吾輩は鬼である

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梗 概

吾輩は鬼である

 

吾輩は鬼である。角はまだ無い。

どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも白くて四角い平面の上でグリグリと押し付けられていた事だけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは幼稚園児という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この園児というのはしばしば自分で描いた我々を気に入らないとぐちゃぐちゃに塗りつぶして消してしまうという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。

この園児の家でしばらくはよい心持に寝ておったが、しばらくすると彼が窓を開けて何かを勢いよく投げつけながら「鬼はぁ外ぉ」と繰り返し叫び始めた。確かこの園児は吾輩のことを「青鬼さん」と言っておったので吾輩は出てゆかねばならぬかと思い、開けられた窓の隙間から外へ出た。

吾輩は庭の窓の前に坐ってどうしたらよかろうと考えてみた。しばらくして泣いたら園児がまた迎に来てくれるかと考え付いた。オーン、オーンと試みにやってみたが誰も来ない。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。しかしどの家の窓もぴたりと閉まっていて中に入れない。夜が明けてようやくの思いで辿り着いたのはだだっ広いグラウンドと馬鹿でかい建物のあるところだった。ここで吾輩は彼の園児以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのが教師である。これは前の園児より一層乱暴な方で吾輩を見るや否や「ぎゃあ鼠ぃぃぃ」と叫びながらいきなり箒をつかんで表へ抛り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって建物の縁に沿って目立たぬように歩いていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は巨大な建物の入り口から再び中へ入った。そこには靴の入った箱が縦横に並んでおり、吾輩は箱の一つを適当に選んで中へ身を隠した。しばらくして靴の持ち主と思しき者が現れた。彼女は吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがて「あんたキモ可愛いな」といって吾輩を肩へ乗せそのまますたすたと歩いていった。かくして吾輩はついにこの人を自分の主人と極める事にしたのである。

吾輩の主人は滅多に勉強しない。身分は女子高生だそうだ。学校へ行くと机の上に教科書を立てその後ろに漫画を隠して読んでいる。女子高生というものは実に楽なものだ。人間と生れたら女子高生となるに限る。それでも主人に云わせると女子高生ほどつらいものはないそうで彼女は休み時間が来る度に友達と何とかかんとか不平を鳴らしている。

吾輩は女子高生と同居して彼女等を観察すればするほど、彼女等の美的感覚は不思議なものだと断言せざるを得ないようになった。彼女等の間ではいま小鬼を肩に乗せるのが流行っている。元来人間は鬼を恐れ或いは邪険に扱い遠ざけるものだというのに、女子高生は鬼をファッションの一部として取り入れている。赤や青や黄色は勿論のこと緑や紫や橙等さまざまな肌の色の鬼がいる。角の本数やパンツの柄もまちまちである。だが吾輩のように角の無いのは珍しい。それで鬼の間では馬鹿にされる事も多い。

ある時吾輩は家の裏で野良鬼に遭遇した。彼は純粋の黒鬼である。彼は鬼中の鬼とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。彼は御めえは一体何だと云った。吾輩は少なからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑だと思ったから「吾輩は鬼である。角はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた。しかし彼は大いに軽蔑せる調子で「何、鬼だ? 鬼が聞いてあきれらあ」随分傍若無人である。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己れあ桃太郎の絵本の鬼よ」昂然たるものだ。桃太郎の鬼はこの日本で知らぬ者なき乱暴鬼である。彼は吾輩に向って下のごとく質問した。「御めえは今までに宝をいくつとった事がある」腕力と勇気とに至っては到底彼の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかった。けれども事実は事実で詐る訳にはいかないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕らない」と答えた。彼は牙を剥き出して非常に笑った。

吾輩は悪さをしないから別段尊敬もされないが、まずまず健康でその日その日を暮している。教師は未だに嫌いである。角はまだ生えないが、欲をいっても際限がないから生涯この女子高生の肩の上で無名の鬼で終るつもりだ。

