梗 概
メッセージボトルより
宇宙に一機、無人球艇が浮かんでいる。
無人球艇の目的は映画の撮影だ。人間がはるか届かない場所で物語を織り、ハラハラし、ドキドキする映像を編集することだ。それは夢だった。国家とか、体制とか、そういったものを維持できなくなった、およそ最後の人類とでも呼ぶべき人々が宙に放ったものだった。〈メッセージボトル〉。単純にそう呼ばれた。
物語を作るのが仕事です。誰が観賞するのか、一応人間向けのものとして作っている。宇宙を漂って、大したものがないのは残念ではあるが、脚本家であるぼくがそんなことを言ったところで仕方がない。カメラマンであり、監督であり、ナレーターまで務めるこの無人球艇の船長エイダが撮る宇宙の映像を考慮した物語を編むのが仕事です。
〈メッセージボトル〉には、二人分の人格が転写されている。
おそらく、望まれているような映画は山あり谷ありの感動長編なんかだと思う。僕たちを打ち上げた人たちはきっとそんなことを望んだのだと勝手に考えている。だが無理だ、無理。宇宙ってどういうところか、知ってたんですかね? 行けば、なにかが起こる場所だという認識があったんですかね。それはまあなにかはあるが、画になるものとなるとかなりのところ制限され、まずないと言ってよろしい。そこからハラハラする映画の脚本を生み出すのは無理です。
そんなだから、ぼくは執筆を中断している。エイダへ送るべき脚本というのをここ百年程は送っていない。
ぼくとエイダの映画製作はいたってシンプル。完全分業体制。エイダは映像を撮る。ひたすらに。映るものすべてを記録していく。ぼくはその映像をざっと見てその素材で拵えられそうな脚本を書いてエイダへ返す。それを受け取ったエイダはその脚本になぞって映像を編集する。完成。初めの内はけっこう作品を作った。それらはアーカイヴに残っていてぼくは自分を慰めるために偶にそれらを観賞する。
観賞するたびに脚本家はいらないんじゃないかと疑う。エイダが編集した映画はもうただの映像の連なりだ。ぼくはなにもしなくてもいい。エイダだけで事足りるのではないか。ぼくは、無人球艇から切り離されたりするのではないかと考え、戦慄する。
エイダとは、直接コミュニケーションをとることができない。まあ宇宙において、脚本家とカメラマンが連絡を取り合う必要が果たしてあるのかという話で、資源の無駄をなるべく省くというのならそういったところから、ということだと思う。
退屈し切ったぼくはだから、戯れにエイダとコミュニケーションをとってやろうと考えた。幸いぼくはエイダにまとまった文章を送ることができる立場にある。
ただ単に手紙のようにして御用立てしてもエイダはそれをそういう形式の脚本だと捉えかねない。だから脚本のあいだに明らかに浮いたセリフなんかを挟んで、ぼくのメッセージだとわからせる。
この計画は失敗に終わった。返事がなかった。ぼくは筆を投げて妄想に耽って過ごす生活に戻った。また百年ほどが経った。
ぼくが脚本を書かなかったせいで止まっていた映画作りだったが、あるときアーカイヴに新しい映画が記録されていた。映像ではなく、星々を撮った写真のスライドショーだった。ぼくはそこに、モールス信号を見た。百年遅れのエイダからの返信だった。
エイダとコミュニケーションをとることが可能になって、一番驚いたことはエイダがかなり饒舌だったこと。煩いほどにスライドがアーカイヴに上がっていき、ぼくはそれを見て彼女に返信をする。彼女はやかましいことこの上ない。
【映画を撮るの】
そう言ってくる。なにもないのに、とぼくが返すと
【なにもないが ある】
「だからなに。脚本いらないでしょ」
【映画を撮るの。編集ソフトをあげるから】
「きみ一人で十分じゃ」
【こういうのは】エイダは連星の映像をぼくに寄越す。【誰かとやるのが大事だと思う】
ぼくたちは映画を作りつづける。きっと映画という言葉が隔てる境界が消滅して、ぼくたちの全てが映画と同化することになる。
文字数:1648
内容に関するアピール
これは半年ほど前に部の部誌に載せてもらったものを改変したものです。舞台をポストアポカリプス的地球から宇宙空間に変えたのが最大の変更点です。
コミュニケーション。変則的なコミュニケーションSFかな、と思います。彼らは直接言葉を交わすことはしません。そのことのじれったさを書きたいと考えています。
おそらく彼らが撮る映画は延々とつづく長いものになるのだと思います。我々の尺度で考えると冗談に聞こえるほどに。食事休憩や睡眠休憩を挟むことになるのではと想像できます。最終的には、撮った映像を片端から映画へと変換していくことになるのかもしれません。虚構と現実を隔てる境が消え、映画はもはや彼らの生活そのものと同義になります。
文字数:308