私にも頂戴

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梗 概

私にも頂戴

ユリコの夫の、ケンジは、ちょっと太った人あたりのいい会社員である。
 お盆前の数日、帰りが遅くなった。ケンジは、「部下の相談に乗るので」という。疑われてはいけないので、会社の近所の公園で、部下の女性の話をきいていたらしい。
 あまり退屈なので、途中でうたた寝もするという話に、それはもうやめて頂戴とユリコはいった。
 夜にはケンジはユリコの背中に縋り付いて寝る。黒子の多い自分の背中を恥ずかしく思うユリコは、唯一ケンジにそれを見せていた。夫婦の仲にユリコが疑問を抱くことはなかった。
 お盆休み、一家は、ケンジの実家に行く。実家では習慣のようにそこで採れる青物の汁を飲まされ、そろそろ息子にも飲ませる時期だといわれた。義親との会話で、部下の相談の話をして、義母は、変な虫がつかないようにと声をかける。俺のほうがユリコについた虫だからとケンジは答え、ユリコは安心する。
 ユリコ自身は両親を亡くしていた。親族の付き合いも絶えていた。
 たまに休日、会社にケンジは息子をつれていくこともあった。行く必要はないが気になるので、と、30分ほど会社にいてあとは息子と遊びにいく。
 ケンジの首筋にできものができていた。面倒がるケンジを引っ張って皮膚科にいくと、副乳腺に似たできものといわれたが、切除はしなかった。
 そのうちまた、前と同じ部下の女性がつきまとうようになったという。ケンジの母は、やはり虫おとしがいるとたくさん青物を送りつけてくる。なんの駄洒落なのか疑問に思いながら、スムージーにして、朝余裕がないと、容器にいれて持たせるようにした。
 部下の女性があまり寄ってこなくなったころ、また、泊りがけで会社で仕事する必要ができた。
 ユリコは、弁当とスムージーをたのまれて、会社の近所まで行く。会社のそとで、会社から出てきたばかりの若い女性が声をかけた。ヨシムラと名乗った。息子は、ケンジが休日に会社に出るときに、たまにヨシムラに相手されていたらしい。息子が楽しそうにしているので、ヨシムラに預けて受付でケンジを呼び出して物を渡す。そのあと出ると、二人はいない。
 携帯できくと、ケンジは、相談してきた女子社員はヨシムラだという。すぐ戻るんじゃないかとケンジは暢気に言う。
 ユリコは探して、ケンジがヨシムラの相談にのっていたという公園にいくと、ヨシムラは、背後から息子を抱きしめていた。首筋に口を押し付けていて、引き離すと、息子の首筋にも、ケンジにあるできものがあった。
 逆上してユリコはヨシムラに詰め寄る。しばらく黙っていたが、やがてヨシムラは切れて、「あなたには課長もほんとうはいらないんでしょう。私にはいるんです。せっかく見つけたのにへんなもの飲ませるから、この子から吸わないといけないじゃないですか」あぜんとするユリコにさらにヨシムラは、ケンジやその息子の首筋から分泌されるものが自分にとっては必要で、以前には公園でケンジがうたた寝しているあいだに吸っていたのだという。
 息子を抱きかかえて戻るユリコ、ケンジに事情をいうと、さっぱりわかっていなかった。ちょっとよく事情をきくからと帰される。
 その後、ヨシムラは会社に戻ることはなかったという。ユリコは嫌がるケンジに迫って、ケンジと息子の分泌腺を切除させようとしたが、それをすると若死にすると、ききつけた義母が大反対し、青汁をとにかくのませることになった。
 その後、娘もうまれる。数年後、ユリコはケンジが、いつものように背後で寄り添いながら、自分の背中の上の方を吸っていることに気づいた。ケンジは「最近あまり出ないんだよ」とこともなげにいう。
 ケンジは、ユリコの分泌物をむかしから吸っていて、最近その出が悪いので吸いが激しく、気づかれてしまった。「あとで気づいたんだけど、ヨシムラさんもたぶんそうだったんだし、みんなそうじゃないの」というケンジに、ぞっとするユリコ。
 その後、ケンジが娘をへんにかまうようになったように思い、娘の首筋に分泌腺ができつつあることにユリコは気づいた。

