のみこまれた果て

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梗 概

のみこまれた果て

世界が「果て」にのみこまれはじめた。果てがいつどこから始まったのか、誰も特定できなかったけれど、ひどく寒い夏にそれはとつぜん現れた。透明でにおいも気配もなく、前触れもなく所かまわず現れて、周囲の空間を侵食していく。果てにのみこまれた空間は消しゴムで擦ったように消えてしまう。果てが広がるのと反比例して、世界はどんどん狭くなる。
 世界中が未知の脅威に怯えていた。でも、近くに現れさえしなければ、まだ自分には無関係だと思っていた。真山の話を聞くまでは。

「昨日、うちに果てが出てさ」
 真夏に厚手のカーディガンを羽織ってソーダアイスを頬張る真山の呟きに「うん」と頷いて先を促す。
「あいつらを果てに突き落としてやった」
 真山があいつらというのは母親と義父のことだ。
「それで」
「跡形もなく消えちゃった。いちおう、別々の向きから押し込んだから、たぶん離ればなれになれたんじゃないかと思う」
 笑ってそう話す真山の持っていたアイスがとけて、アスファルトに小さな染みをつくった。視線に気がついて真山はアイスを持ち上げてすくうように口の中へ入れた。陽に照らされたアイスの染みはすぐに消えてしまい「こんな感じ。あっさり」と真山は清々しさと寂しさの入り交じったような表情で言う。
 のみこまれた果ての先がどうなっているのかは誰も知らない。天国か地獄か、異世界か、ワームホールの入口か、いや何もない――様々な意見が飛び交っていた。
「新しい世界、新しい人生、生まれ変わってやり直し」というのが真山の意見。そこはかとなく同意を示しつつ、自分は果てにのみこまれるのはごめんだと思う。
「果て、意外と便利だよ。ゴミ捨てに行かなくていいし」

数日後、家が果てにのみこまれ尽くした真山は、同じ境遇の人たちと公園の避難所で生活しはじめた。果てが世界をのみこむスピードは少しずつ早まっていき、人間の居場所は少なくなっていく。天国論に感化されたり、疲れたり、諦めたり、新しい世界を夢見たり、様々な理由から自主的に果てにのみこまれる人が増えていく。
 自分も家を失い避難所で真山と再会する。避難所も徐々に狭くなっていき諦めムードが漂い始めたころ、真山は果ての先の新しい世界に向かうことを決める。
 食料も尽きかけたとき、お腹を空かせた誰かが「おい、これ食えるぞ」と叫んだ。人々が果てに口を押し当てて吸い込み、咀嚼しはじめる。皆、生きるために果てをのみこんでいく。しかし真山は「私は行くよ」と言って果てにのみこまれていく。
 寂しさと安堵で、泣き笑いながら真山ののみこまれた果てを、のみこむ。何の味もしない果てがお腹の中で蠢きはじめる。つらいけど、もっと食べる。食べ過ぎた誰かが吐き出したものが、うねって世界を再構築していく。のみこまれる前よりもつやがあって、まるで新品だ。

お腹が痛くなってきた。新しい世界、上から出るか下から出るか。でもそこに真山はいないんだ。

文字数:1200

内容に関するアピール

タイトルの意味を反転させることで、必然的にはじめとおわりにギャップが生まれると考え、シリアスな雰囲気を保ちながら、脱力するようなオチをつけることで、そのギャップが奇妙なものになり、不思議な読み味になるのではないかと期待しています。
 タイトルの反転、スクラップ&ビルド、生まれ変わり、嘔吐、の意味を込めてテーマは「リバース」です。
 一種の終末SFでありつつ、主人公を厭世的な感じにはせず、かと言って積極的に何か行動を起こすでもなく、翳のある真山に寄り添いながら徐々に追い込まれていき、でも意外と(しょうもない方法で)何とかなってしまうというようなバカSF的要素も加えて、ゆるいネガポジの対比を描きたいと思います。
 これまでどこかかたい雰囲気の実作が多かったので、最終課題の前くらいはすこし遊んだものにしてみようと考えているのですが、梗概の段階ではやはりまだどこか堅苦しい感じになっているかもしれません。

