梗 概
右の脳、左のからだ
2020年の東京オリンピック開幕が3日後に迫る日本の羽田、関西国際、中部国際、福岡の各空港に複数のパレスチナ人が降り立った。彼らは反イスラエルのテロ組織アシュケロンに所属し、いずれも親や子供をイスラエル軍に殺された経験を共有する暗殺者たちである。ターゲットは開会式当日に来日するイスラエル首相で、右派政党リクード党首のダヴィド・ビーマン。テロ対策の遅れた日本で、要人が不特定多数の前に姿をあらわすオリンピックは、テロリストにとってまたとない好機であった。
開会式の当日、エル・アル航空のVIPフライトで羽田空港に到着したビーマン首相は、自国から同行した腕利きの護衛に守られて国会議事堂に立ち寄った後、国立競技場に向かう。屈強な護衛のなかに、ひとり車椅子に乗り、人工の右脳を装着したカリファ・マクラムがいた。彼は優れた空間認識能力を備える左眼と右脳を持ち、警護チームの司令塔とも言える存在だが、身体は虚弱で車椅子なしには移動することもできない。日本の警視庁警備部警護課からも、南警部をリーダーとする6人のSPが警護についた。暗殺者グループも東京で集合し、国立競技場に移動を開始する。
一方、国立競技場内で開会式の準備を行う演出チームに、ひとりのアラブ人女性がいた。名はルバーといい、人間拡張工学を学ぶ留学生だ。開会式の演出は最先端のVR技術が採用され、彼女の研究室は技術協力を行っていた。
人間拡張工学とは、機器や情報システムを駆使して人間の感覚や運動機能を拡張し、工学的に超人を生み出そうとする学問領域である。一般的に義手や義足、車椅子などは、障碍者の身体的弱点を補い、健常者に近づけるものと考えられているが、最先端のテクノロジーは健常者を超え、ときに超人的な能力に拡張することを可能にする。ルバーの左手足は義肢であり、野球のボールを時速300キロで投げ、100mを5秒で駆け抜け、20mの壁をジャンプで超えることができた。ただ彼女は交感神経系に異常を抱え、しばしば感情のコントロールが出来なくなることがあるのだが…。
一足先に会場に到着したカリファは南警部とともに、VIPの移動ルートと着席位置を確認し、警護の穴を潰していく。首相の到着前にはカリファの指示を受けて、本国の護衛たちも国立競技場内に散っていく。
歓声と拍手、会場内にこだまする大音量の音楽とともに開会式が始まった。テロチームにとって、開会式のクライマックスとなる聖火の点火が襲撃の合図だ。会場内でプロジェクションマッピングや複合現実(MR)などの映像技術による日本文化の映像絵巻が展開する一方で、綿密に計画された暗殺計画が進行する。会場を見渡す調整室で、ルバーは左腕を攻撃用の義手に取り替える。
2年前に来日したルバーは、国立競技場を設計した建築事務所の男に接近して設計図面を入手していた。その情報をもとに競技場の建設作業員に採用されたテログループの一人が競技場に爆破物を設置し、作業員不足で急ごしらえの競技場は足元に爆弾を抱えていた。ルバーは競技場の業務用通路を通って、爆発物をひとつづつ起動させていく。
開会式も終盤となり、国立競技場のアリーナに1000台のスカッドドローンが飛来し、7万人の観客のどよめきが波となって競技場を揺らす。テロリストらは喧騒に紛れてビーマン首相に近づくが、カリファに発見されて一人また一人と射殺されていく。騒々しい場内で、倒れこみ運ばれていく男を気にするものはない。
開会式の聖火台の点火式が始まった。2人のテロリストがビーマン首相に襲いかかるが、もみ合いの末階下に突き落とされ、聖火台の点火と同時に空中で自爆する。飛び散る肉片を目にした観客たちはパニックになり、開会式会場は大混乱に陥る。同時に炎が吹き出す聖火台の基部が爆発し、VIP席に向かって聖火が倒れかかる。その神聖な炎は木製のひさしが突き出した屋根にも引火し、国立競技場は赤々と燃え上がる。同時に国立競技場の周囲を取り巻く支柱が次々に爆破され、建物が倒壊していく。
