梗 概
子羊たち
四旬節のお祭りが近づく日、屋敷のバルコニーから外を見ていたマリナスは、旅人が雪ぶかい道の中、こちらへと尋ねてくるのを見る。真冬、雪に閉ざされたカリフォルニアを尋ねるものは少ない。ママはいつまでも外を見ているマリナスに気づき、風邪をひかないよう中に入るように言う。
マリナスのパパは軍人であり、ママはメガロコーポの重役一族の娘だった。
きびしい真冬の中でも常に暖かさが保たれる荘園の中には、自然交配の犬や猫、鳥の繁殖を生業とする人々が暮らしている。その荘園の人々もまた招かれる四旬節のお祝いの準備がされる中、マリナスはディディと名乗った男に引き合わされる。男は人形技師だという。
マリナスは人間ではない。三年前の結婚記念日、子供のいないママのために、パパから贈られた自動人形だった。
冬になってから膝の関節の調子がおかしいマリナスはディディの診察を受け、足のパーツが劣化しつつあると告げられる。マリナスのようなタイプの自動人形の場合、足の故障がもとに全身が崩れてゆくことが多い。歩き回ることができなくなると自動巻きのゼンマイが巻かれなくなり、運動がおっくうになり、その結果、負担がかかった全身のパーツが破損してゆく。
マリナスのような高価な自動人形はファベルジェ・ドールと呼ばれている。一つの工房で作られ、新しいタイプが生産されるたびに旧タイプは型落ちになってしまうため、交換用のパーツを得ることがむつかしい。故障したファベルジェ・ドールは苦痛なく機能停止し、天使のように死ぬ。ディディはパパに雪が溶けたらマリナスのあたらしいパーツを探しに行くことを約束する。そうしてパパが去った後、時計の中に隠れて盗み聞きをしていたマリナスに声をかけ、散歩へと誘い出す。
美しいママはパパのことを嫌っているが、マリナスのために四旬節のお祝いに出ることを約束する。マリナスはパパからママに対して贈られたプレゼントであり、ママはマリナスを愛することでパパへの愛情を示そうとしている。マリナスが壊れれば、パパもママも解放される。もし自分が本当の人間だったら、とマリナスは問いかける。
「ぼくが本物の子どもだったらよかったのに」
「誰もそんなことは望んでいないよ。もし君がほんとうの人間だったら、お父さんもお母さんも君を愛することはできない。いつか君への愛情がただの『いいわけ』だと気づかれてしまうと、思わずにはいれらないから」
もしマリナスが人間ならば、すぐに大人になってしまう。パパもママも、愛らしく未来のない8歳の少年だからこそ、マリナスを愛することができるのだと。
マリナスを修理する方法はひとつだけある、とディディはパパ提案する。頭脳を有機体に移植することだ。機械よりもよほど長持ちする有機部品を元にした体になれば、マリナスはほぼ永遠に生きることができる。けれどもパパはディディの提案を断る。この美しい体も、永遠に子供であることもマリナスという存在の一部であり、奪うにはしのびないと。
万聖節のお祝いの日、ディディはマリナスにあと数年生きて天使のように死ぬことが望まれているのだという。己だけがそうなのかと問うマリナスに、ディディはすべてのファベルジェ・ドールは同じだとディディは答える。都合よく愛され、花が萎れるように死ぬことがファベルジェ・ドールの役割だと。生き延びたところでみじめなだけだというディディの血を吐くような声に、ふいにマリナスは、彼もまたかつてはファベルジェ・ドールだったのだと気づく。
万聖節の日、ディディはお祝いの中、マリナスをさらって逃亡する。二人は逃げおおせ、マリナスは自分を取り戻すまではパパとママは別れることはないだろうと思う。愛されないで生きてゆく方法を教えてくれと言われたディディは、マリナスを仲間に加えることを決める。
文字数:1558
内容に関するアピール
これは『純粋で無垢な存在が不幸の中でけなげに生きる』物語です。この作品では、愛情を搾取されるために作られる人工生物の歪さやそれと求めてしまう人間の業と共に、そういった存在の儚くうつくしい姿を描きたいと思っています。
八歳の子供の姿をしたマリナスは、離婚寸前の夫婦が『子供がいるから離婚できない』と口にするようなときの『子ども』に課せられる役割を果たすための存在です。そのため心から両親のことを思い、己がそのように作られた存在であると知りつつも、作られたままの存在を全うしようとします。
一方、性別不詳の青年の姿をしたディディは自身が愛すべき存在を失った人工生物の馴れの果てである存在です。それでもなお誰かを愛することに餓えて彷徨ううちに、もう一人の自分ともいえるマリナスに出会うこととなります。
全体に幻想的で退廃的な世界観の中で、誰かを一方的に愛情という欲望の吐け口にする、という残酷さを体現する二人が、そのままの在り方で別の道を選ぶさまを描いてゆきたいと思います。
文字数:431
いとしき我が子
朝。
ぴったり九時間に設定された眠りから目を覚まし、マリナスはぱっちりと目を開ける。
透かし彫りを施した白檀の窓の向こうから、まだ朝の清澄さを残した日差しが差し込んでいた…… 寝台から飛び降り、絹のスリッパをちいさな足に引っ掛けるのももどかしい。膝の中でちりりと小さな音がする。マリナスは透かし細工の窓を大きくあけ放った。
サファイア色にかすむ山嶺の向こうに陽は上り、まだ朝霧にかすんだ斜面へと金色の光の帯を注いでいる。雲母のように重なり合った段々畑はほんの少しの日差しも逃さぬように天へ向かってすり鉢状へくぼみながら広がり、幅の広い河には赤い瓦の屋根をもった橋がいくつも掛けられている。よく日の当たる丘陵には、環のような屋根をもつ円楼がいくつも身を寄せ合い、まるで茸が群れているようだ。
もうじき、秋が終わる。
頬にあたる風は水の気配を含んで心地が良かった。
もうすぐ、とマリナスは思う。あと十日も経てば十二日節が訪れる。ほんの先週までは朝早くから茶を摘みに出ていた人々の姿も今はなく、段々畑のあちこちには青い紗の幟が高く掲げられ、風にかろやかにたなびいている。
もうじきこの清明荘にもたくさんのお客がやってくるだろう。パパだって帰ってくる。そう思うと飛び跳ねたいような気持になる。手すりから身を乗り出すようにして、バルコニーから一望することができる荘園の景色を見渡す……
と、ふとマリナスは、王冠のようにぐるりとそびえた山嶺の向こうに、何か、鳥影のようなものを見つける。
なんだろう、鳥にしては大きい。空挺かしら? それにしては小さい。スッと降下したちいさな影は、深い森の影に紛れるようにして消えてしまう。マリナスは思わず、手すりからぐっと身を乗り出すけれども。
ふと背後から、「坊ちゃん」と笑みを含んで笑いかける声がした。
「ズゥドゥ!」
「そんなに身を乗り出して。また屋根から落っこちますよ? 俺が奥様に叱られてしまいます」
「そんな『へま』はしないもん」
マリナスはすこし頬を膨らませ、けれど大人しく部屋の中へと引っ込んだ。ズゥドゥは窓を閉じ、顔を洗うための蒸しタオルを差し出す。細かな刺繍で縁取りがされた青い上着と下衣を着せかけてくれる。肩で切りそろえた黒髪を櫛削り、金の小鈴の飾りを結わえる。
「ママは? どうしてるの」
「奥様ははやくに朝食を召し上がりましたよ。昨晩遅くに天省からの報せを受け取られたようで」
「天省」
だったら、ママのお友達の偉い人たちかもしれない。
