そもそもなんとかして食っていかないといけないようなら、私などいないほうがいいのではないか。問題はいらないのが私のほうか、世界のほうかだ

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梗 概

そもそもなんとかして食っていかないといけないようなら、私などいないほうがいいのではないか。問題はいらないのが私のほうか、世界のほうかだ

 玉城ゆう子は地方のテレビ局に記者兼リポーターとして勤めていたが、29歳のときに早期の子宮頸がんが見つかり、手術で卵巣と子宮を摘出すると仕事への意欲が途端に消え失せ、母親の勧めもあって「ヴィレッジ」という集落へ移住した。

 「ヴィレッジ」は、なんの変哲もない中核地方都市のようなところだったがそこには男性と子どもが一切暮らしていなかった。コンビニ店員も、警察官も、銀行員も、お医者も、土建屋さんも、路上生活者まで全て女性。また、この街の自治組織は議会と市役所しかなく、首長がない。議会には、この街を男女混交社会の裏側として位置づけあくまで女性という性別にこだわる「女性党」と、性別というものを生物学の定義から離れた無限に多様なものとしての性別を実現しようとする「自由性党」の二派が分立していた。ゆう子は後者に属し、移住にあたって「柘榴」という新しい性別を与えられた。

 この街では必ず偶数人で暮らさなければならない。ゆう子は葉子という同世代の女性を役所で紹介され、共同生活を始める。葉子の性別は「かみなりおこし」で、葬式で故人を偲ぶためのスピーチ原稿を作る仕事をしていたが、その仕事をゆう子に明け渡す。以下では、ゆう子が街に引っ越してから1年後の1週間を綴る。

 火曜日。ゆう子が朝、起きると、いつもふらふらといなくなって何日か家をあけるのが癖になっていた葉子が家に帰ってきて朝食を食べている。ゆう子は生前葬を希望していたクライアントが収容されている老人ホームに向かい、その家族の話を聞く。仕事を終えると、二人は久しぶりに夕食をともにする。

 水曜日。朝食の席で葉子は、双子だけが住む村の夢を見たと話す。ゆう子はこの街にはとにかく中心がない。会社にも役員がいないし、行政にも首長がいない。垂直的な構造がないと話す。テレビでは女性による女性の痴漢のニュースをやっている。職場に行く途中にゆう子に「パパ派」の活動家が声をかける。

 木曜日。洗濯機が壊れる。テレビでは「ヴィレッジ」がトランスジェンダーの男性を初めて街に受け入れるというニュースをやっている。夜、ゆう子はコインランドリーで踊っているその男性に出会う。

 金曜日。夕方、ゆう子と葉子は「自由性党」の胤井藍の家を訪れ、そこに集った数人の女性と「おばさん」の定義について話し合う。帰りに藍はゆう子に、例の新入居者の男、柳島衛を紹介する。

 土曜日。ゆう子は葉子と映画を見に出かける。女性だけの車強盗の映画を見て家に帰ると、生前葬を望んでいたクライアントの容態が急変したとゆう子に連絡が入る。そのクライアントはその日のうちに亡くなる。

 日曜日。葉子がいなくなっている。ゆう子は藍の紹介で、衛と再会し、一緒に職場に出向く。動揺する遺族に話を聞きながら、葬儀の準備を進める。

 月曜日。葬儀が執り行われ、斎場で自分で作った原稿を読み上げるうちに、ゆう子はとても久しぶりにリポーターをしていてよかったと思う。そして、彼女はこの仕事を近いうちに衛に明け渡すのだと直感する。二人の共同生活が始まる。

文字数:1262

内容に関するアピール

制約:「おばさん」しか出てこない

 
子どもを産むことと男性目線のジェンダーロールから解放された存在としておばさんを仮定義し、それがどの程度正しいのか検討しながら、性別をラディカルに解体する存在として「おばさん」を描きたいと思います。

文字数:115

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オオカミ

 土曜日の昼。リビングの壁に絵がかけられた。彼女たちの手が離れると俺は部屋の中を見渡した。

 横に45インチの液晶テレビ、その前にカーペット、それをハの字に囲む2脚のソファ、その背側に8人掛けのテーブルがある。ダイニングルームはリビングとシームレスにつながり、ダイニングから見てリビングの反対側にはカウンターを隔ててキッチン。そこはマンションの4階で部屋の南側にはベランダがあって、見下ろすと地上は川が流れ、対岸の堤防と河川敷には新緑が生い茂り、東西に橋が一本ずつかかっている。外はよく晴れている。

 絵をかけたのは四〇代後半から五〇前半くらいにみえる二人の女性。二人はおそらく双子だ。銀色のパジャマみたいな同じ作業着に、滑り止めのついた白い手袋をはめ、鳶人足みたいなお揃いの靴を履いている。二人のおばちゃん。なぜ双子なのか。彼女たちは全く別の顔をしているが、同じ骨格をしている。いや、よく見るとやっぱり同じ顔をしている。

