ピース

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梗 概

ピース

五月、小説家の俊和が住む一軒家。俊和は文章を書きながら煙草を燻らせた。
 客人、龍臣は色紙に俳句を書き付けている。龍臣は友人で俳人の泰成の愛弟子。数学の才に恵まれ、海軍の研究生として引き抜かれ、新兵器の開発に携わっているらしい。
 龍臣は煙草の匂いが好きで、俊和が吸う銘柄を尋ねた。俊和は黄色い包装デザインを隠して、はぐらかす。
 ある日、俊和は龍臣が『光線』なる新しい兵器を開発していることを知る。俊和は発想の豊かさを讃えつつも、この国がそれを歓迎するだろうかと懸念する。
 龍臣もまた不安に思っており、開発する時、何か大きな力に導かれている気がすると俊和に打ち明ける。
 慰みに、俊和は龍臣に一句頼む。龍臣は煙草を吸わせてくれたら詠むと条件を出す。俊和が煙草を差し出すと、咳き込みながらも彼は吸った。すると龍臣はっとした表情を見せた。 龍臣が詠んだ句は玄関に飾られた。

 舞いおりぬ ピースの花が 戦の後

 その夜、俊和は閉ざされている薬屋を尋ねる。土間から主人がオリーブの葉をくわえた鳩が描かれた黄色い煙草を無言で差し出した。

 三日後、泰成が俊和の家にやって来た。龍臣が発狂したとして研究室から追い出されたというのだ。武器開発も中止となった。
 俊和は煙草の煙を吐き出しながら「もう仕舞にしよう」と言った。
 実は俊和達はは戦争に勝ちたい未来の遡行者のもたらす技術によって同じ人生を何度も繰り返していた。未来では、量子のもつれによる一方通行の時間遡行が可能になっていたのだ。
 戦勝する試みは常に失敗した。改変を阻止する者がいる。あの煙草をくれる薬屋もその一人だった。
 だが、終わりのない繰り返しの中で、様々な事柄が微妙に変容しだした。
 龍臣はその被害者だった。数学好きの海軍青年だった彼はいつしか数学天才となり、技術水準を超えた兵器『光線』を作り上げようとした。
 泰成は、敗戦の失意と糾弾によって『病』になった俊和を救いたいという個人的な理由から改変に手を貸していた。
 俊和は「君は僕の名前や、僕が誰であったか覚えているか」と聞く。泰成は答えようとして口を閉ざした。俊和は 泰成が最初の志だけ忘れられないのは妄執なのだと黄色パッケージの煙草を差し出す。その煙草は吸うと、過去と未来が分かり、人を正気に戻すのだ。しかし泰成は受け取らなかった。

  数日後、監視付きで龍臣が家を訪ねた。参内して沙汰を受けたとのこと。大きな力を失った気がすると言いながら彼は朝顔が咲くように笑った。ふたりは屈託なく話しをした。「この戦争はちゃんと負けますよ」 龍臣が真剣な顔で言うが、俊和は曖昧に笑う。

 龍臣が帰った後、自分はまだ「何か大きな力」から解放されないのだろうと物思いに浸る。
 俊和は煙草に火をつける。それはただの煙草だった。濃紺の箱には細い唐草模様とPEACEのデザイン、小さな文字で一九四六と印字されていた。

文字数:1187

内容に関するアピール

歴史改変ものを一度書いてみたかったので書きました。煙草をモチーフに時間遡行を描きたかったのですが、設定がぐちゃっとしてまとまらず、しかもお題を上手く活かせず四苦八苦です。もうひとひねり欲しいような、これでいいような。難しいです。

俊和は横光利一、泰成は川端康成。こんな湿度がふたりの間にあったかは定かではありません。横光利一の晩年の作品に『微笑』という短編があります。それが元ネタです。おふたりが煙草を吸っていた記述はありますが、銘柄は多分、ゴールデンバットじゃないかな。

煙草の銘柄PEACEは1946年戦後に生まれた国産煙草です。現行パッケージのオリーブと鳩は1952年からです。黄色の所謂ロングピースは1965年に発売です。薔薇の一種であるピースも戦後生まれ。ベルリン陥落を記念して本品種をピースと命名して発売したとのこと。どちらも平和を意味しますが、平和でない時代を遡行して平和にする営み自体は平和、平和的行為なのか、そういうテーマです。それはそれとして、誰か俳句の添削してください。もっといい俳句があったら教えてください。よろしくお願いします。

