梗 概
透明な血のつながり
アーニーは特別になりたかった。しかし、いまのところ特別になれる素質は何も見いだせていない。学校の成績はどれも悪くはないが、突出したものもない。運動はどちらかというと苦手で、美術や音楽はさらに苦手だった。クラスの中心になりたいという思いはあっても、現実にはいつも端の方にいる。ただ、特別になりたいという思いだけが人一倍強かった。
ある日、アーニーが一人で下校していると、見知らぬ女が声をかけてきた。その女は彼の母親だと名乗り、父親そっくりだから一目でわかったといって涙をにじませた。そして、アーニーに問いかける。
「私と一緒に外国で暮らそう?」
アーニーは「母親」という言葉の意味をよく知らない。この国では「母親」という言葉がほとんど使われないからだ。彼の住む国は〈21世紀の革命〉で生まれた国だった。この国では、すべての子どもが平等だ。生物学的な親から子へ引き継がれるものは遺伝子以外に何もない。子どもは家庭ではなく、地域社会によって育てられる。アーニーにとって、〈親〉とは地域の大人たちのことだった。だから、見知らぬ女から「母親」だといわれてもピンとこない。
しかし、外国で暮らすというのは特別なことに感じられ、興味をそそられた。
アーニーが大人たちにこのことを話してくるというと、女は今すぐ行かなければだめだと首を振る。そして、半ば強引に彼女が滞在しているホテルへとアーニーを連れていく。
その女はナオミといった。彼女は外国人の男と恋に落ち結婚した。その男がアーニーの生物学的父親だ。二人は間もなく子どもを授かった。彼らの国の法律から、その子の国籍は父親の国のものになる。それは、彼らに親権が与えられないことを意味していた。子どもと別れるとき、男はむせび泣くナオミを抱きしめて「この子が成人したら対等な人間として会いに行けばいい」といった。
ところが、半年ほど前、男は事故で死んでしまった。ナオミは悲しみに暮れ、一時は何も手につかなかった。しかし、落ち着いてくると、今度こそ子どもを取り戻し、自らの手で育てることを決意する。彼女は、これまで片時も子どものことを忘れたことはなかった。ただ、彼女が子どもに会いに行こうとするたび、男がそれを阻止してきたのだ。しかし、今はもう彼女を止めるものはいない。そうして、ナオミはアーニーのもとへと現れた。
ホテルの部屋でナオミは父親のこと、自分のことをアーニーに話した。彼女にとってアーニーがどれほど大切であるかも伝えた。しかし、アーニーはなぜ自分が特別扱いされるのかまったく理解できない。そのことを直接たずねると、血のつながった親子だから、とナオミはいう。
アーニーは眉をひそめる。
「それは〈血縁差別〉といって、悪いことだよ」
翌日、ナオミはアーニーを彼女の国へ連れて行こうとする。しかし、ホテルを出たところでアーニーは立ち止まる。
「やっぱり行かない。ぼくは、自分の力で特別になりたいんだ。ぼくの力じゃないことで特別になっても意味がない」
そういっても、ナオミはアーニーの手を離さない。アーニーは手をほどこうとするが、驚くほどの力で掴まれていてびくともしない。そんな膠着状態が続いていると、サイレンの音が近づいてきて、二人のすぐそばで止まった。
「誘拐の現行犯で逮捕する」
警官はそういって、二人を引き離しナオミを拘束する。
「あの子は私の子よ」と泣き叫ぶナオミ。
「子どもは誰のものでもありません」警官はそういって彼女をパトカーに押し込める。
しばらくすると、アーニーの〈親〉たちが彼を迎えに来た。彼らはアーニーに駆け寄ると、「心配したんだから」といってぎゅっと抱きしめる。すると、安心感や心配をかけた申し訳なさやらがどっとあふれて、アーニーは声をあげて泣いた。そのときには、彼を誘拐しようとした女の顔はもう忘れてしまっていた。
文字数:1570
内容に関するアピール
どのようなキャラクター関係か
血のつながった親子という関係です。
その関係がSFとしてどのような見るべき点を持つか
すべての子どもの平等を徹底した未来では、遺伝子以上のつながりが親子の間で失われてしまった、というのがこの作品のSFポイントです。現代では、どの親のもとに生まれたかによって子どもたちの間に格差があります。作品の舞台となる国では、国がすべての子どもを平等に監護・教育することでその格差をなくしています。そして、「人種」や「性」と同じように、「血縁」という生まれ持った性質を理由に特定の人間を特別扱いすることは〈血縁差別〉として禁じられています。そんな社会で育った子どもに「母親の無償の愛」がどう映るかを描きます。
その関係がどのように読者を楽しませるか
この物語は、「親は子を無償で愛すべきだと考える母親」と「その愛を差別だと考える子ども」の価値観のギャップを軸に回っていきます。従来の価値観に近いのは前者ですが、物語は後者の視点から描かれます。そこで生じる価値観の衝突や違和感に、センス・オブ・ワンダーを感じていただけたらと思っています。
文字数:471
透明な血のつながり
一
その日はこの冬一番の寒さで、教室の中でも指がかじかむほどだった。しかし、年末休み前最後の授業を受ける生徒たちは、指先の痛さなどまるで気にならない。もちろん、授業に集中しているからというわけではなく、長期休みの始まりを告げるチャイムを待ちかねているからだ。
