檸檬

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梗 概

檸檬

みんなと同じようにできないのは、私がペビリルプア星人だからだ。授業中はじっとできないし、宿題はいつも忘れる。リコーダーのレの音がいつまでも裏返る。
 ある日男子が度のきつい眼鏡をかけた三上さんを宇宙人だと言って泣かしていた。ペビリルプア星人の存在は秘密だ。私はその男子をランドセルで殴った。男子の歯が折れた。学校に呼ばれたママはその男子と母親に何度も謝り、家に帰るとお祈りしながら私を何度も殴った。
 その日をきっかけに私は三上さんと仲良くなった。私は私がペビリルプア星人であることを打ち明け、三上さんは宇宙人との通信装置を学校の裏庭の檸檬の木の下に埋めたと言った。ばれないよう私たちは夏休みのうちに学校に忍び込んで、檸檬の木の下を掘り返す約束をした。けれど夏休みに入ると私はのところに連れて行かれ、宇宙人には会えなかった。
 私は夏を先生のところで過ごした。先生は私に悪魔が憑りついていると言った。私はママと先生と一緒にお祈りをし、治療を受けた。私は先生とママとに祝福された。
 夏休みが終わると、三上さんは転校していなくなり、檸檬の木は台風で折れていた。私はじっと座って授業を訊き、宿題を忘れなかった。リコーダーの運指も間違えず、ママが私を殴ることもなかった。
 私はもうペビリルプア星人ではなかった。

二〇年と少しが経ち、私は先生が紹介してくれた男と結婚して娘を産んだ。郊外にマイホームを買い、相変わらずお祈りを欠かさない母も一緒に正しく幸せに暮らしている。
 小学校の同窓会で、私は三上という女に話しかけられた。私は何一つ覚えていなかった。彼女は結婚も出産もまだのようで、私は彼女が可哀想になった。
 数日後、私と娘は三上に誘われて、フードコートで食事をした。帰り道、娘が「ペビリルプア」と呟いていた。三上が教えた魔法の呪文らしい。意味は分からないのに不安になった。

寝込んだ私の家に、いつの間にか三上がいた。三上曰く、本当の私はペビリルプア星人で、小学生のときに私の頭は壊れされてしまったらしい。ずっと元に戻す方法を探していたという三上を狂っていると私は思った。
「ペビリルプア」
 通信装置だという錆びたシャワーヘッドを掲げた三上は窓に向かって呪文を繰り返す。娘の声が重なる。私も朦朧とした頭で繰り返す。ペビリルプア。ペビリルプア。徐々に気持ちよくなってくる。涙が出る。騒ぎを聞きつけた母が発狂する。私は母を殴って静かにさせる。三上が服を脱ぎ、バルコニーへ飛び出す。娘と私も続く。いつの間にか帰っていた夫が私たちを見て狼狽えている。空に大きな影が落ち、巨大な紡錘形レモンが降りてくる。
 空には無数の紡錘形が浮かんでいる。放たれた黄金の熱線が、祭りのように騒がしく街を焼いていく。家の屋根が吹き飛び、夫と母が消し飛ぶ。ペビリルプア。ペビリルプア。私は娘を抱きしめて祈る。娘は鮮やかな空に目を輝かせている。

