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梗 概

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隠れ家レストランでシェフ見習いとして働き始めた青年、こん。彼の正体は人間に化けた狐だった。幼かった自分の命の恩人である、同店のオーナー兼シェフの俊を慕い、上手に化けられるようになってから人間の姿で近づいた。俊は、人間拡張器の「掌中しょうちゅうの芽」を手に着用して調理を行う。これは触覚センサの企業が開発した「手で味を見れる」という特殊な補助装置※(内容アピールに取材先掲載)で、長年シェフだったものの味覚障がいを患った俊にとっては救いの装置だ。手のひらを覆う高感度の触覚センサの中心には、味を見たり嗅いだりするために、独自開発を経て培養された連想学習型の植物の芽が組み込まれている。芽が古くなると感度が落ちるため、定期的に芽を摘み、次に発芽するのを待つ必要があった。

一方の紺だが、狐に消化不良を起こす食材は少ししか口にできないため、早々に行き詰まる。自分の味覚に自信がないと俊に嘘をつき相談すると、掌中の芽の使用を提案され、手持ちの予備の芽をもらう。装着した紺は人間と同様に味見ができると喜び、料理の腕を上げて、やがて客に振る舞うことも認められる。

狐の「化ける」能力と芽の生命活動が複雑に作用した結果か、紺の作る料理を食べると、それにまつわる個人の記憶が目前にありありと浮かぶ客が出始める。タイムスリップしたかのような不思議な体験が癖になる上に、薬物摂取ではなく「幻想を味わえる」として紺の料理に人気が出る。俊に問い詰められて正体を明かす紺。あやかしの効力が芽や人にどんな影響を与えるか分からないと、俊は紺に芽を外すよう言うが、紺は俊も仕事も手放したくないので渋る。狐の寿命は短いからせめて元気な間は働かせてほしいと。紺に家族愛に似た親しみを抱く俊は、熱意にもほだされて様子を見ることに。

紺の芽は摘まれて生え替わるたびに丈夫な新芽が現れては、味覚を始めとする五感の精密度も向上する。そんなある日、不要の芽を摘もうとして激痛を覚えた。検査の結果、芽の根も図太く長くなったせいで紺の体の神経と連結していると判明。狐が植物に憑かれた状態となり、料理による幻想の味もアクが濃くなって目眩を起こす客が続出。迷惑をかけたと謝り、紺は俊の前から黙って姿を消す。

数年後、俊の元に紺の子と名乗る少女が訪れる。自分もまた人に化けた狐だと正体を明かした上で、箱を差し出す。中に入っていたのは、老いた狐になった紺の毛皮だった。己のことをずっと忘れないでほしいという、今は亡き紺の生前の願いからだった。毛皮についていた前足に、掌中の芽がまだあることに気づく俊。少女の了解を得て、その足を切断し自宅の庭に埋葬する。数週間後にその場所から芽が出てきたので摘んでみると、目も眩むほどの芳香がする。専門の知人が分析した結果、鎮痛剤の成分に大いに役立つとのことだった。摘んだ芽自体が人を助ける物に結実したと、俊は紺を深く想う。

文字数:1200

内容に関するアピール

・話の前半では、不要な存在の成長を阻むという意味だったのが、ラストでは逆に役立つ物を収穫するという意味で、「芽を摘む」としました。考えさせすぎる反転になったのは猛反省です。実作では分かりやすさを心がけます。

・手で見るように物に触れられるのなら、味覚や嗅覚も同時に働いて手で味見する機械が作れたら、面白そうだなと。それから、美味しかった時の光景が立ち上るという摩訶不思議もブレンドして珍味な作風にしたい。オチは芽の根の菌等が生き延びていて、紺の想いも通じて芽が出せたという風に色々練ります。俊が紺と一緒に食べる場面も書きます。

・余談ですが大森先生と誕生日が一日違いです。これも何かのご縁(こじつけ)、今年もよろしくお願い申し上げます。

※第7回(12月)の取材先と同じ産業用ロボット製造企業の触覚センサがモデルです。

ご協力:濃野 友紀様(FingerVision代表取締役)、今岡 仁様(NECフェロー)