文字数:1814

内容に関するアピール

なぜ鬼には角があるのか。これは解明されていない謎のひとつだと言います。角のある動物は基本草食で、獰猛なものはいないらしい。鹿しかり、山羊しかり。なのになぜ、我々は鬼に角を描くのか。そのことが大変気になって、それを考えるためにこの話を書きはじめました。

また、女子高生の流行の発生形態にも興味があります。私もかつて女子高生だったときには、流行の発生の瞬間というものを何度か目撃/体験しました。あの独特のセンスと女子高生のバイタリティーには、単純に希望がもてる気がします。女子高生の前には鬼もたじたじとなるでしょう、それは多分、何かとてもいい意味で。

実作にあたり課すルールは、「夏目漱石『吾輩は猫である』の第一話全文を模倣して書くこと」とします。

文字数:320

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吾輩は鬼である

 

吾輩は鬼である。つのはまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも白くて四角い平面の上でグリグリと押し付けられていた事だけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは幼児という人間中で一番獰悪どうあくな種族であったそうだ。この幼児というのはしばしば画用紙にかいた吾等を気に入らないとぐちゃぐちゃに塗りつぶして消してしまうという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の両手に掴まれてバタバタと振り回された時軽く眩暈に襲われたばかりである。机の上で少し落ちついて幼児の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。この時人間とは妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一顔の下半分がぬらぬらと濡れて光っている。これが鼻水とよだれという幼児特有の排泄物である事はようやくこの頃知った。
 この幼児の家でしばらくはよい心持に寝ておったが、しばらくすると幼児とその両親が窓を開けて何かを勢いよく投げつけながら「鬼はぁ外ぉ」と繰り返し叫び始めた。たしかこの幼児は吾輩のことを「青鬼さん」と云っておったので吾輩は出てゆかねばならぬかと思い、開けられた窓の隙間から外へ出た。
 ふと気が付いて見ると幼児はいない。窓はぴたりと閉ざされている。吾輩は暖房の効いた部屋の中から急に冷たい土の上へ棄てられたのである。吾輩は庭の窓の前に坐ってどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別も出ない。しばらくして泣いたら幼児が迎に来てくれるかと考え付いた。オーン、オーンと試みにやって見たが誰も来ない。そのうち周囲の家々から夕餉の香りが漂ってくる。腹が非常に減って来た。しかしどの家の窓もぴたりと閉まっていて中に入れない。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。彼の幼児が吾輩を頭でっかちにかいてくれたおかげであるきづらい事この上ない。一尺程の身長の半分が頭、手足は短い上にひょろひょろである。途中吾輩と同じく家を追い出され途方に暮れている同族数十疋と遭遇し慰められもしたが、夜通しあるいてようやくの思いで辿り着いたのはだだっ広い運動場と幼児の家の軽く廿倍はあろうかという巨大な建物のあるところだった。
 ここで吾輩は彼の幼児以外の人間を再び見るべき機会に遭遇したのである。第一に逢ったのが教師である。これは前の幼児より一層乱暴な方で吾輩を見るや否や「ぎゃあ鬼ぃぃぃ」と叫びながらいきなり頸筋くびすじをつかんで表へほうり出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再び教師の隙を見て建物の中——今思えばそこは教員室だった——へ這い上がった。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、何でも同じ事を四五遍繰り返したのを記憶している。その時に教師と云う者はつくづくいやになった。この間教師の目をぬすんで彼の履いている健康サンダルのいぼを左右十本ずつ残して全て抜き取ると云う返報をしてやってから、やっと胸のつかえが下りた。それを履いた瞬間二十本の疣の上に全体重が乗りかかり痛みに卒倒する彼の顔は実に見物だった。吾輩は何度目かに教師に摘み出された後、ついに諦めて巨大な建物の縁を目立たぬようにあるいて行った。少し行くと大きなガラス扉があったので、その隙間から再び中へ入った。そこには靴の入った箱が縦横に並んでおり、吾輩は箱の一つを適当に選んで中へ身を隠した。程なく靴の持ち主と思しき者が現れた。彼女は吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがて「あんたキモ可愛いな」といって吾輩を肩へ乗せそのまますたすたとあるいて行った。かくして吾輩はついにこの人を自分の主人と極める事にしたのである。

