梗 概
サイコロ宇宙論
天澤厳理(ミネ)は、宇宙物理学を専攻する大学院生。この宇宙はSomething Great(SG)が作ったと“知っている”。当然、学会どころか、周りの人たちにもバカにされている。
ミネには、変わった友人が二人いる。同じ保育園で一緒だったジュディとユリウスだ。ジュディは、いわゆる「悪魔」。ユリウスは、いわゆる「天使」。この宇宙の人口調整が、彼らの仕事だ。小学校に上がった時から、それぞれの道を歩み始めた三人だったが、ことあるごとに、それぞれを頼った。特に、ミネは、ジュディとユリウスが心を許す、唯一の人間だった。
SGは高次元の知的生命体で、三次元に宇宙を作ってゲームに興じている。どれだけ早く宇宙を消滅させられるか、という双六。もちろん、サイコロを振って。そのために数多くの宇宙が作られていて、それぞれにはSGの管理者がおかれている。彼らは、その宇宙に適応した生物の姿を借りて、様子を見ている。ジュディとユリウスは、管理者の子どもだ。待機児童問題で、仕方なく地球上の保育園に預けられた。ミネは二人との交流で、この宇宙がSGによって作られたものであることを知った。
自説を主張し、変人扱いされるミネを助けようと、ジュディとユリウスは策を弄する。大きな学会で、教授のプレゼンを乗っ取って解説するが、変なコスプレ野郎の余興と、一笑に付されてしまう。
そんなことがあっても、ミネの高い能力は学会の誰もが認めるところだった。次から次へと、誰もが解決できなかった新しい宇宙の法則を明らかにしていく。ミネにしてみれば、もともと明らかにあるものを伝えているにすぎないのだが。
ある日、宇宙の管理者会議から帰ってきたジュディが、大慌てでミネに告げた。その場で振られたサイコロで、双六が「ふりだしに戻れ」となってしまったという。つまり、この宇宙は消滅する。
ジュディとユリウスは、ミネだけを助けようとする。しかし、ミネは、最低限、太陽系の全てをそのまま他の宇宙に移動させること、と譲らない。ほかの同じような宇宙では、別の生命が育っている。いちかばちか、ミネの提示する公式に従って新しい宇宙を創造する二人。
この宇宙の消滅まで、時間がない。それなのに、数学に弱いユリウスが、肝心なところで計算間違いをしてしまった。もう作り直す時間は残っていない。見た感じ、同じような宇宙には仕上がっている。ジュディとユリウスは、半分ずつ人類を新しい宇宙に移動させる。その一部始終を記録するミネ。この証拠ビデオがあれば、ノーベル賞も間違いない。
新しい宇宙で、太陽系は今までの姿と全く同じだった。人類は何事もなかったかのように、日常生活を送っていた。しかし、ミネは困惑していた。計算の仕方が、ちょっと違うのだ。新しい世界では、1+9+3×0=0が正しい。物理法則の公式を直すだけで、精いっぱいだ。宇宙の創造理論でノーベル賞、は限りなく遠くなってしまった。
文字数:1200
内容に関するアピール
常識はずれの主人公ミネ、一見万能な悪魔のジュディと天使のユリウス。三人は保育園の同級生という心の友です。
ジュディは、ミス・ユニバース日本代表顔負けの黒髪の美女。仕事で残虐な事件を数々おこしますが、そのたびに罪の意識に打ちひしがれてしまう、優しい悪魔。一方、ユリウスは、ちびデブな姿をした、苦しみぬくことが幸せ感を倍増する、と信じる残虐な天使。
ミネは二人の活躍をニュースでたびたび知るのですが、一切関心はなし。宇宙の理をひたすら(地球人に)明らかにすることに没頭しています。落ち込んだジュディを奮い立たせた直後に、ユリウスに出動依頼をするなど、無意識のバランス感覚には優れていますが、それが宇宙に影響を与えているとは、全く思い及びません。
トップダウンで地球人に明らかになる宇宙創造と、それに付随するドタバタが、SFとしては一番の面白さかと思います。
文字数:373
方程式と宇宙の卵
天澤厳理は、ざわつく聴衆を壇上から眺めていた。