文字数:475

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ピース

窓の外は新緑が瑞々しく庭を彩っていた。
 俊和 としかずの指は群青色の煙草箱に伸びた。鳩にオリーブ。両切りの煙草だった。
 取り出す音もマッチの擦る音もはっきりと聞こえるのだった。一口吸うと途端に酩酊したように頭がぼやけてくる。煙はすっぱい匂いなのに同時に甘くも感じた。湿気りはじめた紙の味と葉の触感。
 現実感が遠のき、吸い終わるころには、見えるものがまるで絵画のように映った。立体感はあるのだが、やけに上手く描かれた写実主義の絵のようにすべてが写るのである。
 時間が延長したような心地。いや、実際に延長しているのだ。まるで数年があっという間に過ぎたような心地だ。口に広がる苦みはすぐに喉の痛みに変わった。
 向いていないな。俊和はくつくつと笑い出した。彼は煙草をもみ消して、筆を掴んだ。
『 駈けて来る足駄あしだの音が庭石に躓つまずいて一度よろけた。すると、柿の木の下へ顕れた義弟が真っ赤な顔で……』
 俊和は原稿を破った。静寂に紙を裂く音は妙に響く。
 背後の客人が顔を上げている気配に気が付いた。華奢な青年で、首が細いが健康そうであった。
「すまない。公武 きみたけくん」
 振り向きざまに俊和が言うと、公武はぱっと朝顔が開くような笑顔を向けた。
「いえ。先生の執筆のあり様を見せていただけるのは快いことです」
 視線は手元の原稿と煙草にあった。朝顔の笑みは、赤子の笑顔を同様にすぐに掻き消えた。無邪気で美しい微笑だと俊和は思った。このほかに真似できない笑顔を見ると俊和は彼の学問や発明の過程を聞き出すことができなくなるのだった。
 俊和は友人の泰成 やすなりから聞いていた公武の素性を思い起こした。
「あなたの筆致が欲しいという青年がいるんですが、ほらあなたの新作『煙草』に。よろしければひとつ」
 公武こそ俊和の筆致を欲しがった青年であった。俳諧を嗜む泰成の愛弟子で、まだ二十一の帝大学生だ。横須賀海軍の研究生として引き抜かれたらしい。
「数学の天才でしてね、特殊な武器開発をもう三種類も行ったそうですよ。なんでもアインシュタインの相対性原理の間違いを指摘したものだと云っていましたがね」
 弟子を誇張しないよう謙遜した表情で泰成がいうものだから、疑い深い俊和もまずは信用したいと思った。
「それはすごい青年が現れたものだなぁ」
 俊和は感嘆した。一方で、脳裏にポエニ戦争敗戦の際、水汲みの螺旋や陽光を反射させ、敵船を焼く鏡の発明に夢中になったアルキメデスの姿が浮かんでいた。
 しかし彼も明るい話題に飢えていた。自身の細君の喜び様が彼を揺り動かした。
「どんな武器なんですの?」
「僕は数学に明るくないんです。気さくな子だから本人に聞いてください」
 泰成は我が事のようにうれしそうであった。
「何かしら? 原子爆弾というやつかしら?」
「いやそうでもないらしいんです。閃光だと言っていましたね」
「まぁ」
「周りは軍人と憲兵ばかりで、しかも注目の的ですからね。息が出来ないらしいのですよ。そのうえ、夜中に頭が冴えるといって開発をするものだから下宿を追い出されましてね。今度の若い娘さんのいる下宿だから良さそうだなど言っていたら、しっかり学位論文も通ったようで」
「じゃあ、二十一歳の博士なのね。それはそれは」
 負けに傾き始めている戦況を跳ね起き返す力があるなら欲しかったし、その先にある平和を手に入れたかった。
「しかしそんな凄い青年が僕なんかの筆致を欲しがるかな」
 俊和の口ぶりに泰成はころころと笑い出した。
「そうはいっても子供ですよ。数学をやる友人の中にあなたの家の表札を盗んで持っている者がいるらしくて、よし、俺はもっといいものをもらってやるぞとつい豪語してしまったらしいのです」
 もう五年以上前、家の表札が何度付け直してもはがされてしまう事件のことを思い出した。釘で打ち付けても甲斐はなく、細君と俊和の悩みの種だった。最近とんとそんな事件もなくなった。迷惑であったが、剝がされなくなると途端に寂しく感じたものだった。それが今になって本に筆致を欲しがる青年に姿を変えたので、俊和は公武という青年に会ってみたくなった。
 表札を剝がされる当時の悩みと、いま異才の天才の苦悩や辛苦が重なったのである。
「僕の本、少しも読んでなかったなどないだろうね」
 言うと泰成は笑い声をあげた。