 

吾輩の主人は滅多に勉強しない。身分は女子高生だそうだ。学校へ行くと机の上に教科書を立ててその手前に漫画を隠して読んでいる。教師が近付いて来る気配を敏感に察知するとさっと漫画を机の中にしまい帳面に何やらもっともらしく書きつける。いなくなるとまた漫画を広げる。近付いて来るとさっと隠す。学校の教室でも自宅の勉強部屋でも同じことを繰り返す毎日である。しかしこの怠け癖は一概に彼女一人を責めて済む問題ではないかも知れぬ。人間は誰でも先祖代々受け継いで来た苗字というものを持っているらしい。彼女の苗字は「乗鞍のらくら」と云う。この苗字から推察するに、彼女に怠け心が働くのは家系ゆえのものである可能性が高いのではないかと踏んでいる。彼女は周囲から「乗鞍のらくら」と呼ばれる。女子高生の間には友人から名前ではなく苗字で呼ばれる苗字族なるものが存在し、彼女等が苗字で呼ばれる理由は優等生であるか、変わった苗字であるか、平凡な名前をもつために渾名の案が尽きたかである。彼女の場合は主に二番目の理由による。吾輩もこれからは周囲に倣い彼女のことを「乗鞍のらくら」と呼ぼうと思う。
 さて怠け者の乗鞍の話である。彼女よりも吾輩の方が余程授業を聞いているのはたしかだ。吾輩は未だ教師は苦手だが、乗鞍の肩の上にいる限り教師の講義は厭でも聞こえてくるのだから仕方がない。先日も乗鞍が試験前に何やら慌てた様子で古文の穴埋問題をやっていたから、時間の短縮のためにと吾輩が答を教えてやった。「春は……何だっけ」「団子。やうやう薄くなりゆく白皮、少し破れて、紫だちたる餡子の細くはみ出たる」「ふむ。夏は?」「氷。練乳をかければさらなり」「たしかに。秋は?」「焼芋。夕日の差して焚火の燃えさかるときに」「おお文学的だね。冬は?」「蜜柑。炬燵の中では云ふべきにもあらず」吾輩がすべての問に即答すると「あんた鬼賢いわ」と非常に感謝された。こんな単簡に騙されるとは思わなかったので少々心配にもなったが、返却された答案用紙の十二点という点数を眺めてまずまずといった感じで頷いていたのでまあ大丈夫なのだろう。吾輩は鬼ながら時々考える事がある。女子高生というものは実に楽なものだ。人間と生れたら女子高生となるに限る。それでも乗鞍に云わせると女子高生ほどつらいものはないそうで彼女は休み時間が来る度に友達と何とかかんとか不平を鳴らしている。
 吾輩は女子高生と同居して彼女等を観察すればするほど、彼女等の美的感覚は不思議なものだと断言せざるを得ないようになった。彼女等の間ではいま小鬼を肩に乗せるのが流行っている。小鬼を手に入れるには、吾輩のような落書きから生れた野良鬼を拾うか、絵本やアニメに登場する有名な鬼のキャラクターを買うか、昨今では鬼のブリーダーと呼ばれる人々がかいた絵から生れた鬼を何百円という低価格で購入することもできる。中古の鬼であれば一円から販売されている。元来人間は鬼を恐れ或いは邪険に扱い遠ざけるものだというのに、女子高生は鬼をファッションの一部として取り入れているから不思議だ。彼女等は世間では「鬼ギャル」と呼ばれている。