梗 概
シエラのオアシス
惑星シエラに入植したオスカーは、最下層の身分で貧しい。職に就けず、盗みを働いては何とか生き延びていた。
ある日、潜り込んだ倉庫に一体のパワーアシストスーツを見つけた。惑星開発に必須のスーツは、売れば大金が転がり込む。最新式のスーツは、服を脱いで着用する。身体に吸い付くような着心地がとても快適だ。電源を入れて、そのまま逃亡を図るが、あっけなく見つかった。オスカーはスーツを止められずに、倉庫内を歩き回っていたのだ。
開発者たちは高位の身分で、最下層の者を実験動物のように扱う。開発者のマイクがオスカーに言う。そのスーツは未完成品で、一度装着したら脱着も停止も不可能。医療用なので、装着しているヒトの運動神経から信号を拾い、勝手にアシストする。内蔵電池は十五年有効。
マイクが取引を持ち掛ける。ちょうど耐久試験が必要だった。惑星シエラの円周は、約5万キロ。それを一年間で歩ききったら、罪には問わない。耐久性試験の継続中には、食事等を準備したケアスタンドの設営も約束した。マイクは助手のジュリエットに監視を任せた。定期的に倉庫のケアスタンドに立ち寄りながら、オスカーは操作の練習を続け、やがて、シエラ一周の準備が整った。
ほとんどが未開の地であるシエラで、ジュリエットはケアスタンドの設営に苦心する。最終的に、先回りして点在する入植地でオスカーを待つことになった。
黙々と荒野を進むオスカー。一年で一周するとなると、歩きでは間に合わない。目覚めている日中は走り、夜間にはスリープモードで歩いた。未開の惑星ゆえ、通信設備もない。惑星上に点在する入植地で待つジュリエットに会うことが、いつしか唯一の楽しみとなっていく。
半年が過ぎたある日、オスカーは岩場で転落事故を起こした。衝撃でスーツは機能を停止した。数か月ぶりにスーツを脱ぎ、体も心も軽くなるオスカー。だが、未開の惑星でその場にとどまることは死を意味する。スーツなしでは動けない。必死に再起動を試み、なんとか起動させた。衝撃が加わったせいか、停止スイッチも機能するようになっていた。
歩きながらオスカーは悩む。半年の移動は苦行だった。次の入植地でスーツを脱げば、逃げられる。だが、唯一自分を待っていてくれるジュリエットに会うことはなくなる。身分の違う二人の接点は、ケアスタンドだけ。最終的に、そのまま歩き続けることを決断する。
三日分の距離を残して、スーツの調子が悪くなる。期限に間に合わなければ、重罪の判決が待っている。本来なら必要のない体力を使っているため疲労が蓄積し、気を失いそうになる。それに合わせてスーツも停止してしまう。不眠不休で頑張るオスカー。
なんとかゴールに戻ったオスカーに、待っていたジュリエットが駆け寄り、抱きしめる。張りつめたオスカーの気が緩み、スーツが停止する。ジュリエットは、停止したスーツとオスカーの気持ちに気づく。めでたし、めでたし。
文字数:1198
内容に関するアピール
長距離を移動する話、となると、それはもう「走れメロス」ではないかと。勝手な思い込みですが。
でも三日では短いので、せめて1年。距離は地球一周ぐらいを目標にしました。
未開の惑星をひたすら移動しますが、その間の主人公の心の変化に焦点を当てて実作します。
心も貧しい青年が、自分の過ちがきっかけではありますが、人と触れ合い、厳しい惑星の環境を走りぬき、次第に研ぎ澄まされた精神を持つ青年に生まれ変わる。そして、身分違いの恋が成就するハッピーエンドで終わる予定です。
心の状態をリンクさせた惑星の景観が設定できたらいいな、と。
文字数:257
シエラのオアシス
オスカーは夢中で走った。
真っ暗闇の中、何かに阻まれているのに、足だけが、前へ前へと蹴りだされていく。蹴り飛ばした何かがガラガラと音を立てて、転がる。両腕を顔の前に立て、頭や顔にぶつかってくる何かをかろうじて防ぎながら、オスカーはやみくもに走り続けていた。
いや、走り続けているだけではない。勝手に動く足を、必死に止めようとしていた。最大限の力を振り絞る。全身の筋肉は強張り、感覚はなくなっていた。いったいいつまでこの状態が続くのか。
絶望の中で、オスカーは見た。金切り声を上げて開いた重いドアの向こうから差し込む、一筋の光を――。
あけ放たれたドアの向こうは、まぶしすぎて見えない。逆光に黒い人影が浮かぶ。ばらばらと人垣ができた。
――あそこを突破すれば、待ち望んだ自由な世界がある。
宇宙空間を航海すること、十年。気がつけば両親とは生き別れ、同年代の男子ばかり百名余りとともに、惑星シエラに到着した。開拓団として入植するしか生きるすべはなく、ただ同然で開拓地に送られた。朝日が上った時から日が沈むまで、一日中働いても得られる賃金はわずか。このままでは開拓奴隷と呼ばれる最下層の身分から出るすべはない。仲間の数人とともに開拓地を逃げだし、盗みを働いては何とか生き延びていた。
ある日、通りがかった工場の一角で、動作実験中のパワーアシストスーツを見た。傍らには開発者と思しき数名が立ち、スーツを動かしてみながら調整を続けている。
資源の乏しい惑星シエラでは、機械の生産そのものが発展していない。必要があれば大枚をはたいて輸入する。
――自作のスーツなんて、珍しい。滑らかな動きに見とれながら、オスカーは考えた。惑星開発に必須のパワーアシストスーツ。売れば大金が転がり込む。
スーツを持って開発者たちは大きな倉庫に入っていくと、まもなく手ぶらで出て行った。警備も手薄だった。難なく施設に入り込んだオスカーは、倉庫の中につるしてあったスーツの前に立つ。
これは、開拓用のスーツだろうか? 全身を覆う鎧のようでいて、滑らかな表面は触るのがためらわれるほど光り輝いている。
テーブルの上に、使用説明書と書かれた薄い冊子が置かれていた。中を開けば、大きな文字で『服を脱いで装着すること』と書かれている。親切なことに、写真が添えられてあった。
