梗 概
空まで五分
佐々木ケイトは周囲の言う通りに十九年生きてきたが、今は失業者だ。腰を痛めてスポーツ進学できず、この四月に就職したのだが、体中が痛むようになり退職した。
ケイトは毎日散歩する。体力維持と現在も続く腰痛対策のためだったが、時折決まった場所の上空に、黒龍が舞うのを見るようになる。双眼鏡を持参すると、長くうねりながら飛ぶ龍には短い前肢と口髭があった。
市立図書館で龍に似た生物を探すと児童書コーナーを案内され、児童会で面倒を見た七歳年下の斗真に再会、頼ることになる。斗真はケイトの撮った映像から三点計測して、龍の位置と高度を推定する。
場所は海沿いの市有地なので市役所に問い合わせると、不自然に隠し事をするような対応をされる。
斗真は龍を追跡しようと提案する。
ケイトは元同級生で医学部浪人の貴志がドローンを持っていることを思い出し、計画を打ち明ける。貴志は無邪気に大喜びする。いつも病院の幽霊話をしていた貴志を馬鹿にしていたケイトは罪悪感を感じるが、その子供っぽさに好意も持つ。
しかしドローンの高度では龍の高さに及ばないことが判明する。
ケイトと斗真は気球をつくる計画を立てる。
散歩道の並木のシダレヤナギの落枝を大量に拾い、篭を編む。斗真の祖父、信一郎はカゴ編みを喜んで教える。
防水布を通販で大量購入したいが、ケイトは体調が異常だった時期、カード払いを忘れてブラックリストに乗っている。親に言えないものを買うのだと思い名義貸ししてくれる信一郎。ケイトは糖尿病の彼に、賄賂として菓子を差し出し、罪悪感を抱く。斗真が型紙をつくり、ケイトがミシン縫いするが、量が多すぎて家族にばれそうになる。
二人が図書館で密談するのを聞いていた不登校生の詩津香が、自分の家を提供する。詩津香の家は鉄工場だったが今ではゴミ屋敷同然である。
詩津香は熱気球のバーナーを、設計図から一人で作ってしまう。溶接が得意なのだ。
斗真の球皮型紙は縮尺を間違っていたことがわかる。
再び作り直すためには予算が足りず、金が貯まるまで計画延期を考えた時、貴志が新品一式をすべて買おうとし、喧嘩になる。
貴志は受験が近づき焦っていた。その不満から、ケイトたちが危険な事をしていると言いふらそうとする。だだをこねる貴志を詩津香がなだめる。そして自分も白龍を見たのだと言う。誰にも言わなかった秘密だと言う詩津香に、貴志は反省する。
防水布の代金は貴志が一旦払うが必ず返金する約束で全員了解する。
気球のゴンドラも編み終えたが、ガスボンベは買えない。
貴志が病院でバーベキュー大会と嘘をつき、プロパンガスを配送させるが、病院事務長にばれ、ケイトのバイクにガスボンベを載せて逃げる。
貴志は受験が近いから乗らないと言っていたが、気球が浮き出すと、かじりついて飛び乗ってしまう。
気球はほぼ計算通り飛ぶ。
龍を見た場所は、農業資材集積場の管理焼却場の真上だった。龍は廃棄ビニールなのだと貴志は口にしてしまう。「それ言っちゃダメだよ」という斗真は、市役所行政の内情を一人で調べていた。しかし詩津香は「龍より私たちの方がずっと飛べてる」と言う。年下の子達を楽しませてやろうとしていたのに、ケイトと貴志の方がずっと子供だった。けれどそれは悪くないどころか上々の気持ちだった。
気球が海に逸れるとトビウオの跳躍が見える。
海流に沿って無数のトビウオが銀色に光り、数百メートルも跳躍している。高度を落とすと、ゴンドラに飛び込む。海に逃がす斗真と詩津香。
ガス圧が低下し、気球は海から戻るのに難航するが、ようやく河口に着水する。ゴンドラは壊れた。
春になると、河口の土手に美しい柳が芽吹いた。
文字数:1522
内容に関するアピール
閉塞感から開放感に向かうお話にします。
登場人物の交流、龍の架空生態、気球作り。この三点で構成します。
四人組はそれぞれに龍の生態を考えていて、作中にはその架空の想像を散りばめます。
同時に気球作りが進行し、気球が「飛ぶ」という機能を持った生き物であるように描写します。気球は壊れた後も記憶として残り、柳の芽吹きとして命が続くように。
文字数:164
空まで5分
1
私の家は加工生物特区にあるのだけれど、それにしても龍なんてものがいるとは思わなかった。兄さんと見たんだ。学校帰りに詩津香ちゃんと寄った町立図書館の庭で。