文字数:1655

内容に関するアピール

わかりやすい関係というと、夫婦とか不倫とか思いつきますが、夫の不倫相手が寄生生物という関係はどうだろうと考えてつくってみたのがこの梗概です。
 はじめは夫に卵を産むとか、妻と寄生生物の大立ち回りとかできないか考えていたのですが、どうも性格が地味なもので、むしろ夫のほうも不気味な生き物だったという流れにまとまってしまいました。
 こんなのんきな会社や会社員生活が今どきあるのかとも思いますが、実作時はそこにリアリティ持たせるため時代設定も考える必要があるかもしれません。

文字数:233

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私にも頂戴

「ごめんちょっと長引いた、いまから帰るから。」
 また、とユリコは思った。
 幼稚園にはいったばかりのコタロウは、夕食も終わり、テレビの前で絵本を並べて遊んでいる。
「じゃあ私がお風呂に入れといたらいいのね」
「ごめん」
 電話が切れた。
 せっかくほどほどの時間に帰ってこれる会社に勤めているのに、ここのところ何度も、夫のケンジは、帰宅が夜の九時を越えた。
 会社へはバスに乗り電車一駅で30分ほど。都心から離れた、システム運営のための支社であり、40そこそこで一部署の課長になったケンジでも、子供が起きているうちに帰ってこれる会社だった。

「今日も、どうしたの」
 一度しまい込んだ食事を冷蔵庫から出しながら、ユリコが部屋着に替えてリビングにやってきたケンジに訊くと、
「今日も引き留められて、相談で」
「仕事の時間のあとに?」
「よくわからないんだよ」
 ケンジは、棚からグラスを出し、テーブルについて、水差しのお茶を注ぐ。
「悩んでる悩んでるというわりにとりとめがなくて、そのうち眠くなって」
「お店で寝ちゃダメでしょ」
「いや、相手が女の子だからな」
 ユリコは、レンジのそばに立ったまま、向きを変えてケンジを見た。ケンジは調子を変えず、
「お店なんかに入って長引くの嫌じゃないか。だから、会社の近くにある公園のベンチで聞いてるんだけどね、親の話とか付き合ってる相手の話とか、どうも要領が得なくて、疲れてうとうとして」
「それ、変よ」
「うん」
 いつのまにか寝てしまって、相手はその間じっと待っているという。
 ゆっくりもたれて寝られるベンチがいまどきの公園にあることも不思議だったが、
「相手はどういう部下なの」
「そこそこできるよ、課内の事務だけどね」
「若いの?」
 前の仕事は新卒、数年勤めて、その間にいくつか事務系の資格を取って、1年前に転職してきたというから20歳台なかばになる。
「若いじゃないの、なんかへんなことしたんじゃないでしょうね」
「勘弁してくれ」
 うんざりした顔で
「俺は好みが激しいんだよ」
「好みならいいの?」
 ユリコの、すこし硬くなった声をそのままに、ケンジは
「そりゃ好みならちょっとは考えるかもしれんけど、好みのものはすでに君がいるからべつにいらないじゃないか」
 ユリコは、ぜんぜんうれしくなかった。黙っていると、ケンジは話を続けた。
 寝ているケンジを相手は黙っておいておくだけというのである。そのうち、後ろに回り込んで肩をゆさぶって起こしてくれて、退屈な話ですみませんと、すぐに帰っていく。
 半年前から何度かあり、とくにこの数週間は頻度が上がっている、課内でなにかもめごとがあるのかと相手しているのだがそうでもなさそうで、しかしだからって冷たく蹴りだすのも課長としてなあ、とケンジはいう。
「あなたの仕事はわからないけど、その公園居眠り相談室は、おかしいわ」
「だよなあ」
 ケンジはあたりまえのように
「だったら家内が心配してるからもうやめようというよ、で、相談したい問題点については今後は報告書に書いて」
 それは違うけど、とにかくやめて頂戴、とユリコは言い渡して、この話は終わりにした。そのつもりだった。