 片方のおばちゃんは髪を短く刈り込み、左目の下に小さなシミができていて、それほど目立つわけではないが顔の左側だけ少し皮膚が乾燥して垂れ下がり、眼球も少し充血して濁っている。もう一人のおばちゃんは長い髪を縛り、後ろで髪留めで挟んでまとめている。もう一人よりも比較的肌つやがよく、黙っていても口角が上がって表情は笑顔に見え、さらにニッと笑うと銀色の差しがのぞく。二人ともすっぴんだ。

 キッチンではもう一人、別の女が料理をしている。女はアメリカの有名なヒップホップのプロデューサーやラッパーとして活躍するアーティストのロゴが入った白いTシャツを着て、だぼだぼのグレーのスウェットにショッキングイエローのスリッパをはいている。白髪を茶色に染めた髪を頭の上にちょんまげにしてまとめてゴムで結び、ビーズの飾りのついた紐がついた鼈甲の縁の付いたメガネをかけている。胤井藍は、もうすぐ60歳になる。彼女の性別は「数の子」だ。

 iHのコンロでは蓋をした鍋は火にかけられ、その横にはまな板の上に包丁と切りかけのかぼちゃが広がり、さらにその横のシンクの中に野菜の皮が捨てられてぱんぱんに膨らんだビニール袋、プラスチックの透明容器に詰められた瓜の漬物が置かれ、彼女の背後で炊飯器がピーピーと音を立てる。 

 今度はもっとどんくさくて重い、「んピンポーン」みたいな音。玄関のチャイムが鳴る。藍は、はいはーい、勝手に上がってちょうだい、と答える。扉の厚みを想像させるようながちゃっと重たい音がして、玄関から玉城ゆうこが入ってくる。彼女の性別は「柘榴」だ。

 この街に越してきてだいたい1年。他の女性同様、彼女も藍のことを「先生」と呼んでいる。それは藍が昔、高校で英語を教えていたからで、旦那も大学教授だったからだ。もしかしたら、彼女が大学教授で旦那が高校教師だったかもしれない。少なくとも今でも藍は何処かの国の料理本の翻訳の仕事をしているし、ちょっと前まではこの街の「議員」をしていた。

 リビングに入るとゆうこはハンドバッグを床にどさっと置いて、薄手のベージュのカーディガンをまくり、自分にだけ聞こえる息みたいな声で、あっつい、と言って手で顔を扇ぐと、小さな腕時計にブレスレットが当たってがちゃがちゃ音を立てる。腰に手を当てて料理を見渡しながら、うわー、すっごい、なにか手伝いましょうか、と藍に声をかける。藍はゆうこの素足を指して、スリッパ履いて、と言って玄関に帰らせる。藍は、彼女の到着など大したことでないという感じでキッチンとダイニングを行ったり来たり。はいはい、と答えて玄関に戻った彼女にさらに、

「それから、荷物は全部ソファの上ね。貴重品は身につけておいてくださいね」と、声をかける。

「はーい。なんかアトラクションの注意書きみたいですね。」

「うちは遊園地じゃありません。」

 スリッパを履いて戻ってきたゆうこは、絵に目を留め、彼女もその二人のおばちゃんのことを双子だと思う。

 

 ゆうこには、幼稚園のときに親同士の仲が良かったせいでよくお互いの家に遊びに行っていた双子の友達がいた。幼稚園の頃の二人はなにをするにも一緒で、ほとんど見分けがつかなかった。彼女たちはゆうこと一緒に小学校に上がり、3年生のときに双子の父親の仕事の都合で彼女たちは、ゆうこの住んでいた街から引っ越した。

 双子の姉とはそれから大学のインカレサークルの新入生歓迎会で再会する。彼女によれば双子のもう一人、その女の妹は高校を卒業した後、古着の買い付け業者になって南米を転々とするようになった。その姉のほうはその年の正月に撮ったという写真を彼女に見せ、画面の中に金髪に髪を染めて肌をこんがり焼いた、姉とは似ても似つかぬ双子の妹が写っていた。携帯電話の画面に映った二人の女性を見比べると二人とも子どもの頃の面影が輪郭や鼻すじにあるような気がしてきたし、

 ゆうこはおばちゃんたちを見ながらその写真のことを思い出した。その写真は彼女が初めて大人になるということを意識した記憶と結びついていた。年をとると、生まれ持ったものよりも後から獲得したものの割合が増えていくということをその写真は思わせた。双子は別々の人生を歩み、似なくなる。

「そこ、立ってると邪魔。」

「新しい人、どんな雰囲気なんですか?」

「あとで来るから直接見ればわかる。お前は来るのが早いんだよ。17時って言ったら、17時に来るもんだよ、普通は。」

「普通とか言ってると、すぐおばあちゃんになりますよ。」

「もうおばあちゃんだよ。」

「去年、先生に言われたことそのまま言い返しただけです。」

「わかってる。ほら、また何してたか忘れちゃった。」

 

