火種

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梗 概

火種

山の火が消えたことに気づいたのは、山から3マイル先の高台に住む山守の男だけだった。ついさっきまで激しく燃えていた焚火はすでに消えかかっている。急いで焚火から火種を取り出した。山の火が消えると、そこから接いだ火という火は燃えるのをやめる。山火を絶やさないことが山守の仕事だった。
 男は生まれつき身体中に空洞があった。腕の空洞に1本のナイフと火種を入れて、再び火を燃やすため山へ向かった。道すがら拾った双頭の猿や金貨を空洞にため込みながら男は歩き続けた。山の麓間近で、山からサイレンが響いた。男は古びたトンネルに駆け込んで息をひそめた。山の火が消えた今、サイレンの起こす事象から逃れるには穴でうずくまっているしかない。
 サイレンが鳴り終わりトンネルから這い出すと、地形が様変わりしていた。海岸線が内側に入り込み、自分が目指していた山が遥か彼方に遠のいている。男は火種を胸の奥の空洞に入れ直すと、浅い海の中歩き続けた。途方もない距離を歩くうちに、足を皮膚も骨までがふやけてしまった。しかたなく足をひれのように使い男は遠くに霞む山を目指して移動を続けた。
 やっと乾いた土地についた頃には、下半身の皮膚は鱗のように硬化していた。集落を見つけた。そこには男と同じような容姿の村人たちがいた。彼らは火というものを知らなかった。男はある女から予言を受ける。“空洞の中のものが山頂でお前を殺すだろう”山守として山の火に焼かれて死ぬことを覚悟していた男には意味のないものだった。
 火の美しさに魅了され火種を奪おうとした村人ともみ合う最中山からサイレンが響き、男は近くの穴倉に逃げ込んだ。サイレンの意味を知らない村人たちは山を見つめて逃げ出そうとはしなかった。
 静寂の中、這い出すと村は消え、草原が広がっていた。男はまた歩き出した。草原に夕暮れが訪れると火種は激しく燃え上がった。胸を焼く熱さに耐えきれずに火種を足の空洞に移すと、火が草原に燃え移り、一瞬のうちに冷めた青白い炎になり草原を凍てつかせた。目のくらむような距離を男は黙々と歩き続けた。青白い炎からの冷気と太陽の熱でカゲロウが立ち、草原の遠近法が崩れて山への道のりが伸び縮みさせているのだ。
 遂に山に足を踏み入れたとき、男の空洞はそれぞれが繋がり合いながら体中に広がっていた。乾ききった口蓋に火種を移して、山を登っていく。姿のない足跡が男の後を追ってくる、足跡が踏みしめられた草木は一斉に芽吹きそして枯れた。空洞から引きずり出した双頭の猿を迫る足跡に投げつけ、男は足跡から逃げるように駆け登った。
 頂に立った男は深々と口を開けた穴に火種を落とす。山の火が燃え上がると同時に、萎びた半身をくねらせながら金切り声を上げた双頭の猿が男に躍りかかった。
 八つ裂きにされ、あの女の予言の通りに男は死んだ。打ち捨てられた男の体躯を照らしながら、山の火は鮮やかに燃えている。

文字数:1199

内容に関するアピール

徒歩で長距離を移動し続けている話。山尾悠子さんの『飛ぶ孔雀』や映画『ジョーカー』、『サタン・タンゴ』をごちゃ混ぜにして閉塞感と開放感を感じるものを書きたい。

文字数:78

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アララカンの火

 火の山からの山鳴りが響き、そこら中の草木をなぎ倒すような風が吹いて、それきりやんだ。風がやんだのを確認すると、崩れかけた掘っ立て小屋から男は這い出した。あたりに青々と茂っていた野草は見る影もなく枯れ果て、木々が死体のように折り重なって横たわっていた。「山の火が消えた」誰も聞くもののいない声が火の山から三十マイルも離れたこのヌカ山の高台から落ちていった。