詩津香ちゃんはこのところ毎日閉館まで図書館に残るから、私は迎えに来た兄さんと外に出た。
私は広い場所に出ると、必ず空を見上げる。校庭や公園で、地面に寝転がって見る空が一番好きだ。
空には、初めて見るものがあった。
「兄さん、あれ」私は指さした。
兄の斗真はそれまで自分の足を見ながら歩いていた。上どころか前も見ていなかった。悪い歩行姿勢が癖になってるんだ。
猫背の中学生は私の指差す彼方を見上げた。もうすぐ5月で、空は澄んだ青。春先のぼやっと濁った空とは違う、どこまでも奥行のある青。
青の手前に、細長いものが光っている。
「あれ、生きてるよね?」
きらきらと光ってひらひら揺れて。でもそのひらひらは、ただ空気の流れに従っているわけではなさそうだった。進む目的があるように見える。
(水族館のエイのヒレに似てる。それから蝶にも)
蝶はトンボと違って飛ぶのが下手だ。むちゃくちゃに羽ばたいてぐちゃぐちゃに進む。でも花にたどり着いて蜜を吸う。
「そう、見える」斗真は答えた。「顔とヒゲがある」
細長い布か膜のような、空飛ぶ物体。そんな生物なんて知らない。
いや、誰でも知ってる。あの姿は龍だ。
「前足も見えるよね」私はいきおいこんだ。私は一人じゃなくて本当に良かった。
ホントは前肢なのかわからない。胸鰭かもしれない。けれどもその部分は、顔よりも、飛行物体を生物らしくしていると思った。ゲームや漫画で見るドラゴンは、足を中途半端につきだして飛んでいる。大昔の映画に出てくるティラノザウルスの前肢と一緒で、萎縮した無用の長物だ。でも空を行く飛行物体の“前足”は、体側にぴったりくっつけてあって、大きく曲がる時だけ突き出された。進む方角を調節するのに使ってるんだ。作り物じゃなく、体全体が機能して生きている感じがした。
二人で何分も見続けた。龍はどうも高い建物の上を回避しながら――― もっと高いところを飛んでいるからぶつかる危険は無いだろうに ――― 飛んでいた。そして町境の山の方へ向かって、空の青に入り込んで、見えなくなった。
首が痛くなった。
一人だったら自分の目を信じられなかったろう。
「下校中に龍を見ました」
そんなこと、誰に言えるだろう。でも一人であんな凄いもの見たら黙っていられなくて、言ってしまって馬鹿にされるかな。馬鹿にされないように、
「きのう学校帰りにヤバイもん見たよ。ドラゴンみたいな、何かなーアレ? 目の錯覚かな?」
とか、わざと投げやりに汚く言う気がする。そして記憶をごまかして、本当に目の錯覚だとか、変わり凧の糸が切れたんだと思いこむんじゃないかな。良く教室で「幽霊を見た」とか「幽霊なんて見たことないから信じない」とか言う子がいるけど、私は幽霊を見たとしても、信じない気がする。もう小学六年生なんだから、気持ち悪いものを見たと思っても、それを幽霊だなんて信じないんじゃないかな。
斗真は中学生だけど、違うことを考えているだろうか。私は、
「誰にも言わないんだよね?」
許可を求めるように上目遣いした。
「うん」
斗真は私と違って冷静だ。私と違って他人の思惑がわかる。それは多分年齢のせいでは無いような気がする。
「恵斗と二人の秘密にしとこう」
斗真なら一人っきりでも秘密が守れるんだろうな。
私は友達に口をつぐんでいることは罪悪な気がして、気がついたら喋っていることがある。今みたいに誰かから「秘密にしよう」と言われたことなら我慢できるけれど、一人だけだと秘密を守るのは難しいなと思う。それで良く失敗してしまう。
私は兄の年になっても、兄のようにじっと人を観察して、じっと口をつぐんではいられないだろうと感じる。
だけど斗真本人からは、
「おまえ、いつも立ち回りうまいよな」と言われる。嫌味では無いと思う。兄は人の心がよくわかるのに、友達があんまりいなそうだ。
私は特別親しい一人の友達と、たくさんの友達を持っている。クラスが替われば疎遠になって、また一緒になれば寄ってくる程度の友達がたくさんいる。みんなそれぞれが何を考えているか、私にはわからない。それでも、顔と名前と何が好きか嫌いかがわかれば大抵友達づきあいはできる。人の秘密なら守れるし、人が触れられたくないことは言わない。それが居心地いいことだと思うから。
