ピストルが鳴るまで

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梗 概

ピストルが鳴るまで

位置について、用意。ピストルが鳴るまでの数秒、自分の身体の声に耳をすます。スターターピストルが鳴る。百メートルを完璧に走り抜ける。手も足も心臓も、これ以外の動きがあり得ないというほど正確に動いて、そのときエミリーはすべてから自由になった。新記録のあとで、しかし、エミリーはめまいとともに倒れてしまう。

目を覚ますとベッドの上だった。異常なし、自律神経性の失神だろうと医療スタッフが言う。競技場の救護室らしい。エミリーはヘッドコーチのレッドフォードに不安を訴えるが、レッドフォードは五輪での活躍が楽しみだと成績を激賞するばかりだった。

帰路、地下鉄駅のホーム。前に並んでいた男の耳からワイヤレスイヤホンが落下するのを見て、反射的に空中でキャッチする。不可能な動きだった。エミリーは身体の異変に気づき、友人の医師キャンベルに相談する。

診療時間外、キャンベルの病院で脳波の異常が見つかる。経頭蓋刺激によるニューロエンハンスメントの可能性がある。薬物ではないのでドーピング検査では検出できないが、いずれ反動が来る。心当たりを尋ねられて、レッドフォードの陰謀ではないかと思い至る。しかし、告発には確証が必要だった。トレーニングで使っていたヘッドマウントディスプレイ(HMD)が怪しかった。

翌日、トレーニングルームへ行き、証拠のHMDをバッグに入れる。トレーニングしていた同じチームのソフィアにも異変が始まっていた。力になりたかった。HMDの使用は控えた方がいいと告げる。

キャンベルの病院でHMDを調べる。これが異変の原因に間違いなかった。エミリーは無断で実験台にされていたのだ。この出力では、遠くない将来、選手生命を失うどころか日常生活に破綻を来たす。怒りと絶望が押し寄せてくる。

そこへ、レッドフォードが乗り込んでくる。ソフィアが密告したのだ。レッドフォードはキャンベルにピストルを突きつけて、HMDを返せと言う。キャンベルは渡すなと叫ぶ。キャンベルをソフィアに任せ、レッドフォードの銃口がエミリーを狙う。ピストルが鳴るまでの刹那、エミリーは自分の身体の声に耳をすます。エミリーはレッドフォードに向かってHMDを放り投げる。銃声がしたとき、そこにエミリーの姿はなかった。落下地点でキャッチして、HMDをレッドフォードの頭にかぶせる。電源はオフだったが、レッドフォードは恐慌に襲われて悲鳴を上げる。エミリーはレッドフォードからピストルを奪い取り、ソフィアを制圧してキャンベルを解放する。不正の告発により、スキャンダルの中で陸上チームは解散することになる。

数年後、競技場にエミリーの姿があった。キャンベルの力でニューロエンハンスメントの影響を脱したのだ。この数年で脳ドーピング防止のガイドラインもできた。位置について、用意。ピストルが鳴るまで待つ。その号砲は彼女の選手生命の終わりではなく、新たな始まりを意味していた。

文字数:1200

内容に関するアピール

父がスポーツマンでした。七十才を過ぎた現在も十キロメートル近い距離を毎日走っています。息子の私は子供のころの父のしごきによって立派な運動嫌いになりました。大学一年生のとき、小学一年生にかけっこで負けたことがある私ですが、第4回課題の『ファブリンク・ダンス』に続き、なぜだか運動系の話を書こうとしています。

以前からピストルが持つふたつの意味、スタートの合図としてのピストルと、動きを止めるもの、命を奪うものとしてのピストルという二重性が気になっていました。タイトルの反転ということで、そのことを思い出して、そこからストーリーを引きずり出した感じです。最終的に二回反転して、最初と最後の意味の落差が小さくなりましたが、エミリーの変化で補強予定です。

体を使うことでいうと唯一歌うことだけは得意です。運動できなかった自分、運動できる自分、その両方の目で、自分なりのアスリート像を描けるとよいなと思っています。

文字数:400

課題提出者一覧