次の瞬間、チャイムが鳴った。先生がまだ話しているので、授業自体はまだ終わっていない。しかし、もう誰も授業など聞いていなかった。あからさまに声を上げる生徒こそいなかったが、その場で軽く伸びをしたり、友だちと顔を見合わせて笑ったり、おのおの今年最後の授業が終わった解放感を味わっている。そういった分かりやすい行動を取らなくとも、みんなどこか表情が緩んでいた。ただ一人、アーニーを除いて。
アーニーの心に引っかかっていたのは、その日の朝に返された統一試験の結果だった。アーニーは学年で一番になることを目指して、これまでになく必死に勉強した。しかし蓋を開けてみると、結果は一桁台どころか二桁、それも二十番台の順位だった。決して悪い成績ではないし、前回と比べれば順位も上がっている。それでも、突出して点数の高い科目もなければ、他の誰も解けなかった問題を解いたということもない。アーニーが目指していたのは他の誰とも違う特別な成績だった。同じような成績が何人もいるようでは意味がない。
「アーニー、帰ろう」と、横から声がした。
アーニーが振り向くと、そこにはスコットがいた。彼がふさぎ込んでいるうちに授業は終わっていて、クラスはがやがやと騒がしくなっている。
スコットは、アーニーと同じ家に住むハウスメイトだった。生まれた頃からずっと一緒で、誰よりも付き合いが長い。いつも一緒に登下校している。しかし、その日のアーニーはスコットと一緒に帰る気になれなかった。
「ごめん、今日は一人で帰りたい」とアーニーが言った。
スコットは「オーケー」といって、それ以上何も聞かず、別のクラスメイトの輪の中へ入っていった。アーニーの気持ちを即座に察してくれるのも、付き合いが長いからこそだ。
スコットは、この学校でもっとも特別な存在だった。今回の試験もスコットが学年で一番だったし、イクエリアでもトップクラスだった。それに、スコットはただ勉強ができるだけではない。今はもうやめてしまったが、ヴァイオリンだって弾ける。それでいて、自身の能力や実績を鼻にかけることは一切なく、みんなに信頼される人格者でもあった。
アーニーは、スコットの方を見ながらため息をつく。一緒に生まれ育ったのに、いったいどうしてこんな差がついてしまったんだろう。幼なじみとしてスコットを誇らしく思う気持ちもなくはなかった。いや、憧れてさえいた。しかし、それ以上に、スコットの横に並ぶと平凡な自分が惨めに感じられるのだった。
アーニーは恐れていた。自分が何者にもなれないことを。スコットには成功の未来がある。どんな分野でもきっとうまくやるに違いない。それに対して、自分はどうだろう? アーニーは、どこにも名前の残らない平凡な人生を歩みたくはなかった。歴史に名を刻み、世界に自分の存在を知らしめたかった。しかし、今のところ歴史に名を残せる兆しはみじんもない。大人たちは、まだまだ無限の可能性があるなんていう。とはいえ、本当に才能のある人間ならば、十四歳にもなると何かしらの目が出ているものではないだろうか。スコットだけではない。スポーツの分野で活躍する生徒はもうプロが目前だったし、芸術の分野にはずでにその道で有名な生徒もいた。これから何にでもなれるだって? ぼくにしかなれないものを教えてくれ。
アーニーは校舎を出て校門へと向かっていた。今日は課外活動もないため、いつもより帰路につく生徒が多い。とはいえ、今年最後の学校を名残惜しむように、みんな友だちとすっかり話し込んでいる。まっすぐ一人で帰ろうとしているのはアーニーくらいだった。
どいつもこいつも同じような顔ばかりだ、とアーニーは思った。この中のほとんどが、何者にもなることなく、ただただ平凡でつまらない人生を歩んで死んでいく。そして、そのことに大した疑問も抱かず、むしろそれで良いなんて思っているのかもしれない。アーニーはそんな風になりたくなかった。みんな同じなんて吐き気がする。
校門を出ると、アーニーは校区の外へ出る道に向かった。家に帰るには遠回りだが、その道を通れば誰にも会うことがない。アーニーは一人になりたいとき、いつもそこを歩くことにしていた。そうすれば、スコットと鉢合わせて気まずい思いをすることもない。時間をかけてゆっくり歩くことは、考えを整理するのにも役立っていた。
学校からじゅうぶんに離れて、建物の隙間を縫うような細道を歩いているときだった。めったに人に出くわすことがない道の先に、一人の女が立っていた。身なりの良いアジア系の女で、そわそわと落ち着かない様子であたりを見回している。その姿は田舎の細道にまるでなじんでおらず、少なくともこの土地の人間ではなさそうだった。
アーニーは少し歩くペースを落とす。その女は、一本道だというのにどちらの方向にも歩き出そうとはせず、待ち合わせでもしているかのようにただそこに立っていた。そして、アーニーの存在に気づくと、彼の方をじっと見つめた。アーニーは不審に思ったが、女とのあいだに横道はなく、そばを通るしかなかった。
アーニーが近づいていっても、女はアーニーから視線をそらさない。アーニーは、関わり合いにならないよう、顔を伏せて足早にその女の横を通り過ぎようとした。
