白砂しらすなは清らに流れ

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梗 概

白砂しらすなは清らに流れ

伽柁国かだのくにの東端の地域である那の王は庭園好きで、砂や石で景色を表現した庭園、砂庭院さていいんを愛好する。砂庭院の砂は、険しい山河で取れる白の皙沙せきさが最良とされている。

那の山河に住む仙族は、王権成立時に逆らったため、しばしば河川が氾濫する、国境付近の痩せた土地に押し込められていた。細々と暮らしているように見える彼らは、山河で最上級の皙沙を獲得し、独自の砂庭院の技術を発展させている。

ある日、仙族のメイファンは、遭難していた役人・リーユンを助ける。リーユンは王の命により優れた砂庭院職人を探していたが、目ぼしい職人は王を恐れて亡命していた。手ぶらで戻れば処刑されると知っていたリーユンは、絶望して国外逃亡を試みたのだ。

リーユンは、メイファンの師匠であり、優れた砂庭院職人であるジョエの作庭ぶりを見て感嘆し、都に来てほしいと嘆願する。ジョエは、同行すれば自分の命、断れば一族の存亡に関わると考えるが、そうした思いは胸にしまったまま同行を許諾し、出立の日に一番弟子のメイファンに秘儀を伝える。一方メイファンは、洗練された身のこなしのリーユンにほのかな好意を持った。

仙族を冷遇しつつも恐れていた王は、ジョエに作庭させればすべての民の屈服の証だと考えるが、ジョエの言動や行動は王より王にふさわしいかった。ジョエを気に入らない王は、制作半ばでジョエを殺し、リーユンに別の職人探しを命じる。最初の職人探しでは失うものがなかったリーユンも、今やしがらみや人間関係ができ、逃亡することはできない。苦渋の思いで仙族のもとに赴き、メイファンに頼み込む。

メイファンは衝撃を受けるが、仙族は故郷に埋葬しなければ成仏できず、故郷以外におかれた骨は災厄を招くという伝承があり、ジョエを引き取るために都に向かう。メイファンは遺骸を引き取ったら逃げるつもりだったが、つくりかけのジョエの砂庭院を見て、完成させたいという欲望に抗えない。

制庭中、夢幻の中にジョエが現れる。曰く、皙沙が清らかに見えるのは、殺害された人々など、汚濁を見えないように飲みほしているせいだ。砂は脆く儚いが、目に見える形が消えても過去を内在させる、それは我々仙族のありようと同じである。

王に砂庭院を披露する当日。更地のままの砂を見てリーユンは青ざめるが、メイファンは王の目の前で秘儀を披露し、伝説に謳われている最盛期の王都を作庭する。魅了された王が庭に近づくと、メイファンは王を庭に突き落とす。メイファンは皙沙にジョエの骨を砕いて混ぜていたのだ。仙族の骨に接触した王は災厄に触れ、気が狂う。

メイファンが崩れた庭に触れると、皙沙は、仙族の街が溶け込んだ、過去を乗り越えた未来の王都をかたちづくる。しかし完成する前に、仙族の山河に向かって吹く強風がたちのぼり、砂庭院は崩れ去る。

残骸の傍らで立ちすくむリーユンを背に、メイファンは故郷へ帰る。

文字数:1200

内容に関するアピール

タイトルは、最初は清浄なイメージの砂が、実は不浄の過去を蓄積させており、最後は人が死んだ後も消えずに残り続けるのだという、陰湿で怖いイメージに変わるようにつけました。

砂庭院は日本の枯山水のように、ほぼ二次元での抽象表現を想定しており、具象を離れることで洗練を極めた芸術ということにしようと思っています。
 仙族は技巧により、砂庭院を長く保ちます。メイファンの秘儀は、皙沙の形状記憶の機能をより高め、一度砂に覚え込ませた形を復活させることができるというものです。

最後に崩れた砂庭院の皙沙(とジョエのお骨)は仙族の故郷に向かって飛んでいきますが、リーユンたちが主軸になるであろう那の今後の為政によっては、国のほうぼうで災厄を巻き散らすだろう、という含みを持たせたいと思っています。

文字数:337

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白砂しらすなは清らに流れ

壱 涯之谷はてのたに、客人、離別の夜

金糸雀麦かなりあむぎをひろったら、皙沙せきさを探しにいくんだ。
 黒風が凪いだ明け方、メイファンはそう心に決めると、眠い目をこすりながら薄い布団から這い出した。
 空気を震わす不協の音は止み、おぼろに暁の気配を感じる。
 薄暗いくりやへ行き、壺に入った雑穀を、柄杓いっぱいに掬って鍋にあける。灰褐色の雑穀の中に、ほんの少しだけ金糸雀麦を混ぜる。土間に置かれた根菜や葉物を冷たい水にさらして茹で、塩で軽く味をつける。
 鍋が温まってきた。とろりとした粥をこしらえて黒褐木の椀に入れ、窓辺の鉢の香草を少しばかりまぶし入れる。すると、穏やかな声が響いた。
「ようやっと、嵐は過ぎたか」
 師匠のジョエだ。その声は、ひび割れてはいるが独特の抑揚がある。奥深い森の老木が風にそよぐ音のようだと、メイファンは思う。
「はい、あとで、畑を見に行こうと思って」
 メイファンが述べると、ジョエはゆっくりと頷き、椀の中身をすすった。傷のある顔に柔和な笑みを浮かべる。開かぬ右眼を通過して斜めに走る傷は白く癒え、今や顔の一部になっていた。
 いつだったか、それはメイファンたち仙族せんぞくが、この涯之谷はてのたにに追いやられる前、王都の軍と戦った時の傷だと聞いたことがある。しかし、皺深い錆色の顔に穏やかな表情を浮かべるジョエからは、そんな苛烈さは窺えない。
「麦、大丈夫かな……」
 ひとりごつメイファンに、ジョエは瞬きを一つして、軽く目を閉じながら、
「嵐も暴風も、奪い、もたらす。ことわりの外にあるものはない。ただ一つの例外を除いて」
 そう語り、椀の中を見て続ける。
「この粥も、風がもたらす水で煮込んでいる」
「そう、ですけど」
「ここは嵐の通り道で、もともと海が谷にのしかかる溺れ谷、作物はすぐにだめになる。その代わりに嵐は、海の彼方から宝をもたらしてくれる」
 聞きながら、メイファンも椀をすすった。穀物の甘みと香草のわずかな青臭さが心地よい。この恵みをもたらすものも、奪うものも、あの風なのだ。そして、風が運ぶ宝とは。
「あとで、麦と皙沙をひろいにいきます」
 メイファンの言葉に、ジョエはゆっくりと頷いた。