 掛け時計の針は16時40分を指していた。

 すぐにゆうこの携帯電話に着信があって、藍の母である深沢サエがマンションの前までタクシーでやってきたのが「ズー」という地上のインターホンの音でわかる。

「ちょっと出て。」

「おばあちゃんですかね。」

「お前が連れてくると思ってた。」

「ここまではタクシーで来れるから手伝うなって」

「まったく。遅れてきたらなしで始めるつもりだった。」

「また。」

「野村が悪い。あいつが蘭子を連れてくるって言ったから婆が来るって言い出した。教えなきゃ良かった。」

「ちょっと下まで迎えに行ってきますね。」

 深沢は藍の旧姓だ。サエは普段は、中央駅から街の北のほうのはずれまで連なる遊歩道を辿った果てにある老人ホームで暮らしている。生前葬を希望するサエは、そのプロデュースをゆうこに頼んでいる。

 葬式を盛り上げるのがゆうこの普段の仕事だ。結婚式がほとんど行われないこの街では、葬式のプランナーのほうが職業としては一般的でさえある。彼女は式で流すイメージビデオの作成、遺族に代わってのスピーチ原稿の代筆、その読み上げのプロフェッショナルだ。そして、サエは今週中に亡くなる。

 ゆうこが地上までサエを迎えに行きサエと合流するところまでは問題なかったが、部屋に戻るときに間違えて別の棟のエレベーターに乗ってしまい、二人は藍の部屋にしばらくたどり着けなくなる。垂直方向に高くそびえる建物のないこの街には、4階以上の建物が建っていない。このマンションは団地のように一四の棟が広大な敷地に並んでいて、互いに連絡階段で繋がっている。各棟に2つずつ備えられたエレベーターは垂直方向にしか移動できないので、誤ったエレベーターに乗ると別の棟に連絡階段を使って移らないと元の場所に戻れなくなる。ひどいときは、もう一度エレベーターを使って1階まで降りて、一からスタートしないといけない。

 二人がもう一度、藍の部屋に着くまでに20分かかる。その間に料理はほとんど完成している。部屋にたどりつくとサエは一言も話さず、まるで自宅に帰ってきたかのようにさっさとスリッパを履いて、ゆっくりまっすぐ廊下を歩いてリビングに入り、ソファにちょこんと座ってテレビの電源をつける。いくつかチャンネルを回して、芸能人が動物園の動物と触れ合うバラエティー番組に落ち着く。テレビの中では歯周病にかかったダックスフントが治療を受けている。くたくたになったゆうこが、

「お二人は?」

と、尋ねると藍は、

「仕事が終わったから帰ったよ。」

「ご飯も食べていくんだと思ってました。」

「食べていかない。野村が嫌がる。はー、できた。」

 この街の議員野村みぎは17時ちょうどにやってくる。真っ黒なTシャツに幅の広いパンツを穿いた姿。緊張感のある締まった装いは、家庭的なスリッパが似合わない。それに藍は嫌な顔をする。みぎの立ち姿は、これが仕事でありリラックスしたここはプライベートの場ではないことを強調する。みぎは、歌手の「おるきであ」を連れている。彼女の本名は胤井蘭子で、藍の娘で、ゆうこと同世代。この街の住人ではない。

 

 藍は「自由性党」、みぎは「女性党」という二人はそれぞれ別々のパーティに所属している。彼女たちが食事を共にすることは普段はありえない。藍はこの慣習を崩したいと思っているし、みぎはこの慣習を守りたいと思っている。だから、彼女たちが一緒に食事をするのはだいたい1〜2年に1回の、この街に新しい入居者を迎えるときだけだ。前回は、ゆうこが入居するタイミングだった。

 10年以上前、ゆうこは大学のゼミでドキュメンタリー映像をつくっていた。卒業後に地元のローカルテレビ局に就職してから、29歳で子宮頸がんが見つかるまで彼女はリポーターとして働いた。勤めていた会社の規模が小さかったせいで、ご当地名産品PRイベントから老老介護の果ての殺人事件報道まで、ほとんどカメラマン二人三脚で回らないといけなかった。

 最初に病気の話を聞いたときはかなりショックなはずだが、がんの進行具合を調べるためにすぐに大学病院で検査をすることになり、相談の末に子宮だけでなく卵巣も摘出することに決め、無事手術も終わる、というところまでとにかく必死で対応しているうちにことが進んでいった。彼女も、こんなことなら日記でもつけておけばよかったと思ったかもしれない。

 退院して、自宅療養を始めてしばらくしたあるとき、彼女は自分はもう1年以上働いていないのだと気がついた。あらためて、彼女はもう入院以前のような暮らしを欲していなかったし、そんなことは想像することもできなかった。生活リズムも食事も代わり、たくさん血を流したりたくさん泣いたりしているうちに自分はちがう人間になってしまったのかもしれないと思った。

 その後、母親の勧めでこの街に住むことに決めるまでにそれほど時間はかからなかった。どうせ違う人間になるのなら、それほど悲観的ななにかに変身しなかった自分はラッキーだったかもしれないとさえ思った。