コタロウは、寝つきがいい。ユリコは、コタロウを、ケンジが帰るまでは起こしておきたかったのだが、ユリコと風呂に入った後、自分で勝手に子供部屋の布団にもぐりこんでしまっていた。
「奇跡的な子供だな」
 そう言いながらケンジは風呂に入る。
 夫婦の部屋は暗い。背の低いユリコは、自分の腰のたっぷりした肉付きや、母斑の多い背中が、好きではなかった。だから、めったに水着にならなかったし、背中をあけた服を着ることもなかった。
 下着のまま布団の中にいると、風呂上がりの匂いをさせて、太り気味の大柄な夫が布団に入ってくる。男のくせに体毛がすくなくてすべすべしている。
 夫は、下着をゆっくり脱がしていって、妻の体を全身いじくりまわす。特に背中を念入りに愛撫する。自分の背中がよく感じることにユリコはいつも驚く。
 日本人としてはかなりその行為の頻度が高いと、ユリコは雑誌で読んで知った。ケンジは、最後まで達することもあれば、そのうちなんとなく動かなくなってぶつぶついいながら寝てしまうこともある。
 先日から遅く帰ってきた日は、その部下とやらの相手をしていたのかと思い返す。それらの夜を思い返すと、少し元気がなかったのではないか。今日も、勢いがないように疑い、
「ほんとに、なにもなかったんでしょうね」
 暗いところでユリコがささやくと、ケンジは、口癖のようにまた
「勘弁してくれよ」
 ユリコの全身をもう一周し、最大に体力を使って、そのまま始末もせず寝てしまった。
 ユリコは、もう一度しっかりシャワーを浴び、少なくとも部下と、そういうことをしたのではなさそうだと自分の中に一段落つけて、子供部屋にいってコタロウの隣の布団で寝た。

朝、コタロウをおこさないよう布団から出ると、ジャージを着たケンジはもう、パンを切ってトースターに放り込み、すでにできあがったオムレツにケチャップをたらした皿をちいさな正方形のテーブルに置いて、皿の横には出来合いのサラダをパックケースのまま並べていた。
「おはよう」
 なんでこの人はいつもこんなに機嫌がいいのだろうとユリコは思った。
「オレンジジュースがないよ」
「ごめん出すわ」
 ユリコは、廊下の収納所からジュースのパックをもちだし、開封して、グラスと一緒にテーブルに出す。夫は、トースターからパンを取りだしてテーブルにつき、注いだグラスから喉を大きく鳴らしてジュースを飲んだ。ガウンのままぼんやりみていると、ケンジは何度もうなじに手をやっては、その手を嗅いでいる。
「どうしたの」
「なんかね、ここに」
 大柄なケンジだが座っているのでやっとその部分が見える。うなじが一か所、赤く盛り上がっている。
「何かにかまれたの?」
「痒くもなんともないんだけど、どうなってるの?」
「赤くて腫れてるみたいだけど、虫刺されの薬塗る?」
 いやそうなんだろうか、でもここだけだし、汗疹(あせも)かなあ、と首をかしげながら、ケンジは食事をおわった。
「ごめんよあとお願い」
 いつものようにそう言って、洗面所に入る。ユリコは食器を流しに運んで、こんどはコタロウと自分の朝食の準備をはじめた。着替えたケンジは子供部屋に行き、コタロウのうきゃうきゃ笑う声が聞こえてきた。
 靴を履いたケンジに、ユリコは
「もう公園はいかないでよ」
「角が立たんようにしないといかんな、まあそうするけど」
 どうなんだろうとユリコは見送った。
 その午後、ケンジの母親から電話がかかってきた。近くケンジの実家に帰省するスケジュール合わせだった。
「あの子のお父さんに」
 義母はケンジのことを、電話の向こうで、あの子と呼ぶ。
「早いうちに言っといてやらなきゃいけないからね」
 泊まる期間と、使う飛行機の便をまたメールしますとユリコはいった。
「調子はいいのかい」
「安定したと思います」
 これはユリコの妊娠が数週間前にわかったためのやりとりだった。