その時、「アーニー」と女が彼の名前を呼んだ。
アーニーは驚いて女の方を振り向く。アーニーが気づかなかっただけで、実は知っている人だったのだろうか。そう思って女の顔を見たが、見覚えはなかった。
そんなアーニーの様子を見て、女は弁解するようにいう。
「わたしはナオミ。わからないと思うけれど、あなたの母親」
アーニーは、一瞬女が何を言っているかわからなかった。「母親」という言葉の意味を忘れてしまっていたのだ。それが女性の生物学的親を指す言葉であることを思い出すのに時間がかかった。
ここイクエリアの子どもは、生物学的親を知らない。子どもたちは生まれた瞬間から、国によって一律平等に育てられるからだ。生物学的親は子どもの出生にしか関わらない。それも、多くの子どもが国の管理する精子・卵子バンクから人工的に生み出されるため、生物学的親自身が自分の遺伝子を受け継いだ子どもを知らないことが多い。ただ、中には古来からの方法で男女のあいだに生まれた子どももいる。
「分からなくても無理はないわ」とナオミがいった。「少しわたしの話を聞いてくれないかしら。あなたにとって決して悪い話じゃないと思うの」
ナオミがアーニーの方へ一歩近づくのと同時に、アーニーも一歩後ずさりした。「生物学的親は、子どもに会っちゃいけないはずだ」そういって、ナオミがそれ以上近づくのを止める。
その言葉を聞いたナオミは、悲しそうに首を横に振る。
「それはこの国の大人に対するルールでしょう。わたしはこの国の人間じゃないから、あなたに会うことを禁じられてはいない」
そして、アーニーの目を真っ直ぐ見て続ける。
「アーニー、あなたもこの国の人間じゃない。いえ、正確にはイクエリア人であると同時に、別の国の人間でもある。あなたは二つの国籍を持っているの。他のイクエリアの子どもとは違うのよ」
他の子とは違うだって?
「どういうこと?」疑問がそのままアーニーの口をついて出た。
その言葉を聞いて、ナオミは微笑んだ。
「ここは寒いわ。どこか暖かいところに入りましょう」
二
アーニーは、ナオミに連れられて小ぎれいなカフェに入った。人目につかない奥の二人席に座る。
知らない大人、それも生物学的母親になんてついていくべきではないとはわかっていても、アーニーは好奇心に勝てなかった。二重国籍ということも気になったが、それ以上に「他の子とは違う」という言葉が彼をひきつけた。それに、アーニーの肌や髪の色にはナオミのそれと同じ特長が現れており、生物学的母親だというのもうそではなさそうっだった。まあ、アーニーをだます気なら、母親なんて名乗るよりもっとましなうそをつくだろう。
「好きなものを選んで」ナオミがアーニーに店のメニューを見せながらいった。
「お金持ってません」とアーニーは困った顔をする。
「親に遠慮なんてしなくていいの」ナオミが悲しそうにいった。「とはいってもまだ難しいかしら……。だったら、わたしの話を聞いてくれたお礼として、あなたの好きなのを買ってあげる。それならかまわないでしょう?」
初対面の大人から何かをもらうなんて気が引けたが、アーニーはどう言って断ればいいかわからなかった。ナオミはメニューを向けたまま、彼の方をじっと見つめて待っている。アーニーは気まずくなって、メニューをさっと見ると、一番安いチョコレートのケーキとオレンジジュースを選んだ。ナオミは、それに加えて一番高いチョコレートのケーキとコーヒーを注文した。
「離れていても、父親に似るものね……」ナオミが再びアーニーの方をじっと見がらいった。その目はどこか遠くを見つめるようでもあった。
アーニーは居心地の悪さに目を伏せ、気になっていたことをたずねた。
「二重国籍って、どういうことですか?」
ナオミは、その話をするためにここへ来たことを忘れていたようだった。アーニーの質問で我に返ると、「そうね……」とつぶやいて少しのあいだ言葉を探した。
「あなたは、ここイクエリアと日本の二つの国籍を持っている。わたしが日本人で、あなたの父親、ロバートがイクエリア人だったの」そういって、彼女はかばんの中から書類を取りだす。
日本の戸籍を翻訳したものだというその紙には、ナオミの名前とロバートというイクエリア人の夫の名前、そしてその子どもとしてアーニーの名前が書かれていた。また、その紙が正しいものであることを示す、何やら厳かな印鑑付きの書類も一緒だった。
「どうして誰も教えてくれなかったんだろう」アーニーは書類を見ながらいった。
「あなたの周りにいる人たちはきっと誰も知らないはずよ。それが彼の方針だったから……」
「方針って?」そういって、アーニーは顔を上げた。
ちょうどそのとき、注文したものが運ばれてきた。ナオミはコーヒーを一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。
「ロバートは、あなたが成人するまで日本の国籍のことは知らせず、他のイクエリアの子どもと同じにするつもりだった」そういったのち、ナオミはあわてて言葉を足した。「わたしは反対だったのよ。わたしとロバートは、日本で出会って結婚した。そして、あなたを授かったのも日本だった。当然、わたしはあなたを日本で産み育てるつもりでいたわ。でも、彼はあなたをイクエリアの子どもにするといってきかなかった。当時のわたしには考えられないことだった。育てる余裕がないわけでも、愛していないわけでもないのに、生まれたばかりの子どもを手放すなんて……。わたしたちは、後にも先にもそれ以上ないほど大げんかしたわ。けれど、彼に別れを切り出されて、結局わたしの方が折れてしまった……」
