リトル・ヴィシュヌ

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リトル・ヴィシュヌ

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リトル・ヴィシュヌ

※梗概 (展開を知りたくない方は飛ばしてください)

女子高生のシイカは、夜の学校で、あこがれの同級生のソウマくんが校舎の屋上から飛び降りるところを目撃した。
 地面に着いたところは見えなかったが、次の日にソウマくんは傷一つなく登校してきた。
 ソウマくんはメガネで、宇宙が好きで、引っ込み思案だが、たまらなく可愛かった。対してシイカは台風のような性格で、ソウマくんには苦手に思われていたが、シイカはソウマが好きでしょうがなかった。

ある日、ソウマくんがシイカを呼び出す。
 ソウマはヒンドゥー教の神、ヴィシュヌの化身だと名乗った。正確には、ヴィシュヌの精神が乗りうつっており、ソウマの精神との二重人格になっていた。メガネをつけるとソウマになり、外すとヴィシュヌになった。
 ヴィシュヌは何千年も精神体で過ごし、乗り移った生物の寿命が近づくと、次から次へと乗り移っていた。人だけでなく、動物や魚、植物など様々なものに乗り移っていた。ヴィシュヌの伝説が宗教として残っているのは、そうした昔の記憶が残っているからだという。(昔はヴィシュヌのような神々はたくさんいたが、地球を捨てて宇宙に出ていったらしい)。ヴィシュヌはシイカに、かつて宇宙に旅立っていった、神々の仲間のもとに連れて行ってほしいと頼む。

 シイカは学校の教師を頼り、ヴィシュヌについて調べ始める。彼はヒンドゥー教の経典に、さまざまな化身に姿を変えて登場していた。そのひとつ、叙事詩ラーマーヤナでは、『王子ラーマ』として登場している。ラーマ=ヴィシュヌは、妻であるシータ姫と暮らしていたが、ある日、羅刹王ラーヴァナによってシータを連れ去られてしまう。ラーマは彼女を助けるため、多くの英雄を仲間にしてラーヴァナ軍に戦いを挑み、見事ラーヴァナを倒してシータを救う。
 しかし、シータ姫は長く囚われの身であったため、ラーマ王子は彼女の貞節を疑ってしまう。彼女は潔白を証明するため、火炎に身を投じ、大地に飲み込まれ、悲運の最後を遂げる。シイカは、ヴィシュヌ=ラーマはそのシータ姫に会いたいのではないか、と推測する。 
 数日後、ヴィシュヌはシイカを催眠にかけ、雨中にさまよっている王女シータの魂を彼女に憑依させる。ヴィシュヌの本当の目的は、シータにかつての過ちを謝罪すること、そして、王女シータの魂をシイカの体に乗っ取らせ、現世に呼び戻すことだった。シイカは抵抗するも、シータの魂に体を乗っ取られる。しかし、シータは、長く現世にいられないことをヴィシュヌに告げ、宇宙に戻ってしまう。激昂するヴィシュヌ。
 シイカはシータ姫の意識を読み、理解した。ヴィシュヌが課せられた本当に使命は、人の世界に残り、人間たちを宇宙に進出させることだった。シータ姫はそのために、ずっと宇宙で待っているという。シイカの役割はヴィシュヌ自身を導くことだった。シイカはソウマとヴィシュヌに使命を話し、ともに宇宙開発の道に進むことを誓う。

 

 リトル・ヴィシュヌ

 

あたしの好きな人は、神様だ。
 神様っていうのは、神様みたいに優しい人って意味じゃなくて、本当に神話に出てくる神様なの。
 だからと言ってありがたいわけじゃなくて、やることなすことスケールがでかいってだけだけど。

あの日の夜、あたしはあこがれのソウマくんが、真夜中の学校の屋上から飛び降りるところを見た。真っ暗な夜の中で、晴天の霹靂だった。 
 あたしの家と高校は目と鼻の先で、その夜は親と学校の成績についてケンカして、家にいるのが嫌になってぷらぷら歩いてたわけだけど。
 10月の夜の12時、コンビニで買ってきたアイスをくわえて、高校の塀沿いに歩く。うちの高校は、正門方向はでかいお堀に囲まれていて、視界が開けている。田舎だし、あたりまえだけど人っ子一人いない。LED街灯の白光が辺りをビカビカ照らしている。
 変な音を聞いた。どすん、というような、どさん、というような。ちゃんと耳をすませていないと聞こえないような音だった。散歩がてらにグラウンド方向に回る。また聞こえた。ずざん。
 グラウンド方面は塀じゃなくてフェンスになっていて、植えられた木々で校舎が見えない。でも、ちょうど見えにくいところに隙間があるのあたしは知っている。あたしはそこから中を覗いた。グラウンドの向こう、校舎の部屋にはどこにも明かりがついていない。
 けれど、あたしは校舎の屋上に人影を見た。屋上はフェンスでぐるりと囲まれているのに、あたしはその人影が誰なのかがわかった。あたしの乙女レーダーが最高感度になっていたのかもしれない。クラスメイトの、あたしの好きなソウマ君。
 そのソウマ君が、フェンスを乗り越えて、屋上から飛び降りた。
 あたしは頭をガツンと殴られた気がして、手に持っていたアイスを落っことしてその場にうずくまった。あんな屋上から飛び降りて、無事ですむわけがない。ソウマくんはとびおりて、し、し、しん、いなくなった。この世から。
 と、ここまで考えて、はたと気がつく。またグラウンドから、ずざん、と音が聞こえた。あれ、生きてる? そういえば、さっきから何回もどすんどすん聞こえてるんだから、何回も飛び降りてる?
 あたしはまたフェンス越しに校舎の屋上を見た。トイレの標識みたいな真っ黒の人影が、まだいた。それも確かに『彼』だった。あたしはぶるっと震えて、木々の影に身を隠した。
 人影は、こちらをみた気がした。それからあたしに向かって手を振った。