文字数:400

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「こちら、鴨肉のバルサミコソース、りんごのソテー添えでございます」
 レストランの給仕スタッフがテーブルに置いた一皿に、着飾ったカップルたちの「おいしそう」と言う声がひそひそと聞こえた。ホンの人間の形をした耳はその感嘆を聞きもらさず、衛生用のマスクの下で口元が緩む。そのソテーは俺が作ったんですよ、と言いたくなる気持ちをこらえて、ホンは次のメニューの下ごしらえに移った。
……を先に出せよ。おい、聞いてるか?」
 同じ厨房に立つオーナーに呼ばれて、ホンは慌てて謝った。
「すんません。ちょっとテーブルが気になって」
 オーナーの俊紀としきはただ、フンと言って受け流した。フライパンの中のピラフに調味料を手早くまぶし、よく混ぜてから小皿にスプーンひとさじ分載せる。ある程度冷ましてから、指でピラフの米をつまんだ。
「あと小さじ1杯って所か」
 指をすり合わせながら呟くと、俊紀は調味料のスペースから粉砂糖の瓶を手に取り、フライパンの中にまぶした。同様の流れでまた指でつまみ、うんと頷いて皿にピラフを盛る。イベリコ豚の香ばしい匂いにホンの鼻がひくついて、思わず腰に力を入れた。雇われ始めてからまだ1週間、ここでボロを出す訳にはいかない。
「お前も味見するか?」と俊紀に聞かれて、ホンは首を振った。
「まかないの時でいいんで」
 本当は今すぐにでも食べたい気持ちで、ホンの目が無意識に俊紀の手に向けられた。その手は薄い透明シリコン状の触覚センサで覆われており、掌の中央には植物の芽が埋め込まれている。「手で味を見れる」というキャッチコピーで民間企業が売り出した、「掌中しょうちゅうの芽」と呼ばれる味覚認識補助装置だ。人間拡張技術が結集されたこの装置には、力分布や滑り分布を認知するマルチモダリティ機能が備わっており、取得情報から緻密に質感やテクスチャを感じ取ることができる。また、掌の芽の植物はネナシカズラとヤドリギのDNAを掛け合わせたキメラであり、これらの特徴を活用して経験した味覚を記憶することも可能になった。ネナシカズラには、宿主の植物から遺伝子を盗み自らの生存手段として「連想学習」する能力があり、ヤドリギにはサイトカイニンによる細胞分裂を促進する現象が見られる。触覚センサのAIに取り込み、植物が味を覚えるたびに個別学習でフィードバックさせていくことで、味覚の幅が広がる仕組みだ。
 イタリアンレストランのオーナー兼シェフである俊紀は、数年前の流行病がきっかけで味覚障がいを患って以降、調理の間は常に掌中の芽を装着している。彼が味を見るとき、舌に届くのは掌中の芽が分析した味覚であり、自らが直接感じるものではない。だが、障がいを患う前と後で彼のシェフとしての評判が落ちることはなく、むしろ掌中の芽によって文字通り味に定評のある一品を出せるようになった。そう本人も納得しているはずなのだが。
「ちっ、不便な奴だ」
 俊紀の舌打ちに、ホンは一瞬、自分のことかとビクついた。
「大丈夫ですか?」
「この芽ってのは、ダメになる時はいきなりだな」
 俊紀はぶつぶつ言いながら、壁に掛けてある鞘に入った小刀を手に取った。掌を上に向けて横に小刀を滑らせると、掌の真ん中にあった芽がぴょんと飛んで脇に落ちた。この芽は植物の頂芽に当たる部位で、側芽の成長を抑えるホルモンであるオーキシンを合成する。側芽の成長は頂芽の読み取り能力の妨げになるため、オーキシン濃度は常に一定に保たれる必要があるのだが、ヤドリギの特性上、頂芽が大きくなって根との距離が伸びるとオーキシン濃度が減少してしまう。そこで大きくなりすぎた頂芽は不要な物として摘み取らなければならない。味覚が鈍くなるタイミングには個人差があり、俊紀のような味に敏感な者には、突然「使えなくなった」と腹が立つ瞬間でもあった。
「紺、サーブ前の味見だけ頼む」
 摘み取られた芽の下の、新しい芽が掌に馴染むまでには10分ほどかかる。手を握ったり開いたりとせわしい俊紀に言われて、ホンは慌ててピラフの具材を確認した。
「え、あ……分かりました」
 チョコレートはともかく、ネギは入っていないから大丈夫だ。ピラフをひとさじ、味見専用の使い捨てスプーンに載せて口に入れると、ホンの喉がひとりでに鳴った。米の一粒一粒の塩梅が、舌に染みこむように伝わる。
「うんめえ、あ、うまいです」
「おいしいって言え。客の前で『尻尾』が出るぞ」
 そう言われてホンはとっさに手を腰に当てた。言葉のあやに釣られた自分をごまかすように、見習いのエプロンを大げさに揺らすと、ピラフの一皿を厨房から給仕に渡した。
「芽、どうですか?」
 呼びかけられた俊紀は、広げた掌をひらひらと振った。
「問題なさそうだ。ドルチェのフルーツ出しとけ」
 ホンの口から、はいと威勢良く声が出た。人間として働くことの新鮮さが、背筋を自然と真っ直ぐにさせる。俊紀の新しい芽が無事に機能し始めたのを見て、自分のことのように嬉しくもなった。
「オーナー」
「なんだ」
「ありがとうございます。俺のこと雇ってくださって」
「はあ? 何を今さら」
 首をかしげて卵を溶く俊紀の横で、ホンはふふっと小さく笑った。味覚を失った以外に、俊紀は初めてあった頃と変わらなく見える。マスクの上の眉がハの字に寄せられている表情に、自分を助けてくれた時の顔つきが思い出された。