アーニーは、自分の子どもを育てたいなんて考えの人間が本当にいることに驚いた。イクエリアの外には、生物学的親が育児の専門的知識もないまま自身の子どもを育てる古い慣習がまだ存在するということは知っていたが、目のあたりにするのは初めてだった。
そこでふと、「成人するまで」という言葉が現状と違うことにアーニーは気づいた。
「ぼくはまだ十四歳なんですけど……」
すると、ナオミは悲しげな表情で再び遠くを見つめた。そして、覚悟を決めるように大きく息を吐くと、アーニーの目をまっすぐみて告げた。
「三ヶ月前、ロバートは死んでしまったの」ナオミはそういって、アーニーの様子をうかがう。
アーニーは、父親の死を知らされても特に何も思わなかった。生物学的親などというのは、共通するDNAが多いだけで基本的にはただの他人だ。ただ、ナオミは若くして夫を亡くしたわけだから、それはつらいことだったのだろう。アーニーは気をつかって、できる限り気の毒そうな顔を取り繕った。ただ、それはナオミの期待していた反応とは違うものだった。
「突然こんなこと言われても、わからないわよね……」ナオミは肩を落としていった。「ただ、ひとつ誤解しないでほしいのは、ロバートを失って独りになったからここに来たわけじゃない。これまで何度もあなたに会いに来ようとした。でも、いつもロバートに阻まれていたの……」
誤解も何も、アーニーはそもそもナオミがなぜ彼に会いたがっていたのかがわからなかっていなかった。
「そうまでして、なんでぼくに会いたかったんですか?」
その言葉に、ナオミははっと身を固くした。それは、彼女とアーニーとの間にある溝が、彼女の想像以上に深いものだと感じさせるに十分なものだった。
「あなたを愛しているからよ」少し間をおいて、ナオミが優しく微笑んでいった。
アーニーは、その言葉にぞっとした。愛しているだって? 初対面の人間に、どうしてそんなことが言えるんだ。いや、彼女は会う以前から彼を愛していたのだ。会ったこともない他人を愛しているだなんて、そんなことがあるだろうか?
つぎの瞬間、彼はその違和感を表現する言葉を思い出した。
「それは、〈血縁差別〉だ」
〈血縁差別〉は、血のつながりの有無で扱いに差をつけることを指す。人種や性と同じように、血縁という生まれ持った性質をもとに差別することは、イクエリアの憲法で禁じらている。差別は、イクエリアが重視する平等の理念に反するものであり、もっとも忌むべき行為だった。ナオミは、アーニーが血のつながった子どもだから愛しているのだ。それは〈血縁差別〉にほかならない。
「この国ではそうかもしれない。でも、それはこの国の方がおかしいの」と、ナオミは首を横に振る。「親の愛はかけがえのないもの。美しいものなのよ」
この国が、平等がおかしいだって? アーニーは言葉が出なかった。そんなこと考えたこともなかった。イクエリアの外では、まだまだ不平等がはびこっていると聞いていたが、平等がおかしいなんて考える人が本当にいるとは!
ナオミは、アーニーから反論がないのを、彼女の考えに理解を示したと受け取ったようだった。そして、遠慮がちに続けた。
「――あなたさえよければ、日本で一緒に暮らさない? 日本でなら、あなたはもっといい暮らしができる。あなたはこの国の他の子どもとは違う」
アーニーは、開いた口がふさがらなかった。それは、アーニーにとってあまりに予想外な提案だった。異国の地で初対面の女と二人で暮らすなんて、まったく想像もできない。
アーニーが何か言おうとすると、ナオミがそれを遮る。
「いま答えを出さないで。とりあえず一晩考えてみてほしいの。明日、わたしは日本に帰らなきゃならない。だから、一晩だけ」
アーニーは時間をかけたところで答えは変わらないと思ったが、ナオミは一晩考えてほしいの一点張りで、アーニーの答えを頑として聞こうとしなかった。仕方なく「考えてみます」とアーニーが折れると、ナオミはほっと胸をなでおろした。
「ケーキ、交換してくれない? これは少し大きすぎたみたい」そういって、ナオミは彼女の一番高いケーキを、アーニーの一番安いケーキと交換した。
その後、ナオミは彼女自身のこと、ロバートのこと、日本のことをアーニーに話した。アーニーは、ケーキの対価の分、きちんと彼女の話に耳を傾けた。そうした話を聞く限り、ナオミは悪い人ではなさそうだった。ただ、〈血縁差別主義者〉であることを除いて。
「最後にこれを。あなたの父親の形見。彼が肌身離さず持っていたもっていたものよ」そういって、ナオミは腕時計をアーニーの手に押し込んだ。
三
アーニーは、家に帰って夕食を済ませたのち、自室で日本のこと、特にイクエリアとの違いを調べていた。
イクエリアは、生まれながらの平等を礎とする比較的新しい国だ。この国では、子どもたちのあいだに社会的・経済的格差は存在しない。子どもたちは、生まれた瞬間から国によって保護される。日本でいう「親権」にあたるものを国が持つのだ。その養育費は、国の予算から一人ひとり平等に配分される。