「ご友人が馴染みのクチュリエを同行されてくるそうですので、ありったけのよい絹を出して来いとのお言いつけで、皆朝からおおわらわです。後で坊ちゃんも呼んでくるようにと仰っておりましたよ。なんでも十二日節の晴れ着を新しく仕立てたほうがよろしかろう、と」
マリナスは思わず鼻の頭にしわをよせた。あたらしい晴れ着? ズゥドゥはおかしそうに笑う
「晴れ着だったら去年も作ったじゃない。新しいのなんていらないよ」
「そんな顔をなさってもダメですよ、なんといっても男の子の衣装をお披露目をすることに意味があるんですからね。お役目だと思って我慢なさらないと」
「やだよう、服を汚しちゃダメって怒られるもん。代わりにズゥドゥが行ってよ、僕の服だったらバレないよ」
「俺が坊ちゃんの服を着られるわけないじゃないですか」
可笑しそうに言われて、マリナスは目を丸くした。
「どうして? ずっと、僕と同じ服を着てたでしょ?」
「以前は、そりゃあね。おさがりをいただいていたのは覚えていますけれど」
もう五年も前の話でしょう、ズゥドゥは言う。
「もう俺はこんな図体ですからね、坊ちゃんの服なんて着られやしませんよ。それにとてもじゃないけど勿体なくて! 俺にはお仕着せで充分です」
ルゥルゥはくるりと目を回して見せて、お仕着せの白い麻の袍の袖を引っ張って見せる。「そうなの」とマリナスはまた目をまたたいた。
マリナスは椅子から滑り降りる。ズゥドゥの隣に並んでみる。頭の天辺が、肩のあたりまでしかない。
納得がいかない顔で目をぱちぱちさせているマリナスに、ズゥドゥは肩を震わせて笑いをこらえていた。
十二日節が近づくころには、普段は静かな碧梧荘がにわかに騒がしくなる。
高くそびえた山脈が三方を屏風のように囲み、中央の湖へ向けてすり鉢にくぼんでゆくちいさな荘園。碧梧荘では風通しの良い場所には茶畑、日当たりのよい場所には桑畑。それぞれ段々畑の角ごとには背の高い木犀が泡立つような白い花を咲かせていた。円楼の軒にはぐるりと青い小さな行灯、水のほとりに結ばれた東屋の軒に金の灯篭が吊るされている。十二日節の夜にはいちめんが葉陰に蛍が降りたようになる。普段は茶園や桑畑で働く人々も、この季節には天省からの客人をもてなすために忙しい。丸石を敷いた道は落ち葉ひとつないように丁寧に掃き清められ、大きな茸のような円楼の屋根もぴかぴかに磨き上げられる。
ママに見つかる前にさっさとお屋敷を逃げ出したマリナスは、河へと下ってゆく坂をゆっくりと下った。ちゃりん、ちゃりん、と膝の中で音がする。あたりがいちめんが木犀の甘い香りでいっぱいだった。両腕にかかえた籠いっぱいに茶の葉を積み上げたおじいさんとすれ違う。「ぼっちゃん、どこ行くんですか」と笑いながら声を掛けられる。「今かんがえてるとこ!」とマリナスは大声で返事をする。
坂を上ってゆく背中に大きく手を振って見送りながら、マリナスが考えていたのは、まるで別のことだった。
今年は、パパは帰ってきてくれるのかしら。
帰ってくる、それは間違いない。パパが十二日節に戻ってこなかったことなんて今まで一度もなかったから。でも去年、パパはママと一度も顔も合わせず、話もしないままだった。ママはお客様のもてなしのために忙しく立ち働いて、パパは途中でそんなママを捕まえることをあきらめてしまっていた。ずっと天省の偉い人の護衛として傍に控えていた…… 帰ってきたとしても、話もせず、逢うことすら避けているのだったら、戻ってきていないのも同然だ。
どうしたらいいのかなあ。
パパとママに、ちゃんと仲良くしてもらうには。
碧梧荘の周囲に高くそびえた山々には、一年中、溶けることなく雪が残る。雪解け水が幅の広い河となって湖へと注ぎ、その流れは水量ゆたかで美しい。河のところどころで堰が作られて青く漫々と水をたたえた池になった上には、瓦屋根と透かし細工の手すり、板床を備えた雲竜橋が架けられている。宴があるときにはこの池に船を浮かべ、橋上には卓子を置き、にぎやかに宴席が設けられる。秋にはきれいに池の底のどぶも浚われ、今では水晶のように透き通った水の中に色とりどりの金魚や鯉が放たれている。
そんな橋のそばを通りかかろうとして、マリナスはふいに、足を止めた。
見知らぬ人がそこにいた。
おとこのひとだろうか……それとも、おんなのひと? 黒っぽいマントには深いスリットが四つ入り、重たそうなブーツを履いている。明らかにこのあたりの意匠ではない。へんな違和感を覚えたのはなぜなのだろう?
立ちすくむマリナスのほうに、その人は振り返る。フードを下ろす。
頭にぴたりと張り付いたみじかい黒い髪が、形の良い、ちいさな頭蓋の形をあらわにしていた。
桃色のひとみをしていた。真ん中にはめ込まれた瞳孔は、金粒をはめ込んだような金色だ。
マリナスはその人と見つめあう形になる。その人が首をかしげると、黒髪に青みがかった光の輪がゆれた。
「もしかして、君がマリナス?」
無言でうなずくと、その人は、「やっぱり」とほほ笑んだ。
「よかったら、この碧梧荘のご主人のところに案内してもらえないか。わたしの名はディディ。ファベルジェ・ドールの……きみの修理をお父上から頼まれて、ここに来たものだ」
お屋敷でいちばん日のあたりの良い場所にあるママのアトリエは、引っ張り出されたありったけの生地が広げられ、まるで花園いっぱいの花をちぎり捨てたような有様だった。女中がドアを開けてくれたとたん、「マリナス!」と弾んだ声が飛んでくる。今日のママはオーロラのようなばら色の髪をしていた。長い髪が揺れるたび、虹色の干渉環がきらめく。
「おそかったじゃない。起きたらすぐにママのところに来てっていったのに」
おそらくは小休止の最中だったのだろう。卓子から立ち上がったママは、すぐにマリナスのところまで飛んでくる。ぎゅうぎゅうと抱きしめられると顔を胸に押し付けられて息が苦しい。
「ママ、お客様がいらっしゃったの?」
「ええ。でも、今は茶楼ですこし休んでいただいているわ。明日の打ち合わせもあるそうだし。……そちらの方は?」
ママはようやくマリナスを解放してくれる。扉の所で足を止めていたディディが慇懃に礼をする。
「お初にお目にかかります、奥様。わたしは人形修繕士のディディ」
ずっと両肩に置かれたままだったママの手に、少し力が込められたのをマリナスは感じる。
「大佐から予め、訪問の許しはいただいていたはずですが」
大佐というのは、パパのことだ。
「……ええ、はい。わかっているわ。ただ、予定よりも一日早いようだけれど」
「天候のせいで足止めを食らいそうでしたので、予定を前倒しにさせていただきました。あらかじめ連絡を差し上げていたつもりでしたが、もし伝わっていなかったようならば申し訳ない」
「あとで確認してみましょう、家令が何か見間違いをしていたのかもしれないわ。お昼はもういただきました? この時間だったら、もうお茶のほうがいいかしら」
ママはずっと肩においた手を放してくれない。マリナスはしかたなく、ママに並んで卓子のこちら側に腰を下ろした。
「ひどい散らかりようでごめんなさいね。あと数日もすれば十二日節になるから、準備で忙しいの」
ママのアトリエは、外から見ると、碧梧荘を取り巻いた山嶺のひとつ、その岸壁から大きく張り出した茸のように見える。朱漆を施した木材と、釉薬をかけた瓦。近世以前の中国の様式を借りた建築は、けれど、実際には最新の技術をありったけ注ぎ込んで作られた『懐古趣味』の産物だ。
この碧梧荘すべてにも同じことが言えるだろう。