 男はヌカ山の山守だった。アララカン山脈にある火の山からほど近いこの山で、枝打ちをして、北の風にやられた木を接ぎ木し、増えすぎた野兎や鹿を間引いて、山が厳かにその生を全うできるようにすることが生業だった。
 そうやって巡るこの世界を守っているのが、男の目の先にある火の山だ。火の山は絶え間なく火を燃やし続けている。それはアララカンの火と呼ばれた。アララカンの火はこの世界の摂理に深い関わりがあった。その摂理について男は深くは知らなかった。ただ、アララカンの火が消えれば、そこから接いだこの世の火という火は燃えるのをやめ、摂理が音をたてて崩れるという予言めいた言葉を片時も忘れたことはなかった。火の山を眺めては、その頂から悠然とたち上る火を眺め、頬を撫でる北の風、木々の隙間から降り注ぐ太陽の光よりも、比類のないほど聖なるものが宿っているのだと心の底から信じていた。火の山には誰も立ち入ることは赦されない。男は火の山に程近いヌカ山の高台の小屋から、火の山を見つめていた。 

 かさかさと枯れ葉が男の足下で音を立てた。風が強まっている。ヌカ山を一瞬で駄目にした、きつい北の冷気を含んだ風が、再び火の山の方から吹き始めていた。沸き立つほどの炎の消えた火の山の頂を見つめていた男ははっと息を詰めて、崩れかけた小屋の中へ一目散に駆け寄り、ささくれだった壁板の隙間から小屋の中へ潜り込んだ。折れた支柱や落ちた天井が腕や手のひらを傷つけて血が流れ出した。その血を薄汚れたズボンにこすりつけると、男は小屋の中心の囲炉裏へと近寄った。弱々しく燃え続けている炭火を見つけると、囲炉裏の側の床板を持ち上げて、小さな包みを取り出した。真っ白な絹の布の包みを手早く広げると、無数の空洞が開いた鉱石で作られた鈍色の器があらわれた。その中に炭の中でちろちろと燃える火種を入れ、蝶番でくっついている蓋をぴたりと閉めた。それを右肩にあいた空洞の中に仕舞い込むと、目についた小ぶりなナイフと獣の皮で作った外套を掴んで小屋の外へと飛び出した。 いつとも知らぬが、アララカンの火が消える日が来たら、火の山に火を灯しに行かねばならないことを、誰に言われるでもなく知っていた。幾人もの人たちがこれから火の山を目指すだろう。その中で一等先にアララカンの火を灯せたらと、男の足は火の山を目指して駆けだしていた。

 枯れ草をかき分け、倒木の群れを踏み越え、荒れ果てたヌカ山を下る。口から鼻から熱い息を吐き出しながら、男は自分の体にあいているいくつもの空洞について考えていた。
 ヌカ山には様々な生き物がいたが、自分のように穴の開いた体を抱えて生きているものを見たことはなかった。どんな動物も体に穴を開けるとそこから赤黒い血を流して、苦しみながら死んでいく。罠にかかった兎の皮を剥ぎながら、その柔らかな皮とあたたかな血や臓物よりも、その奥にひっそりと隠されている白い骨の手触りを男は親しんだ。空洞の中を、小川でぬらした布で拭うと、うっすらと黒く汚れがつく。それは汗とも血とも違う、スンと鼻の奥に抜けるような奇妙な香りがした。空洞の内側は鉱物のようななめらかな手触りで、切りつけても痛みもなく、かすかな感触がするだけだった。それどころか空洞には、無数の目に見えないほど小さな無数の穴が、腹から背中を、眼窩から鼻腔へとそれぞれを繋いでいた。それらの性質は鉱物や灌木、木炭のようなものに近しかった。それでいて、血がそこから垂れることも、内臓がひりだしてくることもない。風が強く吹く日にはひゅうひゅうと体を抜ける風の音が耳の奥をしびれさせるのだ。
 山守として、誰と接することのない分、自分の智を超えた体を卑下することはなかった。だが、いつも心の隅には異形に怯える自分の影が見え隠れしていた。火種を運ぶためにこの空洞はあったのだと、そう思うほどに男の胸は喜びに震えた。皆がどんな風に火種を運ぶのか見当もつかないが、体の中に火種を入れて運ぶことほど、確実で安全な方法はないと男には思えた。 
 山の火が消えてから、男の空洞は体の中は緩慢に伸縮を始めていた。きっとそれにも尊い意味があるのだと男が確信したのはもっと後のことだった。

