今井さんちの不可解な朝ごはん

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梗 概

今井さんちの不可解な朝ごはん

仕事を辞めた佐紀は古いこじんまりとした一軒家を買い、そこで一人暮らしを始めた。この家では、起きるとたまに枕元に青っぽい結晶が落ちていることがあった。どこからか剥がれてきたのか、天井や寝具を見ても、それらしきものは見当たらない。何かの部品かもしれないから保管しておこうと思った佐紀は靴箱の上にとりあえず置いていたのだか、ふと目を離したすきにそれは消えてしまっていた。そんなことが何度かあった頃、帰宅途中の中学生を見かけ、急に思い出した。この家は昔、少しの間だけ通っていた友人の家だった。
 佐紀は中学一年生の時、半年間ほど親戚のところに預けられたことがある。その間だけ通っていた中学校で今井さんと出会った。今井さんは成績優秀な優等生で、優しく明るいクラスの人気者だったが、月に何度も遅刻することでも目立っていた。なぜ遅刻するのかを尋ねると「うちは、朝ごはんだけは遅刻してでも絶対に食べて行けっていう家だから」と今井さんは答えた。生真面目な性格の佐紀には理解できなかったが、何となくうらやましく思ったのを覚えている。佐紀は一緒に住んでいる親戚が朝早く帰宅も遅いため、食べ物を用意してくれてはいるが基本各自で済ませている。朝にはパンが置かれているが、佐紀はあまり食べていなかった。それを知った今井さんが誘ってくれ、佐紀は登校前に今井さんの家に行くようになった。そこで朝ご飯をご馳走になり、そしてたまに一緒に遅刻した。
 今井さんは佐紀が来ているとき、「家に朝ご飯あげてくる」と言ってたまに席を離れることがあった。神棚にお供えでもしていたのだと思うが、その様子を実際に見たことはなかった。

なぜ今井さん一家はこの家からいなくなったのだろう。不意に玄関に置いた青い結晶が消えたことに思考がいった。この家は、中のものを食べてしまうのかもしれない。もちろん本気で思っていたわけではなかったけれど、今井さんと再会した時には、無事な姿に少しほっとした気持ちになった。話の流れで枕元の不思議な結晶の話をすると、今井さんは笑って「子供の頃って、自分の家しか知らないからさ。みんな家にご飯あげたりしないって知った時、びっくりしたなあ」と言う。今井さんもこの家に住んでいた頃は同じように結晶を生み出していて、両親に、家にとってはその結晶がご飯で、食べて成長すると宇宙船かタイムマシンになると言われていたらしい。佐紀も引き継いで、できた結晶は靴箱の上に置き、家に食べさせることにした。

久しぶりに家を見たいと、今井さんが泊まりに来ることになった。布団を並べてぽつりぽつりと話しながら眠る。明日の朝には、枕元に佐紀の結晶と今井さんの結晶が一緒に転がっているのだろうか。今井さんの言うように、この家が宇宙船になったりタイムマシンになったりするのなら、その時は当然、今井さんにも乗組員になってもらわなければ。

文字数:1183

内容に関するアピール

行き詰まった主人公が思い入れのある土地で人生をやり直そうとする、というわかりやすいストーリーにしました。
 主人公が、今井さんちが提供してくれる朝ご飯を食べていた → 今では主人公が今井さんの家にご飯を食べさせて育てている。という反転です。無理やりです。
 もし今井さんちに喋らせてもいいなら、人を食ったような性格にしたいです。
 宇宙船にしたい。