もうすぐ、十二日節が訪れる―――ママと、そのごく親しい友人以外がこの碧梧荘に招待される年でたった一度の機会。現代では手に入れること自体がほぼ不可能となった、生きた蚕が吐いた糸から作られた絹と、天然の茶木から収穫した茶葉で作った茶を手に入れるチャンスがやってくる。
外の世界を知らないマリナスには、それがどれだけの価値を持ったものであるのかは分からない。けれど、ともかくも、ママの取り扱っているもの、その周囲にあるものの殆どが、想像もつかないほどに高価なものだということだけは理解している。
湯瓶と茶杯が運ばれてきた。棗と李、砂糖漬けの山査子、塩漬けの楊梅や橄欖、蒸し菓子の小皿も並べられる。
「それで―――修繕というのは、どういうことなんです?」
「大佐は去年の十二日節にここに来た時、ファベルジェ・ドールの左脚部から異音がすると気づいたそうです。奥様も気づいていらっしゃったのでは? それにマリナス、君自身も」
「異音って、このチャリンチャリンって音のこと?」
去年、パパと釣りに行ったとき、マリナスが釣り竿と魚籠を持ち、そんなマリナスをパパがおんぶをして帰ってきてもらったことがある。その時にパパが何か変な顔をしていたっけ。左足をぶらぶらと揺らしてみる。ちゃりん、ちゃりん。「やめなさい」とママが鋭く、短く言う。マリナスはあわてて足をひっこめた。
「それであの人は、あなたを探してきたの」
「オーバーホールに検討したそうです。ですが、製造から2年以上経ったファベルジェ・ドールのパーツの替えがメーカーにあることはまず無い。パーツの破損が発見されても交換はしてもらえないし、その後はメンテナンスと称して定期的にオーバーホールの依頼が行われるようになる」
勝手なことを、とママがちいさくつぶやく。ディディは聞こえないふりをしたようだった。
「依頼と言えば聞こえはいいですが、その後は非正規の方法でパーツ交換が行われていないか定期チェックが行われるのだというほうが正確なところでしょう。そうして、メーカー外での修理の痕跡が確認されたファベルジェ・ドールは、機能停止を進められます」
ディディは茶杯の蓋をずらし、熱い茶をひとくちすすった。
「ですから、その前に一度、パーツの交換が必要な状態かどうかを、確かめた方が良い」
マリナスは、ママの顔をそっと見上げた。
くちびるをきつく噛みしめ、マリナスの肩をきつく抱き寄せる。ほんとうのお母さんみたい、ほんとうの子どもが病気になったって言われてるみたい。マリナスはディディのほうに向き直る。
「ぼく、故障しているの?」
「調べてみないとわからないけれど、お父上はそう思ったようだね」
「ぼくはママとパパのところに来てから、八年ぐらいだと思う。ぼくたち、それぐらいで壊れちゃうの?」
「マリナス……」
ママがマリナスの手をぎゅっと握り締める。どこかが痛むような顔をしていた。ぼくのことを心配してくれているんだろう、ということぐらいはマリナスにもわかる。けれど。
「ママ、パパが心配してくれてるんだもん。ちゃんと見てもらわなくっちゃ。お茶の木がすごく元気だって、毎日見回って虫がついていたり病気になってたりしないかどうかを調べるでしょ」
心配しないで、ママ。マリナスはママの背中をぎゅっと抱きしめる。ディディは金の粒を嵌めたような眼で、二人の事をじっと見つめていた。
ファベルジェ・ドール。
それは、一部のブランドでだけ製造することができる、きわめて高価な嗜好品だ。外見は皆、年のころなら5歳から11歳ぐらいまでの少年。天使のように愛らしい。人間そのままの賢さで喋り、笑い、遊びまわり、そして心から人を愛するけれど、体にはほんの一片の有機部品も使用してはいない。そのことこそが、ファベルジェ・ドールを生産するための技術の高さと、懐古趣味的な優美さの2つとを保証していた。
「ぼく、ぼく以外のファベルジェ・ドールって見たことない」
「たいていはそうだろうね、何しろ高価だから。中には複数のドールを集めているオーナーもいるけれど、稼働状態を保持しているのはたいていは一体だけだ」
「どうして?」
「さあね、わからない。ファベルジェ・ドールのオーナーの考えていることは、それこそ、わたしにも分からないことの方が多い」
ディディは素裸にしたマリナスを防塵布を敷いたベッドに寝かせる。ナイトテーブルに工具を広げる。
片膝を折らせ、ふくらはぎの後ろを慎重に探り、皮膚の継ぎ目を探し出す。ごく薄い生地のストッキングをたくしあげるようにして、関節部分を覆った人工繊維の皮膚をめくりあげる。踵やひざの球体関節が、セラミックで複層焼成されたふくらはぎや足の甲のパーツがあらわになる。
心臓はぜんまい仕掛けとルビーの発振体。磁器の肌の下でちいさな音を立てる歯車。体には一滴の血も流れてはいないが、肌の裏は人肌になじむやわらかい温度にぬくめられている。青いシラーの浮かぶラブラドライトのひとみには、ごく薄い被膜で生き物さながらの潤みを施してある。
「マリナス、足を外すよ」
ディディは、ママから預かったプラチナの鍵を取り出す。へその中に差し込んで回転させると、かちっ、と音を立ててどこかのロックが解除される。両脚は、腿の付け根で簡単に外れた。
つるつるしたシーツの上で寝返りを打つ。半分ぐらいの長さになった身体が軽くてすこし変な感じだった。「見ててもいい?」と小首をかしげると、「ああ」と返事が返ってくる。
マリナスの手足も胴も、大きく稼働させることができる部分は球体関節状になっている。人間に似せようという意思をある段階まででで放棄したデザインは、機能上の必要というよりも、デザイン上の要請に従っている。
ディディはとりはずした足を屈伸させ、腿から膝を、膝から脛をとりはずし、作業台の上に丁寧に並べてゆく。うつ伏せになったマリナスは、シーツの上に頬杖を突き、不思議な気持ちでその様子を眺める。自分の体の一部じゃないみたい。人形みたい。
ファベルジェ・ドールを構成するパーツは、ひとつひとつが完結した構造を持っている。それがお互いの連携をとることによって、同一性を保った運動を可能にしている。象牙の玉のような踵のパーツ。内部を構造を点眼鏡にセットされたスキャナで確かめ、反響音をチェックし、さらには腿や肘のパーツと接続させたままで稼働させてみる。
「左の踵部分の歯車に、歪みが入っているみたいだな。その負担を引き受けるために膝のクッションに負担がかかっている。このままだと歯車が割れる前に他の部分が負担を引き受けてしまうことになる。放っておいたら、足の交換だけではすまなくなってゆくよ」
「そういえば、歩いてると音がすることがあるよ。チャリンチャリンって。修理できないの?」
「できない。替えの部品自体が市場に出回っていないんだ。だから膝のパートを丸ごと交換することになる…… 君と同型のファベルジェ・ドールを分解したパーツを探してこなければいけない。マリナス、目を見せて。型番を確かめるよ」
ファベルジェ・ドールの型番は、光彩と白目の間の細いライン上に刻印されている。ディディはマリナスのまぶたを指で押し開けて、ルーペで眼球を覗き込む。マリナスは、ディディが己の目を覗き込んでいるのと同じ子細さで、ディディの目を観察することができた。鳩のような桃色の目。金属光沢をもった、金粒をはめ込んだような瞳孔。
「Ref.16520-Ei.27 稀少モデルだな。交換パーツを見つけるのは大変かもしれない」
「見つからなかったらどうなるの?」
「壊れる。本来ファベルジェ・ドールは体のどこかのパーツが破損した時点で、もう寿命という考え方で設計されているからね」
「ふぅん……」
