フィオナの空、ロアの海

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梗 概

フィオナの空、ロアの海

鏡のように波一つたてず、落ちたものをすべて飲み込んでしまう冥渤めいぼつ。エグバード島嶼が冥渤に沈んでしまわないよう、シンシアバを植樹しているケキ族のロアは、彼と祖父以外の家族を飲み込んだ晦噬かいぜいや、冥渤の底で獲物を待ち構えているらしいトゥヴイエオグと呼ばれる生き物を恐れている。

七百日ぶりに晦噬かいぜいが近づくある日、ロアは冥渤の中に青白い光を放つ柱状体が沈み込んでいくのを目撃する。事故のあと、ロアは岩礁の縁にしがみついている小さなトゥヴイエオグを発見する。

少しボケていて、目の悪い祖父を守るために、トゥヴイエオグを始末しようとするロア。しかし彼の部屋に入り込んだトゥヴイエオグは床に不思議な家を作り、自分のを剥いでフィオナと名乗る。彼女はに住んでいるが、航行機の故障で空中に投げ出され、とっさに飛行スーツを展開して近くの岩礁にたどり着いたところでロアと出会ったのだ。

彼女はロアのことをgArlTガルルトと呼んだ。太陽の活動が活発化して強力な磁気嵐が地球を襲うようになったため、それを防ぐための繁茂性分子繊維素材を地上約50kmの成層圏界面の少し上に設置・保全する人員がgArlTなのだそうだ。特殊な道具がなくても中間圏で活動をするために肺を四つ持つなど人間とは姿が異なり、地上の空気組成では生きていくことができない。

大人からそのあたりの話を聞かされる前に家族を失ってしまったロアは、はじめのうちフィオナの話を全く信じない。フィオナも酸素が尽きる前に軌道エレベータのステーションへ移動して地上に帰りたいので子供のロアを雑に扱っているが、ロアの家族が晦噬に飲まれたという話を聞いてフィオナの方からロアに歩み寄る。

ロアも徐々に心を開くが、子供で知識がないのでフィオナの帰る方法は思いつかない。救難信号発信装置はなし。冥渤を渡り、物資を運ぶ赴廻ふねは事故の少し前に島を発ってしまったし、晦噬がすぎるまでは他の島も冥渤を渡りたがらない。ポジティブなフィオナも万策尽きたとめそめそして、中間圏にせめて対流があればよかったのにと泣き出してしまうが、ロアから晦噬のときはシンシアバの木々もすべて倒れてしまうほどの強風が吹くから、それがすぎればきっとどうにかなると聞かされ、はっとする。もしかして晦噬で吹く風にのれば冥渤の上を滑空できるのではないか?

ロアは無茶だと思うが、彼女の酸素も限られているので彼女の案に協力する。シンシアバの木で巨大なスリングショットを作り、タイミングを図って彼女を飛ばしてやったあと、ロアは怯える祖父の肩を抱いて晦噬が通り過ぎるのを待つ。そしていつか絶対に遊びにくると宣言したフィオナのことを思って泣いてしまうのだった。

文字数:1148

内容に関するアピール

この間飛行機にのっていたら白いオーロラが見えたので書きました。

梗概中では説明しきれませんでしたが、太陽嵐によって到来した電磁波等がオゾン層に吸収されることによって熱が発生し、成層圏界面あたりまで気圧の勾配が発生して極から赤道に向かって吹く風が晦噬の正体です。中間圏辺りまで来ると空気密度が低いのでそれほど大した威力のある風にはならない気もしますが、それだけ太陽嵐が強烈な時代になっているということでしょう(たぶん)。

フィオナとロアは、外見も常識も知識も、晦噬に対する認識ですらロアにとっては恐ろしい嵐、フィオナにとっては希望の風と最後までなにも共通点がありませんが、そういう二人だからこそ間に生まれる葛藤や関係性が徐々に変化していくところはベタに面白くなるんじゃないかと思います。

文字数:340

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シンシアバは金の森

   1

赴廻ふねがゼンクォグの港から出ようとしている。
 朝の冥渤めいぼつは深い藍色を呈し、波風一つもない。そこに切り込む赴廻の鋭い舳先は、濃紺の上に白い波頭レースを縫い止め、西を目指している。もし地の果てというものがあるのだとすればきっとここがそうなのだろうと、矼瞭塔こうりょうとうの手すりを握りしめたままロアは思った。
 岩礁に寝そべっていたインスグリたちが赴廻の音に怯えて冥渤に逃げ込むたびに、かすかな陰影が世界に生まれるが、ずっと残るのは赴廻の作り出す航路だけだ。エグバート島嶼の隅々まで走る赴廻が戻ってくるのは、おそらく晦噬かいぜいのあとになるだろう。その時にはきっと、このゼンクォグにも恵みがもたらされる。赴廻の寄烋きこうはなによりも喜ばしい。晦噬の通り過ぎたあとなら喜びもひとしおだ。およそ七百日前に晦噬の犠牲となった魂もきっとその船にのって帰ってくるに違いない。
 ロアを呼ぶ声がする。
 手のひらにつきささった 鏐錆しらさびを払い、彼は矼瞭塔の上に立ち上がった。
「ロア! どこ行ったね!」
 あれほど言ったのに、またグランが外に出ている。
 見送りを諦め、ロアは腹に力を入れて塔から飛び降りた。手を広げると彼の痩せた体を風が受け止め、枯れ葉降り積もる地面にやさしく降ろしてくれる。地面に放り出していた植樹の道具を手早くまとめて腕に抱え、彼は家に走った。
「ロアや――!」
 足が悪く、目もほとんど見えなくなったグランは臆病だ。ロアの気配がうすれると不安になってすぐに声を大きくする。そのたびにロアは声を大きくして彼に呼びかけた。おじいちゃん、ロアはここにいるよ。今シンシアバを植えてるから座って待ってて。しかしどんなに言っても年老いた祖父はすぐに心配になってロアを呼ぶ。およそ七百日前、彼と彼の最愛の孫ロア以外を飲み込んで、地の果てへ流れていった晦噬の恐ろしさが今も彼を苛んでいるのだ。
 家の入口に腰をおろし、グランは杖を弄んでいた。立派な白髪はうすくなり、後頭部は寝癖で逆だっている。白銀の主眼には青い空が映っているが、光はほとんど感知していないはずだ。すぐに躓いて転ぶので、ほうっておくのは危険きわまりなかった。ロアは乱雑にシンシアバの苗を榾室ほたむろへ押し込み、グランを驚かせないようにそっと背中と腕に手をおいた。
「おじいちゃん、寒いから中はいろ」
「あ――ああ、ロアか。こんなところにおったか……」
「赴廻の見送りに行ってたんだよ。寒いから灯丹とうたん茶でも飲む?」
 グランは杖を右手に、白く濁った目を左右に動かして唸った。唸るたびに弛緩した皺だらけの首元に、奇妙なへこみがうかびあがる。困惑したように笑みを浮かべたグランは、喉をならし、そこでようやくロアの言葉が腹におちたのか、目尻のシワを深くした。「ああ――そうだな。灯丹茶にしようね。うんと熱いやつにしよう。今日はずいぶん冷えるからね」
「朝ごはん食べたら僕、纂楹さんえいに行ってくるからね。晦噬の前に界畳ラメラを補強しないと危ないかもって、赴廻のひとが言ってたんだ。前もあそこから壊れたから」
 纂楹とつぶやいてグランはもごもごと筋だらけの喉を鳴らした。そんなふうにすぐに口ごもり、一分も二分もかけてなんとか言葉をひねりだす祖父の行先がそれほど長くないことは、ロアにもわかっていた。祖父が死んだらロアは一人だ。ロアも死んだら、ゼンクォグには誰もいなくなってしまう。もしそうなったときに備え、ロアにはやるべきことがたくさんある。
「でも今回の晦噬はそんなでもないだって。絖詒測こうたいそくの予想が出たって赴廻の人が言ってた」
 ん、そうかね、と尖った喉仏としわだらけの吮哺管しゅんぽかんを震わせてグランは足踏みをした。背中に手を添え、方向転換させてやる。手を当てると彼の背骨が服越しに感じられ、茶色い耳の裏に垢が溜まっているのが見える。かつては立派に膨らんでいた胸骨はみじめにしぼんで、胸から直接脚が生えているようだ。着替えのたびに彼の老いた体を目にするのが、ロアは嫌だった。
 扉をあけると馥茸コクタケのかぐわしい香りが部屋いっぱいに満ちていた。朝起きてすぐに仕込んだので、そろそろよい出汁がでている頃合いだろう。馥茸は潰すと苦味とえぐ味が強くなるが、香りは抜群だ。その出汁に、丁寧に練った柔糯やわな赤菁果しゅぜいずをくわえたポタージュはグランの大好物だった。朝食に出してやれば、一日機嫌を保障できる。
 すり足でしか進めないグランに敷居をまたがせ、一旦彼を居間のソファに座らせるだけで小一時間かかる。グランのしおれた体が布の中に収まったことを確認してから、ロアは家の外に戻った。乱雑につっこんだシンシアバの苗木をならべなおし、さっと游糖水ゆうとうすいをふりかける。寒さのせいかこころなしか小さくなっていた苗木は、霧をまとわせるとほっとした表情になったように思われた。
「ロアや……」
「片付けてるから、ちょっと待ってて――――」
 扉に手をかけたまま、彼はふと背後を振り返った。それはなにかの予感かもしれなかった。あるいは、空気をふるわせた緊迫が肌にふれたためだったのか――
 水平線が光を放っている。いつもグランが弩暈どうんと呼ぶ自然発光にもにていたが、それよりもずっと強い光だったような気がした。
 冥渤の底で火山でも噴火したのだろうか? しかし彼の心は違うといった。彼の頭はまだ気づいていないのに、心が先に警告を鳴らしたのだ。なにかが――
「……?」
 六角柱が、ある。
 突然だった。
 本当に突然、六角柱が冥渤の上に姿を表したのだ。
 見慣れない六角柱は先端が細く尖り、青白い光をまとっている。尻からは濁った煙をはき、細く尖った柱の先は元気なく下を向いて、冥渤に線を引いている。せっかく赴廻が刻んだ美しいレースを切り裂いて――と、突然六角柱は力を失い、ずぶりと水面を割った。
 鳴き声をあげたインスグリが次々に冥渤に飛び込んで姿を消す。柱は彼らが消えるのを待っていたように不吉な悲鳴をあげ、きりきりと回転をはじめた。金属のきしみ合う激しい音、絡みついた青白い光が火花を結んでは離れ、長い体の中央が外から押しつぶされるように砕け散る――!
 とっさにロアは飛び上がって扉の中にもぐり込んだ。しかし彼の背中を掴んだ音は容赦がない。地面を震わせ、シンシアバの木々を不吉にきしませ、ごうごうとふきつける風が彼らのちっぽけな家を無茶苦茶にしようと襲いかかってくる。もし、背中にあたたかい扉がふれていなければ、彼はきっと恐ろしくて倒れてしまっただろう。
 頭を抱え、ロアはしばらくその場で震えていた。グランが彼の名を呼んで入り口にやってくるまで、ずっと動かなかった。