素っ裸で着るのか……。ためらいながらスーツの中に手を入れてみる。吸い付くような不思議な手触り。不快ではない。ずっと触っていたいと思わせる、あたたかな優しい感触。素肌に着たら、さぞ着心地がよいだろう。
オスカーは来ていた服を脱ぎ、スーツの背中側から中に入った。快適だ。装着すると、自動でスーツの形が調整されているのが分かる。全身を覆う、光沢のあるアイボリーのボディ。今まで見たパワーアシストスーツのどれよりも高級だ。それが、オスカーの身体に驚くほどフィットしている。目を閉じれば、スーツを装着していることを忘れてしまいそうだ。
快適さにしばらく身をゆだねていたが、こうしているわけにはいかない。だれかが戻る前に、これをもって逃げなければ。……だが、脱ぎ方が分からない。使用説明書にも記載がない。身体を入れたスーツの背部は自動的に閉じられていて、どうあがいても一枚板のように動かない。
――このまま、逃げるか。
覚悟を決めて電源パネルのスイッチを入れた。全身を包むスーツが一瞬、引き締まったように感じた。ゆっくりと足を動かす。オスカーの意志を先取りしたかのように、一歩、一歩、と歩き出した。
軽快な足取りに、歩調を速めた。広い倉庫の中を、小走りで走る。身体に羽が生えたようだ。これなら、どこまでも行ける。どんな力仕事も楽にこなせる。オスカーは夢中で走った。
だが、こうしてはいられない。外の様子をうかがって、逃げなければならない。
ドアのところでスピードを落とし、……落ちない? いくら止めようとしても、スーツの足は止まらなかった。それどころか、どんどん速度が出る。
焦ったオスカーは、近くにある棚や荷物に手をかける。それも、難なく動かして、スーツはひたすら駆け続ける。壁に体当たりをして止めようとしても、体制を素早く立て直す。オスカーの身体を張った試みは、すべて無駄だった。あちらこちらにぶつかるものだから、倉庫の中は物が散乱し、何かが倒れたはずみで電気も消えた。
真っ暗闇を、オスカーはどうしようもない力に引きずられるように、走り続けた。
そして、あっけなく見つかったのだ。
真っ赤な大地と真っ青な空。
それが目に入るすべて。スペクトラム型G2の主星が、かんかんと照り付ける。
オスカーは、まぶしい青空の一点を見つめていた。四方向から張られたロープで、身動きが取れない。否。正しくは、腿上げ状態である。高くあげられた足は前へ進もうと動く。両腕も足の動きに合わせてリズミカルに振られる。
――ただし、それはオスカーの意志ではない。装着したパワーアシストスーツが、勝手に動作している。制御を試み続けた挙句、何をしても止まらないことを確認したオスカーは、ただ身を任せるだけ。四方からのロープがなければ、今でも走り回っているはずだ。
そのオスカーに、さらにロープをかけようと、カウボーイを気取った男たちが馬に似せた出来損ないのロボットに乗って、はしゃいでいる。蹄が大地を蹴るたびに砂が舞い、風にあおられてオスカーの頬を叩く。赤茶けた肌をさらした背景の岩山は、はるか昔の西部劇をほうふつとさせる。だが、にわかカウボーイの腕は悪く、時折、オスカーの頭に投げられたロープが当たるだけだった。
機械馬で走り回る男たちを抑え、一人の男がゆっくりと近づいてきた。
「着心地はどうかな?」
明らかに悪意しか込められていない口調に、オスカーは無視を決め込んだ。ここで何を話そうが、結果は見えている。開拓団として入植した者が罪を犯せば、即、死刑。それが、ここ、惑星シエラの法律だ。
「返事ができないほど、快適と見た」
男は意地悪く笑う。その手には、制御用と思われるコントローラーが握られていた。
「それでは、せっかくだからもう少しパワーを入れてみようかな」
嫌味な笑いを片頬に浮かべながら、高々と手を差し伸べる。とたんにオスカーの手足が尋常ではないスピードで前後に振れた。頭が前後左右に激しく揺さぶられ、口を開ければ舌を噛みそうだ。うめき声も出せずに堪えるオスカーの耳に、嘲笑が風に乗って聞こえた。かみしめた唇から、血の味がかすかにした。
「マイク、やめて」
その声を合図に、手足の動きがゆっくりになった。うっすらと目を開けてみれば、マイクと呼ばれた男が、コントローラーを取り上げられ、渋い顔をしていた。
化粧っ気のない顔に、後ろで一つに結ばれた黒髪。シンプルな作業服を着ている。オスカーがこの惑星に来て初めて見る女だった。移民団が乗った宇宙船にも女はいた。だが、区画が隔てられていて、接することはなかった。子どものころは、両親も含めて、家族単位で居住区が割り振られていたが、いつの間にか、同世代、しかも男だけとなったから、女の存在そのものが珍しかった。
女の視線がオスカーをとらえる。つかつかと手の触れる距離まで近づいてきた。これ以上近づけば、オスカーの手足が当たるかもしれない。ほんの少し身をかわすように、動いた。
「動かないで」
冷たい声とともに、額に当てられた硬い感触……。
盗み見るように目を開けたオスカーは、銃口がこめかみにあてられていることに気づいた。観念していたとはいえ、とっさのことに血の気が引く。しかし、動くなと言われても、こればかりはどうしようもない。
「よくも私の大切な試作機を」
「止まらないんだ」
絞り出すような声がでた。この体制で動き続けて、どのぐらいたつだろうか。喉はカラカラで、うまくしゃべることもできない。目だけが、にらみつけている女をとらえ続けた。
「問答無用。あなたが死ねば、スーツは止まるから」
何のためらいもない声が、答えた。続いて、手にした銃のスライドが引かれ、安全装置が外されるのがわかった。――これまでか。歯を食いしばって目をつぶった。
「ジュリエット」
声とともに、額に当たっていた硬い感触が去った。いつの間にか、背の高い男が隣に立ち、銃を抑えていた。女はいら立ちを隠そうともしない。
「邪魔しないで。こいつのせいで実験が台無しよ。壊される前に取り戻す」
男の手に渡った銃を、女の白い細い腕が追った。男は諭すような口調で言う。
「せっかくの実験なんだろ? ちょうどいいじゃないか。いい実験動物が手に入って」
