渦を追う

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梗 概

渦を追う

平成35年9月19日は異常な気圧配置であった。大陸からの寒気は北海道の山岳部に初雪をもたらした一方、東京と名古屋では40度を超す猛暑となり、長大な寒冷前線を形成した。竜巻は未だ謎が多く、専用の観測装置も存在しない。つまり、竜巻がどこで生まれたのかは、映像または証言に頼るしかない。

 

■F2-3:三重県伊勢市 タテヤマ カズヤ(13)

タテヤマとその級友たちは竜巻の映像を撮影し、ネット上に投稿した最初のグループである。TikTokに上げられた短い動画は、鳥羽有料道路から伊勢湾を西に撮影したもので、竜巻がタッチダウンした瞬間を見たかという質問に、タテヤマは首を振って答える。気象庁の当初見解とは異なり、竜巻は太平洋の彼方からやってきたと。

■F4:京九フェリー「さつき丸」 マナベ サチエ(66)

大手銀行を定年退職した夫が購入したキャンピングカーとともにサチエが乗船したフェリーは、伊豆半島沖合で竜巻に遭遇する。高波というアナウンスの直後、衝撃とともに船体が破断され、完全に沈没するまでの船内の30分をサチエは克明に語る。浸水が始まったとき、彼女は夫を探しに行ったのではなく、船室に離婚届を取りに戻っていた。船体がはぎ取られ、そこから海に投げ出されたサチエは、気が付くと黄色いレジャーボートに乗って海に浮かんでいた。サチエは夫がキャンピングカーごと海に沈んでいると信じていて、レジャーボートには・バケーション・リゾート」のロゴがあったと彼女は証言する。

 

 

 

■F5:東京都港区田町ゲートタワービル46階 タジマ ショウタ(28)

大手人材派遣会社であるタジマの勤務先では、午後7時すぎ、南側の窓辺に人が集まるようになった。川崎の方角が赤く染まり、TVではフェリーの沈没や羽田空港や東京湾トンネルの大火災が報道され始め、タジマたちは興奮気味に次の商売のために被害を受けた顧客の洗い出しを開始する。やがて台場の向こうの赤い壁が、京浜コンビナートによって火災旋風と化した基部5キロほどの巨大竜巻であることがわかると、社内はビジネスの空気から一気に恐慌状態に変わる。非常階段の行列を見たタジマは、業務用エレベータに乗り込んだ瞬間停電に襲われる。暗闇の中、鉄骨が軋む音を上げ、エレベータごと落下したタジマは、緩衝材と地下階へ落ちたおかげで助かったと笑う。他人に構ってなどいられないと言うタジマだが、翌朝ビルの外へと出たときのことを聞かれると、手を震わせて泣きはじめる。

 

 

 

 

■F1:グアム島  サトウ ハルカ(4)

寒冷前線の南端にあったグアム島ではビーチが閉鎖されていた。ハルカは両親の目を盗んで誰もいないビーチに行き、黄色いレジャーボートが荒れた海に流されていくのを目にする。そのはるか先、上空から細い渦が降りてきて海に着水するまでの様子を、ハルカは詳細に話し始める。

 

文字数:1184

内容に関するアピール

大好きなパニックものをきちんと書きたい、と思い、今回のお話にしました。竜巻と言うとアメリカ中西部のイメージがありますが、1978年に東京湾を縦断した竜巻が地下鉄東西線を横転させたり、最近も千葉県での被害がクローズアップされるなど、日本でも無縁とは言えない災害となっています。一方で、そのメカニズムは謎が多く、特に我が国では地震や津波ほど精密な観測網や防災体制が確立されているとは言えません。

通常の竜巻は長くても十数キロ前後が平均的な移動距離ですが、今回はグアムからやってきた怪物のような竜巻が、大きさや姿を変えながら、大型フェリーを破壊し、東京南部を蹂躙します。

迫力とリアリティある描写で、いまだ起きたことがない大災害を表現したいと考えています。

文字数:323

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■1:渦を追う:平成36年9月15日

 昨年9月15日に発生した通称「東京湾竜巻災害」は、平成36年1月20日時点の集計で、死者4,356名、行方不明者1,378名、重軽傷者は少なくとも15,200名以上という未曽有の規模の災害になった一方、その全容は発災から1年が経過した現在も、いまだ明らかにされていない。災害大国と言われていた我が国は、しかしこれまで大規模な竜巻(すなわち藤田スケールでいうところのF4以上のもの)に晒されたことがなかった。更に悪いことに、竜巻自体の詳細なメカニズム自体に不明な点が多いことも、この災害の全容解明を困難にしていた。まず、竜巻は地上と上空の急激な温度差によって発生することだけがわかっている。すなわち、地上付近の高温の空気の上に、冷たい大気が覆いかぶさることによって発生する、急激な下降気流の渦が竜巻と呼ばれる現象の正体であり、ときどき運動会のテントを吹き飛ばすつむじ風や、あるいは関東大震災で見られたような火災旋風とはその原理が根本から異なっている。9月15日当日の気象状況は、フィリピン沖に台風第9号(885ヘクトパスカル)と、小笠原沖合に台風第10号(905ヘクトパスカル)という超大型台風が二つ並んでおり、これが沖縄から九州と本州太平洋沿岸に暖かく湿った空気を送り込み、8月上旬並みの激烈な残暑をもたらした一方で、乾燥した低温の大陸性高気圧が日本列島の北半分を覆っていたため、東京都心の最高気温が38.7度だった一方、富士山では初冠雪を観測し、その結果、沖縄の遥か南から津軽海峡に至る長大な寒冷前線が形成されていた。この結果、前線が北上した午後以降では東京を含む各地で積乱雲が発達し、1都11県に雷注意報と竜巻注意情報が発表される事態となった。―そしてあの渦がやってきたのだ。

 本書は平成36年3月に内閣府と気象庁、首都圏各自治体、国立大学など研究機関、民間気象会社2社、そして竜巻の常襲地域であるアメリカ合衆国の州立オクラホマ大学とNOAA(米国海洋大気庁)の研究者らが共同で組織した、平成35年東京湾大規模竜巻災害対策会議が纏めた「東京湾竜巻災害に関する報告書」より、いくつかの証言を抜粋し、再改定したものである。特筆すべきは、この報告書が、被災者の証言録を中心に構成されているということである。これは、竜巻災害においては「証言」というものが他の災害以上に貴重な意味を持つことを意味する。我が国がこれまで主に取り組んできた防災行政は、地震・津波災害と台風に特化したものであった。00年代から整備が進んだHiNET(高感度地震観測網)や緊急地震速報の実用化、新型のスーパーコンピュータによるGSM(全球気象予報)、そういった類のものが竜巻災害に対しては存在しない。ドップラーレーダーからかすかな情報を読み取り、雲を見て警報を出すということを、NOAA以下米国の気象行政当局は繰り返してきた。ではいまのわれわれは、雲を見て警報を出すことができるのだろうか?ふたつの台風と大陸性高気圧というだけで発生したこの大災害が、数千年に一度のもだという保証がどこにあって、来年の夏も、再来年の秋も起こらないという保証がいったいどこにあるといえるのか?