文字数:1215

内容に関するアピール

税金の督促状や画面の割れたiPhone、捨て忘れ続けた吸い殻に溢れた灰皿が、この正しい社会のなかでお前はいびつな異物なんだと囁いてくるような気がしてなりません。

そんなままならなさを、不気味さと疾走感ある物語としてかたちにしたいと思います。
この物語が私と誰かにとっての、錆びたシャワーヘッドでありますように。

檸檬 lemon:(アメリカ英語のスラングで)欠陥品、不完全なもの

文字数:185

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悪事

誰もいない教室の窓から、曇天を横切っていく一羽の名前も知らない鳥を眺めていた。カーテンレールには、ハンガーで吊るされたブレザーとブラウスが揉まれるように風に揺れていた。
 押し寄せる、あるいは湧き出す感情が私の両肩にのしかかっていた。
「浮かない顔してんね」
 声と一緒に、うなじに冷たくて固いものが触れた。驚きで飛び退きながら振り返れば、高校生の私がミルクティーの白い缶を片手に笑っていた。
 カラコンを入れた私の黒い目に、なつめが映っているのが見える。懐かしかった。けれど同時に痛かった。棗がジャージ姿なのは、トイレで水を掛けられたからで、足元が来賓用のスリッパなのは、カッターで切られた上履きが履けなくなったからであることを、私はすぐに思い出す。
「……何するんですか」
 不満そうに言ったのは棗で、私を睨んだのは棗か、それとも私自身か。どうしてもっとちゃんと気づいてやらないんだと、棗のなかで叫ぶ私の声は、目の前の私には届かない。
 ベリーショートの黒髪に切れ長の目が控えめに言っても怖い印象のある当時の私は、棗に向かって缶を投げた。どんくさい棗は上手く取れなくて、手のひらの上で二回お手玉したあと缶を床に落とした。
「バイトまで暇なの。どうせ塾まで暇でしょ?」
 本当は棗に会いたくて学校中を探しまわった。もちろん棗はそんなことに気づくはずもない。
 私は缶を拾って今度はちゃんと手渡した。二度慌てたせいでずれた眼鏡の位置を直しながら、棗はそれを受け取った。缶の底は少しだけへこんでいた。
「決めつけないでください。暇ですけど」
「ほらやっぱり」
 なんでこの人、私のことをかまうんだろう。
 というのは声にはされず、棗が思っただけの言葉だった。もちろん私はその答えを知っていて、だけどもう棗に伝える方法はどこにもない。
 目の前の私は棗のすぐそばの机の上に腰かけた。座んなよ、と伸ばした足先に椅子を引っかけて手繰る。椅子に座ると初めて、私のあごと首のあいだあたりにあるひっかき傷が目に入り。まだ傷は乾いておらず、薄っすらと赤い血の線が浮いていた。
「また喧嘩……」
「ああ、うん。矢沢たち、ムカつく顔してたからやっつけといた。さすがに懲りただろうし、これでしばらく静かにしてるでしょ」
「……また停学になっちゃいますよ」
「いいじゃん、停学。学校休めてバイトできるしラッキー」
「出席日数足りなくなったら、進学とか、卒業とかできなくなっちゃうんですよ」
「まあそれはそうなったらそのときじゃん?」
「わたしは本気で心配してるんですよ⁉」
「へぇ~、本気で心配してくれるんだ?」
 にたりと笑う私が棗を覗き込んだ。棗は顔を背けた。棗の脈がいつもより少し速いのは、滅多に張らない声を張ったからではないことも今なら分かる。
「……ありがとう」
「何で棗がありがとうなのよ。私は、おかしいと思ったら放っておけない性分なんだよ」
 私は笑っていた。相変わらずてきとうな奴だなと、我ながら呆れる。そして、どうしてそのてきとうさで、最後まで棗に手を差し伸べ続けてやれなかったのかと私は私を責めている。
「強くて羨ましいです」
 強くなんかない。けれど目の前の私は鈍感で、浅はかな笑顔を浮かべていた。
「昔、ちょっとだけ空手やってたからねぇ。人を殴るのが唯一の特技なの」
「そういう意味じゃないですよ、気持ちの強さみたいな話で」
 少し前から棗は、自分を変えたいと強く思うようになっていた。そして夏、ずっと土のなかで丸まっていた幼虫が、とうとう羽化して羽ばたくように、変わり始めていた。
「そんなの簡単じゃん。ほんの少しだけ歯を食いしばって、踏み出してみるだけだよ。やられた分だけやり返す権利があるんだから、それを我が物顔で使ったらいいんじゃん」
 無責任な過去の私は笑みを向けた。棗は真っ直ぐ私を見ていた。
 無邪気で無謀な青春じみた一ページ。私はどうしようもなく愚かだった。

追憶用ヘッドギア〈レミス〉を外すと、私は三畳くらいの狭い個室でフェイクレザーのシートに腰かけていた。四方は照明が取り付けられた灰色の壁に囲まれていて、天井からはレミスと繋がる黒いアームが伸びている。いつも通り、無味乾燥な思蔵館しぞうかんの閲覧室だ。
 私は頬を濡らす水滴を指のはらで伸ばし、コートを着て閲覧室を出た。廊下には壁にもたれて泣き崩れている男がいて、私は足早に彼の前を通り過ぎた。
 受付でカードキーと引き換えにハンドバッグを受け取って、化粧室で崩れたメイクを最低限だけ整えた。受付前の待合スペースのベンチは老若男女を問わない人で埋まっていた。表情や様子も千差万別で、頑強な身体で談笑しているジャージ姿のグループがいれば、土気色の顔で俯く男がいて、スーツ姿で腕を組んでいる女がいた。けれどどの人たちもみんな、さまざまな理由で今を生き伸びるために過去を必要としていた。もちろん私もそのうちの一人だった。
 頭蓋骨に埋め込まれて脳と連動するIDインプラント・デバイスが一般化して、生活は大きく変わった。特に、アプリの名前をそのまま用いて〈スプリング〉と呼ばれる記憶データは裁判やリハビリ、スポーツ選手のイメージトレーニングなど幅広い分野で活用されている。
 公営の思蔵館でできるダイブも、IDとスプリングが生んだ最も身近な変化と恩恵の一つだ。そこでのみ貸し出されるレミスを使えば、私が棗の記憶にダイブしていたように、自分以外の誰かの記憶すら追体験できる。
 けれど所詮は追体験で、感じられる感情はよくできた模造品でしかない。たとえば死に関するスプリングへのダイブは、過度な同調によるダイバーの突然死を防ぐために禁止されている。だからいくらスプリングを追いかけても、本当の意味で棗の苦痛や感情を知ることはできない。
 それでも私が棗の苦痛のニセモノを追いかけているのは、忘れないでいるためだ。棗のことだけじゃない。何もできなかった私自身のふがいなさと、棗を殺してのうのうと生きる矢沢への怒りを忘れないためだった。
 私は棗を殺した矢沢を殺す。絶対にだ。
 後悔と憤怒と絶望のすべてを凍りついたあのときのまま引き連れて、思蔵館を後にした。

