梗 概
隧道の陰に
北の国。山の合間にひっそりと佇む草庵に、猟師の父と二人の娘が住んでいた。
姉のアユイは、生まれ落ちたときから、感じる能力を失っていた。 体の自由が利かず、痛覚もない彼女は、自覚なく舌を噛み、骨を折り、切り傷にまみれた。そんな姿を見るたび、妹のカツナは大粒の涙を出し、彼女を抱きしめた。いかなる薬効も意味をなさない。医者も匙を投げた。外出を許されず、アユイは狭い一室に住まわされた。しかし、カツナはいつも側にいた。父が狩りに出る隙を見計らい、アユイを背負い、山頂まで連れて行った。それが二人の習慣であった。季節は過ぎ、山は姿を変える。眩い眺望はアユイを楽しませた。そして、眼前の世界を触れらないと思えば思うほど、それらの手触りに恋い焦がれた。
日照りが続いた頃。姉妹は山道の途中に大きな洞穴があることに気づく。洞内の壁には蔓草が茂る。アユイは、異様に膨張した管に触れた。何かが体を伝うのを感じ、全身に染み渡る。そこに、生まれて初めて味わう触覚があった。朝靄が残った葉から垂れる水滴の冷たさ。獣たちが草をかき分けるときの、体毛と葉のざらつき。この山のあらゆる質感に娘らは夢中になった。
そんなある日、二人は突然の雷雨に見舞われ、この穴に逃げ込んだ。雷が山に落ちる。カツナはその光を見るや、アユイに覆いかぶさる。気づけば、カツナも洞窟も、跡形もなく消えてなくなっていた。
事情を飲み込んだ父は、沈鬱な表情で言った。「ヤマオモイだ。カツナはそれに持って行かれたんだ。」
ヤマオモイは蔓草の怪異。山々を渡り、至る所に触覚を張り巡らせる。そして、獲物に手触りを与えて、自身の織りなす隧道へと誘い、少しずつ生気を奪う。しかし、命まで奪うことは稀と言われる。だが、雷光が山の経絡たるヤマオモイを通ったとき、管は発火・活性化した。カツナはそれに呑まれたと考えられた。ヤマオモイは、神経の鋭い子供にしか感じられない。アユイが見つける他なかった。
手がかりを見つけるため、アユイは、父に背負われ、毎日山を登るようになった。だが、しばらくすると、アユイは床に臥すようになった。自責に心をすり減らしたうえ、体が自由にならず、肉体が衰えた結果だった。余命幾ばくもないと思われた。ただ、昔のことだけが思い出された。
夢の中で何かを感じた。それは誰かに背負われる心地。不思議と心が落ち着いた。アユイはヤマオモイの中にいた。暗い回廊を這っていく。途中、何かに持ち上げられ、アユイの体は宙に浮き、小刻みに揺れだした。アユイはそれにしがみついていた。そのうち、頭上から滴り落ちてきたものがあった。大きな水滴がアユイの肌を跳ねる。温かい雨粒だった。ひどく懐かしい。そっと手を差し出す。それも答えるように指を絡めた。雨足が強まる。すると突然、闇の奥から光が差し込んできた。白い光輝に包まれた世界に、二つの陰が重なり合っていた。
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内容に関するアピール
「触覚だけを通じたコミュニケーションを描く」というのが、今回、私が自分に課した制約です。
記憶も視覚も言葉もなくしたものが、共通言語が触覚だけだという制約のなか、人間とどのようにコミュニケーションをとるのか。そんな疑問がふと頭に浮かんだとき、とても明快なようで、実際考え出すと難しい、とっかかりが厄介なものに感じました。その直感的難易度が、今回の制約の、ごく個人的な根拠です。実作では、さらに細やかな触覚の描写を取り入れたシーンづくりをしたいと思っております。何卒よろしくお願いします。
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