文字数:400

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のみこまれた果て

灰色のもやがかかったような空の隙間からもれる夏の白い光がさしこみ、頬が微かに熱を帯びる。肌寒さを感じさせる、気の滅入るような寒い夏の昼下がりに、一瞬の光の強さが痛い。しかしその光も、すぐに「果て」に遮られ隠れてしまう。またすこし、夏が寒くなったような気がした。
 わずかな夏を感じようと停めていたペダルを踏み出して、再び自転車を走らせていく。空を覆っているものと同様に、はるか前方にゆらめく陽炎のようにほの白く見えているのは、「果て」と呼ばれる超常的な現象であり、そのゆらぎに触れたが最後、接触した部分から身体を侵食され、徐々にのみこまれてそのまま消えてしまうのだと言われていた。
 目の前に迫った果てを避けるように慎重にハンドルを操作して脇を通り過ぎる。もしかしたら帰るころにはこの道は果てにのみこまれてなくなっているかもしれない。別のルートで帰る方法を考えておかなければ。
 バイト先のスーパーマーケット「オツマート」のスタッフ用駐輪場に自転車を停め、裏手の従業員入口で守衛に挨拶して事務所に入り、タイムカードを押す。シフト表の「真山」の名前に目をやり出勤していることを確認して安心する。
 更衣室で手早く白いブラウスに着替えてスタッフ用のエプロンを装着。フロアに出るとそれほど混み合っている様子もなく、担当のレジを開けてもしばらく客は来なくて、二つ前のレジで接客をしている真山の背中をぼんやりと眺めていた。長い髪を黒いゴムで一つに結わいて、その端に白い首筋がかすかに覗いている。小さな肩を左右に小刻みに揺らしながら、緑のカゴから商品をとって、コードをスキャンして赤いカゴへ移している。
 支払いを終えた客に軽くお辞儀をして見送った真山の両肩からすこし力が抜けて、すとんと落ちる。真山のレジにもならぶ客はなく、彼女は振り向いてこちらに視線を向け、「はろー」と口元を動かした。それから結ばれた口の端が微かに上がり、長い前髪の下で眉尻が下がったように見えて、たぶん真山は淡く微笑したんだと思い、穏やかな気持ちになる。
 私は真山の微笑をいとおしく思う。
 大学に入学してこの街に引っ越してきてすぐにオツマートでバイトをはじめて二年とちょっと。私は大学三年目に入り、真山は高三で受験生になった。大学生の夏は暇で、受験生の夏は忙しい、はずなのに真山は去年までと変わらないペースで勤務している。
 それは彼女の事情であって、詮索するようなことではなく、話したいことは話してくれるので、断片的には聞いていたけれど、志望校だとか、そもそも受験をするつもりなのかとか、具体的なことは何も知らない。ただ、家の事情でお金が必要なのだということは、何となく察せられた。
「お疲れさま」
 タイムカードを押して事務所の裏口から出ると、すこし先にバイトを終えた真山が休憩所のベンチに、プラスティック製の水筒を膝の上に置いて座っていた。水筒の中身はいつも水道水だった。
 隣のベンチに腰掛けてバッグから煙草を取り出して一服。白いパッケージの上にアイコンと化した革命家の赤い顔イラストが浮かんでいる。「革命、起きないかな」といつもと同じ言葉を呟きながら、真山は吐き出される煙の行方をつまらなそうに眺めている。
 果てがいつ頃から現れて広がりはじめたのか、詳しい場所や日時は誰にもわからない。人類が果てによる侵食に気がついたのは、月の満ち欠けの周期が狂ったことが発端だった。雲がかかったように月がぼんやりと薄れていき、満月が疎らな虫食いのように見えたかと思うと、月は日に日に小さくなっていき、いつしか見えなくなってしまった。月の異変に気がついて人類が探索へ向かう前に、この夏、同じ現象が地球でも起こりはじめた。
 今年の夏が例年に比べてひどく寒かったのは、太陽の光が果てによって部分的に遮られていたからで、つまり果ては恐らく宇宙そらからやってきたのだと推測されていた。
 煙草を喫い終えて、真山と並んで自転車を走らせる。いつもの帰り道に果てが出現したので別のルートで行こうと提案すると、真山はどうなったか見に行こうと言いだした。危険だし、あまり気乗りはしなかったけれど、真山が果てに興味を持っていることは知っていたので、否定せずにそのままいつもの道を行く。
 行きにすれ違った場所に到着すると、果ては巨大な壁のように広がっていて、その先にある景色を完全に遮っていた。透明のはずなのに濁ってゆらいで見える無の空間を、「果て」と呼びはじめたのは誰だったか、目の当たりにすると言い得て妙だと納得させられる。
 果て、つまりお終い。ここが世界の端っこだと言われても違和感のない、果て。果てにのみこまれた者はこの世界から消えてしまい、二度と戻っては来られない。
「どうなってるんだろうね、この先」
 間違っても触れないように、距離を保ちながら呟くと「行けばわかるさ」と真山が返す。
「危ぶむよ。これは」
「踏み出てしみれば、意外と行けるかも」
「それじゃ、真山、行ってみる?」
「いや、今は行かない」
 そんなやりとりの間にも、果ては滲むようにゆっくりと広がり、世界を侵食していく。先ほどよりほんのすこしだけ迫ってきた果ての臨場感に背筋が震えた。
「帰ろっか」
 真山の言葉に頷いて、Uターンして来た道を行く。いつもより遠回りになる道がまだ果てに侵食されていないことを期待して、長い坂になった街道の上の追分おいわけで真山と別れる。
「それじゃ、また」と言った真山の表情がすこし曇って見えたのは、私と別れるのが名残惜しいからではなくて、家に帰るのが嫌だからなんだろう。それでも微笑を浮かべようとする真山に、無理しなくていいよと言いたくなるけれど、言葉は出ない。
 ほんの少し上がった口の端に、ファンデーションに隠れてうっすらとあざが見える。レジで振り向いて「はろー」と笑ってくれたときには遠すぎて見えなかった。同じ真山の微笑のはずなのに、今度は心がすこしざわついた。