 ヌカ山の裾野からからは遮るものもなく、火の山が見えた。頂は火の熱の残滓が空気の密度をかき回し、屈折する光に陽炎のようにゆらめいていた。男は右肩の空洞から火種の器を取り出して、中を覗き込んだ。器の中で種火は赤く密やかに燃えている。男は無数の空洞が火種の燃え続けるために必要な条件を満たしていると、安心したように優しく息を吹きかけ、蓋を閉じて右肩の空洞に仕舞った。いっぱいに空気を吸い込むと、空気がやけに凍てついているのに気づいた。腰に巻き付けていた外套を着こんだ。ひょろりと伸び切った低い幹に不似合いに太い枝の先に実った赤い果実を、ナイフを使って器用にもぐと齧り付いた。飴色の果汁が口中に広がり、ほのかな甘みが舌をくすぐった。何の変哲もないこの実が何故だかやけに恋しくて、いくつもの実を胸の空洞に詰め込んで、陽炎を蓄えた火の山に向かって歩みを進めた。

 太陽がアララカン山脈の向こう側へと姿を隠し始める頃、男はやっと火の山の麓のすぐそばまで辿り着いた。肩で息をつきながら、空に近い場所を眺めると、頂を覆っていた陽炎は消え、くっきりと山の端が見えた。その頂に向かって男は両手を掲げた。願掛けのように左右の手の手のひらで頂をすくい上げるように包み込むと、ゆっくりと手の中に頂を閉じ込めた。男が満足げに目を細めたとき、空気を切り裂くように、火の山から山鳴りが響いた。男は目についた古びたトンネルに駆け込んでうずくまると、息を顰め、甲高く鳴り響く音に男は耳を塞いだ。トンネルの内側から剥がれ落ちる破片が降り注ぐ。火の山からいつもの突如として鳴り響くサイレンは、北の風の訪れを教え、太陽の長く地表にとどまる日々の始まりを告げ、世界の穏やかな変化を知らせた。山の火が消えた。この世の摂理は壊れた。このサイレンが何を告げ、どんな災いをもたらすのを男は知らない。ただ、自分を包む大きな空洞の中で、音が過ぎ去るのを耐え忍び、全てを受け入れるしかしかなかった。