 

「ナァに、心配いらんよ。トゥヴイエオグの赴廻だろう」
 光の灯らない目を一点にとめて、グランはもう五度目になる慰めを言った。念のため寝室に移動させて朝食のスープを出してやったが、ストローをささえるグランの手は震えっぱなしだ。ロアの膝だって、小一時間たつのにまだ定まらない。本当に慰めが必要なのはロアのほうかもしれなかった。だからこんなふうに、グランは同じことばかり繰り返しているのかもしれなかった。
「おじいちゃんは見たことある? トゥヴイエオグに見つかったら食べられちゃうよ」
「ん、心配ないさ。あやつらは陸では生きられん。ここにくるまでには息絶えるだろうよ、なやつらだ」
「ほんとう?」
「ああ、心配いらんよ。もし見つけたら冥渤に叩き落としてやればいい。じいちゃんも若い頃赴廻にのっとったときはよくみかけたが――」んむう、とため息をついて彼は首を横に振った。「とにかく……心配いらんよ。ロアは怖がりだね」
 ロアはため息をついた。グランの言葉は日に日に平坦になる。それでもまだ喋っているあいだはマシだ。ベッドから出なくなり、食事を取らなくなったら、めったに使わない飛詒スィメで近隣の島に助けを求めなければならないかもしれない。
 祖母が死んだとき、ロアは悲しんでいるだけでよかった。大人たちはバタバタしていたが、彼は祖母に絵本をよんでやったり、眠ったりした。でも今は違う。看取りや葬式――どちらも手にあまるから誰かを頼らなければならないし、それにこれからのことだって誰かに教えてもらわなければならない。なにより、この岩礁を守るのはロアの役目だ。岩礁は界畳で守ってやらねば沈んでしまう。そうなればシンシアバの森も冥渤の底だ。シンシアバの森を失えば世界は汚れ、やがてケキ族を死においやるだろう。
「ロアもはやくお食べ。心配なときは、腹をいっぱいにすれば、な、大丈夫だ。じいちゃんが一緒にいてやるからね」
 息を吐きながらけんめいにことばをつなぐグランから視線を外し、ロアは窓の向こうをみやった。虹色のガラスの向こうにはシンシアバの森があり、ゆるい下り坂を降りると小さな湾がある。突き出す岩礁の間にできた月のように細い浜には、岩礁との衝突を避けるための纂楹が突き出しており、そこに今朝までは赴廻が係留されていたのだった。
 先程少し大きめの波が珍しく迫ってきたが、いまはすっかり落ち着きを取り戻している。倒れたシンシアバの木々もないようだし、もう心配はないだろう。インスグリの群れはまだ冥渤に隠れているようだが――
 なにか、光った。
 ロアは息を吸った。胸骨がふくらみ、指先がサイドテーブルにぶつかる。急に光が眩しくなり、呼吸が浅くなっていることを自覚する。グランの話はいつのまにか晦噬に移っている。彼の一番の心配事は晦噬だ。だからすぐに思考がそちらに吸い寄せられてしまう。もし冥渤におっこちてもじいちゃんが助けてやるから安心おし、大丈夫だ、じいちゃんは何度も晦噬を見たが一度だって危ない目にはあわんかった、なんにも恐ろしいことなんかないんだよ。高い場所に隠れていれば晦噬はきっといつか通り過ぎるからね。通りすぎない晦噬などないんだから、だから。な。
 しかし、その声はロアの耳を素通りした。
 纂楹の上になにかがあるような気がする。茶色いボロきれ――か?
 それに、冥渤が騒いでいる。白波が立ち、纂楹の袂に皺を寄せているようすだ。
 変だ。
「ロアや、どうしたね」
「…………」
「ロアや」
「……え?」
「どうした。ぼうっとして」
「ん……なんでもない。お腹空いたから芋取ってくる」
 グランは目を丸くして少し首をかしげている。耳にロアの言葉が届いてから、理解するまでのタイムラグだ。しかし今日ばかりはロアもそれを待っていられなかった。立ち上がり、纂楹をとっくりと観察するも様子がよくわからない。インスグリがいるように見えるが――
「あー……ああ、腹か! 安心して腹が減ったかな、うん、夜になる前にな、たんと採ってきたほうがいいな、うん」
「うん。行ってくるね。飲み終わったらお皿は机の上に置いといて。あとで片付けるから」
 グランの答えを待っている忍耐力が、彼にはなかった。
 息を止め、短い階段を二段飛ばしで駆け下り、扉に突進する。扉の隙間に詰め込んだ癒苔ゆたいがポロポロと落ちたが、枯葉構わず扉をしめた。バタン! とうしろで大きな音がする。
 紺青の空からはシンシアバの黄金色の葉がはらはらと音もなく降っていた。轟音はとっくに彼方に消え、冥渤も落ち着きを取り戻しているが、空気の中にひそむ、肌をさす緊張は消えていないようだ。枯れ葉を蹴散らしてゆるやかな坂道を駆け下りたところで、ロアははっとして足を止めた。
 喚き声が聞こえる。
 あたりを見回し、彼はとりあえず手近にあったシンシアバの小枝を手に取った。脅威がどれくらいのものかわからないが、武器がないよりはある方がマシだ。一呼吸置いて心臓を沈め、それからロアは慎重に纂楹に足をのせた。冷たい空気のせいで肺が苦しい。
 冥渤の秩序を揺るがしていたのは、インスグリの白い体だった。浮いてはしずみ、しっぽで拿満なみを作って騒いでいる。さかんに纂楹の上を覗き込もうとしているが、界畳の層に遮られてキイキイと騒いでいるらしかった。そんな彼らの標的ターゲットは纂楹のふちにしがみついて――
 二つ目トゥヴイエオグ
 ぎくりとしてロアは体を引いた。しかし彼の意志に反してギぃ、と纂楹が軋んだ音を立てる。喚いていた茶色いボロきれはさっと顔をあげ、静かになった。
 小さな顔の中に大きな目がふたつ、ぴかぴかと光っている。顔の中心には線が走り、髪の毛ははえていないようだ。伝説ではインスグリと同じように平べったい口を持つと言われているが、そのボロきれには口があるように見えなかった。もしかしたら大きな鼻が顔に張り付いて口を押し隠しているのかもしれない。丸みのある顔には、その顔の二回りほど大きな胴体がくっつき、胴体から四本の細い腕が伸びている。でも体長はおそらくロアのくるぶしの長さもない。ちっともおそろしい生物にはみえない。本当にこの生物が冥渤に落ちた人々を食べてしまうのだろうか?
 枝を突き出し、ロアは身を屈めた。
「……あっちいけ!」
 キイキイとボロきれは声をたてた。前足の片方をもちあげて、さかんに振っている。なにを言っているのか? ロアを捕まえようとしているのか?
「くんなよ! あっちいけ!」
「ロア! どうした!」
 ロアは思わず舌を打った。ふりかえるとグランは二階の窓から身を乗り出して、探るように顔を動かしている。たぶんロアの声が聞こえたのだ。グランを不安にさせるわけにはいかない。しかしだからといって、このわけのわからない生物をそのままにしておくのも心配だ。もしトゥヴイエオグだったら、夜に家の中に忍び込んでくるかもしれない。
「ああ……ロアや! じっとしてなさい! 今、じいちゃんが助けてやるからな!」
「危ないから家ん中はいってて! なんでもないよ、えっと――インスグリが来てたからびっくりしただけ!」
「あ……あー……ロア! おじいちゃん――ああ……?」
「おじいちゃん、とにかく家の――――」
 うっかり言葉を途中で飲み込んでロアは顔をしかめた。しかし言葉を誤飲した痛みより恐怖のほうが勝った。
 足が圧迫されている。ふくらはぎに何かがしがみついている。ほんのりとあたたかく、そのくせ足に食い込む力は強大だ。彼は震え上がった。
 敵が小さいと思った油断をした。次はなんだ、足に歯を突き立てられるのか、それとも一気に背中を駆け上って首筋に噛みつかれるのか。まずい。グランを家の中へ隠さなければならないのに、俊敏に動けるはずのロアがこれでは――
「待って、待ってよ! こいつらにされちゃう、たすけてよ――!」