 *

はじめて真山と言葉を交わしたのは、バイトの休憩時間、喫煙所にもなっている休憩所でだった。ベンチに座って煙草を喫っていると「隣いいですか」と真山が声をかけてきた。夕方の混雑が一段落ついた時間帯で、狭い休憩所で数人のスタッフが休んでいた。
「煙草」
 指先を軽く揺らして合図すると、「平気です」と気にしない様子で真山は腰を下ろし、水筒に口をつけて中身を飲みはじめた。すこし前に新人バイトとして入った真山が高校生だということは聞いていたので何となく気まずくて、いつもより長めに残して火を消してしまった。
 こちらが気を遣ったのを察したのか、真山は「気にしないでください。うちにも喫う人がいるので」と言って視線を向けてきた。むしろ喫ってくださいと訴えかけるような視線に圧されて「そう、それじゃ」とだけ断って、二本目に火を点けた。
「違うにおい」
 独り言のように真山は呟いて、「そのにおいは嫌じゃないですね」と微笑した。その笑顔に惹かれてしまい「そう」と素っ気ない返事をして、視線を遠くに向けた。不意に視界に入った真山の左手の甲に包帯が巻かれていたのが見えたけれど、「怪我でもしたの」などとは訊かなかった。
 それから時々、シフトの時間が重なるときには他愛のない会話を交わすようになった。はじめのうち、真山はほとんど自分のことについて話そうとはせず、こちらが訊ねたことについて、短くぽつぽつと答えるくらいだった。
 そうしてわかったことといえば、真山は普段、テレビはあまり見ず音楽もほとんど聞かなくて、たまに図書館でエッセイや詩を借りて読むくらいで、家では何もせずに過ごしているらしい。ただし、ラジオはずっとついているので、楽しみでというよりは耳に入ってくるから聞いているのだという。
 好きな食べ物は柔らかいもの、好きな飲み物は水。行ってみたい場所はアルゼンチン――地球の反対側だからというのが理由らしい。好きな科目は数学で、嫌いな科目は体育。数学は答えが決まっているから好きで、体育は着替えるのが面倒くさいからいつも見学と称してサボっているとのこと。
 家族構成は母親とその再婚相手の義理の父で、家計が苦しいらしく放課後はほとんどバイトを入れていて、スーパーのレジ打ちがない日はファーストフード店で働いているらしい。そんなにハキハキしている印象はなく、どちらかというとダウナー系で接客業に向いているとは思えないけれど、マニュアルに沿って客の応対をすることはそれほど苦ではないという。
 以前、「どんなエッセイが好きなの」と訊いてみたら「とくに好き嫌いはないけど、最近読んだのは寺田寅彦って人」と真山は答えた。名前は知っていたけれど読んだことがなくて、調べてみると物理学者であり随筆家でもある人らしかった。随筆とエッセイは少し違うような気もしたけれど、その違いを指摘して真山と議論する気もなく、真山本人が区別せずに読んでいるのならそれでよかった。