大きな麻袋を手に、メイファンはむらを訪れた。数日前までたわわに実り、茎穴から金糸雀のさえずりのような音色を響かせていた麦は、今や無残に倒れている。人々は四つん這いになり、地面に落ちた麦をせっせと拾って篭や袋に入れていた。
 自分の畑に到着すると、麦は概ね地面に落ちていた。メイファンはそれらを拾い集めながら、せめて嵐の到来が収穫の日に近かったことに感謝した。
 やがて地面の麦はほぼなくなり、メイファンは枯葉や石などで埋め尽くされた道を歩いた。やがて焦茶の岩肌が見えなくなり、眩しい光がきいんと目に入ってきた。
 海だった。透きとおる淡青緑あわあおみどりの水面に、光が煌めきながら踊っている。寄せる波の泡は複雑な模様を描き、砂浜に地図を示して一瞬で消え去る。水平線の彼方には、勿忘草わすれなぐさに似た、紫がかった水色の空が見えた。
 目の前に広がる景色に、大きな歓声をあげた。
 真白な砂が、一面に広がっている。駆け寄ると、清らに輝くそれは淡く透き通り、指で触れると芯のような硬さがある。握りしめると、しゃり、と音をたてる。指についた残滓を見つめていると、一つひとつの粒が、無数の光を跳ね返す。
 子どもが砂に模様を描いている。何かの図形のようだ。近づくと、線の上にぼんやりした塊が見える。
「これ、なあに?」
 そう尋ねたメイファンを一瞬だけ見やり、子どもは動かぬそれをじっと眺めて口を開く。
「あの、ヒトカゲ。 真っ赤なやつ。王都にいるって聞いた」
 その言葉に、メイファンは砂を見つめる。そして子どもに告げた。
「足りない要素があるの。加えていい?」
 子どもが頷くと、メイファンはそっと砂に触れた。
 目を閉じる。砂粒が、指先を刺激する。麦色の肌の隙間から、朱赤の血潮を巡り、体の奥深くに浸透する。眼窩の裏で、感覚の上層で、何かが形づくられる。断続的に思い浮かぶ図形を砂上に描き加え、幾何学的な文様を刻んでいく。
 ある瞬間。
 空気が、ぎゅん、と軋んだ。
 時が止まった気がした。
 塊が現れた。それは、だんだんに存在感を増していく。
 指に留まる皙沙に、そうっと息を吹きかける。落ちた砂が地表で輝き、形を完成させると同時に、輪郭が形を結んだ。
 人差し指に足りないくらいの尾。同じくらいの丈の手足。背筋に並んだ円錐形の棘が見事だ。体の色が薄橙から真っ赤に変じると、炎の色した火蜥蜴ひとかげは、メイファンに鋭い牙を剥く。
「ほら」
 半分透きとおった体を摘まみ上げると、メイファンは子どもの手に乗せてやった。子どもが顔を近づけると、火蜥蜴が手で頬をひっかいた、ように見えた。
「あ」
 よろめいた子どもが砂を踏みつけると、火蜥蜴はしゃり、と音をたて、あっという間に消え去った。
「また、つくってあげるから」
 涙を浮かべる子どもにメイファンが語りかけると、子どもは黙って頷いた。
 ジョエの言う通り、仙族にとって、すべての事象は理の中にある。ただ一つの例外を除いて。
 唯一の例外、理に外れた力を持つのが皙沙だ。
 皙沙は、謎と可能性を孕んだ砂である。実のところ、砂なのかどうかも分からない。才ある者が図形を描けば、皙沙はつくり手の思い浮かべた像、沙幻さげんを顕現させる。
 沙幻は、メイファンのようにある程度の鍛錬を積めば、色や輪郭を獲得する。そして、ジョエほどの高みに達すれば、音やにおいも発するのだ。
 走り去る子どもを見つめながら、メイファンは思う。
 最初に皙沙の力を知ったのは、きっと、ああした子どもだったのだろう。煌々きらきらした白砂に惹かれ、集め、何かを思い浮かべながら図形を描いた。すると砂は、なにがしかの形をつくりなしたのだ。
 メイファンは、皙沙を手持ちの袋に詰め込み、家に戻った。
 ジョエとメイファンの住まいはあばら屋で、見るべきところもないが、庭は素晴らしかった。一面に皙沙が撒いてあるのだ。庭は、色や音、光までをも吸い込みそうな白で埋め尽くされている。
 メイファンは袋を開け、庭に新しい皙沙を流し込んだ。
 しゃり、というさやかな音が響く。
 皙沙の庭園、砂庭院は、あらゆるものを沙幻として顕現させる無二の庭園だ。ジョエによれば、地上にある、もしくはあった情景ならば、なんでもつくりなせるのだという。そしてジョエは、仙族の中でも一番の砂庭院のつくり手と言われている。
 皙沙は嵐のたびに飛ばされてしまうので、海と風とが運びくる新しい皙沙を加える必要がある。メイファンは、海岸と家を何度も往復して砂を運んだ。