文字数:169

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今井さんちの不可解な朝ごはん

 
「傘をさしてみたら、自分がどれほどの雨に打たれていたのかがわかるよ」
 私のこの街での思い出は、ほとんどが今井さんのこの一言に集約されている。

四か月間だけというのが決まっていた。
 中学二年生の春、一人だけ違う制服で、佐紀はようやく見慣れてきた通学路を歩いていた。夏にはまた両親に呼び戻されることがわかっているのだ、当時の佐紀には、この地でつかの間の友人を作るつもりなんて、少しもなかった。
 霧のような細かい雨が降っている。
 制服が湿っていくのはわかっていた。でも、雨が降るからと出掛けにおばさんに持たされたのは鮮やかな黄緑色のやけに大きな傘で、それをさして歩くのは、もっと嫌だった。
 合羽を着た犬と若い男性が、すれ違いざま無遠慮に佐紀を見てくる。登校時間を過ぎて学校へと向かうこの足は、傘を持っているくせに雨に打たれている自分を、傘をさす時間を惜しむほど急いでいるということには、してくれそうもない。
「傘をさしてみたら――」
 凛とした声に振り返った。
 そのとき目に入った光景は、その一瞬で巡らせたあらゆる想定を超えていた。声をかけてきたのは、近所の大人や見回りの先生などではなかった。どうせすぐにいらなくなるからと、佐紀が着ないことにした制服。同じクラスの今井さんだ。
 今井さんはいわゆる優等生で、明るく優しいクラスの人気者といった印象の人物だ。たぶん学級委員とか、何かの会長とか、そういう役割もしているんじゃなかったか。だからこそ、こんな遅刻が確定している時刻に通学路で出くわす人間としては、いちばん不釣り合いな気がした。
「いや、さすほどでもないかなって」
 佐紀の返事が良く聞こえなかったのか、今井さんは表情を変えずに小首をかしげ、佐紀に近寄って来た。
「傘をさしてみたら、自分がどれほどの雨に打たれていたのかがわかるよ」
 今井さんは自分が濡れるのも構わず、佐紀の頭上に傘をかざした。周囲の音が遮断され、生地にあたる雨粒がパラパラと音を立てる。確かに、思っていたよりもしっかりと降っているようだった。
 今井さんに一つうなずきを返して、佐紀は黄緑色の傘を広げた。同じ雨でも、素材や角度の問題なのか、先ほどかざされた今井さんの傘とは聞こえる雨音が違う。生身で受けていた時には聞こえなかった雨音と、一人で歩いていた時にはなかった足音が奏でるリズムを聞きながら、二人並んで学校へと向かった。頭上に広げた傘は、なぜだか手に持っていた時よりも気にならなかった。
 それからも今井さんとは、通学途中の道で出会うことがあった。そんなに頻度が多いわけでもなかったが、一緒になった日には、なんとなく一緒に登校した。佐紀が必死に人目を気にしていないふりをしているのとは対照的に、今井さんの様子からは、遅刻することに対して、申し訳なさのような感情は読み取れても、負い目ややましさのようなものは一切感じ取れなかった。授業終わりの小テストで一番いい点数を取っていたり、放課後に先生の手伝いをしていたり、すすんで皆がやりたがらない役割についたり。そんな絵にかいたような善人であるかと思いきや、遅刻が多いという、一見不名誉なラベルも当たり前のように受け入れており、それでいてまったく悪びれない。いわゆる”できた人間”像に自らを当てはめようとするようなシンプルな人格ではないらしいと、そんな風に思っていた。
 
「今井さんって、なんでそんなに遅刻するの?」
 ある朝、通学路で一緒になった今井さんに尋ねてみたことがある。
「今日は間に合うよ、たぶん」
 今井さんが真面目くさって言う。
 うん、とだけ返した。答えたくないのなら別にいい。そんな私の引き癖を察したのか、今井さんはほんの少し笑い声を漏らした。
「うちはね、朝ごはんだけは遅刻してでも絶対! って家だから」
 本当に大変と、今井さんは芝居がかった溜息をつきながらも、どこか楽しそうに答えた。その決まりを守るために遅刻しているというのなら、優等生という”今井さん像”ともそんなに大きくかけ離れはしないかもしれない。いや、それならば普通は朝ご飯を食べても遅刻しないような時間に起床するようになるだろうか。今井さんちは、一体どんな朝ご飯で、どんな家庭なのだろう。
 何となく、うらやましいなと思った。自分を預けた家族。見知らぬ土地に、見知らぬ人々。親しくない人との共同生活。何か思うところがあるのだろうなと、他人事のように自分を観察している視点を、佐紀は自覚していた。
「もしよかったら、学校行く前にうちにきて、朝ご飯食べなよ」
 今井さんが不意に言った。冗談を言っている口調ではなかった。今井さんは今すぐ案内すると言って通学路を引き返し始めた。学校に行くのが遅くなると言って引き留めても、今井さんは今さらと鼻で笑うばかりだ。
「ここね、私の家。何時でも来ていいよ」
 行かなければ何時間でも待っていそうな強引さだった。明日の朝、無視して教室へ行き、今井さんがいない時間をそわそわと罪悪感にまみれながら過ごす自分の姿が容易に想像できてしまう。その日は何とか断った。それから何度か声をかけてくれたものの、とうとうお邪魔することなく、佐紀はこの街を離れることになった。