「宇宙の創造はボトムアップではない。トップダウンだ。公式ありき。この宇宙を現在の姿になさしめている公式は、Something Greatにより記述されている。我々人類が理論を構築したというのは、おごりでしかない」
皆、またか、という表情をしている。広い会場のあちらこちらでブーイングも起きた。席を立つ者も少なくない。座長が慌てて静めながら、天澤に降壇を促している。愚か者め、と一瞥し、壇上からゆっくりと降りた。
五〇年以上、天澤は変人物理学者として宇宙創成物理学会に君臨している。
革新的な仮説や理論を立て続けに発表し、学会に華々しくデビューした。三〇代そこそこで教授職に就いたが、それはほんの朝飯前。宇宙創造の公式守として生を受けた天澤の手元には、この宇宙に関する時空方程式のリストがある。そこにあるものを明らかにするだけで、人類の知は大きく前進した。その半面、持論を展開すると、変人とさげすまれた。己の無知を棚に上げる愚かな人々、と、天澤も半ば冷めた目で集団を眺めた。
演壇を下りた天澤に、座長を務めた学会の重鎮が近づいてくる。小さくお辞儀をして、並んで歩きながら、
「天澤先生。もうそろそろ、潮時じゃないですかね。後進にお譲りになったら……」
と、聞こえるか聞こえないかの声でつぶやいた。
大きなお世話だ。天澤は軽く手をあげ、そのまま会場を後にした。
秋の夕日が世界を橙色に染めていた。学会会場のホテルに隣接する公園には、大きな堂々とした欅が一本、中央に植えられている。欅の葉はほとんど落ちて、石畳に舞っていた。落ち葉を蹴散らしながら、子どもがひとりで遊んでいる。黄金色のいちょうの葉を手にした小さい女の子だ。天澤の足元から延びる長い影に気づくと、転がるように走ってきた。
「ミネせんせー!」
「おお、陽菜か」
陽菜は天澤の教え子、神崎さくらの一人娘だ。人付き合いの悪い変人物理学者になついている奇特な子だ、と天澤は照れ隠しに思う。
「一人なのか? ママは?」
「ママは、あそこ」
陽菜の指さす先に、パタパタとかけてくるスーツ姿があった。天澤を見ると、立ち止まってきっちりお辞儀をした。
「ミネ先生。先に帰られたので、ご挨拶できないかと思ってました。よかった。陽菜がつかまえていてくれて」
にっこりと笑いかけて、さくらは陽菜の手を取った。
「先生。あんまり頑固に主張したらだめですよ。先生の偉大さはみんなわかってるんですから。お手柔らかに、お願いします」
天澤をたしなめるさくらの隣で、ひなが無邪気に笑っている。さくらは陽菜の頭に手を添えて、ぺコンとお辞儀をさせた。
こいつも言いたいことを好き勝手に言う。大人になっても変わらない。手をつないで帰る二人の後姿を見送り、天澤は少しだけ穏やかな気分になった。この世界も捨てたもんじゃない。二人に背を向けて、天澤はゆっくりと歩き始めた。日が落ちて、あたりは静かに暗くなっていた。
天澤は、この宇宙はSomething Greatが作ったと“知っている”。
Something Greatは高次元の知的生命体で、彼らの存在する次元より低いこの次元に、自在に宇宙を作る。天澤は、全ての時代を通じてその宇宙の知的生命体に一人ずつ存在する「宇宙創造の公式守」。公式守は人類の中から選ばれ、宇宙を創る時空方程式の保護が仕事である。Something Greatである管理官が時空方程式に手を加えるのを防ぐため、だ。
Something Greatは、自らが作った宇宙でゲームに興じている。宇宙の熱的死を一番早く迎えられると勝ち、という双六。そのために数多くの宇宙が作られていて、それぞれにSomething Greatの管理官がおかれている。エネルギー消費効率の高い宇宙環境を作り、エネルギー浪費型の知的生命体を育てる。それが管理官の仕事だ。そして、時折、サイコロを振る。
天澤は、人類が膨大な時間をかけて導き出した理論が、誤った方向に発展するのを黙って見ていられない。それ以上に、危うい立ち位置を知らずに、なされるままの人類に目を開かせたい。できれば、Something Greatの知を人類に与えたいと思う。だが、その思いは常に嘲笑をもって報いられた。