暮れ近くになると、皙沙はほとんど海に還った。枯色かれいろに戻りつつある砂浜を歩いていると、岩のくぼみに鮮やかな赤が見える。恐る恐る近寄ってみると、人のようだった。薄灰色の光沢のある服地に鮮やかな赤い刺繍がなされ、それが目についたのだ。
 メイファンが近寄って呼びかけても、反応はない。
 以前、ジョエに教えてもらったことを、懸命に思い返す。
 相手の頭を反らして口を開き、自分の口で覆って息を吹き込む。唇はひどく冷たくて、メイファンの息が止まりそうになる。一瞬の後、相手はひどくむせ、水を吐き出して大きく咳き込む。メイファンは手を差し伸べ、身を起こした。
「……ありがとう」
 低く掠れた声で、相手は告げる。
 男だった。黒く長い髪、手の込んだ服、手首を取り巻く翠玉の手鐲しゅしょく。こちらを見つめる顔はひどく白いが、澄んだ切れ長の瞳は黒に金が入り混じる。邑の者には見受けられない、どことなく涼やかな雰囲気。意図せぬ胸の動悸に、メイファンは思わず目を反らした。

 男はリーユンと名乗り、ジョエたちの家に居候することになった。
 メイファンは、リーユンの涼やかな身のこなしや、楽音のように低く響く声、骨ばってはいるがすっきりとした手に、今までに感じたことがないような熱を覚えることがあった。そんな時は、自分自身に当惑しながら、その場を離れるようにしたのだった。
 二人は、仕事の合間に話をするようになった。リーユン曰く、彼はこの伽柁国かだのくにの王都からやってきたそうだ。そこは大きな建物と壮麗な王宮があり、たくさんの人々が行きかうのだという。
 メイファンは王都を夢想するようになった。晴れた空の元で賑わう街、店先にはたくさんの珍しい品々。そしてきれいな服を来た人々の中で、リーユンが微笑んでいる……。
 ある日、空想にふけるメイファンに、ジョエは警告した。
「リーユンの話に、あまり聞き入るな」
「そんなこと、ない」
 言い当てられたメイファンは、半ばむきになって言った。
「それに、なんで聞いてはいけないの?」
 言い募るメイファンに、ジョエが溜息をついて言う。
「王都に憧れているだろう。やめておけ、この谷にはすべてがある」
「いいえ、私たちが食べものにも苦労するのは、ここが嵐の通り道だからだって聞いた。なぜ別の場所に住まないの?」
 メイファンの言葉に、ジョエは首を横に振った。
「我々は闘い続け、やっとの思いでここに落ち着いたのだ」
「……でも嵐は、父も母も奪い去った。顔も知らないのに」
 唇を噛みながら呟くメイファン。
 顔を知ることも叶わなかった両親がいなくなり、ひとりぼっちになった自分を育ててくれたのは、仙族の邑人たちとジョエだ。ジョエは正しい。でも、両親の、家族の温かさを実感したかった。何もかも奪い去ったものに対して、怒ることも恨むことも叶わぬのか。
 沈黙の後、ジョエは言葉を選んで告げる。
「両親のことは、残念だった。だが、お前は残った」
 そして、ジョエはほんのかすかなため息をついて、囁くように言った。
「寂しい思いをさせてしまって、すまなかった」
 そうじゃない。ジョエにはずっと感謝している。だけど。
 メイファンは、心の中で呟く。しかしその時は、この場所に留められていることへの憤りに囚われていて、言葉にすることができなかった。

メイファンが、砂庭院の手入れを教えようとすると、リーユンは俯いた。
「すまない。砂庭院は、苦手なんだ」
 そう告げると、彼は後ろを向いて去ろうとした。メイファンはとっさに相手の手を掴んで言った。
「砂庭院は、師匠とわたしにとって大切なもの。なんでそんなこと言うの?」
 リーユンは苦悶の表情を浮かべ、溜息をつく。
「メイファン。君は、王を知っているか?」
「都に偉くて怖い王様が住んでるっていうのは、聞いたことがある」
 首を縦に振ってメイファンが告げると、リーユンは頷いた。
「そう。僕は王の遣いなんだ」
 王は砂庭院を好み、常に新しい沙幻の景色を渇望しているのだと、リーユンは語った。
「優れたつくり手は王都にいるけれど、彼らですら王の要求に応えられない。僕は、新しいつくり手を探すために全国を旅した。でも、思うような人材には出会えなかった」
 自嘲気味に呟くリーユンに、メイファンは恐る恐る尋ねる。
「じゃあ諦めて、王都に戻ってしまうの?」
 リーユンは、更に俯いて告げる。
「いや、手ぶらで戻ると命が危うい。海を渡って隣国に逃げようと思っていた」
 それを聞いて、メイファンが首を横に振りながら、
「もう、心配ないよ」
 と断言した。どういう意味だい、と尋ねるリーユンに、メイファンは黙って目配せをした。ジョエがやってきたのだ。
 皙沙に半ば埋もれるようにして膝をつくと、ジョエは深く目を閉じた。
 触れた砂から水が現れ、大きな流れとなり、いつしか大きな滝になる。
 ひざまずくジョエは、梅花鹿はなじかや燕雀といった動物たちに囲まれている。
 わずかな日光が差しこみ、ほのぼのと輝く小さな虹が現れ、遠い空にきらめきながら橋をかける。どうどうという音と水しぶき、辺りに立ち込める冷気と霧。さきほどまで何もなかった空間に、新しい情景が立ち現れる――