一度くらい行けばよかったと、佐紀は今でもたまに思い返すことがある。
 案内された今井さんの家はブロック塀に囲まれており、胸あたりまでの高さの飾り門が取り付けられていた。玄関ドアまで続く短い通路には小さな植木鉢が置かれ、花が植えられている。ハニワのような置物もあった気がする。チャイムを鳴らすと、インターフォンから今井さんの「上がって」という声がして、佐紀は小綺麗な玄関からお邪魔する。先に洗面所で手を洗いリビングに顔を出すと、今井さんと家族がこの世で一番大切なことを行っているというような厳かな顔つきで食卓につき、一挙手一投足に気を使いながらご飯を食べているのだ。佐紀も慌ててその輪に加わり、絶対に欠かしてはいけない今井さんちの朝ご飯を、したり顔で一緒に食べている。
 そんな想像をする。今井さんちの朝ご飯の真相は、佐紀が頑なに断ったせいで、わからずじまいだ。こういう想像をするときに決まって出てくる門や玄関が、記憶の通りなのかどうかも、もう自信がなかった。
 今ではもう、当時を思い出した光景も、まったくの空想も、一切の区別がつかない。

そんなことを思いながら、佐紀は見覚えがないと言い切ってしまえるほど記憶に遠い家々を眺めつつ、かつての通学路を歩いていた。佐紀を預かってくれた親戚は、もうこの土地を離れている。予定通り両親に呼び戻され再び転校して以来、この街を訪れるのは初めてのことだった。
 右手に、見覚えのある古い市営アパートが見えてきた。もう人が住んでいないらしく、一階部分の窓や小さな勝手口には、すべてベニヤ板が打ちつけてある。その向かいにあった小規模な森のような区画は、かなり伐採されて見晴らしが良くなり、一部はアスファルトの駐車場になっていた。
 今井さんの家が、この辺りのはずだった。
 別に探しに来たつもりはなかった。ただ仕事をやめて時間が出来たから、気分を変えてぶらぶらしようと選んだ街なのだった。そんな言い訳を胸中に繰り返す心情を知ってか知らずか、佐紀の目だか脳だかは、しっかりと今井さんちらしき家を視認した。
 塗装や軽微な装飾は変わっていたものの、ドアの郵便受けの下に置いてあった謎のハニワだとか、ブロック塀の笑顔に見える亀裂だとか、記憶にあるものばかりが目に付いて懐かしい。思わず足を止め、まじまじと見入ってしまう。
「もしかして、佐紀ちゃん?」
 女性の声がした。
 振り返るよりも前に、出来過ぎていると、笑いだしそうになった。でも本当は、今起こったことをこそ期待して、この地へやって来たのではなかったか。
 泣きたいような笑いたいような、自分でも説明のつかない緩みを自覚して、切り替えるように顔を引き締めてから振り返った。そこに立っていた今井さんは、驚くほど変わっていなかった。
「久しぶり。佐紀ちゃん変わってないね、すぐわかったよ」
 そう言うと今井さんは、にこりと笑った。落ち着いた茶色のロングスカートには不釣り合いな、黄緑色のエコバックを腕にかけている。
「もしかして、会いに来てくれた? ちょうどよかった、今日が婆ちゃんちに顔出す日で」
「お婆ちゃんち?」
「あの、佐紀ちゃんが転校してったあとね、近いんだけど駅の方、川を渡ったところにお父さんと再婚相手が家を買ったから、私もそっちに引っ越したんだ。だから、ここにはお婆ちゃんだけが住んでいたの。つい最近お婆ちゃんも引っ越したから、今は空き家なんだけどね」
 もしかして、何度か来てくれた? と眉尻を下げて今井さんが首をかしげるものだから、佐紀は慌てて首を振った。
「ううん、転校して以来初めて。最近仕事やめたからさ、なんとなく心機一転したくて。懐かしい場所をフラフラしてただけ」
 今井さんが軽く目を見開いた。勢いで、言うつもりのないことまで言ってしまった。気を使った言葉が出てきたりしたら少し、いやかなり嫌だなと思っていたのだが、そんな心配を知ってか知らずか、今井さんはニンマリとした笑みをこちらに向けてきた。
「じゃあさ、ここに住まない?」
「え?」
「お婆ちゃんの体が悪くなってね、つい先日から一緒に暮らすことになったんだけど、こっちの家をそのままにはできないからさ。誰か信頼できる良い人に貸すか、私が住もうかなと思ってたところだったんだ。佐紀ちゃんだったら、いちばん適任だよ」