ユリコは一時期腰が張ったものの持ち直した。かかりつけの先生から、飛行機に乗ってもまあいいだろうといわれ、一家3人は予定通りケンジの実家に帰省した。
 金曜の午後。空港につくと、出口に義母のひょろっとした姿があった。
「お帰り」
 夕暮れの駐車場まで、荷物をいれたカートを押しながらぞろぞろ歩いた。大きなワゴン車の前で、ケンジは、自分の母親からキーをうけとった。
 ケンジの実家に自動車道も経て50分かかる。広い盆地をみおろす斜面の住宅地の、雪にもつよい白い四角い家の前のガレージに車をおさめた。義母がコタロウといっしょに、奥の扉から家に向かう。
 2世代住宅なので玄関も二つあり、広い。ケンジの両親はその半分しか使っていなかった。残り半分を、義母がお茶会に使うらしい。ケンジらが帰るとそちらに寝泊まりすることができた。
 父親は内科医で、近くの病院に勤めている。ケンジが
「今日は?」
「検討会がある曜日なんじゃなかったかな」
 ふん、と鼻を鳴らして、ケンジは荷物を、義母とコタロウの入り込んだほうの玄関においた。
「荷物おいたらあっちにいらっしゃいな」
 両親の住む方のリビングで、近所のスーパーからあつめてきて皿にあけたらしい総菜に、肉を焼いて、夕食になった。コタロウはあまり食べない。
「遠くて疲れたかい」
 義母が訊くと、コタロウはよくわからないという顔をした。おなかがいっぱいなら、あっちでテレビみてらっしゃいとテレビの前に追い出す。ケンジはテーブルについたままなんとなくその画面を見ている。
 うなじを撫でているので、
「痒いの?」
「いや、なんとなく」
 ケンジに義母がどうしたのと訊く。
「ここになんかあって」
 義母は立ち上がってケンジのうなじを覗き込む。
「ユリコさんこれ」
「こないだからあるんです」
 義母は黙ってそれを見ていた。それからユリコに、まじめな顔のまま
「あなた」
「汗疹でしょうか」
 その答えで義母の体から力が抜けた。
「まあ、ここだけ外に出てるってことね」
 それからケンジに
「おまえ悪い虫ついたんじゃないだろうね」
「なんだよそれ」
 テレビに目をやりながらケンジは皿の肉を切る。
「俺の方がユリコの悪い虫みたいなもんだから、そこにまた虫がたかるのはなんかの食物連鎖かい」
「わかったようなこといわないの」
 義母は自分の椅子に戻った。
「まあ、こういうのはちょこちょこみるのよね、野菜がきくのよこういうものに」
 義母がこういうことをいうとは思っていなかった。
「野菜、ですか」
「地の野菜が特にいいの、あとで飲ませてあげるわ、ジューサーにミルク入れてそこにね」
「スムージー、ですか」
「まあ、そんなものね」
 義父が帰ってくる音がした。こころなしか、ケンジがユリコに椅子を近づけた。
「やあいらっしゃい」
 ケンジ同様、やや大柄な義父は、仕立てのいいジャケットを脱がずに椅子に座った。
「おなかは大丈夫かい」
「おかげさまで」
「土日はさんで、来週はじめまでいるのだね」
「有給とれましたので」
「いまどき結構な会社だな」
 その間またあっちに寝泊まりするからね、とケンジがいう。義母が、近づかないから大丈夫だよと冗談めかして言った。
「まあ、ゆっくりと」
 立ち上がる義父に、義母が
「ご用事?」
 用事じゃないけど、どこそこのなにやら先生と飯食うんだといって義父はリビングを出ていった。
「相変わらずだねえ」
 ケンジは言う。義母が
「まあ、うちじゃ栄養が足りないんだよ」
 出来合いの総菜が並ぶテーブルではユリコもなにもいえない。
「あたしもこの通り、栄養回ってないしね、ユリコさんはぽっちゃりしてていいわねえ」
「うん」
 よこからケンジが返事を引き取った。

