薬呑容器のなかから中身の残っている水差しを手に取り、患者の口にゆっくりと注いだ。
センイチは、看護師を見上げる。当然、感謝の言葉が出てきてしかるべきところ。
彼は言った。
「ぼくは死にたくて、あなたが邪魔だ」
かろうじて聞き取れる声量、だが断固とした決意をこめて。
一瞬、ひきつる看護師の表情。
必死に介護をしてきた彼女としては、ただちに肯んじることの難しい暴言だった。
たしかにALSは、発症すれば絶望しかない難病として知られる。一部の例外はあるが、おおむね2~4年程度かけて徐々に死んでいく。
自らの病態について知悉するセンイチは、まったく損なわれることのない(ゆえにより悲劇的な)醒めた思考回路で、こう考える。
一般には、ゴールのない果てしない労働、介護。しかしALSに限っては、数年だけがんばればいい短距離走。何十年生きるかわからない老人介護より、よほど効率がいい「ボランティア」になりうる。
きみはそのために、ここにいるんだろう?
センイチの冷たい目線から、看護師がどこまで汲み取ったかはわからない。
彼女は笑顔を取り戻し、センイチの額に浮いた脂汗を拭う。
動かないだけならまだしも、彼のケースでは、強烈な「痛み」も伴う。死にたくなるのは当然なのだ、理解していますよ、というゼスチャーだろうと受け取った。
──2年後、彼は自然に死んで、彼女はひとしきり悲しみに暮れる。悲劇の主人公を気取ったあとは、心地よく自分を褒めて人生を歩んでいける。
嬉々としてボランティアに励む彼女を、見透かしたように言うセンイチの視線は氷のよう……いや、しばしば「憎悪」さえのぞかせる。
正確に言えば、ボランティアではない。彼女は最初、業務としてここに派遣されてきた。が、支払われる対価より多くの時間を、どうやら彼の介護に宛てているらしいということを、それとなく母親から聞いている。
だとすれば、自分がいいことをしていると思い込んでいる連中の考えそうなことだ。
善人ぶりたいだけなのだ。
看護師の首にかかるロザリオに則って言うなら、彼女こそが「偽善者」だ。
現在はそうとう減っているようだが、それでも多くの看護師が通る「ナイチンゲールの誓い」は、つとめてキリスト教的である。
無宗教のセンイチに向けて、彼女はいつも、宗教的な「救い」を説いた。聞きたくないのに、聞かざるを得ないことをいまいましく思う彼に、きょうの彼女は問わず語りに言った。
「すばらしい映画を観たんですよ」
さほど汚れていない部屋を掃除するようなフリをしながら、彼女は語りつづける。
──難病の主人公を助ける、ちょっと変わった相方の話。
それだけでひとつのパターンを形成している、「感動系」にカテゴライズされる映画のようだ。お約束として、主人公は必ず死ぬので、必然的にお涙頂戴になる。
最初はぎくしゃくしていたふたりのあいだに、徐々に信頼関係が築かれ、同時進行で死にゆく者の死生観も完成されていく。
風変わりな相棒の人生も前向きに変わり、主人公は死んだが、もうひとりの主人公の人生はいま、はじまったのだ。
悲しみのなかに希望を見出す。
見捨てない。
ソレガ愛ダ。
そんな話を語っているうちに、感極まったらしい看護師は、軽く涙ぐんでいる。
一方のセンイチの表情は、輪をかけて醒めていく。
──勘弁してくれよ。きみたちの価値観には、反吐が出るんだ。
決まりきった、オーソドックスな愛の賛歌。
それがカタルシスというものだ。
生存者諸君、気持ちよく生きるがいい。
──だが、ぼくを利用するな。
センイチの冷たい内心に気づかず、笑顔を残して部屋を出る看護師。
こんな不毛な日々を、そろそろ終わりにしたい──。
センイチは野球少年だった。
自分のことを「ぼく」と呼ぶ程度に文系な性格は、おそらく病弱な母親から受け継いだ。
一方、「漢」を形にしたようなマッチョ系の父親は、その少ない言葉数に代わって背中で人生を語るタイプだった。
母親を喜ばせるよりも、父親を喜ばせることのほうが難しかった。その分、それを達成したときの喜びは、いや増した。
息子とキャッチボールをやるのが夢だったらしい。
必然的に、野球少年としての涵養にあった。
小学校。地元の少年野球クラブでは、左利き、というだけでレギュラーをとれたが、そういう中傷を許さない程度の努力はした。
中学校。野球部に入っても、それなりに活躍できた。まだ軟式野球の時代だったが、ある日、理由はよく覚えていないが、硬式ボールへのあこがれというものもあったのだろう、たまたま練習で使っていたところ、自打球の打ちどころ悪く骨折してしまった。
だれにも文句を言えない、自打球。
硬式への恐怖も、同時に覚えていた。
中学生といえば、有名な厨二病の発症時期でもある。
高校生になって野球をつづけることはないだろう──漠然と、そう思っていた。
そんな彼の人生が変わったのは、父親の病気だった。
最初、風呂で倒れているのを発見したのは母親だったらしい。
その後も何度か具合が悪く、意識を失うようなこともあったようだが、他人に弱みを見せることを心からきらう父親の必死の努力のせいか、センイチがその「哀れな」姿を見ることは、ほとんどなかった。
ALSという診断名の意味は、最初よくわからなかった。
受験勉強の波が過ぎ、呑気な高校生活をはじめたなかで、その意味を知った。