これほど鮮明な沙幻を描けるものは、ジョエを置いて他にいない。メイファンは誇らしかった。
 その時、リーユンがふらふらと滝に立ち入ろうとした。
 瞬間、ジョエはかっと目を開いた。皙沙のつくりなした情景、沙幻は消え去り、呆然とするリーユンと、険しい顔のジョエが残される。
「……つくり手の邪魔をしてはならない。何人も」
 言い放つジョエに、リーユンは追いすがる。
「ジョエ師匠。お願いがあります」
 リーユンは切々と語る。自分は王都からの遣いで砂庭院のつくり手を探している。ジョエの技は素晴らしいものだ。どうか、共に王都へ来てほしい。
 ジョエは肯定も否定もしなかった。言い募るリーユンを手で制すると、ジョエはそのまま家の中に入っていった。
 その日の夜、眠れぬメイファンが、しろい月明かりに照らしだされた砂庭院を見つめていると、誰かが肩に手を置いた。ジョエだった。
「王都に行ってしまうの?」
 問いかけに、ジョエが静かに告げる。
「私が行かなければ、誰かが行かなければならない。それに、私は年老いている」
「そんな……」
 メイファンが言葉を続けようとすると、ジョエは、お前にもいつか分かる、と言った。そしてメイファンを砂庭院にいざなった。
「お前には、つくり手に必要なことはほぼすべて教えた。最後にあと一つだけ伝えよう」
 そう告げると、ジョエは砂に膝をついた。
 その夜に見たことは、まるで蜃気楼のように現実離れしていたが、メイファンの心には、うつつの事象よりも、ずっと鮮明に刻み込まれることとなる――

弐 再会、王都、とらわれ人

入り江で皙沙を拾いながら、メイファンは、子どもたちの様子を見つめていた。
 昔、皙沙で共に火蜥蜴をつくりなした子どもは成長し、年少の子どもと何かの情景をつくろうとしている。まるで嘗てのメイファンのようだ。
 ふと思い返す。時が経ち、いつしかメイファンは邑一番のつくり手と言われるようになった。自分では師匠に遠く及ばないと思っているが、ジョエが戻らない以上、比較することもできなかった。
 水平線の彼方に、何かが見える。船のようだ。邑のものより数倍は大きく、船首に装飾が施されている。メイファンは身構えたが、甲板で何者かが手を振っているのが見えた。
 リーユンだった。メイファンは、甘い感覚がほのかに蘇るのを感じながら再会を喜び、船の後ろにジョエの気配を探した。
 リーユンは、話したいことがあると言い、メイファンたちの家に向かった。縁側に腰掛けると、リーユンは眩しそうに砂庭院とメイファンを見つめた。昔はずっと低かったメイファンの目線は、今やリーユンとほとんど変わらず、肩の辺りの長さだった赤銅色の髪は、艶やかに背中を流れている。
「大きくなったね」
 リーユンの言葉に、胸の奥の疼きを抑えながら、メイファンは頷いた。
「時が、過ぎましたから」
 そう告げるメイファンに、リーユンは重たげに口を開いた。
「君が聞きたいのは、ジョエ師匠のことだよね。実は、言っておかなければならないことがある」
 嫌な予感を抱きながら、メイファンは頷いた。
 リーユンは語った。ジョエは王と謁見し、王宮の広大な砂庭院に相応しいものをつくるように依頼されたという。ジョエは時間を所望し、王は承諾したが、ジョエの下へ頻繁に訪問し、いつできるのか、どんなものをつくるのか、しきりに問いかけた。ジョエは、焦りなさいますな、時期がくればお見せしますゆえ、と告げるばかりだった。
 ある日、業を煮やした王はジョエを呼び出し、少しでもいい、つくろうとしているものを示せ、と言った。
「その場所で、仙族である私に命じることを、どのように考えていらっしゃいますか」
 ジョエの問いかけに、王は、玉座からジョエを見下ろしながら語った。
「先代も、先々代も、さんざん手を焼いた仙族にここで砂庭院をつくらせるのは、全ての民の屈服の証と考えている」
 それを聞いたジョエは、頭を下げながら、
「民の上に立つということは、民を威嚇することではございません」
 と言い切った。王は激怒し、ジョエを縛り上げて牢に閉じ込め、食事も水も与えぬままに放置した。リーユンも側近も、言葉の上だけでも謝罪するように勧めたが、ジョエが応じることはなかった。
「では、師匠は」
 問うた後、固唾を呑んで次の言葉を待つメイファンに、リーユンは頭を横に振った。
 それだけで十分だった。
 メイファンは目を閉じ、瞼から、全身から、熱いものが溢れだすのを、なんとかして留めようとした。
 思えば、予兆は、あったのだ。
 とある繊月せんげつの晩、家の砂庭院に降り立った時。皙沙に手を差し入れると、ジョエの姿が克明に浮かんだ。まるで生きているかのようだった。
 その時、何か、とてつもなく、胸が絞りつくされる気持ちに陥ったのだ。
「それで、君にお願いしたいことがあって」
 リーユンの言葉に、メイファンは必死で気持ちを立て直す。
「どのような」
「実は、次の砂庭院のつくり手を探さなければならない。君はジョエ師匠の一番の弟子だと聞いている。お願いだ、王都に来てほしい」
 想像していない依頼に、メイファンは驚きでまじまじとリーユンを見つめた。
 考えながら、言葉を絞り出す。
「師匠ですら王の要求に応えられなかったのなら、私には難しいと思います」
 言いながら、思い返す、あの別れの晩を。
「分かってる。でもジョエ師匠が怒りを買ったのは、つくり手としての技量ではなく、言動からなんだ」
 必死に言い募るリーユン。
「それに、僕は今、一族の者からも、身近な者からも、頼りにされている」
 吐き出される言葉は、少しばかり、震えている。
「周囲の者は、王との繋がりを期待している。今や、逃げることもできない」
 そう告げると彼は、更に頭を下げた。地面につくほどに。
 メイファンは、そんなリーユンを諫めながら、思い返す。
 ジョエが残した言葉。
 私が行かなければ、誰かが行かなければならない。
 メイファンは、改めてリーユンを見つめた。
 あの涼し気な風情と共に、どこか老成した空気を纏っている。
 リーユンが来なければ、他の者が来なければならなかったのだろうか。
「師匠のお体は、残っていますよね?」
 仙族は死を迎えると、涯之谷で祀って荼毘に付し、骨は伽柁国の習わしに倣って海に流す。涯之谷で葬儀をしない場合、仙族以外の者が遺骸に触れると呪われるという言い伝えがある。
 考えを巡らせながら問いかけるメイファンの言に、リーユンは頷いた。
「では、来てくれるのだね」
 安堵の表情を浮かべながら告げる彼に、メイファンは、胸内の複雑な感情に折り合いをつけられないまま、ゆっくりと首を縦に振った。