 *

ホンが俊紀に助けられたのは今から4年と少し前、まだ生まれて半年にも満たない頃だった。親と森ではぐれて害獣用の罠にかかったのを、キノコ狩りに来ていた俊紀に偶然発見されたのだった。
「ホンドギツネか。子犬と変わらんね」
 ホンを見下ろす俊紀の眉は、自分が痛みを抱えるように寄せられていた。全身ずぶ濡れの状態では、焦げ茶の毛がホンの体に張りつき余計に小さくか弱く見えた。それが俊紀の同情心を誘ったらしい。山歩きの携行品であるタオルに包まれてホンが運ばれたのは、俊紀の一人暮らしの住居だった。ホンは後に知るのだが、俊紀は20代で離婚経験があり、30代後半だった当時も今も子どもはいなかった。
「お前ついてるな、とんだご馳走だよ」
 怪我の手当をされた後、蒸した鶏肉が目の前に出されてホンは飛びついた。毒入りかもという警戒心はなく、ただ肉を噛み切って飲み込むのに必死だった。片方の顎でガジガジと咀嚼するホンを、俊紀は撫ではしなかったが、口元は笑んでいた。
「そんな美味しそうに食べてくれるなら、俺の店に来な。サービスしてやるよ」
 肉の味を反芻しながら、ホンは俊紀の顔を何度も脳裏に刻み込んだ。言っている意味は全ては分からなかったが、好意的に扱われているのは理解できた。傷の痛みに足が引きつる一方で、温かな肉の味がホンには大きな救いになった。
 怪我が癒えて森に返されたホンは、人語を解し人間に化ける術を数年がかりで身に付けた。兄弟たちが巣を離れて新たに家族を作るのをよそに、人になりきって生きることを選んだのだ。人の姿を長時間保ち続けられるようになると、ままごとの延長のように、調理作業も少しずつだが習得していった。
 人としての名前は、ホンドギツネにちなんでつけた。子犬と変わらないと言った俊紀に、どうしても大きくなった自分を見てもらいたいと、狐の浅知恵で考えだしたのが「弟子入り」することだった。
「厨房スタッフ募集の、チラシを見たんですけど」
 俊紀のレストランを訪れたとき、ホンの第一声は緊張で震えていた。店の窓ガラスには、どこにでもいる青年の外見が映っている。ホンは化けの皮が剥がれないようにと気も抜けず、俊紀と再会できた喜びを味わう余裕も無かった。
 店内の面接で体を強張らせていたホンに、俊紀はこう問いかけた。
「アルポルトの意味、知ってるか?」
「店の名前、ですよね」
 狐の姿で何度もレストランの周囲をうろついていたから、店名の綴りぐらいはさすがに把握していた。
「すんません、そこまでは」
“Al Porto”イタリア語で、『港にて』って意味だ。舟が出て行くのも帰ってくるのも、港がないと始まらない。そんな風に、来てくれる客の人生のどの場面でももてなしたいって意味を込めた」
 俊紀はそこで自分の掌をホンに見せて、掌中の芽について説明した。淡い緑色をした芽の上で、俊紀のもう片方の手が、おにぎりを握るように緩く曲げられた。
「この芽のおかげで、俺はこの店を畳まずに済んだ。味覚を失った俺の料理を相変わらず食べに来てくれる客がいる、それでこそ、もてなしができる」
「人生でも職場でも、失敗は誰だってする。客に喜んでもらおうって気持ちで、めげずに挽回できるスタッフが欲しい」
 できそうか?と聞かれて、ホンは迷わず首を縦に振った。向き合う俊紀の顔が大きくほころんだ。
「お前の顔を見てると、何か食わせたくなった」
 特別にまかないとして出してくれた一品は、皮目がカリッとなるまで焼かれた鶏肉のソテーだった。助けてくれた時と同じ鶏もも肉だったが、調理次第でまったく別の食べ物に思えた。これが人へのもてなしかと、ホンは知らない世界に飛び込んだことを身をもって体感しながら、夢中で肉片にかじりつく。よだれが口の端から垂れそうになり、ホンはナプキンで口を覆い隠すように食べた。