──なにかしなければ。
漠然とそう思ったが、なにをすべきなのか、まだ少年である彼にはわからなかった。
ただ、野球のボールを手にしているときの父親が、幸せそうだった。
高校野球をはじめる理由として、それ以上のものは必要なかった。
彼は努力した。ひさしぶりに本気になった。
弱小というほどではないが、強豪でもない野球部に、最初は下っ端として、やがてそれを率いるようになる程度には努力した。
高校3年の夏、ついに甲子園出場を果たした。
たまたま指導者に恵まれ、チームメイトにも粒が揃っていた。県大会の決勝戦を「見に行く」と言った父親は、その日、そうとう具合が悪かったようだが、杖をついて無理やりやってきた。
彼に優勝の姿を見せられたことは、いまでも喜びだ。
甲子園では一回戦敗退に終わったが、出場だけでもじゅうぶんな「結果」だった。
無理がたたったわけでもあるまいが、父親は、いよいよ歩けなくなっていた。ALSとしては、進行は遅いほうのようだったが、その「遅らせる」薬の効果も限界が見えはじめていた。
大学。彼は工学系を目指した。
車いすになった父親の介護に、そもそも身体の弱い母親が、かなり消耗しているようだと察していた。兄弟姉妹はいない。父親を助けるのは自分たちしかいない。
そのためにできることは、なにか。
大学の4年間を、彼は漠然とした目標を具体化するために使った。正しい使い方といっていい。
当初、父親の病気を癒すため「バイオ医薬」系を選ぼうと思ったが、父親自身の「お母さんを助けてやれ」という言葉をきっかけに、「ロボット工学」系を選んだ。
これからの介護を助けるのは、ロボットだ。他人の助けをきらう父親自身も、ロボットの手なら借りてくれるだろうという思いもあった。
基礎を学ぶうち、日本にはたくさんの「宝」が埋まっていると知った。
日本が誇る素材技術、なかでも「動く繊維」は、介護の革命になるはずだという確信があった。
面接をする企業の側にとっても、彼は「金の卵」だった。
貴重な理系の大学生、それも甲子園投手という体育会系のエンジニアを獲得することは、企業側にとって大きなメリットを見出せる。しかも「身内に難病」という要素は、もろ刃の刃ではあるが、強いモチベーションを支えるはずだという思惑もあったかもしれない。
弱体化した筋力を補う「動く繊維」の研究者、技術者として、センイチは社会人生活を歩み出した。
はじめての給料は、母親のために使った。ずいぶん痩せていた彼女に、「おいしいもの」を食べてもらうために。
彼女の「ほんとうの笑顔」を見た最後が、このときだっただろう、とセンイチは思い返す。
もともと口数の少ない父親は、そもそもしゃべる能力すら奪われはじめていた。それでも父親は生きた。ALSとしては、ほとんど「長寿」といってもいい域だ。
──ある日、彼の死体が見つかった。
誤嚥性肺炎。死因の欄には、そう書かれた。
助けを呼ぼうと思えば、呼べたはずです。いよいよとなって、自ら選んだのでしょう。尊重するしかありません。
少ない医師の言葉の意味を、センイチは強く意識した。
父親が生きた「理由」は、これまで「安易に死を選ぶ」ことへの戒めを、自らの行動によって示すためだった。
しかし、彼は最期の最期、助けを求めることをやめた。
限界を確信したのだろう。周囲に対する負担はもちろんだが、自分自身、極限の苦痛を噛み締めていた。
「自分のことを、自分で決める。それは、つねに正解だ」
いま思えば、父親の残したこの言葉の意味も深い。
──葬儀の日、会社の上司も顔を出してくれたが、その目の前でセンイチは倒れた。
悪夢のような因縁が、いよいよ彼自身を絡めとろうとしていた。
「自分のことを、自分で決める。それは、つねに正解だ」
漢の声音で、ふいに、センイチは目を覚ました。
薄暗い室内、バイタルをモニターするセンサー音、点滅するランプを背景に、白いものが蠢く。
「……ヒダリーか。オヤジのマネすんなよ」
口元に薄い笑みを浮かべ、センイチはベッドの足元に座るそれに呼びかける。
白い手袋のようにも見えるそれは、自らの意志をもって、ゆっくりと立ち上がる。いや、まさに手袋だ。中指の部分が顔面になっているらしい。中央部分に、マジックペンで引いたような特徴的な口ひげ。
父親にも似ているし、往年の映画俳優にも似たような人がいたらしい。
「うーん、ヴァンダム」
手袋らしき布は、顎らしき部分に、両腕らしき隣り合う指を当てて、ひねるように動かしながら言った。
センイチは音を出さずに笑う。
ヒダリーがもつ唯一の「一発芸」が、それだ。
「昔のCMか、って突っ込むのが正解なのかい、ヒダリー」
「さあね。……どうやら元気そうで、なによりだ」
ベッドの支柱に腰かけ、ヒダリーは言った。
彼は昔から、センイチの親友だった。
最初に現れたのは、幼稚園のころ、お気に入りの手袋をなくしてメソメソしていたときだ。
なくしたはずの左手の手袋が、イマジナリーフレンドとして彼をなぐさめに現れた。精神医学的に説明しようとすれば、いくらでも理由をつけられそうなところだが、要するに多くの子どもが児童期に体験する「空想の友達」。それがセンイチの場合、ヒダリーという形をとった。
「元気に見えるかい?」
センイチは、かすれた声音で反問した。