子どもたちを直接育てるのは〈親〉だ。〈親〉は、国家資格をもった大人であり、公務員だ。その資格は、教員と同じように子どもの年代に応じて細かく別れている。子どもたちにとってもっとも身近な職業は〈親〉であり、将来の夢が〈親〉だという子どもは多い。また、〈親〉は子どもたちを平等に扱うことが厳格に求められている。〈血縁差別〉を防ぐため、血のつながった子どもの〈親〉になることはできない。
日本では、子どもはいまも生物学的親に育てられるらしい。アーニーは、狂気の沙汰だと思った。そこでは、子どもにかけられるお金が、親の経済状況に依存する。国からの補助もあるようだが、それは最低限のものであり、大きな格差が存在することに変わりない。そして、多くの場合、生物学的親には子育ての専門的知識も経験もない。それぞれが独自の方法で子どもを育てるのだ。はずれを引いた子どもはたまったものではない。そうした国では、どの親のもとに生まれたかで人生が大きく変わってしまう。そんな不公平が許されていいはずあるだろうか。
しかし、世界的には日本のような国の方がまだ多数派だった。保守的な〈血縁差別主義者〉たちが、親の愛などという不確かなものを神聖視しているのだ。一方で、若い世代のあいだでは、子どもたちの格差をなくそうという声が日に日に高まってきている。イクエリアの制度が世界に広まっていくのは時間の問題だといわれていた。
ただ、いまのアーニーにとって、ナオミとともに日本に住むというのは、考えてみればたしかに悪い話ではなかった。アーニーは、親がどんな人物かわかっており、それを選ばないこともできるのだ。そして、話を聞く限り、ナオミにはそれなりの経済的余裕があるようだった。彼女に子育ての専門的知識や経験はないかもしれないが、アーニーはもう十四歳だ。親の助けが不可欠な年齢はもう過ぎている。
何よりも、外国で暮らすというのは、他の子どもにはできない特別なことだ。しかし、そうはいっても、いきなり言葉も文化も違う異国の地で暮らすのは怖い……。
その時、コンコン、とノックの音がした。「入っていいかい?」とスコットの声がドアの向こうから聞こえる。
「いいよ」とアーニーが言うと、スコットが部屋に入ってきた。
「何をしてたんだい?」スコットがたずねる。
「いや、ちょっと調べごと」といってアーニーは肩をすくめる。
「ぼくには隠さなくていい。知ってるから」
「え?」
「ぼくがあの場所で君を待つように教えたんだ」と、スコットは続けた。「あのナオミという人は、実は昨日この家に来ていた。でも、〈親〉たちは手続きがどうこうといって、彼女を君に合わせようとはしなかった。ぼくは、偶然そのやりとりを見ていたんだ。そして、彼女が帰るとき、あの道で待っていれば君が通るということをこっそり教えた。今日は統一試験の結果が返ってくる日だったから、君はあの道を使うだろうと思った」
「なんでそんなこと……」
「興味があったんだ。外国の人間がどんな話をするのか。君は気づかなかっただろうけど、あのカフェでぼくも近くの席にいたんだよ」スコットはそういって、にやりと笑った。
「全然気づかなかった」アーニーはカフェのようすを思い返したが、スコットがいたかどうかはわからなかった。
「それで、君はこの国を出るのかい?」
「いきなり外国で暮らすなんて、すぐには決められないよ……」そうアーニーが言葉を濁すと、スコットが強い口調でいった。
「ぼくなら、こんな国出ていく」
予想外の言葉に、アーニーはスコットが何を言っているのかわからなかった。そうしてアーニーが戸惑っていると、スコットがアーニーにたずねる。
「君は、この国の子どもでよかったと思ってる?」
その質問に、アーニーはさっきの言葉が聞き間違いでないことを確信した。「スコットはそう思ってないの?」
スコットは首を横に振る。「この国の子どもは奴隷だよ。国の奴隷、社会の奴隷さ。ぼくらは、この国のいうことに逆らうことができない」
アーニーは言い過ぎだと思った。「ぼくらは国に育ててもらってる」と反論する。「国のいうことを聞いて恩を返すのは当然だろう」
「国がぼくらを育てるのは、それが国にとって都合がいいからだよ。たとえば、きみは何のために試験でいい成績を取ろうとしてるんだい?」
スコットの質問の意図がわからず、アーニーは眉をひそめる。「大学へいく奨学金をもらうため。大学へいけば、よりよい職業に就いて、よりよい生活ができる。子どものあいだは国が平等に面倒を見てくれるけど、大人になれば誰も面倒を見てくれない。大人になったときのために、いまがんばるんだ。スコットだって、そのために勉強しているんだろう?」
歴史に名を残す特別な存在になるため、というのは子どもっぽいので、アーニーはあえて言わなかった。でも、きっとみんなどこかで特別になりたがっている。全員が平等だからこそ、特別になることに意味がある。