 そのために我々は、今から渦を追わなければならない。その渦がどこからきたのか?どうやってその身体を伸ばし、はるか東京までやってきたのか?渦の中でいったい何が起きていたのか?つぎにあの渦がやってきたときに、今度はなにが起きるのか?

 そして初めてわたしたちは、ようやくやっと雲を見る準備ができるのだ。

 

―平成36年9月15日 東京湾大規模竜巻災害対策会議 「『渦を追う』発刊に寄せて」より

 

■2:急襲―東京国際空港D滑走路:平成35年9月15日 19:35

 DFW(ダラス・フォートワース国際空港)に戻るためのデルタ航空1026便の機内はとても静かだった。だれかの咳払いやぼそぼそと話す声、雑誌をめくる音、そして機内特有の「シュー」という与圧の音。滝のような雨が窓を叩きつけていたが、もう滑走路まで出て来ているというので、離陸を中止するなんてことはないだろうと楽観視したわたしは、オクラホマ・シティの局へ戻ったあとの仕事の段取りを考え始めていた。わたしは生まれも育ちもオクラホマで、しかもドイツ系ということもあって、よく共和党支持者だと誤解されていた。タルサにあるGMの支社から東京モーターショーの招待券とパンフレットが送られてきたとき、その封筒に「KTWT-O 経済部 マイク・ディートリッヒ様 」とわたしが名指しされていたのを見て、わたしはいささか不愉快だった。GMの広報は「やっと日本にもホンモノのクルマが上陸しました!」なんていうコメントをわたしに期待していたのかもしれない。なんせ日米FTAが来年から発効するとあって、アメリカの自動車業界はかなり浮足立っていた。わたしと同じドイツ系である大統領の、ただひとつの目に見える成果と言ってもよかった。そして例年より前倒しされた東京モーターショーで、わたしは予想以上に失望をした。自動運転、EV、AI、ビッグデータ、そういった文言がどのブースにも並び、「ケイジドウシャ」だらけになった日本車のブースや、韓国で作られているフォードやGMの小型車のブースを見ながら、わたしはなんの興奮も感動も覚えなかった。昨年キー局のABCの記者に誘われて取材した上海モーターショーでは、中国車の進歩具合や日本車とも欧州車とも異なる考え方になかなかの感動を覚えた(タクラマカンを横断したEVなんて展示もあった)が、今回はそれがなかった。というわけで、わたしは14時間以上のフライトの末に「伝えられるものがありませんでした」なんてことをプロデューサーに言うわけにはいかないので、このデルタが太平洋を横断している間にそれを捻出しなければならないと覚悟していた。だがわたしたちを乗せたボーイング777型機は、海に突き出た滑走路へ向かう途中でうんともすんとも言わなくなった。外の音が聞こえないので気が付かなかったが、東京湾にはひっきりなしに雷が落ちていた。予定されていた出発時刻は大幅に過ぎていた上に、搭乗前に天候調査中だと言われてさんざん待たされたので、わたしはダラスでの乗り継ぎのことを考えなければならなくなっていた。そのとき、海の向こう、対岸の石油タンクが並んだ工業地帯のネオンが一瞬消えて、オレンジ色の光がパッパツと光ったのが見えた。雷でも落ちたのだろうかと思い、わたしは窓に額をつけた。火の玉がいくつか上り、炎が細い線となって立ち昇って、やがてそれは渦となった。その奇妙なショーに気がついているのは機内で私しかいないようだった。青白い稲妻を帯びた巨大な壁のようなものが、石油タンクをひとなめした直後、赤い炎のスカートを、その足元からゆっくりと纏っていくの見て、オクラホマ出身のわたしは即座に理解した。「ツイスター」だ。

 わたしはすぐに前の座席の下に置いたリュックからニコンを取り出して撮影を開始した。望遠でファインダーを覗くと、石油タンクが燃えた新聞紙のようにぼろぼろになって竜巻に吸い込まれていくのがはっきりと見えた。さっきまで緊急時のガイドを流していたシートモニターでフライトマップを確認すると、竜巻は空港の南側から接近していた。やがて機体はゆっくりとターミナルに引き返し始めたので、わたし以外の乗客の中にも異変を察知した者が現れ始めた。しかし、周りの日本人は何が起きているのかわからないという様子で、エプロンに叩きつける滝のような雨と、遠くに見える石油コンビナート火災との因果関係がまるで掴めていないように見えた。その証拠に、隣に座っていた60代くらいの男性客が、なぜこの飛行機はターミナルに引き返しているのか?デルタ航空はエアポートヒルトンに部屋を取ってくれるのか?などと騒ぎ出し、一方でJTBのバッジを付けた女性客はiPadでネットフリックスを観つづけていた。だが、機長が「EVACUATE!」と一言アナウンスしてキャビンクルーが一斉に脱出用シューターを開放すると、日本人たちはパニックに陥った。誰もが飛行機自体が爆発するのではないかと勘違いをしていた。機外に出た乗客たちを待っていたのは暴風と巨大な飛来物で、このときはじめて、彼らはこの異常事態の原因がデルタ航空の責任ではないことに気が付いた。渦はあきらかに空港へと近づいてきていた。炎が不気味に海面を照らし、油のにおいと熱が機体の周りに漂い始めていた。黄色い空港のパトロールカーが機側にやってきて、なにかを日本語でアナウンスしたが、風と雨の音でほとんど聞き取ることができなかった。デルタの機体の左右には、キャセイとカンタスが止まり、同様に多くの乗客がターミナルへと生存への逃避を開始していた。わたしは建物へと走りながら、ずぶぬれになったニコンを手に、機体の方を振り返った。多くの乗客を乗せたまま、脱出用シューターがひっくり返り、DFSギャレリアやリモワのスーツケースとともに宙を舞った。そしてB777-300ERの機体が大きく左右に揺れた直後、主翼から火花が散った。轟音と熱がわたしの背中を襲い、ターミナルの照明を落とした。わたしはとにかく、この映像を早く局に届けることで頭がいっぱいになった。つい15分前にエコノミークラスの狭いシートの上で感じていた仕事の悩みは、文字通り吹き飛んでいた。ターミナルの建物内で、なお逃げ惑う日本人たちを撮影してから、ニコンの一眼レフからUltraSDカードを抜き取ると、再販されたばかりのモトローラにそれを挿入し、震える指で局へメールを飛ばした。タイトルも本文もなにもつけず、ただ映像データだけを送ったあと、ふたたびカメラを構えた。すぐさま局からの電話がかかってきたが、電話に出る余裕などなかった。足元からざぶざぶという音がして、すぐにひざ下まで水に浸かった。潮のにおいがして、それが海水であることに気が付いたとき、エプロンの向こう側で、巨大な竜巻が、ボーイングやエアバスの巨体をいくつも巻き上げていくのが見えた。