ァァァァァァアアアァアアァァァァァァァァァァァァ――――

 耳の奥にこびりついた音が唸っている。男が幾度か瞬きをして気を落ち着かせようと腹の空洞に入れた果実に手を伸ばしたとき、トンネルの奥から小さな音が聞こえた。目を凝らせば、トンネルの曲がり外の光の射さない場所にぎらぎら光る眼があった。足元の瓦礫を踏みしめながら男は腰を上げた。一瞬、瓦礫に足を取られたその間に、眼の主はより闇の深い方へと身を翻した。男は飛びかかるように闇の中でうごめく体に掴みかかり、暗がりから引きずり出した。そいつは一匹の銀毛の猿だった。ぎいぎいと喚きながら男の手に噛みつくそぶりを見せ、男の手に握られた鈍色のナイフを気遣わしげな眼で見ては虚勢を張るように騒いだ。たわわな銀毛を携えたその胸に、産毛に覆われた双頭の子猿がひっしと張り付いているのに気づいて男は手を離した。
 「喰え」男は銀毛の猿に向かって、ヌカ山の裾野で捥ぎ取った果実を投げやった。男から少しも目を離さずに、ひったくるように果実を抱え込むと銀毛の猿はよほど腹が空いていたのかじゅぐじゅくと胸毛を黒い汁で汚しながら、一つ残らず喰いきってしまった。男は目を細めて、銀毛の猿の口元の黒い汁を見て、腹の中に残した果実の一つを小さく齧ると、今まで嗅いだことのないほど旨そうな匂いが鼻腔に広がった。男は口に含んだものごと果実を地面に叩きつけた。べちゃりと地面に広がったのは、煮詰められたように黒く粘り気のある果肉だった。突然、銀毛の猿が胸を掻き毟りながら、喉が裂けるほどの金切り声を上げた。腹の中のものを全部吐き散らして、銀毛の猿はあっという間に動かなくなった。
 壊れてしまった摂理は巧妙に世界に変化を与える。男は慌てて右肩の空洞から火種の器を取り出し、恐る恐る器を開いた。火種はいじましく赤い火を燃やし続けていた。男は腹の中の果実を全てトンネルの中に捨て、腰に結わえたナイフを自分の手の甲に滑らせた。一筋の赤い血が浅黒い皮膚の上をすべっていった。「俺の血はまだ赤いのか」皮膚を切り裂いたナイフの切れ味と己を流れる赤い血に安堵したように、男は小さく息を吐いた。
 銀毛の猿の鋭い爪で抉られた胸から流れ落ちた赤黒い血だまりのそばで、双頭の子猿はぶるぶると凍てつく夜に捨てられた赤子のように震えている。その瞳がじっと男を見つめる。その中に懐かしいものを見つけた。「ああ、こいつらに名前をやろう」そう男は思った。イブキとイテ。昔、男が猟をしていた頃に飼っていた犬たちの名前だ。白い毛に黒い斑の艶やかな被毛と穏やかな気性を持ったイブキ、北の風にも負けない淡色のトラ毛と手負いの獲物をどこまでも追いかける強靭な体躯を持つイテ。二頭が陽の中を駆けるとき、輪郭を形づくる毛の一本一本が美しくきらめく。男が合図さえ出せば、どんなに巨大な獣たちにも躍りかかる従順さをもつあいつら。草を食む獣を眺める瞳は岩に埋まった宝石の原石だった。射し込む光に様々に色を変えた。
 子猿のどちらがどちらでもない。美しい瞳も艶やかな被毛も持たない双頭の猿は、それぞれがイブキであってイテだった。腹の空洞の中で指をしゃぶりながらぼうっと男を見つめる四つの目の奥には生まれたばかりの憎悪がちらちらと燃えていた。男はイブキとイテを腹に開いた一等大きな空洞に押し込んだ。子猿は暴れるでも叫ぶでもなく、身を寄せ合うとしずしずと瞼を下して眠りの中に逃げ込んでしまった。
 男はそのしおらしさを鼻で笑うと、耳をそばだてて外の気配を探った。ざらざらと無数の砂利や砂礫が地面を擦るような音が聞こえる。規則的に聞こえるその音を男は知っていた。洞窟から走り出ると、目の前に広がる光景に男は息をのんだ。波が洞窟のすぐそばまで迫っていた。 
 一時は手の中に閉じ込めた火の山の頂は、遙か彼方にうっすらとその姿を残しているだけだった。潮の匂いもしないほど、何十マイルも離れた場所にあった海岸線が、大地に入り込んでいた。トンネルを挟んで反対側には切り立った崖がそびえ立ち、火の山を目指すためにはこの海岸線を進むしかなかった。大きな白い鳥が男の頭上を越えて水平線の彼方へ飛び去っていった。鳥のように火の山の頂まで飛んでいけたら。波の端に撫ぜられる足が湿った砂を蹴る。幾度目かの跳ね上がりを終え、ぶわりと体が浮かび上がると同時に大きく羽ばたかせて風を受け、潮騒が白い腹を濡らすほど、水面をすれすれに滑空する。己の大きく力強く風を切る翼が、きらきらと太陽の光を乱反射させて輝く波、折り重なるように生まれるうねりの群れを滑るように追い越していく。
 潮の匂いのする強い風に目を開けると、男は足取りも確かに歩き始めた。