私はいつものようにメトロに乗って、新宿のレズバー〈徒花〉へと足を運ぶ。ダイブによって荒んだ心をなだめるには、社会と自分が一本の線で辛うじて繋がっていることを確かめるのが手っ取り早い。より正確にいえば、今夜一晩を過ごすためのてきとうな相手を見繕い、人肌がくれる快楽に身を委ねればいい。私はそうやってしがないOLとしての日常と粘着質な復讐者としての非日常の狭間を、のらりくらりと生きている。いつだってセックスは、すべてを解決した気分にさせてくれた。
 軒先に掲げられたレインボーフラッグをくぐり、店の扉を開ける。基本的に女しか入れないことを除けば、店内はいたって普通のバーで、カウンターではいつもと変わらずマスターの莉乃さんがグラスを磨いている。
「いらっしゃい」
「あー寒い。なんかあったまるやつちょうだい」
 莉乃さんは手際よくホットワインを出してくれる。受け取った私は店内を見回し、カウンターの端に一人で座って甘そうなカクテルを飲んでいる女の子を見つける。
「お姉さん一人? 隣り座ってもいいですか?」
「あ、はい」
 アルコールでほのかに赤くなっているのに、笑顔はぎこちない。きっとこういう店に来る経験は浅いのだろう。白いニットはいかにも男受けしそうな服装で、髪型も小動物ですと言わんばかりの茶色いボブ。そういうのを気にしているあたり周囲にカミングアウトもまだなのかもしれない。経験則からいって、こういう子は狙い目だった。
「お姉さんは学生さん?」
「はい。大学三年です」
「やっぱり。肌艶からして、私らとは違うわ」
 私は頭一つぶん、彼女に顔を寄せる。莉乃さんは「あんたまだ二五でしょ」と私の横で溜息を吐いていたけれど、お世辞にも丁寧とは言えないただれた生活によって、私の化粧乗りは今日も最悪だったから無視をした。
「そんなことないですよ。お姉さんもすごくお綺麗で、なんかちょっと緊張してます」
「え、嬉しいんだけど。私に緊張してくれてるって」
「はいはい」
 莉乃さんは呆れたように言って、お通し代わりのナッツを私の前に置いた。私たちの他愛のない会話を、彼女は楽しそうに聞いていた。口元に手を添えた拍子、僅かに落ちた袖先から右手首に刻まれたバーコードとそれを上書きするように彫られた蝶のタトゥーがちらりと見える。
「あの、えっと、お名前は? わたし、美理みりって言います。佐倉美理さくらみり
 美理が名乗ったとき、返す言葉がなかったのは、私にこの店で本名を名乗る習慣がなかったから。もう何年も通っているけれど、莉乃さんですら私の本名は知らなかった。
 だから私はその場で思いついたてきとうな名前を美理に教えた。今晩を過ごして、きっともう二度と会わなくなる関係だから、それくらいのほうが気楽だった。
 たぶんこの子は律儀で不器用なんだろうな、と私は思った。全然似てなんかいないのに、その横顔が棗と重なった。まだ気持ちが、ダイブから完全に抜け出せていないのかもしれない。私は余計な想像を振り払うように、ホットワインを胃のなかに流し込む。

美理が扉の鍵を開けるや、私は美理を玄関へと押し込んだ。美理は驚きながらも私の首に腕を回し、少し背伸びをして私の下唇を食んだ。私たちは靴を脱ぎ捨てて、家へ上がった。美理は腕を回したまま私を引っ張り、リビングのソファへ倒れ込む。顔を埋めた美理の胸は思いのほか豊満で柔らかい。
「美理ちゃん、積極的だねぇ。溜まってた?」
「うるさいです」
 顔を上げてにたりと笑った私の唇に、美理が唇を寄せて蓋をする。閉じられた唇の隙間に美理の舌が入り込んできて、磁石に吸い寄せられるみたいに私の舌がからまった。少しだけティラミスの味がする、ほんのり苦くて甘いキスだ。
 私は下になっている美理のニットをまくり上げる。色気のない黒のヒートテック越しに、人差し指で美理のお腹をなぞる。美理はびくんと身体を強張らせ、私のことを見上げている。
「くすぐったいです……」
 私は美理の肌に触れた。滑らかで穢れなんて知らなそうな白い肌が私の指先で、あるいは私の唇で、舌先で、汚れていった。
「ん……っ」
 脱がした美理の服を床に捨てる。私は柔らかくて張りのある乳房の輪郭を唇でなぞっていく。
「毛穴とかなくていいなぁ」
「わたしだけ恥ずかしいです。も脱いでくださいよ」
 美理は頬を赤く染めていた。どうしてこんな偽名を名乗ってしまったのかと、私は自己嫌悪に陥りながら、半分くらい自棄になりながらタートルネックを脱ぎ捨て、美理の滑らかな肌に体重を預けた。
 肌と肌が触れ合って、体温が混ざり合う。放っておけば復讐心に燃え上がり、燃え尽き、落ちていくだけの私を、誰かの汗や吐息が繋ぎ止める。私は暗い海のなかでもがくように、見えない空から差す光に手を伸ばす。それなのに私の目はいつだって、さらに深く見えない水底を凝視し続けて離れない。
「あ……っ、んんっ」
 押し殺された美理の甘い声が私の下腹部のあたりで掠れた。胸を押し付けている美理の下腹部が跳ねるように痙攣した。
 一糸まとわぬ姿の私たちは、互い違いに重なって、お互いの蜜を吸い合っていた。股を開いて開かせて、陰唇を貪って貪られている私たちの姿は四本足の不出来な昆虫で、永遠の環からは程遠いウロボロスのようだった。
 私は美理の上から退いて、ソファから降りた。美理は白かった全身の肌を僅かに赤く火照らせて、膨らんだり萎んだりを繰り返している。ふいに右手首の蝶が目に入る。白い肌に刻まれた黒い蝶は必死に翅を広げながら、その奥にある赤いミミズを大切そうに隠している。私は美理の乱れた髪を指で梳き、汗ばんだ額にキスをした。目を細めた美理は一度離れた私の唇を今度は自分の唇で啄むと、どちらのものか分からない唾液が糸を引いているまま、すきです、と言った。
「会ったばかりだけど、すきです」
 私が黙っていたから、たぶん美理は聞こえていないと思ったのだろう。けれど私は答える言葉を持っていないだけだった。
「美理はかわいいね」
 私は誤魔化して、もう一度キスをしようとした。けれど私の唇が押し付けられたのは美理の唇ではなく手のひらで、恋愛脳を垂れ流す口は塞げなかった。
「ナツさんは? ナツさんも、すきって思ってくれたから、家まで来たんじゃないんですか……?」
 もちろん違う。相手は誰でもよくて、私は他人を使った自慰行為に耽りたいだけだ。やがて人を殺す私は、誰かと一緒にい続けることはできなかった。けれど私は首を横に振って彼女を突き放すことも、積極的に美理の初心さを守るための嘘を吐くこともできなかった。
 立ち上がった私はわざとらしく下着を探して、フローリングの上の抜け殻を身につけ直す。美理は答えを待つように、そんな私を眺めている。
「私なんかと付き合ってどうするの」
「どうするって、一緒にご飯食べたり、手を繋いだり、キスしたり」
「もうしたじゃん」
 それ以上のことだって、というのは言わないでおいた。
 美理の一度寝ただけで付き合うものだと思える貞操観念は、私には全く理解できない。けれど理解できないからこそ、私はそれを否定することも、無下に扱ってしまうこともできないまま、その大きくて真っ直ぐすぎる柔い感情を扱いかねている。
 私はキッチンでコップに水を汲んだ。汗と愛液になってからだから出て行った水分を補充した。私は特に意味もなくIDを開き、もはや手癖になっている視界に浮かんだSNSの徘徊を始める。複数の匿名アカウントを使い分け、タイムラインに投稿される短い動画や写真を右から左へ流すように確認していく。
 この習慣はいつも徒労に終わる。今日もそのはずで、もはや期待はしていなかった。けれど私はこの瞬間、八年ものあいだ待ち望んでいた投稿に目を留めた。それは矢沢のクラスメイトだった一人が投稿した短い動画で、“おかえり”“すっぴんブスすぎて爆”という手書き風の文字と一緒に、ピースサインをする黒髪の質素な女が映っていた。
 顔を伏せているからはっきりとは見えないし、髪から化粧から当時とはまるで違っている。けれど見間違うことはない。
 矢沢だ。矢沢が傷害致死の服役を終えて戻ってきた。
 待ち望んでいた瞬間に歓喜はなかった。私は冷静だった。ようやく殺せる。ただそう思った。
「付き合いたい?」
 ソファに戻った私は不安そうな美理に向けて、もったいつけるような言葉を添えた。
 それは言葉の意味以上の薄汚い作為に満ちた台詞だ。けれど同時に、〈徒花〉のカウンターでアルコールに流されて最低な偽名を名乗ったときと同じように、余計な一言でもあった。
「その顔は、ずるいです」
 からだを起こした美理は不満そうに眉尻を下げていた。けれど美理はそんな表情とは裏腹に、私へともたれかかった。私より少しだけ高い美理の体温がぴたりと寄せられた。
「いいよ、私たち付き合おっか」
 私の腰に回された美理の腕は、私のからだを必要以上にきつく優しく締め付けていた。