メッセージアプリを開き、その場で送り合ったスタンプだけの履歴をことあるごとに眺めながら、佐紀はもう数週間も悩んでいた。もう遅いかも知れないけど。そんな断りを先に送ったメッセージは、本題に入る前に既読状態となった。あれよあれよという間に話が進み、気が付けば入居日が決定している。
 家具付きの賃貸に住んでいたため新しく買い揃える時間が必要だと訴えたのだけれど、全部そろっているから身一つでいいと押し切られ、佐紀は衣類と本と日用品という本当に最低限の荷物だけを業者のトラックで運んでもらい、自分は最寄りの駅へ迎えに来てくれた今井さんの運転する車で今井さんの家へと運んでもらっている。
「よかった、連絡くれて。引っ越しを考えてるならと思って勢いでオススメしちゃったからさ、迷惑だったかなって思ってて。普通にご飯とか誘えばよかったなって後悔してたんだ」
 今井さんが朗らかに笑った。こういうときに、何の気負いもなく自分の気持ちを言語化できる人なのだ。
「もう入居する人が決まっちゃってるかなと思った」
「佐紀ちゃんの返事待ちだったし、そんなことしないよ」
 今井さんがさらりと言う。きっと今井さんとしては、当日か翌日には何らかのアクションがあるものと踏んでいたに違いない。それなのに何週間も放っておかれて、それでもいつか佐紀が返事を寄越すだろうと催促もせず待っていられるその心理状態は何なのだろう。信頼というには、今井さんと佐紀との関係はあまりにも浅すぎる気がする。佐紀が返事を送信しなければ、いつまででも待っていたのだろうか。初めて朝食を食べにおいでと言われたときにも似たようなことがあったなと思い出した。今井さんという人は、きっと生まれてこの方、ずっとこういう人なのだ。
 家の中へ持参した荷物を運び終えるのと同時に、引っ越し業者のトラックも到着した。ものの十分ほどで、少ない段ボールはすべて運び込まれてしまう。
 今井さんが台所用品の整理をしてくれているあいだ、佐紀はすぐ使う物を入れた段ボールをより分けながら家の中を見て回った。人が住んでいない家とは思えなかった。テーブルや椅子といった家具はもちろん、電化製品も、玄関マットも、室内用の物干しまでも、清潔なものが用意されている。
「え……わざわざ買って設置してくれたわけじゃないよね?」
 佐紀のつぶやきは、台所でしゃがんで作業していた今井さんには届かなかったらしい。
「たまにご飯を作りに来てたから、基本的な機能はあるはず。電気も水道もインターネットもそのままだから、使えるよ」
 今井さんが言う。わざわざこちらに料理をしに来るほど愛着のある家なのだなと思った。想像以上に、責任重大な役割を買って出てしまったのかもしれない。そんな佐紀の心情を察知したわけでもないだろうが、今井さんは緩く首を振った。
「まあ気軽に、とりあえずお試しでひと月くらい住んでみてよ。嫌だったら全然、いつでも引っ越して構わないから」
 あ、ひとつだけ。今井さんは途端に声を低め、佐紀の顔を覗き込む。
「朝ご飯だけは、絶対だからね」
 今井さんが悪戯っぽく笑った。一緒にひと気のない通学路を歩いたあの日々が思い出されて、胸が温かくなる。
 まさかこれが、本当に言葉通りの意味だったとは、この時には思いもしなかった。