 その45分後、中部時間午前6:20、わたしが勤めるオクラホマの地方TV局「KTWT-O」とは、東京を襲う巨大竜巻を速報で伝えた。それがこの竜巻について世界で最初の報道(NHK WORLDより4分早かった!)であったことを知ったのは、先月開かれた、わたしが局に表彰されるパーティーの席でのことだった。

(KTWT-O 国際経済部記者 マイク・ディートリッヒ)

 

■3:タッチダウン―三重県鳥羽市 マリンビューライン展望台ー平成35年9月15日 13:20

 ぼくとミノワとヤマネくんの3人は天気が悪くなるのをずっと待っていた。できるならうんと悪くなってほしい。そうすれば前回の続きが撮れる。前回というのは、8月に割とデカめの台風が伊勢に上陸したときのことで、そのとき、ぼくたちは動画を撮ってTikTokに上げた。ミノワが上半身裸でずぶぬれになりながら「ショーシャンク」のモノマネをしていたら、飛んできたポリバケツが頭に当たって転ぶという動画で、これがものすごくバズった。YoutubeにはTikTokで話題になった動画のまとめ的な動画があるんだけど、そこに載ってめちゃくちゃコメントがついたりした。何よりクラスで人気者になれた。陽キャのグループからも声がかかるようになって、ついに陰キャを卒業できると思った。だからぼくたちは、つぎにうんと天気が悪くなったらまた動画を撮ってネットにあげようと約束し、毎日天気予報を見ていた。だけどあの台風以来すっかり晴れがつづいていて、ショボい夕立ちすら起きなかった。だからぼくは9月8日にNHKの気象情報を見て、15日に雨マークを見つけたとき、すぐにミノワとヤマネくんにLINEをした。

 昼休みになるとすぐ、ぼくたちは学校を自転車で抜け出した。ぼくらが選んだロケ地は伊勢湾を一望できる観光名所であったマリンビューラインの展望台だった。だいたい13時くらいにはもう到着していたと思う。その日は寒冷前線の影響で大雨になるかもしれないとNHKは言っていたくせに、実際には朝からずっと霧雨で、ぼくたちは心底ガッカリした。そのうえ、ミノワがぶるぶる震えだして鼻水を垂らし始めていた。たしかに展望台の上は急に寒くなっていて、霧雨のせいだろうとぼくたちは思った。でもよく考えたらこれはとても不思議で、なぜなら学校を出たときには35度近く気温があったからだ。でもそのときはあまり深く考えずに、まあ展望台は高いトコにあるからな、と言ってぼくたちは撮影準備を始めた。撮影と言ってもライトや脚本があるわけじゃない。機材はぼくのiPhoneだけ。でもTikTokにはBGMもあるし、これだけで十分だった。なにも2時間映画を撮るつもりじゃないんだから。だからいちおう監督であるぼくは、主演のミノワがくしゃみを連発しながら「これサイレントヒルのほうがよくねえ?」という建設的な提案をしたときに、「あー」と言って柔軟にそれを飲んだ。たしかに霧雨は濃い霧のように見えたし、幻想的な雰囲気でもあった。それにぼくら以外だれもいなかったし。ヤマネくんが「”ナース”やるの?それとも”三角頭”?」と尋ねると、ミノワは「おれ、ナース」と即答した。ミノワが上半身裸でくしゃみを連発しながらサイレントヒルに出てくる看護婦の怪物のモノマネをしているのをゲラゲラ笑いながら撮影していた時、ふと海の方をヤマネくんが指さした。遠くの方で、細い線みたいなものが渦を巻いていた。その根元には水しぶきが立っていて、いままでそんなのは見たことがなかった。「あんなん見たことある?」とぼくはミノワに聞いた。ミノワの家は牡蠣の養殖をしているので、海の上の現象についてはぼくたちよりも詳しいだろうと思ったのだけれど、ミノワは制服のシャツのボタンを止めながら首を振った。

 それはぼくたちの遥か彼方の海上を、ゆっくりと北に進んでいた。海の上にはどす黒い雲が立ち込めていて、頭のあまりよくないぼくたちにも、それが俗にいう発達した積乱雲だということがすぐにわかった。やがてその黒い雲からもう一本細い渦が伸びてきて海面に着地し、水しぶきを上げながら、さきほどの白い渦の方へと向かい始めた。やがてそれらは伊勢湾の向こうで衝突し、そしてひとつになった。ぼくとミノワはぽかんとしてその不思議な現象を眺めていた。なんとなくキレイだと思ったし、すごく遠くにいるように見えたから害はないと思った。ぼくとミノワのとなりで、ヤマネくんだけがスマホを構えていた。