 幾日も歩き続ける間、海の水にさらされ続けた下肢の皮膚は柔らかくふやけて白く膨れ上がった。それからまた幾日もかけて、肉や筋に包まれた骨までもがしなやかな柔性を持ち、海の中で子に乳を与えて育てる生き物の持つ尾びれに似たものへと変化を遂げていった。
 男は沖へ沖へと惹き寄せられる己の下肢に誘われるがままに、海の深みへと踏み入っていった。あのサイレンの日から男の歩みを重くさせた波も、皮膚を痛めてつけていた潮たちも、手のひらを返したように人ではないものになろうとする男を小田山に迎え入れた。この海の果てに火の山はある。
 男は愛犬たちの名前を与えた双頭の小猿を海岸線の乾いた砂の上に放った。そして、火種の入った器を左肘の先端に空いた空洞に移した。その空洞を右の手のひらで塞ぐように握りしめると、まるで張り付けにされた罪人のように天に向かって両の腕を掲げた。そして、左手の先端を背中に引きつけると、腕を背びれに見立てるかのように奇妙に宙に突き出したまま、尾びれを器用にくねらせて悠々と泳ぎ始めた。息継ぎを必要としないほどに男の体が新たな変化をはじめたころ、海はいつの間にか泳ぐこともできないほどに干上がっていた。
 男は湿った砂の上で腹ばいになると腕をほどいた。もともと一つだったかのようにくっつきかけた左肘と右手のひらを引き剥がすと、左肘の空洞から火種の器を取り出して、右眼窩の近くに空いた空洞へと移した。砂に腹をつけたまま、男は上手く動かない足を殴りつけた。硬化した鱗のような皮膚が下肢を埋め尽くしていた。それらは水中にいた頃のような滑らかさを失い、ざらざらとした手触りだけが男の指に残った。ここから何マイルも先に見える火の山まで歩き続けるためには、下肢を空気にさらして骨を固めなくてはいけない。海辺から離れた男の体は体中が干上がるように乾ききっていた。水を、真水を欲して腹ばいのまま、腕を使って地面を陸の奥へと移動を始めた。波の音が聞こえなくなる前に男の意識は薄れていった。
 まるで巨大な斧で頭を切り落とされたように同じ高さの灌木の茂る森のあばら屋の中に男は横たわっていた。男の側には女が一人、どこを眺めるともなしに座っていた。漆黒の巻き毛を腰のあたりまで伸ばし、薄く柔らかな布を巻き付けた女は下肢に男と同じような尾ひれを持ち、その表面も男と同様に無数の鱗で覆われていた。女は男が目覚めたことに気づくと、両手で器のような形を作りそれを口元で傾ける仕草を見せると、立ち上がり固まりきっていない足首の骨を器用に操ってどこかへ行ってしまった。「言葉を知らぬとでも思っているのだろう」男は女の姿が森の奥に消えるのを確認すると、空洞に入れた火種の器を探った。器はしっかりとそこにあり、火種の熱を男の指に伝えた。男はほっと息を吐くと注意深く荒ら屋の中を眺めた。ひびの入った小さな亀の甲羅や得体の知れない草や木の根や液体が入った器が雑然と並んでいた。そして、這いずりながらでも登れるほど僅かに高くなった一角には、籐で編まれた敷物に光沢のある生成りの掛け布や石の枕といった上等な寝具を備えた寝台があった。人ですらないものとも寐る女。人間の男からは富をくすね、人の理から外れたものからは異形の力くすねた。下でありながら上である存在。世の穢れを見に宿して森で生きる女はどこの土地にもいるものだった。
 水差しいっぱいに水を運んできた女は、男が満足するまでたっぷりと水を飲ませると、再び森の奥へ向かい、魚籠を抱えて帰ってきた。その中にはぱくぱく口を開け閉めする数匹の大ぶりな鯉が入っていた。その中の一匹を男に差し出し「喰え」と言った。男が黙ったまま動かずにいると、女はまだ生きたままの鯉の腹にかぶりついて見せた。
「火はどこにある」
 山の火が消えた今、この世のほとんどの火は消えてしまった。だた、男の持つ火種のように火の山から接いでない火はまだどこかに残っているはずだ。だが、このままではその火たちもいずれ消える。アララカンの火は、この世の火すべての原初の火なのだから。不審げな顔をしながら、それでも生のままの鯉を喰えと押しつけてくる女を見て、この女の生活には火というものが終ぞ存在していないのだと思った。
 火を知らない女に、火種の存在を教えればやっかいなことが起こる気がした。男は腰に差したナイフで右の目尻を切った。ぽたぽたと垂れる血を抑えながら女が帰ってくるのを待った。女は、男の血に濡れた顔に驚いて駆けつけてきた
「蝋引きの紙と布をくれ」
 男の言葉に女は頷くと、荒ら屋の隅の床板を上げるとその中から必要なものを取り出した。傷の手当てをしようとする女を押しとどめると、男は女に用意させた蝋引き紙で火種を入れた空洞の入り口を覆うと、その上から幾重も布を巻き付けた。
 女は男から何を聞くでも奪うでもなく、かいがいしく世話を焼いた。腹が満たされると寝台に男を誘い、ことを終えるとどこからともなく運んでくるぬめりけのある水で男の体をふき清めた。そしてときどき、喜も楽もない顔をして大風だとか男の身に起こる些末なことを、数刻も前に言い当てるのだった。女の与える愉楽に身を委ねながらも、男は上の空で火の山のことを考えることがあった。そのたびに女は
――――お前は私を捨てるんだね。と、褥の上で白い肌を晒した女は男の腕に抱かれたまま、こすれ合う金属のような不気味な声で自分たちの行く末を告げた。大風が灌木の森を揺らし、あばら家の立て板の隙間からびゅうびゅうと吹き込む夜に、男と女は体を寄せ合いながら何をするでもなく風の音を聞いていた。
――――空洞の中のものが頂でお前を殺すだろう
 死ぬ前の獣のような安らかな息で、女が編む予言を男は聞いた。同時に、アララカンの火に焼かれる自分の姿を頭の中ではっきりと思い描いていた。
 山に火が再び灯ったとき、離れ山や遠くの地平に住む人々にもはっきりと見えるほどにまでに立ち昇った炎は、夜空に瞬く星々の中で大きな翼を広げた大鷲座のように気高く美しかった。鼻を突くきつい硫黄の匂いに包まれながら、男はこの世の誰よりも近くで太陽よりも高い熱を発して燃え上がる炎を見つめていた。アララカンの火の胎内へ還るために、男は火の山の火口へその身を投げ出した。死など取るに足らないほどの充足。これ以上望むもののないほどに男は幸福だった。
 女の予言は一つ現実のものとなる。男は日の出とともに、女を捨てて火の山へ向かうだろう。