ユリコは大学をでて就職してすぐ、事故で父母を失った。そのころから、なんとはなしにそばにいては支えになってくれた、すこし歳の離れたケンジにユリコは感謝していた。
 ユリコの父母は、ユリコのみる限りでは、大変仲が良かった。ユリコは、あの二人の間には入れないと、気づくと幼いころからあきらめてしまっていた。
 これがふつうと思っていたユリコにとって、どこかで突き放したようなケンジの両親の関係は、まったく別のものだった。どうやらユリコの両親のほうが異様に仲が良かったようだということは、いろいろな人と会ったり話したりしてなんとなくわかったのだが。
 ユリコの父母は、親族はみな早くなくなったと、ユリコに言っていた。
 ふたりは高校で知り合ったんだという。どのあたりで育ったときいてもあいまいなことしかいわれず、実際の自分のルーツがどこにあるのかユリコは知らない。
 ケンジと結婚するとき戸籍を見て、自分の父母が亡くなった時に住んでいた場所に本籍地を移していたのも知っていた。それ以上遡及する意欲はユリコにはなかった。
 不思議なのは、ケンジが、ユリコにべったりなことだった。その距離感はむしろユリコの両親のようで、むしろ、この人はなにか足りなかったのかしらと、思うことがあった。

翌日から、朝、ミルクに緑色の植物の混ざったものがグラスに入って、ケンジの前に出るようになった。
 ケンジ自身はあまり飲みたがらないのである。
「飲めなくはないけど、おいしくもないな」
 これ足せばいいのよ、と義母が砂糖壺をよこす。
 甘みを軽く足してもなお微妙な顔をするのがおかしくて、ユリコはグラスに手を伸ばした。
「どんなの」
 あー、ユリコさんはこんなもの飲まなくていいよ、と義母が止めた。
「汗疹ができないようにするんだったら」
「自分の地のもんじゃなきゃ効きにくいからね、だから大丈夫なんだけど。だいたいあなたふつうにお食事してるだけで完全栄養じゃないの」
 太目なことをいわれているのかもしれない。
「何が大丈夫なんですか」
「飲んでもね。でもまあ、首になにかできたからって大したことでもないし、気にしないで」
 さっぱりわからなかった。なにかいおうとするケンジに義母は、
「おまえにはまたあとで教えたげるよ、ユリコさんはそれより、おなかを大切にしなきゃ」
 翌週まで、義母がコタロウを連れまわし、ユリコはほとんど一日中安楽椅子に暮らした。ケンジは、そのそばでずっと本を読むか端末を見るかで過ごし、義父はそこに通り過ぎる程度で、ほとんど寄り付かなかった。

ケンジの実家から家にもどり、季節はさらに暑くなった。
 義母は、帰った後、あの野菜を近所で買って、段ボールに詰めて送り付けてきた。ユリコはそれを、時間かけて濃いめのスムージーにして、アイスキューブに凍らせた。
 ケンジが朝食食うところに、ユリコが出て行って、前夜に冷凍庫から氷点前後に移してゆるめたいくつかのキューブを、さらにシャーベットのようにして出すようになった。こんなもの凍らせて栄養素は破壊されないのかしらとユリコは思った。
 妊婦といってもまだ身軽ではあったが、いないほうが楽だろうと称し、週末は、ケンジがコタロウをつれて出ることが多くなった。
「今日は会社の方にいくよ」
 システムの関係で、月に2回ほど、ケンジは週末でも会社にいく。
 前には昼前に出て行って、顔だけ出してさっさと帰ってきたのだが、コタロウを連れて行くときは、そのあと遊ばせて帰ってくるので、暗くなっていることも多い。
 コタロウも疲れてしまうようで、その日は寝つきも、いつもに増してよい。
「おやつは」
「途中で買うよ」
 たまに、コタロウの食べそうもない昔風のものを買い与えるのだったが
「こないだおしゃぶり昆布を喜んで食ってたから」
「あまりたくさんやらないでよ」
 生返事を返してケンジはコタロウと出て行った。
 夕方、ユリコは、コタロウのうなじにも、汗疹をみつけた。
「あなた、これ」
 ケンジに見せる。
「これ、あなたにできてたものよ」
「こんなのか、へえ」
 ケンジは自分のうなじに手をやる。汗疹は、すっかり赤みが薄くなっていた。
「俺のもよくなったし、そんなに心配することないんじゃないか」
「お布団に虫がいるんじゃないでしょうね」
「でも、ここだけだろ」
 その夜、ユリコは義母に電話した。訊かれたことだけ答えてすぐ切ってくれるので、電話しやすい相手だった。
「コタロウ、体は何もないのかい?」
 義母が訊くので、ユリコは、
「手帳の標準曲線よりいいくらいで、最近体重が減ったこともないです」
「よく食べるんだね、だったら、よくきれいにして、幼稚園以外はあまり出さないこと、でも新しい友達のうちに寄せてもらったりはしてないんだね、その子にもあの子とおなじもの飲ませたらいいよ」
 こないだおわってしまってというと、いけないねえと義母は言った。
 数日後、虫落としを送ったとメールがあり、また野菜が、やや大量に届いた。
 除虫菊でもなし、まったくなんの駄洒落なんだろうとユリコは思いながらキューブを作った。冷凍庫のかなりの部分をそれが占めることになった。コタロウはなかなかそれを飲まなかった。