とりあえず龍を見たことは私だけの秘密ではなくなったから、誰にも言わないでいられるだろう。そして斗真とは今日のできごとをいつでも言える。きょうだいがいることはありがたいものだ。
私たちは家に向かって歩き出した。丘を登る、だらだら長い坂を。
「あんなに光るって、ウロコなのかな」
確かに金属光沢だったように思うんだ。布やビニールとは思えなかった。
「鳥の羽なのかも、爬虫類は飛ばないだろ?」
鳥の足はウロコ状だけどと思った。そして気づいた。
「あ、だいじょーぶ。恐竜は鳥に進化したんだって言うもん」そうだ、“恐竜は、爬虫類より鳥類に近いのです” とか、“むしろ、恐竜の生き残りが鳥なのです”って解説を目にしたことがある。
「恐竜展で見たなあ」斗真は懐かしそうに、“少し目を細めた”って、良く本に書いてある通りの表情をした。
恐竜展は私と兄さんと父さんの三人で行った。あのころは父さんと兄さんも冷戦状態じゃなかった。
私たち兄妹は龍について極めて子供っぽい憶測を話した。楽しかった。自分たちの本当の問題には触れない会話は楽しいのだ。
「山を超える生き物を作ってるのかな」
父さんが、とは言わない。
「ミヤマは作らないよ。生き物をいじるだけだ、あそこは……」
兄さんは言葉を途中で止めた。“あそこ”なんて言うけど、本当は兄さんも“父さんは”って言いたいんじゃないかな。
「……あそこはさ、飛ぶ生き物も許可されないだろ。鳥が許可されないんだから。ニワトリだろうとさ、」
私たちの町は周囲のほとんどを山に囲まれている。加工生物特区として認められたのはそのせいもある。父さんたちが幼生加工を手がける愛玩動物たちは、この町から自力では出て行けない。
父さんたちが手がける生き物は全部厳重にタグ付けされて出荷される。更に幼生加工が認められているのは、野生では生きられない個体だけだ。繁殖力が無くても「社会にとって脅威だ」と言われるかららしい。
昔の記録映像を見たことがある。「一生子猫のまま」とか「老いた盲導犬が、わずかな余生を子犬に戻って過ごす」なんて自然の摂理に反することだという、ヒステリックな演説があった。
法整備される前に父さんの会社、ミヤマ化学は生物個体の幼生加工範囲を内規で制限した。
第1条・去勢済の屋内飼育動物にのみ行う。 (安全性の確保)
第2条・成長が不要な個体にのみ行う。 (顧客の利便性)
第3条・個体の情報収集と管理を徹底する。(アフターサービス)
その上で、施術と執刀をするのはミヤマ化学が創業したこの美山町の指定病院だけに制限して、世間の反発を抑えている。現在も既得権益と批判されながら、国内動物の幼生加工を行っているのはミヤマだけだ。
あの記録映像で、この内規はロボット三原則と本質的には同じだと言われていた。「安全で、便利で、頑丈長持ち」という点で同じで、「命を機械と同列にし、道具にまで引きずり落とす恥知らずな行いだ」と語られていた。
あれを私に見せた父さんは、
「恥知らずなことには需要がある」と言った。兄さんがいたら、怒ったに違いない。
私は、
「それって、悪いことなの?」そう尋ねた。「父さん、悪の科学者?」
あの頃、私は他の子の家と自分の家の違いが面白くて、でも周りの様子を見て面白がっちゃいけないんだと考えていた。家族も家も、こんな狭い町なのにそれぞれ全部違う。人間も全部違う。
でも似ているところもいっぱいある。
あの時、父さんは穏やかに、
「善悪は、なかなか決まらないこともあるらしい」そう言った。
兄さんとそっくりな顔で。
だらだら坂を登りきると、私たちの家になる。丘の頂上にある五階建ての総合生物病院は、その屋上に日本庭園を持ち、その中に私たちの家が建つ。住居の外観はナントカ離宮のまがい物だ。
目隠しのステルス天蓋に囲われていなければ上空から見おろせて、きっとあの龍も見ただろう。馬鹿げた建物に見えるはずだ。龍自身より信じられない存在だとか思われそうだ。そこに私たち兄妹は帰る。
病院施設を通らないで済むように、直通エレベータもしつらえてあるけれど、非常階段を使ってこっそり帰ることが多い。エレベータを使うと居間の壁に表示されて母親が待ち構えるから。
非常階段を五階分登るとそこはまさに屋上屋だ。階段の屋上ホールは築山に模してあって、草花を集めた庭に続く。花は全部白に統一されたホワイトガーデン。今は白牡丹が咲き出したところだ。季節感を強調した白い花が絶えないように設計されていて、月替わりで植え替えもする。そして本物の鳥たち。今日は築山を出て数歩歩くと、白孔雀に通せんぼされた。