 *

帰宅してウェブブラウザを立ち上げてニュースサイトを開くと、トップに在京の大手放送局の一つが果てにのみこまれつつあるという見出しがあった。すでにその局のテレビ放送は見られなくなっているらしい。一昨日には地方都市の基幹路線で線路が果てに侵食されて不通になりパニックが起こったというニュースもあった。果てにのみこまれて業務停止になった店舗など、細かい出来事も数え上げればきりがない。
 先ほど真山と一緒に見てきたように、道路も各地でのみこまれて通行不能になっている場所が増えてきているはずだった。着実に、果ては世界をのみこんでいき、私たちの生活領域は少しずつ狭くなっていく。
 果てによる侵食が自然災害と違うのは、のみこまれてしまったらもう再び修復することができないということだ。果てにのみこまれたテレビ局は廃業し、電車は廃線になる。店舗は消滅し、道は通行止めではなく永久に通行不可能だ。
 それでもとりあえず大学とアパートとバイト先のスーパーがあって、それぞれが何らかの通路で結ばれてさえいれば、私の生活は成り立つのだった。
 果てはランダムに現れて、気まぐれな速度で人間の生活空間をおびやかしていく。しかしそれでもすべての人が果てを恐れているわけではなかった。理由はとてもシンプルで、果てにのみこまれた先がどうなっているのか、誰も知らないからだ。
 のみこまれた果てに何があるのか。天国か地獄か、異世界か。ワームホールのようにどこか遠い宇宙につながっているのか。あるいは何もないのか。様々な意見が飛び交っていったが、誰も果ての先を見たことがないのだから、すべては憶測にすぎなかった。それでも一定数の人が、特定の考えに対して信仰をもつようになる。
 最もポピュラーなのは極楽説で、果ての先には楽園があり、そこにたどり着くことで地球でのすべての罪が許され救いがもたらされるというものだった。この説を信じて、自ら率先して果てにのみこまれていく人もいるらしく、最近、行方不明者が急増しているという噂も聞く。
 他にも異世界説や転生説など、果ての先に、ここではないどこかで生まれ変わって人生をやり直せると期待するような希望的観測もみられた。
 私はどの説にも同意できず、果てに対して特別な信仰心を抱いてはいない。単純に不気味で近寄りがたく、脅威を覚えていた。しかし意外なことに真山は転生説を信じている――というよりも、転生することに希望を持っているようだった。
「新しい世界、新しい人生、生まれ変わってやり直し」
 数日前に真山と果てについて話していた際に、彼女が歌うように呟いた言葉。そうだといいけどね、とそこはかとなく同意を示したけれど、心の中では自分は果てにのみこまれるのは御免だと思っていた。