鬼の不細工な顔を隣に並べておけば自分の顔がより可愛く見えるという算段らしいが、実際のところはどうだろう。随分以前に流行したらしいルーズソックスなる靴下も、脚を細く見せるという触込みで実のところ太い脚は余計に太く見えるという事態に陥っていたと聞く。犬と飼い主の顔が似ているという話もしばしば耳にする。無意識に自分に似た顔の犬を選んでいるという説や、一緒に暮らすうちに似てくるのだという説もあるが、吾輩はまた少し違った考を持っている。元来犬と人間はどの犬とどの人間を較べても似ているのである。犬も人間も同じく二つの目と一つの鼻と一つの口を持っているのだから、双方に共通点を見出せるのは当然である。それが殊更似て見えてしまうのは顔の認識能力に長けた人間の視覚の偏りのせいではないかと思われる。いずれの説が正しいにせよ、鬼と女子高生の顔も似て見える可能性が高いという事は明かである。しかればなるべく造作のいい顔を横に並べておいた方が得ではないかと思うのだが、女子高生はそういう理窟には思い当たらないらしい。相変わらず「ブサかわ」「キモかわ」面の鬼をもてはやしている。以前「大変に可愛い」という意味で用いられていたらしい「鬼可愛い」という言葉は、現在では字義通りに不細工の意味合いを色濃くもつようになった。
 近頃の「鬼ギャル」は小鬼を肩に乗せるだけでは飽き足らず、休日になると新宿歌舞伎町にある鬼ギャルの聖地〈鬼ヶ島〉で開催される変装祭コスプレイベントに繰り出し、自ら鬼の格好をする。全身の肌を赤や青や黄や緑や橙や紫等その時々で好きな色に塗り、角を付け、丈の短いズボンやスカートに派手な色の上衣を身に付けて撮影会を行うのである。吾輩も乗鞍に連れられて度々〈鬼ヶ島〉に行っている。鬼ヶ島というからには海に浮かぶ島を思うが、そうではない。八階建のビルヂングで鬼関連の小物が売られている雑貨屋や洋服屋、飲食店等が入った商業施設である。撮影会場はその最上階にある。彼女等が一体何の目的で鬼の変装をするのか、全く理解が出来ぬ。美しさを目指す訳でもない。可愛さを目指す訳でもない。事実美しくもなければ可愛くもないのである。否、彼女等の「可愛い」という概念は無限に拡張を続けているのかも知れぬ。しかし彼女等の云う「鬼可愛い」のどこが可愛いのか最早本物の鬼にすら理解出来ぬと云う有様である。そう云えば「鬼ピース」という何やら意味深長な言葉もそこで覚えた。鬼ギャルたちが人差し指と小指の二本を突き立てて作る「鬼ピース」は鬼のつのを表すそうだ。しかもピースサインは平和の象徴である。無論彼女等がそのように喧伝している訳ではなく、何とかいう有名な社会学者が彼女等に何某かの可能性を見出そうともっともらしく云っているだけのことである。とは云え角のない吾輩は「鬼ピース」という言葉を聞く度に多少の疎外感を持たざるを得ない。悄然とした吾輩を見ると乗鞍は「鬼ピース」を吾輩の頭の上に突き立てて写真を撮ってくれるが、未だ本物の角を付けてくれることはない。「あんたは角のないところが間抜けで可愛い」のだそうである。やはり吾輩には女子高生の美的感覚がよく分らぬ。