気が付けば、あたりはすっかり暗くなっていた。日中の穏やかさはどこへやら、人通りのない二車線道路に、冷たい風がごうっと吹く。ホコリが巻き上げられ、どこからか空き缶がガラガラ音を立てて転がってくる。天澤の、筋肉のなくなった、ひょろりとした体が風に持って行かれそうになる。
稲光が走った。
一瞬照らされた歩道に、ジュディがたたずんでいた。
「久しぶりだね」
という天澤の声は、雷鳴にかき消された。
大粒の雨が音を立てて振ってきた。ホコリっぽい雨のにおいがあたりに漂う。
たたきつけるような雨に背中を押され、天澤とジュディは無言で歩いた。
ジュディはびしょ濡れになりながら、天澤の前を行く。そして、天澤のマンションにつくと、ひとりドアの中に消えた。天澤は濡れたズボンのポケットから鍵を取り出す。
電気をつけると、案の定、ジュディはソファで足を組み、ふんぞり返っていた。
「いつも言って悪いけどね、靴、脱いでくれないかな?」
高いヒールがごとりと音を立てた。
天澤は靴をつかんで玄関に置き、ついでに洗面台からタオルをとって、まずは自分を、次に濡れている床を拭いた。新しいタオルを持って戻ると、ジュディは勝手にテレビをつけて見ていた。
どこの局も、ニュースの特番だった。高級ホテルを標的にしたテロが発生したらしい。どこかと思えば、今日の学会会場だ。
「おい、おい、ジュディ。これ、お前がやったんだろ?」
「ごめん。……ちょっと、やりすぎた」
「この事故で、日本の、いや、世界の損失が出るだろなぁ」
「だけどね! あんなにミネをバカにしなくったって、いいじゃない。もうろくしたとか、ぼけたとか、失礼にもほどがあるよ!」
ミス・ユニバース日本代表並みの華麗な美少女が、顔を真っ赤にしてまくしたてる。潤んだ黒い瞳は、圧倒的な目力で天澤をにらんでいる。敵に回したら最後、この世からおサラバだ。現に、今日を最後に旅立った幾人かは、あの世で身に染みていることだろう。
ジュディはSomething Greatだ。この宇宙の管理団体に所属する悪魔型管理官補。天澤とは保育園で一緒だった。もう一人、Something Greatがいた。そいつは天使の姿で管理官補をしている。
興奮するジュディをなだめながら、もうすぐお別れだな、としみじみ感じた。Something Greatはほとんど歳を取らない。正しくは、成人に達した後は、引退を自分で決めるその時まで、いくらでもそのままの姿形で存在しうる。保育園で一緒だったジュディとも、別れの時間が迫っている。
天澤は孫娘を見るような柔らかな笑顔でジュディを見た。同じような年頃が自分にもあった。あの頃は、年月がこれほど早く過ぎるとは思いもしなかった。いつまでも、永遠にそのままでいられるだろうと――。その時に言えなかった淡い思いが、天澤の胸に小さく疼く。
「今に始まったことじゃないさ。気にすることはないよ」
黒い瞳に宿った光がふっと翳って、視線が外された。
「ミネはいいっていうけど、私はいやなの」
「じゃあ、残り少ない人生だから、心穏やかに暮らすとするか」
寂しそうな笑顔を天澤に向けて、ジュディは立ち上がる。
「そんなこと、これっぽっちも思ってないくせに。……でも、誰もわかってくれなくっても、私は絶対にミネの味方だから。――おやすみなさい。ミネおじいちゃん」
ジュディは部屋を横切り、開け放った窓から颯爽と夜に溶け込んでいった。
ジュディの去った窓辺にたたずむ天澤の耳に、玄関をノックする音が聞こえた。
続いて、ものすごい勢いでドアが開き、白いタキシードに身を包んだ短身・丸顔の男が駆け込んできた。天澤の幼馴染、同じ保育園に通った天使型Something Great、ユリウス管理官補。天使型とは言うが、体型はキューピッドだ。額にかかる金髪は汗でぴったり張り付いている。胸ポケットに差した真紅のバラが、かえって痛々しい。
「ジュディなら、今、帰って行ったよ」