つらいとき、悲しいとき、センイチの夢にふらりと現れ、その父親のような、昔の映画俳優のような友達、ヒダリーは「漢の言葉」で彼を支えてきた。
県大会決勝の前夜、現れたヒダリーの言葉は、まさに漢だった。
「下を向くな、前を見ろ、そこに道がある」
まっすぐ前を、キャッチャーミットを見つめて、自慢の変化球を投げ込んだ。
直球でないところが自分らしいと思うが、それで優勝を決めたのだった。
すばらしい友人だと、センイチも認めている。昔に比べれば、現れる度合いは減っている。それが「おとなになる」ということだと、理解もしている。
だが最近、ヒダリーの出現する頻度が増えた。それほど「困っている」ことは事実だ。
これまでヒダリーが現れたときは、いつも、なんらかの解決を与えてくれた。だが今回ばかりは、そう簡単に解決するような問題ではない。
「選択の余地が少ないよ、ヒダリー。もういいんじゃないかな、とは思う」
小声で弱音を吐く。ヒダリーにだけは、なにを言ってもいい、ということになっている。
「……そうか」
ヒダリーは多くを語らない。
彼は「結論」をもっているわけではない。だが「決断」の役には立ってくれる。
「今夜は、死ぬにはいい日だろ?」
有名なインディアンが、そんなことを言っていたらしいという話を、どこかで小耳に挟んだ。センイチの場合、そういう言葉はたいていヒダリーに教えてもらう、という体裁をとることが多い。
無言で首を振るヒダリーから視線を外し、センイチは左手のわずかな動きで、改造したキーボードをなぞる。
こっそりと、何度も依頼はしてきた。ネットで知り合った自称ドクターに殺してもらうという選択肢。昨今の情勢で彼らも及び腰になっているが、たしかに、いわゆる嘱託殺人で逮捕されるのもかわいそうな話ではある。
「他人を利用するのか」
ヒダリーの問いかけの意味を、理解することを放棄してやり過ごす。
いや、ちがう。ぼくは他人に負担をかけたくないから、そうするんだ。そのために利用できるものを利用する、だからぼくを利用することにも同意した。
そうとも、ぼくは自分が利用されたいと思っている。
献体の書類にサインをした。痙攣的に震える指が、公益財団法人が発行する書類の末尾に、30年ほど使用済みの肉体を「研究・教育のため無償で提供する」者の名を添えて、約束した。
とくに「異常死」や「難病死」は、医学・歯学の大学における研究・発展のため、献体をお願いされることが多い。
お金がないから、身内に葬儀費用などの迷惑をかけたくないから、という理由で献体を希望する人もいるというが、これは本来的ではない。
自分が死んだあと、残る人々の未来のために役に立ちたい、というボランティア精神こそが献体を支えるべきだ。
最期くらいは、役立ちたいと思う。
「ボランティア精神。なるほど、美しい言葉にも、いろいろな使い道があるものだ」
自嘲気味の内心を、ヒダリーの言葉が裏書きした。
そのとき、メールの着信音と、ポップアップが走る。
苦労して文面を開くと、忌まわしい断りの内容。
──きみの家に行ったが、変な女に追い返されたぞ。こっちもリスクをとっているんだ。証拠を残したくない。本気でないなら、もうごめんだ。二度とメールしないでくれ。
何度目か。センイチは嘆息する。
彼が死のうとするのを、妨害している者がいる。まるでわざとのように、見透かしたように、スパイがいるかのように、彼が「死ぬ計画」は、これまでことごとく邪魔されつづけてきた。
必要以上の薬を手に入れようとしたことも、近くに刃物を置くことも、バイタルサインのケーブルを一本でも勝手に取り外してすら、邪魔が入る。
──お見通しですよ、つらいのはわかります、乗り越えましょう、あたしがついてますから。
脳裏に反復する声は、あの看護師だ。
センイチは確信をもって、今回の失敗についても理由をつけた。
あの看護師も、自分の「善良な行為」のために、ぼくを利用している。それでしたり顔、当人は「いいことをしている」と思い込んでいるのだから、始末が悪い。
「きみが献体とやらを残そうとするのも、同じなのではないか?」
ヒダリーがめずらしく、皮肉っぽい口調で言った。
センイチは一瞬ギクリとするが、すぐに首を振った。
のちの世代の患者の救いになることを願う高邁な精神は、「ギフト・オブ・ホープ(希望の贈り物)」と呼ばれている。難病の神経疾患については、治療法や病態解明のため、ぜひとも献体や献脳が求められている。
ほしいならくれてやる。死体なんてモノだ。センイチはうなるように言った。
「だが生体はダメだ。これだけは、ぼくのものだ。だから、好きにさせてくれ。勝手に生かそうなんて、認めない。それが拷問でないなんて、どこのだれが教えたんだ?」
血を吐くように言った瞬間、ふいに意識が遠くなる。
急速に低下する酸素飽和度。呼吸に使われる筋肉が疲弊している。父親と同じ死に方だ、と気づく。このまま窒息の苦痛に耐えればいいだけだ。
ピーピーピーと鳴り響く機械を、渾身の力をこめて破壊したいが……そんなことができるなら苦労はしない。
飛び込んでくる母親と、どうやら近くにいたらしい看護師。
戦場のような騒ぎが巻き起こる。
野戦病院に向け、遠くから救急車のサイレンが近づく。
首元に鋭い痛み。無理やり空気の穴が開く。──挿管するつもりか、やめてくれ!