それで今日は二度目の訪問だったな。俊和は泰成が所用で席を外してもくつろいだ様子で居座る青年に目を和ませた。
「先生はお煙草を吞まれるんですね」
「まぁ、たまに」
「旨いですか?」
「どうでしょうね。吸った事はないのですか」
 公武はさっと顔を赤くした。赤くなりながらいましがた作ったであろう句を詠んだ。不器用な句だった。俊和は青年のはじらいの中にやさしい魂を垣間見たと思った。
「吸わないにこしたことはないさ」
 一瞬躊躇し、またぱっと笑みが咲いた。博士というより、街角にいる叱られても悪戯をやめない墨だらけの腕白小僧だいう第一印象そのままであった。
 俊和は曖昧に微笑むに留めた。黄色に鳩の包装を無意識に隠していたのを自覚し、俊和はさり気ない調子で煙草を棚にしまった。
「丁度よござんす」
 細君が茶を煎れに来た。公武は格好を崩し、まるで姉を慕う弟のような調子になった。細君と公武は郷里が近いので忽ち親しくなったのっだ。温泉の松屋が彼の叔父の家で、そこは一家が帰郷する度に泊まる宿なのであった。
 ふたりの話題が地元の細々した事柄になるにつれ、俊和は打ち捨てられたような気になった。地元言葉まるだしで賑わうふたりを俊和は眺めていた。
「空襲の話はとんと聞きませんが、怖いですわね」
 と細君が言うと、公武は湯吞の茶を飲み干し、
「一機もいれやしませんよ」
 とまたぱっと笑った。談話の中で、俊和が積極的に聞かないことにしていた経歴が次々と飛び出してきた。
 中等科は首席で卒業、柔道は初段、数学検定を四年で取った彼はすぐ一高の理科に入学した。二年の時、教員と数学上の意見の相違で争い、退学させられてから徴用でラバウルの方へやられるはずだった。が、風邪症状のまま入隊検査を受け、丸裸の寒さで高熱をぶり返した。即日帰郷となった彼は帝大に入学した。彼の才能を惜しんだ有力者の力が働いていたようだった。
「独逸で使い始めた武器も最初は少年が発明したとかいうことでうよ。僕の聞いたところでは世界の数学界でも二十から三十五までの青年が実力を握っていて、数か月ごとに中心実力者が変わっていくそうです。日本でも実際はそんなところにありますかね。どうです?」
 それが君自身ということだね、と俊和が視線で伝えると、公武は赤くなったまま微笑黙って答えた。
 俊和はこのまま彼の新兵器、閃光のことを訊いてみたくなった。が、国家の機密を明かそうと誘惑するのは、彼に危険が及ぶかもしれない。談話しつつも俊和は別の質問を探し続けた。
「俳句は古くからですか? 泰成は手厳しいでしょう」
 無難な質問だった。
「いえ、最近です」
 泰成の俳句を雑誌で見つけて衝動的に入門したのだという。
「頭がいつも混沌としていて、いつも考え事をしているんです。それで休まる法はないものかと。もう僕を助けてくれているのは俳句だけですよ。何をしても苦しむばっかりで」
 青葉に光が差し簾ごしにに揺れている。公武はすだれを見つめああと納得したような顔をしたが、俊和は深く追求しなかった。
 この青年から重要な機密を引き出すのはやめよう。俊和は有象無象を生かすも殺すも彼の頭次第かもしれない事を考えないようにした。
「実をいうと、貴方に筆致を頼んだのも先生に会いにまぁ、句会に出るという名目の時だけ外出を許されるもんだから……」
「なるほど看視が厳しいようですね。それは息が詰まりそうだ」
 自分の筆致がこの青年を救ったのであった。それは快いことだった。
「なら今度は色紙にでも書きましょうか」
 また公武はぱっと笑った。
 忙しない下町言葉だった。俊和はその言葉使いに心を動かされた。少しだけ親密になれた気がしたのだ。
「憲兵が一人の部屋をぐるりと取り囲んでいるものだから、勝手が出来るのは俳句の中だけです。それも雲行き怪しいですが。今日なんかも一人憲兵が付いてくるものだから、筆致を見せて品川で撒いちゃいました」
 俊和は色紙を書いて渡した。公武はまじまじと色紙、というよりそれを持つ指を凝視していた。指先に残るヤニとその匂いを感じていたのに妙に気恥しくなった。
「科学のことは僕にはわからないが、いまは秘密の奪い合いだ。気を付けなくっちゃね」
「ええ。先日も優秀な技師がやられました。本当に優秀な人でしたがね」
 公武が手でピストルの真似をするので、俊和は尚更落ち着かない気分になった。
「ところでアインシュタインの間違いを指摘したらしいと康成が云っていたのだけれど」
「最初を叩いたらみんな緩んでしまって」
 彼はいごく乗り出す風な早口で言った。聞いて欲しいとばかりにぱっぱっと笑顔が咲くのである。
「先生。重力場っていうのはね、時空そのものなんですよ。収縮したり、波打ったりできるんですよ。ね、先生。この世界が前進するのに必要なのはエネルギーではなく、低いエントロピー資源なんです」
 俊和には彼の言い分がまるで空中に楼閣を築く方法を聞かされているようだった。彼の才覚が真実であるかを判断することは出来ないが、目の前の青年が気がおかしくなったとは思えなかった。
「みんなそこからです。誰もわかってくれません。それでこの間も喧嘩したんだ」
 きっと公武は誰にも解が分からぬ中で、孤独な闘いをしているのだろう。ただ、俊和には物事の根底を動かしている彼の世界に対するいいようのない苦痛があった。彼の言うままに動けないのはなにも彼等の同僚だけではない。自分の嫉妬心を淋しく思った。
「君、小説についてはどう思いますか。いま僕の仕事で一番の関心事なんだが」
 話題を反らせたいと思わず俊和は言った。すると公武の大きな瞳が見ひらかれた。彼の視線は日に照らされた扇風機に集中している。
「太陽ほど低いエネルギー源はないですよ。熱い光子が送られると、温度の低い光子を何個かこちらは熱として放出します。エントロピーです。このやりとりでエネルギーが手に入るわけではにのですが、そこであの扇風機の中心の零ですよ。羽根は回っていて見えませんが、ふとしたときに……」
 説明してもらっても何の益もなかった。けれど突然、扇風機に掴みかからんような口ぶりについつい俊和は聞いてしまった。
「通ることがあるかな。あなたの説は。新しい武器もそうやって開発しているのですか」
「そこなんですよ。街を歩いている時に石に躓いてぶっ倒れたんです。その時、横を通っていた電車の下からぼっと火花が見えた。そんで上をむくと太陽があった。それで閃光を思いついたんです」
 これ以上は口を絞めさせねばならない。国家の機密を明かすような危険をこの青年は危険とも思っていない。ただ注意するにはやや早いような気もした。
「転んでなければ何もなかったわけですね」
 俊和は彼を気の毒に思った。
 