 *

父が失業したと実家から連絡があった。勤めていた会社が果てにのみこまれたらしい。新しい仕事を探そうにも、世間は似たような境遇の人であふれており、失業保険の手続対応も窓口がパンク状態で滞っているらしく、とりあえず銀行から現金を下ろすために父と母、二人で数時間、ATMに並んだという。
 幸いバイト先のオツマートはまだ営業を続けていたけれど、仕送りが期待できないとなると学費やアパートの家賃も厳しい。両親と自分のこれから先の生活を思い、憂鬱な気分のまま自転車でバイトに向かう。
 事務所に入ってタイムカードを押し、着替えて更衣室から出ると、店長がいつになく暗い顔をして声をかけてきたので、嫌な予感とともに返事をすると「実はバックヤードに果てが現れたんだ」と低い声で吐き出すように告げられた。
 場合によっては今日は店を早めに閉めるかもしれないし、明日からの勤務も不透明だと説明されて呆然としていると、「おはようございますっ」と真山が妙に高いテンションで入ってきた。私と店長の様子に「どうしたんです、暗い顔して」と不思議そうに真山が質問すると、店長は「実は……」と先ほどと同じ説明をした。
「そうだったんですね」と言ってタイムカードを押した真山は、とくに驚いた様子も見せずに更衣室へ向かった。転生説を信仰している真山にとって、果ては迷惑な存在ではないらしい。
 真山はレジ打ち作業もふだんより軽快にこなしている様子で、カゴからカゴへ商品を移していく手さばきも鮮やかだ。何か良いことでもあったのか、その背中は身も心も軽くなったようで、いまにも歌いだしそうにさえ見えた。
 休憩時間になって、「何か楽しそうだね」と訊くと「別に楽しくはないよ」と素っ気ない返事のあとに「でも、ちょっと良いことがあったから、あとで教えてあげる」と続けて、真山は水筒の水を勢いよく飲む。
 隣で一服喫って、これからお金もなくなって、いつまで煙草を喫えるだろうかと想像し、今日から少し本数を減らそうと決意する。
 バイトが終わって帰ろうとすると、店長が「どうせ全部果てにのみこまれちゃうから、好きなもの持って帰っていいよ」と言うので、こんなことならもっと大きいバッグで来ればよかったと思いながら、真山とバックヤードに入って、数日分の食料をバッグに詰め込む。ひととおり詰め終えて「ありがとうございます」とお礼を言うと、店長はため息をついて「明日からどうしようかねぇ」と肩を落とした。
 外に出ると、果てにのみこまれつつあるそらだった空間の隙間から、夏らしい強い陽射しがもれていた。月の姿が見えなくなってしばらく経つけれど、まだ太陽は果てにのみこまれていないらしい。
 果てによって宇宙空間も侵食されているため、観測が難しいらしいが、火星や木星にも部分的に果てによる侵食が見られるらしかった。太陽系の外側から、順番に果てにのみこまれていくのだとすれば、人間がいなくなるまでは、太陽はそこにいてくれるだろうと思い、安心する。
「とける前に食べようよ」
 真山に促されて、オツマートのすぐ近くの公園に自転車を停めて、バックヤードからもらってきたソーダアイスを二人並んで食べる。寒いとはいえ、夏場に厚手のカーディガンを羽織ってアイスを頬張る真山の姿は、どこか周囲から浮いて見える。半分ほどアイスがなくなったところで、真山は「昨日、うちに果てが出てさ」と言いだした。「うん」とだけ頷いて先を促すと「あいつらを果てに突き落としてやった」と興奮を押さえるような調子で真山は言った。
 あいつらというのは母親と義父のことだ。
「それで」
「跡形もなく消えちゃった。いちおう、別々の向きから押し込んだから、たぶん離ればなれになれたんじゃないかと思う」
 真山の持っていたアイスがとけて、アスファルトに小さな染みをつくった。気がついて、真山はアイスを持ち上げて掬うように口の中へ入れた。細い陽の光がアスファルトを照らし、アイスの染みはすぐに消えてしまった。
「こんな感じ、あっさり」
 軽く突き放すように言った真山の声はどこか寂しそうだった。
 義父に怯え、しかし依存していた母親は、自分の力では離れることができなかった。好きとか嫌いとかじゃなくて、恐怖と崇拝による支配。そこから逃れるために、果ての先にある新しい世界へ逃がしてあげなくてはならなかった。
「好きではないよ。守ってくれなかったから」
 でも、助かって欲しいとは思ってた、と真山は言った。
「これからどうしよう」
 職を失った父と、店を失いつつある店長と、家族を失った真山。果てにのみこまれつつある世界で、それぞれの「これから」がどうなっていくのか想像もつかない。もちろん自分がどうなるのか、いつ果てにのみこまれるのかもわからない。
 食べ終わったアイスの棒を、真山が果てに向かって放り投げる。木製の棒は果てに貼りつくように宙に浮いたまま、ゆっくりと境界にのみこまれて消えてしまう。
「果て、意外と便利だよ。ゴミ捨てに行かなくていいし」
 そう言って笑った真山は、いつもとは別人みたいに活き活きとして楽しそうだった。