逃げ惑う観客の群れで阿鼻叫喚のちまたと化した競技場から、護衛に守られたビーマン首相が関係者用通路を駆けていく。その道を遮ったのは、ルバーだった。炎で焼かれ、むき出しになったその左半身は、燃え上がる火炎が写りこんでてらてらと輝いている。アドレナリンの過剰分泌と交感神経の興奮状態のルバーは、護衛たちをなぎ倒し、ビーマンに迫る。ビーマンはカリファの後ろに逃げ込んで車椅子を盾にする。ルバーは左腕でカリファの右頭部と車椅子を貫き、ビーマンの腕を掴んでその命を奪おうとする。薄れゆく意識の中でカリファは動く右腕を伸ばし、ルバーの首に触れ針を差し込むと、彼女の左半身に運動指令して彼女はその場に崩れ落ちる。VIPは這々の体で会場から逃げ出していく。
「お前は誰だ?」ルバーはきく。
「覚えていないのか? 私はあなたの一部だよ」と、カリファ。
カリファとルバーは結合双生児(シャム双生児)として誕生した。人間拡張工学の研究者であるアドラー博士によって分離されたルバーは、灰燼に帰した東京で自分の半身と出会う。結局、ビーマン首相は車椅子を盾にした映像が世界に拡散してその地位を失い、双子は傷んだ器官を交換して政府機関で働くことになる。
文字数:2171
内容に関するアピール
物語の主人公は、半身が癒着したまま生まれた結合双生児(シャム双生児)である。ふたりでひとつだった彼らは、生きのびるために分離される。引き裂かれた双子にとって、片割れはかつて感情と知能を共有した自分の一部である。
<設定>
1995年の9月、地中海を望むイスラエルの港町ハイファで、半身が癒着した結合双生児(シャム双生児)が誕生した。ふたりの姉弟は、片腕片足にかけて結合し、片方の脳を共有していた。パレスティナ人である彼らの父親はその年に始まった第二次インティファーダで戦闘ヘリコプターによる爆撃で死亡し、ユダヤ人であった母親も出産による子宮内出血で亡くなってしまう。
当時のハイファに結合児分離に対応した病院はなく、ふたりの新生児は生後5日目に容態が悪化するが、人間拡張工学の研究者でヘブライ大学教授のヒレル・アドラー博士のもとに搬送され、外科的に分離されることになった。2人にどの器官を割り振るのかが慎重に検討され、姉(ルバー・マクラム)は完全な脳を、弟(カリファ・マクラム)は完全な体を持つように分離された。その上で、アドラー博士は最新のテクノロジーを用いて、姉に足りない人工の左腕と左足を与え、弟には人工の右脳を装着した。ただ、当時の技術力では脳の機能を代替するのは難しく、カリファは植物状態で生き続けることになる。
ところが2008年にエジプトで開催された学会参加中、アドラー博士は身体拡張技術を独占したい政府機関に拉致され、ルバーもまた誘拐されてしまう。アドラー博士はルバーを脱出させるが、自ら犠牲となって命を落とす。一方、カリファはアドラー博士のライバルでもあったヴァインベルガー博士に引き取られ、その能力を開花させる。
しかし、ふたりの育った環境が彼らの運命を大きく分かつことになる。姉はパレスチナ人として、弟はユダヤ人として成長し、対立の渦に巻き込まれていく。
科学技術がひとつの存在をふたつに分けることが可能になり、欠損した器官を人工物で補綴することで「超人」となったとき、敵対する民族に属する姉弟を描くことは、SF的設定を用いて、私たちの社会にある不寛容な人間関係を考えることでもある。あるいは読者は引き裂かれた自分自身を想像し、全く異なる人生を歩むふたりの行く末が気になるかもしれない。
器官の不足した彼らは障碍者である。ふつう日本では同質的な集団のほうが個々人の能力は発揮されると考えられている。だから、異分子はできるだけ排除される。最近も中央省庁で障碍者雇用数の水増しがあったばかりだし、移民論議も盛んだ。しかし、障碍者がより高い能力を発揮するようになったとき、異なるもの同士の出会いは、何をもたらすだろう? 障碍者差別解消法が施行され、インクルーシブ教育の是非が問われ、米国の分断が報道される今、共生について考えてみようと思う。
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