「お荷物きていますよ。それからそろそろ泰成さんお戻りですから」 
 公武が帰った後、細君が再び書斎へやってきた。届けてくれたのは小さな小包だった。差出人は知らない名前だったが、住所には見覚えがあった。俊和は丁寧に包みを開ける。群青色の筒状の缶だった。本入り、デザインは見慣れてしまった鳩にオリーブだった。
「いったい誰なのでしょう」
「きっと熱心な読者からだよ。表札を盗むよりずっと善い」
 細君は納得したのか部屋を出て行った。
 蓋だろうか。金属製の上蓋の内側に金属の爪があった。缶を覆う銀の膜に突き立て回すのが開封の作法であるように思えた。突き立ててみると空気の抜ける音がした。金属の擦れる音。缶詰めの蓋をとるように銀の膜を剝がすと五十本ほど両切りの煙草が詰められていた。
 俊和は煙草を口に含んだ。しばし酩酊。現実感が失われ、世界が絵画的に見えた。俊和は目の前に広がる幻覚をもっと詳しく描写してみようと努めた。

例えば目の前に無限とも思える数の本がある。僕はある写真つきの藁半紙の雑誌を手に取り、早回しで捲る。書かれている事、写っている物すべてを正確に読み取るのは難い。しかし、肝要な部分は不思議と頭に染み渡るのだ。
 僕の目には友人が一月から初夏にかけて「しぐれ」「住吉物語」『千羽鶴』の各章が発表されるのが見えた。さらに別の本を取り出すと、彼は『無二の友人』を失い、亡き友の為に弔辞を読み上げていた。それからさらに……。
 こうして僕はおおむねの本を取り出してはぱらぱらと読む。じっくり読みたいのだがそうもいかない。煙草が燃えているのはほんの数分間しかない。