背中を叩いた衝撃に息を吐き出すと、鼻や口から水が流れ込んできた。
 後頭部や肩は抑えつけられているから抵抗はできず、息ができない棗は下っ腹のあたりが緩んでいくのを必死に耐えていた。押し付けられた便座が鎖骨を強く押し潰した。視界右上には衝撃を感知して出されたIDの警告通知アラートがちらついた。
 髪の毛を掴まれて便座から頭が引き上げられた。今度は耳に笑い声が流れ込んできた。私にはそれがすぐに矢沢とその取り巻きたちの声だと分かったけど、スプリングのなかでは反抗のしようがなかった。棗はなんとか深呼吸をしようとして、けれど頭は再び便器へと押し込まれ、棗は水を肺に吸い込んだ拍子に失禁した。
「きったな!」
 びしょ濡れのまま地面に放り出された棗のからだを、矢沢の薄汚れた上履きの底が踏みつけた。私は怒りに震えて絶叫するけれど、トイレに響くのは取り巻きの笑い声だけだった。
 棗は抗うこともなく、憤ることもない。何も感じようとせず、ただ心を閉ざし、矢沢たちが飽きるのを待っている。
「高校生にもなってお漏らしとかウケるわ。死んだほうがいいよ、お前」
 髪を掴まれた棗の目に、ようやく矢沢の姿が映る。インナーカラーの金髪に校則違反のピアス。吊り目がちの大きな瞳はきつい印象があり、牙のようにも見える八重歯のおかげで人相は悪魔じみて見えた。
 私は矢沢に殴りかかろうとする。けれどいくら私がそうしたいと望んでも、やっぱり棗のからだがその通りに動くことはない。棗はただ、びしょ濡れになった全身を強張らせていた。
 棗がこうして凄惨な目に遭わされていることに、理由はなかった。しいて言うなら、夏休み前の大きなテストが終わった解放感。そういう理不尽が、棗の尊厳を蝕んでいる。
〈7月21日〉――視界の隅には日付表示が見えていた。私はこの日、学校を休んでいた。いや、正しくは二日前からこの日までの三日間、学校に行かなかった。そして永遠に、棗を失った。
 もし私が学校に行っていれば、降りかかる理不尽から棗を守ることができたのだろうか。棗を守り、死なせてしまうこともなく、二人で高校を卒業し、今もたまに会ったり会わなかったりして大人になったよねなんて言いあうことができたのだろうか。
 空想に思いを馳せた。けれど意味はなかった。いくら追憶を繰り返しても過去をやり直すことはできないし、たぶん私は、何度同じ選択を迫られたとしても、このとき学校には行かなかったと思うから。
 棗はIDのチャットアプリの私とのルームを開いていた。チャットは二日前、棗が〈おやすみなさい〉と送ったところで終わっていた。棗の視線が躊躇うように僅かに揺れた。けれどけっきょく棗は私にメッセージを送ることなくアプリを落とした。
「くっさいから、行くわ。次使う人のためにちゃんと掃除しておけよ」
 矢沢は最後にもう一度上履きで棗を足蹴にすると、取り巻きたちと鏡の前で笑いながら前髪を直して去っていった。矢沢たちはトイレを出るころにはすっかり棗のことなんて忘れたように、チェーンのカフェで発売された限定のフラペチーノの話をしていた。
 棗は歯を食いしばっていた。私はやめろと叫んでいた。トイレの床は冷たかった。けれど肌の輪郭は熱かった。