「わかっている。あいつがあんな事件を起こしたのは、ミネ、お前のためだろ」
ジュディが座っていたソファに、ユリウスは愛おしそうな視線を投げた。
「いい加減、やめたらどうだ。人間どもには理解できないんだよ。ミネが誰かに笑われるたび、バカにされるたびにジュディは悲しむ」
ユリウスは、小さい頃からジュディだけが特別だ。それは、同じSomething Greatだからかもしれないし、人間と同じ感情を知ってしまったからかもしれない。
「これは使命だと思っているんだよ。公式守として真実を知ってしまった私の。同じ人間として、人類のために何かしたいという……」
公式守としての矜持だ、とは口には出さなかった。ゆくゆくは管理者となるユリウスが、理解することはないだろう。
「わからないし、わかりたくもないね」
案の定、ユリウスは興味なさそうに話を切り上げた。
「それよりさ、せっかく来たんだ。何かおもてなしはないの?」
ユリウスはずけずけと天澤の部屋を歩き回る。
「その前に、靴ぐらい脱げ」
襟元をつかんで止めると、足をバタバタさせて靴を脱ぎ捨てる。機会があったら、管理団体にクレームをあげよう。日本に来るなら、基本的な作法を学ばせて来い。靴を脱いでパタパタと部屋中走り回るユリウスを尻目に、天澤は靴を手に玄関に向かった。案の定、ドアも開きっぱなしだ。
「ミネ! なに、この卵。たくさんあるよ!」
天澤が戻ると、ユリウスは椅子にのぼって、本棚の上に置いていた卵を手にしていた。妙なものを見つけた。さすが管理官補。鼻が利く。
「でも、なんか、変わってるね……」
「それは食べられないよ。宇宙の卵だ」
「宇宙の卵? スーパーに売っているのと、変わらないけど」
ユリウスの手から卵を大事そうに取り上げて、天澤は光にかざしてみる。
「この宇宙の時空方程式を仕込んである。少しずつ条件を変えてね」
ユリウスが不思議そうな顔で天澤を見上げた。
「宇宙の成長を加速させる方程式を思いついたんだ。実証するために作った卵だよ」
それだけではない、と天澤は心の中でつぶやく。この宇宙を創れるのはSomething Greatだけ。だが、宇宙創成の時空方程式があれば、人間だって、宇宙を創れるはず――。いつまでも、手のひらの上で転がされたままで終わりたくない。
天澤の人生をかけた作品だ。だが、管理団体に知られたらまずいことになるかもしれない。公式守の権限を大幅に逸脱している。
「ふーん。宇宙の卵なんて、興味があるのはミネぐらいだろうね。ぼくは食べられる玉子のほうがいいや」
ユリウスはいそいそと冷蔵庫に向かう。天澤はその後ろ姿を見つめ、そして、そっと卵を棚に戻した。
街の中がクリスマスのデコレーションに彩られ、ジングルベルが聞こえてくる季節。晴れて澄み渡った星空を、目にもとまらぬ速さで駆け抜けるものがあった。ただ、それはあまりにも黒く、人々は認識できなかったが。
宇宙の管理者会議から帰ってきたジュディが、天澤のマンションに向かっていた。激突する勢いで、そのまま壁を抜けて中に入った。部屋にはユリウスが既にいる。ジュディからの呼び出しに、取るものも取り敢えず駆けつけていた。
「大変よ! 三億年ぶりに、サイコロが振られたの。そうしたら、『ふりだしに戻れ』が出て……」
それ以上は言葉にならなかった。天澤が静かに続けた。
「それは、この宇宙がなかったことになる、ということかな」
「そうなの。熱的死に向かうんじゃなくって、始まりの状態に、戻っちゃう」
「大丈夫だよ、ジュディ。また、新しい宇宙を創ればいいんだろ。何が問題あるの?」
「ばか! ミネもいなくなっちゃうんだよ!」
「じゃあ、ミネだけ連れて行けばいいだろ。一人ぐらい、どうにかなるよ」
ジュディは焦るが、ユリウスは大して気にも留めない。
「残された時間は、どのぐらいある?」
天澤が聞いた。
「三時間。三時間たったらビッグクランチが起こって、この宇宙は収縮する」
ジュディの声が震えている。
「だから、ミネだけ助かればいいじゃん。あと、何が問題だっていうの? 家族もいないし、周りはバカにするやつばかりだし」