もちろん声にはならない。周囲の人々は、彼から声を奪うつもりなのだ。
当人がどんなに死のうと決めても、周囲が生かそうと思ったら、多数決で答えは決まっているのだ。
ひどい夜が、更けていく──。
「死のうなんて、ほんとにおバカさん」
昏々と眠るセンイチを見下ろし、看護師──君島はつぶやいた。
あれからセンイチは、最後まで拒絶していた挿管を受け入れ、いよいよ人工呼吸器によって「生かされる」段階へと達した。
言い換えれば、これでもう、そう簡単には死ねない。
君島は、センイチの自室に設置された人工呼吸器を操作して、つきものの「吸痰」作業を進める。
──2~4年という平均余命は、あくまでも呼吸器をつけない場合にすぎない。それも平均で、かの車いすの天才のように、何十年も生きられる場合もある。
どんな場合でも、生きることをあきらめてはいけないのだ。
教皇猊下も、そうおっしゃっていたじゃないの。
君島は、ぬるり、と指先を眠るセンイチの頬に走らせた。
あの日、バイタルモニターがヒステリックに叫び散らしていた夜、通常30%台の血中の二酸化炭素濃度は60%まで上がり、通常95%以上の血中酸素濃度は80以下まで落ちていた。
筋肉の硬化が進んで、二酸化炭素がうまく吐き出せなくなっている。バイパップという呼吸補助装置をつけざるをえない状態だ。
スマートウォッチのアラーム設定を、あらかじめ上げていたのは看護師だ。自身が速やかに駆けつけられた理由を、彼女は説明した。
呼吸器をつけるかどうかは、最後の判断だ。
彼は断固としてそれを拒否していたが、いつのまにか呼吸器につながれていたこの事実を、どう解釈すべきか。
深夜、呼吸できない、苦しいという訴えを受けたので、看護師が自らの判断で挿管したと説明された。そのときセンイチに意識はなかった、すくなくともそんなことを言った覚えがないと当人が訴えた以上、当然に問題視された。
かなり幅広い行為が「特定行為」として、一部の研修を受けた看護師にも包括的に行なえるようになっているが、ここには「気管挿管」と「抜管」を除くという文言がある。挿管は高度な医療行為であり、医師でなければ許されない、という学会の声明もあった。
しかし、下手な医師ももちろんいるし、気管挿管介助は学校時代から看護師も教わっている。あくまで緊急事態の場合だが、医師の指示のもと、一発で決める手練の看護師も少なくない。
彼女は飄々として言った。
「挿管しなければ彼は死んでいました。ドクターの到着を待つ余裕はありませんでした。正しい判断をしたと思っています」
あまりの自信に、周囲は気おされるように認めざるを得なかった。
母親の信頼を得ていたことが、彼女の行動をやりやすくした。看護師の言葉は、ほとんど母親の言葉のように受け取られた。息子に生きていてほしいと願うのは、彼女も同じだった。
当人の意識がもうろうとしているうちに、気管と食道を分離する手術が行われた。看護師から提出された同意書に、サインがあったという事実もある。
人工呼吸器でチューブから酸素を送り込む穴が開けられ、誤嚥を防ぐため分離手術が行われた。声を出すことが完全にできなくなったが、代わりに食べ物を喉に詰まらせたり、肺に食べ物などが混ざって肺炎を起こすリスクは格段に減った。
やがて仕事ができるくらい意識が明瞭になったとき、彼は、自分はこんなサインをしていない! と訴えたが、後の祭りだった。
そう、呼吸器をつけたら、もう簡単にはしゃべれない。そんな状態で生きる意味があるのか、断固として拒絶する! と叫び散らす……ことはできなかったが、以前から呼吸器については拒否の意思表示をしていたのだ。
そのセンイチを説得し、決断にあずかって力あったのは、彼の勤務する医療機械製作所の社員たちだった。
彼らは試作品の「動く繊維」をもってきて、彼の胸に置き、言った。
きみのプログラムは役に立っている。この一枚の布によって、助けられるたくさんの人々が待っている。きみの筋肉、きみの手足、きみの横隔膜の代わりにもなってくれるかもしれない、この布に生命を吹き込んでくれ。忘れないでほしい、きみは、いまでもわが社の大事な仲間なんだよ。
野球部で長く過ごしてきたセンイチにとって、「チームメイト」の言葉は、あまりにも重かった。
呼吸器を装着し、できるかぎり仕事をつづけると約束した。
患者当人の書いたコードは、たしかに貴重な動作支援プログラムになりうるだろう。
彼のつくった一対の手袋が、やがて苦しむ患者、あるいは介護者を助ける日々がくる。だとしたら、死ぬほどつらくても、生きて仕事をする意味があるのではないか。
完璧な説得で、センイチは人生の延長戦に合意した。
病院でできることはもうない、あとは自宅で、と家に帰された。
治療法がない、というのはある意味で自由だ。
──看護師は、手慣れた所作でセンイチの服を脱がせ、清拭を進める。当然あるべき通常業務だが、その視線には奇妙な炎が宿っている。
「ほんとに、まだ使えるのに、この身体を火葬場に入れてしまおうなんて、もったいない」
身体を寄せ、丹念に拭いていく。
部屋の片隅で、左手の白い手袋が、静かにその姿を見つめている。
君島の首筋には、いつものロザリオが揺れていた──。
ALSの介護でもっとも苦労するのは、人工呼吸器の管理だ。
痰を自力で吐き出せなくなるので、四六時中見守り吸引しなければならない。
いったん人工呼吸器を外し、吸引機に付け替える。ひとつ手順をまちがえれば命の危険につながるので、看護師以外は行えない医療行為だ。
ただしALSなど特定難病の場合は、家族やヘルパーが訓練を受けたうえで実施することが認められている。
──ある日、その人工呼吸器のカニューレが根元から外れている、という事故があった。
窒息の苦痛は、死に方のなかでもっともひどい、という。それでも彼は、死に瀕しながら、けっして助けを呼ぶブザーを押そうとはしなかった。
顔色が真っ青になり、ベッドの上で痙攣している息子を、たまたま寄った母親は慄然として見つめた。顔面蒼白になり、カニューレを戻そうとしたが、それに気づいた息子はわずかな身振りで拒絶した。
おろおろする母親の背後から飛び込んできた看護師が、ただちに呼吸器を元に戻して医師を呼び、事なきを得た。
「危なかったですね、とっさの判断で救われました」
医師は言ったが、母親は困惑していた。
息子の表情の意味を、どう理解すべきか?
一瞬、夫の死の直前の表情が思い浮かんだ。
──逝かせてくれ。
そういうことなのではないか? 息子は死にたいと思っているのではないか? 正直、それらしい話は小耳にはさんでいた。だが自分に対しては、いつも強い息子を演じていた。お母さんを頼んだぞ、と言って死んだ亡き夫のように。
だが、苦痛はいよいよの域に達していた。耐えがたい。これ以上、生かさないでほしい。
彼はそう言いたくて、身振りで呼吸器を戻すことを拒絶したのではないか……?
リビングで煩悶する母親に向け、
「いいえ、それはちがいますよ、お母さん」
看護師は、悪魔のように優しい声音で言った。
「君島さん……」
母親は、藁にもすがる思いで看護師を見つめた。
君島は、静かに言った。
──息子さんが、お母さんに助けられることを拒絶した? いいえ、彼はただ、素人がまちがった操作をして、不測の事態に陥ることを恐れていただけでしょう。危ないところでしたが、救われて喜んでいるはずです。お母さんには、とても感謝していますよ。安心してください、いっしょにがんばりましょう。
まるで当人のように、息子の言葉を代弁する看護師。場に対して支配的な物言い、決定論的で決めつけるような独特の断定口調が気になることは、これまでもときどきあった。しかしそれは、全体としては些細なことだった。
母親は曰く言い難い複雑な気持ちを抱きつつ、それでも彼女に任せることが最善だと、自分に言い聞かせた。
いかなる理由であれ、彼女は息子を助けてくれたのだから──。
それにしても、なぜ管は外れたのか?