「動物なんていらない。試験プログラムは完成している。それで十分」
「試験プログラムにイレギュラーは起こらない。それを起こすのがヒトだよ。今、検討してしまうにこしたことはないじゃないか」
男に向けられた憎々しげな瞳が、振り返ってオスカーをとらえた。
「あいつをずっと走らせ続けるっていうの?」
「耐久試験としては、最高だろ」
「だけど、食糧や水がいる。プログラムには不要なのに」
「その程度の世話なら、得られるデータに比べれば些細な事さ。それに……」
男は女に耳打ちをした。一瞬、心底いやそうな顔をした女は、そのまま背中を向けた。男はオスカーに向き直ると、仰々しく宣言をした。
「開拓奴隷の罪人よ。本来なら命はないが、この心優しいロミオさまが一つだけ、チャンスを授けよう」
野次馬となった男たちが、歓声を上げる。
「この星、惑星シエラを一年のうちに一周したまえ。成功すれば、お前は自由の身だ。平民の身分もやろう」
男は一度うつむいて、無理矢理作った悲しげな顔を向けた
「だが、期限に間に合わなければ、……残念だが」
周りの男たちが、ヒューヒューとはやし立てる。
「まあ、そうならないように頑張りたまえ」
軽く手を挙げて、男は女を連れて帰っていった。
「おいおい、うまくやったじゃないか」
マイクがにやにやしながら近づいてきた。手にはガラスの水差しが握られている。
「ロミオさまのお目にかなうとはなぁ。開拓奴隷の身分でさぁ」
陽はすでに岩山を赤く染め、西の地平に沈みかけていた。長い影を引きずって、マイクはオスカーの隣に立つ。アルコールが入っているのか、足取りがおぼつかない。
「ロミオさまはなぁ、惑星シエラの指導者兼行政長官の後を継ぐ、御曹司様なんだよ。お前ごときが声をかけてもらうなんざ、百年早い」
水差しを高く掲げ、文字通り、浴びるように水を飲む。
「……水を」
オスカーは耐え切れず声を漏らした。あざ笑うかのように、マイクは最後の一滴まで飲み干す。
「あれぇ? 実験動物も水が欲しいのか。残念だが、お世話係が来るまでお預けだなぁ。……ま、そのお世話係も来るかどうかわかんねぇけど。おまえに興味はなさそうだしなぁ。まあ、せいぜいがんばれや」
そういうなり、マイクはオスカーに水差しを投げつけた。オスカーのまとう硬質のスーツに当たり、水差しが割れた。休みなく上げ下ろしされる足に踏みしだかれ、粉々に砕けた破片が風にきらきらと舞う。
実験動物に水をやったら、水差しまで壊されたぜ。参った、参った。独り言のようにつぶやきながら、ふらふらと戻っていくマイクの後姿を、オスカーはぼんやり眺めた。いらだちも感じなくなっていた。全身の感覚がマヒして、夢の中にいるようだった。意識が時々飛んでいるように思う。このまま寝たら、この身体は止まるのだろうか……。
頬をさす冷たい風に、はっとして目が覚めた。
満天の星が空に凍り付いていた。あまりの美しさに、息をのみ、呆然と見上げた。その間にも、ひたすら足踏みを続けている全身を覆うスーツ。どうやら、寝ていてもこのスーツは動き続けるらしい。諦めが色濃くにじむため息を一つ。……口元で息も凍る。
スーツが外気を遮断しているようで、寒さは感じない。スーツの動きに抵抗をやめたせいか、体の疲れもそれほどではない。どうにでもなれ、と脱力したまま、オスカーは再びまどろんだ。
夜明け前。
唯一外気に触れている顔に霜が降りていた。頬が強張って動かない。鼻からは氷柱が下がっているだろう。手が自由にならないこの状態では、確かめることもできない。
そういえば、マイクの言うお世話係とは、誰のことだ。昨日の昼間から、マイクを覗いて誰も様子を見に来ない。このまま日が昇って気温が上がれば、脱水症状は逃れられないだろう。
「ほら、起きなさいよ」
声とともに、バケツ一杯の水を顔面に食らった。
あんまりな目覚めだ。
頭から滝のような水が流れ落ちて、目が開けられない。辛うじて唇を伝う水を舌でなめとる。埃だらけの顔を流れ下った水は、口の中でじゃりじゃりと違和感を生じさせる。だが、丸一日、何も口にしていなかったオスカーはむさぼるように飲み込んだ。喉が、焼けるように痛い。思わずせき込んだオスカーの目の前に、プラスチックの水筒が差し出された。
「これだから面倒なのよ。生き物を使うなんて」
仏頂面が、吐き捨てるように言った。そんなこと、俺が知るか。お前たちが勝手に決めたんだろ。いやならさっさと殺せ。勝手に動き続けるパワーアシストスーツの中で翻弄され続けるのは、もうごめんだ。オスカーは心の中で叫んだ。
女――ジュリエットは、そんなオスカーの気も知らず、後ろに結わえた長い髪を揺らしながら、立ち去っていく。その向かう先には、一頭の栗毛の馬が静かに待っていた。鐙に足をかけたかと思うと、背丈ほどもある鞍に軽々とまたがる。脚を少し引き上げて、ブーツの踵を馬の脇腹にちょんとあてれば、それを合図に馬はさっそうと駆けだした。
赤い大地を駆ける自然の馬。長い四肢が蹴りだされて、土をつかんで推進力にする。一連の動作が、流れるように美しい。その背にまたがるジュリエットは、髪こそ馬の動きに合わせて上下するが、すっと伸ばされた背筋も、鐙に置かれた脚も、すべてが安定している。
――機械の馬とは大違いだ。
アーカイブの動画でしか見たことのない馬が、目の前を疾走する。オスカーは息をのみ、目で追った。こんな辺境の惑星で、こんなものを見るとは。
ジュリエットは四方から張られたロープを一本ずつ外していった。一本が外れるたびにスーツがバランスを失う。体勢を安定させるためにはかなりの集中力が必要だった。最後のロープを手にしながら、ジュリエットはゆっくりと戻ってきた。
「あなた。なまえは?」
「……オスカー」
きれいな鼻が、フンと笑った気配がした。
「オスカー、ね。……これから、補給の練習をする。このまま私に合わせて走ってきて」
オスカーの背の倍はある高さから、ロープと手綱を一緒に握ったまま、ジュリエットが見下ろしていた。黙ってうなずく。なめらかな馬の腹が、じんわりと湯気を立てながら、波打つように呼吸していた。