 当初、ゆうこの母親の友人の縁戚だった野村みぎとの間で入居の手順を整えていた。街に住むために彼女は三つのことを決めなければならなかった。所属するパーティーと、性別と、生活パートナーだ。「女性党」と「自由性党」は、性別についての立場でもっとも意見を衝突させる。「女性党」は、男女が混じり合ったこの街の外の社会での女性の立場を改善策を練るための実践を街の中での生活指針にかかげており、一方「自由性党」はそもそも性別というのをあいまいで、多様で、あってもなくても変わらないものに分裂、分解しようとしている。

 当時まだ議員だった藍が、自分の性別は「数の子」でほかには「西ローランドゴリラ」とか「フニクリフニクラ」とかいろんな性別があると教えると、ゆうこはすぐに自由性党に入ることを選んだ。

 ゆうこが入院中、同じ病室にいただいぶ年上の女性が「がん」のことを「へなちょ」と呼んでいた。彼女は乳がんの経験者で、病気にどうでもいい名前をつけて、重苦しく扱わないようにすればストレスが少し軽減すると彼女にふきこんだ。ゆうこはその頃、ネット上に上がっている自分に近い境遇かつかなり思いつめた内容のブログを書いている人を何人か見つけて、気分が滅入ってもいた。そこで、「へなちょ」は自分の生活からみじめさを排除するための一番いい方法であるかのように思えた。「自由性党」に属すると、性別も「へなちょ」にしてしまうおうか一度は迷ったけれど、結局は「柘榴」に落ち着いた。ただ、ゆうこのこの選択は、みぎをかなり落ち込ませた。

 

 みぎはこの街に来る前はある地方都市で市議会議員をしていた。東京の私立大出身でミスコンの入賞歴の彼女は、在学中に夕方の情報番組でお天気キャスターとしてちょっとした人気を得たり、週刊誌で水着グラビアを披露したことがあった。それからモデル事務所で仕事を得た後、結婚と離婚を経て、30歳のときに地元に帰って議員に当選。数年勤めた後、この街のことを知って、ここでも議会に関わる目的で仕事はできないかと藍に連絡を取った。

 この街に移る頃、みぎは藍を心の底から尊敬しており、憧れを抱いてもいたし、一時期は一緒に暮らしてさえいた。しかし、仕事を続けるうちに彼女と「性別」に関する考え方の違いからなんども揉めるようになり、最終的に二人は別居してほとんど口をきかなくなった。

 

 ゆうこの引越しが決まったとき、みぎは彼女に自分のかなりの部分を重ねていた。みぎもまた、子どもができなかったことで元旦那の家族と仲違いして離婚した経歴があった。自分なら、ゆうこと互いに良き理解者になれると心のどこかで思っていた。しかし、彼女は藍の側についた。ゆうこと藍の接近はとても久しぶりに、なぜこんなにも自分の立場や主張は明確で凝り固まってしまったのかとみぎに思わせた。

 

 藍が双子のおばちゃんたちを早々に帰らせたのは、彼女たちの姿をみぎに見せないためだった。あのおばちゃんたちこそ、みぎが一番嫌う人種だ。みぎは、藍が貧しい女性たちを奴隷のようにつかっていると思っていた。しかし、決してそうではない。

 彼女たちは俺のような高価な絵をかける免許を持っているが、本業は掃除婦だ。また、藍は彼女たちがそれを好んでやっていることを知っていた。彼女たちは決してくたくたになるまで働いたりはしないし、金を積まれても嫌いな客の仕事は受けない。信用のために滅多にしないが、ときにはそうと決めたら気分が乗らなければ平気で仕事はさぼるし、給料以外にいくらかのものを拝借したりもする。それはクローゼットの中の一番安いアクセサリーや、自家製の賄い飯に変容した昨日の夜の残り物だったりする。彼女たちがそういうことを自ら好んでやっていることを藍は尊重している。ただ、みぎにとって掃除婦のおばちゃんたちというのは目に入れたくないなにかなのだ。

 そういうみぎが蘭子を連れてやってきたのは、自分へのあてつけだと藍は思っている。蘭子は父親に似て背が高く、身長が170センチ近くある。色が白くて顔が小さく、目も小さくて鼻が低い。ベレー帽みたいなものを被って、薄手の紺のカーディガンにストライプのシャツを着ている。ソファの上に自分の祖母の姿を発見すると、日本語によく似た言語で声をかける。

「婆婆、のやなった好好満出街ってて?」

「孫蘭、育く育くなった好好」

「薏会いたい、長話長話。許能見聞しー、面哉。歌え」

「止しー」

 ゆうこは藍から、サエは、大戦時に日本が植民地支配していた現中国領の小さな島の生まれらしいと聞いていた。彼女は日本語に近い別の何からしい奇妙な言葉を喋り、孫の蘭子にはそれが通じる。藍もしゃべれる筈だが、彼女は決して母親とその言葉をかわさない。

「母、喰わんしゃん」と、サエが何か言う。不思議なことに、彼女は日本語を一切話さないのにここでも、老人ホームでもテレビが大好きでかぶりついて見て、大声で笑っている。