君島は注意深く、彼の周囲を観察した。どこかに張り巡らされた罠を必ずや見抜き、体制を崩壊させることのないよう注意を怠らない、地獄の主計長官のように。
いったん状態は軽快したが、固形食は難しくなり、水分を増やしたおかゆやパンを、ミキサーでドロドロにした流動食に切り替えた。
病態が進行するにつれ、徐々に高度な医療技術が必要とされる。
看護師費用は一時間一万円。家政婦は一日二万四千円。夜中にヘルパーを頼めばさらに費用がかさむ。
君島は、これらの費用を最低限で引き受けた。自らヘルパーの役割を兼ねつつ、深夜にもしばしば訪問した。泊まり込んだことも一度や二度ではない。
彼女は母親から鍵を渡されていた。彼の家は、彼女の第二の自宅となった。
──ある日、彼女は部屋に、リンゴと洋ナシを置いた。
死んだ魚のような目で、センイチはそれを見つめた。
どういう意図か、忖度するのも億劫だが、考える時間だけは十二分にあった。なによりこの病気のいやらしいところは、思考力だけはまったく損なわれないことだ。
キリスト教徒にとって、もちろんリンゴは堕落の象徴だ。一方、洋ナシは神の救いだが、非宗教的な文脈ではどちらも肉欲の隠喩になっている。
日々に感じる違和感から、センイチは彼女に「偽善者」以上の恐ろしいものを感じはじめていた。
だが、母親にとっては頼れる専門職だ。証拠もなしに騒ぎ立てることはできない。
「さあ、きれいきれいしましょうね。洗足木曜日に風呂を入れ、聖金曜日に風呂に入る♪」
奇妙な替え歌に乗せて、魔女のような一週間を歌う君島。
彼女は部分的に、たしかに熱心なキリスト教徒か、すくなくともそのフリをしていたが、修道院を追い出される程度には享楽的な性質ももっている。
ひそかに調べを進めていたセンイチのところに届く、部分的な看護師の履歴からは、キナ臭いものしか感じない。
「金曜日はカレーですよ。この陸軍野戦病院ではね。夜戦を戦う体力をつけないと。専門店から取り寄せたオクラのドピアジャ、まあおいしそう」
スパイシーな香りが漂う。一般人の食欲には訴えるかもしれない香りだが、センイチにとっては吐き気しかない。
自分のペースで、流動食を注ぎ込む君島。センイチは自分という存在を、意志のない肉塊だと感じる。
ときどき、情念の宿ったような視線を泳がせる君島。
子どもができたら洗礼式はどうのという話をしている彼女を、センイチは呆然として眺めている。
まったく意味が解らない、彼女はなにを言っているんだ──?
カトリックだった両親が、ともに40代のときにできたのが、君島だった。
宗教的な理由で中絶できなかったと、のちに両親がぼやいているのを聞いた。神の名のもとに罵り合い、成長の遅い娘の責任をなすりつけ合った。
小学校のときには、人気者になりたくてあらゆることをした。
バターナイフで手首を切り、風邪薬の過剰摂取で病院へ。人としての魅力に欠ける事実と、特別になりたい欲求がバッティングした。
子ども向けのCMは口をそろえて言っている、女の子はみんなお姫さまなんだと。
にもかかわらず、自分はスペシャルではないという事実に耐え兼ね、ひたすら膨張する自我からの責め苦は、つねに恐ろしい。すべからく人気者、才能ある人々への嫉妬を募らせ、その行き着く先は、すべて他人のせい、神のせい。
ひねこびた人間は、必然的にイジメの標的になった。
ある日、同じイジメられっ子の少女が、自殺した。
前日、君島は彼女に向けてこう言った。
──私たちみたいな人間は、死んだほうがマシよ。人間はひとりで生まれてくるんだもの。神さまだって許してくれる。
そして数少ない友達が死んだとき、そそのかした君島は言った。
──神よ、お赦しを。死にたいって聞いたことはあったけど、止めたの。悔い改めるように導いたけど、足りなかった。
その後、イジメはなくなった。死人が出れば当然、そうなる。
最大の利益を得たのは、被害者としてもてはやされた(?)君島だった。
彼女は当面の安全を得た。まさか彼女が、友達を死に追いやったのだなどと、だれも想像しなかった。
中学のころ、揺り返しがやってきて、鬱々とした陰キャになった。
小太りで摂食障害を患い、リバウンドでかえって太った。
性的少数者への迫害と、白人による文化の盗用を憎むような文化的自分を、意識高い系の特別な女子だと思いたがった。
そんな彼女の正体を知り、取り扱いかねた高校から、推薦状の必要ない修道院へ捨てられるように「進学」した。
当然のように、そこでも問題を起こした。
自分がモテないのは両性愛者だからだと思い込み、本人の意思を無視して性別を決めつける社会に噛みついた。性的ボーダーレスを説いて神父らと争いを起こし、いよいよ家族からも見捨てられた。
人の命を救うという至上命題は一般人受けがいいらしいと気づいて、追い出すつもりの神父に看護学校への推薦状を書かせた。
彼女はナイチンゲールの誓いを口にした。
同時期、父親が死んで、すこしだけ醜い相続争いが勃発した。
実家は売り払われ、彼女はまとまった遺産を手に入れた。そんな彼女から逃げるように、母親や兄弟は逃散した。
新しい、お高めのマンションに引っ越したが、そこでも彼女は少なくないご近所トラブルを起こした。
共用の庭にごみを捨てるとか、車に傷をつけるとか、地味な嫌がらせは数多い。
変な郵便物が大量に届くとか、頼んでいない出前が届くとか。