見とれるそばで、ジュリエットの踵が動く。一瞬にして駆けだす馬に置いて行かれまいと、オスカーも走り出した。大きな動物の後を追っていけば、頬に朝の冷たい空気が当たる。周りの景色が流れ出す。拘束はされているものの、なぜか少しだけ自由を感じた。
何もない荒野に、ポツンと置かれた荷物が見えてきた。
「これから一年間、あなたの補給は走行途中にあんな感じで置かれている」
少しだけ速度を落としてジュリエットは言った。長机のようなものが五台ほど並んで、その上に水のタンクや箱があった。
「補給は一か月に一回、最低限の食料と飲料水だけ。取り損なったら、次まで持たないから確実に持っていくこと。言っておくけど、スーツでは止まれないし、かがめない。走りながら、あるいは歩きながらの作業よ」
となりを歩く馬上からオスカーの肩にベルトのようなものをかけた。
「補給品にはすべてフックがついている。それでスーツに括り付けて」
長机の前に行けば、身体の前後に括り付けてちょうどの数だけ、補給品が置かれていた。どう見ても、この量で一か月は持たない。この不毛の惑星で、途中に植物が生えているとは思えないし、人が住んでいるとは、なおさら期待できない。
戸惑ったオスカーの表情を見てか、ジュリエットは馬上からため息をついた。
「大丈夫。一か月は十分持つ」
はぁ? と見上げたオスカーに冷たい瞳を一瞬だけ向けた。
「そのスーツ、そういうものだから」
とうとうと説明を続けられたが、全く理解不能だった。わかったことといえば、内層全体が海綿状の植物(のようなもの)に覆われていること。その植物(のようなもの)に、特殊な細菌がいること。それが身体の老廃物を分解してエネルギーに変え、宿主――つまり、オスカー――に還元してくれること、ぐらい。簡単にいれば、胎盤を着ているようなもの、だそうだ。そう言われてみれば、装着してから今まで尿意も便意も催さないし、空腹も感じない。しいて言えば、喘ぎすぎて喉が渇いた程度だ。
「あなたはその細菌たちと一心同体ってこと。どちらが死んでも生き残れない。気をつけることね」
冷たく言い放ってジュリエットは立ち去った。その背中を呆然と見送って、オスカーは一人黙々と補給品の取り付けを練習した。
旅立ちの朝。
快晴。日の出とともに、惑星シエラ開拓都市アルファの城塞の門が開いた。目の前には、長い下り坂が続き、周囲には急峻な岩山が朝日を浴びて赤くそびえている。細く続く舗装されていない道を、軽快に走り出す。後ろから、ジュリエットの駆る馬が従った。
互いに無言でしばらく走れば、いつしか蹄の音は消え、荒野にはスーツの踏みしめる足音のみが響いた。黙々と走りながら、考えた。一年で一周するとなると、歩きでは間に合わない。目覚めている日中は走り、夜間にはスリープモードで歩く。それが基本だ。
奴らは、オスカーが途中で死のうが気にもしない。オスカーは思った。GPSもつけずに野に放ってもお構いなしなのは、逃げたところで生き延びる可能性が低いからだ。唯一、一年で戻って来られれば、その時には……。それが、どれほど可能性の低いことかはわかっていたが、それでも、一歩踏み出すたびに、自由への憧れがいや増した。
自分を縛るロープも、周囲を遮る囲いもない。毎日の重労働、疲労、空腹。この星に着いてから、ひと時も忘れたことのなかった貧困でさえ、今は気にならない。過酷な実験に使われていることは理解しているが、この解放感! 自然に笑みが漏れた。
この惑星では、職業によって身分が厳密に決められている。このスーツの開発者たちは高位の身分。最下層の者を実験動物並みに扱うのも当然のこと。だが、それもあの狭い開拓地にいればこそ。未開の地に走り出してしまえば、それさえもない。
不細工な機械の馬に跨ったマイクが笑いながら言った言葉を、いまさらながらに思い出す。
――そのスーツは一度装着したら脱着も停止も不可能。内蔵電池は十五年有効。
いいじゃないか。うまくいけば、それだけ自由に生きていけるってこと。ロミオが持ち掛けた取引だって、悪くはない。
――惑星シエラの円周約5万キロ。それを一年間で歩ききったら、罪には問わない。
耐久性試験継続中なら、補給品も約束されている。オスカーには、洋々たる未来しか思い描けない。
最初の一か月は、飛ぶように過ぎた。
開放と自由への燃えるような期待が、オスカーの背中を押した。惑星シエラの地図がバイザーに投影される。白地図に一本道が書かれているだけの簡易なものだ。開拓初期に投下された観測地点を示すポイントを結んで、無我夢中で道なき道をたどる。
出発前の説明は、気が抜けるほど簡単だった。操作方法、出力調整方法だけが伝えられ、あとは走りながら慣れるように、とだけ。あっけなく終わった説明に不安がぬぐえなかったが、走り出せば、すぐに考えずとも調整が可能になった。
スーツ自体が強固な外殻を持っているので、多少転倒したり物に当たっても壊れることはない。さらに、バランスにも優れていて、多少の凸凹に当たっても、身体自体が傾くことはないし、ときには気づかないこともある。その安全性に配慮した設計は、家どころか、通信設備もない未開の惑星を走破するためには、ありがたかった。
開拓都市アルファを出発した時から風景はほとんど変わらず、赤い砂漠と岩山が延々と続いた。雨は降らず、風が吹けば砂が舞った。地層があらわになった奇妙な岩があちらこちらに立っている。強い風が吹きつけて、風化が進んだらしい。オスカーは毎日移り変わる風景に飽きることはなかった。
日が落ちれば、人工の灯が一切ない、文字通りの闇夜になった。惑星シエラには、衛星が二個あるが、いずれも小ぶりで月明かりとしては期待できない。その代わり、夜空を彩る無数の星が、オスカーの目を楽しませた。
スーツにライトはついていないが、内蔵センサーのおかげで、自動的に安全な場所に足を運ぶことができる。スリープモードに切り替えてゆっくり歩き、まるで漆黒の宇宙を漂うゆりかごの中にいるような感覚を味わいながら、毎晩眠りに落ちた。