海を渡り、砂漠を越え、険しい山道を歩いた末に行き着いた王都は、高い建物が聳え、珍しい品々や食べ物を並べる店が並び、贅沢な服を纏う人々が行きかっていた。メイファンは眩暈を覚えたが、建物は森の木々、人々は燕雀なのだと思うことにすると、気にならなくなった。
 街は、紅柄色べんがらいろの長大な城壁に近づくにつれ活気がなくなり、重たく張り詰めた空気が漂いはじめた。メイファンはリーユンと共に、壁の内部に進んだ。
 王宮だった。朱赤の屋根に金の文様、欄干上に頂いた金の擬宝珠ぎぼうしゅ虹梁こうりょうや欄間に施された極彩色の装飾。贅を凝らした堂々たる建物は、それ自体が権威と脅威を纏っているように感じられた。
 リーユンはそのまま脇の道に入り、敷地中央の砂庭院の前に出た。
 圧巻だった。リーユンたちの砂庭院は邑一番の大きさではあったが、ここは何十倍の広さがあろうか。青空の下、皙沙は輝きを増幅させて照り返している。目の隅に至るまで眩しい光が飛び込んできて、思わず両の足を踏みしめた。
 リーユンはそんなメイファンの様子を見て、告げた。
「砂庭院は、ジョエ師匠が手を入れたままになっている。もう少し、近づいてみよう」
 見れば、砂の上には、抽象的な幾何学模様が描かれているようだ。
 さながら精緻な蜘蛛の巣のように、複雑に絡み合う直線と曲線。見たことのない意匠と図像。
 一瞬気が遠くなるが、同時に、胸が熱くなる。
 感じたことのない高揚。
 メイファンは広大な砂庭院に降り立つと、複雑この上ない文様の頂点に膝をつき、手をついた。
 視界が、白濁した。
 指先から流れ込むものが、あっという間に身体の隅々まで支配し、押し寄せた。
 瞬間、ジョエの手が、ジョセの指先が見えた。
 これは師匠の視界だ。師匠のつくりなそうとした沙幻だ。
 世界が。あまりに複雑で。あまりに圧倒的で。
 判然としないままに、自分が、世界が、囚われる――

「大丈夫かい?」
 メイファンの肩を揺らす者がいる。リーユンだ。
 黒と金の瞳には、動揺が滲んでいる。
 メイファンは、自分を鑑みた。皙沙に手をつき、頭を垂れて茫然としていた。
「……ええ」
 メイファンがそう述べると、二人は砂庭院を後にした。そしてメイファンはジョエの遺骸に対面した。防腐の術を施されたジョエの遺骸は、リーユンの気遣いか、殺害時の損傷も縫い合わされていた。
 その日、リーユンに提供された離れで、メイファンは眠れぬ夜を過ごした。
 メイファンは実のところ、ジョエの遺骸を引き取ったら、涯之谷へと逃げ帰るつもりだった。そのまま谷にいてもいずれは囚われると踏んでいたので、ジョエの埋葬を頼んだら別の土地へと落ちのびるつもりだったのだ。
 しかし、ジョエの砂庭院の片鱗を、見てしまった。
 皙沙に刻み込まれたジョエの痕跡に、謎の魅力に、囚われてしまった。
 メイファンは、それを解き明かしたかった。師匠の思いを、完遂させたかった。
 いや、何よりも、自分の眼で師匠の沙幻を見たかったのだ。恐らく、王よりもずっと熱烈に。
 一晩悩み抜いたメイファンは、朝一番に砂庭院へ赴き、皙沙が暁の光を帯びるさまと、烈烈たる決意を心に焼きつけた。

参 万骨ばんこつの夢

翌日、メイファンは王に謁見した。
 七色に輝く玉飾りのついた冕冠べんかんを戴き、赤漆に螺鈿で装飾がなされた玉座で大儀そうに座する王は、砂庭院のつくり手です、というリーファンの言葉に反応し、枯れた言葉で告げた。
「今度失敗したら、命はないものと思え」
 メイファンには、その言葉が、リーユンに向けたものなのか、メイファンに向けたものなのか、それとも二人に告げたものなのか、図りかねた。一方で、ひどく威圧的ながら、言葉尻に焦りと苛立ちが混じっていることや、似合わぬ冠がひどく重そうであったことなどが脳裏に焼き付いた。
 砂庭院を供する日まで時間はなかったが、メイファンは気にしないように努めた。
 一日のほぼ大半を広大な砂庭院で過ごし、あらゆる場所の皙沙に触れた。
 しかし、描かれた文様が半ば消えてしまい、線が見えない箇所に行き当たった。
 皙沙に触れても、何も見えてこない。
 焦りの気持ちに、支配される。何度となく、白砂を撫でさする。
 どれくらい触れていただろう。砂が腕にぐるりとはりついている。メイファンの麦色の腕を覆う白いものは、それ自体、文様のようだった。
 肌に走る微細な感触。くすぐったさ。撫でられているような。
 それは、皙沙のもたらす、わずかな官能。
 何かに似ていると思った、その瞬間。
 昔の日々が押し寄せ、蘇る。