 ****

 
「シイカ? 愛しのソウマくんが見えるのにテンション低いじゃん」
 次の日の昼休み。あたしは友達のトモカと一緒に、件の屋上でお弁当を食べていた。屋上はいつもは立ち入り禁止だけど、あたしの手にかかれば侵入は簡単だ。
「んー、なんか変な夢見ちゃって」
 フェンスにもたれかかって、あたしは目を閉じる。あたしはあのあと、何も見なかったことにして、駆け足で家に戻った。夜の屋上に何度も出てくる、飛び降り自殺の人影。そんなの事件とかじゃなく恐怖体験だ。あまりにも奇妙なことがいっぱい起こったから、夢ということにした。今朝学校に来たときも、ソウマくんはいつも通りのように見えた。普通に考えて、あれはソウマくんじゃなかったんだ。あたしの乙女レーダーが誤作動を起こして、なんでもかんでもソウマくんに見えただけだ。だいたい、昨日の夜に誰かが飛び降りていたとしたら、今日学校で大騒ぎになってたはずだ。
 よって、あたしがこの屋上からいつも通り、図書室の窓際の席に座っているソウマくんを眺めても、別にいい。この胸の高鳴りはいつものことというわけだ。
 彼はいつも昼休みにあの席に座って、お気に入りの宇宙の本を眺めている。くりくりした目に分厚い黒縁のめがねがかかり、おかっぱ頭の真ん中につむじとアホ毛。ご飯を食べた後でちょっとだけ眠そう。あたしも昨日はなかなか眠れなくて、今は眠い。船をこぐタイミングが一緒だ。
 はあ、かわいすぎる。
 あんな子が夜中の屋上で、飛び降りなんてするわけがない。たぶん。
「シイカ、あんな一日中、宇宙のことしか考えてないソウマのどこがいいのよ」
「そこがいいのよそこが。あと最高にかわいい」
「でもあんた、微妙に苦手にされてない?」
 そうなのだ。ソウマくんは宇宙が好きで、成績優秀で、おとなしいけど、意外とスポーツもできて、背は小さいけど球技をしてもうまい。そこがまたかわいいっていうか。
 あたしみたいなバカは少し苦手にされている。
 あたしはフォークをくわえて目を閉じた。昨日の屋上の人影を思い出す。あの人間は屋上で何をしていたのだろう。飛び降り、というよりは、空に向かって飛んでいるようだった。
 ソウ、マ。
 ぽつりとつぶやく。透き通るような名前。ソウマ、ソウマ、たった3文字なのに胸が熱くなる魔法の言葉。
「……呼んだ、かな」
 突然、あたしは腕をどつかれる。ぱっと目を開けると、トモカがあたしの腕を揺さぶっていた。顔を横に向けると、今までずっと考えていたソウマ君が目の前に。
 あれ、さっきまで図書室にいたんじゃ?
 校舎の時計を見ると、もう昼休みが終わりそうな時間だった。
 トモカが笑いながら、あたしの腕をぶんぶん振る。
「呼んだ、呼んだよね! シイカ!」
「え、うん……」
 あまりに急な事態だったので、あたしは混乱して、とっさに疑問をつぶやいた。。
「ソウマくんさ、昨日の夜、どこにいた?」
 こんな聞き方じゃまるで警察の事情聴取じゃないの。あたしは何を言ってるんだ?
 ソウマ君は困ったように苦笑した。横でトモカはきょろきょろとあたしと彼を交互に見ている。
「えっと……説明するね。今日の放課後、空いてるかな……」
 あたしの心臓が縮んだ。今日はおかしい日。神様がさいころを振った日。

 

神様はさいころを振りすぎた。
 いくらあたしとソウマくんの仲に進展がないとはいえ、いきなり2人っきりであたしの家に行くことないじゃないか。
 話をするだけなら喫茶店でもいいし、なんなら教室でもよかったはずだ。でもソウマくんは「ふたりっきり」にこだわった。
 ありがとう神様。でも進展が早すぎる。好きな人を部屋に呼ぶって日に、なにも準備してないよ。
 せめて部屋を片付ける時間がほしかった。
「突然押しかけて、本当にごめん。本当に」
 夕方。自宅の2階のあたしの部屋で、ソウマ君は床で頭を下げる。下の階にはあたしの家族もいるんだけど、彼にあいさつさせると面倒なことになりそうだったから、無理やりこっそりソウマくんをこの部屋に押し込んだ。あたしはベッドの上に座って足を投げ出す。
 なんでこんなに積極的なんだろ、と思う暇もなく、ソウマ君は話し始めた。
「えっと……本当言うと、昨日の僕は僕じゃなくて、もうひとりの僕なんです。僕、もう一人の人格にとり憑かれてて、眼鏡を外すと、そっちの人格になるんです」
 あたしは思わず聞き流しそうになって、目を見開いた。
「どういうこと?」
「変なこと言ってごめんなさい。信じられないかもしれないけど、本当なんです。こうやって石谷さんと話そうって言い出したのも、そのもう一人の僕のほうで」
「石谷じゃなくて、シイカって呼んで」
「……うん、とにかくもうひとりのほうが、シイカさん、と話したいって言ってたから、こんなことになってて。でも、そのもう一人のほうが、すごく変なこと言っても、びっくりしないでね」
「変なことって、どんなこと? 私は神様だぞ、とか?」
 ソウマ君は苦笑して、うなずいた。
「もうひとりの僕の名前は、ヴィシュヌっていうんだ。ヒンドゥー教の神様だから」
 
