神隠しの後遺症

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梗 概

神隠しの後遺症

二十六歳のある夜、染矢は高速道路を走っていた。車には染矢の描いた絵と、友人の長谷の絵を積んである。美大時代の友人達とのグループ展は明日からだ。朝までに展示場につかなければ。

染矢の絵は、よく見る幻覚を元にしたものばかりだ。今もトンネル内に巨大ヤモリが見えたり、道路脇で不気味にうねる標識が見えたりする。この幻覚は子供の頃に神隠しにあった後遺症だった。数ヶ月行方不明になった染矢はその間の記憶を失くしており、奇妙なものを見聞きするようになったのだ。行方不明の間に起こったことのトラウマによる幻覚だというのが医者の見解だった。

 今夜はやけに幻覚を見る。かけている音楽に不気味な声も混ざり出した。染矢は音楽を消し、長谷に電話をかけた。ハンズフリーで会話していると、幻覚の話を聞きたいと長谷が言いだした。車窓に張り付いている沢山の唇について長谷に話していると、唇達が言葉を発した。「本当は臆病者の癖に」「もう誰も守ってくれない」「お前は捨てられた」

 これに激昂した染矢は訳も解らぬまま反論し、それと同時に自覚する。幻覚だと自分に言い聞かせてきたが、本当にそう思えたことなどない。見える全てが怖い。唇はフロントガラスを覆い尽くす。前が見えずパニックに陥る。そんな時声が聞こえた。

「私が守ってあげるよ」 

気付くと唇は消えていて、助手席に少女がいた。少女の事を話すと、長谷は、それは自分の妹の幽霊だと言った。車に積んである長谷の絵は、去年死んだ妹を描いたものだ。その絵を通じて助けてくれたのだ、と長谷は言う。半信半疑ながら染谷も頷く。

 早朝に展示場に着き、長谷に迎えられて絵を運び込む。長谷の絵を覆う布を外すと、絵の女の子と、染矢の横に立つ少女は全く違う外見だった。ではこの少女は。疑問を抱えつつ、展示場の個室に自分の絵をかける。まだ少女がいるので話しかけると、こう答えた。

「私はいつき。迎えにきたの」

そして少女は、首を吊るように指示する。何故か逆らえず、染谷はベルトを首に巻き、ドアノブに吊るした。

「怖いものなんて何も見えない、聞こえない所に連れていってあげる」

少女の声を聞くと心安やぐ。ベルトに体重をかける。心地よさとともに、意識が遠くなっていく。そこで大事な事を思い出し、染谷はベルトから首を外した。苦しみに転げ回っていると、少女が言う。どうして。あと少しでいけたのに。染谷は答えた。

「いけない。あの人を待っているから」

 そうだ。待っている。幼い染矢を攫い、慈しんだ鷲羽の天狗。お前は私のものだと、必ず迎えに行くから待っていなさいと言ったあの人を、ずっと待っている。少女は悲しそうな顔をして、消えた。

 グループ展が終わり、染矢は次の絵に取り掛かった。しかし描けない。あの人の姿が思い描けない。解っている。今更迎えになど来ない。それでも待ち続ける。染矢はキャンバスを睨み付けた。嘲るように唇が浮かび上がっていた。

文字数:1200

内容に関するアピール

 怪奇現象夜間ドライブと神隠しの話です。たった一晩の運転ですが、眠気と怪現象に悩まされながらの道のりは、運転手には酷く長く思えることでしょう。そして漸く辿り着いた目的地にはちょっとしたサプライズが待っています。

 この話の神隠しはいわゆる天狗攫いです。天狗と言うのはどうも少年を攫う傾向にあるらしいのです。そして武芸や神通力を伝授してみたりして、しばらくしたら親元に返すのだとか。こんなに迷惑な話がありますか。勝手に攫って、小さい間だけ可愛がったあげくに手放すなんて無責任な。神通力とか貰っても困るし。そんなことを考えながら書きました。

 出て来る少女は、本人も名乗っている通り縊鬼です。くびれおにとも言います。人にとりついて首を括らせる妖怪です。怪現象に苛まれながら、無意識のうちに迎えを待ち続けて疲れ切った主人公の心の隙を狙います。もし彼女の誘いに乗っていれば、もっと遠くまでいけましたね。