眩暈、酩酊。
 遥かなる時間の延長。
 俊和は項垂れる。

気が付くと、日は傾き始めていた。夕日があまりに赤いので、橙色に灯る家々が燃えているのだと錯覚した。いや、もしかしたら錯覚ではないのかもしれない。ナパーム焼夷弾が降って来た後の祭りなのではないだろうか。彼は昭和二十年五月と書かれた卓上暦を見つめた。初夏とはいえ、夕方は冷え込んだ。
「すみません。公武君も帰ってしまったようで」
 泰成がすり足で駆けてきた。彼はじっと他人を見つめるその癖で俊和を見つめていた。彼は咄嗟に煙草をしまった。不安が急き立ててきたのだ。俊和ほどの年齢ならば誰も煙草を吸う事を咎めはしないはずなのに。
 泰成は上品な所作で正座でにじり寄ってきた。俊和は挨拶もそこそこに
「あの子、危ないね」
 と暗澹として言った。
 嫉妬中傷の炎は何を企むかわからない。早晩、公武は危険人物として銃殺されるやもしれない。勝つにしても負けるにしても危ないと思った。
「けれど何者かに守護されているような気配も感じるのだ」
 俊和は思わず付け加えた。公武の表情には翳りがなかった。本人の預かり知らぬところで貴い光が守っているかのように。
 虚弱体質の泰成の目が落ちくぼんで見えた。じっと見られると大抵の人は音を上げてしまう。しかし俊和はその鋭さが両親、祖父母、姉の全ての肉親を失った虚無の結果と知っていた。
「随分とぞっとした目にあったそうですよ。運よく命が助かったようなことが」
 泰成が言うには、こういういきさつだった。帝大の研究所の初日、新しい戦闘機の試験飛行に乗せられたことがあったそうだ。次の飛行では急降下時に性能計算を命ぜられたが、試験日に高熱に魘された。公武を除いたものだけで試験飛行を実行した。すると大空から垂直に下ってくる戦闘機が彼の目の前で空中分解して海中に突き進んだのであった。
「尽く死んでしまったらしいですよ」
 泰成の目が爛々と暗く輝いているように見えた。西日が差した窓の外で木製の簾が一枚揺れていた。そういえばと泰成が言った。
「最初に来た日から簾の横板がいくつあったか気になって眠れないといっていましたね。気も狂わんばかりだったとか」
「ああ。だからか。さっき凝視していたから何事かと思ったよ。そんなことに気が付き始めたらたまらないなぁ」
「夢なかでも考え事をしているから、朝起きたら机の上に難しい計算がいっぱいあって、本人は覚えていないなんてこともあったそうですね」
「そりゃ気くるい扱いされるだろう」
 泰成が湯呑に口を付けながら目を緩めたのがわかった。
「ええ。すでに下宿ではそういう扱いのようで。でも今度は大丈夫ですよ。きっと」
 彼の含みのある言い方には覚えがなかった。なぜか俊和は無性に煙草が吸いたくてたまらなくなった。

 ある日、泰成と公武が一緒に訪ねてきた。公武はその日、白い海軍中尉の服装で短刀を身に着けていた。腕白小僧が前より随分と大人びて見えた。それでも少年のような風体に中尉の肩章は似合っていないように思えた。ぱっと開く笑顔であったが、目の下に隈ができている。
「最後の調整をしていたもので」
 新しい武器の話題は敢えて聞かなかった。俊和は言った。
「それでは今日は休日にしよう」
 ふたりを招き入れると早速、俳句を作った。窓の簾は外し、窓も開けている。青葉の色が滲む木々の方へ三人は目を向けた。花壇の花は日差しに耐え兼ね終わりかかっていた。その中で紅の花弁が上を向いて咲いていた。公武は長らく考えた後、紙に書きつけた。
「チューリップかなしきまでに晴れし日を」
 彼らしいと思った。泰成が鋭く光る眼差しで愛弟子をみつめた。
「ただの手なぐさみの俳句では、いつまでたつても素人の遊びにすぎませんね」
 謙遜か彼は赤面した。
「思うに俳句には本来、孤絶の魂がひそんでいなければならのではないでしょうか」
 痛いところを突いてくるなと俊和は微笑した。彼には友人がいて、細君がいて文学を志すには少々単純素朴で抒情家すぎると自覚していたからだ。
 泰成が鋭く光る眼差しで愛弟子をみつめた。公武が恐縮したように背を丸めるので、俊和は気にしていなと身振りで伝えた。すると泰成は何事もないかのように詠み始めた。
「三たび茶を戴く菊の薫りかな」
 泰成が作ったこの句は清秀な風情があった。それでいて客人の高ぶりを締め抑えるような気配があった。
「日の光初夏の傾けて照りわたる」
 俊和も自分の句を読み上げる。
「秀句でもないが、今日は佳い午後だ」
 和ませるように俊和が言うと、ふたりも笑った。
「咎めたわけではなかったのですよ。よい句ですが、少し感情を抑えた方がよいかと思いまして」
「なんだ。それはあなたが善くないね。あなたの目は大きい。すがめるだけで睨んでいるように見えるんだから」
「おや。では気を付けましょう」
 和やかでありながら、泰成の目の奥の奥に暗い情念が浮かんでいるのを俊和は見逃さなかった。
 細君は食べ物がなくなったのを詫びながら胡瓜もみを出した。公武は彼女と地元言葉で話すのが存外休まるようだった。俊和は色紙に
 方言のなまりなつかし胡瓜もみ
 と書きつけた。
 ふたりが帰ってしまうと、細君を追いやって暮れゆく街を二階の窓から見下ろした。
 また小包である。包装を破ると煙草の箱だった。
 俊和は薄青い煙草包装箱を握った。東海道新幹線開通記念と印字され、白くまるいつるっとした汽車が描かれていた。俊和はマッチを擦り、その箱の煙草一本に火を付けた。
 簾が風で巻き上がる。二階の窓から門が見えた。そこに白髪の老境の男がじぃと彼を見つめているのを認めた。その目には覚えがあったが、煙草の煙の酩酊で彼はすぐ記憶の旅に出てしまい、彼の動きを追う事ができなかった。吸い終えた頃には男はどこにもいなかった。