真っ白な鳥が羽を精一杯に広げてる。
「兄さん、これって、おもてなしなの?」
きれいという点ではあの龍に負けてない気もする。体はネコくらいの大きさなのに、巨大な羽扇を広げて、揺れる冠毛の下で、赤黒い目は精一杯に威張っている感じ。こんなに大きな尾羽、こんなちいさな鳥には始末に負えないだろう。それなのに、それが自慢でしょうがないというように、よろけながら私たちに見せつけている孔雀。この庭にある動植物は、下の病院で加工される子犬や子猫より不自然に見えるのに、すべて天然物だ。
ミヤマ化学は父に何でも差し出そうとしているようだ。何を望もうと、金で済むことなら叶えてくれるのじゃないだろうか。
もっとも私がお金持ちになったら、こうはしない。屋上はすっぽり天蓋に囲われているから、空を見上げる楽しみがないのだ。ステルス天蓋は太陽光を通すけれど、空をぼやけさせる。
家がこんなだから、私は友達を家に呼ばない。呼んだらどうなるか、兄さんを見て知ってるから。仲良しだった子の親が、斗真くんと遊ぶなって言ったらしいのだ。詩津香ちゃんなら大人に何を言われようと私の友達でいるだろうけれど、やっぱり呼びにくい。
それに私と詩津香ちゃんがやっていることは、家ではできない。
「いや、威嚇だろう。脅してるつもりなんだ」そう言ってから斗真は口を歪めた。「かわいいよな。孔雀の脳みそはスプーン一杯分もないだろうに」
嘲る口調だ。本当には可愛いと思っていない口調。
「兄さんさ、動物嫌いになったよね」
それなのに、父親と同じ大学に進もうとしているのだ。
父さんと同じことをしたって父さんに勝つわけじゃないのに同じ大学に行きたがって、父さんを嫌ってるのに、そっくりな、皮肉な表情をする。兄の言動は混乱して見える。なぜそうなのかはわからない。私は兄さんが無能な人間だとは思えないし、まして悪人では無いと知っている。でも事あるごとに、いろんなものを軽蔑しようとしてる。
私は今では兄が何を好きなのかわからなくなり、何を話していいか戸惑うことが増えた。好きなことを共有できない兄妹が楽しめる会話は、親の悪口ぐらいになっていて、重い領域に踏み込まずに軽口で済ますのは難しかった。それだから、さっきの龍の話はなおさら楽しかったのだ。
斗真はすっかり変わってしまった。母さんは「受験生だからでしょう」と言うけど、違うと思う。まさか「父さんのせいで兄さんは変なんだ」なんて言えないけれど。
孔雀のデモンストレーションは数分かかり、それから飛び石伝いに庭を抜けて、日本家屋の玄関を開けた。左手は濡れ縁に続く畳の部屋。正面は衝立屏風。外観の建築様式に合わせたのはそこまでで、屏風の向こうはごたまぜの造りだ。家族それぞれの要望を満たしたために、総合した美しさなど無い住居。
こんなふざけた住まいを作らせたのは父で、父は兄に言わせれば怪物だった。
2
父は怪物だった。それは僕にとってただ事実だったから、妹にはよく言ったし、時々は他人の前でも口にした。その場に大人が居合わせた場合、僕は必ずたしなめられたが、本当には叱られなかった。
「あんな立派なお父様に、なんてことを言うの」
驚いた声色を作ってそう言った家庭教師の顔に、僕は同意の色を見た。そして今、食卓の向かいから言われたのも同じことだった。僕が父に挨拶一つしないのを見とがめたのだ。僕は父と一年以上、会話していない。
「息子というものは、父親に逆らいたくなるものだがね、今に君もご父君を尊敬するようになるだろう」
晩餐を共にする代議士は、自分が物分り良い大物であるように演じて、しかし、その演出にはほころびがあった。
(実の子にとっても、佐々木真人は怪物なのだ) 彼の笑顔は確かにそう語っていると思えた。
口では僕をいさめる大人たちは、目では僕に安堵と納得の色を向ける。
中学二年だった昨年まで声変わりしなかった僕は、髪型も母の好みで子供っぽくされていたから、年より幼く見られた。そのためだろう、大人は今よりも僕に隙を見せたように思う。僕は妹のように周囲の大人とうまくやれないが、彼らの内心はわかったように思う。
彼らも父を恐れていたのだとわかる。