棗はそのあと、矢沢たちを追いかけ、階段手前で追いついたらしい。そしてもうこんなことは止めてほしいと懇願した。そんな棗を矢沢は足蹴にしたけれど、棗も退かなかった。取っ組み合いになり、取り巻きに引き剥がされた棗の腹を矢沢がもう一度蹴りつけた。棗がバランスを崩した先は階段で――あとに起きたことはもう言うまでもない。
 私がちゃんと守ってあげればよかった。歯を食いしばればいいなんて、無責任な言葉を押し付けないで、ちゃんと矢沢たちを叩きのめしてやればよかった。
 けれどどれだけ後悔しても、棗を引き留めようと何度スプリングのなかで叫んでも、現実は何も変わらなかった。だから私にできるのは、罪に正しい罰を与えることだけだった。
 いつものように思蔵館でのダイブを終えた私の向かう先が〈徒花〉から美理の家に変わって二か月の時間が経っていた。二人で〈徒花〉を訪れて莉乃さんや他の常連客たちと飲むことはあっても、迷い込んだソロ客を誘って刹那的な夜を過ごすことはなくなった。
 私たちが会うのはいつも決まって美理の家だった。私は自分の部屋に美理を招いたことがない。私の部屋の壁には矢沢と棗の事件について書いたWebニュースをプリントアウトした紙が、大量に貼ってある。だから美理は私がどのあたりに住んでいるのかも、よく知らないだろう。
「ねえ、ナツさん」
 包まっているシーツは滑らかな冷たさで、右隣りに感じる美理の体温は温かった。
「いつも思蔵館で、どんなスプリング見てるの?」
「秘密。世の中には知らなくてもいいことがたくさんあるんだよ」
「なにそれ。あ、もしや昔の女とのエッチとか見てるんでしょ」
「あーうん、そうそう。今日はロサンゼルスで出会ったキャサリンとの思い出をだね」
「パスポート持ってないくせに! あたしは真面目に話してるのに!」
 美理の手が私のお腹を柔く叩く。くすぐったくて、あるいは話を誤魔化したくて、私は笑いながら美理から逃げるように背を向ける。けれど美理はけっきょく離れず、私のお腹に腕を回したまま私の背中に肌をくっつけてくる。
 美理は私のことであればどんな些細なことでも知りたがった。本当の名前すら知らないのに、美理は私がその時々の思いつきで語る言葉で私という人間像を作り上げていた。私はそんな美理を愛おしくも思い、同時に哀れで重い女だとも感じていた。
 ベッドサイドに置いてある間接照明は、壁を薄いオレンジに染めていた。たぶん、昔の女とのエッチを追憶しているほうがいくらかましなんだろう。八年も前に死んでしまった恋人未満の友達の、虐められていたときのスプリングを復讐のために閲覧し続けているというのは、改めて頭のなかで文字にしてみると、かなり執念深いし粘着質で不気味だった。
「ナツさんさ、最近ちょっと太ったよね」
 美理の指が私のお腹をつまんだ。私が素っ気なくあしらって背を向けたことへの仕返しだと分かってはいるけれど、肉をつままれて黙っているほど私は丸くもない。
「美理ちゃんもさ、最近は前にもましてお尻がぷよぷよになったよね」
 後ろ手に伸ばした手で美理のお尻を鷲掴みにする。振り返った私はくすぐったいと身を捩る美理を押し倒し、そのままマウントを取る。
「つまむってことは、つままれる覚悟があるんでしょう? それに、やられた分はきっちりやり返さないと」
 私はお尻に続いて美理の乳房を揉む。美理は眉を寄せながら、弱く閉じた手のひらで口元を、より正しくは漏れそうになる声を抑えている。
「さ、触り方が雑だよ、愛がない、愛が!」
「分かってないねぇ。愛なんて不確かなものより、今目の前にある気持ちよさが大事でしょ。愛なんかなくたって、セックスは尊いの。ほら、こんなに濡れてる」
 私は美理の、顔に似合わず力強く生い茂る花園の奥を指先でなぞる。
「ナツさんのばかっ」
 私は美理の首筋に顔を埋める。明日着る服に困らせてやろうと、鎖骨の上あたりに強く吸い付く。
 いつだってセックスは、すべてを解決した気分にさせてくれた。けれどそれはまやかしで、本当は何一つとして解決なんかしていなかった。
 ぜんぶ分かってた。それでも私は、気づかないふりをした。