 *

人間でも失敗するのが当たり前なのだから、狐にとって順風満帆に行くはずがない。ホンもそう理解していたつもりだったが、若い狐には味見をすることへの具体的な想像が足りていなかった。衛生面や身だしなみなら人間の姿で気をつければ良かったが、狐が食べられない食材を大量に口にすることはできない。少量であれば軽い消化不良で済むものでも、味見の回数によっては重い症状を引き起こしてしまう。
 味見の前に具材や調味料の成分を逐一確認するホンを見て、俊紀が問い詰めた。
「アレルギーはないって言ってただろ。仕入れた食材に不満でもあるのか?」
 ホンがレストランで雇われ始めた翌週のことだった。狼狽したホンは激しく後悔する。少しでも早く俊紀と一緒に働きたいと、厨房スタッフに申し込んだのは失敗だった。給仕スタッフは人手が足りているから、配置換えは頼めない。俊紀の店舗はこじんまりとした一軒家を改造したもので、定員の数自体が少なかった。
 俺はただ、オーナーみたいに人をもてなしたいだけなのに。うつむいたホンの視界に入ったのは、俊紀の掌中の芽を装着した右手だった。ホンの目が獲物を見つけた時のように光る。
「実は俺も、味覚に自信が無くて……過去にいろいろあって、その」
「ストレスか?」
 俊紀は味覚障がいについて調べた経緯から、重度の心労も発症原因の一つであると知っていた。
「そうですね、普通の人と育ってきた環境が違ってたから」
 ホンは野狐の過酷な暮らしを人間の家庭に置き換えて話をした。実体験なだけに説明には困らなかった。
「でも俺、どうしてもここで働きたいんです。オーナーなら分かってくれるんじゃないかって」
 一通り俊紀に伝え終わると、黙って聞いていた彼は、オーナー専用の収納棚から小さな箱を取り出した。
「俺のスペアの芽を貸そう。新品じゃないが、これまでの経験の味も学べる」
 俊紀は掌中の芽のセットをテーブルの上に広げると、ホンの利き手(人間の姿でいるとき)の右手に装着した。頂芽の部分の芽を掌のくぼみにはめると、触覚センサのシリコン膜が皮膚に吸着する。その間に挟まれた芽の細い根とセンサが情報を交換し合うたび、電気信号のやりとりのような僅かな光が掌から指先にかけて点滅した。ホンは新しい玩具に触れる子どものような、好奇心に満ちた瞳で掌を眺めた。
「綺麗ですね」
「暗い所で見ると、飛行機から見る夜景のパノラマにも似てる。掌の港にてアルポルトだ、料理人の拠り所だと思って大事にしてくれ」
 俊紀の言う夜景を自分も見てみたい。ホンは掌中の芽をつけた手で、俊紀の指示に従ってモッツァレラの塊をキッチンペーパーで包んだ。カプレーゼを作るために水気を切る。チーズの塊を指でつまむと、指のセンサに読み取られた甘味や塩味、フレーバーや弾力等、味覚に関する情報が、俊紀の過去の記憶データと照合された。根の植物細胞壁にてセルロース分子がエネルギー源として分解し、芽に運ばれて、内蔵されたAIが高速処理アルゴリズムで各測量値を算出する。それらの値は人の神経の軸索で電気信号として伝播し、舌の味蕾にて味覚が再現される仕組みだ。
「モッツァレラって、牛乳みたいに甘いのに、生臭くないんですね」
 自分の舌で違いが分かる、その疑似体験にホンは感嘆して言った。食材の成分は体内には吸収されないから、拒否反応もまったく現れなかった。
「そのさっぱりした風味がトマトの酸味とよく合う。餅に似た感触だが、食べるとチーズ特有の糸を引くねっとり感が出る。掌中の芽なら、その差も噛むように感じ取れる」
「そういえば、餅食べたことないのに、餅の味を思い出しました」
「俺の蓄積データから比較サンプルの情報も伝わったんだろう。客の記憶と同期させて、食べると懐かしの想い出も味わえるとか言う装置も発売されたから、企業も最初からそのつもりで作ったんだろな」