*
 あれはジョエと一緒に暮らすようになって、間もない頃だった。
 メイファンは、身近な人が消えてしまった喪失感と、見知らぬジョエとの距離を測りかね、不安定な日々を送っていた。
 そんな時、砂庭院の皙沙に触れていると、何かの感触を覚えた。
 真白な皙沙に紛れる、漆黒の点。二本の腕を、黒曜蟻こくようありが、のぼっている。
 メイファンの薄銅色の肌で煌めく皙沙。合間をぬって黒光りして動く蟻たち。
 その中に、とりわけ大きな黒い羽蟻が二匹、身をくねらせ、絡まりあっていた。
 周囲の小さな蟻たちが、彼らを見守るように取り巻いている。
 奇妙な地図のような文様となって、蠢いている。
 白砂と、生きものの綾なす、妖しい形。高揚するような、肌の奥で何かが疼くような感触。
 瞬間、とてつもない、巨大な気配を感じた。
 到底言語化できない何か、白昼夢のような、禁忌の幻想に触れた気がした。
 恐ろしくなり、声を挙げて振り払おうとすると、ジョエが微笑みながら近づいてきて、蟻たちを自分の腕に伝わせて地に逃がした。
――この蟻たちは、命を繋ぐため、懸命に生きているんだ。乱暴にしてはいけない。
 やさしく諭すジョエに、メイファンは問いかける。
――蟻さんは、生きているんだ。皙沙は? 蟻さんも皙沙もくすぐったくて、不思議な模様になって、なんか、すごく大きいもの、気配みたいなものを感じた。
 言葉になりきらぬ拙い言に、ジョエは笑ってメイファンの頭を撫でた。
――皙沙に感応できるんだね。素晴らしいことだ。それを、あらわしていこう。
 その言葉に、メイファンは首を傾げる。
――あれを、どうやって?
 ジョエは、考えながら言葉を選ぶ。
――模様を、文様を、砂に描くのだ。すると、感じたものが、沙幻になって顕現する。
 メイファンが首を傾げていると、ジョエが優しく笑った。
――まだ分からないか。少しずつ、秘密のすべてを教えよう。
 以来、ジョエは、蟻の歩みのように辛抱強く、皙沙の感触のように優しく教えてくれた。
*

ジョエは、秘密のすべてを教えてくれると言った。
 一度聞いていることならば、思い出せるはずだ。メイファンはそう確信した。
 月日が邪魔をしてうまく思い出せない時は、皙沙に触れた。繊細な粒子、優しい感触によって、蜘蛛の糸のように、記憶を手繰り寄せようとした。
 ジョエの秘密に、謎に、懸命に近づこうとした。巣のように張り巡らされたジョエの痕跡を、自分の中に、隅々までしみ込ませようとした。
 ジョエのつくりたかったものは。メイファンの中にうまれなおし、蓄積され、形になっていった。
 時をみて、メイファンはジョエの遺骸を荼毘に付した。枯火草の中で燃え上がったジョエの体は、骨を残して消え去った。メイファンは白い花弁のような骨を砕き、小さな壺に納めた。
 そして、王に謁見する日の前日の晩。メイファンはリーユンに砂庭院の人払いを頼んだ。彼にすら見られてはならなかった。
 砂庭院に降り立つと、真っ暗な空の中、銀の月明かりに照らし出された皙沙は、漂白されたように輝いていた。
 しゃり、しゃり、と、歩みを進める。
 時折、衣嚢いのうに手を差し入れ、掌をそっと振り下ろす。砂塵が撒きあがる。
 辺りを見渡す。一面に描かれた、幾何学の文様。レースのように細かい網目。自分自身の足跡すらも、形象の一部を成している。
 心の中に浮かぶ図を、白砂の中に刻んでゆく。
 たまさか、ジョエの姿が浮かんだ。思わず、手を伸ばす。
 虚空を掴んだ指を見て、ジョエが微笑んだ、気がした。
 心の中に、いつか耳にしたあの声が、涯之谷の大木のさざめきに似た音が、深々しんしんと響く。
 私が、我々が、今、在るか否かは、重要ではない。
 嘗て在ったか、そして、いつか在ったかが、重要なのだ――

最後の晩のやりとりを、思い返す。
 あの時、ジョエは告げた。
 皙沙がどこから来るのか、一体何なのか、誰も知らない。
 だから私にも、はっきりしたことは、分からない。
 ただ仙族は、この白砂が、何かに似ていることは知っている。その何かは、人が死んだ後に顕現するもの、とりわけ、うらみの念を抱いた人々の骨が砕かれる一瞬の手応え、感触、音に似ていることは知っている――

感傷に溺れぬように、きつく、唇を噛む。
 あの時、ジョエは呟いた。
 皙沙を知り尽くすことはできない。我々が、頭の中の全てを知ることができないように。
 だから今、私の知る限りのことを話そう。
 皙沙は、脆く、儚い。しかし形を描き出せば、沙幻を顕現させる。
 それはきっと、骨が見ていた景色を再現しているのだ。追われ、奪われつくしてもなお形を成している、我々仙族の在りようと同じなのだ――

渾身の思いを込め、皙沙に触れる。
 ジョエがつくりなせなかった、この砂庭院を。
 皙沙は、人の触れうるものの中で、あまりにしろすぎる。あまりに清すぎる。
 それは、人のうみだす汚濁をすべて、飲みほしているせいだ。
 清濁は表裏一体、皙沙には、濁を呑み込み清となる、それだけの力が内在する――