なにしろ僕の生まれ育った土地は、町全体が父によって潰され、父によって生き延びていたのだから。
「美山町が今こうして特区として栄えているのは佐々木さんのお力です」
代議士は僕と妹に向かって言ったが、それは父に聴かせるご機嫌伺いだ。
「この美山村は養蚕と湯治場しかなかった。それは知っていますか」
あるいは父の姿から目を背けたいのだろうか。
「少しだけ」
妹は屈託なく答える。父はそれに目をくれるが、口を挟まない。
本当はこの土地と父の関係について、かなり詳しい。大人たちは僕たちに寄ってたかって佐々木真人の人生を聞かせたがるから。
「かつての養蚕組合がクロロフィルと合成蛋白の会社、ミヤマ化学となり、お父さんはミヤマの企業奨学金を得て大学に進まれた。この奨学金は私も受けたものでたいへん、名誉に思っています」
父は生体加工の企業研究者となった。蚕のテロメア特異研究だ。蚕のDNA修復力は驚異的で、一部個体では細胞老化を見い出すことができない。それどころか幼生は栄養状態が悪化すると衰えるのではなく、若返ってしまう。テロメラーゼ活性やレトロポゾンだけでは説明がつかないことだった。
父が実用化した特異性テロメア誘導技術はミヤマ化学に巨富をもたらした。
しかしミヤマの企業城下町だったこの土地は、ミヤマが製造業から撤退したことで荒廃したし、その後に父がミヤマを訴え、完全勝訴が見えた段階で和解に持ち込んだことで、ミヤマは一層疲弊した。父がいなければ、需要も競争力も無くなったクロロフィル製造などで維持できる企業規模ではなかったはずだが、父は怨嗟を受け続けている。
それなのに、父はこの土地を離れようとしない。
憎まれ恐れられている分権力がふるえるからこの土地に固執しているように僕には見える。
それから代議士が語った事柄は、何の新しい知識ももたらさず、父に対する理解も引き出さなかったが、妹は熱心に聞いた。妹は自分に語られる言葉を拒絶しない。恵斗は、自分で自分のことをわからず、なぜか自分は友達が多い幸運な人間だと思っているが、他人に対して誠実なのだ。目の前の“国会議員様”もおべっかや懼れからでなく自分の語りに耳を傾ける恵斗が好きになったろう。
妹は大人たちが思う、「本物の子供・子供らしい子供」だ。
僕は偽物の子供。まがい物の子供で、しかし大人の成熟を手にしてはいない。大人の成熟というものは得体が知れないから欲しくもないものだが、きっと妹はすんなりと手に入れるだろう。
妹は僕と違って何の屈託もない。父を父として受け入れ、多分父の苦労を理解して、尊敬さえしているのだろう。
父は地元の重要人物に、横柄とさえ思えるような受け答えをし続けた。そして食事を終えた僕たちに部屋に下がるよう一方的に命じると、
「例の認可の件ですが」と口調を変えて議員に顔を向けた。献金の話でもあるのだろう。あんな態度を取って構わない相手なんだろうか。
食卓に着くまで、僕は龍の事を父に尋ねるつもりだった。この来客が帰ったら、父に声をかけることもできるはずだった。
しかし、あんなものを見たことよりも、父に声を掛ける障壁の方が高かった。
妹は今日龍を見たことを大事件だと思っているだろう。父に声を掛けることよりも取るに足らないことに思える自分とは違って。妹は正しい。
あの龍以外には、妹には何の秘密もなさそうだ。
3
詩津香ちゃんと私は秘密を共有している。
ミヤマ化学のプラントに出入りして機器補修をやっていた詩津香の家は、今ではゴミ屋敷みたいだけど、作業所は広くて、使い放題なのだ。
たくさんの人が化学プラント閉鎖で困った。私たちの町は、大昔からミヤマ化学に関連して働く人たちで、でも「直接雇用者じゃないから切り捨てるのも簡単だった」なんて言ってる人がいるのも知ってる。
おまけに父さんのおかげで町は加工生物特区になって、人が入って来ないのだ。日本中どこだって似たようなもんだって詩津香は言う。クールだ。そして私は悲しくなる。
ずっと仲良しでいられたらいいのに。中学生になっても仲良しでいたいけど、兄さんを見ていると自信が無くなる。中学生になったら人を憎んだり馬鹿にしたりしだすんだろうか。
中学生になることと、龍を見たことと、どっちが大問題なんだろう。
今年の一月から、私たちの秘密は始まっている。冬休み明けの始業式、放課後が早かったから私たちは校庭で落ち合って、二人地面に寝そべった。