たまの週末の出勤は、様子を見に行くだけだったのだが、ある日曜日、朝からケンジが職場に出なければならないということがあった。
 日曜日はユリコは、コタロウに合わせて起きる。ケンジが出て行ったことも気づいてはいなかった。
 ところが、午前も時間が経ってから電話がかかってきた。
「ごめん、ひとつ置き忘れたものがあって、封筒があるだろう」
 それを持ってきてくれないかという。彼女は、息子をつれてバス停へ向かった。
 駅から5分ほど歩く。職場は、前に何度も訪れたことはあった。やや広い敷地に、スライド式の門があって、年配の守衛がいた。顔も知っていた。
「こんにちは」
 ユリコが名乗ると、守衛は、今日は奥さんがお子さんお連れでね、といいながらケンジの部署をコールした。
「あらあ、コタロウ君」
 声がしたので見ると、制服を着た血色のいい若い女性社員が、敷地の奥の、平屋の社屋から出てくるところだった。
「こんにちわあ」
 この人誰だろうと思ったが、コタロウが馴染んだようにその女性のところに寄って行ったので
「すみませんどちら様で」
「ユウキ課長にお世話になってますヨシムラといいます」
 元気である。
 コタロウはヨシムラ相手に体をぶつける。
「これ、やめなさい」
「いいんです、コタロウ君、課長がつれてくるときはよく遊んでくれてるんです」
 それはどうもお世話になってというところで、守衛が、
「課長が、ちょっと手が離せないそうでちょっと待ってもらえますか」
「ああ、あの書類ですか」
 ヨシムラが、
「持っていきましょうか、けっこう急ぎのものですし、私お昼買いに出てきただけなので」
 コタロウがヨシムラの手をひいて、遊ぶの、と騒いだ。
 守衛が、じゃあまあここで待ってたらいいですよという。ヨシムラが、でも、といい、コタロウが駄々をこねる。いま職場がどんなふうになっているのか見たかったので、
「じゃあ、相手してくれてる間、私が持っていきます」
 そうとうゆるい会社なのは、過去に何度か来て知っていたが、今回も、
「じゃあ奥さん、あそこ入って、右に行って」
と守衛が暢気に道順を説明してくれた。
 たどり着いた部屋の、ドアについたのぞき窓に顔を出したユリコに、ケンジはすぐに気づいた。
「すまないね」
 受け取ってそのまま部屋に戻り、いそがしいのねえと、半分参加した気分になって、ユリコは守衛のところにもどった。
 ヨシムラとコタロウはいない。
「あの」
「ああ、あっちに公園があるから遊びに行ったんでしょう、前にも行ってたし」
 はあ、といって、数分そこで立っていたが、日差しが強く、
「迎えに行きます」
 公園の場所をきいて、門を出る。
 ひと気のない住宅地を1ブロック駅とは逆にいったところに、木立が見えた。
 低いコンクリ塀に囲まれ、腰までの低木が間隔を置いて植えられた空間があった。