ディディは何やらのカルテに記入をはじめる。マリナスは丁寧に並べられた己のパーツと、そして、根元から両足の取り外された、つるりとした下半身を見下ろした。
分解された己の体を見ているのは妙な気持だった。へんなの、とマリナスは思う。僕は目が飛び出るぐらい高価なのに、ほんの数年であっさり壊れてしまう。愛玩用のロボットならいくらでもある。けれど、その大半は交換パーツが手に入りやすい大量生産品か、さもなくば自力で再生することができる有機素材を用いたハイブリット体だ。どうして高価極まりないファベルジェ・ドールが、頑なに機械式を貫き通そうとしているのだろう。
「ファベルジェ・ドールは寿命が短いことに価値があるからね。だからマニファクチュアールにこだわるし、毎年のようにモデルチェンジを繰り返して、パーツ交換による修理をしない言い訳にしている」
かたくちいさな玉のようなくるぶしのパーツ、手のひらに載ってしまうようなちいさい足。
「壊れちゃうことに価値があるの」
「だって、それなら飽きる前に『死んで』もらうことができるじゃないか。しかもファベルジェ・ドールは無機素材だけで構成されているから、機能停止した後も美しい姿で残り続ける」
ディディの口調は淡々としていた。
「天使のような姿で眠りについたドールを思い出と共に保管することができる。中には機能停止したドールでいいから欲しいというコレクターもいる。高価な素材を使っているから、分解して売却してもそこそこに元を取ることもできる」
「ふうん」
「このままパーツが見つからなければ、あと半年程度で君は機能停止を迎えるだろう。でも、死ぬことも、怖くはないだろう?」
「うん……」
話を聞いても、何の恐怖も感じはしなかった。人間だったら怖がるのかしら、とマリナスはぼんやりと思う。ズゥドウのように背丈が伸びることも、碧梧荘の外に出ることもないまま、子供のままで死ぬ。
「どうしてこわくないんだろう。みんなそうなの?」
「ああ。ファベルジェ・ドールには、機能停止への恐怖はセットされていない」
マリナスは身体の作りさえ意識しなければ、ほとんど人間と変わらない。ママも、この碧梧荘の皆も、普段はマリナスが人形であるなどとは意識したこともないだろう。そういう風に作られているのだ。それだけ人間に似せて作られた存在に、死の恐怖だけがセットされていない。
「ディディは?」
ふいの問いかけに、ディディが目をまたたく。青い光沢を帯びたやわらかい髪。もしかしたら、髪ではないのかもしれない、と不意にマリナスは思う。人毛ではなく黒い羽毛。それを人の髪のように見せかけている。青光りのする羽毛はぴたりと頭にはりつき、卵型をした頭蓋の小ささ、形の良さをあらわにしている。
「ディディは、死ぬのはこわくないの?」
「どうして?」
マリナスは手を伸ばし、ディディのこめかみのあたりに触れてみる。すべすべとした羽毛の感触が伝わってくる。
「だって、なんだか自分の事みたいにいうんだもの」
ディディは口元だけで笑った。何も答えなかった。
今日はひさしぶりに一緒に寝ましょう、とママは言った。
三面を透かし板に囲まれた寝台に青いカーテンが掛けてある。ママの部屋には大きな壺がいくつも置かれ、そのすべてに木犀の大枝が生けられていた。ひんやりとした甘い香りはてのひらで触れることができそうなほどだった。ママがベッドに入る前に、メイドが蜜漬けの茘枝と熱い蓮茶の盃を持ってきた。ママの目も髪も昼のようなばら色から、本来の濃いブラウンに戻されていた。
花の上に広げて乾燥させられたシーツも、ベッドカバーも、木犀の香りがうつって甘い匂いがする。同じベッドにもぐりこんで身をすりよせると、ママはマリナスの頭を胸元に抱き寄せた。薄くやわらかな乳房の感触。
「ママ」
「なあに、マリナス?」
「ぼく、もうすぐ壊れるんだって。ぼくがいなくなったら、ママはさみしい?」
ママは泣きそうな顔をしたようだった。マリナスのことを、腕が折れてしまいそうなぐらいに強く、強く抱き寄せる。
「貴方は死んだりしない、絶対に」
へんなの、とマリナスは思う。僕は人形だから死ぬことなんて絶対にないのに。壊れるだけなのに。
「ディディからぼくのことを聞いたの?」
「―――マリナス、ママね、あの人のこと信じてない。あんな、どこの誰かも分からないような……パパがどこからあの人を連れてきたのかは知らないけれど、もっといい修繕士が他にいるはずよ」
マリナスは少しだけディディのことを思い出す。しなやかな立ち姿、男とも女ともつかない容姿。白く小さな顔。黒い羽毛に覆われた頭。
桃色のひとみと、金色の瞳孔。
「ディディは、普通の人間とはすこし違ってた」
「人間じゃないわ。あれは、有機体よ」
「有機体?」
ママは、すこし顔をゆがめる。どうやら笑ったようだった。
「器官人間の一種よ。有機体がこの碧梧荘に来ることはまずないし、マリナスは見たことがないかもしれないわね。器官人間はわかる? 体のどこかを機械と入れ替えた人や、動物のこと。それだけだったら少しも変なことじゃない。耳が聞こえにくくなったり、目を悪くしたりしたら、誰でもやることだもの」
「眼鏡をつけたり爪や歯をインプラントしたり?」
「そう。肝臓や腎臓が悪くなったら補助臓器に付け替えたり、内耳をつけたり。でも有機体はすこし違う。体を全部遺伝子改造を施した生きたパーツと入れ替えているの。だから、身体のたったひとかけらも生まれついての体じゃない。それも、有機体のほとんどは、色々な動物の遺伝子を材料に、人間の形に変形させたものを使っている」
「だから、ディディはあんな髪や、目をしてるの」
「ええ、そう。犬や猫だけじゃない、海獣や、鳥や、爬虫類や魚や……いろいろ。脳ですら人間じゃないことだってある。人の形をしたけだものだわ。しかも有機体はたいていの器官人間よりもずっと頑丈にできている。戦争のために作られているから」
「……戦争」
だから、ディディはパパのことを大佐と呼んだのかしら、とマリナスは思う。「この話は、これでおしまいにしましょう」と、ママはマリナスの後ろ頭を撫でた。
「あの人の言ったことはわすれなさい。マリナスのことはきっと、ママがよくしてあげるから。それに、もうすぐ十二日節でしょう? 楽しいことだけ考えましょう?」
ママがこういう言い方をするときは、本当は、不安でたまらないときなのだということをマリナスは知っている。こわくて、不安で、おそろしいから、見たくないものに背中を向けて、体をぎゅっと小さくしてうずくまる。
けれどもママはもう大人なので、小さな女の子がぬいぐるみを抱きしめることはできない。代わりにマリナスがいるのだ。
マリナスは黒髪をママの肩口にすりよせ、目を閉じた。
「はい、ママ」
ディディは今、どこにいるのだろう? とマリナスは思う。たぶんどこか、ゲストハウスの一室を借りているのだろう。けれどもマリナスが想像したのは、なぜだかあの黒い重たいマントにくるまって、ひとり、大きな木の下にうずくまっているディディの姿だった。白い顔がわずかに仰向いて、まるい瞳は月のない空を見上げている。覆い隠してくれる屋根もない空の下で、奇形の黒い鳥のようなディディはひとり、たった、独りぼっちだった。
十二日節が近づくと、普段は静かなばかりの碧梧荘が、にわかに騒がしくなる。