去り際、確かに言われてはいたのだ。台所の棚のひと区画、観音開きの扉のついたスペース。扉とはいっても、本来ならガラスでもはめ込まれているだろう場所には何もなく、塗料の塗られた木枠だけが模様を描いている。外気を遮断するような構造にはなっていない。他の棚はぎっしりと使われているのに、その扉の中だけは空っぽで、そこには、家にあげるご飯を入れるようにとのことだった。何か宗教的な意味合いがあるのかと、神棚のあるような家にも住んだことのない佐紀は思わず身構えてしまったが、今井さんは「何が欲しいかは家が伝えてくるからそんなに気にしなくていいよ」と、余計に気になることを言い残して帰ってしまった。
 その日は疲れてそのまま寝てしまった。翌朝は天気が良かった。慣れない位置からの太陽光は、佐紀の目を暴力的に覚まさせた。お腹が空いているせいもあったかも知れない。
 台所に向かうと、綺麗に整理整頓されていた。食器棚には、佐紀の持参したお皿はもちろん、それ以外の食器も大量に入れてある。お婆さん一人で住んでいたとは思えないほどの量だ。調理器具も、ハンドミキサーやフライヤーなんていう、佐紀が使ったことのないものまで完備されていた。電子レンジとは別に、グリルやオーブンもあるらしい。
 冷蔵庫をあけると、今井さんが入れてくれたのか食材が入っていた。卵に牛肉、豚肉、にんじん、大根、玉ねぎ、ベーコン――。どれも新鮮だった。気を利かせて、なんていうレベルではない。訝しく思いながらも、佐紀はとりあえず野菜を取ろうとカレーを作って食べた。これなら晩ごはんも、何なら明日の朝ご飯だってこれでいい。ご飯は多めに炊いた。食器はなんとなく、自分の持ってきたものを使おうかな。食器棚を振り返った時、例の観音開きの扉が目に入った。――カレーライスとか、あげてもいいんだろうか。違和感はある。でも今、献上できるご飯といえば、これしかなかった。どれくらい食べるんだろう。とりあえず、仏様に盛るご飯をイメージして小皿にカレーライスを作った。棚に入れ、扉を閉めて置く。果たしてこれでいいんだろうかと思いつつ、自分の分を持ってリビングへ移った。
 あの棚にはどれくらい置いておくものなのだろう。翌朝、次の朝ご飯と取り換える感じなのだろうか。今はまだいいけれど、夏場に放置しておいてカビが生えたり虫が湧いたりすることなんて、考えたくもない。
 何だか落ち着かない食事となってしまった。食器を下げ、手早く洗って水きりに置いておく。やっぱりもう、家にあげたご飯も片付けてしまおう。そう思って棚を振り返ると、そこには、カラになった皿が鎮座していた。
「食べるって、ほんとに……?」
 手が震えている。そこに何かがいるような気がして、扉に手を伸ばすことができない。いったん、台所から離れることにした。リビングで台所の棚を見据えながら、スマートフォンで検索する。佐紀が知らないだけで、家の神様とかなんとかはご飯を食べるものなのかも知れない。自分が混乱していることは理解していた。当然のことながら、有益な情報は手に入らない。
 佐紀は唐突に、今井さんの言っていた「家が欲しいものを伝えてくる」というのも、本当なのかもしれないと思った。どうやって伝えてくるんだろう。佐紀の夢に出てきたりするんだろうか。今朝カレーを作ろうと思ったのは佐紀の意志ではなく、今井さんちに操られていただけの可能性がある。
 じゃあもしかしたら、足りなかったかもしれない。佐紀はそんなことを考え始めていた。朝っぱらからカレーが食べたいなんて考える人間が、あれっぽっちで満足できるはずがないのだ。あきらかに、人間ではないのだろうけれど。
 佐紀は台所に戻った。とりあえずカレーを温め直し、もっと大きな皿に盛る。おそるおそる観音開きの扉に手をかけると、何ということもなく開いた。カラになった小皿を取り出し、もう一度よそったカレーを中に入れる。しばらくその場で観察していたが、変化する様子はない。
「なんだ。気を利かすんじゃなかった」
 もしかしたら聞いているかもしれない存在に向けて、佐紀はため息をついてみせた。小皿を洗い、水きりに置く。カレーはラップしてお昼に食べることにしよう。洗い場の下の引き出しからラップを取り出して棚を振り返った。
「いや、うん……食べるの速すぎ」
 お皿はものの見事にカラになっていた。佐紀は自分の中で困惑と恐怖が消えていくのを実感していた。我ながら剛胆だとは思ったが、作ったものを残さず食べられるのは、まあ嫌な気はしない。
 その日は一日中、のんびりと荷ほどきをして過ごした。あの消える棚にパンやお菓子を入れて食べさせてみたいという衝動にも駆られたが、いざ食べられてしまうと自分の分がなくなってしまうから、試すことはしなかった。