 

グランにはトゥヴイエオグの声は聞こえなかったようだ。それでいい、とロアは思った。グランはなにもしらなくていい。もしトゥヴイエオグが矼瞭塔の中にいるなどと知ったら、心臓が止まってしまうかもしれない。
 塔の中に飛び込んで、ロアはふとももにしがみついていたトゥヴイエオグを投げ飛ばした。きゃん! と甲高い声をあげて床でバウンドしたトゥヴイエオグだが、辺りをきょろきょろと見回すとすぐに床にかがみ込んで地面にぐるりと円を描いた。その間にも口はずっと動いている。私はフィオナ、から来たんだよ。来たっていうか事故で地上に帰りつけなかったんだけど! フィオナの書いた線は黒い光を放ったかと思うと、透明なシートのようなものを吐き出した。フィオナはすぐにその中に潜り込んで手のひらで確かめるように膜のあちこちを触っている。
 巣だ。
 勝手に巣を作っている。
「なにしてんだよ! 僕の部屋だぞ!」
 地団駄を踏んでロアは怒鳴った。
「僕の部屋ぁ? ちょっとくらいいじゃんか、酸素濃度が安定したらちゃんとお行儀よくするからちょっと待って」
 シンシアバの枝を握り直す。はやくグランのところへ行って安心させなければという思いと、いらだちがないまぜになって彼は強く息を吐いた。
「早く帰れよ! じゃなきゃこうだぞ!」
「やめてよ! つっつかないで! 穴あいたらどうすんの、あたしは生身で外に出たら死んじゃうんだよ!」
 どきりとして彼は体をこわばらせた。しかしこれも企みのうちかもしれないと思い直し、また枝を振り上げる。
「嘘ついたってわかるんだぞ! 外に放り出してやる!」
「話してるでしょうよ……なんなの? スパイごっこかなんかのつもり? 私、遊んでる気分じゃないんだけどな。あんたって図体はでかいけど、子供っぽいんだね。ま、あたしはgArlTガルルトの歳なんてわかんないけど――あ、酸素濃度が安定した」
「お前、トゥヴイエオグだろ! おじいちゃんを食べたら許さないからな!」
「なにそれ」
 二本の短い手で、フィオナは頭を抱えた――と思った瞬間、顔にあった線から皮膚がまっぷたつに破れ、中身がはみ出してくる。ぎくりとしてロアは一歩足を引いた。皮膚は胴体の半ばあたりまできれいに破れ、クタリと床に伸びた。
 中から出てきたのはブヨブヨとした白い塊だ。頭に黒く長い毛が生えて、顔があったところには小さな目がふたつと小さなとがった鼻がひとつ、そして平べったい口がはりついている。口の中には歯がある。
 トゥヴイエオグだ。
「ああ、苦しかった……いくらゼロ気圧に対応するためったってさ、ちょっときつすぎるよ、これ。あ、でね! 仲良くしよ。名前は――ロアってよんでいい? さっきおじいちゃんも呼んでたよね」
 ロアはそろそろと小枝を胸にだいた。たくさんのことが一気に起こったせいで頭が追いつかない。怖い。苦しい。わからない。逃げ出したい。グランのところへ逃げてなんでもないと言ってほしい。
「えっとね、どこから話をしたらいいかな。お願いがあるんだけど――ねぇ!」
 息を吸い、ロアは踵を返した。もう我慢ができなかった。
「ねぇってば!」

 