バスルームに大量の虫を投げ込むとか、玄関にネコの死体を残すとか、こうなってくると危険域だ。
盗聴や盗撮のマイク、カメラが仕込まれていることもあったという。
事故に見せかけてケガをさせる、最悪、死に至らしめるような危険行為を及ぼすようになってくると、明らかに事件だ。
食中毒が多発、水道の給水タンクに問題ありということになり、警察も動きはじめているらしい。
一方、彼女の勤務する病院でも、老人の死などが多発していた。原因不明の体調不良や、薬物の紛失などもあったという。
──近所の子どもに自転車をぶつけられた。ガキのくせに、許せない。
──きちんと分別しないと文句を言われた。ババアのくせに、許せない。
──自分よりAさんのほうがいいと言った。患者のくせに、許せない。
最初は人当たりがよく、役に立つ心やさしい看護師という印象が通用する。だが、破綻は遠からずやってきて、その正体はすこしずつ知れ渡っていく。
彼女は一部の白い目に見送られて、勤務先から出てくる。
目指すのは、彼女を必要としている、哀れな訪問介護先。
その背中を、白い手袋のような影が追いかけている。
彼女の罪を数えながら。
気が向いたときの看護は、とても丁寧で、人当たりが良かった。
しかし気分屋の彼女の介護は、しばしばぞんざいで、ときに邪悪ですらあった。
食事、痰とり、トイレの世話、やることはたくさんある。
ALSの介護は高齢者に似ているところもあるが、当人の意識状態だけが高いという「最大の問題」は、つねにまとわりつく。
やり方が悪ければ不満も漏らすが、きょうの彼女にとって、それは許しがたい暴挙となった。
「滅びに通じる門は広いのです。あなたが無礼を慎まないなら、必要なことをしますよ、もちろん折檻だって。神がそうしろとおっしゃっていますから。これは愛よ、愛の鞭なの!」
わけのわからない理由で、彼女はセンイチをたたいた。
赤く腫れあがるまで、その頬を、胸を、腹を。
協力的ではないから、反抗したから、理由はなんでもいい。
彼女がそうするのは、神がそうしろと言っているからだ。
こうなるともう、だれにも止められない、止まらないことは、歴史が証明している。
ただ狂人が宗教を利用しているだけ、という見方は浅薄だ。事実、宗教は最大限に用いられてきた、多くのサイコパスによって。
当然だ。なぜなら最初から、そういうふうに組み立てられているからだ。
自分の欲望をかなえるために、神父や牧師という種類の人間が持ち出す最適解が、神である。自分がそうしたいことについて、神がそうしろと言っている、と断定できる職業。
これほどお手軽な責任転嫁はない。
神が西を征服しろと言っている。
神が女は罪深いから虐げろと言っている。
異教徒との約束を守る必要はないから、だまして奪って殺せ。
これらは、すべて史実だ。敵への虐待は、すべて神に命じられたことにすればいい。
「あたしが耳を傾けるのは神の声だけ。センイチくん、なに、その目は? そんな態度でいいと思っているの? やめなさい。神の御意志よ」
彼女はそう言って、あらゆることを「神のせい」にできる。
卒然、センイチの記憶に漠然とした影がよぎる。こういうタイプを、どこかで見たことがある……。
神父や牧師は、このやり方で略奪させ、強姦させ、人殺しをさせた。
もちろん宗教者の大多数は善良だが、一部に邪悪きわまる者が含まれる蓋然性は、非常に高い。
神というシステムは、サイコパスにとって、あまりにも利用価値が高い。
「死ぬ? そんなこと、許されるわけがないでしょう。その身体は、神から授かった聖霊の神殿なのですよ。自殺? 神への冒瀆です。地獄で罰が下されるでしょう。その姿はトゲだらけの木に変えられ、ハルピュイアについばまれることになるわ」
恐るべき神の託宣する姿が、眼前の女と重なる。
それこそ、まさに彼女自身の思惑。
罰を、与えます。
べろり、と君島は口の周りを舐めまわした……。
それは愛ではなく、情欲だった。
彼女はいつも、自分にとって都合のいいほうだけを選んで、生きてきた。
そうして彼女は、ここにたどり着いた。
目のまえで眠る男の生殺与奪は、すべて自分が握っている──その事実に法悦をおぼえた。
「神の御意志よ」
べろりと舌なめずりをする、おそるべき女神。
──宗教は、あまりにも人々の救いになるので、悪用する価値がとても高い。
だから、多少の無理はあってしかるべきだ。
いま、彼女は神をつくっている。
神が出来上がれば、世の中は思い通りだ。
やりたいと思ったことを、「神が言っている」とだけ、まわりに言えばよい。従わざるを得ない、なぜなら神だから。
これほど便利なツールを、ほかに知らない。
多くの僧侶や教祖とやらが、神あるいはその代理人を名乗ってきた、それが理由だ。
「あーべーぇ、まーりーぃあー♪」
調子の外れた聖歌を口ずさみ、肥えた腹を揺らし、膨満した蛇が蠢く。
──マリアが神をつくることができたのは、昏睡レイプされたからだ。言うまでもない、精子もなしに受精するはずがない。
それでも彼女は、処女と言い張った。ならば確信犯か、乖離病者以外にない。
そして事実、自分は処女だと言い張った女から産まれた子どもは、神になった。
ともかく相手を昏睡状態にして、レイプしてできた子どもは神なのだ。
しかも、あたしは女だから、神をつくることができる!