翌朝も、昨日の反省を込めてきっちりと閉めて寝たはずのカーテンの隙間から注がれる、刺すような日の光で目が覚めた。布団をかぶって二度寝をしようにも上手くいかない。今日はベッドの位置を変えようかなと思いながら、体を起こした。寝ぼけた頭で台所へ向かい、水をあおる。冷蔵庫には相変わらず謎に充実した食材が入っていたが、さすがにそろそろ外出したいような気がする。佐紀は昨日の残りのカレーを食べて、家にもカレーをよそってやり、身支度をして家を出ることにした。
 久しぶりに化粧をした。佐紀の家にはなかった、玄関の大きな姿見で全身を確認する。スマートフォンで、歩いて行ける範囲にスーパーマーケットと大きなショッピングモールがあることを確認し、財布や鍵を持っていることを確かめてから、佐紀は靴を履いた。
「いってきまーす」
 小声でつぶやいたのは、ここは人の家なのだという意識があったからだ。一人暮らしの自宅で「いってきます」や「ただいま」の挨拶をするという習慣を持たなかった佐紀は、何だか自分とは違う人格を演じているようで、少しだけ気恥ずかしかった。それを隠すように、少し乱暴な手つきでドアの取っ手に手をかける。カチ、と何かが妨げられる音がした。鍵を開けていなかったらしい。何をやっているんだろうと苦笑しながら摘まみを回そうとするが、どれだけ力を入れても一向に向きを変えようとはしなかった。
「壊れた……?」
 慌てて室内に戻り、こじんまりとした庭の物干しスペースに出られる大きな窓に駆け寄った。体中が心臓になってしまったのではないかと思うほど大きな鼓動を感じながら、窓を開ける。普通に出ることができ、ほっとしたと同時に、自分の馬鹿らしい考えが笑えてくる。家に閉じ込められたなんて、そんなこと、あるはずがないのに。
 安心したからか、窓を閉めもう一度玄関に向かおうとした時、リビングの食卓の上に何かが置いてあるのが目に入った。それは先ほど家にあげたカレーだった。ご丁寧に、佐紀がいつも座る位置に置かれている。お前が食べろと言わんばかりだ。
「なに、昨日の残りじゃ気に食わないってこと?」
 佐紀は足音を立てながら台所へ向かった。綺麗に片づけたはずの調理台に、見覚えのない豚肉のブロックが置かれている。どう料理するのか見当もつかないから、絶対に自分が選んで買ったものでないことは確かだったし、さあ出かけようというときに、肉を冷蔵庫から出しておくというようなことも絶対に考えられない。
「これを使えってこと? 使ったことないけど、適当でいいよね」
 自分に言い聞かせるように言葉に出した。もしかしたら聞いているかもしれない家に向かって、納得できないけど受け入れたぞというアピールをするためであったかもしれない。
 とりあえず、思うままに切って肉野菜炒めにした。案の定、扉の中に入れたはずのそれはリビングのテーブルへ出され、すっかり冷めたカレーの横に並んでいる。
「不満か……」
 やはり、気に入らないものの時には佐紀に食べさせるべく食卓へ放り出すらしい。
「いらないものは突き返してくるなんてさ、何かほんとドライだよね」
 佐紀が呟くと、リビングの端に置かれている加湿器が作動し始めた。
「いや、乾燥してるって意味じゃないんだけど」
 ジョークにしては気が利いている。佐紀は少し気を取り直して、ブロック肉を使うレシピを検索し始めた。
「材料を出して教えてくれるのはまあある意味ありがたいけど、これじゃクイズじゃん。リクエストあるなら、レシピくらいそっちで調べて教えてくれてもいいのに」
 そう言いながらタブレットを持ってキッチンへ入ると、佐紀の言い分に納得したのか、譲歩する意思を見せているつもりなのか、画面にはパッと角煮のレシピが表示された。
「作ったことないってばこんなの! なに、三時間も煮るの? 今から?」
 実際には、下茹でに三時間かかるということだった。弱火で三十分間煮て、三十分蒸らして、また三十分煮て……。朝からこんなことをしていたのでは、どれだけ早起きしようとも、今井さんが遅刻せずに学校へ来ることなど出来るはずがない。十数年越しに、今井さんが身にまとっていた当時のちぐはぐさを、わが身をもって実感した瞬間だった。
 出かけるために厚めにはたいたファンデーションは、ゆで汁の湯気に溶かされて、ほとんど消えてしまっていた。ブラウスも、おろしたてのロングスカートも何だか水気を吸って重くなったように感じる。今日はもう、出かける気分でもなくなっていた。
 
「そうそう、家が朝ご飯に満足しないと、鍵を開けてくれないんだよ」
 豚ブロックを煮ていると報告した佐紀からの電話で駆けつけた今井さんは、さすがに後ろめたいのか、黙っていてごめんねとバツの悪そうな顔をした。
「いや、本当に。家にご飯をあげるっていうのも、家がご飯を本当に食べるなんて意味だと思ってなかったから」
「そうだよねえ、ほんとごめん。でも私は逆でさ、物心ついたときにはこの家にいたから。お婆ちゃんは足が悪かったし、私が料理することも多くて、自然と受け入れてたんだよね。だから佐紀ちゃんも、いや佐紀ちゃんなら、大丈夫なんじゃないかなって思って」
 今井さんは笑って言う。
「わたしならって意味はわからないけど。まあ、簡単に他人に貸せない家だって理由はよくわかったよ」
「でしょ。子供の頃って、自分の家しか知らないからさ。今の新しい家に引っ越して、みんなは家にご飯あげたりしないんだって知った時、びっくりしたなあ」
「お婆ちゃんとか親とかは? 不思議なことだって認識なかったのかな」
「お父さんは単身赴任ばっかりだったから、この家のことはほとんど知らないんだよ。この家って、お婆ちゃんが晩年に建てたものでね。おじいちゃんが死んでから、お父さんと私が移り住んできた感じだから」
 婆ちゃんはそうだなあ、何か知ってるのかも。今井さんは、ふふと笑い声をもらした。