文字数:395

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彼らが焦がれ描いた仙境

時速百キロで走っているから、道路の端を縁取って並ぶ白いライトが残像を残して飛んでいくように見える。車内を満たす無声の音楽。感情を直接揺さぶるようなピアノ。淡々と時を刻むドラム。それらを無視して、好き勝手に流れていくようなベースの音。
運転中に聞くのにいい音楽はあるか、と長谷川に聞いて勧められたのがこれだった。ニュージャズやディープハウスを得意とする新進気鋭のジャムバンド、だと言っていた。長谷川が熱く語るだけあって確かにいい演奏だったが、感傷的な音が響きすぎて少し苦しい。
何も考えたくない。しかし眠ってはいけない。徹夜続きの最終日、深夜の高速道路を走る染谷にとってはそれが重要だった。
 ここしばらく、仕事が終わった後の疲れ切った体に鞭を打って絵を描いてきた。それをやっとお披露目できる。美大時代の友人達とのグループ展は明日の二時開場。できれば朝の内に名古屋のギャラリーに辿り着いて設営に取り掛かりたい。
 レンタルした箱型の軽トラックには、染谷の絵だけではなく、長谷川の絵も積み込んである。染谷と長谷川は今東京に住んでいるから、関西に住んでいる後の二人、田淵と中村よりも長距離絵を運ばなければならない。長谷川が先に行って設営準備や打ち合わせをこなし、染谷が二人分の絵を運ぶことになっている。
 染谷は大学二年生の時に車の免許を取って以来、沢山の友人の絵を運んできた。そもそも染谷の絵は大きくなりがちで、普通の車には積めないサイズのものも少なくない。運送業者に頼むと大変な金額になるので、自分で運ぶしかないのだ。ついでとばかりに友人の絵も運んでやっていたら、いつのまにかそれが通例のようになってしまっていた。大学を卒業して四年経つが、結局のところこういう時は染谷が絵を運ぶことになる。
 トンネルに入る。上部に等間隔で並ぶオレンジ色のライトが、ドラムの音に合わせて流れていくように見える。それをぼんやりと眺めていると、トンネル内にぶら下がっている巨大扇風機に何か大きなものが尻尾を巻きつけていることに気がついた。
 すぐに通り過ぎてしまったのでよく見えなかったが、それは巨大なヤモリに違いなかった。四メートルはありそうな重たげな体を天井に貼り付けて、通り過ぎていく車の群れを見下ろしていた。あれだけ大きなヤモリというのは一体何を食べるのだろう、と考える。子どもの頃見た図鑑にはヤモリがダンゴムシを食べる写真が載っていた。いや、あれはトカゲだったか。
 トンネルを抜けると、出てすぐのところにあった標識が、支柱をくねくねとひねりながらこちらに数字を向けてきた。そんなにアピールせずとも百キロ制限なことはわかっている。
 こうした奇妙な現象が、幻覚でしかないことを染谷は知っている。少し気は散るが実害はないし、運転も問題なくできる。子供の時から頻繁にこうしたものを見ているから、染谷にとっては日常でしかなかった。
 この幻覚の原因について、染谷はよく覚えていない。なんでも小学二年生の夏休みに祖父の家に遊びに行った時に起こった事件のせいらしい。染谷は、家族が少し目を離した間に祖父の家の近所で行方不明になったそうだ。数ヶ月後にひょっこりと帰ってきた染谷は行方不明の間の記憶を失っており、奇妙なものを見聞きするようになっていたらしい。行方不明の間に起こったことが原因で精神に異常が出ているのだろう、というのが医者の見解だったらしい。
 染谷は詳しく知らないので、らしい、としか言えない。行方不明になった時のことは未だに思い出せないし、医者は子供だった染谷に詳しい話はしなかった。
 当時のことを知りたかったら誰かに聞くしかないのだが、祖父はもう亡くなってしまったし、母は当時の話をしたがらない。そもそも染谷は、今も幻覚を見ていることを母親には言っていない。どうも母親は、染谷がもう幻覚を見なくなったと信じたいらしいのだ。だから染谷は小学校高学年になる頃にはもう、幻覚を見てもそれを口に出さないようになっていた。
 ぼんやりと考え事をしながら周りの車に合わせてスピードを保つ。そんな時に大仰な音が迫ってきて、染谷が聞いている感傷的な音楽を乱した。排気音を撒き散らして追い抜いていく大型バイクには、首のない男が乗っていた。うるさい音を出して目立とうとする奴の気持ちは全くわからないな、と呆れた気持ちになる。だいたい首なしライダーなんてありふれたイメージではネタにもならない。
 染谷が描く絵のほとんどは、印象に残った幻覚を描いたものだった。スクランブル交差点の人々を仕切るように宙から垂れ下がるペルシャ絨毯。ブーツの紐を齧ろうとするエメラルドグリーンの巻き毛モルモット。夜の街の看板に張り付いて、ネオン管のように光るヤスデが文字を書き換える。そんな絵だ。
 音楽が切り替わる。シンセサイザーのゆったりとした旋律が、運転に集中しようとする頭を少しずつ溶かして陶酔感に浸らせる。何も考えられないまま、義務的にハンドルを回した。そんな時間が数分続いた時、声が聞こえた。
 けん玉って遊びはね。何も怖くないよ。そう言ったのは大人の男の声だった。車内に後付けした小さなスピーカーから聞こえてくる。
 幻聴だ。染谷はそう察したが、同時に流れる音楽がまだ染谷の意識を曇らせていたから、運転をこなす以外の動きはできなかった。
 でもあたし、今はあやとりがしたいの。今度は少女の声がした。それにまた、男の声が答える。
 あやとりは駄目だ。あれはとても危険なんだ。けん玉ならとても安全だよ。そら、そこに赤い玉があるだろう。
 あれは青い玉よ。
 いいや、よく見て。ほら
そこまで聞いて、スピーカーのスイッチを押した。音楽も男の声も少女の声も消えて、追い越していく車のモーター音がかすかに聞こえる。スイッチを押した後の手で、ハンドルを握る右腕を抑えた。長袖の下の肌が粟立っているのがわかる。
 何故だろう。何でもない会話なのに、あれ以上聞きたくなかった。聞いてはいけないと感じて、反射的にスピーカーの電源を落とした。深く息を吐く。馬鹿らしい。すべてはただの幻覚。自分の脳が作り出したまやかしにすぎない。そうわかっていても寒気が収まらない。
 暖房の温度を一つ上げた。ハンドルを握り直し、改めて運転に集中する。まずい。今夜は幻覚を見る頻度が高すぎる。普段は数日に一度見る程度だし、こんなふうに気持ちを乱されたりはしないのに。
 きっと眠気と疲れのせいだ。もうすぐサービスエリアにつくから、そこで休憩して十分だけ眠ろう。そうすれば、奇妙なものを見聞きせずにすむ。見聞きしたとしても、冷静でいられるはずだ。