それから二日目、公武から手紙が来た。
 ただいま陛下から拝謁のご沙汰があって参内してきたばかりです。涙があふれて私は何も申し上げられませんでした。近日、ご報告に是非伺いたいと思っております。
 几帳面な筆跡だった。俊和は一切が空虚だった。虚しさからくる気怠さで彼はいつしか空を見上げていた。円い、何ごともない深々とした空。
 翌日、軍服姿の公武がひとりでやってきた。足音が普通の客とは違うので、すぐにわかった。正確すぎるのだった。
「参内したんですか」
「ええ」
 公武が身じろぐと沼の匂いがした。いつもは汗の匂いもしないような清潔な彼にしては珍しいと俊和は思った。
「けれど何にもお答えできないで。言葉が出てこないのです。おって沙汰すると。頭がぼっとしてあれからちょっとおかしいのです。一度僕の方まで歩いてお席に戻られました。十一歩です」
 公武はぱっと微笑を浮かべる。はじめて会った時の無邪気さが消えているように見えた。
「足数を数えるのは癖ですか」
「はい。駅から玄関までも数えてきました。七百五十一歩」
 足音の正確さの理由が思いもよらず明かされ、俊和も微笑した。
「なんにしてもお芽出たいことだね」
 ふたりは談話に花を咲かせた。
「今日は下宿から?」
「いえ、父島から。その足でやってきました」
「閃光ですか」
「ええ」
 公武はぱっと自信を持って笑う。
「何色なんですか」
「昼間は見えませんが、夜はもしかすると紫にぼっと光るのです」
 よく見ると彼の額に日焼けの筋があった。ひやりと一抹の不安が俊和をとらえた。
 俊和は内心で『閃光』なる武器など夢物語なのだと思っていた。この戦争に勝てる見込みが薄いことを予め知らされていた。彼はこの先に何が起こるかわかっている。
 平和と英字が印字された群青の煙草。あれを吸うと先の事がまるで本を捲るようにわかるのだった。
 昭和二十年の新年。『煙草』が雑誌に掲載された日である。日記で先祖が神だと信じた民族が勝ったのだ、と綴った日からもうだいぶ遠くなっていた。煙草を手に入れたのは偶然だった。ファンの手紙と共に同封されていたのだった。差出人の住所が近所の商家だったのと手紙も宛名も筆跡を感じさせない精密な文字だったので、興味を持った。しかもあなたの未来の為にと書かれており、俊和は好奇心に負けて、同封された煙草を吸ってしまった。
 後から思えば毒でも入っていたらと少しでも考えなかったものだろうかと反省したのだが、いや、しかし、これは実際に毒に違いない。俊和はこれより先、昭和六十四年までの世界を早回しに見てきたのである。一種の妄想や幻覚なのかもしれない。しかし、肝要な部分は先を見通していてもその通りになった。
 だが今はどうだ?
「実験を済ませてきたのです。成功ですよ。電力の弱い父島でも十万フィートくらいなら効力があります。飛行機はもうずっと以前から撃墜されているんです」
 俊和は公武の中に悪魔の所在を嗅ぎつけようとする自分自身がいることに気が付いた。俊和は昭和十九年秋に来るべきはずの空襲がやってこず喜んだのではなかったか。
「東京が火に焼かれることはありません」
 公武が言った。
 俊和は昭和二十年の五月、晴れた日に空に敵機が見えて銃後も前線になったと日記に書いていた。違う。あれは煙草を吸った時に思い出したのだ。いまの僕の東京は一度も燃えていない、俊和は呟いた。
「神います。本当に」
「君は……」
 俊和は出来るだけさり気無く煙草に指を伸ばす。しかし公武がそれを阻止した。節くれだって長く大きな手は、体格の割に細長い俊和の手より武骨であった。公武の指から男の肉汁のような脂の拭っても拭っても取れない匂いが漂ってきた。緊迫した公武の指先の冷たさが、肌に伝わってくる。
 そうだ。目の前にいる数学の天才だって、彼は本当は……。そこまで考えて彼は公武が誰なのかわからない自分に気が付いた。泰成の俳諧の弟子ではない公武。
 それは誰だ?
「煙草の匂いは身体を犯して隠しても隠し切れません。戦争勝てますよ」
 自分は莫迦だ。
 なぜ自分以外にも未来を見通せる煙草を吸う奴がいると思わなかったのだろう。
 答えようのない自分が悲しく俊和は黙ったまま俯いた。