小一時間ほど話をして今井さんが帰った後、ようやく下茹でが完了した。レシピにあった通り、味付けの時にゆで卵も一緒に煮ている。あと三十分煮込んで三十分寝かせれば完成だ。
「これで嫌ならもう自分で作ってよ」
 ぼやいた言葉には何の返答もなかった。
 すべての工程を終え、ようやくできた角煮を大皿によそい、扉の中へ入れた。残りはタッパーに詰めておく。残り物をさらうようでいい気はしないが、自分はテーブルに出されたカレーと野菜炒めを温め直して食べることにした。
 いちおう角煮は、佐紀が食事しているテーブルにはあらわれてこない。ようやく満足したかと一息ついて台所へ戻ってくると、そこには先ほどまでは絶対なかった、食洗器が鎮座していた。透明なのぞき窓に水しぶきがかかっている。中に入っているのは、先ほど角煮を入れた皿のようだった。
「え? なに?」
 佐紀が観音開きの扉を開けると、そこには皿すらなかった。その食洗器で洗われているのは、確かに家に献上した角煮を入れた皿に違いない。
「ええ……やるじゃん……」
 さすがに感動や感謝よりも困惑が勝ってしまったが、なんとか褒め言葉を絞り出した。角煮のお礼とでも思っておけばいいのだろうか。
 それからも、特別気に入ったものを食べ満足した時には、皿が食洗器にかけられているようになった。家からのお礼らしきものはその後もたまにあらわれ、いつの間にか浴槽に追い炊き機能が追加されていたり、リビングの床をルンバが走り回っていたりと、だんだんと室内に最新家電が充実していった。
 もちろん、そのお礼が現れる前に応えなければならない家からのリクエストも、日に日に勢いを増していた。一品だけなんて可愛いもので、手のかかる料理を二品も三品もねだってくる日もある。手早くできるものなら、四品五品は当たり前だ。おまけに少しでも失敗したり、出来あいのものを提供したりすると、決まってお前が食えと言わんばかりに、テーブルに並べてくるのだ。

その日は特にひどかった。食卓にはすでに、統一感のない料理がところ狭しと並んでいる。味噌汁の隣にピザがあったり、てんぷらがあったり。ムニエル、牛すじ煮込み、メンチカツ。うどん、パン、パスタ。さすがに一人では処理しきれない。今井さんに持って行ってもいいかと連絡すると、食べに来ると言ってくれた。
「学生の頃は、まさか佐紀ちゃんからこんな連絡もらえるようになるとは思わなかったから、嬉しいよ」
 今井さんが少し底の焦げたピザを食べながらにこにこと笑う。確かに、学生の頃どころか少し前の自分なら、遠慮して連絡しなかったかもしれない。冷凍したり、無理をして食べ切ったり、食べきれなく処分したりしていただろう。きっと、この家の図々しさに感化されてしまったのだ。自分が遠慮しないことで人にも遠慮させないという効果が、この家にはある。それは学生時代の今井さんを思い返しても、今の今井さんの姿を見ても、そう思う。そしてそれを、素敵なことだとも思う。
「今井さんちの朝ご飯のおかげだね」
 佐紀がそう言うと、今井さんはにっこりと笑った。
「うん。でもさすがに、こんなにたくさん作り直させられたりしなかったけどなあ」
「悪かったね、料理下手で」
 佐紀がじとりと目を細めると、今井さんが慌てたように首を振った。
「ちがうちがう、そういう意味じゃない! おいしいよ!」
 二人で笑いながら食べ進めた。しかし二人が多少無理をしたところで、到底食べきれる量ではない。
「でも本当に、今までこんなことなかったのに。佐紀ちゃんがいっぱい作ってくれるからかな?」
「え、だって、食べさせないといけないんでしょ?」
「そりゃ朝ご飯が気に入らなきゃ鍵を開けてくれないけどさ、私はお婆ちゃんがいたから交代してもらうこともあったし、なんなら窓から出かけちゃうこともあったよ」
 意外と大胆だ。佐紀は、窓から出かける制服姿の今井さんを想像しておかしく思っていたが、今井さんは別のものを想像していたらしい。
「佐紀ちゃんが座ってる位置にね、お婆ちゃんも座ってたんだ。懐かしい。こうやって斜めに向かい合っていつも朝ご飯食べてた。家はお婆ちゃんの好みをわかってるみたいでさ、ご飯を食卓に吐き出すとき、お婆ちゃんの好きなものはお婆ちゃんのほうに出すくせに、他のものは私の方にやってきたり」
 今井さんが優しい顔つきで台所を眺めている。
「もしかして、家も寂しいのかな、お婆ちゃんがいなくなって」
 寂しいから駄々をこねているにしては、随分とふてぶてしい。
「こんなこと言われるの嫌かもしれないんだけどさ」
 今井さんはなぜだか少し照れたように笑った。
「佐紀ちゃんって、うちのお婆ちゃんにちょっと似てる」
 確かに嬉しくはない。嬉しくはないが、嬉しくないとも言いづらい。
「なんていうか、わかっててそれを言わない感じ。それって、受け入れてくれてるのと同じだと思うから。だから佐紀ちゃんにお願いしたんだよ。佐紀ちゃんなら、絶対に家を受け入れてくれると思ったから。家のほうも、佐紀ちゃんなら気に入るんじゃないかなって思って」
 中学生の時からそう思ってたと、外観からは想像できないほど近代的になった内装を眺めながら、今井さんは少し寂しそうに微笑んだ。