「……ミネは、一人だけ助かったら、それでいい?」
天澤の脳裏に一つの光景が浮かんだ。黄昏色の講演で、楽しげに遊ぶ陽菜の姿。天澤に向けられた満面の笑み。――自分だけが助かることに意味はない。この宇宙が滅んでしまっては……。
天澤は立ち上がり、本棚に向かった。ジュディもユリウスも、天澤を目で追っている。本棚の上から慎重に箱を取り上げる。ユリウスが目を見張った。
「それは、卵じゃないか。宇宙の卵っていってたやつだよね?」
「宇宙の卵?」
始めてみるジュディが複雑な顔をした。
「許されないことは分かっている。公式守は、ただ時空方程式を保護することが仕事だ。だが、私は現状だけでは満足しなかったのだよ。きみたちSomething Greatにこの宇宙をいいようにはさせない。作られた宇宙に生まれ育った我々人類にも、生き延びる権利はある、と思ってね」
「だから、ミネは助けるって言ってるじゃないか! ぼくだって管理官補なんだから、そのぐらいのことはできるさ」
「私だけではだめなんだ。私も含めて、全てのこの世界が、助からなければならない」
「でも、成功するとは限らないだろ?」
「もちろん、成功するとは限らない。だが、試さずにあきらめはしたくない」
「頑固者! 勝手にすればいいよ」
ユリウスはふてくされてソファに寝転び、天井をにらんでしまった。天澤は困惑しているジュディに、心配ないよ、と声をかけ、ついでいお願いがある、と切り出した。
「もし、この卵から新しい宇宙が生まれれば、即、管理団体は管理官を任命するだろう。だが、発見者には管理官任官の優先権がある。ジュディ、きみが新しい宇宙の登録に行ってくれないか。管理官は、ジュディとユリウスで」
「ミネは、どうなるの?」
天澤はその問いに答えず、コンピュータに向かって計算を始めた。
「新しい宇宙には、この宇宙が収縮した瞬間に、すべての物質を引き受けられる空間が必要だ。そして、ほとんど空の状態でできればならない。その方程式を、今から作る」
「……成長加速方程式は、完成したのか?」
寝っころがったまま、ユリウスが聞いた。天澤はユリウスを一瞥し、不敵な笑いを返した。
「どうだろうな。これがその試験であり、本番だ。この宇宙の基礎となっている時空方程式と、今から作る物質密度をつかさどる式、そして宇宙の加速成長方程式。その関係が一つでもうまくいかなければ、失敗する」
ユリウスはソファにどっかりと座りなおして、ため息をついた。
「宇宙の分離はどうする?」
「それも問題だ。子宇宙や孫宇宙を母宇宙から切り離す方程式がある。それを、応用した式を書いてみるよ」
ジュディが天澤の顔を心配そうに覗き込みながら、聞く。
「間に合うの?」
「やるしかないよ。きみは宇宙の登録準備を進めてくれないか。あと三時間では、それもぎりぎりだ。」
「わかった。健闘を祈るわ。ミネ、絶対に、また会うわよ」
天澤は楽しげに答える。
「もちろんだ。一仕事終えたら、食事に行こう」
黒い瞳に哀しげな光をたたえながらも、ジュディはきっぱりとうなずき、部屋を出て行った。新しい宇宙ができれば、心優しい彼女はよい管理官になるだろう。サイコロ遊びをしない、生まれた宇宙を大切にいつくしむ、そういう管理官に。
まあ、それは私の祈りのようなものかもしれないが。と、天澤は一人苦笑した。
時空方程式の計算と調整には、かなりの時間がかかった。
天澤は、わき目もふらずに計算を進めた。ゴールは見えている。適切な条件も、だいぶ絞り込めた。ただ、時間が厳しい。ビッグクランチの始まりまで、十五分を切っている。
われ関せずとソファに寝そべっていたユリウスが、気だるげに口を開いた。
「ミネ。もう無理じゃない? ミネだけ助けるからさ。あきらめようよ」
天澤は、取り合わない。一心不乱に計算をしている。
「ねえ、ミネってば!」
「黙っていてくれないか。もう少しだから」
振り返りもせずに、答えた。本当は、返事をする時間さえ惜しい。集中し続けなければ、――間に合わない!