「蘭子、婆さんの席こっちね。」と一段背の低い肘置き付きの椅子を指した。

「婆婆捗はす許せそう?」

「是。」

「婆さん、そろそろ始めるからテレビ消せよ」

 テレビ画面にダイエット用のど飴のCMが流れ、住宅街の公園に不時着したのど飴と同じ形のUFOから、全身タイツを着た宇宙人役の「おるきであ」が登場する。彼女が歌いながら踊ると子どもが集まってきて、一瞬でUFOは集まった子どもを一人残らず攫い、飛び去っていく。大喜びのサエが孫にもう一度、声をかける。

「孫蘭、歌え歌え」

 

 新進気鋭のシンガーソングライター「おるきであ」こと胤井蘭子は、この街の住人ではない。アレンジしたアイドル・ソングに自前のラップをつけて歌う動画を配信プラットフォームにアップロードしていた彼女は、21歳のときに台湾のレコード会社から声がかかりデビューした。オリジナルの曲は電子音が大量に混ざったインディーロックっぽいメロディを得意とする。25歳のときに日本における女性の扱いを皮肉った歌詞で書かれた「御国の国の國子」は、セーラー服にピンク色のカツラを被り、数十人での群衆ダンスを一人で合成によって踊ったMVが話題を集めた。

 また、このMVが有名なると大学生のときにコペンハーゲンに国費留学していたことが、一部の愛国的なネットユーザーに叩かれるようにもなり、これに反応して今度は首相の顔写真をコラージュしたスーツの男が牛の乳搾りをするだけの動画に、「おとうさん、やめて、やめて」と連呼する歌詞をつけた曲「信天翁」を配信。また、先月はインドで頻発する若年女性の強姦殺人を告発するために、喪服を着てアカペラでその事件を非難するような歌詞を歌い上げる動画を配信した。最近ではCMや雑誌のグラビア写真にも呼ばれるようになり、先月には初めてのパリ公演も成功を収めた。

 2日前には、みぎの企画でこの街の市民ホールで単独ライブも開き、もちろん満員の客席は熱狂に包まれた。彼女の支持者は同世代をはじめとした、幅広い層の女性たちだった。

 蘭子の顔を一切見ようとしない無愛想な藍に、みぎは、おみやげです、と言ってデパートで買ってきた焼き菓子の包みを藍に渡した。彼女は包みをその場でびりびりに破いて、税関の職員みたいに楽しくもなさそうに中身を確認し、テーブルの席にそれを広げた。

「これで全員なの?」と、みぎが藍に聞いた。

「もう一人来る。新入居者がまだ。」

「それを抜いたら」とみぎが当然わかっているというふうに言い添えた。

「料理は全部揃った。」

 テーブルには確かに、封のあいた市販のスナック菓子と、人数分の缶ビール、トマトと卵の炒め物、鍋いっぱいの鳥骨ベースの中華スープ、甘辛風の焼きそばのようなもの、かぼちゃのサラダ、ほうれん草の和え物、麻婆豆腐、瓜の漬物の入った透明プラスチックの容器、そして大皿いっぱいの梅と豚肉の煮物と小籠包が並んでいた。キッチンの鍋にはぜんざいの用意もあった。藍は、携帯電話で誰かに電話した。

「もう準備できたので来てください。全員いる。料理さめるからすぐね。」と言って、一方的に電話を切り、「もう一人が到着したら食べてよい」と藍は言った。

しばらくして、チャイムが鳴る。

 新しい入居者、宮本マモルは生物学的には男性であった。白いシャツを着た男が一人入ってくる。茶色く染まった薄い色の髪は短く、鼻の下が剃りたてのひげでほんのりと青い。身長は190センチ近くある。

 トランスジェンダーの男性が入居することは議会の決定事項であり、すでに数日前に街中に報道で知らされていた。女たちは久しぶりに見るその生き物をまじまじと眺めた。蘭子以外のその場にいたものは、それをしばらくまったく見たことがなかった。マモルは口を開いた。

「はじめまして、宮本マモルといいます。」
「来月から、この街に住むことになりました宮本さんです。」藍は、男を見つめながら石化してしまった女たちに声をかけた。そう言うと、彼女は自分専用の真っ黒な長い箸を手にとって、親指に挟んで両手を合わせ、小さな声で自分のためだけに言うみたいに「いただきます」と言って、ほうれんそうの和え物に手をつけて食べ始めた。そのあと、藍は「あー、耐えられなかった。」と言って、缶ビールの蓋を開けて飲み始める。それには、ゆうこが最初に驚いた。

「食べるんですか。」

「は?」
「母さん、男の人だけど。」と、蘭子。

「自由性党に属してもらったので、この人には新しい性別があります。」
「なににしたんですか。」
「『粘着テープ』です。」とマモルは真顔で答える。藍は甘辛く味付けをした焼きそばを手にとって食べ始める。サエがテレビを消してテーブルにつく。藍が母親にほうれん草の和え物と、少量の白米、鳥骨のスープをよそう。小さな口をもぞもぞ動かしながらサエはほうれん草を口に入れ始める。ゆうこが、