 ヤマネくんが撮った映像はむちゃくちゃバズった。というかほとんど炎上に近かった。ぼくたちがおもしろがって、二本の竜巻が合体する瞬間を、BGMをつけてTikTokに上げたのが原因だった。あのあと、いろんなテレビ局から映像を使わせてくれと連絡が来たし、実際にテレビでも流れた。でもそれは、竜巻の第一発見者としてではなく、いわゆる炎上動画として取り扱ったものだった。いったいなんでぼくたちがこんなに責められなきゃなんないんだ?と思った。住所も学校も特定されて、バイト先に知らないYouTuberが押しかけてぼくはクビになった。クラスでは陰キャに逆戻り。一番許せないのは、誰もぼくたちの目撃談を信じないことだった。ニュースで、気象庁は竜巻の最初の発生地域を鳥羽市沖合としたと言ってたけど、実際は違った。ぼくたちはここで、竜巻ははるか彼方からやってきて、そしてもう一本と合体したところを見たんだ。映像にも撮った。でもTikTokには投稿時間を記録する機能がないし、ぼくのスマホはメモリがいっぱいで、アップしたら動画を削除するのを癖づけてしまっていた。それにお役所が公式な記録に用いるには、やはりふざけたBGMやミノワのモノマネが不謹慎すぎた。でも、ぼくたちだけが知ってるんだ。竜巻はうんと遠くからやってきていた。そのときは気が付かなかったんだけど、最初に撮った「サイレントヒル」の動画にもそれは映っていたんだ。ミノワの肩のむこう、伊勢湾の遥か彼方に、雲の上からちいさい渦がすでにしっかりと海面に足をつけているのを・・・。

(私立伊勢東中学2年 タテヤマ・カズヤ )

 

■4:衝突―伊豆半島沖合 京九フェリー「さつき」ー平成35年9月15日18:31

 夫は大手都市銀行を40年間勤め上げ、今年の春に定年を迎えました。世田谷に一軒家を持ち、こども3人を大学に上げ、いまは皆独り立ちしています。長男は夫と同じ銀行員になり、次男は区役所に、長女は成田でグランドスタッフに。さいわい、子供たちは皆、今回の災害の被害に遭うことはありませんでした。大被害が出た大田区や川崎市とは数キロしか離れていないのに、うちの周りもなんともありません。長女が気を使って、仕事を辞めて実家に帰ろうかと言ってくれていますが、わたしは大丈夫だと言ってそれを止めました。せっかく好きな仕事に就けたのに、それをわたしのせいで邪魔したくなかったのです。ただ少しだけ、わたしは娘がうらやましいと思ったことがあります。高校2年の時にはすでに卒業後には航空専門学校に行くことを決意していましたし、やりたいことや目標をしっかり持てるタイプの子でした。だからこそわたしは、その邪魔をしたくなかったのです。

 夫が会社を“卒業”して最初に行ったのは、キャンピングカーを買うことでした。リタイア世代の男性が読むような雑誌に載っていた特集を見て購入を決意したようです。「これでおまえを日本中どこにでも連れてってやるぞ」と言って夫は笑いました。白い小型トラックのような車体に、映画で見るアメリカの家のような内装設備。「すてきね」とわたしは笑ったのを覚えています。実際には、わたしはなんの感慨も覚えませんでした。相模原にある専門のディーラーに連れていかれたとき、わたしは夫との出会いを思い出していました。わたしの父の会社は夫の銀行の融資先でした。それで、父から見合いの話が来て、短大を出たばかりの私は夫と会いました。「すてきな方だっただろう?」という父の言葉に、同じように返したのを覚えています。バブル経済が始まっていたこともあって、大手の銀行マンとの結婚ということで、わたしの周りからももてはやされました。でもあのときも、結婚式の間ですら、わたしはずっとこれでいいのか悩み続けていました。

 夫が計画していた旅は九州から始まることになりました。東京から志布志まで出ているカーフェリーに車を積んで、日本海側を通って北海道までいくルートです。フェリーは太平洋側を通り、途中高知に寄港して、2泊3日で志布志に着きます。中国から観光客を乗せてくるクルーズ船に比べたら小さいですが、東京港で見たカーフェリーは想像以上に大きく、また昨年できたばかりの新造船ということもあって、とてもきれいなように見えました。ただ車を積み込むときに、キャンピングカーに備え付けられたカセット式のコンロが問題になりました。フェリーと埠頭をつなぐ桟橋の上で、可燃物がセットされた車は積載できないと係員が告げ、夫が声を荒げそれに抗議すると、わたしは後ろの乗用車に乗った若い家族が驚いた様子でこちらを見ているのに気がついて、この旅行に来たことを後悔しはじめました。係員は、普段はこんな対応はしないと強調しながら、カセットガスボンベを夫から受け取ると、わたしたちの車を前へと進めました。おそらく特等船室の乗客であるわたしたちを忖度したのでしょう。夫は乗船後も不機嫌で、わたしたちはただ黙って、特等船室のソファに座っていました。

 船は16時半過ぎにゆっくりと東京港を出ました。たしかにぶ厚い雲が出ていましたが、それほど風雨もなく、また波も高くないということで、出港後まもなく船長から予定通りの行程になるだろうとの挨拶があり、また明石海峡大橋と瀬戸大橋の通過予定時間の案内もありました。よく飛行機であるような、非常用設備の案内はありませんでしたが、部屋に救命胴衣があることをわたしはすでに確認していました。特等船室は7階で、バルコニーとシャワールーム、大型の液晶テレビやソファとベッドがあり、シティホテルにあるツインルームのような雰囲気でした。すでに日が暮れ始めていて、夕焼けと京浜コンビナートの夜景がきれいでした。液晶テレビではNHKが映っていましたが、あまり受信状態がよくないため、映像や音声がときどき切れました。どこかで竜巻が起きたというニュースは見た記憶がありませんが、ただ気象情報で、全国的にこれから荒れ模様になるということはやっていました。