 眼鏡を外したソウマくんは、めちゃめちゃかわいかった。
 くりくりした目がはっきり見えるようになったのは良いのだけど、次の瞬間、ソウマ君は微笑みを浮かべた。
「おまえはこの男のことを好いておるのか」
 急に声の高さまで変わったような気がして、あたしは軽く飛び上がった。
「だが、特別変わった女子ではないようだの」
「……あんた、ソウマくん、じゃないの?」
「先刻も言ったはずだ。我は、そなたらの呼び名で言えば、ヴィシュヌ」
 床に座ったソウマくん(?)は、くりくりとした目をキリッとさせて、そう名乗った。
 ヴィシュヌ? どこかで聞いたような気がする。
「現代では、インド、ヒンドゥー教の神として形が残っておる。万物の神」
 あたしは思わず吹き出しそうになる。さっきまでビクビクしていたソウマくんが、いきなり『万物の神』とか言い始めるから。
「あんたが、ソウマくんのもうひとつの人格?」
「我がソウマにとりついているのではない。この体は我のために生まれてきたのだ。我は何千年も転生を繰り返してきた」
 話がどんどんとんでもない方向になってきて、あたしは頭を抱えた。まさかソウマくんにこんな人格があったなんて。どう考えても頭のおかしい人だ。
「貴様、疑っておるな?」
 ヴィシュヌは立ち上がって、あたしを指さす。
「数万年前、我のひく弓は山を崩し、千の悪魔を祓い、海を引き裂いた。我の目は万物を見通す。おまえが考えていることも、おまえが秘密にしていることも手に取るようにわかる。おまえがソウマを好いていることも、おまえがこの部屋でソウマを想像しながらしていることも」
 あたしは一瞬、記憶のなかをひっくり返して、今までの行動を思い返した。とても言えないことも死ぬほどある。
 ヴィシュヌは笑った。
「そう、その記憶じゃ。いやらしい女子よ。やつが知ったらなんと言おうか」
「ソウマ君に教えたら殺す!」
「残念じゃのう。いまこのときもやつの意識は、我の中で起きておる。我が聞いたことは、ソウマも聞いておる。手遅れじゃ」
 あたしは必死に、いま考えていることを消そうとした。とりあえず別のことを考えて記憶を消す。
「そんなことどうでもいいのよ! なんでソウマくんにとり付いてるわけ? ソウマくんが困ってるじゃないの」
「我には大願がある。かつての友と会うという大願がな」
 ヴィシュヌは自分の手のひらを見つめた。
「はるか昔、この星には我のような神と英雄が多くいた。だが、多くの神がこの星を去り、宇宙に出た。我のようにこの星に残った神々は、長い時の中で使命を果たし、消えていった。宇宙に出た神々は、いまも宇宙で漂っておろう。我は宇宙に出る必要がある」
 あたしは眉をひそめた。だから昨日みたいに、学校の屋上から飛び降りていたというのか。この男、ものすごくバカかもしれない。
「ソウマは我と相性がいい。今まで何千年と転生を繰り返してきたが、ソウマは宇宙に出ることにも興味があるし、体も丈夫だ。我も知覚は宇宙に飛ばせるが、肉体だけはどうにもならん。現代の科学もまるでわからぬ」
 あたしはこめかみを手で押さえる。ヴィシュヌが今までやってきた迷惑行為に、ソウマ君はどれだけ付き合ってきたのだろう。
「宇宙飛行士とやらにとりつこうともしたが、成人にとりつくと、本人が発狂して耐えられぬようじゃ。人というのはもろいのう」
 一体何人の罪のない人たちが犠牲になったんだろう。ヴィシュヌはあたしを見つめた。
「おまえは、我を助ける義務がある」
「なんであたしが」
「おまえは昨夜、学校の屋上に我がいるところを見た。普通、あの距離で我を見抜く人間はおらぬ。おまえには英雄の才がある」
 あたしは眉をひそめた。そんな才能はない。あれはたぶん人影がソウマ君だったからわかっただけだ。あんたはお呼びじゃない。
「我は宇宙にさえ行けば、ソウマから離れてやっても良い。おまえが協力せねば、おまえの秘密をすべてソウマにばらす。我にとっては、ソウマを殺して次の生物にとりついても良いのだぞ」
「あんた性格サイテーね。だからほかの神様もあんたを置いてったのよ」
 ヴィシュヌは少しだけ目を細くした。意外にトラウマなのかもしれない。あたしは首を振る。
「言いたくないけど、全然信用できない。あんたがソウマくんのもうひとつの人格だってのはわかるけど、神様だっていう証拠はどこにあるの?」
 ヴィシュヌは薄ら笑いを浮かべた。嫌な予感。
「ふむ、では証拠を見せよう。目を閉じよ」
 あたしはなんだかすんごく嫌な予感がして、ベッドの上で後ずさった。
 やっぱりヴィシュヌ(って言っても顔も体もソウマくん)は、あたしのほうにずいずい寄ってきて、手であたしのあごをつかんだ。なにすんだこの変態野郎! と思ったけど、これってソウマ君と近づけるからラッキーじゃん? いやいや相手は人格が違うんだよこれってひょっとして浮気じゃないの? 
 とかいろいろ考えているうちに、あっという間にあたしの唇は奪われた。
 あたしはぎゅっと目をつぶった。
 