「みんなでいただきますとかしないんですか。」

「お前、勘違いしてるかもしんないけど、俺はお前らをもてなしてるわけじゃないからな」藍は自分のことを「俺」という。

「自分が作りたいから作っただけで、食べたい分だけ食べたら残りは捨てるし、皿だって洗わないから。」

「はいはい。子どものときから聞き飽きた。『お前らは私の残飯を食べている』」と、蘭子が藍のほうを睨む。それから蘭子が鳥骨スープに、みぎがほうれんそうに、マモルが麻婆豆腐に、最後にゆうこがかぼちゃのサラダにという順番に手をつけてそれぞれに食事を始めた。

「マモルさん、あなたはこの人が『粘着テープ』と言えば、『粘着テープ』だけど、一般的には男性ですからね。」蘭子に話しかけられて、マモルは黙っていた。

「蘭子さん、一般的とか言うとすぐ年とりますよ」と、ゆうこが言うと藍が、

「二回目。」それから、蘭子が付け足す。

「性別については、それは母さんたちの理屈でしょ。みぎさん、いいの?」
「宮本さんは生物学的には男性で、性傾向は男性です。宮本さんがここで暮らしていくことについてはさまざまな意見はありましたが、議会では彼の入居を決定しました。将来的にはそれは有益な結果をもたらすというのが私たちの結論です。」

「かたいかたい」と藍は箸をふる。

「マモルくん、この女はここの住人じゃないから、なに言われても気にしないように。」藍は蘭子の顔を見ずに、彼女を指差した。
「誰と住むかは決まったんですか。」とゆうこが口を挟む。
「お前だよ、ゆうこ。」と、藍。
「え? 初耳ですけど。葉子ちゃんは?」

 この街では、一人暮らしが禁止されている。ゆうこが、最初に同居したのは葉子という女性だった。彼女は前髪が長くて、後ろを刈り上げた髪型をしていて、いつもTシャツにハーフパンツという格好をして華奢だったので、どちらかというと少年のような外見をしていたが、年齢はゆうこよりも少し上とのことだった。彼女はゆうこがやってくるまで、今のゆうこと同じ葬式の仕事をしていた。人前では愛想がいいが、家にいるときはほとんど喋らず、ずっとテレビゲームをやっている。彼女のお気に入りは「プッシーキャノン」というタンポン型の爆弾で、プレイヤー同士が攻撃し合うオンラインゲームだ。以前から彼女は突然いなくなって猫のように失踪することがよくあったが、最近は家を空ける日数どんどん増えている。

「あいつ、帰ってきたの?」と、藍。

「月曜日に。」

「葉子さん、また家出したんですか」みぎも彼女のことはきにかけている。」

「家出っていうかもう最近月の半分以上、家にいないかな。」

「じゃあ、決定。ゆうこで決まり」
「それは、よろしくお願いしますってことですかね。」マモルの声は楽器のように透き通っている。
「嫌なの?」藍が、ゆうこを箸で指差した。その小籠包を一つつかむ。
「いや、そんなことは言ってないですけど、今、初めて聴いたんで面食らっちゃって。」
「玉城さん、いきなりじゃないから大丈夫。宮本さんには、しばらくこちらで提供した施設に暮らしてもらって、あなたを含めたパートナー候補者にたまに会っていってもらう。」みぎがフォローにはいる。
「他にも候補がいるんですか。」蘭子がみぎをつつく。
「何人かいます。」
「適当なこと言うんじゃないよ。」藍はみぎのほうにはきちんと顔を向けて話す。
「マモルさん、麻婆豆腐なくなりそうだから私の食べますか?」蘭子の隣にはマモルが座っている。

「ありがとうございます。」

「マモルさんは、いわゆる男性が好きな方なんですか。」
「……はあ、女性にそういう気持ちを持ったことはないです。」
「マモルくんさ、自分から喋んないと、いろいろ聞かれるよ。」

「母さん、どういう基準で選んだの?」

「坊、麗聲。坊やん、歌え歌え麗人」

「婆さん、日本語喋れ」

「藍姉、恫せいしい。婆、平心さい」

「なんて言ったんですか」

「マモルさん、声が綺麗だから歌とか上手そうだねって。」

「藍さん、どういう基準でマモルさんはOKになったの?」と、ゆうこ。

「ポルノをみるかどうかだよ。こいつはアダルトヴィデオを見ない。」藍がそう言うと、マモルがむせる。

「あんまり、煽らないでください。」咳をしながらマモルが制する。
「煽ってないさ、ただ、ここだって社会なんだ、いろいろ言うやつがいる。」
「じゃあ、マモルさんはなんでここに、住もうって思ったんですか。」
「蘭ちゃん、それは聞かないことになってるの。」と、みぎが蘭子の質問を止める。

「いいんです。私にはとても住み心地がういと感じました。蘭子さんは昔ここに住んでいたんですか?」マモルは話すときに、箸が止まり、丁寧に言葉を選ぶ。

「まあね。」

「なんで出て行ったんですか。」

「そうね。私も住み心地はよかったよ。私は3歳の頃から引っ越してきて。大学もここから通ってたし、今の仕事が軌道に乗るまでだから3年くらい前まで四半世紀はここで暮らしてた。」