 男が旅立ちを告げると、女は苦しそうに息をついて男から身を離した。待てと言う男の声も聞こえていないのか、ふらふらと何かにあてられたような足取りで夜の森の奥へと消えていった。女にとっては森はいつだって女を包み込むゆりかごだ。しかし、男には森の奥の闇は深すぎる。迷い込めば夜が明けたとしても、生きたまま眼を潰された動物のように、ぐるぐると己の立っている位置さえもわからないまま骨になるだろう。そうとわかっていながらも、漆黒の夜に溶け込んだ女を追った。男はもう一度触れたかった。女の水風船のように張った柔らかな乳房に、男の空洞を埋める度に命やら豊かさやら責任やらを孕んでいじましく膨らんでいくだろう、まだ白くなめらかな腹に。
 深い闇に打ち勝って女を腕に掻き抱くために、男は朽ちた灌木の枝に火を灯した。
 火に照らされた女の気配は羽衣のように白く揺らめいて森の奥へと続いていた。男はこの森で火が起こす奇妙なできごとに恐れを抱きながらその後を追い進んだ。くねくねと法則もなく歩き続ける女を追いながら、男はこの森を取り囲むようにある無数の洞穴を見つけた。
「それはなに?」
 女の気配が途絶えたところで男が歩みを止めたとき、男の真後ろから女の声が聞こえた。驚いて振り返ると、瞳の中に炎の残像が焼きついてしまったように瞬きもせず、火に魅入られた女がいた。橙色の火がゆらゆらと女の顔を照らした。火の熱さを知らない女は少女の無邪気さで松明に顔を近づけると、燃えさかる火を掴もうと両手を伸ばした。女の手が炎に焼かれる直前に男は松明から女を引き剥がし、土に擦りつけて火を消した。女は金切り声を上げながら火が焦がした地面に触れ、微かに残った熱が消え失せると同時に男に掴みかかった。「あれをよこせ」と拳を手当たり次第に男に打ちつけ、髪の毛を振り乱し、狂ったように喚き散らす女から逃れようと男は女を突き飛ばした。女が立ち上がったのと時を同じくして、耳をつんざくようなサイレンの音が森中にこだました。
 男はすぐさま女の手を引いて洞穴へ向かおうとしたが、女は男の手を振り払ってその場に立ち尽くした。男はもう一度手を引くことはせず、洞穴へ向かって走った。洞穴の入り口で女の方を振り返ると、女はじいっと火の山のあるだろう彼方を見ていた。