 結局二十分も寝てしまった。しかしそれだけに頭ははっきりしたように思う。熱い缶コーヒーを飲みながら、掲示板に貼ってあるポスターを眺める。逃走中の凶悪犯の似顔絵。いかにも冷酷そうな口元が中村によく似ている。前はここに毒蜘蛛注意のポスターが貼ってあったはずだが、もう蜘蛛は出ないのだろうか。そう考えて気付く。自分は前にここに来たことがある。
 いったいいつの事だっただろうか。缶コーヒーをゴミ箱に投げ入れて歩く。コートの前をかき合わせながら、建物の横の公園を眺めた。とても長い、ローラー式の滑り台。複雑に絡まったような構造のジャングルジム。ぽつぽつと立った電燈が、カラフルな色合いの遊具をぼんやりと闇に浮かび上がらせている。
 ここで遊んだ。それを思い出す。そうだ。祖父の家に行くために車に長い時間乗った覚えがある。後部座席に座っている間退屈でしょうがなくて、寝てなさいと言われたけれどこれ以上寝られなくて、車から降りてサービスエリアで遊べる時間が楽しくてしょうがなかった。
 日差しが強いからと、母親の帽子をかぶせられた。長い滑り台を何度か滑った後に帽子を失くしたことに気付いて、母親がそこらを歩き回って探したけれど帽子は見つからなかった。
 ふと、目線を下ろすと生垣の上で蜘蛛が動いていた。やっぱり出るんじゃないか。丸い腹部に恐ろし気な男の顔が浮かび上がった見慣れない蜘蛛だったから、きっと毒蜘蛛だろう。男の顔は蜘蛛が身じろぎする度に表情を変える。喜怒哀楽が奇妙に捻じれて入れ替わる百面相。蜘蛛が動きを止めると、男の顔も歓喜に満ちた表情で固まった。細められて皺の寄った目元も、限界まで引き上げられた口元も醜悪そのものだった。それを見ているうちに胸が悪くなってきたから、染矢は公園を離れた。