立ち上がって見る空と、寝そべって見る空はなんであんなに違うんだろう。冬の薄ぼんやりした空なのにきれい。
「六年生も同じクラスだといいね」
「うん、絶対」
「絶対はないっしょ」詩津香ちゃんはクールだ。
「六年生が違うクラスで、そのまま中学になったらやだな」
「なんで?」
「あのね、」言いたいのに言えないことがあった。
「なあに?」言ったら私は詩津香に嫌われる。
私は遠くの私立中学を受験する。兄さんが中学ですっかり変になったから、母さんは私を心配して、地元じゃない学校に行かせようとしているのだ。違う中学に行ったって友達は友達。でもやっぱり違う。クラスが違うだけで随分違うんだから、学校が違ったら全然違うんだ。私は友達を騙しているようで辛くて、泣きそうになった。
涙が出たら、空のせいにしようと心の中に嘘を重ねた。
「あんたさ、違う中学行くんでしょ、どうせ」でもばれてた。
涙は引いた。
「行きたくなーい」
「やめれば?」
「行きたいの。すごく素敵なとこなの」
「どっちだよ」
学校見学会に行ったら、天体観測所と大きな天体望遠鏡があったのだ。それに、
「だって、気球があったんだよ。生徒たちで文化祭に作ったんだって。そんな中学行きたい」
「行けばいいよ。でもさ、」詩津香は起き上がって、背中も後ろ髪も枯れた芝だらけのまま、
「気球ぐらい、作ってあげようか」
私は詩津香ちゃんが大好きだった。クールなのに、とんでもないことを言い出すから。そして、本当に行動できるから。
「作りたい」
「作ってやるよ。二人で作ろう」
こんなことを言ってくれる友達は、世界中にいないと思った。ううん、思ったんじゃない。絶対一人しかいない。
「うん」私はそれしか言えないけど、
「材料費はあんた持ちで」私は詩津香が大好きだ。
「うん。お年玉貯金がある」
あれから四ヶ月、私たちは本当に気球を作っている。
気球は大別して三つの部分に分けられる。
球皮と、ゴンドラと、バーナーだ。それにガスボンベや砂袋が付属する。
防水布を大量にネット購入した時にはどきどきした。私たちはクレジットカードなんか無いから、「現金先払い」を選んだ。
振込用紙を詩津香が用意して、お金を私が持って、初めてコンビニに行った日、詩津香はなぜだか「明日にしよう」と言った。
そして翌日、用紙と現金を差し出した時レジの人は、
(なんだこの小学生たちは)という顔をした。
でも大丈夫だった。
「昨日は店長がいたから。今日はやる気のなさそうな高校生バイトだったからね」詩津香ちゃんはクールでクレバーなのだ。
私たちは五年生でいる間中、街中の並木のシダレヤナギの落枝を拾い集めた。「一番軽くて丈夫なのは現在でも植物素材の蔓籠です」と気球の本にあったから。
私は母さんを利用した。
母さんはいろんな手芸をする人だから、丈夫な籠の編み方を教えてもらったのだ。私は手の皮が剥けたけど、絆創膏をして籠を編み始めていた。
本に載っていたバーナーの設計図も球皮の型紙もわかりにくくて、私たちは図書館に入り浸っていた。図書館の司書さんには、
「気球を実際に作る研究をしてます」と言った。嘘を付く必要ないなら、つかない。正直が最大の防御なのだと私たちは知っていた。
「設計図、できたよ」そう詩津化香が言ったのは五年生の終わりで、「設計図が一番大事だから」その通りだった。
バーナー台を、詩津香は一日で作ってしまった。
「溶接は一番楽しいよね」上手く出来た時の溶接跡はなめらかで、本当に綺麗なんだよ、と詩津香は言い、私は父さんが手術跡の縫合のことを同じように言っていたことがあるのを思い出した。
「二番は?」
「ハンダ?」でもあいにく気球にはハンダ付けは無かった。
籠編みもかなりうまくいって、私たちはもう止まらなくなっていて、本当に気球を作り上げる気になっていた。
球皮のミシン掛けも楽しかった。春休みは毎日ミシンをかけて縫い目をシーリングして、五月には初飛行することを目指していた。
ところが。
六年生のクラス替えで私たちは一緒のクラスになれて、それは当面一番嬉しいことだったし、気球の打ち合わせを毎日出来たのに。
初飛行はできなかった。もうあとはガスボンベを取り付ければいいだけで、ボンベの火を球皮に吹き込んで空気を膨らますのは怖かったけど、詩津香はガス溶接だってできるんだから安心してたのに。