 俊紀の言う装置とは、「精髄エスプリの一杯」との名称で売り出されたVR装置のことだ。縁の広い皿の外観で、食べる者の特定の記憶を再現した4D映像が、皿に食器が触れることで刺激されて内蔵カメラから眼前に映し出される。精髄エスプリの一杯の内側は、掌中の芽と同じ種類の植物の根と触覚センサで覆われている。盛られた料理の塩梅を読み取り、客の感想と共に掌中の芽の記憶データにフィードバックを行う。客が通えば通うほど、料理の味と映像が記憶により近いものへと更新されていくのだ。二つの装置の芽は同じ小型栽培ユニットで管理されるため、設備費が抑えられるのも店側にはありがたかった。
 俊紀の店でも精髄エスプリの一杯を取り入れたもてなしが始まると、客たちの間では概ね好評だった。この装置の皿で、掌中の芽を使いこなせるようになったホンの料理も供され始めた所、客の一人が俊紀のときとは異なる反応を見せた。食が進むにつれて、酩酊した様子でVRの映像に魅入るのだ。ワインの量が多いせいかと思われたが、下戸の客も惚けた表情を見せつつ、フォークとナイフを持つ手を動かし続ける。見かねて俊紀が映像を止めると、客は少し時間を空けてから元通りに振る舞い始めた。
「いやあ、思い出の中にタイムトリップしたみたいだったよ」
 サウナでも浴びてきたようなさっぱりとした顔で言うと、客は大いに満足して帰った。一方で納得のいかない俊紀はホンの掌中の芽を調べたが、自分のものと変わりないように見えた。念のために芽を摘んでみたが、新しい芽が機能するとまた同じことの繰り返しだった。俊紀の中で嫌な予感がした。
「ホン、お前から掌中の芽を取り外したいんだが」
 思いきって俊紀が切り出すと、ホンはその理由を青ざめた顔で聞いていた。心当たりがないことはない。ネナシカズラの根が寄生主から遺伝子を吸収するという能力が、自分の化ける力、つまり人にまやかしの姿を見せることを取り入れられるのであれば、植物が客を化かすことも可能にはなる。掌中の芽と精髄エスプリの一杯が同じ栽培キットで育成されている以上、掌中の芽からもう片方にその力が吸収されてもおかしくはなかった。狐が植物に憑かれている、そんな話を俊紀にしたら、ホンの正体だってバラさなくてはいけないし、ここで働き続ける夢も終わってしまう。
 人間として生きていたいのにと、ホンは掌を握りしめかけて、ハッとした。そのためにも、この中の芽は手放せない。
「俺に問題があるって、思ってるんですか?」
「責めてるわけじゃない。人間と装置の相性もあるだろう」
「じゃあ、別の新しい芽だったら、上手くいくかもしれないじゃないですか」
 食い下がって何度も懇願するホンを、けっきょく俊紀は無下に出来なかった。企業の顧客相談室に問い合わせた結果、問題の見られた掌中の芽を送れば代理の品を提供すると言われたので、ホンの泣きの願いを聞き入れることにしたのだ。
 新品に付け替えてから1週間近く経ったが、ホンの料理を食べた客に異常は見られなかった。取り越し苦労だったかと俊紀が安堵し始めた時、異変が起こった。
「いってえ!」
 声を上げたのは、厨房に立つホンだった。パスタを大鍋で茹でていた俊紀は、半分体をひねってホンの方を振り返った。ホンが右手首をもう片方の手でつかみ、中腰でうめいている。そのそばには掌中の芽を切り取る用の小刀があった。
「どうした?」
 ホールの客を慮って静かに呼びかけた俊紀と、自らの右手の両方を、ホンは交互に見遣った。
「芽、切ろうとしたら、むちゃくちゃ痛くって」
「ちょっと待ってな」
 キリのいい所まで作業を済ませてから、俊紀はホンの掌を様々な角度から観察した。掌中の芽が、切らないといけない大きさ以上に成長している。その芽の脇には通常は微小なサイズの側芽もあるのだが、ホンの側芽は葉先を細かく尖らせていた。芽全体が威嚇していてミニチュアのサボテンのようだ。
「側芽が皮膚に刺さったんじゃないのか」
「違います。根元に刃先が入った瞬間、グサッてきたんです」
 根元に近い側芽の葉を持ち上げると、俊紀は目を剥いた。芽の根が皮膚の中にまで入り込んでいたのだ。
「お前、これいつから着けてた?」
「昨日から一晩だけです。疲れて横になったら朝になってて」