大暴走して満足したのか、はたまた今井さんが来てくれたからだろうか、家はようやくリクエストを止め、素直に今井さんを玄関から見送った。佐紀がリビングに帰って来ると、何やら見慣れないものが増えている。
「何これ、でっか」
 モニターだった。それも一つではない。大きなモニターが二枚、前面に並べてつけられているかと思えば、それより少し小さいものがその下や右にあり、さらに小さいものも手元にくるようにいくつも並んでいる。どう考えたって、家電には見えない。映画とかアニメとかで見たことのある、操縦席だとか管制室みたいな言葉が良く似合うような、どっしりとした設備に見えた。
「もしかして、空とか飛びたいの? それとも海に出たい?」
 家はモニターを光らせた。たぶん意味はないだろう。
「いや、これは宇宙船という可能性もあるか」
 家だって、とこかへ行きたいこともあるだろう。家が行きたがるとしたらどこなのだろうか。どこかの星には、この家が人間のように意志を持って動き回る地域があったりするのだろうか。私がこの家なら、と佐紀は考えた。この状況は、家族に置いていかれたと思ってしまうかもしれない。
「お婆ちゃんが移ったほうの今井さんちに行きたい?」
 そういうわけでもないか。だってあちらには、自分の知らない家族がいて、自分の知らない今井さんがいるのだ。
「もしかして、お婆ちゃんと暮らしてた時間に戻りたいの?」
 自分で言っておきながら、なるほど、そういう気持ちはわかる気がするなどと思った。
「私も今あの時代に戻ったら、今井さんちの朝ご飯食べに行くことにしようとか考えたりする」
 佐紀は食卓の椅子の向きを変え、今しがたこの家にできたばかりの運転席に座った。
「どうしよ、タイムとか、食べてみる? そんなオシャレな草を使う料理、作ったことないけど」
 こちらの洒落が通じなかったらしい。家は手元のモニターのひとつに、タイムを使ったレシピを表示させた。
「うそ、冗談だよ。ハーブのタイムは、時間のタイムとは関係ないって有名なんだから」
 佐紀は適当にモニターを触ってみた。鮮やかな水色のライトが付いて、ますますそれっぽくなる。
「じゃあとりあえずさ、宇宙を目指せば? よくあるじゃん、重力の重い星にいたら時間が経つのが遅くなって、帰って来る頃には皆いなくなってた、みたいな話は……。いい例じゃなかったね」
 佐紀はなぐさめるようにモニターに軽くふれた。
「過去に行くのは無理な気がするなあ。未来に行くのは何か、できそうな気がするんだけどね」
 大袈裟なことをしなくても、目をつぶるだけで数秒後の未来には行ける。このまま眠ってしまえば、いや眠らなくったって、明日に行くこともできる。
「まあ、行けないもんはしょうがないじゃん。諦めてさ、未来にいこうよ。明日、今井さんにお願いしてお婆ちゃんを招待するからさ。みんなで一緒にご飯食べよう。お婆ちゃんがそのテレビの見やすい席でさ、今井さんがその斜め前でしょ。私はお婆ちゃんの横かなあ。もう制服じゃあないけど」
 佐紀は眠気におそわれ、机に頬杖を付きそこへ身を預けた。目をつぶった時そこに立ち上がる光景は、過去の記憶も、未来の空想も、一切の区別がない。それを見ながら、私たちは明日へ行くほかないのだ。

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