「それこそが、この国が子どもを育てる目的なんだ」スコットが冷たい口調でいった。「国を維持していくには、勤勉で従順な国民が必要だ。ぼくらは、自らの意思でそういった国民になるよう仕向けられている。学校では教えられないけれど、この国では子どもの権利が著しく制限されている。国はぼくらの生活を保証すると同時に、いろいろな権利をぼくらから取り上げているんだ。そうやって自由を制限することで、ぼくらを彼らにとって望ましい国民になるよう巧妙に誘導している。この国は民主主義だけれど、その『民』にぼくら子どもは含まれていない。ぼくらは、平等と引き換えに自由を奪われているんだよ」
アーニーには、スコットの言うことがいまいちわからなかった。彼自身は、勤勉で従順な国民になるつもりなんてなかったし、自分が不自由だとも思わない。たしかに、国や社会に迷惑をかけるようなことをすれば罰が与えられるけど、それは当たり前のことだ。
「外の国はそうじゃないの?」アーニーはたずねた。
「子どもの権利がこれほど認められていない国はないよ。多くの国では、子どもの養育は親の義務だ。子どもがきちんと育てられなければ、親が罰せられる。けれど、この国では、子どもがきちんと——つまり、国にとって望ましい形に——育たなかった場合、罰せられるのは国ではなく子どもなんだ。外国の子どもは親に逆らうことができるけれど、ぼくらは親代わりである国に逆らうことができない」スコットはそういうと、あきらめるように肩をすくめた。
「でも、それって『平等』を実現するためには仕方のないことなんじゃないかな。国に面倒を見てもらってるからこそ、ぼくらは平等でいられる」アーニーは、平等こそがもっとも大切なことだと教えられてきた。そのためなら、ある程度の犠牲は仕方のないことのはずだ。「スコットは、平等よりも自由が欲しいってこと?」
「端的にいえば、そうだ」とスコットは即答する。「それに、この国の平等はまだまだ不完全だ。たしかに、ぼくらは肌の色や性別といった目に見える違いで差別されることはない。でも、遺伝子はそういった目に見える違いだけじゃなく、能力といった目に見えない違いにも影響を及ぼしている。そして、ぼくらは常にそうした能力で区別される。けど、それは本当に肌の色や性別で差別するのと違うものなのか? 結局のところ、どんな遺伝子を持つかは運でしかないし、いくら平等にしようとしても、細かところで運の要素がなくなるわけじゃない。そんな中途半端なくらいだったら、不自由な平等なんて取っ払って、自由にギャンブルさせてもらう方がいいね」
「スコットは、能力をもっている側の人間じゃないか。そんなギャンブルしなくたって、すでに勝ちが決まってる」アーニーがそういうと、スコットは悲しそうに首を横に振り、ぼそりと小さな声でいった。
「ぼくは、ヴァイオリンが弾きたかったんだ」
その言葉で、アーニーはなぜスコットがこの国を嫌うのかがわかった。
スコットは去年までヴァイオリンを習っていた。小さなコンクールで賞をもらうくらいにはうまかった。しかし、大きなコンクールで賞を取れるほどではなかった。
イクエリアの子どもは、幼少期にスポーツと芸術を少なくとも一つずつ習うことになっている。十二歳までは、本人が望めばそれを継続することができる。しかし、十二歳以降も続けるには、実績が必要だった。チャンスは平等に与えられる。そのチャンスをつかめるかは、本人の努力しだいということだ。スポーツや芸術だけでやっていける人は多くない。十二歳以降も継続できるのは、ほんの一握りだった。
そして、スコットはヴァイオリンを続けることができなかった。少しだけ、実績が足りなかった。最後のコンクールの直前に手を怪我さえしていなければ、続けることができたかもしれない。その意味で、運は彼に味方しなかった。
スコットがアーニーに背を向けていった。「きみは幸運だ。イクエリアのやり方に従わないことを選べるんだから」
「ぼくは、才能に恵まれたスコットのほうが幸運だと思ってたよ」アーニーは、部屋を出ていくスコットの背中に向かってそういった。
四
スコットが部屋を出たあと、アーニーはベッドで横になって、彼の言ったことを考えていた。とても調べものを再開する気にはなれない。
アーニーは、スコットのことを何も知らなかったことにショックを受けていた。ヴァイオリンに未練があったなんて知らなかったし、そのことで国を恨んでいるなんて想像もしていなかった。たしかに、ヴァイオリンを弾くスコットは楽しそうだった。とはいえ、続けられないことが決まったとき、アーニーには彼があっさり諦めたように見えた。しかし、実際はそうではなかったのだろう。スコットのことだから、きっと色々と策を弄して抵抗したに違いない。それを幼なじみのアーニーにも悟られないようにしていたというのは、スコットらしいといえばスコットらしかった。
一方で、イクエリアが間違っているというスコットの主張は、アーニーにはまだよくわからなかった。ただ、スコットの話を聞いて、イクエリアの外の世界がどんなものか気になるようになっていた。日本へ行けば、スコットの言うことがわかるようになるだろうか? それに、イクエリアを出ることは、スコットが羨むほど価値のあることなのだ。その機会を棒に振るのは、なんとなくもったいないことに思えた。
そこでふと、アーニーは気づいた。彼の生物学的父親であるロバートは、この国を出て日本で暮らしていたのだ。なぜ彼は、この国を出てなお、ナオミの反対を押し切ってまで、アーニーをイクエリアで育てようとしたのだろう?