 俊紀も同じことは体験済みだったが、これまでにトラブルは皆無だった。植物に寄生されているようにしか見えない。自分の指先にぞわぞわと気味の悪い冷たさを覚えた。
「今すぐ病院行け」
 ホンには言葉ごと突き放されたように聞こえた。
「コースの途中で」
「この仕事続けたいんだろ? 取り返しがつかなくなる前に、ほら」
 俊紀が声を和らげて、逆にホンは低くうめいた。行きたくないと抵抗する素振りを見せられ、俊紀がホンの肩に手をやろうとした時だった。
「なんだこれ?」
 肩に伸びた手が、ホンの頭のコック帽をつかんだ。見習い用のベレー帽を模した型で、勤務中はホンの人間の両耳で固定されているはずだったのだが。
「あっ、やめて!」
 ホンは帽子を押さえたが、ずるりと引っ張られて頭頂部からずれた。人間の耳が生えているはずの部位には何もない代わりに、コック帽の脇から白くふさふさとした狐の耳が飛び出してきた。
「厨房で何ふざけてんだ」
「違うんです、これは」
「こっちも何なんだ」
 慌てるとさらにボロが出てきて、気づけばホンの両手は真っ黒な毛で覆われた、爪の鋭い前足に変わっていた。右足に掌中の芽は埋め込まれたままだった。
「お前って、一体」
 俊紀がホンの顔を見て後ずさりした。口周りの長いひげが、ホンの視界の隅で揺れている。
 異様な存在を警戒する態度は、ホンには肉体的な痛みよりも胸に刺さった。
「救急車! オーナー、救急車呼んで!」
 固まっていた二人の間に、給仕スタッフの切羽詰まった声が割って入った。俊紀が厨房からのぞき見ると、窓際のテーブルに座っていた客が、背もたれにだらりと身を預けていた。あんぐりと開いた口からはよだれが垂れ、全身が弛緩して崩れ落ちそうになっている。それをもう一人の給仕が受け止める形で支えていた。
 客の前に置かれた皿は「精髄エスプリの一杯」で、客の結婚式の披露宴らしいVR映像が窓に反射して流れ続けていた。
「気持ちよさそうにしてたのが、途中から舟をこぎ出して」
「呼んでも起きないんです」
 スタッフたちに口々と言われる中、俊紀は状況を頭の中で整理しつつ119番に電話した。客の食べていたリゾット・パルミジャーノの炊き上げは、ホンが担当していた。米の温度を下げないように、ブイヨンを少量ずつ加えて味見する手順だから、掌中の芽が触れる機会も多かったはずだ。やっぱりホンの異変のせいで、あいつは人間じゃなくて――
「おい、ホン。お前も救急車に乗って診てもらえよ。聞いてるか?」
 俊紀の言葉に返事はなかった。応急処置のせいですぐには厨房に戻れず、それでも10分ほどで客を安静にさせてスタッフに任せると、俊紀は厨房に向かったがホンの気配はなかった。スタッフルームや店舗の外もみてまわる内に、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「町外れにあるのに、さすが速いな」
 まだ花も咲かない立春の季節で、サイレンが木枯らしの音を蹴散らすように近づいてくる。戻らなければと足下を見たとき、ベレー帽の形をしたコック帽を見つけた。ホンのかぶっている物と同じ種類だった。
 コック帽を拾い上げると、つまんだ指に細い繊維の感触を覚えた。掌中の芽を装着しているため、生地とは異なる手触りだと敏く察知した。指からこぼれないよう、帽子から手を離して目に近づける。
……やっぱり、キツネだったか」
 焦げ茶色の毛がふわりと浮き上がりそうで、俊紀はつまむ指先を密着させた。
「ホンー! 医者に早く診てもらえよー!」
 まだ近くにいるかもしれないと、サイレンに負けないよう大声で叫んでみたが、すぐに止めた。かえって怖がらせたら可哀想ではあったし、森に探しに行けば出てきてくれる見込みもあった。
「戻ってきてくれよ、どんな姿でもいいから」
 騒々しい雰囲気の中でも何か聞こえないか、耳を澄ませて周囲を見渡す。ベビーカーに乗せられた赤ん坊が泣くのを父親らしい人物があやす姿は、場違いにほのぼのとして見えて、なぜだか引きつけられた。
 今は客の命が最優先だと、俊紀はコック帽を片手に表へと回った。