環状の屋根を持った円楼のいくつかはゲストハウスとして開放され、短期滞在客をもてなすためのスタッフによってにわかホテルに仕立て上げられる。18世紀中国の土楼民居をそっくりそのまま移植した碧梧荘の土楼は、外見をほぼそのままに保つため、最低限のイノベーションしか施されてはいない。充分な快適さを保つには、人手がたっぷりと必要だ。碧梧荘では、近代以降のテクノロジーを感じさせるものは皆、周到に人目から隠されていた。客人は茶園と桑畑に囲まれ、清水豊かな田園風景のうららかさだけを享受できる。
幅の広い河をさかのぼってこの桃源郷を訪れるのは、女主人の友人やごくお気に入りの取り巻きたち。相応しい衣服を整えるためのクチュリエやメイクアップアーティスト、祝いのための酒肴や菓子を振舞う役割のシェフやパティシエといった裏方の人々。
それから。
青や黄色、羅の幟が風に長くたなびく日、一隻の舟が碧梧荘にたどりついた。十二日節の前日、まだ他の客人がやってくるよりもずっと早く訪れた客人を、碧梧荘の女主人、また、舘に使える使用人が総出で出迎える。
先に船を降りてきた護衛の軍人たちは、皆、黒一色の軍服に身を包んでいた。中でもとりわけ高い身分を示す銀粒の徽章を三つ襟に止めた男が、初老の男が船を降りるのにうやうやしく手を貸した。舟を降りた客人に手を差し出したのは、ほっそりとした体をゆったりとした絹の漢服(ドレス)でつつんだ女主人。男のうれしそうな顔。
「ひさしぶりだね、マリーナ」
それが、ママの名前だ。
「お久しぶり、パパ」
「ずいぶんと顔色もいいようだ。安心したよ。さて、今年はよい茶が出来たというが、本当かね? よかったら話を聞かせてくれないか」
「あまり大したお迎えはできないかもしれないわ、もう何日も前から十二日節の準備で大騒ぎだったから。もう皆、毎年毎年、おんなじことで手間取ってばっかりなんだもの」
二人は歩き出す。すこし離れた陶橋に座って足をゆすりながら、マリナスはその様子を眺めていた。
あの人はママのお父さんだというだけで、マリナスにとっては何のかかわりあいもない。向こうだってマリナスのことをどう思ってもいないだろう。高い襟に銀粒を止めた軍装の男たちは二人からすこし後ろから、一分の乱れもない足取りで進む。と、その中の一人が、ほんの一瞬、マリナスのほうを見た。
マリナスはぱっと頬を赤くすると、陶製の橋から飛び降りた。
ママは自分のお父さんを迎えるためにお屋敷に戻らないといけない。その間に同行者は別の宿舎へと案内される。先回りして屋敷の右翼にある棟に回り込み、大きな桂の木の上によじ登った。何やらの支持を部下たちに下し、それぞれに解散するのを確かめた後、マリナスは木の上で大声を上げる。
「パパ!」
木の上を振り仰いで、「マリナス」と軍服の男が――― パパが笑う。マリナスは木から飛び降りる。パパはがっしりとマリナスを受け止めてくれる。
「パパ、久しぶり! 元気だった?」
「もちろんだとも。会いたかったよ、マリナス」
パパは胸板も肩もがっしりと厚く、マリナスが背伸びをしても、頭の天辺はやっと胸のところにとどくぐらい。まるで岩から削り出したように武骨で頑丈な男が、けれど、マリナスを見るときだけ、ほんのすこし目の色を柔らかくしてくれるところが好きだった。
両脇の下に手を入れてマリナスを抱き上げ、「ふむ」とパパが首をかしげる。「それは、今年の十二日節のために仕立てた晴れ着かな」
光沢のある青い絹地、幅の広い袖。襟や袷には、縁取りに錦織の布が縫い付けられている。黄色い絹に青蓮を縫い取ったちいさな沓。マリナスはぷうっと頬を膨らませた。
「僕、いらないっていったのに!」
パパは声を上げて笑った。
「ママを喜ばせるためだと思って我慢しなさい。だが、その服を汚すわけにもいかないな。あとで着替えてきた方がいい」
「! 釣りにいくんだね?」
「ここの鯉を食べるのを、一年も楽しみにしていたんだ。十二日節が始まってからは毎日ごちそうだからね、暇をいただけたらさっそくいつもの場所に行こう」
マリナスは歓声をあげて、パパの頭に抱き着いた。
ママのことは大好きだけれど、一年に一度しか会えないパパはまた別の『特別』だ。十二日節が終わるまでの短い間、パパがずっとお仕事で忙しいのは分かっているけれど、ほんのすこしでも時間があったら一緒にいてくれる。マリナスと遊んでくれる。
―――それに、ママも一緒だったら、一番よいのだけれど。
「さて、マリナス。不器用なパパにお茶を淹れてもらえるかな」
パパは、マリナスを腕に抱いたまま歩き出す。足取りはがっしりとして揺るぎない。
「うん! あっ、パパ。ぼく、ディディに会ったよ」
「―――ああ、彼にかい」
「ディディはパパの知り合いなんでしょう? 『ユウキタイ』なんだってママが言ってた。ぼく、ディディみたいな人って初めて見た。鳥の羽みたいな髪の毛しててさ、目は鳩みたいに桃色でさ」
「マリナス」
パパの声の調子に、すこしだけびっくりする。パパはマリナスを地面におろすと、しゃがんで目線の高さを合わせた。
「彼は、ママとも話をしたのかい? ママは彼のことをどう言っていたのかな」
―――あの人の言ったことは、わすれなさい。
「ぼく……ぼく、わかんない」
マリナスは口ごもる。パパの目をまっすぐに見ることができなかった。その様子をどう思ったのだろう。パパはやがて、「そうか」と静かに答えて、マリナスの頭を大きな手で撫でた。
碧梧荘を見下ろすところに作られたお屋敷は、荘園の人々が暮らすような環型をしてはいない。整然と石畳を敷き詰めた中庭と、その周りに巡らされた柱廊。屋敷の前には満々と清水をたたえた池があり、そのまま滝となって山の下まで流れ落ちている。
卓子の上に準備されていた細工茶を茶杯に移し、湯を注ぐと、茶葉が杯の中で牡丹が咲くようなかたちに花開く。湯瓶を片手に持ったままそっと振り返ると、パパは中庭のほうに目を向けたまま、何かを考えている様子だった。
ママはたぶん、ママのお父さんとお茶を飲みながら、今年一年のいろいろなことについて話をしているところだろう。会いに行けばいいのに、とマリナスは思う。それとも、僕がパパの手を引っ張っていって、ママとそのお父さんのところへ行けばいいのかしら。
でも、とマリナスは茶杯の中を見下ろす。僕はほんとうは、一緒にお茶を飲むこともできない。
パパとママのために、僕は、どうしたらいいんだろう。
十二日節の夜。
碧梧荘のあちこちで、ささやかに花火を打ち上げられている。
夕暮れ、河水の表にゆらゆらと灯りをうつしながら、何隻もの舟が外からの客人を運んでくる。旅路の終わりに船べりをたたく波の音を聞くのも、舳先に掲げられたともし火が金の火の粉を振りまくのも、ノスタルジーの箱庭でしかない世界へ没入するための心地よい入り口となるだろう。
石の艀に舟がつけられれば、白い麻の袍、広い袖の旗袍を着た碧梧荘の住人たちが迎えてくれる。熱く薫り高い茶の一杯でもてなし、旅路の疲れをいたわるために砂糖漬けの棗や山査子、塩漬けの楊梅を差し出してくれる。今日のママの髪はごく薄い被膜の干渉で青味がかった色に染められ、ひとみは蛍火のようなかすかな光をたたえていた。再会を喜ぶ友人たちは『天然の絹』の美しさをほめたたえ、『自然に育てられた茶』の味わいに感嘆する。
茶畑、桑畑の角に植えられた木犀の花は甘く香り、あちこちに掲げられた錦紗の幟には蛍光糸が織り込まれ、おのずからほのかに光りながらたなびいていた。金の火花を振りまきながら、花火を手に走り回る子どもたち。小さな窓の内側からあたたかく懐かしい光を漏らす円楼。