爪先が、指が、腕が、全身が、一つひとつの砂と一体になる。
 ああ、砂粒は、この時、この瞬間という時の粒と同じものなのだ。
 人々の思い、人々の想い出、万骨ばんこつに込もる念。継承した想念が形を示し、図象を引き出し、沙幻となる。
 メイファンは、ジョエがつくりなすはずだった沙幻を、今やはっきりと思い描いた。
 仙族の蓄積した想念から形象を引き出すための幾何学は、今やメイファンの頭の中にあった。それを白砂に、完成の一歩手前まで刻み込んだ。

翌日、リーユンが砂庭院を訪れると、メイファンが皙沙を見つめながら佇んでいた。
 白砂には、幾何学模様が描かれているばかりで、沙幻は見えない。
 リーユンが、焦りの滲む声でメイファンを呼んだ時、金色に輝く豪奢な輿が現れた。王の一行だった。王はリーユンを呼びつけると、怒気でいつもより更に低くなった声で告げた。
「砂庭院は、どうなっている?」
 その時、メイファンは、白蓮しろはすのごとく微笑みながら、ゆっくりと手を動かした。
 しゃり、という音とともに、ある形が表れる。
 止まっていた線が連結し、円が結ばれる。
 線が、図形が、幾多の意味を伴って、働きはじめる。

ごうごうと、地響きのような音が響く。
 皙沙は真白な砂塵を巻き上げて、視界を奪う。
 辺り一面が鈍い輝きに覆われた後、ぱあん、と光がはじけ、澄んだ空気が立ち戻った。
 王都の街中が、厳かに、顕現した。
 豪奢な衣裳を纏った笑顔が眩しい女性たち。珍しい品々を売り歩く行商人たち。物見遊山の楽し気な観衆。
 王たちは、この世の賑わいを凝縮させた街の情景に見入った。
 やがて街は薄まり、王宮が現れた。巨大な城門の正面には紗幕が貼られている。冕冠と宝珠の意匠が描かれていることから、その日が戴冠式であることが伺えた。
 奥に控える朱塗りの荘厳な城では、役人たちが城の正面に向かって平伏している。
 奥から人影が姿を現す。遠目で細かいところは見えないが、朱色に日形の装飾を戴く冠を被っている。王その人が進み出ると、側に仕えていたひときわ背の高い役人が、甲高い声で掛け声を上げた。
 暁を告げる鳥のような、人の技を離れた声が響く。
 役人たちは、声に合わせて頭を上げ、平伏した。座する時、首から下げた長い瓔珞(えいらく)が光を跳ね返して輝いた。その様は、涯之谷から見える海の波のようであり、また、涯之谷で実った金糸雀麦が、風に合わせて揺れる光景にも似ていた。
 まぼろしの王は、中央に敷かれた毛氈の絨毯を、静かに進み出でた。
 両脇には、煌びやかな槍を携えて武装した兵が控える。
 幻の王が向かうのは、黄金色に輝く輿だった。それはうつつの王が使っている輿と同じもののようだったが、もっと新しく、もっと強く輝いていた。
 幻の王が輿に座すると、兵たちが担ぎ上げ、頭上高く頂いて進み出でた。そのまま輿は城内を練り歩き、役人や兵たちは歓声を上げた。壁の外にいるらしき民衆たちも声を聞きつけ、さらなる賑わいを加えた。
 空気を付きぬける笛の音。下腹に響く太鼓の音。歌うような甲高い声。人々のざわめきや歓声が、嵐の前の風のように湧き上がっていく――

歓喜の沙幻の源には、メイファンがいた。
 幻に魅了されている現の王の表情を見つめながら、白砂に幾何学模様を描いていく。
 これは、今はもう失われた日々。
 前王の御代、王都が最も栄えていた時の輝かしい光景。
 そして仙族が征服され、涯之谷に閉じ込められた、忌まわしい日の祝杯の情景だ。
 沙幻は実に克明で、見た目ばかりか街のざわめきや花々の香り、熱狂する人々の体温までもを伝える。
 ふと、現の王が、輿から立ち出でた。
 周囲の役人たちの静止も聞かず、そのまま砂庭院の前にやってくる。
 幻の王を見つめ、魅了されたように見入っている。
 メイファンは王を少しずつ誘導し、また自分自身も王に近づいていった。
 楽の音が、絶頂に達した瞬間。
 幻の王が、杯を持ち上げた瞬間。
 そして現の王が、手を差し伸べた瞬間。
 メイファンは、現の王の背後に廻り込み、砂中に突き飛ばした。
 それは、役人も、リーファンも、王自身でさえ理解していない、一瞬の出来事だった。
 幾多の血を流し、無辜の人々を惨殺し、罪なき地を汚した王族の末裔、そしてジョエを殺した現の王は、清らな皙沙に取り巻かれた。
 涯之谷で葬儀をせず、涯之谷でない場所で骨となった仙族の遺骸に触れてしまった。
 仙族以外の者が触れると呪われる遺骨に、身体が、食らいつかれる。魂が、喰い尽くされる。
 僅かに残った理性の中で、王の心に浮かんだのは、一体何だったのか。
 嘗て栄えた幻の王都か、衰退の足音が聞こえる今の王都か、殺されて骨となった人々の顔か、それとも、彼よりも主上らしい言を放ったジョエの姿か。
 王の心から、野望が、意思が喰らわれ、虚無と恐怖だけが取り残された。
 炯炯けいけいと底光りしていた瞳は白濁し、傲慢な笑みを浮かべていた口は涎を垂らし、力が漲っていた手足が萎えた王は、表情を失い、真白な皙沙に倒れ込んだ。
 呆然としていた役人たちには、砂塵を巻き散らす風と同化したメイファンを見つけることは叶わない。やがて、わけのわからぬ言葉を叫ぶ王の四肢を抑え、王宮奥深くに連れ去っていった。
 