 低木に囲まれた中に、ところどころ背の高い木がある。ちいさな小学校の校庭くらいの広場のこちらにベンチが並び、あちら側には、鉄棒と上り棒があって、その横、半分埋められたタイヤにヨシムラが向こう向いて座っていた。
 コタロウは?と思いながら、広場を突っ切って近づく。自分の影が濃い。
「ヨシムラさん」
 声をかけるが、反応はない。
 どうも、コタロウを向こうに向けて、背中から抱きしめているようである。
 少し横に回ってさらに近づく。向こうに向いたヨシムラの顔とコタロウの首が交差しているのに気づく。二人とも目を閉じている。ヨシムラは、コタロウのうなじに、しゃぶりついていた。
 声にならない声を上げて、ユリコはコタロウをひったくった。
 コタロウはぐったりしている。名前を呼ぶと、眠そうに首を振った。
「、、、な、なにやってるのあなた」
 コタロウを抱いた姿勢のままのヨシムラは、数秒間体を揺らせ、それから、ユリコと、コタロウに目をやった。
「ああ、、コタロウちゃん」
「何なのよ、いったい」
 とろんとした目のままヨシムラは、力を抜いて、座り込んだままである。
 それから、ユリコに目を向けた。
「何なのよもう、、」
「な、なにをいってるの」
 遠いところで、セミが鳴いていた。
「邪魔しないでください、、、あなたのせいじゃないですか」
「、、、なに、なにが、、」
「課長ですよ、私には課長が要るんです」
 この女子社員は夫とできていたのか、足がすくむユリコに、ヨシムラの顔がけわしくなった。
「あなたには課長もほんとうはいらないんでしょう。私にはいるんです。せっかく見つけたのにへんなもの飲ませるから吸えなくなっちゃって」
 返事ができない。
 かろうじて
「な、なにを吸うって」
「課長の体が出すものが、あたしにはいるんです。だからときどき、眠ってもらってそのあいだに吸わせてもらってたのに、へんなもの飲ませるから、この子からもらうしかないじゃないですか」
 それ以上訊く気にならず、ユリコはコタロウをかかえて会社に戻った。腰が張った。
「ああ奥さん、いままた課長呼んだとこなんですよ」
 守衛が声をかけて、ユリコはあえぎながらコタロウを下す。コタロウはすっかり目を覚ましていて、不思議そうにユリコをみあげた。
 ケンジが建物から出てきた。
「どうしたの」
「ヨシムラさんがこの子を」
 そこまで言って、守衛の横で言い憚る自分に気づいた。
「ヨシムラ君が、、、ううん、、、」
 コタロウを覗き込む。
「どうしたんだ、コタロウ」
 遊んでたんだよ、としかコタロウは言わない。ユリコは、自分の見たものがわからなくなった。
「あとで本人にきくから、とりあえず帰りなさい」
 その夜帰ってきたケンジによると、ヨシムラは職場に戻らなかった。その後、彼女は職場に現れることもなく、退職したと、ユリコはきいた。
 まえにケンジに相談を持ち掛けていた部下というのも、ヨシムラだった。