 夢にまで見た、ソウマくんとのキスだというのに、すぐにそれどころではなくなった。
 いまあたしはベッドの上で、目を力いっぱい閉じて、ソウマくんと熱いキスをしている状態で、両手はどうすればいいのかわからなくてベッドのシーツを握ってる。だけど。
 キスをした瞬間に、なぜか視界がひらけた。ベッドの上でくっつき合ってるあたしたちふたりが、横から見えた。
『一寸の間、おまえの意識に入らせてもらったぞ』
 頭のなかでヴィシュヌの声が響く。いやおかしい。今あたしは目の前にいるのに、なんであたしはあたしを感じられるわけ? あんなに必死に目をつぶってるあたしが恥ずかしいじゃないの。おかしいでしょ。なんでヴィシュヌの声が頭の中で聞こえるの?
 次の瞬間、頭の中が騒音であふれた。部屋の中は静かなはずなのに、外の音、子どもがはしゃぐ声、車の音、地下の音。あわてて耳をふさごうとするけど、それもできない。水の音、虫の声、植物の脈動。これはヴィシュヌが普段聞いている音なんだろうか。もしこれが現実なのだとしたら、どうして今まで無視できていたのかわからない。こんなに世界はノイズであふれているのに。
『外に出る』
 カメラがズームするみたいに、あたしの視界は部屋の壁をつきぬけて、隣の部屋をすっとばして外に出た。お隣さんの家の中まで入っちゃって、おじさんの姿が見えた。そのままずんずん突き抜けていって、学校まで来てしまった。
 意識が上に引っ張られる。学校の屋上が見えて、家々の屋根が見えて、パタパタ飛んでる鳥まで追い越した。最終的にはここらあたりの地域全体が見えて、隣県まで見えだした。むかし旅行で飛行機に乗ったときに、こんな風景を見ただろうか。けど今は、意識一つで空を飛んでるわけで、気を抜いたらまっさかさまに落ちちゃうんじゃないの。落ちるって、何が落ちるんだろう。体はまだ部屋のなかにいるはずなのに? けど体はなくたって、落ちる感覚は感じるはずだ。必死にあたしは目を閉じようとしたけど、まぶたを固定されているみたいに、さっぱり視界は閉じてくれない。こういうの、夜に夢を見ているときに似てるわ。そっか、夢を見ているんだ。だったらさっさと起こしてほしい。あたしの体に衝撃をくらわすとか、色々やったらドキッとしてきっと起きてくれるわ。
 とうとう日本列島ぜんぶが見えるところまで来てしまって、地球だか宇宙だかわからない、青だか黒だかわからないところまで来た。そのままぐんぐん離れていって、月が見えて、火星が見えて、木星が見えた。そこまで来たところで、あたしは急に意識がとんだ。
 昔に戻されていく。星が爆発して、ふっとんで。

 意識がだんだん途切れていく中で、あたしは光を見た。女の人。きれいな人。長い黒髪に赤色のサリーと、装飾や宝石がいっぱい。
 ふと、ヴィシュヌの感情があたしのなかに流れ込んできた。おそらく驚き。息をのむ音が聞こえそうだった。どうしたの、と聞こうとしたけど、その瞬間に緊張が切れて、意識が地球のあたしの家に戻っていった。
 色々あったけれど、一番きつかったのはこの瞬間だった。意識が宇宙から自分の部屋に戻るとき、行きの100倍くらいのスピードで戻されたんだもの。そのままゲロって死んじゃうかと思った。
「戻ったぞ。目を開けよ」
 ヴィシュヌの声を聞いて、あたしは目を開けようとした。でも開かなかった。目は閉じてるはずなのに、脳裏にさっきの宇宙や星の爆発がこびりついていて、これ以上、頭に情報を送ったら死ぬと思った。けど、あたしは普通の、まともな景色が見たくて目を開けた。そこにはいつものあたしの部屋があって、とっくにベッドから降りたヴィシュヌが、びっくりしたみたいな顔であたしを見ていた。
「なかなか特異な女子だの。何千年もとりついてきたが、あのような光景は初めてじゃ」
 ヴィシュヌは感心したみたいに笑ったけど、あたしはそれどころじゃなくて、口を手で覆った。ヴィシュヌの声だけじゃなくて、まだノイズが激しい。戻らない。宇宙が頭のなかでぐらぐら揺れた。やばい。このままじゃ絶対やばい。
 あたしはとっさに部屋を出ようとしたけど、足がぐにゃぐにゃになったみたいに力が入らなくて、四つん這いのまま床に落ちた。床を這おうとしても胃からぐんぐん何かがせりあがってきて、あたしは両手で口を覆った。胃の中のものが飛び出てくる。サイテー。好きな人の目の前で本当にサイテー。