 男は洞穴の中でうずくまり眼をかたく閉じてサイレンの終わりを待ち続けた。めりめりと音を立てながら大地が揺れ、天井の割れ目から滴る液体が、うずくまった男の背中を淡々と打った。背を四方に伝いながら首筋越え、脳天から流れるように男の口もとに流れ込んだ。口内に広がったきつい鉄の味に拭った手の甲にはべっとりと赤黒い血がついている。恐る恐る首を伸ばし、見上げた天井はまるで割いた大鹿の腹の中のように熱い血を男に向かって滴らせていた。この森はもうすぐ死ぬ。背中を打つものの温かさにまどろみながら、地面からめくれ上がるように根を浮かせて倒れていく木々の哀れな姿を想った。

 サイレンがやんだ。恐ろしいほどの静寂が洞窟の中に広がっていった。摂理の歪曲を知る前に、まだしばらくはここで体を休めていたかった。だが、己の鼓動が脈打つ音さえも、太鼓のように鳴り響いているようだった。男は、その静寂に堪えきれず洞窟から這い出した。女も女と過ごした灌木の森も見る影もなく消え果て、青々とした草がみっちりと生い茂った草原に姿を変えていた。男は登りかけた太陽を背に歩き出した。男の影の伸びる遙か向こうには火の山があった。
 草原が赤く染まる。太陽が地平線に沈みこむにつれて火種は器の中で激しく燃え上がった。器に開く無数の穴から噴き出した炎が胸の空洞から溢れだし、蛇の舌のように皮膚を舐めた。焼けていく己の皮膚と肉の匂いと痛みに耐えきれず、男はこの旅路ではじめて器と火種をその身から離した。左手を胸の中に突っ込み、器を引きずりだす間、指も掌も皮膚が焼け爛れてずるずると剥けた。それでも男は火種を絶やすことのないよう、器をゆっくりと地面へと下した。青々と茂る草原の中で荒い呼吸を繰り返すように吐き出された火は、時たま大地へ襲い掛かる波よりも早く草原を呑み込んでいった。炎が業火のように赤く燃え上がったのはほんの一瞬だった。瞬く間に冷めた青白い炎に姿を変え、草原を凍てつかせた。夜の間中男は歩き続けた。そうしない限り、体中の血液は凍り付き、昇る太陽を見ることもなく男は凍え死んだだろう。

 太陽が火の山の対面から登り始めた。青白い炎からの凍てつく冷気と太陽の発する熱が激しくぶつかり合い、まとわりつくような空気の層があたり一面を覆った。呼吸とともにその空気に満たされた肺は体の何処かで重量を増した。滴る汗をぬぐいながら、男は火の山のある場所を再び見定めようと目を凝らした。何もなかった。男の目の先には山の輪郭すらも。男の目を覆っていたのはごつごつと赤黒い肌をさらした岸壁だった。見上げれば目の眩むほどの高さだ。今度はこの壁を越えなければならないのかと思うと、知らぬ間に男の喉からはうめき声が漏れた。存在を確かめるように恐る恐る伸ばした手が、目の粗いやすりのような岩肌に触れると思った一瞬、岸壁は掻き消え、遥か彼方を地平線で切り取られた草原が広がると共に、地平線の奥にぼんやり揺れると山入端が現れた。
 男は乾ききった唇を舐めたが、口内にはそれを潤してくれる一滴の唾もなかった。乾いた目を瞬かせるたびに、風景が表れては消え、火の山への道のりを縮めてはさらに伸ばし、正しては果てのないほどに歪めた。男は己の爪を見つめた。欠けていびつな爪の先は泥の色をしている。草原の遠近法の見せる幻から逃れよう。男は布で両目を覆い頭の後ろで縛り上げ、灌木を杖にして、太陽の沈んだ方角へと歩みを進めた。太陽の沈む先には火の山がある。幾度ぬかるんだものに足を取られようと、獣のような匂いが唸る声が脅かそうとも、決して目を縛った布を解くことはなく、男は歩き続けた。男の下肢を覆っていた鱗が全て剥がれ落ち、むき出しになった肉から染み出した血と透明な汁が薄くまだ脆い皮膚になったとき、男は遂に火の山に辿りついた。長く伸びた髪は白く煤け、覆うもののない薄くなった体に開いた空洞たちは羽根を持つ虫が木の中を喰い進むように、男の中で繋がり、広がっている。そのいくつもの空洞を強い風が吹き抜けていった。