 *

俊紀の店「アルポルト」は、ホンがいなくなった日を境に、精髄エスプリの一杯の使用を中止して通常のサービスのみに戻った。戻らないホンの代わりに雇った厨房スタッフは、掌中の芽を使わずとも俊紀の右腕となって働いてくれた。自身は掌中の芽を使い続けていたが特に支障はない。ホンの装着していた芽を送った顧客相談窓口からは、「植物のセルロース分子がエタノールに変化したことで、酒に酔う状態を引き起こしたのでは」と、原因解明にはほど遠い答えが、迷惑をかけた事への謝罪や客への補償金と共に送られてきた。肝心の倒れた客は命に別状がなかったことで、店の評判に悪影響が出なかったことが不幸中の幸いだった。
 経営者としても多忙な日々が続いて、俊紀のホンを思い出す機会も徐々に減っていった。ホンの正体は誰にも打ち明けずじまいで時は過ぎ、やがて五十路も半ばにさしかかった。摘んだ掌中の芽の数を覚えていないほど、厨房で使用を重ねてきた俊紀は、イタリアン料理のレシピ本を出版したのを機に、店を後継者に任せて後進の育成に携わることにした。
「あいつも生きてないだろうしな」
 今日で引き継ぎも終わり、スタッフも全員帰った後、俊紀はホンのコック帽をオーナー専用の収納棚から取り出した。ホンドギツネの寿命は飼育下でも長くて10年という点を考慮すれば、既に15年が過ぎた現在で、ホンの生存を期待するのは無理な話だった。帽子と一緒に仕舞われてあるビニール袋の中には、ホンの毛が数本保管されている。わざと化かしたくてあんな状況を引き起こしたとは思えず、お守りのように持ち続けていたが、家に持ち帰ろうかどうしようか。
 迷っていると、店の裏口からガッシャーンと金属音が鋭く響いた。生ゴミは出していないが、ゴミ箱の匂いで獣でも来ているのかと、俊紀は最後にもう一仕事するつもりで裏口に回った。
「あの、ここのオーナーさんですか? お話があるんですけど」
 店の扉を開けた途端、10歳前後の女の子が上目遣いに俊紀を見て口を開いた。驚いて見つめ返した拍子に、その子の黒い瞳が小動物のようだと、俊紀に強い印象を与えた。どこかで見たことがある目つきに、店の客の子かと推測した。
「オーナーだけど、何の用かな? 店も閉まったし、親御さんの承諾無しには入れられないから」
「お父さんはここで働いてて、もう亡くなったんですけど、遺言で来ました」
 そう切り出されて俊紀は顔をしかめた。「うちのスタッフでそんな人は」と言いかけると、女の子がさえぎるように四角い缶を突き出した。背中に背負っていたらしく、結んでいたビニールの紐が外れかかっている。
「これ、お父さんです。オーナーさんに忘れてほしくないから、この姿で届けてくれって」
「いい加減に」
 語気を強めた俊紀の目前で、女の子は缶の蓋を開いた。裏口の光に照らされた中身を、俊紀はまばたきをするのも忘れて見入った。
「本物か?」
 女の子がうなずくと焦げ茶色の肩までの髪が揺れた。その手が抱える缶の中で、髪と同系色の毛皮が艶やかに光っていた。決して若くはなかったが、ふさふさとした毛並みのキツネのものだった。店頭に置けるような上等ななめし方ではない分、逆立った毛の粗さが際立っている。
 女の子が毛皮の右前足を持ち上げて見せると、俊紀はますます目を丸くして見つめた。
「お父さんがオーナーに貸してもらった物も、一緒に返しに来ました」
……親父さんの名前は?」
「ホンです。むかし罠にかかっていたのを助けてもらった人に、ホンドギツネかって言われたのが由来です」
 つくしの形に似た黒い前足の、肉球同士の間に咲くようにして埋め込まれていたのは、枯れた色合いの植物の芽だった。