オスカーは、物心ついてからほとんどすべて、十数年を宇宙船の中で過ごした。自然環境にはなじみがない。それでも、はるか昔の地球の映画も観たし、ライブラリで手当たり次第にアーカイブの写真や動画を眺めた。走り出してからの、目の前に広がる光景は、記録媒体に収められているものとは比べ物にならない。オスカーはいつしか、この素晴らしさを、誰かと一緒に味わえたら! という衝動に駆られるようになった。
宇宙船で別れたきりの両親か、それとも、開拓地で一緒に働いた仲間か……。一通り思い出せるだけの人物を思い浮かべて、オスカーは苦笑しながら首を振った。この感動を共に味わえる誰かを、まだ俺は知らない――。
最初の補給地、開拓都市ベータに到着する日の夜が明けた。
曙光が東の空を赤く染めはじめ、西の空はまだ夜の名残を残していて、衛星の一つが明るく輝いている。いつもならスリープモードを解除しない時間だが、はやる心を抑えきれず、オスカーは駆けだした。
アルファを出るときに携えていた飲料水も食料も、きっかり前日でなくなっていた。喉の渇きも空腹も感じてはいないのだが、携帯食がなくなれば、どことなく心細い。それ以上に、一か月ぶりに人間に出会える。一人で移動し続けているのは、それこそ最初のうちには解放感だらけだったが、しばらくすれば孤独感が押し寄せてきた。オスカーの友だちは「孤独」だ。そう強がってはみても、寂しさを埋めることはできなかった。
陽が上ると、遠くまで見晴らしがきいた。空の青と大地の赤以外の色、――緑が行く手に現れた。小高い斜面から見下ろせば、満々と水をたたえた湖を中心に緑地帯が広がり、工場や建物が並んでいた。湖から流れ出る川の両側にも大木が葉を茂らせて立ち並んでいて、その周囲には、風情のある家屋がいくつも見られた。
ジュリエットはどこにいるのだろうか。
街に足を踏み入れて、オスカーは考えた。ここには細い路地が思いのほかたくさんあって、迷い込んだら最後、出るのに時間がかかりそうだ。それなら、一番目立つ湖沿いを走っていれば、気づいてくれるだろうか。
湖を一周する歩道には木陰が至る所にあり、大勢の人が気ままに過ごしている。そこに走り込んだパワーアシストスーツは注目の的だった。何かの競技と勘違いして、声援を浴びた。気恥ずかしく、下を向いて走るうちに、隣を一台の自転車が並走しているのに気付いた。
「予定通り補給品を準備したわ」
久しぶりに聞く声に顔を上げる。すでにオスカーに背を向けて、自転車は方向を変えていた。速度を上げて追いかけると、隣に並んだ。
「……今日は、馬じゃないんだ」
久しぶりに出す声は、どこかぎこちなかった。
「あんな大動物が、この惑星にいるはずないでしょ。私が作ったのよ」
「作った?」
「遺伝子情報をアーカイブから引っ張り出して。簡単」
「……機械の開発が専門なんだろ? 遺伝子も扱えるのか?」
驚くオスカーにジュリエットはこともなげに答えた。
「もともと専門は生物学だから。今は必要に迫られて、スーツの開発をしているだけ」
オスカーの驚きをくみ取って、スーツは速度を落とした。ジュリエットの背中が、見えなくなった。
路地を曲がったところに補給品が山積みされていた。ジュリエットの目の前で行きつ戻りつを繰り返しながら、あらかた、荷物をくくり終えた。最後に残ったのは、一番下の荷物だけ。かがむことが許されないオスカーの手は届かない。
「机の上に置くはずじゃなかったのか?」
オスカーはいら立ちをぶつけた。ほんの少し表情を変えて、ジュリエットが立ち上がった。
「悪かったわ。ここまで机を運ぶ余裕がなかったから」
小声で返事をするジュリエットに、そんなもの、ここで調達したらいいじゃないか、と喉元まで声が出かかったが、止めた。こいつは人見知りなのかもしれない。こんな地の果てまで来て、知らない人に声をかけるのは至難の業だ。たぶん、それで……。
「これで最後よ」
ぼんやりしているオスカーに荷物が手渡された。
これで、またしばらく一人か。気のせいか、オスカーの足は重かった。路地の向こうはもう街はずれだ。
「次はまた一か月後。気をつけて行って」
期待していなかった言葉が、背中に当たった。首だけで振り向けば、自転車を立ってこぐジュリエットの後姿が、角を曲がっていった。さらさらと長い髪が後ろに流れて、最後に消えた。
「ありがとう」
聞こえないのはわかっていたが、口に出さずにはいられなかった。
また、一か月後。
オスカーは勢いよく足を蹴りだした。
乾燥した赤い大地が続いた一か月と違って、第二区間は雨ばかりが続く。
スーツの中までは濡れないが、バイザー越しに雨が当たると視界がきかず、つい、気が重くなる。泥水を跳ね上げながらぬかるみを走れば、遠くに惑星開拓団の重機が見えるような気がした。
オスカーの最初に配属された開拓地は、水を大量に含んだ粘土質の土地だった。惑星シエラに移住して慣れない時期だったし、何より宇宙船の暮らしが長く体力もなかったから、重労働は身体にこたえた。仕事を休めば食事も与えられなかった。仲間は次々に脱落した。病気になっても、けがをしても、手当一つされずに見捨てられた。
こんなはずでは……、と移住を決意した両親をどれほど呪ったことか。
両親とは、宇宙船を乗り換えたときに離れ離れになった。気が付けば、同世代の男子だけになっていて、開拓団に所属させられていた。のちに聞いたところによれば、移住をあっせんするブローカーの仕業だった。十数年かかる宇宙飛行の末に、ちょうどいい年齢の若者に育つよう、人選をした。そして、両親の乗った宇宙船は、口減らしのために途中で放棄された……。
降りしきる雨にバイザーが濡れる。
下を向いて、オスカーは黙々と走った。
こうやって一人走っても、やっぱり待っているのは絶望だけじゃないか――。気力が、自由への渇望が、ぬかるみに足を取られるたびに、削り取られるようになくなっていった。暗くなって、いつものように眠って、目覚めることがなければ、どれだけいいことか!