 *

翌日、いつもどおりバイトの時間にオツマートに着くと、店舗は跡形もなく果てにのみこまれていた。遠目から見ると辛うじて休憩所のベンチの端っこだけが残っているが、まもなくそれも消えてしまうだろう。
 しばらくしてやってきた真山は、一晩経って気持ちが落ち着いたらしく、昨日のテンションとは打って変わっていつもどおりのダウナーな雰囲気を漂わせていた。
「うちのマンションも全部のみこまれちゃって」
 見ると、昨日バックヤードからもらった食料を詰め込んだのだと言って、真山は大きなリュックサックを背負っていた。
 行く当てもないという真山に「それじゃあうちにくるか」とでも言おうと思ったが、狭いし、そこまでの関係性ではないと考えて、言葉には出さない。真山と同じように家を失った人たちが、大きな公園の一画や学校の体育館などを借りて避難所をつくっているらしく、そこに行ってみると真山は言った。
 話をしているうちに、いつの間にか休憩所のベンチは消えていた。
 この場所で喫う最後の一服というつもりで、貴重な煙草を一本取って火を点ける。
「やっぱり革命、起きないね」と真山が呟き、意外とみんな我慢強いんだ、と続けた。
 果てはすこしずつ広がる速度を増しているらしく、人々の不安も募っていく。真山が「革命」を口にしたのも不安に耐えきれなくなった者たちが暴れ出すのを期待してのことだった。しかし、果てが広がることについて、誰に不満や怒りをぶつければいいのだろうか。家や職場を失ったことに対する保障について、政府や保険会社を相手に訴えかければいいのか。そのうち国会議事堂だって果てにのみこまれてなくなってしまうだろう。
 煙草の吸殻を果てに放り込み、これでオツマートともお別れだ。
 ここからそう遠くないというので、真山を避難所まで送っていき、ついでに様子をのぞいてみることにした。私だって、いつアパートがなくなって避難所生活になるのかわからないのだから。
 避難所には想像していたよりも多くの人が集まっていた。それだけ果てによる侵食が進んでいるということだろう。避難所とはいったって、ここだっていつ果てにのみこまれるか知れたものではない。それでも多くの人が集まるだけのスペースが確保できる場所は限られているのだから、とにかく果てが現れないことを祈りながら暮らすしかない。
 果てにのみこまれかけた店舗などから物を盗む火事場泥棒のような者、気に入らない相手を果てに突き飛ばして消してしまう者、また多くの行方不明者の中には何者かに殺されて果てを使って隠蔽されてしまった者もいるかもしれない。とにかく果ては何もかものみこんでしまうのだから、悪用しようと思えばいろいろなことができるだろう。おそらく私のあずかり知らないところで、多くの悪事や犯罪行為が行われているはずだ。
 しかし、避難所に集まっている人たちはどちらかと言えば無気力そうな、覇気のない雰囲気の者が多く、それなりに治安は保たれているように見えた。
 入所手続きを終えた真山は「昨日からお風呂入ってないんだよね」と言いながら二の腕のあたりに鼻を押し付ける。真山は季節を構わずいつでも長袖長ズボンのくせにまったく汗をかかないように見えたし、近くに居てもとくににおいはしない。髪だって脂っぽくテカってはおらず、乾いてサラサラとして見える。
「私だって、汗くらいかくさ。人間だもの」と笑い「シャワー借りてもいい」と訊かれて、けっきょく真山はうちに来ることになった。
 真山がシャワーを浴びている間、ベランダで煙草を喫って待つ。空からは果ての隙間を縫うように太陽の光が差し込んでいる。そういえば、果てによって熱は遮られて寒くなっているはずなのに、日中は暗さを感じないのは、果てが光をうっすらと透過させたり、鈍く反射させたりような性質をもっているからなのだろうか。直射のような眩しさや熱さはないのだけれど、これまで明るさについて疑問に思うことがなかったのが、不思議だった。
「ありがとう」とバスタオルで髪の毛をくしゃくしゃと拭きながら脱衣所から出てきた真山は半袖のTシャツに短パンというラフな格好をしていた。さらされた腕や脚には傷や痣が目立つ。何となく予想はしていたけれど、痛々しい姿に胸がすこしだけ締めつけられたように痛む。
 こちらの視線に気がついた真山は「ああ、もうこれ以上増えないでしょ。たぶんそのうち治るんじゃない」と軽い調子で言って、勝手に冷蔵庫を開けて中から牛乳を取り出し、伏せてあったコップに注いで一気に飲み干した。
「何もないね、大学生」
 真山は部屋を見回して、本棚から心理学の教科書を抜き出し、パラパラと頁をめくる。面白いかと訊かれて、「別に」と答える。
「そう」と呟いて真山は教科書を本棚に戻し、しばらく眺めてから目ざとくアルバムを見つける。成人式の日に撮った家族写真のページを開いて「いいね」と真山は笑った。
「お父さん、何してる人」
「昨日から、無職になった」
「うちと同じだね。もういないけど」
 子どものころから「母親似だね」とは言われ慣れていたので、真山が父のことを訊いてきたのが意外だった。
 真山は写真を一枚一枚ゆっくり眺めて、アルバムをさかのぼるようにめくっていく。
「優しいんだ」
「まぁね」
「いいね」
「うん」としか答えられず、何か言葉をつなごうと思ったけれど、出てこない。
 アルバムを閉じた真山が「写真撮ろう」と提案してきたので、殺風景な部屋の中、携帯端末のカメラで二人並んで写真に納まった。
 真山は端末を持っていないというので、データをパソコンに移してA4の薄っぺらいコピー用紙に出力してやった。設定を間違えてしまい、用紙いっぱいに印刷されて出てきた写真は妙に大きくて不格好だし印刷精度も悪い。
 それでも「さんきゅー」といって用紙を受け取った真山は「記念だね。何の記念か知らんけど」と言って、再び長袖長ズボンに着替えてから部屋を出ていった。