「なんで出たんですか。」

「うーん、住み心地がよすぎるからかな。甘やかされてる気分になる。確かにここは奇跡みたいな場所だし、何かのゴールみたいなところだとは思う。でも、自分が若いともうこれ以上この先に行くところはないというのはなんていうか、重いの。なにかをサボってるみたいな気分になるっていうか、もしくは自分が老人みたいな気分になる。」蘭子はそう言い終えて、藍とみぎの背筋がぴりっと震えるのを感じて黙った。マモルにはそれが伝わらなかった。

「ふーん。自分の才能を試してみたくなったみたないことですか。」

「……才能っていうより、使命かな。暇だったんだよ。なんかここにいるとやることなくなっちゃうんだよね。」

「蘭子さん、その辺にしておいたら。」みぎが制する。

「マネージャー気取りだ。」藍が茶化す。

「本物のマネージャーは休暇に出てます」蘭子が割って入る。彼女は二人の仲が想像以上に悪いのを肌で感じ取る。

「藍さん、言いたいことがあるなら娘さんに直接、言ったらどうですか。私は仲裁しませんよ。」

「それはお前だよ。人の娘を自分の駒みたいに使って。それで、鬼の首でも取ったつもりか。自分じゃわかんないか。お前が自分の言いたい子を蘭子に代弁させてるんだよ。」

「政治の話なんかしたいわけじゃないです。今日は仕事じゃないしプライベートで食事をしに来た。」

「その格好でか。」

「ここは議会じゃないし、あなたは議員をやめてる。

娘さんの方があなたよりもずっとよくいろんなことをわかってる。ここは奇跡みたいな場所だと私も最初は思ってたし、でもそうだからこそそんなもの長くは続かない。あなたは子どもみたいに先のことを考えてこなかった。」

「みぎさん、ごめんなさい。悪いけど、私と母の間ではもういろんなことが解決されてるの。喧嘩もたくさんしたし、私たちはもう関係ない。」蘭子がみぎを制した。

「ほら、こいつは自分が捨て子だってよくわかってるよ。こいつは人の役に立ちたいんだ。」

「自分の可能性を試したいですか。」マモルが口を挟み、みぎと目があったので、

「すみません」と謝った。

「私は私でこいつのことは尊重してる。好きなようにやればいい。金がほしいでもいいし、偉くなりたいでもいい、そういう魂胆があるから男だとか女だとか言われるんだよ。言いたい奴には言わせてぼこぼこにされればいいじゃないか。私はもう助けないって話もしてある。」

「一度も母さんに助けてなんて言ったことはない。」

「一度も助けてやろうなんて思ってない。」

「認めてくれたことは感謝してる。」

「認めてなんかないさ。区切りがついただけだ。」藍は、箸を止めてみぎのほうを向いた。

「蘭子はわかってる。お前はわかってない。みぎ、お前は自分が男になりたがってるだけだとわかってない。いいか、お前はなんの役にも立たない。私もなんの役にも立たない。ただ、お前には役に立たないことに耐える強さがない。人様の役に立ってなにがうれしいんだ。自分の価値ぐらい自分で決めろよ。お前らなんかもてなす気さらさらねえよ、この飯は全部俺の残飯だ。作りたいから作った、食べるためじゃない。食べたい分だけ食べたら、皿は洗わねえ。」

「ずっと勝手なのよ。勝手やつだけが人間だと思ってる。私が小さいときからそう。私は、この人のことをただの老人だと思ってる。人に認められなくてもいい、どう見られてもいいって思ったら成長が止まる。すぐに年をとる。」と、蘭子が言うと、いつのまにかうつらうつらとしていたサエが茶碗をひっくり返し、鳥骨のスープをこぼす。蘭子の服の上にこぼれて、あー、とショックの声をあげて必死でシミを拭き取ろうとする。マモルが「きれいな仕立ての服なのに」と小さな声で言う。藍はため息をついて、隣に座っていたゆうこに愚痴をこぼす。

「あいつが、4歳のときにさ、初めての子だったし、とにかくすぐどっか行くから手間がかかってしかたなかったけど、離乳食のスープひっくり返したことがあったんだよ。また面倒臭いことしやがってって思ったけど、あいつ、ぐちゃぐちゃのにんじん握りしめたなんて言ったと思う?」

「なんて言ったんですか?」

「『ぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん、きもちいね、おやさい』だって。」

「食べ物で遊んでたんですか」

「そう。尊敬したよ。それがさ、残念だね。」藍は蘭子がブランドものの服にシミがついてショックを受けているのが許せないと言った。

「藍さん、蘭子さんのこと好きなんですね。」とゆうこがつぶやいた。

「いいですけど、私にはそういうのまだちょっときついです。母親の話なんて。」とゆうこが言い添えると、藍が顔をくしゃくしゃにした。マモルは床を、蘭子はサエの服を拭いていた。

「あー。悪かった。」

「いいです。許します。藍さんのこと好きだから。」

 