頭上からヴィシュヌの声が聞こえてきて、あたしの意識はそこで途切れた。
「言い忘れておったわ。これは人間には耐えられないのだったな」
 このクソ野郎。

****

 結局そのあと、あたしはまるまる3日間苦しんで、学校を休んだ。目を閉じても耳を塞いでも宇宙の姿やノイズが意識に入り込んできて、ずっと布団の中に閉じこもっていた。家族には風邪だって言っておいたけど、何も食べる気にならなくて、トイレに行くのもやっとだった。家族にそれとなく聞いてみたところ、あの日にソウマ君が部屋に来てたことは全然バレてないようだった。あの後、ソウマ君(っていうかヴィシュヌ)はどうやって帰ったんだろう。
 もしかして、ヴィシュヌはあたしがぶっ倒れることを予想して、放課後にあたしの部屋まで案内させたんじゃないだろうか。もしそうだとしたら、やっぱりムカつく。
 3日ぶりに学校に来ても体がふらふらで、全く授業を受ける気にならなかったから、午前中はずっと屋上で過ごした。少しだけ、教室から聞こえる先生の声や、チョークが黒板を叩く音がはっきり聞こえる気がする。ヴィシュヌにとりつかれて、あたしの感覚がおかしくなってしまったのだろうか。
 昼休みになって、持ってきたお弁当をつっついてると、ソウマ君がやってきた。
「シイカさん。本当に、ごめんなさい」
 ソウマ君は泣きそうな顔になりながら、深々と頭を下げた。かわいいつむじが見える。
「別に、なんてことないよ。大丈夫」
 あたしは首を振る。今でも気を抜くと、あれを思い出して吐きそうになるけど。
「ソウマくんも、あんな宇宙みたいなの見たの?」
「うん、見たのはずっと前の子どもの頃だから、もう慣れたけど……。あのせいで僕は宇宙が好きになったくらいだから、別に良かったけど、最初はとってもつらいよね」
 まじか。あたしは額を押さえる。確かにもっと子どもの頃にあれを見れば、宇宙が楽しくみえるだろう。今のあたしには、宇宙に興味を持つ余裕はない。ヴィシュヌにとりつかれた成人が発狂する理由もわかった気がする。あと10年、歳をとっていたら、あたしは耐えられなかっただろう。
 あたしはお弁当箱をしまって、紙パックのジュースを飲む。
「ヴィシュヌとかいうやつ、なんか言ってたっけ。昔の仲間に会うために、宇宙に行きたいとか」
「うん。僕、ヴィシュヌのその夢をかなえてあげたいんだ」
「なんで? 早く自分の体から出ていってほしいから?」
 ソウマくんは慌てて首を振る。
「ヴィシュヌは、何万年も、ずっとひとりで生きてきたんだと思う。僕だったらすごく寂しいし、すごく悲しいよ」
 あのヴィシュヌに同情できるソウマ君はすごい、と思う。
「たまにヴィシュヌの考えてることが流れてくるときがあるんだ。何万年も1人で生きてきて、ずっとひとりで、何千回も転生を繰り返してるの。
 だから、大変かもしれないけど、ヴィシュヌが何かお願いしたら、できる範囲で、聞いてあげてほしいんだ。シイカさんの体調が戻ったら、また夜にこの屋上に来てほしいって」
 あたしは顔をしかめた。ヴィシュヌには脅されているものの、あたしにできることなんてたかが知れている。宇宙の生き方なんてさっぱりわからない。ヴィシュヌも現代の科学には全然ついてこれてないって言ってたけど、あたしだって似たようなもんだ。
 ソウマ君は申し訳なさそうに視線を落とした。
「ごめん、こんなの、僕のわがままなんだけどね……。本当は僕が聞いてあげないといけないのに、僕、ヴィシュヌの意識を保つのが精一杯で……。体もぼろぼろになっちゃうし……シイカさんは全然関係ないのにね、ほんとにごめん……」
「そんなことないよ!」
 あたしはどさくさに紛れて、ソウマくんの両手を手に取った。メガネの奥のまんまるい目がぴょんと跳ねる。
「がんばってなんとかするからね。ソウマくんはどーんと構えてて。それで終わったら一緒にデートしよ、ね?」
 ソウマくんは顔を真っ赤にして、あいまいに頷いた。あたしは体調の悪さにかこつけてどんどん迫り、彼をフェンス際に追い込んだ。もうこのままキスしてもいいんじゃない? だってもう1回はチューしたんだし。
 と思ったけど、ソウマくんが悲鳴を上げて眼鏡を外そうとしたので、あたしはしぶしぶ引っ込んだ。
 