 *

真山が部屋に来てから一週間もしないうちに、アパートの屋上に果てが現れた。私の部屋は五階建ての三階部分なので、のみこまれるまでにしばらく時間はあるかもしれないけれど、悠長なことは言っていられない。
 どこかの基地局が果てによって消滅してしまったのか、一昨日から携帯端末は圏外表示になってしまい外部からの情報が入ってこなくなっている。両親のことが心配だったが、手紙を出そうにも近所のポストがあった場所も消えてしまっている。
 このまま部屋にいても仕方がないと決めて、真山の暮らしている避難所に向かってみることにした。あの日以来、真山とは会っていないので、もしかしたらすでに避難所はなくなっているかもしれない。荷物をまとめながらそんなことを考える。
 もう二度と戻ってくることはないなと思いながら、がらんとした部屋に向かって「行ってきます」と声をかけて、ドアを閉めて鍵をかけた。数年間を過ごした小さな部屋が果てにのみこまれて欠けていくのは見たくなかった。
 数日出歩かないうちに、あちこちの道が果てによって閉鎖されていた。知らないルートをたどりながら向かったため、避難所に到着するまでにふだんの倍近く時間がかかってしまう。
 避難所はまだ存在していて、真山は数日前と変わらない様子でそこにいた。変化があったとすれば、すこしにおうくらいだ。
 こちらに気がついて「はろー」と真山は小さく手を振る。「とうとううちも果てにのみこまれそうで」と言うと「ご愁傷様です」と真山は返してくる。入所手続きを済ませると名簿の番号は一七四七番だった。真山の番号はたしか三桁だったはずなので、この数日でずいぶん人が増えたらしい。
 見回してみると、たしかに以前来たときよりも人口密度が高く、どこか苛立ちを含んだ緊張した空気に包まれているような気がした。
 そんな空気を楽しむかのように「起こるかな、革命」と真山は言う。
「たぶんそれは革命じゃなくて暴動だと思う」
「もし暴動が起こったらどうする」
「どうもしない。巻き込まれないように避難する」
「果てに囲まれてるから、逃げる場所なんてないよ」
「でも、別に暴れたくないし」
「どうせみんな果てにのみこまれるんだし、暴れなきゃ損かも」
 そう言われても自分や真山が暴れている姿など想像できない。そもそもどこに向かって、何に対して暴れればいいのか。
 緊張した重たい空気は変わらず、しかし暴動が起こることもなく数日が経って、避難所の周辺も徐々に果てにのみこまれはじめていた。避難所全体に諦めムードが漂い、生活に疲れたり、希望を失ったりして、自ら果てにのみこまれていく人も現れていた。
 避難所の一画で天国論に感化された人々が一斉に果てに飛び込むという出来事が起こり、積極的に果てにのみこまれる人も出てきて、昨日見かけた人がいつの間にかいなくなってしまうということが当たり前になっていた。
 そんな中で、真山が「私もそろそろ行こうかな」と言いだした。考えてみれば、もともと真山は果ての先に新しい世界があるという信仰をもっていたので、むしろ今までこちら側に留まっていたことのほうが不思議なくらいだった。
 真山が何を思ってこのタイミングで果ての先に行こうと決めたのか、理由はわからない。わからないまま、ただ「そう、寂しくなるな」とだけ応える。
「新しい世界には自分の意思で行きたいからさ。寝てる間に果てにのみこまれるなんて、やっぱり嫌だから」
 たしかに人の暮らせる領域はずいぶん狭くなってきた。世界のほかの地域がどうなっているのかはわからないけれど、すくなくともこの町が果てにのみこまれてしまうのは、そう遠い先のことではないだろう。
 人が徐々に減りはじめたとはいえ、避難所に残されている食料だって限りがある。果てにのみこまれなくても、そのうち飢え死にしてしまうかもしれない。実際、配給の量はすこしずつ減らされていた。
 不安そうな顔をしていたのか、真山は「大丈夫、黙って勝手に行ったりしない。行くときはちゃんと言うから」とこちらを励ますように言って、私の肩を軽く叩いた。肩にふれた真山の小さな手のひらの感覚にハッとする。もしかすると、記憶に残る形で真山とふれあうのはこれが最初で、最後かもしれない。