急に詩津香が、
「無理」
そう言い出した。
「おうちの人にばれた?」
やっぱり空を飛ぶなんて無理なんだろうか。
「なんかやってるくらいにしか思わないよ」そう言ってて、確かに詩津香の家族はほとんど家にいなかった。春休みミシンを作業場に置いて縫っていた間も、おうちの人に会うことなんか無かった。
「何が無理なの?」
詩津香は口元をきゅっと噛み締めるみたいにして、
「ごめん。縮尺を間違えてた」そう言った。
「直せないくらい?」
「ごめん」詩津香は型紙の縮尺計算が違ってた、とか、ポンド/ヤードが、とかブツブツ言ってたけど、とにかくいつもと違ってた。いつもなら、こんなカッコ悪い言い訳をつぶやいたりしない
間違ったことがそんなにショックなんだろうか。
「縮尺が違ってたって、買う量も違ってるの? また買うならもっと量がいるのかなあ」
布は全部裁断して使ってしまっていた。布が余らなかったということは買う量から間違えていたのだろうか。
「もうさ、今日は何も言わないでくれる? お願い」
いつもと違う。
「あのさ、詩津香ちゃんはどう思ってるかわかんないけど、私は怒ってないし、まだ気球作りたい」そう言って私は帰った。
あれから何日も過ぎたのに、詩津香は毎日図書館に入り浸って、作業再開は無しだ。
「大きさが足りなくて私たちが乗れなくてもさ、飛ばすだけでもできないかなあ?」
埃だらけの作業場に、柳籠が置いてる。中にはバーナー台。外には砂袋も掛けた。
球皮の取り付けのロープワークは二人がかりでも力が足りなそうで、私はいざという時は兄さんに打ち明けようと思っていた。詩津香の父親は頼ってはいけない気がしていた。
でもそれ以前で大失敗したみたい。
私たちは行き詰まって、新しく布を買うお金も無くて、そしてあの日、私は龍を見たのだ。
4
私は困っていた。気球と龍という秘密を二つ抱えて。そして詩津香ちゃんといても前ほど楽しくないことが残念だった。二人でいれば、何をしていても楽しかったのに。
「兄さん」
相談するとしたら、母さんでも父さんでもなかった。友達と気まずいなんてことは、兄さんにしか相談できなかった。
答えをもらえるかどうかはわからない。きっと大人に聞いたなら、答えをくれるのだろうと思う。こうすればいいとか、こう言ったら、こう振舞ったらとアドバイスしてくれる。
でもそれはきっと正解ではなかった。
兄に相談して、きっと答えはもらえない。けれど兄の言うことがきっと一番正解に近いはずだと私には思えた。間違っていたとしても、正解に近い答え。
父に尋ねたらきっと、私にはできない解決方法を示されそうだった。
「詩津香ちゃんとうまくいってないの。聞いてくれる?」
「ああ、僕でいいの?」
「父さんよりいい。父さんに訊いて言うとおりにしたら、問題は解決するけれど友達いなくなると思う」
兄さんは笑顔をみせた。父さんの悪口を聞くといつも楽しそうなんだ。
私は、兄に気球計画を打ち明けた。九分通りできていたのに、あとはガスボンベだけと思っていたのに、詩津香ちゃんの間違いが分かって、詩津香ちゃんが変になって、私は七月に入ったらお休みの日は毎週中学受験塾に泊まり込むことになっているのだ。
「塾に行くことを怒ってるんじゃないか?」
「ううん。まだ言ってないもん。友達は誰も知らないはず」
「自分の失敗が決まり悪いのかな」
「うん。私はそうじゃないかなあって思ってるの。私は怒ってないし、作り直したい」
「じゃあさ、向こうがホントは何を思ってるか、わかってないんだ」
「うん」
「恵斗もさ、何か隠してる? 塾のことだけ?」
「龍のこと」
「あー」
「何?」
「あんな変なもん見たのに、僕はほとんど忘れてた」
私はびっくりした。秘密って、忘れていいことじゃなくて、重要なことだから秘密だと思ってた。
「あのさ、秘密にしようって言ったけど、その子に言いなよ、龍のこと。塾のこともさ」
「言っていいの?」
「多分隠し事されてて嫌なら、まず自分の秘密をなくしたら?」
兄さんは答えをくれないだろうと思ってたけど、
「うん。そうする」
「そんでさ」
「なに?」
「布と、ガスボンベ代、僕が払ってやるよ。なんならガスボンベはこっちに運ばせよう。」
「なんで」