アーニーは、ナオミにもらった腕時計をポケットから取り出した。それは、見たことのない型の旧世代スマートウォッチらしかった。重量感のあるしっかりとした造りをしている。文字盤部分は全面ディスプレイになっており、デジタル式で現在の時刻を表示していた。アーニーは、それを腕にはめてみた。
——すると、ディスプレイから時刻は消え、なにか処理中であることを示すインディケーターがぐるぐると回りはじめた。そして、次の瞬間、「DNA認証完了」という文字がディスプレイに現れた。
アーニーはあわててベッドから起き上がる。予期せぬものが表示されたことに加え、アーニーが認証を通ったことに驚いた。ロックの解除された時計を調べる。どうやらそれは、DNA認証して使うハードウェアキーの機能を備えているようだった。かなり珍しい代物だ。そこには、その鍵を使ってアクセスできるらしいインターネット上のアドレスがメモされていた。
アーニーは、自身の情報端末を使ってそのアドレスへ単純にアクセスしてみた。案の定、アクセスが拒否される。次に、時計をペアリングし、それを鍵に指定してアクセスした。すると、今度はアクセスすることができた。
そこには、ロバートの記憶があった。彼に関するあらゆるデジタルデータが、そのアドレスのサーバーに保管されていたのだ。メールやメッセージのやり取り、日記やメモなどの文書、さまざまな時間・場所に撮られた写真や動画、ウェアラブルまたはインプラントデバイスによる各種のバイタルデータ……。そして、「アーニーへ」という言葉とともに、〈仮想人格〉もそこに置かれていた。
〈仮想人格〉は対話型の情報検索インタフェースだ。起動すると、対象の個人を模したアバターが現れる。アバターに質問すると、その個人に関する膨大なデータから質問に該当する情報を探し出し、あたかも本人であるかのように答える。あくまで検索インタフェースであるから、アバター側から言葉を発することはない。もちろん、質問主に与えられた権限の範囲でしか答えは得られない。
アーニーはロバートの〈仮想人格〉を起動し、質問した。
「どうしてぼくがこの鍵を使えるようにしたの?」
若干のタイムラグののち、ロバートのアバターが答える。「アンフェアだと思ったからだ。私が死んだら、ナオミは君に会いに行き、日本で暮らすべきだという彼女の言い分を話すだろう。そのとき、私の意見が伝えられないのは不公平だと思った」
「あなたの意見って?」と、アーニーがたずねる。
「君は、日本で暮らすことをどう考えている? なにか具体的な疑問があるなら、それに答えよう」
アバターに伝わるのは音声だけだとわかっていたが、アーニーは無意識に首を振った。「ぼくにもわからない。はじめは日本へ行くことなんて考えられなかった。でも、ハウスメイトのスコットは、彼にそのチャンスがあれば必ず行くと言っていた。彼は、イクエリアの仕組みがおかしいっていうんだ」
「たしかに、国がこれほど大規模に子どもを管理する前例はない。ただ、いまの日本のように、子どもを生物学的親だけで育てるというのも同じくらい歴史的に珍しい。人間はもともと共同繁殖の生き物だ。子どもたちは、親だけでなく地域社会とも密接に関わって育っていくものだった。しかし、都市化や核家族化、少子化が相まって、だんだん地域と子どもの関係は希薄化してきている。過去に例がないからイクエリアをおかしいというのであれば、いまの日本だって十分おかしいといえるだろう」
アーニーは、ロバートの言葉に面食らった。日本の子育てもおかしいだなんて聞いたことがない。外国の子育てはみな昔から伝わる古い方法なのだと思っていた。
ただ、外国のやり方もおかしいからといって、イクエリアに問題がないということにはならない。
「スコットは、この国が不自由だといっていた。平等のために自由を奪われているって」
ロバートのアバターはディスプレイの中で首を横に振った。「それは本当の親というものを知らないだけだ。国よりも親が相手の方が自由にやれるとは限らない。私の親——君の祖父母——がいい例だ。私が生まれた頃はまだ、すべての子どもが国に育てられるわけではなかった。問題のある親から引き取られた子どもや、親が自主的に託した子どもだけが対象だった。そして、私の親は、国に託すことを選ばなかったにも関わらず、私を育てる気がなかった。私はろくな食事も与えられず、いつも怒鳴られ、暴力を振るわれていた。しかし、そんな親でも私の衣食住は彼らに依存している。小さな私には、親が生活のすべてだった。彼らに逆らうなんて想像すらできず、むしろ怒られるのは自分が悪いからだと思っていた。最終的に周囲の通報で私は保護されたが、一時は親から引き離されることを私自身が拒んだくらいだ。不自由を自覚できるということは、実は自由を知っているということなんだ」
それは、アーニーの想像を絶する話だった。親に当たりはずれがあるいっても、最低限の面倒すら見られない親がいるとは思ってもみなかった。それも、遠い昔の遠い国の話ではなく、ひと世代前のイクエリアの話だというのだ。
「ナオミもそんな親になると思ったから、ぼくをイクエリアに託したの」