その何もかもに、細やかな心遣いが行き渡っている。わざわざ人の手を使うことで、相応しい技術を用いる数倍、数十倍ものコストを惜しげもなく支払っている。水墨画のような、それも、現代の人間の趣味に合わせて描きなおされた画のような景色の中で、住人たちが普段はどのような生活を送っているかに思いをはせるものはいないだろう。
すべてが作り物なのだ。細部まで心を砕き、技術の粋を尽くし、思いやりを込めて作られた、作り物。
(僕とおんなじだよね)
彩陶製の古く大きな獅子、ふたつ並んで屋根を守っている獅子の陶像の背中に腹ばいになって、マリナスはぼんやりと思う。ここから見下ろせば、段々畑のあちこちに淡く灯されたともし火、水路の上に浮かぶ船が水面にうかべた双子の光が、星々のように遠くに見えた。どうせ今夜は、ママはお客様のお迎えで忙しい。ママのお父さんが来ている以上、ほんとうの子どもではないマリナスの出番は今日にはない。お客様たちの前に出て愛想を振りまき、晴れ着のお披露目をするのは明日以降のお役目だ。
(明日は、緑芽十片の祝い。月桂の宴)
雲龍橋に卓子を並べて茶を楽しみ、湖水に船を浮かべて月を楽しむ。考えてみれば、この碧梧荘そのものが、年に一度のもてなしのためにあるようなものかもしれなかった。お客様たちにとっては、この碧梧荘そのものが、年に一度、過去にさかのぼったかのような光景を楽しむための場所でしかない。
(いやだな)
どうしてこんなことを考えてしまうんだろう。もうすぐ、壊れてしまうといわれたから? ファベルジェ・ドールは死を恐れないように作られているといわれたのに、こんな風に未練を感じる理由が分からなかった。
いったい何が惜しいというの。この景色を来年はもう見ることができないというのだったら、どうして楽しもうと思えないの。見とれることができないの。
一度閉じたひとみを、また開く。そうして眼下を見下ろして、ふと、マリナスは気づく―――
皆が客人を出迎えて留守にしているはずの屋敷の一室に、灯りがともっている。
パパの部屋に、ディディがいる。
「それでは、マリナスの修理は、もう間に合わないと?」
「彼は稼働し始めて今年で八年、ファベルジェ・ドールとしてはけして短い期間ではありません。それにRef.5678は最初から生産数の少ないモデルでした。私の把握している限り、違法に市場に流出している同モデルは存在していません」
それは、交換用のパーツを手に入れることは、不可能ということだ。
男は椅子にふかぶかと身を沈め、肺の空気をすべて吐き出すようなため息をついた。卓子を挟んだその正面に座って、人形修繕士の口調は淡々としたものだった。
「では、同メゾンの他モデルのパーツで代用することは?」
「手に入れば、可能でしょう。ただし素体を保持しているオーナーを見つけてもパーツを譲ってもらえるとは限りませんし、裏市場で流通しているものを探すとなると、どれだけの対価を求められるかわかりません。そもそも、手に入れることができると、お約束することもできませんから」
「……では、代用のパーツを見つけることができたと仮定しよう。その場合、あと何年もたせることができる?」
「二年か、三年。型違いのパーツでは、どの道、すぐにほかの部分に負担がかかって再び故障が発生します。ファベルジェ・ドールというものはもともと、長い間稼働させ続けるためにつくられているわけではないのですから」
沈黙。
「彼でなくてはいけないのですか? 今のうちに新しいモデルの購入を検討されては?」
「……そうでなくては、妻は納得しないだろう。あれはマリナスを、愛しているから」
「それが、ファベルジェ・ドールの役割でしょう。人から愛されることが」
「いいや、君にはこの気持ちはわかるまいよ。……マリナスを妻に送ったのは、私だ。私たちには、本当の子どもでは不十分だったから」
二人には、実子がいないというわけではなかった。
昔ながらの方法で、母体の中で受精をさせることによって授かった子どもではなかった。そうすることができない体に生まれついた妻だった。けれども二人の遺伝子を受け継いだ子どもを準備することができたとしても、それが、夫婦にとって必要だった『子ども』であるとは限らない。
「私たちには、あの子でなくてはならない。父のことも、母のことも、分け隔てなく愛してくれる子ども。そうでなくては私たちは、家族のかたちでいられない」
妻として夫を愛することができなくとも、愛しいわが子の父として親しむことはできる。ろくに愛情表現をすることができない妻であっても、わが子の母親に対しての愛情を示すことはできる。
そういう家族の形のために、マリナスがいる。
「方法は、ないわけではありません」
しばらくの沈黙の後、人形修繕士が口を開いた。
「元からパーツごとに独立した機構を持たせ、たっぷりと余裕を持たせて相互に連結し、人体を模した恒常性を作り出そうというのがファベルジェ・ドールの根本にある設計思想です。環境によって負荷を受けた分だけやわらかくたわみ、その形に変形し、変化してゆく在り方を受け入れる。それはとても、人体と似ている」
ひとつひとつの臓器が個性を持ち、どの爪の先端からどの神経謬に至るまで、お互いにお互いを参照しあうための機能をもたない部分はない。そうやってゆるやかに連結し、干渉しあうことにより成立する人体。そういったモデルを元に、完全機械製のボディが成立している。
「一定の期間でモデルの変更が行われる、最初から寿命が存在するということ自体をコンセプトの一部にしているというだけで、本来のファベルジェ・ドールはとても柔軟にできているんです。あなた方は彼をほんとうのわが子のように感じている。成長することのない永遠の子どもを。なぜだと思いますか? 彼が、あなた方に合わせて変わることができるからです。生き物でもないのに、環境に適応したかたちにあり方をかえてゆくことができる。だから、今のかたちにこだわりさせしなければ、マリナスを延命させることはできる」
「それは、どうやって?」
「新しい体に、心を移してやればいい。具体的には頭脳だけを残して、体を『有機体』に交換すればいい」
人形修繕士は、いつもの重たいマントを着てはいなかった。彼は手袋をゆっくりと外した。そうすると、両手の指のそれぞれ一本づつが、手袋のほうに付属した人工の補助指だったということがわかる。
ほっそりとした長身は、おそらくは鳥類のものを元としていた。手の指は四本しかなく、丸い瞳孔の底では照膜が金粒のように光をはじいていた。ちいさな頭蓋にはりついた短い髪は、青味がかかった光沢をおびていた。
人ではありえない姿だったが、美しかった。それが有機体だった。作り物ではあっても、赤い血が流れ、体温があり、心臓が鼓動していた。生きていた。
男はしばらくの間、目の前にすわった有機体を見つめていた。……やがてそっと目をそらし、首を横に振った。
「いいや、できない。それぐらいならば、壊れるままにしてあげたほうがいい」
「何故です? 愛しているのでしょう、マリナスを。中には最初から同型のファベルジェ・ドールを同時に購入するオーナーもいる。交換用のパーツを確保するんです。メゾンの意図には添いませんが、ファベルジェ・ドールの稼働期間を確保すること自体はよくあることなんですよ」
「愛しているよ、だからなんだ。あの子は、あの体と心の二つをまとめて、初めてあの子だと言えるんだ。たとえ心が同じだったとしても、ファベルジェ・ドールでなく有機体になってしまったら、それはもう、私たちのマリナスではない」
人形として生きているということと、生き物として生きているということは、まったく違う。男は低くつぶやいた。