 1混み合う前にということで、17時半すぎに早めの夕飯を船内のレストランですませました。運よく窓側の席に座れたのですが、雨が降りだして、だんだんと雨脚が強まっていることに気がつきました。このときには夫の機嫌も直っていて、せっかくこの船には露天風呂があるのにな、と夫が残念そうな(ほんとうに残念そうな)顔をして言ったのを覚えています。金曜の夜だからでしょうか、夏休み明けというのに乗客は多く、とくに家族連れが目だっていました。早めに風呂に行ったほうがいいな、と夫が言い、おまえはどうするのかとわたしに尋ねました。おそらくわたしは、えっ、という素っ頓狂な声を出したのでしょう。夫は驚いた様子で、いや、部屋にも風呂有るからな、おれはひとりで行ってもいいぞ、と笑いました。そのときわたしは初めて夫から、「おまえはどうしたいのか」と訊かれた気がしたのです。時刻は18時を過ぎていました。夫は大浴場へ行き、わたしは部屋でひとり、離婚届を見つめていました。すっかり日は沈み、暗い海にいくつかの船の明かりがともっていて、街の明かりはだいぶ少なくなっていました。わたしは離婚届を見つめながらため息をついてそれをバッグに戻すと、部屋を出てロビーに行くことにしました。吹き抜けになったロビーに出ると、窓際のソファに座って、いったいこれからどうしようかとわたしは考え始めました。熟年離婚というのは、たしかに現実的な選択肢の一つとしてありうると考えていました。なんとなく、わたしは夫や父親に対して被害者意識を持っていました。けれども、吹き抜けになったロビーの螺旋階段で記念写真を撮る中国人観光客や、売店でハーゲンダッツを買ってくれとねだっている小学生ぐらいの男の子を見ていたとき、ふと、わたしはこの虚脱感を覚え始めたのが、一番下の長女が家を出たときからだということに気がついたのです。そして夫や父に対する、このうすぼんやりとした被害者意識が、ほんとうに正しいのか自問し始めました。そのとき背後から、バチバチという音がし始めたことにわたしは気が付きました。隣のベンチに座っていた家族連れもそれに気が付き、不思議そうに窓ガラスを見ていました。ですが、ロビーの明かりが分厚い水密窓に反射して、外がよく見えません。だんだんと窓辺に人が集まって、デッキに出るドア(施錠されていたので外へ出ることはできませんでした)にも人だかりが出始めたその時、バシンッともすごい音がしてガラスが揺れました。衝撃は何度も続き、なにか白い塊が窓にあたったのがわかりました。雹だ、という男性の声が吹抜けを通じて上の階から聞こえて、続いてデッキに続く金属製のドアが振動をはじめました。まるで誰かが外からドアを蹴飛ばしているようでした。キャーという女の方の声がして、インフォメーションセンターにいた係員の方が階段を駆けていきました。ものすごい音が上階の展望プロムナードの方から聞こえ、大勢の方が顔をこわばらせてこちらの階へ階段を駆け降りてきました。頭から血を流している若い方もいて、お連れの方がバスタオルでそれを抑えようとしていました。気がつくと、ロビーの窓ガラスにもクモの巣状のヒビが入っていました。わたしはほかの乗客たちと一緒に、階段の脇に立って上の階を覗きました。天井まであったはずのプロムナードの展望ガラスは粉々になっていて、そこからテニスボール大の雹が降り注ぎ、黄色いソファの上にこんもりと積もっていました。係員の方が階段から離れるようにと拡声器でアナウンスを始めた直後、船内の自動放送で、悪天候によりすべてのデッキへ続く出入り口が閉鎖されたこと、大浴場の営業が終了すること、すべての乗客は自分の船室へ戻ること、そして特等船室の乗客は絶対にバルコニーへ出ないようにという案内があり、続いて強烈な汽笛の音がしました。そしてわたしは身体全体が床から浮き上がるのを覚え、なにかに掴まらなければならないと思いました。壁にかかった額縁が落ちて、ロビー中央にあったオブジェが倒れました。船全体が、なにかに持ち上げられ、そして再び海へ叩きつけられたような感覚でした。後から報道で知ったのですが、この表現は間違っていませんでした。このときまさに、この大型のフェリーの船尾は、海面から数メートルも持ち上げられていたのです。警報のような音が船内全体に響いて、わたしは床に身体を叩きつけられました。いろいろなものが倒れて、床に散乱しました。テーブル、花瓶、案内板、壁にかかった浮き輪、売店のお土産類。悲鳴が上がり、明かりが点滅しました。退船警報、退船警報、という船長のアナウンスを最後に、放送は終わりました。船は急角度で後方に傾いていました。そして水が吹き出し始めました。海水は、階下にある車輌甲板へのエスカレーターから、ものすごい勢いで流れ込んでいました。続いて、吹き抜けになった展望エレベータからも水が溢れ始めました。エレベーターには誰かが乗ったままのようでした。係員の方がドアをこじ開けようとしていました。エレベーターも車輌甲板へ繋がっていたんです。大勢の人たちが階段に殺到していました。海水は瞬く間に腰の位置まで来て、階段の前で乗組員の方が救命胴衣を配っていました。わたしは人々に押し流されるようにして階段を登りました。途中でなにかやわらかいものにつまずきそうになり、それが人だとわかるとわたしはパニックになりました。その場にいた誰もが恐怖で混乱していました。船は左右に大きく揺れ続けていて、吹き抜けの柵を乗り越えて、何人かの乗客が下の階に落下していくのが見えました。どのフロアのロビーも人で溢れていて、プロムナードの割れたガラスから何人もの人が真っ暗な甲板に這い出ようとしていました。明かりが消えかかるたびに悲鳴が上がり、中国語や韓国語の叫び声も聞こえました。夫がいるはずの展望風呂の様子はわかりませんでした。なにをすべきなのか考えたときに、わたしはふと部屋に置いたままの離婚届を思い出しました。なぜかそれが、そのときはもっとも大切なものだと思ったのです。あんなもの、役所に行けばいくらでももらえるのに。それに、この群集の狂気から抜け出したいとも思いました。わたしはデッキへの非常口ではなく客室への通路へと向かいました。わたしたちの船室のドアはどこにもなく、かわりにわたしたちの服や寝具が廊下にまで散乱していました。正確には、ドアは風圧で吹き飛ばされていたのです。わたしは手すりにつかまって必死に身体を支えながら、破壊された特等船室を呆然と見つめました。それはもはや船室などではなく、巨大な穴でした。液晶テレビもスーツケースもベッドも床もカーペットも額縁もクローゼットも、バルコニーも窓もなにもかもすべてが引きはがされ、巨大な穴からねじ曲がった鉄骨だけが顔を出していました。そこから暴風と豪雨が中に吹き込んでいて、わたしのバッグはどこにも見当たりませんでした。そのとき、わたしは風向きが変わったことに気がつきました。濡れた身体から水滴が引きはがされて、船の外へと吸いこまれていきます。クリーム色をした船室の壁は音をたてて剥がれていき、それが闇夜の真ん中で粉々になるのを見て、わたしは外で何かが渦を巻いていることに、そのとき初めて気がつきました。やがて船室と廊下を隔てる壁も、船体の骨組みも、すべてが渦に巻き込まれ、宙を舞い、折り畳み式の救命ゴムボートが空中で破裂してまた粉々になって、そしてすべてが渦の一部となりました。フェリーは巨大な竜巻の真横に位置し、ゆっくりと吸い寄せられていたのです。