「ええ、何それめっちゃ怖いやん、人面蜘蛛て。ええ、怖あ」
 左耳だけ嵌めたイヤホンから長谷川の声が聞こえてくる。ハンズフリーで会話しながら、染矢は運転していた。変わりばえしない高速道路を眺めやりながら返事をする。
「怖いって程のもんじゃないが、気は滅入る」
 別に、染矢は幻覚について隠している訳では無かった。美大に入っていた当初は隠していたのだが、幻覚の説明なしに自分の描いた絵の説明をするのが面倒になって公言するようになった。美大には不安定な言動の奴が多いのでそこまで目立たなかった。
「疲れとんやろ? 無理せんと、どっかで何時間か寝てきいや」
「間に合わなくなる」
「別に開場に間に合わさんでも。オープニングイベントは夜なんやから、それまでにセットできとったらええって」
 自分の絵だけならそれでもいいのだが、トラックには長谷川の絵も積んでいるのだ。自分の運び入れが遅かったせいで長谷川の展示まで間に合わなくなるのは申し訳ない。そう考えている時に、一段低い声が聞こえた。
「ほんま無理せんとき。事故ったら洒落ならんから。な」
 その真剣な声音に思い出す。長谷川は一昨年、車の事故で妹を失ったのだった。
「わかった。こまめに休憩入れるよ」
 そうしとき、と言って、長谷川は少しの間黙り込んだ。その間もイヤホンから、かすかに物音が聞こえる。先にギャラリーに着いている長谷川は、田淵や中村と一緒に打ち合わせや準備をこなしている。染谷の分まで準備してくれているから、染谷は現場に着いたら壁に絵をかけるだけでいいのだ。
 変わりばえしない山間の道路を流していく。トンネルを抜けてまたトンネルに入ると、同じところを繰り返し走っているような錯覚に陥る。
「今も、なんか見えとるん?」
 長谷川が、潜めた声で聞いてくる。長谷川は大げさに怖がってみせる癖に、染矢の幻覚の話を度々聞きたがった。
「見えてる」
 染矢はうんざりとした声色を隠さずに言って、ちらりと運転席のすぐ右の窓を見やった。
「人間の唇が窓一面に張り付いている」
 形も色も様々な唇が立体的に浮き出して、呼吸するように薄く唇を開いたり閉じたりしている。せっかく休憩して睡眠をとったのに、幻覚が消えない。長谷川の言うように、長時間の休息が必要なのかもしれない。
「窓一面? いっぱいおるってこと? 怖。めっちゃ怖いやん」
 長谷川の反応を聞いて少し笑う。染矢も長谷川に幻覚の話をするのは嫌いではなかった。自分だけで抱え込めば気持ちが滅入っていくだけだが、こうやって自分以上に怖がる人間がいれば少し冷静になれる。
「ま、気味は悪いけど。所詮幻覚だし」
 そういうと、長谷川はまた少しの間黙り込んだ後に言った。
「なあ染矢、前にも何回か言うたけど」
 その出だしを聞いて、染矢は意識を張りつめさせた。この話の流れ、この切り出し方からどんな話題が出るかを、染矢は知っていた。
「やっぱそれ、幻覚ちゃうんちゃう」
「じゃあなんだって言うんだ」
 染矢はわざと不機嫌な声を出してみせた。いつもならすぐに引き下がる長谷川は、今日はこの話題を止めようとはしなかった。
「なんかさ、思うんよ。世の中、目に見えんけど確かに存在してるもんがその辺にごろごろ転がってて、染矢にはそれが見えてんちゃうかなって。染矢の絵見とるとそう思う」
「残念だけど、所詮幻覚だよ。医者にもそう言われた」
「子供の頃の診断結果やろ。そっから医学も進歩してるんちゃう? どうしても自分の頭がおかしいって言い張りたいなら、十何年越しにセカンドオピニオンでも受けてきたらええのに」
「生活に影響は出てないんだから病院なんて行く必要ない」
「……ま、オレは別にええけどな。たちまちにまっとうになれるお薬でも処方されて、染矢が正常な絵ばっか描くようになったらつまらんし」
「正常な絵って何だよ」
「写真と見紛うような精緻な風景画とか」
「それこそ異常じゃないと描けねえだろ」
 そうかもしれんな、と長谷川が言う。それに、と言って、染矢は言葉を続けた。
「俺からしたら、幻覚も見ないのにあんな絵ばっか描いてるお前も異常だし」
「異常なわけないやろ。オレの絵は女の子に大人気やぞ」
 大人気、は言い過ぎかもしれないが、長谷川の絵は確かに若い女にウケが良かった。透明感があって、ファンタジックで、少しだけ弱い所を見せるような色気と打算がある絵。どんな意図でこの絵を描いたんだ、と聞けば、いつも詳細な解説が帰ってくる。それを羨ましいと思う。
 染矢は自分がどんなつもりで絵を描いているのかわからない。人に聞かれても、満足のいく答えを返せたことなんてない。いつもそれらしい意味をこじつけてその場をしのぐだけ。自分はいったいどうして、煩わしいだけの幻覚をしつこく描いているのだろう。
 そう考えている内に、長谷川の話は移り変わっている。長谷川も徹夜続きの体で深夜の作業をしているはずなのに、そんな疲れは感じさせない声色でペラペラと喋り続ける。
「異常になれたらいいのにな」
 唐突なその言葉は、長谷川の声が流れ続ける左耳のイヤホンとは逆の側から聞こえた。
「お前はいつだって正常で、異常になりきれなくて、だから怖くて仕方ないんだ」
 無機質な男の声。そちらを見ると、窓に張り付いている唇の内の一つ、やけに薄っぺらくて色のないそれがにたりと笑ったように見えた。
「怖いんだろう。生来の臆病者なんだ。いつだって無表情を作って、感情なんてないように見せているが、どうしようもなく恐ろしくて仕方がないんだろう」
 男の声に続くように、太ったナメクジのように分厚い唇が、キンキンとした声で喚きたてる。
「怖いわ。怖いわ。怖くて仕方がないのね。可哀想。こんなに怖いのに、誰も守ってくれないのね」
 桜色の小さい唇が、声変わり前の少年らしい澄んだ声で言う
「助けに来てくれるって、迎えに来てくれるって、信じてるんでしょ? でも駄目だね。来ないね。どうしちゃったんだろう。きっともう来ないね」
「……違う」
 染矢は思わず言葉を漏らした。
「ん? なんて?」
 長谷川が問いかけてくる。それに重ねるように、唇達が捲し立ててくる。
 怖いんだろう。辛いんだろう。全部嘘だった。最初から迎えに来るつもりなんてなかった。老いた声が、幼い声が、男の、女の声が、入り混じって染矢の脳内を引っ掻き回す。染矢は強くハンドルを握りしめて、低い声で呟いた。
「黙れ」
「何? どうしたん、染矢」
 長谷川が重ねて訊いてくるのに返事をする余裕がない。
「お前は捨てられたんだ」
「黙れ!」
 男の声を聞いて、一気に頭の中が真っ白に灼けついたような気がした。
「黙れ、お前らに何がわかる、あの人は言った、迎えに来るって確かに言ったんだ!」 
 叫びながら混乱する。自分はいったい何を言っているんだろう、とどこか頭の隅で思うけれど冷静になれない。どうしたんや、落ち着き、と繰り返し言う長谷川の声が左耳から聞こえる。
 つけいる弱点を見つけて色めき立ったように唇達は、捨てられたんだ、捨てられたのよ、捨てられたんだね、と繰り返した。それにまた、黙れ、と返す。唇がどんどん数を増やして、フロントガラスの端を侵食していく。声が何重にも重なっていき、瞬く間にフロントガラスが唇に覆われた。
「クソ、黙れ、消えろよ!」
 叫び、僅かな視界を頼りにハンドルを回す。車線をはみ出したのか、居眠り防止の警告音が低く唸るように車体を揺らした。染矢、落ち着き、大丈夫や、大丈夫やから、と長谷川が繰り返し言う。
「大丈夫じゃない、嫌だ、見えない」
 怖い。それを自覚した。本当はいつだって怖かった。見える全て、聞こえる全てが怖くて仕方なかった。幻覚だと自分に言い聞かせて、無理やり恐怖を無視して生きてきた。幻覚だと本当に思えたことなど無いのに。例え幻覚だとしても、見聞きする染矢にとっては現実でしかないのに。
「誰も助けてくれないね」
 少年の声が聞こえた。フロントガラスは覆い尽くされた。ミラーを見たけれど、そこも唇に覆われているから、後ろの窓も役に立たないとわかった。何も見えない。後ろに車が来ているかもしれないから急に速度を落とせない。端に寄せようにも、どこが端なのかもわからない。掻き立てられる様な焦燥感の中、ふつりと糸が切れたように何かを諦めた。そんな時だった。
「私が助けてあげるよ」
 初めて聞く声だ。少し低くて落ち着いていたけれど、確かに少女の声だった。
 視界が開いていく。フロントガラスの真ん中から、裂けるように唇が消えて行く。どの唇も消える間際に何かを言っているようだったが、不明瞭で聞き取れなかった。
 一瞬間の後。奇妙な何もかもが嘘だったように、フロントガラスから変わりばえしない高速道路が見えた。前を走る黒い車に近づきすぎていることに気が付いて、慌てて速度を落とす。浅く呼吸を繰り返すと、長谷川が問いかけてくる。
「染矢、聞こえとるか」
「長谷川……」
 呟くように返事をした。安堵が一気に胸に広がる。心臓が煩く脈打っている。血の気が引いたように頭がクラクラする。
 ふと、視界の端に見慣れないものが映って、そちらをちらりと見た。助手席に少女が座っていた。茶色っぽい猫っ毛をショートカットにして、大きな垂れ目を優しく細めてこちらを見上げている。小学生、いや、中学生くらいだろうか。
「何があったんや。大丈夫か」
 染矢の声にはっとして、正面に視線を戻す。運転中だ。気を抜いてはいけない。
「大丈夫だ。ちょっと、混乱して」
「まだ運転中やろ。どっか止められるか」
「どこか……」
 確かに気分は良くないが、高速道路の路肩に停めるのはかえって危ない。視線を巡らせて看板を探す。
「パーキングエリアがある。少し遠いけど」
「そこまで行けそうか」
 行ける、と答えて、見える景色を睨み付ける。暗く沈む山の間の高速道路は、等間隔に並ぶ電燈と、進んでいく車のテールランプで煌めいている。
 一瞬視線を外して助手席を見たが、少女の姿は消えていた。
 