 王たちの気配がなくなると、急速に砂塵が納まっていった。
 夕刻も過ぎ去り、辺りは闇に包まれている。
 漆黒の空には、はや、月も出ていない。
 白砂だけが、ほのかに輝く。
 メイファンは、崩れてしまった幾何学を眺め、再び線を書き足していった。
 踏みしだかれた図形は元通りに。
 消えてしまった曲線は真新しく。
 歪んでしまった直線は真直ぐに。
 砂に触れていると、考える前に、像が眼前に浮かぶ。
 それは、今までることのなかった感覚。
 自ら想像するのではない。何かが体の中を通り抜けていく。それが立ち去らないうちに、消え去る一瞬前に、掴まえ、つなぎとめ、砂に刻む。その繰り返し。
 メイファンは、今、自分が何をしているのか、分からなかった。巨大な何か、切実な存在に突き動かされ、新しい沙幻をうみだしていたのだ。
 真っ暗な空間で誕生したのは、新しい街の姿だった。
 淡藤色の空気の中で、建物は優しい象牙色に輝いている。
 心地よい静けさの中、子どもたちがはしゃぐ声が響き、街が午睡ごすいから目覚める。
 ほのかに濡れる石畳。窓に揺らめく淡色の紗幕。小さな実をつけ、芳醇な香りを漂わせる木々。水晶のような飛沫を吹き上げる噴水の水面には、色鮮やかな花々が浮かぶ。
 街は中心部に向かうにつれて賑わい、王宮の門をくぐると、白亜にうまれかわった王宮が見える。建物は精緻で美しいが、乳白色のまろやかな石を使っているせいか威圧感がなく、どこか親しみを感じさせる。王の姿は見当たらないが、かわりにたくさんの役人らしき人々の影がある。その中には、涯之谷の海岸で言葉を交わした、あの子どもの面影を宿す顔が見える。
 行きかう人々で、怯えた表情を見せるものはいない。
 誰しも満ち足りた微笑みを浮かべ、楽しげだ。
 どこかで金糸雀が、明るい声でさえずっている――
 
 描きつつ、メイファンは、自らのなしていることが、信じ難かった。
 これは、昨日より前にも、今日にも、見たことない情景だ。
 それなのに、懐かしい。どうしようもないほどに。
 不意に、とめどなく、涙が出る。
 圧倒的な情感に覆われる。呼吸も叶わぬほどに。
 この街は、どこにもないから、奪われる機会すらないから、悲しいのか。
 それとも、期待の、希望の涙なのか。
 この情景は、どこからくるのか。いや、これから現れるのか。昨日でも今日でもないのであれば――

「メイファン」
 振り返ると、砂庭院の縁に一つの人影があった。リーユンだ。
「君は、何を……」
 問いかける彼に、メイファンは告げる。
「この砂庭院に、師匠の骨を混ぜた。弔いが済んでいない仙族の遺骸に触れた者は、呪いを受けるの」
 その言葉に、リーユンは後ずさった。皙沙から、メイファンから離れようとしているのだ。
 メイファンが美しいと思っていた瞳には、怯えの色が浮かんでいる。
 と、胸の中に、何か鋭い、痛みのようなものが走った。
 この男は、ジョエを、あの力を利用したのだ。
 メイファンを、この思いを利用したのだ。
 仙族を、その歴史を利用したのだ。
「君が、遠い」
 ぽつりと呟くリーユンに、メイファンは心の中で返す。
 いいえ、私たちは多分、最初から隔たっていた。
 たまさか、道が、交わっただけだ。
 そして、一粒の皙沙がもたらす感応ほどにも、近づくことはできなかった。
「大丈夫、あなたには何もしない。今のところは」
 呆然と佇むリーユンに、昔日の思いに、ゆっくりと背を向けながら、メイファンは言った。
 憎むことなどできなかった。多分どこかで悟っていたから。
 ただ、今は、この男に惹かれた自分の感情が、愛おしかった。
 皙沙の、リーユンの、煌めきだけを見ていた自分の無邪気さが、懐かしかった。
 歩みを進めたメイファンは、砂庭院の真中辺りに赴くと、静かに膝を折った。
 両の掌を仰向けた後、祈りのごとく合掌すると、中央辺りにひときわ濃く引かれた線を、すべての指で消し去った。
 昨と今、清と濁、有と無。いずれの極も、対立も、すべてが融けあうように導いた。
 白砂が巻きあがり、街は、人々は、優しい光景は、夢のように霧消していく。
 暗い空の中、沙幻はくらい虚空に吹き上げられていく。
 これは、涯之谷に向かう風。
 これは、ジョエの、殺された仙族の、万骨の念が眠る砂。
 さきほど描いたメイファンの街は、明日の先に出来上がるのか。
 そして皙沙は、白砂は清らに流れ、涯之谷に向かうのか。
 それとも、王都は、リーユンたちは、メイファンの街をつくりえぬのか。
 そして皙沙は、白砂は汚濁をもたらし、伽柁国に災厄を巻き散らすのか。

砂庭院の底、ほんの僅かに残った白砂を踏みしめる。
 舎利しゃり舎利しゃり、という音を聞きながら、思い返す。
 あの涯之谷で過ごした日々を。
 リーユンに、王都に、故郷ではないどこかに憧れた気持ちを。
 震えるほどに、しのばしい想いを。
 そして思う。もしも、他の道を選んでいたら。
 リーユンに出会わなければ。王都に来なかったら。
 そもそも、仙族が涯之谷に追いやられなかったら。父も母も生きていたら。
 でも、そうしたら、メイファンはジョエに出会わなかった。砂庭院のことも、知り得なかった。
 今、自分の足で、白砂に線を刻む指先で、ここまで来てしまった。
 清濁の涯に辿り着き、そこに佇むものに、出会ってしまった。
 そして、涯之谷に戻ろうと、メイファンは想った。
 金糸雀麦をひろったら、再び皙沙に出会うために。   完

文字数:16000

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