 *

お腹が空いて死にそうだ。避難所の食料もほとんど尽きてしまい、今日配給されたのは乾パン一個だけだった。避難所は完全に果てに包囲されており身動きがとれないため、余計なエネルギーを使わずには済んでいたが、それでも空腹は耐えがたい。
 真山はまだこちら側に残っていた。そして、「私がいれば二人分食料がもらえるから」と言って、自分の乾パンをこちらに差し出してくる。もともと小柄だった真山がやつれていくのを見るのは辛かったが、けっきょく何度か断った末に、有り難く食料をもらった。
 明日には食料が底をつくかもしれないという恐怖と不安。空腹のせいで集中力もなくなって、ほとんど一日中、食べ物のことを考えている気がする。
 真山は「一緒に行こう」とは決して誘ってこなかった。二人とも口数が減って、あまり会話をすることもなくなっていた。真山がじっと座って何を考えているのか、わからない。ただ果ての先にあるものを覗こうとするかのように、広がっていく無の空間を見つめている。
 もしかするとギリギリまで留まって、世界が果てていくのを見届けるつもりなのかもしれない。そう思わせるくらい、動かずに座り続ける小さな身体からは強い意志のようなものが感じられた。
「おい、これ食えるぞ」
 狭くなった避難所のどこかで誰かが叫んだ。
 声のしたほうへ視線を向けると、竜虎の描かれた赤いスカジャンを羽織った中年の男が、果てに口を押し当てて吸っている。避難所のほぼすべての視線が、その男に向けられていた。男は視線など気にせず、貪るように果てを吸い、のみこんでいく。
 しばらくの間、誰もが押し黙って男の様子を見守っていた。それから数人立ち上がって、男と同じように果てに口を押し当てて吸いはじめた。
 やがて「食える」「食えるぞ」と避難所のあちこちから声がしはじめる。
 先ほどまで隣でうずくまっていた人もいつの間にか起き上がって、果てをのみこんでいた。ここ数日、皆疲れ果てて静まり返っていた避難所が、にわかに活気づく。
「起こったね、革命」と真山が呟いた。
 一瞬にしてすべてがひっくり返ってしまうことを革命と呼ぶならば、たしかにこれは革命かもしれない。
 真山も皆にならって果てに口を押し当てて吸い、のみこんで「あんまり美味しくないかな」と一言、感想を述べた。
 避難所にいるすべての人間が、果てをのみこんでいた。私も遅れまいと、はじめは恐る恐る唇を近づけて、一口吸った後は勢い込んで果てをのみこんでいった。そんな私の姿を見て「すごい勢いだな」と真山が声を出して笑う。
 しばらくすると、はじめに果てをのみこんだスカジャンの男が口から何かを吐き出し、それがうねりながら果てによって失われたはずの、元の世界にあった空間を埋めて、再生していくのが見えた。
「それじゃ、果てが皆にのみこまれてなくなっちゃう前に、私は行くよ」
 バイバイと手を振って、止める間もなく真山は果ての中へ一歩踏み出していった。慌てて真山の腕をつかもうと手を伸ばしたが、人間の食欲には負けまいと抵抗するかのように、果ては勢いを増して真山をのみこんでしまった。彼女が最後にどんな表情をしていたのか、見ることさえできなかった。
 果ての中から真山を引きずり出すようなつもりで、彼女をのみこんだ果てに口を押し当てて思い切り吸った。真山が行ってしまったことが悔しくて、泣きながら吸って吸って、吸いまくってのみこんだ。果ては微かに甘味があるような気がしたけれど、真山の言ったとおり、あんまり美味しくなかった。
 やがてのみこんだ果てが腹の中でうごめきはじめ、激しい腹痛に襲われる。それでも真山を取り返したくて、果てをのみこむのをやめない。こうなったら果てが果てるまでのみこんでやろうと思う。
 皆が吐き出したものが、順調に世界を元どおりに戻しはじめていた。いや、それは完全に元のままではなく、古びていた柵は錆び一つなくなり、枯れていた花は瑞々しく、薄汚れていたベンチはぴかぴかと輝いて、新品同様になっている。ある意味では、真山の信仰していた「新しい世界」が人々の腹の中から生まれ出ているのだった。
 腹痛に耐えられなくなり、ゆっくりと深く呼吸をしながら、準備を整える。あまりみっともない姿を他人に見られたくないと思い、這うようにして新しく生まれてきた茂みにもぐりこんだ。
 とにかく苦しいが、勢いよく一気に出せそうだった。新しい世界、上から出るか下から出るか。そんなことを考える余裕もなく、口からあふれるように勢いよく新しい世界が飛び出していく。これまでの人生で一番大量にものを吐き出している。すっきりとした妙な解放感があって、やがて荒い呼吸を残して腹の中のものはすべて出ていった。
 私の吐き出したものが、新しい世界を形づくっていく。その中に、生まれたままの姿をした真山がいた。
 新しい真山は「Hello」といつもとはまったく違う流暢な発音で挨拶して、にこやかに微笑んだ。さらされたその身体には傷も痣も一つもなく、白く美しい肌をしている。そこにいるのは私のよく知っている真山ではなくて、新しい世界に生まれ変わった、新しい誰かだった。
 真山の期待したとおりに革命は起きて、真山の信じたように果ては新しい世界をもたらした。でもそこに真山はいないんだ。

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