「危険物はさ、子供だけだと買えないだろ。それで怒ってるわけじゃないだろうけど」
「兄さん」
「何」
「とってもお兄さんって感じ」
「隠し事してたって、もっとこじれるかも知れないけどさ」
「詩津香ちゃん、そんな子じゃないよ」
そう、詩津香ちゃんはそんな子じゃなかった。
私が秘密その一、龍の話をした時、詩津香ちゃんは何回か瞬きした。それから、秘密その二、七月から受験生生活が始まっちゃうことも話した。これはすごく嫌なことだったと思う。だって、気球を作れたら、私が私立受験やめると思ってたに違いないんだもの。詩津香ちゃんは何も言わずに聞いてた。そして、兄さんが布代とガス代を貸してくれるっていう話をしたら、初めて詩津香ちゃん口を開いた。
「お兄さん、鋭いね」
「時々ね」
「あのさ、私も言うことがある。打ち明ける」
「うん」なんだろ。
「ウチさ、ガス屋さんに支払い溜まっててさ、ガスボンベ頼めなかったの。断られたの」
詩津香ちゃんちは家族みんな、あんまり家にいない。それは色々ワケありなんだと思ってはいたけど。
「さすがに言えないと思ってた」
そんなこと構わない。でも構わないしカンケーないことが、言えないってある。
「じゃあさ、気球作り直ししてくれる?」
「ううん」
「えー」気球作り、もうしないの?
「作り直しいらない。ホントは球皮もあれで良いの」
「えー」
「なによ」
「私だけ嘘ついてると思ってた」
「お互い様?」
「うん」
私たちの仲直りは完了しました。
5
兄さんに助けてもらって、私と詩津香ちゃんは空を飛ぶことにした。気球の問題はあと一つ、どこで飛ばすかだけだった。
「飛んでから失敗したら、やっぱ死ぬよね」
「うん、死ぬね」
「飛んでみたいー」そんなことを私たちは今更言い合って、でも、
「とりあえずロープつけて、空でどれぐらい飛ぶか実験しようか」兄の提案に従った。
五月最後の日曜日。
私たちは病院の駐車場を選んだ。今日は空っぽの空き地だから。
詩津香ちゃんの強度計算によるロープをつけて、ガスバーナーに着火して、気球に空気を送り込んだ。
鉄柵に結んだロープを、三人がかりで随分強く結んだこと。ガスバーナーの火の強さ。球皮を膨らますと冗談のように大きかったこと。全部が驚きで、全部自分がやったことだと思えなかった。今でも思い出すのに、今でも信じられない気がする。
あの龍より、気球の方が私には生きている。
私たちは気球に乗れなかった。詩津香の強度計算は正しくロープ結索は十分だったが、浮力が柵をむしり取ったのである。気球が浮いて三人が頭を真上に上げている間、軋む音はしていたのだが、轟音が響いた。
鉄柵が割れて、気球は浮上した。
私たちの体にぶつからなかったのは幸いだったと思う。
気球は、浮上し続け、流れ続け、山の方に行ってしまった。
私たちは誰ひとり飛べなかった。
それなのに、なんであんなに嬉しかったんだろう。
「あのさ」
ずっと黙ってた私たちの中で、初めに口を開いたのは詩津香だった。
「恵斗が中学合格したらさ、二号機つくってやるよ」
私の返事は決まっていた。だから何も言わずに、ただ頷いた。何度も。
「面白かったから、僕も入れて」
兄が言った。
「このあときっと大人から叱られるだろ? 僕が代表で叱られるから」
お兄さんぽい。
「よろしくお願いします」詩津香が言った。クールだった。
その後三つの大事件があった。
一つ。ミヤマ化学が半機械生物を発表したこと。現実にはいない架空の生き物に限定してという発表で、龍も機械制御ながら表面は生体なのだそうだ。
二つ。あのあと兄は県警に事情聴取され、父が身元引受人になった。その時兄はやっぱり父に何も言わず、けれどそれから何日か過ぎた朝、
「おはよう」
僕は父に、挨拶した。多分二年ぶりだろう。
「おはよう」
父も返した。ただ一言。互いにそれだけだ。
しかし何かが流れ出した。それは確かに目にも見えないし耳にも聞こえないのに、温度や圧力を持って感じられる何かが、流れ出したのだと思う。
母が泣き出した。
それから三つ目。
気球の残骸は山裾の川沿いに見つかったのだけれど、翌年の春。
その土手からシダレヤナギが芽吹いた。
私はそれを見届けた。二号機を作る合間に。
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