公武が去った後、消沈した俊和は、ふと目に留まった小包の送り主を尋ねてみることにした。
 本当なら今頃、細君と子供を疎開させ自分ひとりで北沢に居残っていたはずなのだ。それもたった数ヶ月で家族を追って疎開する。そこで『芋ヶ壁』を書く、いや『深夜の告白』だったか、それとも『死の谷間』だったか。
 いやどれでもない。
 俊和は道端で煙草に火を付けた。持ってきた煙草がいつのものかもわからなかった。
 火の薫り。それから甘味。喉を責める酸味と苦み。本を高速で捲る感覚。
 
『アメリカの飛行機はまだ坂田の上空まで飛んで来て、下にいる捕虜たちに食物を落としている。私はこれらの飛行機もここの露台から眺めたことがあるが、家を突きぬいて食物で圧死した捕虜もある。』
 これは僕の日記だ。俊和は思った。

『「微笑」は遺稿である。横光氏は、この最後の作品の「微笑」にも数学を取り入れたように、構想の計算や製図に努めたが、東洋風の象徴とも見られるような飛躍が一方からそれに独断を交えて、この二つが必ずしも充分協和せぬ折りふしもあった。「微笑」には、しかし、俳句も挿入されていてなつかしい。横光氏は俳句がずいぶん慰めになっていたようである。晩年の文には一種の俳文を思わせるものがある。』
 この書きぶりはきっと泰成に違いない。

『川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。』
 ああ、これは。

伸ばしに伸ばされた時間が戻ってくる。響き渡る靴音は自分のものだった。彼はなぜか泣いていた。目元を拭うと、彼は一軒の閉まっている商家の潜戸を開けて入った。薬屋であったが、店には店番も誰もいなかった。埃の被った店に無造作に斧が置いてある。
「ごめんください」
 暫くすると、紬の着物を着た七十がらみのひょろりとした主人が出てきた。俊和は歩き方、所作のひとつひとつが演技じみていて自然でないと思った。彼だけが世界でただひとり異邦人のように見えたのだった。印象的なのは大きな鋭い眼だ。一様に見開いてぎょろりと見つめてくる。しかしその眼はあまりにも見慣れていた。物事の本質を見きわめようとするからただ鋭くなるだけなのだ。当人は細やかな人情家であるというのに。一撃食らった感じで俊和は沈み込んだ。
「あなたなら来てくれると思っていました」
 撫でつけた白髪はどうしてか妖怪の大将を思わせた。俊和は彼の名を呼ぼうとして、しかし、口から出てこない。
「ヤスナリと呼んでください。カワバタでも構いませんよ」
「君は……」
 俊和は言いよどむ。引き継ぐようにカワバタはゆったりとした調子で言った。
「きっとあなたの知っている彼とは違うのでしょうね。私は西暦二三二四年に研究所で生まれました。過去を遡行する遡行経路を開く為、生み出された機械です。先の未来でも無機物以外を過去へ遡行させることはできませんでしたので」
「なんの為に?」
「私が機械だからでしょうか。私に目的はありませんが、任務はあります」
 眼差しの鋭さは老境に達してより鋭利になったように思えた。
「私の任務は過去に遡行できる技術を守護すること。それから未来の情報を伝達するための媒介を守ること。そしてさらに重要なのは、過去の人々に未来を教え、自発的に未来を、正確には敗戦を改編させること。何回目かの失敗の後、煙草を媒介にするのは名案でした。この時代はみんな吸っていましたし」
 彼の言い分を理解するには彼はあまりに無力だった。
「なぜ君が……?」
 白髪のカワバタは曖昧な笑みをもらした。
「この時代に思い入れのある人間の記憶。それが重力場の量子的性質と揺らぎを利用し、過去へ遡る唯一の手掛かりだったのかもしれません。重力場は真の実在ですが、世界は量子的です。宇宙を統べる方程式において過去と未来の違いはないのです。違うと感じるのは人間の近くにおいて過去が特殊に映るからにすぎません。過去の方がエントロピーが低く見えるだけなのです。私の外にも機械がいるのでしょうが、この時代では同じような存在には出会いませんでした。ひとつの時代に機械はひとつと制約があるのやもしれません」
「あの煙草は?」
 俊和はただ質問を繰り返す。自分の方がよほど機械のようであると彼は思った。カワバタは落ち着いた調子で答えた。
「人間の記憶、あるいは記録を高速度で学習するためのシステムが組み込まれた煙草と思って頂ければ。そうですね。葉っぱの中に混ぜ込んだ視認できぬほど小さい機械が肺に取り込まれるときに、その香りと味覚、煙を通じて未来の記憶と記録を見せるのです。さっき言ったでしょう。無機物は過去を遡行できると」
 カワバタは骨董品が時を駆け、未来にまで残るのであれば、未来から過去方向へ残ることも可能だと言った。起きている事件があまりにも面倒で、異様なため、かえって俊和に迫力を与えない。だが、何かが不味いということだけはわかった。
「しかし弊害があったのです」
「弊害? 改編に関してか?」
 ゆっくりと頷く仕草は親友のそれだった。
「改編を繰り返す度、改編された過去の人々は元の人物からどんどん遠ざかっていくのです。例えば公武君。強い影響を受けてしまいました。現実存在と創作上の人物が入り混じってしまったのです。本当に新しい武器を完成させてしまうとは。彼は文士のはずなのですが」
 俊和は彼の言っている言葉の意味がほとんどわからなかった。しかし、わからないにも関わらず、その声を聞いていると本心が目覚めるようだった。
「さらに悪いことに私という機械はあなたが三島君の代わりに『煙草』を執筆した時に脆弱性を露わにしたのです」
「脆弱性?」
 俊和の声は人間の声ではないように聞こえた。何者かの人間の中に混じっている声だった。カワバタは目を伏せた。
「過去を遡行する為に必要な私の記憶というものは、ふたつの真実に引き裂かれてしまいました。ひとつは過去を変え、あなたや三島君とずっと共にありたいという真実。そしてもうひとつは改変されたあなたではなく、元のあなたであって欲しい、それが死という悲劇をもたらすとしても、と願ってしまう真実。一方の真実は若かったころの私に煙草を届けさせ、もう一方はあなたに煙草を届けさせた。あなたほど素朴で美しい人を私は知りません。きっとあるがままを求めるだろうと思ったのです」
 俊和は無意識に、泣きどまったような靴音を鳴らし斧のある場所まで歩いた。
「煙草の効力は私の頭の中にある記憶と記録にリンクしています。人々から未来の記憶を消せます。それから遡行経路を塞ぐことも。どうしますか。利一」