 気が付くとわたしは海に浮かんでいました。いつ自分が救命胴衣を着たのかも覚えていません。遠くに街の明かりが見えました。最初は死んだのかと思いましたが、足がひどく痛むので、わたしはまだ生きているのだと実感しました。わたしがロビーに出て、中国人観光客の記念撮影を眺めてから、海にこうして浮かぶまで、30分しか経っていませんでした。竜巻は最初に車輌甲板への入口の巨大な水密扉を破壊したので、そこから膨大な量の海水が流れ込んだのです。目の前に黄色いレジャーボートが浮かんでいて、わたしはそれにつかまりました。「GUAM VACATION RESORT」とそのボートには書かれていました。船体に書かれた数字まで覚えています。30134。レスキュー隊のヘリはすぐにやってきました。わたしと何人かの生存者はヘリに引き上げられ、下田港にできた救護所に搬送されました。受付で救助者リストに夫の名前があるか尋ねると、係の方はまず死亡者リストから調べ始めました。でもそのどちらにも夫の名前はありませんでした。だから、いまでも夫は15,200人のひとりです。わたしは夫が、車輌甲板のキャンピングカーの中にまだいると信じています。・・・そうであってほしいと思うのです。

 そして少なくとも、わたしはこうしてまだ生きています。

(京九フェリー事故遺族会代表 マナベ・サチエ)

 

■5:暗黒―首都高速湾岸線東京港トンネル 平成35年9月15日19:45

 もう30分近くトンネルの中にいた。横浜にある会社から、いつ帰社するのかとひっきりなしに電話がかかってきていた。20時から営業会議が始まるのに、おれはまだ多摩川を越えてもいない。おれのプロボックスの斜め前にはオレンジ色のリムジンバスが停まっている。渋滞の原因がわからないことがおれをいらだたせた。原因と言っても、首都高の渋滞はたかが知れている。どっかのマヌケが事故したか、あとはアホな道路設計のせいだ。おれが停まっていたのはこの海底トンネルのいちばん底、ちょうど下りから上り坂に差し掛かるところだった。ラジオはたしか民放のFMを流していたが、「夏の思い出J-Pop」が中断して、突然ニュースを流し始めた。伊豆の沖合で、大型フェリーが消息を絶ったという臨時ニュースの後で、竜巻注意情報が都内に発令され、羽田の滑走路がすべて閉鎖されたという速報が立て続けに流れた。頑丈な建物の中央部に入って下さい、とアナウンサーは言った。おれはフロントガラスについた水滴を見た。たしかに大雨が降っていたけれど、もしかしてトンネルの外は相当ひどい嵐になっているのかもしれない。おれは会社にもう一度電話をかけて、社の周りの状況を訊こうとした。あのあたりは少しの夕立でもよく水が出て、ひどい迂回を強いられることが多々あった。これ以上遅れたら営業部長に大目玉を食らいそうだった。だが携帯は通じなかった。現在、回線が大変混み合っております、というアナウンスが流れて電話は切れた。ラジオは音楽番組に戻ったとたんにまた報道センターに切り替わり、川崎で大規模な石油タンク火災が起きていると報じ始めた。そして羽田で航空機がいくつも炎上していて、特に第二ターミナルには甚大な被害が出ていると伝えた。一連のニュースと、繋がらなくなった携帯電話の意味を、おれはまだ理解できずにいた。リムジンバスの乗客たちは窓に頭をつけたりしてぐったりしたままだったし、後ろのタクシーの運転手も白い手袋をはめた腕をハンドルに載せて退屈そうにしていた。そのとき、道路の脇に転がっていたペットボトルやコンビニの袋が(よく見ると高速道路にはいろいろなものが落ちている)横浜方面の出口に向かって一斉に登り始めた。やがて車が揺れ始め、最初は反対車線に大型車が通ったのかと思ったが、すぐに違うと思った。それは高架で起こる現象で、トンネルがグワングワン揺れるなんてありえない。でも誰も車を降りないので、おれも事態を静観することにした。だいたい、会社のトヨタ・プロボックスを置きざりになんかできないし、おれはいま3車線の中央の車線にいるので、むやみに外に出て、渋滞をすり抜けてきたバイクにでも跳ねられたらたまったものじゃなかった。窓についた水滴が水平に流れ始める。飛んできた赤いコーンが車体に当たって音を立てる。前の方からクラクションの音がして、それがどんどんと増えていった。バスの乗客たちも、タクシーの運転手も、不安そうな顔をしてあたりを見回していた。照明が2、3回点滅して、ついに前方で何かが音をたてて爆発した。「うそだろ、おい、うっそだろ」と言いながらおれはシートベルトを外して車外に出た。道路わきの通路をたくさんの人間が東京方面に走り出していた。「湾岸線(B)通行止 大井で降りよ」と書かれた電光掲示板が天井ごと落下して火花が散った。キーンという不快な風切り音がして、耳に痛みを感じた。飛行機で感じるあの不快な耳の詰まり。それがなぜ高速道路のトンネルで起きるのかわからなかった。まともに立ち上がって歩くと、トンネルを通り抜ける暴風とその飛来物が顔にあたるので、かがんで車の間を縫うように逃げるしかなかった。トンネル全体がねじれるように揺れていて、天井から水がどんどんと流れ込んできていた。それにガソリンのにおい。スーツも革靴もぐちゃぐちゃになっていた。足を滑らせながら道路よりおよそ1m高い位置にある通路に登って、何人かと一緒に反対側のトンネルへと通じる非常用通路に入った。まだ車の中にいる人たちも大勢いた。震災のあと、津波が来ているのに車から降りなかった人たちの話を聞いたことがある。特に、ミニバンに乗ったグループ連れや家族連れは、落ちてケーブルが垂れ下がった天井や、逃げ惑うおれたちを呆然と車内から見つめていた。だれかが非常用通路のドアを閉めた。狭い通路でおれたちはうずくまった。向こうのトンネルもだめだ、という声が前の方からした。こ非常用通路の先、対向車線のトンネルへの出口にある重厚な金属製のドアを、何かがひっきりなしに叩いていた。焦げ臭いにおい、蛍光灯が割れる、火花、通路全体が大きく揺れる、クラクション、子供の泣き声、そして最後に明かりが消えて、完全な暗闇がやってきた。