いくら閉じ込めているといっても、矼瞭塔にまったく近づかずに生活することはできない。矼瞭塔の中には毎日の生活に必要な食料はもちろん、シンシアバの苗や界畳や、それを貼るための粘汞ねんこうがある。毎日出入りをするし、それに晦噬の時の避難所でもあるのだ。あと三日で晦噬がくるというのに、危険なトゥヴイエオグが隠れていたらグランの身になにかあるかもしれない。どうにかしてグランに知られる前に、フィオナという名前のトゥヴイエオグは片付けてしまわねばならなかった。
 一旦家に戻り、ロアは朝食を一息で飲み干した。それからグランがうとうとし始めるのを待って音を立てないように外へでる。小走りで坂道を駆け上り、矼瞭塔のてっぺんにのぼって体をねじ込む。床に足がついたときに軽い音がしたので、彼は身を縮めた。
 矼瞭塔の中は薄暗い。乳白色の剛凝塊ベトニで固められた矼瞭塔は、地上から入る大きな金属の扉をあけたところに避難用の部屋が、そこから上と下に続く階段がある。下は備蓄の荷物を置いておくための倉庫で、上は見張りのための部屋だ。見張りの部屋のてっぺんには密閉できる丸い扉があり、出入りができる。
 床に手をついて、ロアはそっと下を伺った。避難部屋の灰色の床が見える。壁際には折りたたみのチェアが三つ、階段下に吊り下げられたハンモックも見える。地下に降りる階段の脇には、グランが転落しないように木箱が積んで置かれ、入り口は土で汚れている。フィオナは――
 いた。
 木箱の隙間に薄青い塊がある。その中で丸くなって眠っているらしい。
 足音を立てないように慎重に彼は階段を降りた。しかし膜の中を覗き込もうとした時、手にしていた小枝が壁にふれ、かすかな音を立てた。
 不意に恐ろしい気持ちがわきあがってきて、彼は小枝をにぎりしめた。やはりシンシアバの小枝では足りないのではないか? 植樹のときに使うスコップのほうがよっぽど対抗できる気がする。でもスコップは榾室の中だ。今からでも取りに行ったほうがいいのではないか?
「あ、ロアだ! 待ってたんだよ! 急にどっか行っちゃうんだもん。あ、それでね、あのね、相談したいことがあんの」
 両手で小枝をにぎりしめ、彼はそろそろと巣に近づいた。
 父親が界畳の補修をしているとき、ロアはよくそのそばで遊んだ。普段はほがらかで優しい父親も、岩礁から突き出した界畳の補修のときだけは厳しい。でも連れて行ってもらえると大人になったようで嬉しかった。岩礁の縁から少し離れた草むらにあぐらをかき、真似で透明な粘烋を界畳にぬりたくっていると、父親はよく言ったものだった。冥渤に界畳を落とすとトゥヴイエオグに場所を知られる。夜中にこっそり上陸して、匂いをたどって家までやってくるかもしれないから気をつけなさい。小さなロアは恐ろしく思った。トゥヴイエオグってどんな生き物なの? こわい? 冥渤の中でしか生きられないくせに、家まで来るの?
 冷たい恐怖が心を掴んだ錯覚をする。ぶるりと震えて、彼は小枝を抱きしめた。
「……はやく冥渤に帰れよ。おとなしく帰ったら見逃してやる」
「冥渤?」
「お前、トゥヴイエオグだろ」
「ちょっと待って。冥渤ってなに? それに私は人間だよ。トゥヴイエオグなんて名前じゃない」
「人間……?」
「冥渤ってのは島の外のこと? それだったら、んー、なんだろな。成層圏かな。オゾン層かな。地上はその下にあるんだよ。で、私はそこに帰りたいの。私の話、わかる?」
 ロアは首を傾げた。フィオナは早口で、しかも一息で一気に話すので、ことばを飲み込むのに苦労する。
「……冥渤に帰りたいってこと……?」
「ん、そういうことになるかな。でもね、途中にすっごく寒くて危険な場所があって、このまま降りたら死んじゃうの。もし運良く通り抜けられても、地表に激突したらやっぱり死んじゃう。私は生きて帰りたいんだよ。だから――」
「でも――」
 フィオナは口をすぼめてロアを仰いだ。黒い目がぬらぬらと光っている。気味の悪い目だ。亟族ならこんな目はしていない。大きなふたつの主眼はシンシアバの森と同じ銀漿しろがね色をしているし、主眼の下にある複眼はいつも虹色にきらめいているものだ。グランだってすっかり目が悪くなってしまったが、複眼だけはいつまでもロアと同じように虹色の輝きを失わない。それこそが亟族である証だと、いつも誇らしげにしている。でも、フィオナにはそれがない。
「でも? なにか気になる?」
「……トゥヴイエオグはなんでも食べちゃうってお父さんが……油断させるつもりだろ、わかってんだぞ」
「あのさぁ……同じ人間でしょ。それにあたしたちはgArlTガルルトには感謝してるんだよ。シンシアバの森がなきゃ地球は磁気嵐で壊滅だもん。ほんと、ちょっと太陽が風邪引いたくらいで文明が終わりかけるとか、宇宙ってやばくない? でも勇気あるgArlT――」
「わけわかんないこというなよ! お前は亟族じゃない!」
「そりゃ見た目は違いますけどね……ねー、ほんと、マジなの? もしかして私のこと、からかってる? まーったくなんにもしらないわけ? ほんとに?」
「なんだよ!」
 それはこっちのセリフだよ、と頭に手をあててフィオナはぼやいた。
「あのね……ああもう、わかった。わかったから全部説明するよ。だからとりあえず黙って全部聞いて」
「全部だぞ。嘘言ったらだめだぞ」
「嘘なんか言わないってば……」ああ、と額を小さな細い指でこすってまたフィオナはため息をついた。目の上にぽそぽそと毛が生えている皮膚を少し動かし、首を左右にゆっくりと振っている。なにを意図しているかわからない。
「あのね、ここは大気の中間圏なの。つまり空中にあんたたちは暮らしてるってわけ」

 

ここは地表からおよそ50kmほどのところにある空中であること、からは中間圏と呼ばれており、オゾン層の終端にあたりの成層圏界面のわずかに上にある安定した場所だということ、岩礁は地上の人間が作った基地であり、この基地が地上に墜落しないように界畳タイルを貼ってメンテナンスする必要があること、また肥大化した太陽によって発生する磁気嵐から地球を守るための装置がシンシアバの森であり、遺伝子改造を施されたgArlTとよばれる人間がシンシアバの森を管理していること。
 中間圏最下部はオゾンの濃度も低く、重力は地上比で97%、さらに気温は0度付近で、どうにか人間が生存できないこともない。しかし、気圧はほぼ0なので水はすぐに気化する。空気組成は地上と同じだが、密度は1300分の1で、とても人間が生身で生きられる環境にはないらしかった。この環境での作業を楽にするためだけに、gArlTは生みだされたのである。