戦争は終わった。
 彼は妻子に先立って縁あって北沢へ帰って来た。家は焼け落ちていなかったが、東京は辺り一面が変わってしまっていた。次の日曜日には甲斐へ行こう。そんな言葉が道行く人々の間から聞こえた。
 彼は立ち止まって暦を数える。昭和二十一年十二月十五日。もう冬である。疎開先の新聞で技術院総裁談として、新武器として殺人光線が開発されたが、開発者の一青年が行方をくらませた為、失敗に終わったという短文が掲載されていたのを思い出す。
「よくなってきましたか」
 戻って数日で、急に病気になった彼を鎌倉から友人が見舞にきた。
「ああ。『紋章』の印税助かったよ。戻ってすぐこれだから」
「しかし長らく北沢にいたようですね。細君はまだですか?」
「うん。まだだ。中山くんにも莫迦なことを云いなさいといわれたよ。それで結局、追いかけたんだからなおの事」
「それは彼が正しいですね。あんな折に夫婦親子が別々になることがありますか」
 客人はそれほど彼を咎めてはいなかった。それ以上に彼に向けられる罵倒、はなはだしいまでの批判を心配している気配があった。
「橋を支えているのは岩か木か」
「なんです?」
「いや。いづれにしても支えているのは事実で、時過ぎれば腐り落ちることは必然だ」
 彼は一瞬遠くを見た。そこは何もない虚空であった。彼は友人に向き直る。
「ところで発掘の名人。新たに良い人を見つけたんではないか?」
 友人が口を小さく開きながら言葉を探しているように見えた。慰めの言葉か、咤激励か。違うなと彼は思った。客人は目を伏せるとぼそぼそと語った。 
「面白い子が訪ねてきたのです。三島と名乗って。首が細く、皮膚がまっ白でした。大きな瞳が見ひらかれて、すこしぎょっとしていて」
 彼はくつくつと喉の奥を震わせた。
「あなたに目つきの事を言われたくないだろうね。川端。君のそのギョッとしたやうな表情じや」
 友人、川端康成は眼がしらを鼻に寄せて彼を見つめた。
「利一」
 そう呼ばれた彼、横光利一は川端の目を見つめ返した。互いの目にかなしさが浮かんでいるのがありありと浮かんでいた。
「かなしさを噛み、かなしさを支え、かなしさを通ろう。いかに時代の枠の中であっても思うがままに生きる。僕もそうだ。そして君も、彼も」
 ふと新聞が目に入った。ほのかに甘く華やかな香りとうたい文句が書かれてる。
 来月発売の国産煙草『ピース』
 利一は懐かしげにその銘柄を見つめた。

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