スプリングを交換したいと、美理が言い出したのはそれから数日後、美理の家のソファでだらだらと過ごしているときのことだった。
 それは若いカップルのあいだで流行っている遊びで、いわゆるペアリングみたいなものだ。二人が出会うまで歩んできた別々の道のりを交換することで相手への全幅の信頼を表明する意味がある。別れたときのリベンジ対象になることもあるため、国や通信会社は控えるようにと勧告を出しているけれど、燃え上がる恋愛というものはいつの時代も判断力を鈍らせる。
 ちなみに、交換したところで他人のスプリングにダイブするのは容易ではない。レミスがある思蔵館で他人のスプリングを見るには、本人または委任者の許可を証明する何枚かの書類を登録しないといけないから、ただ交換しただけではダイブができない。たとえば私は、棗の両親から許可をもらって棗のスプリングにダイブできるよう登録している。とはいえスプリングを交換するカップルにとって最も大切なのは、最愛の相手からスプリングを渡された事実であり、実際にダイブすることではない。
「交換……、別にいいけど、なんで?」
「大学の友達が彼氏と交換してて、なんかいいなって」
 周りがしているからやってみたくなる。その気持ちは分からないでもないけれど、取り繕うこともせず正直に話す美理は相変わらず不器用で、愛おしいほど愚かだ。
「おいで」
 美理は私の隣りでソファの上に横座りになった。スプリングを立ち上げ視界のなかに浮かぶウインドウを、正しくは何もない空中を指で弾き、準接触通信を始める。私たちは向かい合い、お互いの額を合わせる。照れ隠しに笑った美理の息が私のあごのあたりにかかった。
 スプリングを交換するにはこうして触れ合う必要があることも、恋人たちのムードを盛り上げる一因なのだろう。もしくはこうやって五分くらいのあいだ、ずっと額を合わせ続ける滑稽さをあなたたちは乗り越えられますか、と試されているのかもしれない。
「ナツさん、もうすぐ誕生日だよね?」
「え、あ、うん。何で?」
 データ複製の進捗が五〇%くらいになったタイミングで美理が言って、私は柄にもなく動揺していた。毎年、誕生日が近づくと面の皮の厚い誰かが土足でやってきて、棗と私の年が離れていくことを祝おうとする。私にはそれだけの当たり前のことが、どうしようもなく耐え難い。
「莉乃さんたちから聞いたの。今年は美理ちゃんと二人だから、パーティーはなしだねって」
「ああ」私は溜息みたいな返事をした。「なんか毎年祝おうとするんだよね、あの人たち。頼んでもいないのに」
「それだけ愛されてるってことじゃないかな」
「理由つけて飲みたいだけでしょ、どうせ」
「それでね、そうじゃなくって、誕生日プレゼント、何がほしいかなって」
「話聞いてた? 祝わなくていいって」
「でも付き合って初めての誕生日だよ?」
「そうは言ってもねぇ。学生さんから何かもらうっていうのもね」
「お金かけなくたってさ、行きたいところとか、食べたいものとか、何だっていいのに」
 六二%。私はとにかく誕生日祝いを躱そうと言葉を並べた。美理は不満を表明するように、無言で額を押し付けてくる。
「行きたいところねぇ。食べたいものねぇ」
 私は美理の頭を受け止めながら、彼女の言葉を繰り返す。もちろん真面目に考えるつもりなんてなくて、ただからかっていただけだった。けれどふいに頭のなかで、誕生日という忌々しいイベントと八年越しの宿願が結びつく。
「欲しいものあった」
「え、ほんと⁉」
 嬉しそうに声を上げた美理の額が離れそうになる。七七%。最初からやり直しはさすがに辛いから、私は美理の頭を抑えつけて、それから頬に息を吹きかけるように囁く。
「うん、私、レミスが欲しい」
「え」
 八九%。美理のかたちのいい唇は、驚きのあまり半開きになっている。
「レミスって、スプリング見るやつ?」
「そう、スプリング見るやつ」
「……売ってないよね?」
 私は頷く。追憶用ヘッドギア〈レミス〉は公営の思蔵館にしか置いてない。有用だが危険の伴うダイブを管理するために個人所有は禁じられている。
 だから私は美理と付き合った。たぶん彼女なら、夢中になった私に流されてくれると思ったから。それがたとえ濁流であったとしても。
 一〇〇%。私は美理の額から離れ、そのまま額にキスをする。
「だから盗むの。手伝ってくれない?」

盗むとは言っても、いつも通りに思蔵館を利用するふりをしながら、ちょっとした手違いでレミスを一つ拝借する。それだけの話だ。
 思蔵館に着いた私と美理は別々に受付を済ませて閲覧室のカードキーを受け取る。もちろん各部屋にはレミスが一台ずつ、天井から伸びるアームに固定されて置いてあるけれど、自分の閲覧室のレミスを盗むわけにはいかない。カードキーには使用履歴が残るから、そんなことをすればレミスがなくなった閲覧室のカードキーの履歴を辿られるだけですぐに盗んだことがバレてしまう。
 だからまず、私は美理を個室に待機させ、フロアをうろうろと徘徊する。ダイブのあいまのトイレやドリンクバーに飲み物を汲みに行く人を探す。ターゲットは人当たりの良さそうな年配の人がいい。それに万が一反抗されたときのことを考えると、男よりも女のほうがいいだろう。
 小一時間くらいフロアを彷徨うと、おばあさんが閲覧室から出てくるのに出くわした。私は扉が閉まるより先に、おばあさんが使っている個室に入り込み、部屋番号とおばあさんの服装や髪型の特徴を美理に知らせる。
 部屋に入った私は、コンドームで何重にも包んでおいたドライバーを膣のなかから取り出して、アームからレミスを取り外すための作業に入る。
 今ごろ、個室に戻ってきたおばあさんを、廊下で美理が引き留めているだろう。
「レミスから変な音がしたみたいで、今職員の方が修理しているみたいです。あの、もしよかったら、私が使ってる個室、使いますか?」
 たぶんこんな感じ。美理はおばあさんを自分の閲覧室へ連れて行き、自分がレミスを利用したという履歴をおばあさんに残させる。そのあいだに私はレミスを無事に取り外し、一目を避けてトイレに向かう。
 おばあさんと一緒に思蔵館を後にした美理に、私はトイレの窓からレミスを投げ渡す。その後私はいつも通り棗の記憶にダイブして、何事もなかったかのように思蔵館を後にする。
 これで終わり。
 私たちの手元には、見事にレミスが一つ手に入ることになる。