 中間圏の環境に適応するため、gArlTは游糖水を体内で酸素と水に分解するらしい。体内で生成した酸素と水をできるだけロスなくつかうために彼らの体には四つの肺がある。本来は存在しない器官をおさめるために、胸骨は大きく開き、その胸を支えるために骨も変形した。目は紫外線にやられないように主眼の前に変形した軟骨がフィルタとして入っているが、そのままでは色彩を感じられないので、その下の複眼によって――
「嘘だ」
 膝を抱えてロアはうめいた。フィオナの話はまったくわけがわからないし、受け入れられない。
「あたしがあんたに嘘言ってなんの得があんのよ。考えればわかんでしょ。だいたい特殊なスーツも着ないで空のすっごい高いところに住めるとか、どう考えたってかっこいいじゃん、なにが嫌なの?」
「嘘つき!」
「なにさ、あたしがいつ嘘ついたの? 言ってみなさいよ」
「だって」
「じゃぁ聞くけど、界畳のタイルはどこから仕入れてるわけ? 木から収穫できるの? 違うでしょ、全部地上からこっちに送ってるんだよ。食料だってそう、游糖水だってそう、この家のシールドだって、隙間に詰め込んでるモヘアシールだって、全部地上で作って、こっちに輸送してんの。どこから来たかとか一回も考えたことなかったわけ?」
「だって、赴廻が持ってきて……」
「赴廻ってなに。栫鉉馗艇せんげんきていのこと? その宅配は毎回注文してるの? お金は払ってる? 払ってないの? 頼んでもないし、お金も払ってないのに配達してもらえるのは、ここでシンシアバを植えたり界畳を補修したりするのがgArlTの職務だからだよ。もう! よくそんなんで生きてこれたね、尊敬するわ」
 ぴくぴくと唇の端をひきつらせてフィオナは右手を払った。
 指先で床をひっかいてロアは小さくなった。フィオナの機嫌が悪いことと、けなされていることはわかる。たしかに彼は赴廻が生活のすべてを取り計らってくれるものだと思っていた。困ったときは近くの岩礁に助けを求めればいいし、それ以外のわからないことは祖父に聞けばことが足りた。なにより家族が晦噬に飲まれる前、彼はちいさな子供だった。毎日遊んでいるだけでよかったのである。
「まったく……地上に人間を食べる怪物が住んでるなんて! あんたちょっと頭があれなんじゃない? お父さんとかお母さんにいわれたことない?」
「トゥヴイエオグの話をしたのはお父さんだよ。冥渤に落ちたら――」
「あっそ。子供だましのお話ってわけね。わかったからお父さんを呼んで。どこに行ってるの? いつ帰る? あんまり時間ないし、話が通じる人がいないと困るんだけど」
 フィオナの声が耳に触れた途端、胸の奥にふつふつと悲しみがわきあがってきて、彼は慌てて両手で吮哺管しゅんぽかんを揉んだ。
「なによ」
 吮哺管の先をひっぱって、ロアは鼻の穴を開いた。
 七百日前のことが思い出される。あの日は大きな晦噬が来るという予報が出ていたから、空が暗くなる前に、ロアはグランに連れられて矼瞭塔へ移動してしまった。両親はすこしでも被害が少なくなるようにシンシアバの森を見回り、家を補強して本格的な晦噬が襲ってくる前に避難をする、はずだった。
 でも、二人は来なかった。
 すっかり晦噬が通り過ぎてから矼瞭塔の外を覗いたロアが目にしたのは、折り重なって倒れたシンシアバの森だけだ。家も榾室も、纂楹も、それどころかいつもロアを受け止めてくれたシンシアバの枯れ葉も小枝も、何一つ残っていなかった。
「え? なに? なんで泣くの? 卑怯だよ!」
「だって……」
 ロアは鼻の穴を閉じた。突然腹の中に現れた重く硬い石の正体がわからなかった。肌がぴりぴりとする。彼はますます困惑して、いつもより強く吮哺管を引っ張った。そして、泣き出してしまいそうだと思った。
 ロアが泣いていると、目に布を押し当てて母親はよく言ったものだ。そんなふうに泣いてたら、目が濁っちゃうわよ。ロアも早く、目以外で泣く方法を練習しなくちゃね。確かに父親は指先で泣く。母親は髪で泣く。祖母は耳で泣き、グランは体のどこも使わず声で泣く。それが大人になるということだ。でもロアはまだ右目が泣いてしまう。
「ねぇ、ごめん。言い過ぎたことは謝るから、お父さんかお母さんを呼んでよ。あんたじゃどうせ聞いたってわかんないんでしょ」
「……いない……」
「お父さんもお母さんも? どっかにでかけてるの? いつ戻ってくる?」
「……戻ってこない」
 指先で涙が音を立てて気化している。しかしそのスピードでも間に合わないはやさで涙がぼたぼたと手の中にあふれて、ロアはさらに吮哺管を引っ張った。鼻の下がぴりぴりとする。胸がしぼんで苦しい。でも息を吸うと声を出して泣いてしまいそうな気がする。
「帰ってこない? どういうこと? ねぇ、ちゃんと説明して」ビタン、と膜に手のひらを打ち据えて、フィオナはますます声を大きくした。見慣れない黒い二つの目はぬらぬらと光り、なにか悪いことを暗示しているようだ。しかも平べったい口の端からは尖った歯が覗いている。でもぷくんと頬を膨らませてロアを仰いでいる様子はそれほど恐ろしそうには見えなかった。それよりも彼の胸をつまらせ、塞いでいたのは悲しみだった。
「もしかして置いていかれちゃったの? そんなのひどい――」
「ひどくない!」
 とっさにロアは叫んだ。声が裏返り、喉の奥が痛む。右目から飛び出した涙が白い煙を吐いたが、それもちっとも怖くなかった。フィオナは目を丸くしている。口をぽかんとあけてロアを見ている。
「ひどくなんかない! だって! だって……! 落ち……たぶん、落ち、ちゃったんだ……」
 叫びたいのに喉が詰まって声が出ない。でなくてよかったと彼は思った。もし出ていたら、彼は声をあげて泣き出してしまったかもしれなかった。声で泣いたら、きっとグランは気づいてしまうだろう。彼の声に気づいて、グランも泣いてしまうかもしれない。あるいはロアのことが心配で、心配で、勝手に外に出て、なにかに躓いて転んでしまうかもしれないし、息子夫婦を探して歩くうちに足を滑らせて冥渤に落ちてしまうかもしれない。だから、ロアは平気でなければならなかった。泣いてはいけないのだった。
 フィオナはまだ口をぽかんと開けている。小さな二つの黒い目をまばたきさせ、ロアをじっと見ている。膜に手のひらを押し付け、尖った鼻の頭も押し付けて、じっと動かない。
 矼瞭塔の中は静かだ。天井の明り取りの窓から虹色の光が入ってくる以外、なにもない。音もない。シンシアバの木々はただ静かに立ち尽くし、音もなく金色の葉を降らせているだろう。それがゼンクォグだ。ロアの知る世界のすべてだ。
「ロア――……」
「…………」
「ごめんね。ごめん。そうだったんだ――……」