それでも、次の朝は訪れた。
叩きつけるような雨は、いつの間にか霧雨に代わっていた。朝日が左手のほうから上ってきて、周りが明るくなる。しばらくすれば、天頂には青空がのぞいていた。ゆっくりと退いていく霧が、あたりを幻想的に見せていた。
ふと顔を上げれば、大きな虹がかかっていた。
しばし見とれたオスカーは、虹に向かって走り出す。昨日までの憂鬱な気分は、どこかへ吹き飛んでいた。あそこまで行けば、きっと希望がある。そんな気がした。泥水を跳ね上げる足音も、軽快に響いた。
やがて、虹のふもとに白い建物がいくつか見えてきた。
机を並べた上に補給品を山積みにし、ジュリエットはオスカーを待っていた。
思わず手を挙げてしまえば、ジュリエットも小さく手を振る。その反応に驚きながらも、なんとなくおかしく、一人苦笑しながらオスカーは走った。
補給品の取り付け方も、一か月ぶりとはいえ、だいぶ慣れていて、あっという間に済んだ。なんとなく、そのまま立ち去りがたく、ゆっくりと足踏みをするようにジュリエットの前を進んだ。そうだ。オスカーはジュリエットを見た。
「あの、……ありがとう」
ジュリエットの瞳が一瞬見開かれ、すぐにオスカーから目をそらした。やがて照れたような声が帰ってきた。
「別に。……気をつけて」
オスカーはにっこり微笑むと、手を挙げて走り出した。補給品を前後につけて重いはずなのに、心は軽い。感謝の言葉を、今度はちゃんと伝えられた。それだけでうれしかった。
ジュリエットは気にせず帰り支度をしているだろう。それでもいい。人とのかかわりの中で、オスカーが初めて感じるあたたかい気持ちだった。
数日間走り続ければ、道は海辺に出ていた。
真っ青な海面と主星の光を受けてまばゆくきらめく波頭は、どれだけ眺めても飽きることはない。朝から夕方まで、光の加減で印象がいくらでも変わった。波音が耳に心地よい。真っ暗な夜、満天の星空を眺めながらゆったりと歩く動きに身を任せ、絶え間なく繰り返す波音を聞けば、長旅に無意識に蓄積された疲労は、いつしか拭い去られていた。
とりわけ、朝日が水面から顔を出す時間帯が、オスカーは一番好きだった。朝焼けが始まり、今か今かと待ちわびて、曙光が差した時のすがすがしさ。身体の底からやる気が満ち溢れてくる。
そして、また、ふと思う。
――この景色を、誰かと一緒に見たい。
オスカーが走り出した時から、誰かとこの感動を共有したい、とどれだけ思ったことか。そしてまた、この人、と思える人がいないことが、オスカーには悲しかった。
しかし、最近、何度否定しても、頭に浮かぶ人がいる。一緒にいることもかなわないと思ったり、いたとしても感動が共有できるはずがないと思ったり。だけど、気がつけば思い浮かんでしまうのだ。
隣にいてくれる誰かを渇望している自分を目の当たりにするたび、胸が締め付けられる。その胸の痛みを抱え、オスカーは海辺を黙々と走った。耐え切れず、一人叫んでみたりもするが、木霊さえ帰ってこない。ざくざくと踏みしめる砂と打ち寄せる波の音だけが続いた。
やがて道は内陸に入り、久しぶりに大きな道路に出た。陽炎の立つアスファルト。厳しい暑さが容赦なくオスカーを襲う。影になる木立一つない。滝のように流れる汗をぬぐいながら走れば、後ろから大きなトラックが追い抜いて行った。
トラックの後姿を見送りながら、まっすぐな道の、ずいぶん先にある標識が目に入る。近づくにつれて、小さな文字が読める大きさになった。この先に、村がある。そこは、次の補給地だ。地面をしっかり踏みしめながら、オスカーは一歩、また一歩と前に進んだ。一歩に意識を集中しなければ、はやる気持ちに負けて、全速力で駆けだしてしまいそうだった。
いつものように、ジュリエットから補給品を受け取った。
長い間待ち焦がれていたのに、一瞬だった。これから、また一人で移動を続けなければならない。走り始めながら、オスカーは目の前に横たわる長い道のりを思って、思わずため息をついた。シエラ一周は、まだ半分だ。ここであきらめてはならない。
密かに歯を食いしばって走り続けるオスカーの隣に、一台の車が並んだ。窓が開き、白く細い腕が伸びた。
「途中で、よければ食べて」
ジュリエットはそれだけ言うと、オスカーに包みを渡した。目を丸くするオスカーを置いて、あっという間に車は来た道を引き返していった。
包みの中には、見たこともない食べ物が入っていた。ずっしりとした重みが伝わる。じっと眺めて、恐る恐る、ほんの一口、口にしてみた。無味乾燥の携帯食しか知らないオスカーには、始めての味だ。口の中に甘さがひろがり、何とも言えない幸福感で胸がいっぱいになる。
――大切に食べよう。
どこを探しても見つからなくなっていた次の補給地まで走り続ける気力が、ふつふつと湧いてくるのを感じていた。
順調にシエラ一周の行程は進んでいた。
スーツには不具合も発生せず、オスカーの体調も万全だった。一歩一歩がゴール――自由までの距離を縮めていると確信することができた。
その夜も、いつもと同じペースで歩いていた。星空は変わらず美しく、夜空を見上げながらオスカーはまどろみ始めた。
その瞬間。
何が起きたかわからなかった。激しい衝撃が身体全体を襲い、投げ出されたかのように感じた。そのあと、しばらく気を失っていたのだろう。ふと目が覚めれば、目の前には相変わらずの星空が広がっていた。
ただ、地面に横たわっていたことだけが、違った。
オスカーは自分の身に起こったことが理解できず、あたりを見回した。頭の上に、星の光を遮る何かがあった。大きな岩が張り出しているようだ。あの上から、落下したのか……。
止まることのできないスーツが、動かなくなっていた。そっと身体を動かせば、スーツの内層は静かにオスカーを手放した。
久しぶりの何も装着していない自分の身体だった。内層と触れ合っていたため、じっとりと湿ってはいるが、以前と何も変わっていないように感じる。暗闇の中で、オスカーは自分の身体を抱きしめた。暖かい皮膚の感触が伝わってきて、それが自分の身体だと感じられるのが不思議だった。心も身体も、軽かった。
――このまま、逃げ出してしまおうか。
動かないスーツを手探りで触りながら、オスカーは考えた。だが、再考する間もなく、スーツに潜り込んだ。スーツを装着していた時には気づかなかったが、生身の身体には、この夜の寒さはこたえる。服も着ていない状態では、凍死も免れられない。
スーツの中に入ってさえ、寒さは感じた。電気系統がやられている。そう直感した。まずは動こう。動けば、暖かくなる。オスカーは、ゆっくりと足を踏み出した。アシストをしなくなったスーツは、ことのほか重い。歩き出してすぐに、汗が噴き出してきた。それでも、日の出までは、と、オスカーはゆっくりゆっくり歩みを進めた。
スーツが脱げるようになっても、スーツなしではこの未開の惑星では生きていけない。せめて次の開拓地まで行かなければ。だが、内層の細菌が死んでしまえば、今ある食料と飲料水だけでは足りない。どうにか、再起動をしなければ。
焦ってはみても、何の手立てもない。操作パネルの電源も落ちている。万事休す。体力も限界だ。上ってくる朝日を目にして、オスカーは岩の影に横になった。しばらく、休みたい……。
目が覚めてみれば、オスカーの周りを取り囲むように、柔らかな苔のようなものが群生していた。この不毛の惑星に、植物が生えているのは珍しい。手で触れてみれば、不思議と温かい気がする。この植物は、と目を凝らして、はっとした。
スーツの内層の海綿様植物と同じ!