「つくる、神を、つくる!」
げらげら笑いながら、蛇の腹が蠢く。
──その考えは、とても彼女の気に入った。その時点で、彼女にとって唯一無二の正解となった。なるべくして、神になる。そうならないほうが、まちがいだ。
彼女は生来のサイコパス傾向に加え、ゆがんだ信仰に、独自の理屈を組み合わせることで、自分を神あるいはそれに準ずる地位に引き上げる方法を編み出したのだった。
女性原理とは、内在性の原理である。彼女らは自分の胎内で、別の人間をつくりだすことができる。ゆえに女は、自分のなかに集中していられる。その場にとどまり、栄えようとする心である。
男性原理とは、超越性の原理である。自分の身体で人間をつくれない男性は、自分の外側に「なにか」をつくりだそうとする。いまある自分を乗り越えて、発展しようとする契機である。
すべての男女が、男性ホルモンと女性ホルモンを持っているので、どの人間の心にも両方がある。差は強弱だけだ。
こじらせた女性である彼女は、自分の内側に男性原理を抱えることで、性を超越した神になることができる。そうして、いちばんえらくなるのだ、と決めた。
サイコパスが決めた以上、そうなるしかない。
自分の思いどおりに動く、機械仕掛けの神をつくるのだ。
そのとき一瞬、君島とセンイチの目が合った。
ひりつく喉を蠢かせ、センイチの唇が動いた。
「キモ島……」
ようやく、見覚えのあった事実と記憶が整合した。
高校時代──ようやく思い出した、蛇のような目で自分を見つめていた陰キャの存在を。キモイという印象だけがかすかに伝わってきたが、それ以外の記憶はほとんどない。ただ、ひたすらキモイ。そう呼ばれる理由が、いまさらながらよくわかる。
「気づいちゃった?」
べろり、と舌なめずりをする君島──いや、キモ島。
彼女には、なんでもできた。なぜなら神だから。
意識を明敏にしておくことも、レベルを低下させることも、昏睡させることだって容易だ。紀元前の強姦魔は、そうやって神をつくったのだ。
なんだこれ、気持ち悪い……。
徐々に見開かれていくセンイチの目を、君島の指が突いた。
激痛にうめき、眼を閉じるが、筋肉が役に立たず顔を背けられない。
視界を奪われ、おぞましい感覚だけが残る。顔中がべたべたして、気味の悪い悪臭が漂う。最悪なのは、下半身におぼえる違和感だ。
記憶の最後、いやらしい笑みにゾッとする。
──なんなんだ、この女は。
準強姦という言葉がある。昏睡状態の相手に対する犯罪だが、罪の重さは変わらない。
強姦とは、精神の破壊だ。
妊娠を除けば、男女とも性行為によるリスクは同じだし、そもそも感染症とか肉体的ダメージなど、さして重要ではない。はるかに大事なのは、心の問題なのだ。
──気持ちが悪い。
彼は全身を走る耐え難い悪寒に、ほんとうに吐いた。
そのとき再び、意識が遠のいていく。
場の支配者である女神にとって、意識レベルのコントロールなど、自在すぎる日常。
神は命じている、黙れと。
ひひひ、と彼女は嗤った。
ひどく下品な、嫌悪感を催させずにはおかない、狂人の笑いだった。
べたつく肌を嗅ぎ、嘗め、にやついた。
その場で足踏みし、奇妙な声であえぎ、動物のように嘆息する。
が、目的が達成されつつあるとき、同時に、それを妨げようとする邪魔者の影が、彼女の視界をよぎるや、唐突に不機嫌の嵐が舞い降りた。
請求書の束と苦情という名の手紙を片目の隅に止めた彼女は、即座に自室に帰ったことを後悔し、奇声を上げてその山を蹴散らした。
そのままひっくり返り、足を打って悲鳴を上げ、のたうちまわる。
上機嫌は、一気に不機嫌の谷へと下る。
好事魔多し。許しがたい。
盗んできた劇薬を手につかみ、バスルームへと向かう。
暗い道を通りかかった人間が失明するのは、よくあることだ。そんな場所を歩く人間は、神の怒りを受けるべきだ。神の怒りの矛先を、だれかに向けなおさなければならない。
いや、理屈なんかどうでもいい。ともかくストレスは発散されなければならない。
劇薬の封を切った瞬間、再び彼女はつるりと滑って、バスルームの壁に頭をぶつけた。
ぴしゃり、と皮膚をこする強酸に悲鳴を漏らした。
あわてて洗おうと水道に手を伸ばす、その手の下を、白いものが駆け抜けた。
この不幸には、やはり原因がある。悪魔の暗躍が、自分に不幸をもたらそうとしている。
「だれだ、てめえ!」
乱暴に叫び、バスルームを飛び出した瞬間、ごきり、と音がして足が曲がった。
激痛に、声も出ない。彼女は全身をけいれんさせながら、無言でその場に丸くなり、ぐるぐると回った。
「……おまえに突き飛ばされ、骨折して大会の機会を、いや陸上競技者の道を失った、それは少女の分だ」
廊下の先、クロゼットからの声に、君島は苦悶にゆがめた顔を向け、目を凝らして叫ぶ。
「だれだよ、出てこい……っ」
暗がりから返答はない。直後、再び激痛が、こんどは背中を打った。
ただでさえ整理できない彼女が廊下の棚に積み上げていた、壊れた炊飯器の直撃を受けたようだった。
「それは、おまえ好みの男がおまえを相手にしなかったという理由で破滅させられた、幸せになるはずだった夫婦の分だ」
目を白黒させながら、呼吸できなくなった胸を押さえ、横隔膜に仕事をさせようともがく。
があがあと、意味のない喘鳴だけで言葉にならない。それでも血走った目で「犯人」を捜す君島。その視界の端に映ったのは、白い布切れ──歩き、しゃべる、手袋。
「てめえ、それ、センイチの会社の」
最新の試作品だと、会社から送られてきた布の束を、センイチの家で最初に受け取ったのは君島だった。手袋の形に縫製されていたが、手癖の悪い彼女が、もしかしたら金になるかもしれないなどと考えながら、それを持ち帰ったのが──期せずして破綻の契機となった。
次の瞬間、再び彼女は絶叫した。玄関のスタンドライトが、彼女に向けてまっすぐ倒れてくる。まだ無事だったほうのつま先を、その電球の先端はきれいに叩き潰した。