   2

ロアが知っている連絡先は隣の岩礁の叔父家族だけだ。しかも飛詒スィメを送信するための射接包パケセルは無駄にできない。
 ロアの右目が泣き止むまで、フィオナはひとことも喋らなかった。それどころか透明な巣を器用に操ってロアのそばまでやってきて、ずっとぴったりとロアに寄り添っていた。巣はすこし粘着質でつめたいが、彼女がもたれかかってくるとじんわりとした温かさが感じられる。それでまた右目が泣いてしまったが、すこしくらいはフィオナの言うことを聞いてやってもいいかもしれないと彼は思った。冥渤に帰りたがっているわけだし、拒否する理由もない。怒らせずに帰してやったら二度と悪さをしないかもしれないし、心を改めて亟族を食べなくなるかもしれない。
「今は一大事でしょ。だって地上からたどり着いた女の子が――あ、違う。かわいい女の子が困ってんだよ。超一大事じゃん」
「……そうなの?」
「そうだよ! ねぇ、ちょっとさ、今のなにが疑問だったの?」
 ロアは無言のまま、地下から引っ張り出してきた射接包に連絡先を入力し、ゼンマイを巻いた。きりきりと金色の歯車が音を立てて文句を言う。耳を貸さず、手応えがあるまで巻き切り、壁に備え付けられた飛詒のパネルに射接包をはめ込めば準備は完了だ。
 ガコン、と重い音をたてて射接包はパネルに飲み込まれていった。すかさずハンドルを回し、連絡先を選択する。右に三回、左に二回、さらに右に三回、合図が出たらハンドルが動かなくなるまで右に回し続ける。
 どきどきする。
 一人で飛詒を使うのは初めてだ。知らない人のところに送ってしまって怒られたりはしないか? 接続できたらなんと言えばいいのか? どうやって用件をきりだせばいいのか? いまトゥヴイエオグがいて――いや、それより先に挨拶をすべきではないか? 挨拶をちゃんとしないと怒られるかもしれない。
 様々な不安が押し寄せてきて、ロアは両手を握った。しん、と静まり返った部屋の中で、こぽこぽと「水」を作る音がする。煥奕かねきの橙色の光で游糖水を蒸発させているためだ。グラスの中の游糖水はふつふつと沸騰し、グラスの細い口から白い湯気を吐いている。湯気の出口にシンシアバの小枝をはめ込んでおけば、中に「水」とやらが貯まるらしい。ある程度溜まったら、気化しきらないうちにフィオナの巣の中に突っ込んでやる。彼女は小枝をひたすら噛んで僅かな水分を摂取する。とにかくまどろっこしいやり方だが、そうするしかないと彼女は言った。ほんと、シンシアバがあって良かったよ。地上を守ってくれるし、いざという時の命綱になるし、ほんと感謝しかないね。ついでに美味しかったもっといいんだけどな。
「まだかな。誰も答えないよ」
「ん……晦噬が近いから外で作業してるのかも……」
「晦噬? なにそれ」
「えっと……風が強くなって――」
 と、その時だ。りん! と壁のパネルが主張をして仄白い画面が空中にプッシュされた。まばたきをした画面が像を描き出す前に音声が先に届いた。
 派手な赤いセーターにふくよかな腹回り、なにか作業をしていたのか汚れた手をお腹で拭いているところはすこしだらしなさがある。でも実のところ彼の性格をあらわしているのは、細く長い吮哺管をきっちりと巻いているところだろう。前かがみになって画面を覗き込んだ彼は、ああ、と声を出してのけぞった。
「ロアだ。父さんになにかあったのかも。参ったな、こんなときに――もしかしてさっきの音で父さんが倒れたとか……やあ、ロア。久しぶりだね」
 ロアは小さくなって手を結んだ。叔父の顔を見るのは、本当に久しぶりだ。前の晦噬のあと、家を建て直すためにしばらくゼンクォグに滞在していてくれたのだが、生活が落ち着いてからはふっつりと連絡を取ることがなくなった。もともとほとんど交流がなかったので、ロアは特に寂しさをおぼえたことはない。
「えっと……こんにちは」
「ああ、こんにちは。久しぶりだね。もしかしておじいちゃんの具合が悪くなった?」
 ううん、とロアはあわてて首を横に振った。グランは元気だ。大丈夫とは言えないが、少なくとも病気ではない。
「じゃあ、晦噬が来るから心配になっちゃったかな。大丈夫、今回の晦噬はそんなに大きくないから、今日のうちから準備をしておけば怖いことはなにもないよ。本当は手伝いに行きたかったんだけど、これから赴廻が来るし、さっきの音のせいでちょっと検査が必要みたいでね――」
 ちょっと、とフィオナが小声で口を挟んだ。「はやくあたしのこと話してよ。なに世間話してんの?」
「でも晦噬のことも聞いとかないと……」
「だから晦噬ってなに?」
「ロア」
 はやくしてよ、とフィオナがまた急かした。白い画面の向こうで叔父はきょろきょろと頭を振っている。多分、フィオナの声が聞こえたのだろう。
「ロア、そこに誰かいる? 声が聞こえたような……」
「うんと……えっとね」指をひねって、ロアは渋々口を開いた。「あの……えっとね、トゥヴイエオグがいるんだ。それで……」
「ははあ」にやりと吮哺管をすこしほどいて彼は笑った。彼の声とは別の甲高い笑い声もする。「さては怖い夢でもみたね? 心配ないよ。トゥヴイエオグだって晦噬の間は――」
「ううん。夢じゃないんだ」
 叔父はまたきゅっと几帳面に吮哺管を丸め、小首をかしげた。一瞬目元にシワをよせて深刻な顔になったが、すぐに吮哺管をすこし緩め、ふむ、と息を吐く。
「ちょっとわからなかったからもう一回言ってくれるかな」
「トゥヴイエオグがいる」
「今、そこに?」
「うん。それで、えっと……なにを聞けばいいの?」
 私が話す、と憮然とした口調でフィオナは返事をした。「彼に見えるように持ち上げて」
「ロア。落ち着いてもう一回叔父さんに言ってくれるかな。なにがいるって?」
「トゥヴイエオグ」
 早くしてよ、とまたフィオナが急かしたので仕方がなくロアは身を屈めた。フィオナの巣は軽い。しかし中にフィオナが入っていると話は別だ。
「――まさか。今朝の? 生存は絶望的だったってニュースで言ってたじゃないか……いや、でも今確かに。お母さんも聞こえただろ――」
 一旦腕で抱え、さらに胸に抱き直して、ロアは画面の前に戻った。いつのまにか画面の中には叔母が顔だけだして覗き込んでいる。主眼のまわりにシワを寄せ、深刻な顔だ。なんとなく不安を覚え、ロアはフィオナの巣をもう一度抱き直した。
「こんにちは! 私、フィオナっていうんですけど……ね、この人たち、誰?」
「叔父さんと叔母さん」
 ぐ、と叔父が身を乗り出した。叔母もよろけるように近づいてきて、画面に顔をくっつける。
「ちょっと、お母さん、そんなに近づいたら見えない……」
「あのぉ、私、今朝の事故で奇跡的に脱出したんですけど、地上に帰る方法を探してて、誰かの協力が必要なんです」
「嘘でしょ、生きてるわ。この子」
 そりゃ生きてるよ、と短い吮哺管をそらしてフィオナは小さな声で言った。
「本物……?」
「ロアは本物見たことがないんだから、この形ってことは本物でしょう。すぐにどこかに連絡……」
「すぐったって晦噬が来るのに。それに補修が間に合うかどうか――」
 やっぱ大人は話が早いね、とロアを仰いでフィオナは歯を見せた。白く並んだ歯はどことなく不気味でロアは見たくないのだが、彼女は見せびらかさずにはいられないらしい。貧相な吮哺管しかないので、対抗心を燃やしているのだろうか?
「連絡もお願いしたいんですけど、私、手持ちの酸素が少なくて四日くらいしかもたないんです。水の作り方は知ってるけど、酸素は知らなくて。なにかいい方法はないですか?」
 画面の向こうで目配せをしあった叔父夫妻は、表情を神妙にしてフィオナの方へ向き直った。どうやらふたりともフィオナの存在自体は恐ろしくないらしい。しかし表情がどことなく暗いのは気になる。
「……あなたが言ってよ」
「言ってよったって、そんな、ちょっと、お母さん……」
 もじもじと大人のくせにセーターの袖をひっぱって、叔父は情けない顔になった。吮哺管を巻いたりほどいたりして、画面の向こうに救いを求めている。なんとなく嫌な予感がする。
「あー……」こめかみを爪の先でひっかいて、叔父はため息を一つついた。「大変な事故だったのに、脱出できて本当に良かったね。ええと……怪我はなかった?」
 ロアは首をかしげた。叔父の声にはどことなく陰りがある。泣いているようだ。
「栫鉉馗点察に救助艇を送るように頼んでおくよ。そのついでに酸素の作り方も聞けると思うが――……あー、実は私達は第四世代だから酸素を必要としないんだ。それで――つまり……」
「つまり?」
「あの、だね……游糖水から作る方法があるかどうか、ちょっと定かじゃない――あ、いや、たぶん大丈夫だろう。最悪空気を圧縮すればどうにかなるさ。ここの空気組成は地上とおなじだからね。だから、コンプレッサーさえあればどうにか――ロアのところにあったかどうかわからないけど……うちもこの間の晦噬で古い機材が流れてしまって――あー……」
 ちらりとフィオナがロアの顔を仰いだ。さきほどまで歯を見せていたのに、今は顔の中心にシワを寄せている。
「それと、三日後に晦噬が――あー、下界だと、えー……磁気嵐だったかな? あれが来るから栫鉉馗艇を……その――」
「磁気嵐? 今、磁気嵐っていいました?」フィオナは膜に手を当て、前のめりになっている。口をすこし開けているが、歯は見えない。「でもここはほとんど機械式だから、栫鉉馗艇だって動かせますよね――」
「あー……たしかに栫鉉馗艇は電子機器を使ってないんだけど、冥渤が荒れるから動かせるかどうか……」
 またこめかみを指先でひっかいて喉の奥にひりついたことばをはがすように彼は言った。宇宙線が飛来するとオゾン層で反応がおこるだろう。それで発生した熱のせいで大気が不安定になるんだよ。その影響がこのあたりまであって、強烈な風がふくんだ。我々が晦噬とよんでいるのはその風とオゾン層のうねりのことで、襲われたらひとたまりもない。だから栫鉉馗艇は動くかどうかわからない。それに、さっきの事故で栫鉉馗にやぶれたところがあるかもしれないから、まずは点検するらしい。とにかく、こう晦噬が近くちゃなにも予想がつかなくて――
 ぐにゃり、と唐突に彼女の体から力が抜けた。かろうじてロアの腕に引っかかったが、巣を覆う膜にしなだれかかり、両手で顔をひっぱっている。
 口をひらいた彼女は、しかし、喉を鳴らして言葉を飲み込んでしまった。膜にじんわりと彼女の体温が伝わって、熱いくらいだ。
「……とにかく――なにかわかったらすぐに連絡をするよ。あとは食事、かな……ロア。非常食なら彼女も食べられるはずだから分けてあげなさい。トゥヴイエオグだからっていじめたり叩いたりしちゃだめだよ。おじいちゃんには……まだ言ってない? ああ、そのほうがいいな。ちょっと心臓が弱ってるから驚かせないほうがいい。晦噬も近いしね。大丈夫だ、きっと助かるはずだから――」
 フィオナは答えなかった。なにも、言わなかった。

 