「……宇宙の管理官補として言わせてもらえば、公式守として、この行為は逸脱している」
冷たい声が天澤に投げつけられた。耳を疑った。その可能性を無視していたわけではない。ユリウスやジュディが管理官補なら、天澤の罪を訴えれば、管理官への昇進に有利なことは明白だ。だが、子どものころから知っているこの二人は、いつまでも、天澤の味方だと、信じていた。――いや、甘えていたのか。
「ジュディも今頃、管理団体に報告しているんじゃないの。新しい宇宙の登録準備じゃなくってさ」
天澤の手がとまる。フル回転していた頭も、今は惰性で動いているだけになった。
時間がサラサラと音を立てて去っていく。
「ミネもさ、そんなに歳になってまで、地球人類のことなんか心配しなくっていいんだよ。どうせ人なんて、すぐ死んじゃうんだからさ。生まれて死んで、生まれて死んで。その繰り返し。それが人間じゃないの? この宇宙がなくなったって、すぐ死んでしまう人間には、あまり違いがないと思うな」
そうなのか?
天澤はわが心に問う。Something Greatにすれば、ほんの一瞬の命。だが、人間にとっては、それでも貴重な一生だ。ましてや、何億年もかけて進化してきた地球上の生き物たち。いや、ほかの星にも息づいているかもしれない生命も含めて、この宇宙に存在するすべてのものが、ほかの次元に住む何かに簡単に消去されていいはずがない。
そうだ。この宇宙はトップダウンで作られたかもしれない。だが、小さな積み重ねで、ボトムアップでこの宇宙は育ってきた。だから、この宇宙に住む、存在するすべてのものが、その営みを継続する権利がある!
なら、私は最後の最後まで、あきらめずにもがこう。
「ユリウス。管理団体に報告するなら、しなさい。だが、私は、最後の最後まで、この宇宙を救う道を選ぶ。きみが許せないと思うなら、ここで袂を分かとう」
天澤は、狂ったように計算を続けた。
残り時間は、八分。
方程式が、すべて完成した!