スーツが地面に接するところから、内層の植物が外に漏れだしていた。そればかりでなく、スーツの内部も暖かい。見てみれば、操作パネルの電源も復活している。不思議なことばかりだ。
オスカーは地面の苔をゆっくりとはがしてみた。根が縦横無尽に網目のように張っている。まるで、電気回路のように。
――もともと専門は生物学だから。
ジュリエットの言葉が浮かんできた。この資源の極端に少ない惑星で、彼女はこの植物をスーツの材料に選んだのか。壊れても、地面に戻せばすぐ増殖する。豊富に手に入る原材料として、この惑星の植物を使った。
オスカーは舌を巻いた。自然に笑みが浮かんでくる。
おもむろに立ち上がり、起動スイッチを押した。スーツは何事もなかったかのように動き出した。隣の停止スイッチも押してみた。……止まった!
ついに自由を手に入れた。
前に向かって歩きながら、オスカーは喜びにあふれていた。これまでの行程は、苦行だった。ただ一人、果てなき道を延々と進み続けた。それも、このスーツが止められなかったから。脱げなかったから。……でも今は、スーツの装着も、起動も停止もできる。誰も知らない場所で、スーツを売って逃げることもできる。
素晴らしかった。待ちに待った、求め続けた自由が今、ここにあった。
あふれでる歓喜に後押しされて、身体全体が軽かった。次の開拓地で、このスーツともおさらばだ!
一瞬にして、我に返った。
次の開拓地。そこにはジュリエットが補給品を持って待っている。
何日も何日も、以前と変わらず走って歩いた。
オスカーは、悩んでいた。スーツの呪縛から解き放たれれば、すべてがうまくいくと思っていた。なのに……
スーツを脱いでしまえば、ジュリエットに会うこともない。
それに気づいた時、オスカーはどうしようもなくつらかった。ジュリエットは、耐久試験のためだけに補給を続けている。自分は、自由を得るために走り続けている。今、一方の目的が達成されて、この移動をやめてしまえば、もう二人の接点はない。
オスカーがこの移動を完遂してゴールに戻っても、身分の違う二人にそれ以降のつながりは期待できない。互いに交わるはずのない人生を生きていて、ちょっとした間違いで一瞬触れ合っただけ。そうわかっていても、なぜか後ろ髪を引かれる。あと数回残っている補給地での再会を、ちょっとした会話を、このままなかったことにしていいのか……
スーツを着た体は軽い。だが、足取りは重く感じられた。次の開拓地まで、もうすぐ。
オスカーは悩んだ。悩みに悩んで、決めた。
次の開拓地で待っていたジュリエットは不機嫌だった。
半日も遅れたオスカーを、待ちくたびれたらしい。それでも、補給品の取り付けを手伝う、と手を出した。
伸ばされた白い腕が、一瞬止まった。
気づかれたかと、背筋が凍った。
ジュリエットは、オスカーの顔をじっと見た。
「どうしたの。この汚れ。……無理矢理脱ごうとしたんじゃないでしょうね」「まさか。ちょっと岩場から落ちて転がっただけだ」
ゆっくりと足踏みをしながら、努めて冷静にオスカーは答えた。隣では、なんてことするの、と文句を言いながらも、ジュリエットがスーツの点検をし始めた。かすかに花の香りが鼻をかすめる。いい香りだ。うっとりとした。がすぐに、我に返った。停止することが分かってしまったら……と、オスカーの手がじっとりと汗ばむ。
スーツ全体を見回して、特に問題なしと判断したのか、ジュリエットの身体が離れた。ホッとした。それと同時に、ほんの少し、残念な気もしたが、その気持ちは飲み込んだ。
「じゃあ、行く」
いつも通り、平静を装って、駆けだした。
「気をつけて」
いつもより、ジュリエットの声は暖かいような気がした。
――これでいい。これでいいんだ。
何度も心の中で繰り返しながら、オスカーは前だけを向いて走った。ゴールするその日まで、あと数回、こうしてジュリエットに会える。
約束の一年に、あと一か月となった。
オスカーは順調に走り続ける。このペースでいけば、ゴールまで予定通り。そのあとは自由の身だ。オスカーの気持ちは昂り、完走後の自分に思いをはせる。
自由になったら、何をしよう。まずは、ジュリエットに感謝を伝えよう。耐久試験のためとはいえ、身分の違う自分に親切にしてくれたジュリエットに、せめて、何かお礼がしたい。もう会うこともなくなるが、それでもジュリエットのために何かをしたい。
オスカーの希望は止まらない。
最終の補給地まで、もうすぐだ。
耐久試験の最後の一区間を前に、ジュリエットは念入りに点検をした。
機能には問題がない、と言いながら、ところどころ傷の入った外殻を丁寧に補修した。強度が落ちて、何かのはずみで壊れるリスクも、最小にとどめたいらしい。
足踏みをしながら言われるまま待っていたオスカーに、ジュリエットが向かい合った。
「スーツの調子は万全。完走は間違いなし。あとは、あなたの体調次第だけど、……大丈夫そうね。出発した時に比べたら、見違えるようにたくましくなった」
バイザーを下しながら、オスカーの目をのぞき込む。
「もう少し。最後の一区間よ。気をつけて。……ゴールで待ってる」
ジュリエットのバラ色の唇が、美しく微笑んだ。
オスカーは言葉が出なかった。いつものように、片手をちょっと挙げ、前を向いて走りだした。
ジュリエットの笑顔が、頭から離れない。
あれは、耐久試験が無事に終わることへの期待か、それとも……。いくら打ち消しても、期待に胸が膨らむ。何も考えなくてすむように、と、全速力で走り続けた。
開拓都市アルファまで、あと三日となった。
前方の夜空がうっすらと明るい。アルファの街の明かりだ。
オスカーはスリープモードの歩行に身を任せ、明るい夜空を眺めていた。
あと三日。この調子でいけばゴールの期限には確実に間に合う。今までの一年間が、走馬灯のように目に浮かぶ。出発した時には、いつ終わるとも知れなかった行程が、もうすぐ……。
毎日毎日、自問自答を繰り返した。それでも考えつくされたわけではない。次から次へと、思いつくことはある。だが、もう、考えるのはやめよう。ゴールだけを見据えて、無心に歩こう。そう決意していた。
心地よい風が頬を撫でる。ゆっくりとまどろみに身を任せた。
その時、突然、後ろから衝撃が走った。前のめりに倒れて、動けない。なにかが、背中に乗っている。どうにか起き上がろうと、オスカーはもがいた。なにかが、オスカーの周りで動いたと思えば、嘲笑が聞こえた。耳を疑った。
「おいおい。ずいぶんとがんばってくれたなぁ」
聞き覚えがあった。確か、研究施設でつながれていた時の、そうだ。マイクだ。
「何をするんだ」
オスカーは喘いだ。背中から押さえつけられていて、息ができない。
「お前にゴールされるわけにはいかねえんだよ」
背中の上から声がした。二人で待ち伏せしたのか。
「あんたがゴールするとさ、ロミオさまが賭けに負けちまうんだ。だから、息の根を止めろとさ」
賭け?