「だめ。だめだめだめ、泣いちゃだめ。まだわかんないもん。絶対に無理ってわかるまで泣かないんだから」
 巣の中でうずくまっていたフィオナが突然叫んだので、ロアは顔をあげた。
 叔父との交信からしばらく、フィオナは皮にくるまって動かなかった。ロアが一人で植樹に行って戻るとさすがに起きたが、ずっとだんまりだ。仕方がないので巣ごとバケツにいれて持ち帰り、グランにばれないように自室にそっと押し込んでおいたのだが、どうやらようやくしゃべるつもりになったらしい。
「だってさ、私は奇跡を起こしたわけよ。あそこから脱出したんだよ。だったら次だってどうにかなるかもしれないじゃん? なるよ。大丈夫だって。泣かないもん」
「……誰と話してるの?」
 がばり、とフィオナは皮から顔を上げた。顔が真っ赤になって、肌に黒い髪の毛が張り付いている。慌てたように両手で顔をさすって、彼女は首を横に振った。
「いるならいるって言ってよ! なんでもない、なんも言ってないよ。ほんとだよ」
「非常食見つけたけど食べる?」
 ん、とフィオナは頼りのない声で返事をした。食器棚で見つけた小袋を見せると、跳ねるように膜に飛びついた。
「食べ物だ!」
「游糖水に溶かすから――」
「待って待って、私、游糖水は飲めないよ。固形のままでも食べられるからちょっとだけ分けて」
 言われてみればそのとおりだ。亟族の口は吮哺管と呼ばれるストロー状の管なので固体は摂取できないが、彼女には不気味な歯がある。固く焼き固めた焼紗蜜やきしゃっぷを噛み砕くのもきっと難しくないのだろう。
 小さなかけらをひとまずといったふうに口に押し込んで、フィオナはふむ、と奇妙な吐息を漏らした。
「んー……かたいね」
「あっためて溶かす?」
「んーん、だいじょぶ。おいしいよ。甘くて、おいしい」
 ベッドに入る前に、ロアは巣を抱き上げ、サイドチェストの上に載せた。いちいちベッドから出て、フィオナに水をやったり、紗蜜を分けるのは面倒だ。それにフィオナが大きな声をあげてグランに気づかれたらまずい。
 ぶつぶつと窓ぎわに置いた報機が絖詒測を垂れ流している。
 ロアはベッドの上にあぐらをかいて緘函釜かんかんがまを膝の上に載せた。足先で奐奕かねきのヘッドを肯定し、緘函釜をずり落ちないようにそっと乗せる。釜の底をちろちろと奐奕の橙色がなで始めたら、中に黄平豆ハガスのペーストときりわけた赤菁果しゅぜいずを放り込み、よく練る。フィオナも味見がしたいと言うので、游糖水に溶かす前に指でかためてわけてやる。
「ロアっていろんなことできんだね。料理もいろいろ知ってるし……」
「これくらい簡単だよ。赴廻の人に教えてもらったんだ」
 肩をすぼめてフィオナは息を漏らした。片手に焼紗蜜を持ち、もう片方の手にロアの作った夜食をもって、口を平べったくしている。歯は見えない。
「私、gArlTってもっとな生活してるんだと思ってた」
「ハイテク?」
「うん。だってgArlTって簡単に言ったら人造人間でしょ。シンシアバを植えるためだけに作られて――作られたっていうか、自分たちで志願したんだよね。でもその子孫はやっぱ、どうなんだろうなとか、いろいろ考えるわけ」
 舌を出して彼女は口の周りを舐めた。ロアは驚いたが、フィオナはまったく素知らぬ顔だ。そのままやわらかい黄平豆に噛みつき、首を傾げて咀嚼をする。
「でさ、自力で生殖も出産もできないし、住む場所は選べないし、みんな生まれたときからだいたいおんなじ仕事するって決まってるし、性格とか、そういうの、全然ないと思ってたんだ。超合理的でさ、遊んだりとかそういうこと全然やってなさそう、みたいな。地上に帰還した人たちはきっとちょっと変わってて、だから馴染めなかったんだって思ってたの。でも違うんだね。だって、トゥヴイエオグって!」
「……?」
「なんでもないよ。びっくりしたってことが言いたかったの」
「ふうん」
 ザザ、と絖詒測にノイズが入った。手のひらでぱちん、と叩いてやるとすぐにノイズは消え、またおとなしい落ち着いた声が予報を語り始める。
 窓の外に銀白の星がピカピカと降っている。
「……あのね、ロア」
「なに?」
 緘函釜に游糖水をいれて、ロアは中身をゆすった。フィオナは少しうつむいている。ロアと同じようにあぐらをかいて、茶色の皮を肩にかけている。
「あのね、お願いがあるんだ」
「また?」
「これで最後だから聞いてよ」
 ほんとに最後だろうかとロアは怪しく思った。フィオナは要求が多い。一つ頼みがあるといって二つも三つも言う。でも顔を上げた彼女の目がぬらぬらと光っていたので、彼はなにも言えなかった。彼女はまだ両手で食べ物を掴んでいる。小さな目をいっぱいに開いて、唇をしっかり閉じ、胸を膨らませて息を吸っている。表情の意味はよくわからないが、ふざけているわけではないことをロアはなんとなく悟った。
「あのね、もし酸素が尽きても助けが来なかったら――」するりと視線を落とした彼女だが、すぐに息を吸ってまた顔を上げた。彼女の黒い目の中にベッドサイドランプの明かりが灯っている。ほの赤い、やさしい色だ。明け方の空の色に似ている。
「私、その時はきっといっぱい泣くと思うから、なんにも言わないで抱きしめて。それでね、死んじゃったあとは棺、にきれいなお花をいっぱいつめてシンシアバの木の下に埋めてほしいの」
「…………」
「すごく勇敢な女の子が――ああ、ちがう、すごく勇敢でかわいい――美少女! いや、美少女はさすがに図々しいかな、いいや、かわいいで、あ、まって、ここだと腐らないじゃん、やっぱ勇敢だけでいいや。勇敢なフィオナ、ここに眠る、って墓標をたててね。お願いしていい? 今の、ちゃんと覚えた?」
 もぞもぞと足を動かしてロアは吮哺管を巻き取った。暗闇が急に重量をまして、頭の上にのしかかったような錯覚をした。
「……間に合うんじゃないの?」
「ううん。多分間に合わないと思う。わかんないけど……」
 ざざ、と報機が彼女のことばを遮った。のろのろと顔を動かしたフィオナがそちらに視線を送るのを待っていたように、絖詒測のアナウンスが始まる。
 今回の晦噬はおおきく蛇行し、ところにより南南東に風速150m/sを超える強い風が吹くこともあるでしょう。安全な場所に避難して、できるかぎり不要不急の外出は避けましょう――
 彼女の目は不思議だ。膜がついていて上下に開閉する。勝手に開閉するのかと思いきや、自分の意志で動かしているように見えることもあって、ロアは不思議でならなかった。それと歯だ。やはり何度見ても見慣れない。
「……秒速150m……」
「え?」
「今いってたでしょ、風速のこと。そんなに強い風が吹くんじゃどこにもいけないね」
「150くらいならたいしたことないよ。この前の晦噬のときなんか500も出たんだよ。それに冥渤から波が――」
「ちょっと待って」
 思いの外強い口調で唐突に彼女はロアを制した。びたん、と手のひらを膜にうちつけ、小首を傾げている。
「…………?」
「……えっと、中間圏の下部の空気密度って地上の千分の一くらいだから、地上換算だと、ええと……多く見積もっても秒速5mくらい……え? うっそ。たったそれだけ?」
 さわさわと窓の向こうでシンシアバの葉が音を立てている。晦噬が近づいて、風が少し吹き始めている。明日の朝の様子次第でははやめにグランを矼瞭塔へ移動させなければならないとロアはこっそりと思った。シンシアバの木のてっぺんからぶら下げたブランコも縄を切って地面におろしておいたほうがいいかもしれない。めちゃくちゃに暴れて家を壊してしまうかもしれないからだ。
 背筋を正したフィオナは、目の膜を上下させて、うそ、とまた言った。
「風に乗ればステーションにたどり着けるかも……」
「ステーション?」
「うん。地上の人たちが使ってる場所だよ。そこにいけば絶対に酸素は手に入るし、らくらく地上に帰れる。ただ、ステーションって赤道直下にあって、ここは緯度六十度付近だから、栫鉉馗艇に乗らないとたどり着けないんだ。でも、もし風が吹いてたら……」
 大急ぎというふうにロアの夜食を口に押し込んで、彼女は片手を前についた。また白い歯を見せている。よくわからないが、歯をみせているということは機嫌がいいのだ。しかしなぜ機嫌がよくなったのかはわからない。
「ここに不時着したのって、スピードが出なかったからなんだ。爆風でなんとか飛びたったけど、スピードが出ないし安定して長距離飛行ができなかったの。なんでだと思う? 空気がないからだよ! 空気密度が低いから揚力が生まれないんだ。でも風が吹いてたら? さらに追い風だったら? 長距離航行ができる! しかも風は蛇行して南南東に向かってるんでしょ。秒速150mの風が吹いてたら、だいたい……あーわかんない! 暗算できない! でもたぶん15時間もとべば赤道にたどり着けるよ! いけるよ、行ける、ロア! 私助かるかもしれない!」