 竜巻はトンネルの真上を通過し、信じられないことに、海底トンネル全体をねじ切った。

(横浜ファブリックス㈱営業一部 オオツキ・シンヤ)

 

■6:終焉―港区田町ゲートタワービル45階 人材派遣会社ポートワーカー・オフィス本社 平成35年9月15日20:32

 大学時代からずっと、港区のガラスばりのオフィスビルで働くのが夢だった。派手だったら何でもよかった。テレビ局やレコード会社、六本木ヒルズにあるようなネットゲームの会社も受けたけど、特に人材派遣会社はぼくにピッタリだった。大学では部員150人のテニスサークルを創設した。部員にを推奨し、反対に他のサークルからも部員を獲得した。ウィンウィンの関係。いまの仕事だって同じだ。顧客である企業と、商品である社員の双方に利益をもたらす。商品にまで働く喜びややりがいを与えることができるなんて最高じゃないか!当時のぼくや社員たちはみんな、本気でそう考えていた。それに社内は来年発効する日米FTAの話題で持ちきりだった。すでに選抜部隊がサンフランシスコに派遣されていて、IT関連企業や航空産業をターゲットに米国進出を図っていた。だから日経MSNBCやCNNなんかをカフェスペースの大型テレビで流しっぱなしにしていたのだけれど、そのときはみんなノートパソコンやコーヒーを片手に窓の外を見ていた。東京湾の西の方角、大井や羽田空港や川崎の方角にオレンジ色の球体がポンポンポンと浮き上がるのが見えた。同僚のクワハラがセブンカフェの紙コップを手にしたまま、おいあれ見ろよ、といってその方角を指さした。ミーティングスペースで会議をしていたぼくたちのセールス・グループも、ガラス張りの会議室を出てカフェスペースへと向かう。みんな、なにかしらの飲み物を手にしながらその不思議な光景を眺めていた。街やコンビナートやガントリークレーンの明かりが西から徐々に消えていくのが見えた。空は目まぐるしく光って、稲妻が何本も東京湾に落ちた。やがて大井の方で光っていたオレンジの玉は、細い線のような形になって空中に伸びていった。それは最初壁のように見えた。大粒の雨が窓ガラスを流れ落ち、窓外の景色がぼやけていく。CNNが、オクラホマのKTWT-OとNHK WORLDが報じたところによりますと、東京の羽田空港を竜巻が襲い、かなりの被害が出ている模様です、未確認の情報ではデルタ航空の機体が巻き込まれ・・・という日米同時通訳の速報を流し始め、同時に窓辺に集まった社員たちが騒ぎ始めた。「本当だ!渦巻いてる!」と営業のヤナギ先輩が興奮しながら叫んでスマホを構えた。オレンジ色の光は石油タンクを竜巻が踏みつぶしたときに生じる爆発の火炎で、それは幾筋もの渦となって竜巻の輪郭を浮かび上がらせた。それはぼくたちが想像する竜巻とは異なっていた。渦ではなく、黒煙と炎の巨大な壁。でもこの期に及んで、ぼくらはその渦が、まさかここまでやってくるとは全く考えてなかった。それはある種のショーだった。誰かがチャンネルをNHKに変える。報道特別番組では、米国人記者が撮影したという羽田空港の映像を流していた。アナウンサーが、伊豆半島沖で連絡が取れなくなっていたカーフェリーも竜巻の影響で沈没した可能性があると伝えた。ぼくたちセールスグループはノートパソコンを開いてその場で営業をかける企業リストを纏め始めた。京浜コンビナートの製造業、羽田の航空関係の企業、京浜間の道路鉄道関係、その他インフラ系。被害が甚大で人出が大量に必要になる顧客をリストにする。明日から忙しくなるぞ。そう思ったとき、先程までとは違う声がカフェスペースから上がった。それは悲鳴だった。目を離してからまだ数分しか経過していないはずだった。渦の外縁はすでに台場を飲みこもうとしていた。高層ビルの明かりが消えて黒い影になり、ビルから何かが引きはがされていくのが見えた。レインボーブリッジの明かりが消え、鳥居のような支柱とケーブルがゆっくりと傾いていく。これ、やばくないすか、とぼくはヤナギ先輩に言った。

「だいじょうぶだよ、こういう高層ビルって地震とか風には強いんだよ、たしか」

ヤナギ先輩が顔を引きつらせて笑ったそのとき、レインボーブリッジの橋桁が大きくたわんで竜巻に飲みこまれ、暴風が目の前の窓ガラスに猛烈な音とともにぶつかり始めた。破壊されようとしているレインボーブリッジまでは、今いるこのビルからおよそ2~3キロの距離しか離れていなかった。すでに普段はよく見える台場の高層ビル群は見えなくなっている。ビル全体が気味の悪い揺れ方を始めた。NHKの画面には「都内に竜巻注意情報発表:頑丈な建物の中に避難」という字幕が流れていて、同時にピンポンパンポンというチャイムが天井のスピーカーから流れ始めた。こちらは防災センターです、ただちに当ビルより退避してください、暴風による被害の恐れがあります、こちらは防災センターです・・・。カフェスペースにいた全員がノートパソコンやタブレットを抱えて避難を開始した。デスクにいた社員も立ち上がって、窓の外で起きている異様な光景を眺めた後、青ざめて避難を開始したぼくたちの様子を見て荷物をまとめ始めた。グオオオン、という鉄骨の軋む音がフロア全体に響いていて、狭い非常階段には大行列ができていた。911のときは避難に何十分とかかったという話を聞いたことがある。ここは45階だ。しかも建物から出ても安全じゃない。どこに逃げる?地下か?たしか都営地下鉄の三田駅が近かったはずだ。さっき竜巻は大井の方から台場まで来るのに数分しかかかってなかった。たぶん15分くらいだ。そのとき轟音がしてオフィスから書類の紙や紙コップが吹き飛ばされるのが見えた。巨大な強化ガラスが粉々になり、天井の内装材や蛍光灯が引きちぎられていた。オシャレなデザインチェアやテーブルが倒れたり床に転がっていて、その向こうに赤黒い巨大な渦が見える。みんな互いに背中を押しあって、非常階段は恐慌状態になった。音と熱がぼくらを怯えさせた。何かが飛んできて床に突き刺さる。鉄骨が破壊される音がして、ビルはゆっくりと竜巻の方に傾き始めていた。そのときぼくは、廊下の突き当りにある貨物用エレベータのことを思い出した。業者が使うエレベータで、社員が使うのを見たことがなかった。ぼくは人ごみをかきわけて廊下に戻った。あらゆるものが割れて、あるいは倒れていた。スプリンクラーから水が流れ落ち、非常口のサインは点滅を繰り返している。ぼくは壁に手をつきながら歩いていき、貨物用エレベータのボタンを押した。それは38階から45階まで上がってきてドアを開いた。乗り込んで「しまる」のボタンを連打したとき、オフィスの床全体がデスクやテーブル、コンピュータなんかとともにめくれ上がるのが見え、ドアの隙間からヤナギ先輩やクワハラの叫び声が聞こえた。ぼくはエレベータの床に座り込んで頭を抱えた。階数は覚えていない。エレベータの照明が落ち、鈍い音がして身体が宙に浮いた。死んだと思ったし、死ぬべきだと思った。そのとき急に、これまでぼくが自信マンマンにやってきたことすべてが、急にバカげていたように感じられたのだ。