「ジュリエットちゃんがよぉ、スーツに夢中で、ロミオさまのほうを振り向いてくれないんだとよ。だから、賭けをしたんだ。おまえがゴールしたらジュリエットちゃんの勝ち。ゴールできなかったら、ロミオさまの勝ちってね」
マイクの声にもう一人が下卑た笑いを漏らす。
「ロミオさまは何としてもジュリエットちゃんと結婚したいんだとさ」
ジュリエットと結婚? あのロミオが? ジュリエットがスーツに夢中? 賭けをした? オスカーの頭の中を、様々な言葉が渦巻く。
賭けをしていたから、最後の補給地であれほどのチェックを? ――あの笑みは自分に向けたわけではなく、賭けに勝つ自信があったから……?!
オスカーの力が抜けた。途中で逃げ出さなかった自分は、なんて浅はかだったんだ。猛烈な後悔が襲ってきた。ここで殺されても、ゴールしても、望んだ未来はかなわない。望んだ未来? ――俺は、いったい、何を望んだんだ!
絶望の中、オスカーは銃声を聞いた。
目の前が赤い。
もう死ぬのか。
ぼんやりと思った。今日は快晴だ。こんないい天気に死ぬのも、悪くない。
顔に手をやると、ぬるりと血の感触がした。手は動く。少し起き上がってみれば、身体の節々は痛むが、動けないほどではない。
スーツは、壊れていた。
銃弾はスーツに当たって、オスカーの身体は無傷だった。顔の血糊はおそらく投げ飛ばされたときにどこかで切ったのだろう。
オスカーは立ち上がった。壊れてひびの入ったスーツを愛おしげに撫で、そっと身体にあてた。補給品を取り付けるベルトが、肩から垂れていた。スーツが外れないように巻き付ける。内層の海綿様植物は、もう生きてはいないようだった。オスカーの身体にスーツがひんやりと感じられた。
――もう少し、もう少しだからな。
心の中でスーツに語り掛けた。思えば相棒のようなものだった。このままずっと、一緒にいられるような気がしていた。ここで、置いていくわけにはいかない。たとえ、耐久試験が失敗でも、ロミオが賭けに勝ってジュリエットと結婚しようとも、このスーツだけは持ち帰りたい。
オスカーは歩き続けた。
期限三日前の夕暮れが、迫ってきていた。
夜通し歩き続けた。
何のために歩き続けているのか、考えられなかった。感覚がマヒしているのに、自動的に身体だけが前に進む。予想通り、スーツ内層の海綿様植物は死んでしまったようで、空腹と喉の渇きが襲ってきた。補給品はすでにない。あたりを見回しても、赤い大地が広がるだけだ。
遠くの小高い場所に、開拓都市アルファが見えてきた。
あそこまで、あと一日。歩きでは間に合わない。到着したところで、死刑が待っているだけだ。それなのに、なぜか脚は止まらない。体力が尽き果てて、気を失いそうになる。何度もがっくりと膝をついた。そのたびに、力を振り絞ってたちあがった。
何が自分をそこまで動かすのか、オスカーは考えないようにしていた。考えれば、もう足は進まない。何も考えず、ただ、脚だけを動かせ!
主星が西に傾いてきたころ、オスカーはいよいよ立てなくなった。這いつくばるように地面に転がり、赤い土を握りながら歯を食いしばった。いよいよこれまでか。
――ごめん。ジュリエット。
仰向けになって、空を見つめた。
今頃、ジュリエットは、明日、スーツが無事に戻って、耐久試験が成功することを、心待ちにしているかもしれない。ロミオとの馬鹿な賭けに負けるだなんて、これっぽっちも思ってなくって。オスカーがゴールするのを信じているに違いない。
……でも、もうだめだ。俺だってがんばった。途中で逃げようとした弱い心とも戦ったし、マイクの待ち伏せも何とかしのいだじゃないか。でも、もう身体が動かない。俺が悪いんじゃない。もう、どうしようもないんだ。
もともと、これ自体が勝つ見込みのない賭けだった。
オスカーは泣いた。
声は出なかった。涙も流れなかった。ただただ、空を見上げて、口を開けて泣いた。
その口の中に、水滴が落ちてきた。かと思うと、あっというまに激しい雨になった。バケツをひっくり返したような豪雨は、あちらこちらのくぼみに水たまりを作った。オスカーは口をつけてすすった。
生き返った!
まだだ。まだ、大丈夫だ。足が大地を蹴った。
ごめん。ジュリエット。一瞬でもあきらめかけた自分を許してほしい。あなたが俺のゴールを信じているなら、絶対に、間に合ってみせる!
オスカーは飛ぶように走った。
予定されたゴールに、ジュリエットはたたずんでいた。
後ろでは、ロミオとマイクたちが大騒ぎをしている。賭けに勝つ気満々で、前祝気取りだ。
ジュリエットの胸の前で握られた両手が震えている。おびえているのは、賭けに負けることではない。自分の開発したスーツが、それを装着したオスカーが、無事に戻って来れないことだけだ。
主星は山の向こうに沈み、夕闇が空を覆い始めた。完全に暗くなるまで、もう時間がない。暗くなれば、城門は閉ざされ、外部からは入れなくなる。目の前の長く続く道に、人影はない。道も、ほとんど見えなくなってきた
「ジュリエット、もういい加減あきらめたらどうだ」
勝ち誇ったロミオが、声高に言う。マイクも調子に乗って、もう帰ってこないっしょ、と叫ぶ。
そんなはずはない。オスカーが戻らないなんて、何かの間違いだ。
守衛兵の閉門の合図があった。
目の前の城門が、静かに締まり始めた。これまでか……。
狭められていくジュリエットの視界の中に、ちらっと動くものがあった。
「待って!」
叫ぶと、閉まりかけている重い扉を強引に押し返し、ジュリエットは外に出た。
夜の風が強く吹き始めていた。風の音に混じって、金属のこすれる音がした。都市の灯を反射して、すぐ目の前に、人影が浮かび上がった。
「オスカー!」
閉まる直前の城門に倒れ込むように、オスカーは帰ってきた。
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