 運転席の背もたれを限界まで倒して、染矢はそこに体を預けていた。
「それで、髪の短い、中学生くらいの女の子? その子が助けてくれたって?」
 両耳に挿したイヤホンから長谷川の声が聞こえる。染矢は肯定でも否定でもない、曖昧な声を返した。助けてくれた、というのはおかしな表現だと思う。結局の所、全ては染矢の幻覚でしかないのだから、染矢を害したのも救ったのも染矢自身だ。そんな染矢の考えを見透かしたかのように、長谷川は言った。
「それ、うちの妹の幽霊ちゃうかな」
「はあ?」
 思わず大きな声を出すと、長谷川は微かに笑みの滲んだ声で続けた。
「真剣に言ってんねんで。ほら、オレの絵も運んで貰ってるやろ。そん中にうちの妹を描いた絵もあるんよ。その絵を通じて、染矢を助けてくれたんちゃうかな、なんて」
「そんな……」
 明確に否定できなかった。それは、妹を想う兄の心情を慮ったから、というだけではなかった。いい加減、認めざるを得ない。全てを幻覚だと言って無視するには無理が出てきている。別の理屈を考えないと精神をまともに保てない。
「そう、かもな」
「せやろ?」
 嬉しそうな長谷川の声を聞きながら、染矢は目を閉じた。あの少女を幽霊だと考えるなら、あの唇は、今まで見てきた奇妙な何もかもはどう解釈すればいいのだろう。そう考えながら、座席に片足を上げて、できるかぎり楽な姿勢を取った。
「ごめん、やっぱしばらく寝る」
「そうしとき。仲間内のグループ展なんて、いくら遅れたってええんやから」
 おやすみ、と言った長谷川に返事をして通話を切った。外したイヤホンをポケットに入れ、右腕で目を覆う。吹き付ける暖房の温風に包まれて、すぐに意識を手放した。