 ぼくが目を覚ましたとき、誰かがエレベーターのドアをこじ開けようとしていた。ドアの隙間からボタボタと水が垂れるのがわかり、日の光を顔に感じた。それにガソリンのにおい。目に入ったのはオレンジ色の制服。東京消防庁と書かれた酸素ボンベ。ぼくは引き上げられ、ストレッチャーに乗せられた。夜は明け、日付は9月16日になっていた。秋の青い空に何機ものヘリコプターが舞っている。消防隊員が何かを言っている。貨物用エレベータは23階あたりから1階まで落下したが、底部の緩衝材が機能してぼくを救った。前方には黒く煤で汚れ、歪んた鉄骨の建造物が見える。それが変わり果てた東京タワーだとわかるまでにすこし時間がかかった。それだけじゃなかった。ぼくは囲まれていた。折れた信号機の支柱や溶けた鉄骨の間に、夥しい数の・・・

 竜巻は芝公園付近で消滅した。そのあとの光景を、ぼくはまだ語る準備ができていない。

(無職 タジマ・ショウタ)

 

■0:起点―米領グアム島 グアム・ヴァケイション・リゾート 平成35年9月14日

  娘のハルカは3歳の時に自閉症と診断された。2歳になるまで言葉を覚えず、一度覚えた言葉をまた言わなくなったりした。インターネットでこれから娘に起こるであろうことをいろいろと調べた。人とコミュニケーションがとれない、常同行動、自傷行為・・・。大船にある病院からの帰り道、江ノ電の中で妻とわたしはずっと娘を見ていた。ハルカはわたしたちの方を見ない。でもあるところで、いつも娘は窓の外を見つめる。鎌倉高校前の駅で、相模湾を見つめる娘を見て、妻はわたしに、今年の夏休みは家族できれいな海を見に行こうと言った。といっても妻とわたしの休みを合わせられるのは9月の半ばくらいになってしまうので、せっかくなら国外にしようということで、エクスペディアでJALの航空券とホテルを予約した。

 その日は朝から大変だった。鎌倉駅で成田空港行きの快速電車が来ても嫌がってなかなか乗ろうとしなかったし、成田では出発ロビーの巨大な電光掲示板の前から動こうとしなかったので、おかげでわたしは娘をかかえてゲートまで走る羽目になった。行きの飛行機の中で、妻は一生懸命娘に海の写真を見せていた。わたしも妻も、娘は運が好きなのかと思っていた。でもいくら妻がるるぶに載ったビーチの写真を見せても、娘はなにも興味を示さない。代わりに娘は4時間のフライトの間中ずっと「安全のしおり」を見ていた。飛行機はグアム国際空港の周りをぐるぐると旋回し、2時間遅れで着陸した。「現在のグアムの天候は雨、気温は28度」という放送と、窓の外に流れる滴を見て、わたしも妻もこの旅行が期待ほどよいものにならないだろうと感じた。予約していたグアム・ヴァケイション・リゾート・ホテルに到着すると、プライベートビーチとレクリエーション・プログラムの案内を受けた。レセプションにいた日本人スタッフは、レジャーボートなら小さい子でも安心ですし、今日のような天気でも催行します、と笑顔で言っていたけれど、わたしたちがなんとか娘を水着に着替えさせてビーチに出かけると、「高波のため全プログラム中止」と英語と日本語で書かれた看板がかかっていた。グアムってこんなに寒かったっけ?と妻は言って、わたしたちはバスタオルにくるまって3人で曇り空のビーチにへたりこんだ。時間は、たしか夕方3時くらいだったと思う。係留されていたはずの黄色いレジャーボートがぷかぷかと沖へ流れていくのが見え、娘がそれを指さしてなにかをボソボソと言った。さん、ぜろ、いち、さん、よん。さん、ぜろ、いち、さん、よん。それはボートに書かれていた数字だった。GUAM VACATION RESORT 30134。どこで数字を読めるようになったんだろう、とぼくたち夫婦は顔を見合わせた。もしかしたらハルカは数字が好きなのかも、と言って妻は笑った。この旅行で初めての笑顔だった。

 そして黄色いレジャーボートの先に、細い線のようなものがゆっくりと空から降りてくるのが見えた。それは海に足をつけると、北に向かってゆっくりと進み始めた。ボートはその渦に向かって流れていく。ハルカが急に立ち上がって、妻の手を振り払ってそれを追いかけ始める。

 わたしは渦を追う幼い娘を抱き上げて、そして海を見つめる。娘の顔を撫でて、わたしたち親子はようやく起点に立てたのだと思った。そして、これからもっともっと大変なことが起こる予感がして・・・。

(広告代理店勤務 マナベ・タツミ)

 

※竜巻の移動距離は平均しておよそ数キロメートルから30キロメートル程度だと言われている。今回の竜巻が、観測史上、世界最長距離のものになるかどうかはまだ公式には認められてない。

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