「ありがとう、ディディ。相談に乗ってもらえて助かったよ。それと、交換のパーツは探し続けておいてほしい。いくら可能性が低くても、あの子を修理するほうに私は賭けたい」
「それは、彼が壊れてゆくのを、このまま見過ごすという意味ですが、本当に良いのですか?」
「質問に質問で返してしまうことになるけれど。それでは、マリナスを有機体にしてしまうことを、本当に『直す』といってもよいのだろうか?」
私たちが愛してきたマリナスは、『あのマリナス』だ。
「八年間、あの子はずっと子どものままだった。朝起きれば一番最初に母親に会いに行き、頬っぺたにキスをねだる。私の腕をゆすり、抱き上げてくれとねだり、一緒に釣りに行った帰りには背中の上で寝てしまう。私たちが知っていたのは、そんなマリナスだけだった。けれど、もうすぐマリナスは、死んでしまう……」
男は顔を上げた。どこか疲れたように、ほほ笑んだ。
「おそらくはそれで構わないんだよ、ディディ。ファベルジェ・ドールは死ぬことができる人形だ。私たちはそれを、受け入れることができるはずだ」
……。
パパが部屋を出て行ったことを完全に確認するまで、ディディは、部屋の窓を開けなかった。窓のすぐ下に膝を抱えて座っていたマリナスに声をかけることもなかった。
「どこから聞いていたんだい、マリナス」
「最初から、全部ね」
開けてもらった窓から、部屋の中に入り込む。卓子の上では手を付けられないままだった茶が冷めていて、椅子に敷かれたクッションにはまだパパの体温が残っていた。ディディが冷めた茶をゆっくりと口にするのをぼんやりと眺めながら、マリナスは、さっき聞いた会話を頭の中で反芻した。
「パパを恨んだかい?」
「どうして?」
「あの人は、君のことを生かす方法があると聞いたのに、人形でなくなるよりは死んでほしいと言った。ひどい話だとは思わなかったのかい」
「ひどい話だったの?」
だってマリナスは、死を恐れることができるようには作られていないのだ。けれど、とマリナスは思う。でも、何もかもが『こわくない』というわけじゃない。
「ぼく、死ぬことはこわくない。でも、ぼくがいなくなったら、パパとママがどうなっちゃうのかなって思ったら、こわい。だってママにはぼくしかいないし、ぼくがいないとパパはママの傍にいられない。なのに、もうすぐ壊れないといけないんでしょう? ぼくは人形のままで壊れてもいい。でも、いなくなってしまうことは、こわいパパとママがだめになってしまうのは、こわい。一体、どうしたらいいの?」
どうしたらいいんだろう。どうしたらいいんだろう。頭の中が『どうしたらいいんだろう』でいっぱいになって、内側からパチンと弾けてしまいそうだった。膝の上でズボンの生地をきつく握り締めているマリナスを、ディディはしばらくの間、黙って見つめていたけれど。
「ファベルジェ・ドールは皆、同じことを言う」
低いつぶやきに、マリナスは顔を上げる。ディディの顔が、泣き出しそうにゆがんでいた。
「『死ぬことはこわくない』『人形のままで壊れてしまうがいい』……そして人間も、同じことを言うんだ。君たちが生きてゆくよりも、天使のように静かに死んでゆくことを望んでいる」
わかっている。それが『きみたち』の在り方だから。
「ファベルジェ・ドールは、徹底して、誰かから愛されるためだけに存在しているんだ。愛されるために生きて、愛されたままでいるために壊れてゆく。それ以外の在り方になってまで生きていたいなんて、誰も望みはしない」
でも、とディディはいう。
「きみは、『いなくなってしまうことがこわい』と言うんだね」
マリナスははじめて、真正面から、ディディのことを見たような気がした。
人間ではなく、人形でもなかった。おそらくは男でも女でもない。もはや鳥ではなく、人でもない存在であるディディ。
ファベルジェ・ドールの頭脳は、有機体と相性がいい。本来は数年の寿命しか持たないものを、その数十倍もの時間、延命させることができる。
けれどもファベルジェ・ドールはの価値は、あくまで、愛されるためだけの子どもであること。他の存在になってしまったら、もう、存在する価値はない。
「もしかしてディディも、『ぼくたち』だったの?」
「ああ」
ディディはゆったりとほほ笑んだ。
「わたしは……『ぼく』には、双子の弟がいた。弟は人間で、病気だった。弟が死んでしまったとき、ぼくは、いなくなることはこわい、と思った。だって、弟は愛されていたからね。ぼくまでいなくなってしまったら、本当の意味で弟のことをおぼえているものが、いなくなってしまう」
けれども、もはや死なない体になったディディは、その瞬間に人間だった弟の忘れ形見ではなくなった。必要とされていたディディはファベルジェ・ドールのディディであり、有機体のディディではなかった。
「今までぼくが出会った仲間たちは、皆、有機体になるよりは、天使のように死んでゆく方を選んだ。みんな分かっていたんだ、自分の存在価値はただ愛されることだけなんだって。ぼくは間違っていたんだよ。死んだ弟を、愛していた。愛されるためだけに生まれてきたはずなのに、道を、踏み外したんだ」
マリナスは、そっとディディのそばに近づいた。短い腕を首に回してだきつくと、羽毛の肌触りを持った髪が頬に触れる。ディディの髪からは、小鳥の背に鼻をうずめたような匂いがした。かすかに焦げ臭いような香り。
「ディディ、ぼくを有機体にして」
桃色のひとみがマリナスを見つめる。マリナスはほほ笑んだ。
「きっとね、パパとママが愛しているのは、『ファベルジェ・ドールのマリナス』なんだ。でもぼくは、二人のことを愛してるんだ」
湖水のほとりで、金色の花火が挙げられる。ぱぁん、と弾けた花火が金色の火花を夜空に散らし、月琴や笛、はるか前近代を模した衣装の楽師たちの演奏がいよいよ高まる。きらきらと光りながら降り注いだ火の粉が、湖の水面に映った星空に溶け込むようにして消えてゆく。
青い漢服を着た少女たちが、小篭に入れた小さな花束とフォーチュンクッキーを配っていた。クッキーを砕けば、占いの文句の代わりに様々な景品のあたるくじが出てくる。あちこちから小さな歓声が聞こえ、また、わっと笑い声が上がる。
楽師たちを乗せた船は河の表に浮かべられ、宴の席は瓦屋根のついた雲龍橋の上に移されていた。十二日節は本来は天主教の祭り、東方の三人の博士が救世主の誕生を祝う旅に出たことを祝う祝祭だったというけれども、今ではほとんどその由来も忘れ去られている。それでもいくつかの習わしは残っていて、このフォーチュンクッキーもまた、そのうちの一つだった。クッキーのうちひとつにはくじの代わりに陶器で作られたちいさな人形が入っており、それを噛み当てた人はその日の王様になる。どんな願いもかなえられることになる。
宴の席で騒ぐうちに、少々酒を過ぎてしまったらしい。喧騒から少し離れた橋のたもとで石の手すりに持たれていた女主人のストールの裾が、ふいに、うしろから控えめに引かれる。振り返るとそこには愛らしい顔立ちの少年がいる。錦織の縁取りがついた青い服、黄色い絹の沓、黒髪に結わえた金の小鈴。
「マリナス?」
「ママ、これ」
控えめに彼女の手をとり、何かを握らせる。確かめてみると、それは、彩色された陶器で出来た、ちいさな鶏だった。女主人は思わず笑みこぼれ、腕を伸ばし、マリナスを抱き上げた。
「これ、あなたが引き当てたの。すごいじゃない、願い事を言わなくっちゃ」
「ううん、ぼくはいい。それ、ママにあげる」