***

1週間後、あたしはカビ臭くて狭い、学校の図書準備室にいた。ぼろぼろの革のソファが深く沈む。
 30代くらいの男性司書教諭が、小さな机の上に何冊もの本を置く。
「何日か休まれていたようですが、お体は大丈夫ですか」
 なんで知ってんの、とあたしは眉をひそめる。
「担任の先生が心配しておられましたから」
 先生はボッサボサの頭をかく。あたしが授業をさぼるとき、たまに話し相手になってくれる暇人の先生だ。こんなあたしにも敬語を使う。 
「僕はてっきり、石谷さんがヒンドゥー教に入信するのかと思いましたよ。まあ先生も、生徒の宗教は自由だと思いますが」
「違う。早くヴィシュヌのこと、教えて」
 あたしは3日前、この先生に、ヴィシュヌについて調べてもらうよう頼んでおいた。自分で調べようかと思ったけど、資料は大量にありすぎるし、難しくって読めるわけない。調べものには、調べもののプロにまかせたほうがいい。
 先生はあたしの向かいの、古いパイプ椅子に座って、本を一冊開いた。
「理由はやはり聞かせてもらえませんか? 調査の目的がわかったほうが、より解説しやすいのですが」
「どうしても知る必要になったの。そんだけ」
 先生は苦笑する。
「ヴィシュヌは、多神教であるヒンドゥー教の神のひとりです。三大神のひとりで、破壊神シヴァ、創造神ブラフマー、そして維持神ヴィシュヌ。インドでの人気はシヴァと並んで一番ですね」
 あの男のどこがいいんだろうか、とあたしは唇をかむ。
「ヴィシュヌは神単体というよりも、いろいろな化身に姿を変えて、多くの物語に登場しています。化身というのはつまり、神様がこの世界に出てくるときに、何か別の生き物に化けて出てくることです。もともとヒンドゥー教は、多くの民族の信仰をとりいれたものですから、多くのお話があるんです。例えばもともとはただの英雄譚だったものが、じつはその英雄はヴィシュヌが化けていたものだった、というように。そのほうが収まりもいいし、英雄の理由付けにもなります」
 すでにあたしの頭がこんがらがってきている。先生はホワイトボードを使って説明しようとしたが、余計に話が長くなりそうなのでやめさせた。
「特に有名なのは、ラーマーヤナという叙事詩です。聞いたこともあるかもしれません。羅刹王ラーヴァナという男が、自分の兄を倒すため、長い苦行に励みます。それを見た創造神ブラフマーは、ラーヴァナに、人間以外のあらゆる種族に殺されないという保証を与えます。しかしラーヴァナは悪行非道を重ねてしまい、それに困った神々は、ヴィシュヌに人間の王子ラーマとして生まれることを指示します。神々ですらラーヴァナを倒すことができず、人間でしかラーヴァナを止められないからです」
 あたしはごつい顔と手がいっぱいついた、大悪魔ラーヴァナを想像する。ラーマ王子はだいぶイケメン顔の男の子。
「ラーマ王子として生まれたヴィシュヌは、美しいシータ姫と暮らすのですが、あるときラーヴァナにシータ姫をさらわれてしまいます。ラーマ王子は多くの英雄や仲間を引き連れて、最後にラーヴァナ軍を倒し、シータ姫を救い出します。いまでも大変人気の英雄譚ですね」
「そのラーマ王子っていうのが、ヴィシュヌの化身ってわけ?」
 そうです、と先生はうなずく。 
「じゃあさ、もしヴィシュヌが現代に現れて、昔の仲間に会いたいってなったら、一番誰に会いたいと思う?」
「色々いるでしょうね。弟のラクシュマナ王子、猿の仲間のハヌマーン、とても親しかった仲間はいます。ですが一番会いたいといえば、やはりシータ姫でしょうね」
 先生は本を閉じる。
「ラーマーヤナには続きがあります。ラーマ王子はラーヴァナ軍を倒し、無事にシータ姫と祖国に凱旋するのですが、王子がシータの貞節を疑ってしまうのです」
「貞節って、なに」
 あたしは眉をひそめて質問した。先生は苦笑して視線を落とす。
「貞節とはつまり……まあ、シータ姫とラーヴァナ王が、関係を持ったのではないか、ということです。姫は長く囚われの身でしたので、ラーマ王子は疑ってしまったのでしょう」
「なにそれ? クソサイテー。囚われの女の子に対してそれが男の態度? あいつほんとバカ」
「まあ、昔の価値観では、妻は夫に一生尽くすというのが理想でしたからね。シータ姫は王子に貞節を疑われて、潔白を証明するために、神の業火に身を投げます。ですから、ラーマ王子、というかヴィシュヌが、もしそのことを後悔しているとしたら、一番会いたいのはシータということになるかもしれません」
 あたしは頬杖をついて嘆息した。
「それで終わりなの? 全然ハッピーエンドじゃないじゃん」
「まだ続きはあります。そのときはシータは許され、ラーマとシータ姫の間には2人の息子が生まれます。ですがやはり、国民の疑念の声を無視することができず、シータ姫は大地の神に潔白の証明を求め、大地に飲み込まれます。
 ラーマ王子は深く嘆きましたが、神々が言います。『そなたはヴィシュヌであることを思い出せ。ラーマとして生まれたのだ。そなたには使命がある。使命をまっとうせよ。天国ではシータと深く結ばれるであろう』と。その後、ラーマ王子は何千年も国を治め、息子たちもよき統治をしましたとさ。おしまい」
 結局ハッピーエンドじゃないんだ、とあたしは突っ込む。
「参考になりましたか。何をなさるのか知りませんが」
 ありがと、とあたしはうわの空で返す。
 もしかして、ヴィシュヌがあたしに乗り移った時に見た宇宙の女の人は、シータ姫かもしれない。
 けど、だからってどうすりゃいいわけ。宇宙にシータの魂があるとして、あたしにはどうすることもできない。宇宙に連れてくわけにもいかないし。
「ちなみにヴィシュヌは、3歩で全宇宙をふみこえるそうですよ。インド神話はなんでもスケールが大きいですね」
 あたしはため息をついた。