「掌中の芽って呼んでました。お父さんの『拠り所』なんだって」
 俊紀は自分の装着している掌中の芽と見比べてみた。自分の芽よりも一回り大きい。森を歩く時に踏まれても潰れなかった所を見ると、ホンが死なない程度に十分な栄養を寄生して吸収していたのだろう。
「お父さん、オーナーのことを一度でいいから、おもてなししたかったって。だから、せめてこれを届けに来たんです」
……おもてなし、されてみるか。俺の退職記念に」
 俊紀はそう言うと女の子から缶を受け取り、一緒に店に入った。もう着けないと思っていた店のエプロンと帽子を身に付ける。
「そういや、おたくの名前は?」
「アル。アルポートのアルなんだって」
「娘思いなのは、人間もキツネも同じってことか」
 毛皮の肉球に触れると干しぶどうのように固く、命の抜け殻だと俊紀は思った。アルの了解も得て、肉球の間の芽を少し摘み取る。厨房で痛いと声を上げたホンの顔が思い出されて、警戒したことへの後悔で息苦しくなった。
 何十年と繰り返してきた調理の工程は淡々と進んだが、味覚障がいを患う自分のためだけに厨房で料理を作る機会はほぼなかった。新規メニューの開発で徹夜をした記憶、まかないが出てくるのをスタッフが待ち構えている思い出、それらは精髄エスプリの一杯を使わなくても、俊紀の脳裏に穏やかに浮かんだ。料理人としては幸せな人生だったと回顧すれば、ホンのことが一層哀れにも思えた。
 出来上がった一品を見て、アルが目を輝かせた。といってもそれは普通の鶏肉のソテーで、しかもメニューに出すものと比べて随分と薄い味付けにしてある。
 わざと淡白に仕上げたのには理由があった。
「私も食べていい?」
「そう言うと思った。まずは俺が毒味をしてからだ」
 ナイフでソテーを切り分けてフォークで口に運ぶと、味は感じられないがオリーブ油の風味が口から鼻に抜けた。かつて店で救急車を呼んだ時のような、幻覚に似た症状は特に感じられない。枯れた芽に特殊な力は残らないのであれば、ホンの毛皮を置いておいてもあのようなトラブルは起きないだろう。俊紀は毛皮の入った缶にたびたび目をやりながら、食事を続けた。
「ねえ、もう大丈夫じゃない?」
 いつの間にか馴れ馴れしい口調で、アルが皿に鼻を近づけた。
「匂いに気を取られるから、ヒゲが生えてきたぞ」
「うっそお」
 慌てて頬を両手でおさえたアルを見て、冗談だと俊紀は笑った。
「キツネってのも大変だな、化けの皮が剥がれないようにって」
「そうだよ。でも私もお父さんみたいに、料理人になりたいんだよね」
 アルは取り分けてもらったカリカリした皮目を、美味しそうにかじって言った。片方の顎で噛み切ろうとする仕草がホンに似ていて、俊紀の目が少しだけ潤んだ。
「でも、人間向けの料理は絶対ダメだ。親父さんから話は聞いてるだろ」
「そこで考えたんだけど、人間向けじゃない料理作ったら?」
 俊紀が聞き返すと、アルはフォークを指揮棒のように振って言った。
「犬用レストランとかさ、同じイヌ科だからキツネも味見できるし」
 ペットの飼い犬から料理の感想も直接聞けると、アルは得意げに目を細めた。
「だから、私が大きくなったら雇ってね」
「勝手に話を進めるな」
 笑いそうになるのをこらえて俊紀が言うと、アルの手が俊紀の皿からまた一切れ肉を取った。掌中の芽の葉の欠片が、皿の端で油の膜に包まれて浮いている。
 この子の夢の話にもうしばらく付き合ってあげようと、俊紀は食後のデザートも振る舞うことにした。

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