なにもわからずじりじりするうちに、変なものを飲ませるという言葉が引っかかって、ユリコは、義母に電話した。
「ありゃまあ、大胆なコがいたね、冷凍じゃ効果薄かったかね」
 重ねて、何事なのかきくと、
「なんかねえ、うしろのほうから出てるみたいなんだよ、そんで、それを吸うのが要るひとがいるみたいなんだねえ」
 そんな変な話はきいたことがなかった。
「いや、とにかく、ひとところから吸おうとするとああいう汗疹みたいなのができちゃうみたいだから、とにかくきれいにして、嫌だったらあれをなるべく飲むように。あれ飲むと、そういうのが出にくくなるみたいでね」
 それって吸血鬼ですかと訊くと、そんな大げさなもんじゃないと思うよと、義母は電話を切った。
 ケンジに、警察に相談をというが、こんな話どう相談するんだと、前向きではない。実際、どう説明していいかわからなかった。
 ユリコは、夫や子供がいやがろうがなんだろうがとにかく、野菜の汁を飲ませ続けた
 そのうち、妊娠も月が重なり、彼女は2人目を生んだ。

娘のレイが生まれて数年、ユリコは少しやせた。
「体重減ったかい」
 ケンジは不満そうに、夜、耳元で言った。
「ずいぶん骨が出たね」
 ふつうは、ちょっとでもスタイルがよくなったと喜ぶもんじゃないのかしらと、ユリコも不満だった。
 コタロウがひとりで部屋に寝るようになっても、レイはまだ手が離れない。2人もいるといろいろとできないことが多くて、ケンジがユリコと夜を過ごすことも少なくなった。
 ケンジも、育ちのよさそうな肉付きがなくなった。ふつうは中年は太るもんだぞと、なぜかぶつぶつ言った。
 ケンジに体中をまさぐられても、以前のようにうっとりすることが少なくなった。ある夜、気づくと、ケンジはユリコのうなじにしつこく口をつけていた。
 間を置いて、おなじ布団にいた次の夜、やはりケンジはそうしていた。
 それから、小さな声で、
「なにかダイエットしてないか、あれ、君も飲んでないだろうね」
「あなたも元気ないんじゃない最近」
 むっとして、でも黙っている気配が伝わってきた。
「ごめんなさい」
 気が合わないまま夜試みてはすれ違ううちに、ユリコは、自分のうなじになにかできているのに気づいた。
 たぶんあれだ、と思ったが、認めるのが怖かった。
「これも汗疹よね」
と言い聞かせながら、ある日、皮膚科の医院にいってみた。
「ううん、、、」
 ケンジよりやや年輩に見える医師はのぞきこみ、丁寧な口調で
「まあ赤いですけど、炎症の感じじゃないし、、、色素がくっきりしてるんで、みたところ、副乳腺みたいなもんにみえますけど、いわゆるいぼみたいなもんにも見えますねえ」
「副乳腺て」
「おっぱいですけど、ふつうじゃないとこにあるやつですね、できるにしてもたいがい場所はきまってるんで、うしろ頭ねえ、、、組織とってみないとわかりませんが、切ったりしたいですか、悪性には見えないけどわかりませんし」
 おっぱいなのか、あれもこれも、おっぱいだったのか、そこから出てくるものがほしい人がいるのか。
 考えますと家に帰って、ユリコは、ほかにあてもなかったので、義母に電話した。
「ああ、あんたにもできてしまったのかい、、、どうかとは思ってたけどねえ」
「わかってたんですか、教えてくだされば」
「知らないにこしたことないしねえ、聞いて、いい気持にもならないし、、、あたしもむかしそうだったしねえ、そんで結局出なくなってねえ、、ケンジの父さんは、あたしが枯れてから、いまみたいにあっちこっちいっちゃって、、、あんたにも苦労かけるかもしれないね」
 電話を切った。
 夜、布団にケンジが入ってきた。ユリコは、軽い違和感を抱きながらじっとしていた。今まで私を愛してると思っていたこの人は、いったいなにを求めて私といたのだろうと思った。
 ケンジは、以前のような念入りな愛撫もなく、確認するかのようにうなじを吸い、ため息をついて、そのまま眠ってしまった。ほしいものを手に入れられずふてくされて寝てしまう子供のように思えた。
 暗い中でユリコは寝息をきいていた。自分からなくなったものや、今自分にあるもの、なくしたくないもの、なくなっては困るもの、そういったものがまとまりもなく頭に浮かんだ。
 それからつぶやいた。
「栄養をとらないと」

その後のユリコは、懸命に特に脂っぽいものを摂取するのだが、小柄ながらスタイルよいままである。乳牛の肥育についていろいろ本を調べてみたが、まったく役に立たなかった。
 ケンジは、いい父をしている。あいかわらずちゃんと帰って、子供らと、食事できなければ本を読み、風呂に入れて、寝かしつける。
 すこし骨ばっていたのが、またふっくらしてきた。
 ある日、風呂からあがってきたレイのうなじをみて、ユリコはそこに、汗疹のようなものがあるのに気づいた。

文字数:10820

課題提出者一覧