*************************

次の日の夜、あたしはソウマ君に、学校の屋上に呼び出された。
 月明かりが照らす夜の、学校の屋上。あたしの素行がちょっと悪いとは言え、さすがにこんな時間にここに来たことはない。
 ソウマ君は眼鏡を外し、すでにヴィシュヌになっていた。フェンスを握って空を見上げる。
「ここで毎夜、とび降りておった。ソウマの体ではこの程度が精一杯だ。精神は宇宙に飛ばせるが、肉体はどうにもならぬ。二万年前なら、我もこの体で宇宙にとびだせたやもしれん」
 あたしの考えてることだって、ヴィシュヌはわかっているはずだ。あたしはヴィシュヌの目をにらんだ。
 あんたは結局、シータ姫に謝りたいんじゃないの?
 ヴィシュヌはそれに気づいているのかそうでないのか、あたしの目を見つめる。
「貴様に憑依したあのとき、我が目を疑うたわ。何万年と転生を繰り返してきたが、あのシータの姿を見たのは初めてよ。おまえはシータの生まれ変わりなのかと思うたが、まるでそのようなそぶりを見せぬ」
 やっぱり、あの女の人はそうだったんだ。
「だがシータが入るための器としては存在しよう。ソウマが我の器だったように」
「……何するつもり?」
 あたしはちらっと周りを見回した。当然だけど、屋上には誰もいない。人影すらない。
「不安になることはない。我が宇宙に行く必要はなかった。宇宙にはシータの魂が漂っている。それを呼び寄せ、おまえの体にシータが入ればよいのだ」
 あたしは後ずさりしたけど、またヴィシュヌに顎をつかまれて、彼の瞳をモロに見た。
 しまった、と思ったときには遅くて、あたしは金縛りにあったように、全身が動かなくなった。
 
 視界がまたぐるんぐるんになって、宇宙に放り出される。
 意識が遠くなって、記憶が流れ込んでくる。
 王子と出会ったとき。
 王子と一緒に王国を追放されて、森で暮らした日々。
 ラーヴァナにさらわれたときの不安。
 閉じ込められたとき。
 王子の声が聞こえたとき。
 王子に疑われて、深く悲しんだとき。
 
 次の瞬間には、あたしの中には別の誰かが入っていて、自分の体が勝手に動き出していた。
 王子、とあたしの唇が勝手に動く。
 あたしの顎をつかんでいたヴィシュヌはハッとして、両肩をつかむ。
「シータ……なのか」
 あたしはうなずき、恭しく膝を折って、手でヴィシュヌの足に触れた。自分の額と胸にも触れて、合掌する。
「どこに行っておったのだ……長いあいだ、探したぞ。よもや、誰かに連れ去られていたわけではあるまい。あのような異変はもうよいぞ」
 ヴィシュヌはシータの体を起こし、きつく抱いた。
 長いあいだ、ふたりは体を温め合う。
 しばらくしたあと、シータは自分の両手をまじまじと見た。
「この体は……」
「現世にいる女の体よ。そなたと比べれば軟弱で魅力に欠ける体ではあるが、我慢してくれ。おそらく、そなたとこの女の波長が合ったのだ」
 シータの中にいる、あたしは急に不安になる。もしかしてもうずっと、あたしは表に出ていけないのかしら。もうずっと、シータの目を通して外を見るだけ?
 ヴィシュヌはシータの肩を両手で抱いた。
「シータよ。私はそなたには謝らねばならぬ。そなたと今生の別れになったあのとき、そなたを信じることができなかった私を、許してくれ。国民の声を無視できなかった私を、許しておくれ」
 シータは首を振る。
「許すも許さぬもありませぬ。わたくしは王子を恨んだことなど一度としてありません。夫のそばにいるのが妻の務め。なれば長いあいだ、おそばに居られなかったことをお許し下さい」
 あたしは自分の声に恥ずかしくなって、思わずしゃがみたくなる。けれど、体が言うことを聞かない。
「シータ、今後は常に私と一緒だ。良いな?」
 ヴィシュヌの言葉を聞いて、シータは視線を落とす。
 ヴィシュヌの顔色がさっと変わった。 
「シータ……どうした?」
「悲しきことですが、わたくしはこの星には長くいられません」
 ヴィシュヌはよろめいて、シータの体に触れようとしない。
「なぜだ、シータ? 冗談では済まされぬぞ」
 こんなに狼狽したヴィシュヌを見るのは初めてだった。
「まさか、そなた、別の男と」
 シータが首を振る。あたしがしようとしていた動作と一致する。
「王子、思い出されませ。あなた様の使命を」
「使命などない。シータよ、私はそなたといることが使命だ。私が今まで何万年、ひとりで生きてきたと思うのだ? 何万年、そなたに会うために生きてきたのだ? そなたと一緒になれなければ、我がこの星にいる意味などない。我はそなたを監禁してでもそばに居させたい。
 もしそれがかなわぬなら、そなたの器であるこの女の肉体を滅ぼす。我の力をできる限り集め、神の弓を引き、山を削り、多くの命を消し去る。我の魂は不滅だ。肉体が弱くとも、道連れを増やすことはできよう。すべてが終わったあと、我が今後転生できぬように、この星のすべての命を消し、最後に我の肉体も滅ぼそう」
「なりませぬ王子。そのようなことはなりませぬ。王子は英雄であると同時に、神でもあります。そのようなことは決して」 
「ならばなぜそなたは去ろうとする? 理由を申せ!」
 シータは首を振る。
「わたくしは神ではなく、すべてを語れぬ者。されど、宇宙にて永遠に王子を待ちます。いつか王子が来られたとき、わたくしは永劫、王子と共に生きましょう」
「ならぬ。宇宙になどと、あと何千年生きろというのだ。我をまた一人にするつもりか?」
「何千年もかかりますまい。もうすぐ、この星の人々は宇宙に出ます。あなた様のおかげで、もうすぐこの星は、宇宙に」
「離さぬぞ!」
 ヴィシュヌはもう一度、シータの体をきつく抱いた。シータも両手を回して抱き返す。
 