 結局街中のギャラリーに着いたのは昼に近い時間だった。鉄筋コンクリート製の四角い建物の前にトラックを停めて長谷川を呼び出した。梱包されている絵を二人で運び出す。
「あいつらは?」
「田淵は内装が気に食わんって言うてまだペタペタ貼っとる。中村は全然準備終わっとらんけど寝てる」
 相変わらずだな、と思うが、自分も大幅に遅刻してしまったのだから二人を笑えない。先に長谷川の絵を運び込むことにして、階段を登っていく。三階は田淵と中村が、二階は長谷川と染矢が使うことになっていた。雑多に荷物が置かれた受付を通り過ぎて、奥のスペースに辿り着く。
 追いついてきた長谷川が、広くてええとこやろ、と言った。中村のつてで借りたギャラリーは、確かに階段も広くて天井も高かったから、これなら自分の絵も問題なく運び込めそうだと安心する。続けて絵を運ぶために戻ろうとすると、長谷川に呼び止められた。
 振り向くと、長谷川が一枚の絵の梱包を解いていた。現れた絵を見て、染矢は言葉を失う。長谷川はこちらを見ないまま、壁の真ん中に絵を掛けた。
「綺麗やろ」
 長谷川らしい絵だった。色とりどりの真珠が歪んで融け合ったような背景。色と色の間の暗い裂け目からいくつもの丸い目が覗いているのを気にも留めず、少女が白い裸体を晒し、右手を差し出して立っていた。腰から下がガラスのように透き通り、歪んだ青を映してキラキラと煌めいている。顎の長さで切りそろえられた黒髪。長谷川によく似た切れ長の瞳にはピンク色の石が嵌め込まれて、苛烈にこちらを睨み付けている。
「冷たい目が、えらく似合う子やったからね」
 やはりこれは長谷川の妹の絵なのだと、染矢は察した。一歩踏み出す。どう見ても、高速道路で見た少女ではない。しかしそんなことは、どうでもいいような気持ちになっていた。長谷川もわざわざ訊いてこないから、長谷川にとっても重要なことではないのだろう。
 ただ、羨ましいと思った。この絵には、長谷川がこめた明確な想いがある。
「綺麗だな」
 呟いた。せやろ、と長谷川が満足そうに言った。