あとは、宇宙の卵に書き込むだけ。
卵は――。
立ち上がって振り向いた天澤は、自分の目を疑った。ユリウスの足元に、卵の殻が無数に落ちている。天澤が、膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。心血を注いで準備していた宇宙の卵が……。めまいがしそうなほどの絶望が、天澤を襲った。――もう、これまでか。
足元に落ちた卵の殻を踏みながら、ユリウスが天澤に近づいてくる。天澤を軽々と抱き上げると、ソファに座らせた。
「ミネ爺さん。もう限界だろうと思って、不要な卵は捨てておいたよ」
そういうと、ユリウスは胸のポケットから一つの卵を取り出した。
「頑固な爺さん用に、厳選した、最適条件の宇宙の卵」
「こ、これは……。どうして?」
「いやー、ぼく、一応天使だから。どん底まで突き落とされた後のちょっとした救いってさ、一番効くんだよねー。天使業の基本さ」
キューピー顔が、笑って満月になっている。
「ほら。気が済むように、さっさと時空方程式、書いちゃって。時間、なくなるよ」
時計はすでに二分を切っている。天澤の手には、宇宙の方程式を書き込む羽ペンが渡された。だが、手が震えて定まらない。張りつめた心の糸が切れてしまった――。
「どうしたの? 書かないの? もう時間切れだよ」
残りは一分を切った。
「……手が、思うように動かない」
「なんだって!? ここまで来て、何言ってんだよー。ほんとに宇宙が消えちゃうよー」
ユリウスも、動揺している。この期に及んで、小心者の管理官補だ。
「ユリウス。きみに頼みたい。この方程式を、卵に書いてくれ」
羽ペンがユリウスの手に渡される。一瞬の迷いがユリウスの目に移ったが、時空方程式は宇宙の卵に一気に書き込まれた。
「ぼく、数学苦手だから、自信がないけど……」
謙遜するなど、ユリウスらしくない。だが、これで終わった――。
「ありがとう、ユリウス。助かった」
それだけ言うと、疲れがどっと押し寄せてきて、天澤はその場で気を失った。
目が覚めると、ベッドの上だった。
たしか、新しい宇宙の創造をしていたはずだが……。以前と何も変わらない自室を眺める。あれは、夢だったか――。
「ミネ! おはよう」
ジュディがドアを開けて顔を出した。
「食事に行くって約束だったでしょ。すっごく待ったんだから。ミネ、全然起きないし」
食事に行く? ああ、そうだった。一仕事終わったら、食事に行くんだった。
ということは、これは新しい宇宙か。あの時空方程式は、うまく機能したということか。
「ジュディ。きみは、管理官になった?」
「おかげさまで。ユリウスもちゃんと管理官にしてあげたよ。ちょっと不安だけど」
そうか。二人でこの新しい宇宙を育ててくれるのか。私の役目は……
「ちょっと。私の役目は終わったとか何とか、辛気臭いこと思ってるんじゃないでしょうね。まだまだミネには働いてもらうわよ。ちょっとこの宇宙に不具合が出ちゃって。責任は取ってもらいますからね」
不具合? 見た感じ、特に問題はないようだが。まあ、あれだけ突貫で作った方程式だ。ちょっとした間違いは大目に見てもらおう。
「ということで、ミネのステータスも上げてもらったの。人間は卒業。これからはこの宇宙が存在する限り、方程式のメンテナンスをお願いするわ。これは管理官からの命令よ」
ウィンクしながらにっこり微笑んで、ジュディは顔をひっこめた。
宇宙が存在する限り、方程式の管理。その言葉を、天澤はじっくりかみしめた。それこそが、自分の天命と。
季節は進んだ。
桜が散り、野山は緑にあふれている。街路樹の新緑がまぶしい。
ランドセルを背負った陽菜が、天澤に会いに来た。さくらは仕事で遅いという。
「ママがね、ミネ先生に算数見てもらいなさいっていうの。ミネ先生には解けない問題はないんだって。ほんと?」
天澤の作業机で問題を広げる。
「小学一年生なのに、こんなに難しい計算してるんだ」
「だって、保育園でいろいろ勉強したんだもん。みんなわかってるんだよ。今の子は」
「今の子は、か。それは失礼、失礼」
書かれた式を見て天澤は驚いた。計算の方法が、間違っている。陽菜の計算ではなく、教科書自体が――。1+9+3×0=0が正しい計算方法だと書かれている。
「この教科書、間違ってるって先生は言わない?」
「言わないよー」
そうか。これが、ジュディの言っていた不具合だ、と天澤は気づいた。だとすると、ちょっと面倒なことになった。宇宙の時空方程式をこの宇宙用に書きなおす必要がある。
それにしても、どこでこんな間違いが生じたか……。
思い当たることはたった一つ。
ユリウスが書き写した時空方程式。そのどれかの方程式が、正確ではなかった可能性がある。でも、まあ、それもいいか。と天澤は思った。またボトムアップで繕っていくことにしよう。
窓から外を見ると、春の日が暖かく降り注いでいる。こんな日は、外に出るに限る。陽菜を連れて歩いたら、出会った人に、お孫さんですか? と問われるだろうか。そんな平凡な想像をできる新しい世界が、天澤には一番うれしかった。
文字数:9636