 けれど、しばらくして、シータの魂はあたしの体を離れていった。
 あたしはヴィシュヌの背中を撫でたけれど、彼もそれに気づいたようで、両腕が大きく震えた。
 ヴィシュヌが全身を震わせる。
 かくん、と膝からくずおれて、慟哭した。
 夜の校舎にすべて響くように。
 
 あたしは今にもヴィシュヌが怒り出して、校舎をふっ飛ばし始めるんじゃないかと不安になった。
 けど、ヴィシュヌは震える手で、胸ポケットから眼鏡を取り出した。
「ヴィシュヌ?」
 眼鏡をかけたヴィシュヌは、目をこすって起き上がった。
 ソウマ君の目がぱちぱちとまばたきをする。
「……ヴィシュヌは、つらくて、耐えられなかったみたい。けど大丈夫、まだ僕の中にいる」
 涙がまだ止まらないのか、ソウマ君は目をこする。
「でも、またヴィシュヌが起きてきたら、今度こそ暴れだして、全部壊しちゃうかもしれない。それまでになんとかしなきゃ。
 シイカさん。僕、さっきのやりとりがどういうことか、よくわからなかったんだけど」
 あたしはうなずく。
 シータの記憶が流れ込んできたとき、あたしもなんとなくわかった。シータがここにいられない理由も、あたしとソウマくんがするべきことも。
「たぶん、もともとヴィシュヌは使命をもって、ソウマ君にとりついたの。本当は何千年前も前から使命があったんだと思うけどね。人を宇宙に行かせるために。
 ちょうどラーマーヤナで、悪逆非道のラーヴァナを倒すために、ヴィシュヌがラーマ王子として生まれたみたいに」
 ソウマ君が首をかしげる。
「人を宇宙に行かせるって……どうして?」
「たぶん、何千年も前に、神様たちが宇宙に旅立ったとき、すでに人が、この星のなかに収まらないことを予想してたんだと思う。いつか人間が宇宙に出ていくとき、それを導く存在が必要だって。それがヴィシュヌ」
 あたしはまだ、自分の中にシータがいるんじゃないかと疑った。そのくらい言葉がぽろぽろ出てくる。でも、シータは私の中にはいない。言葉にしないと忘れそうになる。脳裏に焼きついた記憶が。
「導くって、どうやって? ごめん。僕聞いてばっかりだね」
「別にいいよ。でも、それはあたしにもわからないんだ。たぶん、ソウマ君ががんばるしかないんじゃないかな。宇宙飛行士とか、宇宙船の設計士とか、物理学者とか。ソウマ君はヴィシュヌのおかげで、その気になればいつでも精神だけ宇宙に行けるんだしね。宇宙に一番詳しいでしょ?」
「僕が? 僕はそれでもいいけど、ヴィシュヌはそのために? ちょっと、かわいそうだね」
「あたしなんてもっとひどいよ。ヴィシュヌが宇宙を目指そうとするために、シータ姫は宇宙で待ってる。あたしの役目は、シータ姫を通じてそれをヴィシュヌに伝えること。それと、ヴィシュヌが宇宙に行ったときに、シータ姫のところまで案内すること。この役目、ひどくない?」
「……ごめん、僕からは、何とも言えないや」
 泣き腫らした顔のまま、ソウマくんは苦笑する。
「でもそれも、ヴィシュヌがずっとシータ姫を好きで、シータ姫がずっとヴィシュヌを待ってなきゃ、できないよね」
「そうそう。シータはずっと待ってる。ヴィシュヌ、あんたちゃんと聞いてんの?」
 あたしはソウマ君の胸を指さした。
 ようやく、あたしは自分の言葉を取り戻したようだった。ふたりが口論していたとき、言いたいことが溜まってしょうがなかった。
「シータはずっと待ってるって言ったのよ。何千年も、浮気しないで、あんただけずっと愛してたの。あんたも今までひとりで生きてきたでしょうけど、彼女だって待ってたの。シータだって本当はあんたと一緒にいたかったけど、使命のために戻ったの。シータが憑依したあたしが言うんだから本当よ。
 心配しなくてもソウマ君が、あと何十年かで、世界最高の宇宙船開発者になって、あんたを宇宙に連れてってくれるわよ。そうしたらシータに会えるわ。何千年も待ったんだから、あと数十年くらい、早いもんでしょ?」
 ヴィシュヌからの返事はない。ソウマ君は苦笑して、眼鏡を外そうとしたが、あたしはそれを止めた。
 もう少しだけ、神様はそっとしておきたい。
「ちなみにあたしを殺したら、もうシータに会えないからね。シータのところに導けるのはあたしだけだから」
 散々きつく言っておいてなんだけど、ちょっとだけヴィシュヌがかわいそうに思えてくる。でもあたしの心配は、そんなところじゃなくて。
 これからソウマくんとデートしたりしたいのに、ヴィシュヌは怒ってあたしたちの邪魔をしてこないか、ということだった。

         (終) 

 

 

参考文献:

『ラーマーヤナ』  エリザベス シーガー (著)山本 まつよ (翻訳) 子ども文庫の会 2007
『新訳 ラーマーヤナ 』(東洋文庫)  ヴァールミーキ (著), 中村 了昭 (訳) 平凡社 2012
『ゼロからわかるインド神話』  かみゆ歴史編集部 (著)イースト・プレス 2017

 

文字数:16658

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