美理の部屋に戻った私は成果物レミスを確かめたあと、美理とめちゃくちゃにセックスをした。たぶん人生で一番気持ちのいいセックスだった。
「お誕生日おめでとう」
 美理は濡れて冷たくなったシーツの上でそう言って、私に何度もキスをした。私たちは二人とも、汗とかよだれとか愛液とか、とにかく液体にまみれていた。
「まだ先だけどね」
「でもおめでとう」
「はいはい、ありがと」
 照れくささと一つの達成感、そして無数の罪悪感とで、私はそんな風にぶっきらぼうな返事しかできなかった。
 それから私たちは、珍しく美理が二人で入りたいと言ったから、二人でシャワーを浴びた。美理の目が少し赤くなっているような気がしたけれど、私はシャワーから上がると、満足感とともにレミスを抱いて家に帰ることにした。
 誰かの正しさが追いついてくる前に、私は矢沢を殺さなければいけなかった。

蝉が命の終わりを覆い隠すようなけたたましさで鳴いていた。
 朝、家族三人で雑魚寝している和室で目を覚ますと、母がリビングで首を吊っていた。私はまだ眠っている父の肩を揺すった。目を覚ました父は私と同じようにしばらく呆然としたあと、嗚咽を漏らして泣き出した。
 忘れもしない七月一九日の朝のこと。
 これは私の記憶だ。
 救急車とパトカーがやってきて、動かなくなった母を運んでいった。母が吊るされていた場所には漏れ出した糞尿がこぼれていて、それだけが母が遺した痕跡だと思うとそれを片付けてしまうことができなくて、私はいつまでも絨毯に滲み込んでいく母だったものを眺めていた。
 警官に事情聴取されて、母の精神が不安定だったことを話した。あるいは警官はもうすでにそのことを知っていて、私はただ頷いただけだったようにも思う。
 父は迷子になった子どもみたいに一日中泣きじゃくり、涙と喉が枯れると飽きて捨てられた人形みたいに憔悴した。私は泣けなかった。あるいは泣いていたのかもしれないけれど、自分ではそのことに気づけなかった。
 私は学校を休んだ。父によって拭き取られた糞尿は、まだかすかな臭いを残していた。何度か棗に連絡しようと思ったけれど、けっきょくしなかった。私は棗を守る存在なのであって、棗に慰められる存在ではなかった。
 父はなんとか日常に戻ろうと、葬儀が終わるとすぐに仕事へ戻っていった。住んでいる安アパートは隣りに住むネパール人の生活音が煩わしかったはずなのに、日中の静寂は私を磨り潰すように圧し掛かっていた。
 私はとにかく音を求めて古いテレビをつけた。昼のワイドショーは高校生同士の暴力事件をセンセーショナルな言葉とともに報道していた。相手の女子生徒は階段から落ちて死んだらしい。私はそこでようやく、青木棗の死を知った。
 私はやっぱり泣けなかった。八年経った今も、私の目からは一滴の涙すら流れない。
 窓の外では、蝉が命の終わりを覆い隠すようなけたたましさで鳴いていた。