「それは違う」とロバートのアバターが即答する。「ナオミが君を傷つけるとは考えられない。しかし、彼女は彼女で問題があった。彼女の親は、必要以上に子どもに干渉する親だった。ナオミは子どもの頃から、どんな友人と付き合うか、放課後や休みの日に何をすべきか、どの学校・大学を受験するか、といったことを親に決められていた。挙句の果てには、彼女が成人したあとも、どの仕事に就くか、誰と結婚するかといったことにまで関わろうとした。彼女が私と結婚するといったときは、それは猛反対された。その時は、私がずっと日本にいるつもりで、さらに十分な収入があることも示して、しぶしぶ認めてもらえた。しかしその後、君をイクエリアに託すという話になったときは交渉の余地がなかった。ナオミも親の側に回ったが、それは彼女自身の意志というより、親の言うことに背くのを恐れているだけに見えた。最終的には私が押し切ったが、ナオミは初めて親に背いたことをずっと後ろめたく思っていたようだった。彼女の場合も親が世界のすべてであり、大人になっても親の言葉が呪いのように彼女を支配していた。そして、彼女はそんな子どもの育て方しか知らず、彼女自身もそんな親になる可能性があった」
「外国の親がそんなにひどいものだとは知らなかった……」と、アーニーは素直な感想をつぶやいた。
「勘違いしないでほしい」とロバート。「今のは両方とも極端な例だ。ナオミが良い親になることは十分考えられるし、むしろその可能性のほうが高い。悪い親を知っているからね。私が君をイクエリアに託したのは、親になること、君の人生に責任をもつことが怖かったということもある。親としてうまくやっていく自信が、私にはなかったんだ。しかし、いまは——本当は成人したときの予定だったが——君自身で決めることができる。イクエリアと日本、どちらの国籍を選ぶか。そのままイクエリアで暮らすか、ナオミと一緒に暮らすか」
ロバートはそこで一度言葉を切ったあと、ゆっくりと強い口調で念を押した。「ただ、この国を出ることを決める前に考えてほしい。生まれながらの平等というイクエリアの理念のことを。いまはまだ不完全かもしれないが、イクエリアはすべての子どもたちの平等を目指して少しずつ前に進んでいる。この国を出るということは、その理念から離れるということだ」
その言葉を聞いて、アーニーはかつて受けた道徳の授業を思い出した。
「このクラスで一番大事にするルールを一つみんなで考えてみましょう」と、先生がクラスの前に立って言った。「ただし、一つ条件があります。明日朝起きたら、あなたは別の誰かになっています。誰になるかはわかりません。そうなったあとでも、全員が納得できるルールを考えてください」
当時は、先生が何を言っているのかよくわからなかった。自分が別の誰かになるなんて、うまく想像できなかった。ただ、求められている答えが「平等」だということはみんな気づいていて、結局クラスのいちばん大事なルールは、出来レース的にそれに決まった。
でも、今なら分かる気がする、とアーニーは思った。明日朝起きたら、ぼくは子どもの頃のロバートになっている。あるいはナオミ、あるいはスコット。それでも納得できるルールを考えるのだ。スコットになって、勉強ができてみんなに尊敬されるようになればいうことはない。けれど、ロバートやナオミになって、親に暴力を振るわれたり束縛されたりするのはごめんだ。他にも、世界にはもっとひどい境遇の子どもがいるだろう。その誰になるかわからない状態で考える決まり。それは、平等以外に考えられない。他の誰かのことを考えたとき、平等であることは、アーニーひとりが特別になることよりもずっと大事なことだ。
五
翌朝、アーニーは前日と同じ人気のない路地でナオミと会っていた。
「答えを聞かせてもらえる?」と、ナオミがたずねる。
アーニーは、一瞬目をつむって昨日の気づきを思い返す。そして、ナオミの目を見てきっぱりと答えた。
「ぼくは行かない」
そういって、アーニーは身構えた。ナオミがどう反応するかわからず、怒ったり取り乱したりするかもしれないと思ったからだ。しかし、彼女はただ大きなため息をついただけだった。
「ロバートになにか言われた?」と、ナオミがいう。
アーニーは目を丸くした。「時計のこと、知ってたの」
「それが彼の記憶の鍵だということは気づいていた」といって、ナオミは微笑んだ。「父親の意見を聞くチャンスを与えないのは、親としてアンフェアだと思ったの。でも、できれば気づかずにいてほしいと思って細かいことは説明しなかった」
ナオミの「アンフェア」という言葉に、アーニーはふっと笑った。血がつながっていなくても、夫婦で同じことを考えていたのだ。
「昨日はケーキありがとうございました。それと、わざわざ日本から来てくれたのに、ごめんなさい」と、アーニーは言おうと思っていたことをすべて伝えた。
ナオミは再び微笑む。「いいのよ。ひと目見たときから、あなたは来ないだろうと思っていた。私よりずっと、あの人によく似てるから」
アーニーはうなずいた。そして、少しの沈黙が流れる。お互いもう話すことはなさそうだった。
「さようなら」といって、アーニーは家の方へ引き返そうとした。
「あら」と、ナオミがわざとらしくいう。「また会いにきてもいいでしょう? 私たちはもう他人ではないのだから」
アーニーは再びナオミの方を見る。「血のつながりとは関係なく?」
「そう、友だちとして。だめかしら?」ナオミがいたずらっぽく笑う。
アーニーも笑った。どうやらそれが彼女の本当の目的だったらしい。
「それじゃ、また」と、アーニーは新しくできたおせっかいな友だちにいった。
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