三たび、響き渡る絶叫。重なる裁きの声。
「幸福な家庭を嫉妬され、逆恨みされ、罪をでっちあげられ、傷つけられ、家庭崩壊した、それは家族の怒りだ」
君島は、ひいひい言いながら、廊下を這ってリビングのほうに向かった。
ドアを押し開け、半身を部屋に入れた瞬間、きゅっ、と首根っこが締まった。仕掛けられていたビニール紐に、自ら首を突っ込んだらしかった。
ピッ、という短い電子音に顔を上げる。Qi給電装置のうえ、載せておいた君島のスマホの代わりに立っていたのは──白い手袋。
それが握りしめる紐の先を意識した直後、強い力で引っ張られた。声にならない悲鳴をあげながら、彼女の身体はロフトに引っ掛けられた紐によって、斜め上方へと吊りあげられていく。
「そしてこれは、おまえによって人生を奪われた多くの人々……」
充電台で、力強く稼働する手袋の動きに合わせ、ずりっ、ずりっ、と引かれていく君島。一言ごとに、高い丘の頂へ向かう、刑場を登る神の子のように。
「学校で、近所で、病院で、すべての場所で、被害を受けてきた人々の」
ごりっ、ごきっ、と君島の身体が異音をたてる。もはや彼女の唇からは、泡以外に悲鳴も漏れない。
「やるせない、悲しみに満ちた、あらゆる不幸に対する……ひとつひとつの怒りだ!」
力強く彼女の身体を釣り上げていく力の正体は、あるいは異世界からの恨み節であっただろうか。
君島の眼前に、いまこそはっきりと立ち上がる──ヒダリー。
「最後まで数えろ、おまえによってもてあそばれた、命の叫びを、俺の、穢された息子の、俺たちの怒りを!」
白い手袋が、空中を舞った。
ぎりぎり彼女を支えていた足元のゴミ箱が吹っ飛び、重力と、それ以外の謎の力によって、激しく引き下ろされる小太りの体躯。
締め上げられる首。
きゅっ、と短い音。深すぎる罪の最期にしては、あまりにも軽い音。
彼女は、償いを果たした、のか──。
「おかえり、ヒダリー」
わずかに唇を動かすセンイチの目は片方、半ばつぶれ、もう片方も充血して痛々しい。
次の看護師の訪問まで、長い昏睡に陥るだろう薬量を盛られているから、これが現実か夢かは五分五分といったところだ。
「ただいま、センイチ」
白い手袋が、ベッドの足元にふわりと舞い降りた。
ベッドの主に負けず、その身体は裂き傷だらけで、ところどころ引き伸ばされ、破れてもいたが、戦ってきた漢の傷はすべてが勲章だった。
「漢の顔だな、ヒダリー。うーん、ヴァンダム」
センイチの紡ぐ唇に向かい、ヒダリーは足元から首筋へ、ゆっくりと這い進む。
「先に言うんじゃないよ。やれやれ、疲れた」
引きずっていた身体を一時安め、吐息するような挙措。
人間くさいヒダリーの動きに、センイチはくすりと笑う。
「激しい戦いだったみたいだな。見たかったよ、おまえの復讐映画」
「事実は映画よりお粗末さ。まあ、おかげさまでwi-fiの指示がなくても、充電器との往復くらいは自律的にできるようになったがね」
自嘲気味につぶやくヒダリー。うなずくセンイチ。
「どこぞの掃除機並にはなったな」
未来の介護を変える技術は、もちろん家事にも応用できる。
「しかし短すぎないか、バッテリーでの稼働時間が。いちいち充電器と往復しながら戦うのは、現実味が薄いぞ」
アンビリカル・サプライ遮断、内部電源に切り替え、活動限界まであと3分──。
そんなロボットアニメ的な制約のなかで、ヒダリーは戦ってきた。最後は充電台直結で、強い力を出すことができたが。
「ははは、ヒーローの活動時間は3分って、昔から決まってるだろ?」
ヒダリーは、いつか介護業界を助けるヒーローになる。そのためにつくられた。
この繊維は、人を助けてくれる。あらゆる方法で──。
「ヒーローは、敵を倒すものだ。力なき正義に意味はない。たとえ3分でもな」
ボロボロの白い手袋から、勇ましい復讐者の白い影が浮き上がる。センイチの目に、いよいよ現実と幻影の境界はあいまいだ。
彼は技術者なので幽霊などというものは信じなかったが、物理空間にはどうやら量子情報というものが瀰漫しているらしい、という怪しげな科学までは同意してもいい。
蓄積されてきた想い、喜び、怒り、悲しみ──それらの「情報」は量子化され、空間に蓄積されている。とすれば、それが「幽霊」になって姿を現すことも、受信者のいかんによっては、ありうるかもしれない。
「ちゃんと動いてるじゃないか、りっぱだよ」
そこまで育てたのは、センイチだ。重さのない情報に「仕事」はできない。高校物理で習う法則どおり、なにかが「動」かなければ評価はされないのだ。
それでも「仕事」をしたいなら。
憑代が、傀儡が、肉体が必要だった。
「試作品なりにな」
「だろ。最後に、満足のいく仕事ができたと思うよ」
素材技術の結晶、「動く繊維」は導電繊維自体がチャージャーも兼ねている。彼が最後にやり遂げた仕事は、そのコードの修正と最適化。
──必要だったのだ、想いをこめられる器と、現に動く力が。
「おまえはいい仕事をしたよ」
それが「介護」のためかどうかはともかく。
センイチは自分の「作品」を満足げに見つめ、静かに言った。
「お疲れのところ悪いけどな、ヒダリー。もうひと仕事……頼むよ」
ヒダリーは、ゆっくりと目線を持ち上げる。中指が「顔」という体裁の彼は、やれやれと首を振り、人差し指と薬指で肩をすくめてみせた。
「ふう……。もう、ほとんど力は残っていないんだがな」
ただバッテリーが切れたのか、あるいは果たされた恨みが去った、という意味か。
「これが、最期の仕事だ」
苦しみの終わり。センイチの喉が蠢く。
「……そうか」
ヒダリーはゆっくりと、センイチの首元に這いあがった。
多くの「想い」を乗せて。
ただ、自分のことを、自分で決める。
了
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