私はレミスを頭から剥ぎ取った。息は荒く、全身が燃えるように熱かった。レミスを二本の腕で抱きかかえ、床に座り込んだ。
 たくさんの時間を使って熱を冷ました私は、動きやすいジャージ上下に着替え、リュックのなかにレミスと封筒を一つ仕舞いこむ。
 SNSをしつこく辿り、矢沢の住んでいるアパートには見当がついている。
 私はこのときをずっと待っていた。
 棗が殺されたことを知ったとき、矢沢はすでに少女Aとして逮捕されていた。日常的ないじめの事実が明るみになり、矢沢の抱える家庭事情が暴かれた。私は矢沢に正しい罰が下されることを願った。しかしこの国の法律は、事件当時一七歳だった矢沢を死刑にできない。それどころか裁判では矢沢の殺意すら否定され、殺人罪すら認められなかった。
 犯された罪にはせめて、正しい罰が必要だった。
 私たちにはやられた分だけやり返す権利がある。だから誰かを殺した人間は、全く同じ方法で同じ苦しみのなかで殺される。どんな綺麗ごとを並べても、この真理は渦中に立った人間にしか分からない。私はそれだけが正しい罰だと確信している。
 私はいつもよりきつくスニーカーの靴紐を縛って外に出る。冷たく澄んだ空気は心地よく、頭のなかをクリアにしてくれた。たぶんあとで面倒なことになるだろうから、家の扉に鍵はかけなかった。
 廊下を進み、エレベーターに乗り、エントランスを出る。道路へつながる段差のところで、私は木陰から飛び出してきた影に抱きしめられた。
「ナツさん……っ」
 私のことをそう呼ぶのは、あとにも先にも世界にたった一人だけだ。
「え? は? なんで?」
「ナツさん」
 美理はもう一度言って、私を抱きしめる腕に力を込めた。私は困惑していて何一つ状況を理解できていなかったから、かえっていつもと同じように軽々しい様子で美理の頭を撫でていた。
「なになに。なんでいるの。さすがにびっくりだよ、どうしたの」
「ごめんなさい。でも、行かないでほしいの」
 私の右肩のあたりにうずめられていた美理の顔が私を見上げた。震える声とは裏腹に、美理の目は力強くて切ない意志に満ちていて、その瞬間私は彼女の言葉の意味するところも、どうやって彼女が私の家の場所を知ったのかも、すべて理解した。
「見たんだ」
 自分でも少し驚くほどに硬質な声に、美理は肩を強張らせた。美理は言葉では答えなかったけれど、その沈黙は肯定と同じだった。
 盗んだレミスを持ち帰った美理は、私が戻ってくるまでの数時間のあいだに私と交換したスプリングを覗いたのだろう。思蔵館を通すから登録がいるのであって、盗んだレミスであればダイブができる。
 最後の最後で自分の詰めの甘さにうんざりしたけれど、美理ならば分かってくれるとも思っていたから私は平然としていた。
 私は矢沢にレミスを被せ、階段から蹴り落とされる棗のスプリングにダイブさせることで矢沢を殺すつもりでいた。
「見たなら分かってるでしょ。私、今日この瞬間のためだけに生きてきたの。昔好きだった女のために、レミスを一緒に盗ませるために、ずっと美理の気持ちを利用してたの。最低な女なの。だから放っておいて」
「やだよ」
 美理の声が、私にからみついていた。
「ナツさんはひどいけど、でも、行っちゃやだよ」
「……離して」
「離さない」
「離して」
「いやだ」
 私はからだを捻る。美理も強情に腕に力を込める。マンションに帰ってきたサラリーマンが私たちの横を通り過ぎていく。すれ違いざまに向けられた不躾な視線は、私を苛立たせた。
「邪魔しないでよ!」
 私は力任せに美理を突き飛ばす。よろめいた美理はそのまま植木に倒れ込む。踵を返して立ち去ろうとした私のリュックに、すぐさま立ち上がった美理がしがみつく。
「何なんだよ! 邪魔すんなよ! 私の人生ぽっと出のくせに、図々しすぎるだろ!」
「ぽっと出だけど邪魔する! 図々しくていいもん! 行ってほしくないの!」
 私はリュックごと美理を振り回す。体勢を崩した美理は膝をつき、私に引っ張られるまま地面に倒される。それでも美理はリュックから手を離さない。
「離して! マジで! 邪魔! ふざけんな! 離れろ!」
 腰を落とし、力任せに腕を振る。けれど先に音を上げたのは私でも美理でもなくて、ドンキで二〇〇〇円のリュックだった。肩のベルトの接着面から破れたリュックは、中に入っていたレミスを吐き出す。レミスは暗闇のなかアスファルトを上で乾いた音を立てながら転がった。
 反応が一瞬速かったのは美理のほうで、転がるレミスに覆いかぶさり、そのまま地面にうずくまる。私は美理の背中をまたぎ、強引にひっくり返そうとしたけれど、美理の抵抗はすさまじく、先に私の息が上がっていった。
「何なの、マジで……」
 私は舌打ちをする。美理はダンゴムシのように、まだ地面で丸くなっている。
「いの」
「あ?」
「ナツさんに、死んで、ほしく、ないの」
 擦り切れた雑巾を絞ったような声が、夜の黒に響いて滲みた。
「ナツさんは正しいと思う。いじめなんてクソだし、人をいじめて殺したやつがたかだか何年か刑務所にいたからって、平気な顔で生きてるのなんて意味分かんないし。でも、でもね、ナツさんには人殺しになってほしくないし、死んでほしくないの」
 やられたらやられた分だけやり返すのが筋だと思っている。棗を殺した矢沢を殺すなら、殺した私もまた正しくやり返される必要がある。私は矢沢を罰し、最後に自分を罰し、すべてを終えるつもりだった。
「お願い……お願いだから、ナツさん、わたしのために、悪者になってよ。わたし、ナツさんが好き。だから悪者になって、わたしと一緒にいてほしいよ」
 私は破れたリュックを地面に放った。黒いリュックのなかにはまだ、私の罰をしたためた白い封筒が入っていた。
「何なの、それ」
「だって、ナツさんのこと、好きなんだもん」
 美理が大声で泣き出した。私はだんだん膝に力が入らなくなって座り込んだ。そしてうずくまっている美理の背中にしがみつくようにして泣いた。

夜中のマンション前で、私たちは二人して子どもみたいに大泣きをした。泣き声が掠れてだんだんと笑い声に変わって、疲れ果てて馬鹿馬鹿しくなって、私は美理を部屋に上げた。さすがの美理も壁に貼られたWebニュースには引き攣った顔をしていて、私はそれを美理の前で一枚一枚剥がし、破き、捨てていった。
「ありがとう、ナツさん」
「なんで美理がありがとうなのよ」
 私はたぶんちゃんと美理のことが好きなんだと思う。棗のことを忘れたわけじゃないし、彼女のことだってまだ割り切れたとは思えないけれど、その棗を軽薄に裏切ってしまうくらいには私は美理のことが好きだった。
「それとさ、美理。私の名前、ナツじゃないんだよね」
「うん、知ってる。でも、今更呼び方変えるのも、なんか変だし」
「まあ確かに。試しに呼んでみて」
「えー、恥ずかしいよ」
 私は美理に手招きをする。小声でいいからと手のひらを耳に添える。
「もう、仕方ないなぁ」
 美理は私の耳元に顔を近づける。美理の吐息が耳に触れる。
 初めて呼ばれた名前に、私は思わず笑みを溢す。
 綻んだ私の唇に、美理の唇が重なった。

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