 からからの口蓋に移した火種はちりちりと鳴いた。還るべき処へ急げと男を鼓舞しているのだ。生い茂る背の高い草と、踏み場もないほどに身を寄せ合った木々の隙間を縫うように男は頂を目指して駆けた。心臓が張り裂けそうなほど早鐘を打つ。熱い息が喉の奥でわだかまって、胸を締め付け、唇は青白く震えた。風を切って上へ上へと走れども走れども、景色は鬱蒼とした森から姿を変えない。
 突風が吹いた。北の風ともちがう生ぬるい風だ。ずしんと、大きな塊が男のすぐ後ろに落ちた。全身の毛が逆立つような恐怖が襲い、男は悟った。落ちたのではない。人の立ち入ることを赦さない火の山に踏み入った俺の匂いを嗅ぎつけた者が俺を追ってきたのだと。恐ろしさのあまり、男は後ろを振り返った。みっちりと植物に覆われていた地面から吹き出すように、青々と葉を茂らせた柔らかい若木が、瑞々しい種種が、色取りどの花弁をたわわにつけた花々が湧き上がった。その植物たちが吐き出した息に森は密度を増して男を包み込んだ。まとわりつく息吹を引き剥がすように男は、地面を蹴り上げ走り続けた。
 男を包む香りが消えた。進む道のりの先の方から、木々が白く朽ちた。花は一等むごたらしく在れと命じられたかのように悪臭を放ちながらどろどろに溶けた。男を追う者の足が踏みしめた大地はそのすべてを受け入れそこに在るだけだった。追う者の足跡に追い越されてはならない。その理をやぶれば、蠕動運動のように繁栄と衰退を繰り返す植物の息吹は男の命を奪うだろう。己の智を超えた者に背を向けて逃げる男の脳裏に、幾度も獣から男を守った猟犬たちがよぎった。暗いトンネルの中で震えていた双頭の小猿の姿が。
「イブキとイテ」
男の口が意味もなくその名を呼んだ。男の腹の中が重みを持つ。名前は男の腹に双頭の小猿を運んだ。男は小猿を腹から引きずり出すと、迷うことなく姿のない足跡へと放って、己の替わりとして命を引き渡した。
 男はただひたすらに頂を目指した。感覚を失った下肢が時折千切れるように痛んだ。足がもう前に出ない。息が胸がばらばらになってしまいそうだ。霞のかかった目の向こうに、紺碧の空が映った。もうすぐそこにある頂ににらみつける。もう生き物の生きては行けない場所にその頂はあった。

 頂は静寂に包まれていた。男は幾度も夢想した。火の山の頂を。あるときは何万もの死体と血で美しく穢れた頂を。そしてあるときは、崇高な意味などなにも持たないただの凡庸な頂だった。しかし、想像のどの頂も無造作に転がる岩の一つ一つが、かすかに揺れるだけで、己をすりつぶすほどの大きさを持ってはいなかった。男は自分がちっぽけな生き物のただの一匹だった。首を垂れて、この頂を空の上から眺めているものがいるのなら、それを人は神と呼ぶのだろうと思った。
 見果てぬほど彼方まで、ぽっかりと口を開けた火口の縁に立つと、地の底まで続いているような深々とした穴の中に火種を落とした。
 空っぽの空洞に突っ込んだ手がひんやりと滑らかな肌に触れる。ごうごうと微かな唸りが火口の奥から耳の奥に響いた。男はいつかの褥で女の告げた言葉を思い出していた。火口へとゆっくりと傾いでいく体を止めるでもなく男は燃え上がる火を見ていた。
 火口に呑み込まれる男を攫うように、双頭の年老いた猿が萎びた半身をくねらせながら金切り声を上げて男に躍りかかった。鋭い爪が男の目玉を潰し、こめかみを顎先まで引き裂いた。鋸山のような歯と万力のような顎が喉笛を噛みちぎった。唇から赤黒い血がぶぐぶぐと身体中から噴き出して大地を染めた。己の名付けた猿に八つに引き裂かれて男は死んだ。
 女の予言はすべて現実になった。打ち捨てられた男の体躯に舞い上がる火の粉が雪のように降り積もった。男の死など素知らぬ顔で、山の火は鮮やかに燃えている。

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