だからその前に一個だけ、ぼくのお願いを聞いて。マリナスは両手で、女主人の首に抱き着いた。
「ぼくのこと、絶対に忘れないで。ぼくがもしいなくなっても、ずっと、一番好きなままでいて」
ふと、胸を突かれたような心地になり、女主人はマリナスのことを抱き返した。つやつやとした黒い髪を撫で、「もちろんよ」と耳元にささやきかける。
「ママはマリナスのことを、一番愛しているわ。永遠に、忘れたりしない」
それを聞いてマリナスは、……ファベルジェ・ドールは、花が咲きこぼれるように笑った。
「よかった。ありがとう、ママ」
『ママ』の頬にキスをして、マリナスはその腕から滑り降りる。陶製の鶏をもう一度ぎゅっと手のひらに握らせると、ぱっと身をひるがえす。そのまま茶畑の間に続く細い道へと走って行く。急に不安になって、「あんまり遠くに行っちゃダメよ」と声をかける。もう時計の針はとうに天辺を越している。子どもが外を出歩く時間じゃない。不自然なことなんて言っていない。呼び止められたマリナスはもう一度だけ振り返ると、笑顔で大きく手を振った。
「うん、ママ。またね、大好きだよ!」
少年の姿は、闇の向こうに消える。胸騒ぎだけが後に残されて、我知らず胸を手で押さえる。
こんな田舎はもううんざりだ。何千回目、何万回目になるか分からない呪詛を胸の中だけで吐きながら、ズゥドゥは銀のカートを押す。
碧梧荘に生まれた人間は、命を受けたその瞬間から、碧梧荘の所有物のようなものだ。茶畑と桑畑しかないような辺境で暮らすことを強いられ続け、けれど、外で暮らすことができるような教育もろくに受けることができないから、ここを出てゆくこともできない。
最初から地球環境の中で暮らせるという環境を希望して、あるいは安定した生活に惹かれてここで働くことを選んだ大人はまだいい。けれどもズゥドゥのように最初から碧梧荘に生まれ、それ以外の進路など選びようのない人間にとってはここは牢獄だった。そうして、そのことを思い知らされる十二日節は、ズゥドゥにとってもっとも忌々しいイベントだった。
外から来た人間たちの洗練された身なり、漏れ聞こえる外での生活。一生茶葉を揉み、蚕から糸を引き、あるいは碧梧荘の持ち主やその客人のためにお茶を運び続けるような生活などまっぴらだった。
けれども、ここを出て行ったところで、ルゥルゥに何ができるというのか。
もとはひとつの行政圏だった土地を丸ごと自分の娘に与えることができるような殿上人、その途方もない富がこの『碧梧荘』という形で現れているのを見ていると、この世界のどこに居ようが同じではないか、という諦めが重たく湧き上がってくる。だから結局のところズゥドゥは今年も、重たい気持ちでカートを押し続けていることしかできないのだった。
客人からは見えないように周到に偽装された使用人用のルートを歩きながら、ふと、花火が上がる音を聞いて、窓の方に目を向ける。と、空を一瞬あかるく照らし出し、すぐにも消える光の中で、奇妙な影を垣間見たように思う。茸のような丸屋根を持った円楼――― 前時代的アトラクションのひとつ――― の屋根の上に、何かの影が見えた。あんなところにどうして? 思わず足を止める。ふたたび花火が上がり、空を照らす。
今度こそ間違いなく、ズゥドゥは見る。
円楼の屋根の上に、人のような形をした『何か』がいる。
枝を重ね合わせ、高く伸びた木犀の樹に上る。枝が揺れるたびに白い花が砂糖がこぼれるようにパラパラと散った。花火が上がり、誰かが声をあげるのが聞こえた。マリナスの姿を見つけたのだ。何しろこの派手な青い服だ、下から見ればさぞかし目立つことだろう。そのほうがむしろ好都合だ。枝から枝へと伝い、円楼の屋根へと移ろうとした瞬間に、沓の底がずるりと瓦に滑る。誰かの悲鳴が響く。だが、マリナスの腕はもうがっしりとした手につかまれていて、すぐにも屋根の上へと引き上げられる。
ディディ。
ディディはあの、深くスリットの入った黒いマントを着ていた。重たそうなブーツを履いていた。細く引き締まった腕がマリナスを抱き上げる。二人は顔を見合わせてにっこりとする。……そうしてディディは、屋根の上を、走り出した。
足元で瓦が音を立てる。ストライドが次第に大きくなる。身体をひくく屈めると、たわめられた足に力がたくわえられてゆくのをマリナスは感じた。振り落とされないように、力一杯にディディの体にしがみつく。
「止めて!」
ふいに、悲鳴が聞こえる。ママが、段々畑の間の細い道を走ってくる。
「止めて! ……マリナス!」
けれども、逆にその言葉に背中を押されたように、ディディの足が早くなる。最後の一歩が大きな音を立てた。円楼の屋根の淵で膝がクッと深く沈み込み、虚空へ向かって強く体を蹴りだす。背中のマントが大きく翻り、深いスリットの間から何かが膨れ上がるように広がって。
翼が、羽ばたいた。
地上から聞こえる驚きの声、悲鳴。羽渡り数メートルほどもある翼は有機体の特有の筋力によって羽ばたき、そのたびに風を強く掴む。見る間に高度を上げてゆく。その胸元にしがみついていたマリナスの靴が片方脱げる。もうはるか遠くなった地面に向かっておちてゆく。地上から向けられたレーザーポインターが線条のように奔る。その間をかいくぐるようにして、ディディは螺旋を描くようにしてはるか高くへ上昇してゆく。翼が上昇気流をしっかとつかんでいた。同時にとおく、撃つな、という声が聞こえる。
「撃つな、マリナスに当たる!」
ママの泣きわめく声が聞こえ、パパが必死にそれを押しとどめようとしている姿が見える。―――見えた、気がする。空気が冷たく薄くなる。風が切り裂くように吹き付ける。マリナスはぎゅっと目を閉じると、ディディの胸にしがみつく。碧梧荘が、美しい緑の段々畑と環を描いた円楼の屋根が、いくつもの橋がかかった河が、はるか眼下を過ぎ去ってゆく。
そうしてマリナスは、ディディと話したことを、思い出していた。
―――ぼくを連れて行って。ディディと同じ有機体にして。今の体を売れば、できるんでしょう?
―――確かに、ファベルジェ・ドールの素体は高く売れる。君一人分の有機体を調達して、たっぷりとおつりがくる。でも、ほんとうにそれでいいのかい?
―――だって、ぼくがいなくなったら、パパとママはずっと一緒にいてくれるでしょう。
―――『死んでしまったぼく』のことは忘れてしまえるかもしれない。でも、『いなくなってしまったぼく』のことだったら、取り戻すまで、絶対に忘れることはできない。
愛されるためだけに生まれてきた。だからこれからも、愛されるためだけに生きてゆく。そのためならばファベルジェ・ドールの体を捨て、有機体となっていつまでもさ迷うことになっても、かまわない。
「マリナス、どこへ行こう?」
耳元で、ごうごうと風が鳴っている。頭上では月が真昼のようにあかるく、すでに雲海が眼下にある。
「どこでもいい。遠くがいい。連れてって、ぼくとディディにしかいけないとこに」
「……わかった。どこにでも連れて行ってあげるよ。だから泣かないで、マリナス」
そう、いわれて初めて、マリナスは自分が泣いているのだということに気付く。
はるかに月光の照らす雲海の上、夜空はどこまでも透き通りながら頭上へと広がっていた。吹き付ける風は肌を切るほどに強く、空気はうすく冷たかった。
マリナスはディディの首にしがみつき、黒い羽毛に顔をうずめた。そして声を上げて、泣いた。
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