 絵を壁に掛けていく。アクリル絵の具を油絵のように重く重ねて描いた絵の数々。割れたオレンジ色のガラスを翅にした蛾の絵。どこまでも蔓を伸ばし、道行く人々の体から何かを取り出して自身に取り込む巨大な花の絵。こそこそと走ってマンホールの下に逃げ込んでいく短い鉛筆達の絵。
 いったい自分は、どんな気持ちでこんな絵を描いたのだろうかとまた考える。けれどいくら考えたって何にもならない。何の想いも無く、見えたものをただ描いただけ。それだけだ。そこに込めたものなど何もない。
 あるとすれば、先程自覚したばかりの、恐怖と言う感情だけだろう。本当は、全てが怖くて仕方なかった。絵を描くようになった中学生の時から、ずっと恐怖を形にしてきただけだったのだ。
 部屋の奥にかけた絵を見た。二人がかりで運び込んだ、ドアの高さギリギリの大きな絵。職場の職員通用口に時々現れる獣を描いた絵だ。灰色と黒のまだら模様の毛並みはボロボロだったが、それに見合わない艶やかな狼爪を持っていた。獣の大きさそのまま描きたかったから、板を何枚も組み合わせてキャンバスを作ってやった。こんな哀れっぽい目をした無力な獣すら、染矢は怖くて仕方なかった。
「悲しいの?」
 声が聞こえて振り返る。高速道路で会った少女がいた。茶色がかった短い髪。優し気に垂れた目。白いシャツとカーキ色のキュロットを着て、すぐにでも走り出せそうな桜色のスニーカーを履いていた。どう見ても、長谷川の妹には似ていない。
「そうだな、悲しいのかもしれない」
 染矢が答えると、少女は首をかしげて言った。
「辛いの?」
「そうだな、辛いのかもしれない」
 答えると、少女は歩み寄ってきて、すぐ傍から染矢を見上げた。
「そっか。悲しかったんだね。辛かったんだね。これまでいっぱい頑張ったね」
 そう言われて、グッと胸が詰まった。本当は彼女の事すら怖かったのだけれど、それ以上に暖かい感情がじわりと溢れた。
「ね、来て」
 少女が軽い足取りで歩き出しながら手招いた。誘われるままに着いて行くと、少女はドアの前を指さして言った。
「座って」
 逆らおうという気持ちは湧かない。言われるがままに、ドアを背にして座り込んだ。ただ少しだけ、残っていた猜疑心で問いかけた。
「君は……」
「あたしはね、いつきって言うの。あなたを迎えにきたんだよ」
 少女がそう言ったから納得した。そういえばずっと、自分は迎えを待っていたのだった。彼女がそれなのだとわかって安心する。やはり彼女は幻覚などではないのだ。今まで見聞きしてきた奇妙な物事も全てが現実で、そしてそれは、今日この日彼女に会う為のものだった。
「だから……ね、わかるでしょ」
 少女がそう言ったから、染矢は頷いた。座ったままズボンのベルトに手をかける。彼女の顔から目を離すことができなかったから、ベルトを外すのに手間取った。静かな空間にカチャカチャと金属音が響く間、少女は急かすでもなく微笑んで染矢を見下ろしていた。
 やっと金具を外して、するりと革のベルトを引き抜く。そのベルトを迷いなく首に巻いた。
「それで、ね、そう。四つ目の穴に通して」
 少女の言う通り、ベルトの穴に金具を通してゆるい輪を作った。壁に背をつけて、ドアノブにベルトを掛ける。足を投げ出して座ると、喉元が僅かにベルトに食いこんだ。
「とってもよくできたね」
 少女が顔の横で手を合わせて、にっこりと笑った。彼女が喜んでくれているようなので嬉しくなる。少女は足を進めて、染矢の投げ出した左足を跨ぐように膝立ちになった。顔を近づけて、この上なく優しい声で言う。
「悲しいことなんて、辛いことなんて何もない所に連れていってあげる。」
 底無しの安心感が胸を満たす。ベルトが食い込んで首は殆ど動かせなかったけれど、僅かに頷いて見せた。
 足を遠く伸ばして、腰を浮かせる。体の重みの全てが喉仏の少し上にかかる。呼吸が難しくなり、圧迫された首元の脈がドクドクと鳴り響く。全身にじわりと痺れるような感覚が広がっていって、思考が霞んでいく。
「そう。とっても気持ちいいよね」
 気持ちいい。少女の声に返事は出来なかったけれど、確かにそう思った。少女が手を伸ばして、染矢の顎を撫でるような仕草をした。けれど決して手を触れさせはしない。彼女が触れてくれるのは、全て終わった後なのだと、ぼんやりそう思う。首を締め上げる僅かな痛みと、全身を包む暖かさ。パチパチと小さく弾ける視界が白く染まっていく。
「一緒にいこう」
 その言葉を、突き刺さるような歓喜をもって聞いた。あと少し、あと少しで辿りつける。早く早くと急き立てる気持ちそのままに全てを投げ出そうとして、できなかった。一気に閃いた記憶がなだれ込んできて、反射的に足を引く。腰が地面に付き、急激に血が頭を巡っていく。
 体を斜めに倒すと、ずるりとベルトがずれて、ドアノブから外れた。床に倒れ込む。一気に全身が熱くなる。肺に流れ込む空気にむせて咳き込んだ。目の前がちらちらと揺れるように明滅している。
「どうしたの。もう少しだったのに」
 少女がそう言って立ち上がる。そうかと思えば染矢の顔の前にしゃがみ込んで、空気をうまく取り込めずに喉を鳴らす染矢の首元に手を伸ばす。しかしやはり手は触れずに、反らされた喉を撫でるような仕草をしただけだった。
「もう一回しようか」
 落ち着いた声で言う少女の言葉に頷きたい気持ちも少しあったけれど、染矢は首を振った。息を切らしながら、床に頭を擦り付けるように首を振る。
「どうして? このままじゃずっと悲しいままでしょ? 辛いままでしょ? そんな想いはして欲しくないの。あなたを助けてあげたいの」
 少女は手を引いて、胸の前で祈るように手を組み合わせた。真剣な声色で続ける。
「あたしね、あなたの事をずっと見てた。ずっとずっと待ち続けて、疲れ切って、悲しくて、辛くて仕方ないって思ってたでしょ。知ってるよ。だから迎えに来たんだよ。もう待たなくていいんだよ」
 染矢はまた首を振った。ようやく、呼吸が落ち着いてきた。
「どうして」
 責めるように問いかける少女を見上げて、染矢は口角を少し上げた。
「違うよ。俺にとっては、待てるっていうのが何よりも嬉しいんだ。それを思い出した」
 そうだ、自分はずっと待っていた。必ず迎えに行くと、お前は私のものだと、そう言ったあの人の事を待っていたのだ。
「酷い。酷いよそんなの、だってあたし、あたしのほうがあなたのこと……」
 少女は苦しそうに胸を抑えて言った。
「ごめんな」
 染矢が言うと、少女は僅かに体を離した。潤んだ瞳で染矢を見つめた後、堪えるようにぐっと目を閉じた。それを最後に、少女の姿は消えてしまった。
 染矢はしばらくの間、床に倒れ込んだまま視線を空中に投げていた。やがて正面にある絵を眺め始める。まだら模様の獣は大きな体を小さく丸め、少し浮かせた前足の置き場を探している。
 少しも怖がる必要なんてなかったのだ、と思うとおかしかった。子どもの頃、あの人と過ごすようになってから見えるようになった奇妙なもの。あれは怖いものだ、決して着いて行ってはいけないと言ってあの人は脅したけれど、子ども相手に大げさに言っていただけだったのだ。だってあいつらは寂しくて、見てもらえるのが、聞いてもらえるのが嬉しくて擦り寄ってくるだけの奴らに過ぎなくて、拒絶されれば離れるしかなくなるような弱い奴らにすぎなくて。
 どんどん思い出していくのが、わかっていくのが嬉しくて体が震える。祖父の故郷から自分を攫ったあの人は、背に大きな鷲羽を持っていた。山奥で二人きりで過ごした日々は幸せそのものだった。時折染矢を背に乗せて空を飛び、いろんなものを見せてくれた。
 ずっとこのまま一緒にいられると思っていたのに、急に別れを告げられた。嫌がって暴れる染矢の口に畳んだ小さな紙札を押し入れて、悲しみの滲んだ声で、迎えに行くと言ったのだ。
 ベルトを首から外す。首元に手をやり、僅かに残る痛みを噛み締める。そういえば、祖父の故郷はここからそう遠くない場所にあったはずだ。詳しい場所を母親に訊いてみようか。教えてくれないかもしれないな、と思う。きっと母は、染矢が迎えを待っていると気付いていたのだと思う。だから息子が怪異を口にするたびに嫌悪感を示した。またいなくなって、今度こそ帰ってこなくなるのを恐れていた。
 背中に硬いものが勢いよく当たって、驚いて体を起こした。ドアを中途半端に開けた長谷川が驚いた顔で見下ろしている。
 何しとん、という長谷川の問いかけに、照れ笑いを返しながら立ち上がった。長谷川を招き入れて、壁に掛けた絵を一つずつ眺めていく。見聞きする怪異の全てが、あの人と共にいた証拠なのだとわかった今は、自分の絵が愛おしくてならなかった。