   3

風が強くなってきた。
 見張り部屋にひそんでいるフィオナはぎりぎりまで水分補給をしているが、音は少しも立てなかった。グランを椅子にすわらせ、ロアが食事の用意をしている間もひっそりとしている。昨日は急に不安になったといって泣き出したので、ロアは心配でそわそわとした。
 絖詒測の予報が壁から流れている。静かに流れ出し、灰色の壁に染み込んでますます陰気な気分にさせる。いつになく手が震えるのかグランはなにかとロアを呼んだ。ロアや、そこにいるかね。外に行ったらいかんぞ。あぶないからね。なぁに、心配するこたないさ。絖詒測も大したことのない晦噬と言っているし、眠っている間にすぎるよ――
 あまり時間がない。
 グランに食事を与えてから、ロアは見張り部屋へのぼった。ぐるりと螺旋階段を登り、途中でロアを呼んだグランに様子をひどくなる前に様子を確かめると声をかけ、てっぺんまで駆け上がる。フィオナは巣の中だ。飛行スーツを身に着け、頭部マスクだけをはずしてシンシアバの木を噛んでいる。ロアに気づくとくるりと目を丸くして、彼女はにっと
「準備万端だよ。ちょっと待ってね」
 ロアは答えられなかった。吮哺管を掴むと、また右目が泣き出しそうになる。
 フィオナの計画はこうだ。ゼンクォグの一番高い場所、つまり矼瞭塔から彼女自身を発射する。発射方法は簡単だ。シンシアバの木のてっぺんにロープを掛け、目いっぱい引っ張って矼瞭塔に結びつけておく。彼女がそれに捕まったら、ロアがロープを切る。引っ張る力がなくなれば、シンシアバは復元力でフィオナを振り投げるだろう。フィオナは一番スピードが早くなったタイミングで風に乗り、大きく転回して南南東を目指すのだ。
 怖い。
 晦噬は恐ろしい。でも今はフィオナが危険な旅に出ることのほうがロアは怖かった。本当に彼女は長い距離を飛べるのか。叔父に連絡して赤道付近の施設には連絡を入れてもらったが、そこに辿り着く前に力尽きて冥渤に落ちてしまったりはしないのか。酸素が尽き、気を失ってしまったら? なにより出発に失敗して墜落したら――
「ロアや! 外を見るのはいいが、顔だけにしなさい!」
 下からグランの声がする。マスクをかぶっているフィオナから少し離れ、ロアは階下に顔を突き出した。グランは少し顎をそらして空中を見ている。目はロアの方をみていない。なにも見えていないはずだ。
「わかってるよ」
「油断は大敵だぞ。ちゃんと手すりにつかまって――」
「うん。わかってるってば。ちょっと見るだけだよ」
 ううん、と唸り声をあげ、グランはそれでもなにかもごもごと小言を言った。マスクを身に着け、手元の操作をしていたフィオナが首をすくめている。
「……おじいちゃんの言うとおりにしなね。すぐにここをしめて中で大人しくしとくんだよ」
「……」
「わかってるよって顔してる」
 くすくすと彼女はまた首を縮めて笑った。
 彼女は恐ろしくないのだろうか、と思う。本当に危険なのはロアではなく彼女だ。でも、抱き上げても彼女はちっとも震えていなかった。ロアは息をすい、そして苦労して吐いた。
 右手で旋栓鐶しせんかんを回す。金属のこすれる軽快な音が徐々に弱り、少し手応えがなくなったかと思われるところで空気の抜ける音がした。ほんの僅かな隙間からも湿り気を帯びた風が入り込んでくる。ロアの肩にもたれかかっているフィオナが少し顎をそらし、入り口を仰いだ。
 右手に力を込めると、隙間を見つけた風がわっと声をあげて我先に飛び込んできた。しかし重い扉はそれくらいではびくともしない。慎重に扉を跳ね上げながら、彼は短いはしごにあしをかけた。
 扉の外側の旋栓鐶に、ロアが切るべきロープはくくりつけられている。すでに風に怯えて震えているが、しなった木は頭をたれてフィオナをおとなしく待っていた。ロアが短いはしごを登り上半身を乗り出すと、腕から抜け出したフィオナがシンシアバの細い幹にしがみついた。
 風が吹いている。轟々と音を立て吹いている。外は白々しいほどに明るく、天に緑色の雲が翻っている。雲はほのかに光を発し、たゆたう布のようだ。明るい空の下で、深い紺色をした冥渤も今は大きなうねりを作ってかすかに発光していた。うねりはシンシアバの森におしよせ、浜に乗り上げ、行き場を失って力なく引く。纂楹はすでに冥渤の下だ。
 ロアは息を吸った。
 喉元まで言葉が出かかっている。やっぱりやめたほうがいいよ、だってすごく危険だよ。冥渤に落ちたら、どうするの? うまく飛べなかったら、どうするの? やっぱり――
「ロア! 早く降りておいで! あぶないよ!」
 階下をみる。足の悪いグランが登ってくることはないが、彼を不安なままにさせておくことは、ロアにはできない。フィオナも小さな手でしっかりとシンシアバの幹をにぎりしめ、ロアが動くのを待っている。これしかないんだよ、少しでも可能性があるなら試したいんだと彼女は言った。私は死ぬのが怖くて震えて待つのなんていやなの、どうせ死ぬなら迎えに行ってやるんだから。そう言っていた。
「ロア、私――」
「カウントは3でいくよ」
 なにかいいかけたフィオナの声をさえぎって、ロアはお腹に力を入れた。お腹に力が入ると声は元気になる。自分が思っていたよりもずっと大人のような顔をした声だったので、彼はぼんやりと父親の姿を思い浮かべた。
「大丈夫だよ。フィオナならできるよ、絶対帰れる――」
 でも、右目がまた泣いている。泣き始めるとしゅわしゅわと肌の上で音がするからすぐに分かる。顎を引き、深呼吸をする。怖い。怖くて逃げ出したい――でも。
「ロア」
 片手を離してフィオナはロアの額を撫でた。マスクをしているせいで表情がわからない。歯を見せているのか、口を平べったくしているのか、それとも尖らせているのか、まったくわからない。でも声は違った。やさしくて、明るい声だった。
 ポケットからはさみを取り出す。両足を踏ん張り、左手で扉を、右手の鉗はロープの先にくくりつけた紐にあてがい、息をすう。幹にしがみついたフィオナがうなずいて、合図をする。
「3、2、1――」

 

パシュッと軽い風が頬をかすめただけだった。白い光の中に飛んでいったフィオナの茶色い体はぐるぐると回転して光の中に溶けた。しかしすぐに大きく腕を広げた影があらわれ、折りたたんだ翼を広げる。体を傾けて旋回した彼女はロアの頭の上を飛び越えて南西の方角へ流れていった。シンシアバの森が視界を遮り、あっという間に彼女の姿は見えなくなった。体を乗り出しても風に騒ぐ冥渤が見えるだけだ。
 あっという間だった。
 別れを惜しむ暇さえなかった。
 フィオナはただ自信満々で強気で、そしてなにも泣き言を言わなかった。ロアの右目は泣いたのに、なにも言ってくれなかった。
「ロア! 降りてきなさい!」
 どう、と音を立てた風に押され、彼は我に返った。グランの声は夢の向こうからやってくるようにも思えるが、風の冷たさだけは間違いようがない。彼は旋栓鐶を両手でつかみ、はしごを足で蹴って床に飛び降りた。ばたん、と鈍い音を立てて扉が閉まると、風の音も遠くなる。
「もう降りるよ!」
「ああ――……静かになったな……ロア! ちゃんと扉を閉めるんだよ!」
「今しめてるよ!」
 両手で旋栓鐶を回す。最後はぐっと腹に力を入れて回しきり、さらにガタツキがないかどうかを確かめて、彼は階下を覗いた。
 いつのまにかグランは立ち上がっている。苛立ったようにぐるぐると同じ場所をまわりながら、天井を仰いでいる。ロアが階段を駆け下りても、彼の視線は天井のままだ。時々壁をすり抜けて走り抜けていく風と冥渤の音に耳をすましているようだ。
「おじいちゃん、座ろ」
「んん――……」
「外、なんにもなかったよ。大丈夫そうだった」
「ん、そうかね……」
「灯丹茶にする? それとも――」
「ロアや」
 低い声でグランは声を吐いた。まるで見えているようにロアの腕をがっしりと掴み、珍しく胸骨を大きくふくらませる。怒っているのだ。
「……ごめんなさい。この間植えたばっかりのがあったから気になって……」
 んん、とグランはまたのどの奥で唸った。しかし声は荒らげなかった。痩せっぽちな体をまるめ、しわだらけの手でロアを掴んでいる。ロアが少しでも動けばシンシアバの小枝のようにぽっきりと折れるのはグランの腕のほうだろう。弱々しく、力がない。まるで――
 まるでフィオナのように。
 また右目が泣いている。
 のろのろとうなだれて、ロアはグランの肩に額を押し付けた。グランの肩は細い。しぼんだ胸骨のおかげで、背中をあまり丸めなくても額が届いてしまう。少し力をいれたら、崩れてしまいそうだ。でも、彼のかなしみを受け止めてくれるのはグランの肩だけだった。
「ロア……ああ、どうした。怖かったのか。そうか、そうか、大きな声を出してすまんかったな。そうか、そうだな」
 違う、と彼は胸の中で反論した。違う。怖かったではない。
 光の中に消えていった小さなフィオナの姿が蘇る。いつだって彼女は明るい声で大丈夫と言った。大丈夫。絶対におうちに帰るから。地上に帰って、みんなに大冒険の話をするんだ。本だって出すよ。そんでロアのこといっぱい書く。遊びのこととか食べてるものとか、小さなおうちのこととか、全部書く。きっとロアは英雄になるよ。それでね、それでいつか、きっと、必ず、遊びに来るから。だから大丈夫だよ。
「ロアや、灯丹茶をいれておくれ。座ってお茶を飲めば落ち着くからね。な、心配ない、心配ないさ、今日はじいちゃんが一緒に寝てやろう、ちょっと目をつむってあけたら朝になってるよ、だから――な、ロアや」

   (了)

文字数:25018

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