 時刻は18時半を回っていて、外で花火の音がした。

 外は暗くなって、地上にあるコンビニとその前の交差点を左右に行き来する車のフロントライト、車が走り去っていく橋の上のオレンジ色のナトリウム灯だけが目立つようになった。15分遅れで打ち上げ花火が始まる。赤と黄色や、緑と青の組み合わせで空に舞い散る花と、数秒遅れでやってくる爆発音を聞きながら、女たちはフローリングの上に立ち上がってベランダに繰り出す。スリッパは脱げて、ゆうことマモルの素足がフローリングに張り付いてペタペタ鳴る。

 ベランダから望む景色の中にはコンビニの前の駐車場にもその向かいのコインパーキングにも人が詰めかけ、二つかかった橋の打ち上げ場所に近い方では交通規制がかけられ、通行止の柵にランプが灯され、家族連れや友人連れや浴衣を着た同性同士のカップルが花火を見上げる。隣の棟のマンションには同じようにベランダにキャンプ用の椅子とテーブルを広げてお酒を飲みながら花火を見上げる人たちの姿がある。そこに見える、人たちの一人残らずが女性である。

 藍は一人、寝室のほうにすたすたと行って、おそらく部屋を片付けている。戻ってきて、彼女が、こっちのほうが能く見えると言って、女たちを自分の寝室へと誘う。何人かがベランダから玄関のほうの廊下に向かってダイニングを横切る。ソファの上ではサエだけが眠っている。テーブルの上には食べかけの麻婆豆腐、焼きそば、和え物や、蓋が開いたままの瓜の漬物ケースが放置されている。藍と蘭子、マモルのハシはばらつき、サエの席の醤油小皿からしぶきが周囲に飛び散っている。

 ゆうこが戻ってきて、

「おばあちゃん、メガネ壊れるよ」と言って、メガネをかけたまま、ソファの上で寝転んだせいでそれが顔からこぼれ落ちそうになっているのを見つける。彼女のメガネをとってたたむが、そのときに彼女が息をしていないことに気がつく。何度か彼女の口元に耳をあてて確認する。

「藍さん、ちょっと、救急車!」

 慌てて人が集まってきて、すぐにこのマンションに救急車が呼ばれる。花火のせいで通常よりもかなり到着が遅れるが、その間に藍と蘭子、ゆうこが外出の準備をしている。

 サエの表情があまりに安らかなので藍は、

「もう死んだんじゃない? 諦める?」とつぶやく。誰も笑わない。

 救急隊員が到着して、ストレッチャーに乗せて彼女を運んでいく、救急車には藍と蘭子が乗ることになる。ゆうこも後からタクシーで追いかける。

 10数分後、取り残されたみぎは、勝手にキッチンの戸棚を漁って見つけたマモルに話しかける。

「この絵の話、もう聞いた?」

「絵ですか?」

「これはジャクソン・ポロックが描いた『牡オオカミ』というもので、有力な世界の美術コレクターたちの間でもあまり知られていないんです。はっきり言って本物かどうかわかんないけど。ニューヨーク近代美術館に所蔵されているもう一つの作品っていうのがあって、それは「牝オオカミ」。こっちのほうがずっと有名でそこには、ローマ建国神話に登場する二人の子どもロムルスとレムスに乳を与えて育てたという一頭の牝オオカミが描きこまれている。

 私がこの絵を初めて見たとき、藍さんは、絵の目の真ん中の緑色の絵の具が一筋だけ垂らされた部分を指し、これはオオカミの目なのだと教えてくれた。これは人間の子どもに奪われた自分の母親の乳房を見つめる、嫉妬深い息子オオカミの目だって。」

「みぎさんも、藍さんとは前は仲が良かったんですよね。」

「私たちは性別というのがどうでもよくなったところで生物学的な男とか女とかを無視して暮らしていける社会を実現しようという話をした。ずっと昔に。ここはそういうのに近いところなのかもしれない。でも、こんな場所がある時点で、この外にそうではない社会があることの証明になっている。私は、まだ自分が女性であるということを主張する必要があると思っている。それが私の弱点になることもある。藍さんの言うことはよくわかっているつもり。

はあ。女に生まれたとかいうことをどうでもいいことみたいに思える人は結構たくさんいる。多分。男の人でもそう。男だとか女だとかっていうことを気にするのは、収入とか、社会の中での自分の立場を気にしている人だけ。そういう人もまたたくさんいる。そういうのが嫌になった人がここに逃げてくるけど、ここをそういう避難先のシェルターみたいな場所にはしたくない。藍さんはそういうこともわかってる。」

「好きなんですね」

「たぶんね」みぎは寂しそうな顔をした。なぜ自分はこの男にいろんなことを話すのだろうか、不思議に思った

「僕は、昔、小さなウェブサイトで記事を作る仕事をしていたことがあります。おばさんの定義というものについての若い女の子の、モデルかなんかの座談会だったかの構成をしました。その子たちは化粧とか服とかの話をして、自分が人から見られることがどうでもいいと思ったらもうおばさんだという話をしていました。牡オオカミは私たちを今でも見張っている。」

みぎも繰り返した。「牡オオカミは今でも私たちを見張っている。

 マモルはそのとき、俺の目をじっと見つめた。

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