 祖父の故郷に行っていろいろ探してみたが、あの人につながるようなものは何も見つからなかった。正直言って、初めから期待していなかった。あの人に至る手がかりは場所ではなく、自分の中にある。そう確信している。
 グループ展は一応の所成功に終わって、染矢は東京に戻り次の絵に取り掛かっていた。倉庫をカーテンで仕切っただけの貸しアトリエ。カーテンの向こうでは、顔を知っているだけでろくに会話もしたことのないアーティストが自分の作品をこねくり回しているはずだ。
 板を何枚も重ね合わせてつくった、見上げる程大きくて、それ以上に横に長いキャンバス。脚立の上でバランスを取りながら筆を伸ばし、濃い色を何度も重ねていく。茶色の鷲羽に黒い模様を描いていく。長い髪も着物も黒。その首に手を回し、背中にしがみついた感触は確かに思い出せるけれど、顔がどうしても思い出せない。そのことに焦りはない。部分的だった記憶が少しずつ、後から追いかけるように戻りつつある。いずれ全てを思い出せるだろう。全てを思い出せた時、あの人に決定的に近づける。そんな気がしている。そうしてまた会えたら、迎えに来るのが遅いと言って叱りつけてやろうと思う。
「迎えなんてこない」
 唐突に声が聞こえて、振り返った。木製の椅子の絵に薄い唇が一つ浮き上がっていた。
「お前は捨てられたんだ」
 唇が動いて、言った。染矢は何度か瞬きした後、軽く言った。
「そうかもしれないな」
 そしてキャンバスに向き直る。絵具を重ねていく。
 大きな羽を開いて夜空を飛ぶ姿。道を示すように宙に浮く緑色の怪火も、漂ってぶつかりそうになる青く光るカゲロウも、無視して高く飛んでいく。眼下には森に囲まれた紫色の御殿。屋根の上には二本の尾を持つ白狐が何匹もいて、用心深く見上げてくる。酷く性格の悪い奴があそこには住んでいるのだと、内緒話をするように言っていた。
 あれからずいぶん経った。きっともう迎えなどこないのだろう。それでも染矢は待ち続ける。会えない悲しさも、待ち続ける辛さも、今は溢れるほどに嬉しい。この先の長い時間も、子どもの頃の短くて大切な思い出があれば耐えていける。
「でもまあやっぱ、会いたいかな」
 パレットも筆も、床に投げ出した。カラカラと転がる虚しい音がする。こぼれた絵具が床に広がる。右手を伸ばして、大きな羽の付け根に掌を載せた。掌に張り付く感触。いくらアクリル絵の具が乾くのが速いと言っても、先程塗ったばかりでまだ濡れていたから手が汚れた。絵が崩れるのも触れたところが汚れるのも構わずに、鷲羽を広げた背中にもたれかかってしまいたかったが、不安定な脚立の上ではそれも出来なかった。

参考文献
平田篤胤著『仙境異聞勝五郎再生記聞』岩波書店、二〇〇〇年

文字数:13774

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