 

つので思い出したからちょっと吾輩の主人がこの角で失敗した話をしよう。元来乗鞍は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。傍目には全く違いの分らない程度の減量をして喜んだり、踊りを習えば四六時中YouTubeを見ながら外れた拍子で手足を奇妙に動かしたり、時によると爪の絵付けに凝ったり、歌を習ったり、またあるときはギターなどをポロポロ鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。やり出すといやに熱心だが直に飽きてしまう。この間もどういう考になったものか、授業中に漫画を読まないで一枚の紙面を何やら熱心に見つめていた。何を読んでいるのかと思うと「鬼の角デザインコンテスト」と書かれた案内の紙でそれに応募する決心と見えた。かくべき絵は鬼の角だけであるし、文章も素材や特徴について単簡に記すだけとあれば自分にも十分務まるとの判断らしかった。デザイン性と実用性が共に重視されるという審査を経て、優秀作品の何点かは実際に商品化され「東京ガールズコレクション」というファッションショーで披露されるとある。この手のコンテストは想像を絶する程倍率の高いものだと思うが、当人はこれでちょいと小遣い稼ぎでもしようという魂胆に違いないのだからおめでたいものだ。果してその日から当分の間というものは毎日毎日授業中に絵ばかりかいている。しかしそのかき上げた物を見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまり甘くないと思ったものか、ある日漫画の得意な友人の稲森いねむりに下のような話をしているのを聞いた。彼女は授業中いつも居眠りばかりしているために「稲森いねむり」と呼ばれている。
「案外むずかしいもんだね。つのくらいなら自分にもかけそうだと思ったけど、実際かいて見ると全然ダメだわ」これは乗鞍の述懐である。なるほど詐りのない処だ。稲森いねむりは金縁の丸眼鏡越に乗鞍の顔を見ながら、「初めから上手にはかけないよ、しかもこんな直線ばっかでいいつのがかける訳ないじゃん。もっと曲線を使えるようにしないと。手塚治虫なんかはフリーハンドで完全な円が描けたっていうからね。乗鞍も本気で画をかこうと思うならちょっと円の練習から始めてみたら」「へえ手塚治虫はやっぱすごいね。全然知らなかった。なるほどね。うん、そうしよう」と乗鞍は無暗に感心している。稲森いねむりは金縁の裏で笑を噛み殺しながら去って行った。
 その翌日の授業中、乗鞍が例になく帳面に向かって何かしきりに書きつけている。何をしているかと見ると、彼女は余念もなく手塚治虫を極め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼女は彼女の友に揶揄せられたる結果としてまず手初めに円の練習をしているのである。しかし誰にも容易に想像がつく通り、平面絵画における円は立体彫刻における球と同じく老成円熟の技を要求せらるるものであって、素人が一朝一夕に習得できるような代物ではない。乗鞍の帳面には大小無数の円が隙間なくかかれているが、どれも完全な円には程遠い。これでは駄目だと気づいたのか、そのうちに彼女はコンパスで幾つも円をかいてそれをなぞり始めた。しかしそれですらはみ出さずにかくのは余程難しいと見える。吾輩は心中ひそかにいくら手塚治虫でもこれではしようがないと思った。そもそも幾ら円をかけるようになったところで角のデザインとは関係がない。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら何も云わずに気の済むまで好きなようにさせてやりたいと思ったが、早速次の休み時間に稲森いねむりから話を聞き付けた友人の白敷はくしきが乗鞍の様子を覗きにやって来た。
「そんなに円ばっか描いてどうするつもり」至極もっともな感想である。乗鞍は自己の浅学を棚に上げて「何事もまずは基礎が大事じゃん」と返す。「でもつのかくのに円とか関係なくない?」「いや、だから角の曲線を上手にかくための基礎練だって」乗鞍は稲森いねむりを余程信頼していると見える。しかし「だったら初めから本物の角を見てかく練習すれば?」と白敷が云えば、案外あっさりとそれもそうだと思ったらしい。彼女は素直と云えば聞こえはいいが兎角人の云う事に流され易いという欠点がある。「どうやって?」「この教室にだって鬼は何疋もいるし。あ、乗鞍の鬼は角ないけど」白敷は吾輩の方をちらりと見遣った。吾輩は角の話になると肩身が狭い。乗鞍は吾輩を肩から卸し、角のない頭をぽんぽんと叩きながら答える。「でも新しい角のデザインを考えなきゃいけないわけで。すでにある角をかいてもしょうがなくない?」吾輩がそれはちょっと首肯しかねると思ったところ、白敷も直に反駁した。「それは違うよ、乗鞍。新しいアイディアは古いものを知った上に生まれるもんでしょ。そうだ、ならいっそのこと超昔の鬼の絵を練習すればいいじゃん!」「はあ?」「温故知新。行き詰まった時は原点に戻れ。昔の鬼の絵に案外新しいデザインのヒントがあるかも」行き詰まる程乗鞍はまだ何事も為していないと思うが、白敷の云う事には一理ある。「私さ、古代から近世までの鬼の絵が沢山載った本持ってるから貸してあげるよ」「出た、オニヲタ」乗鞍は早々に円の修行をやめて翌日から白敷の本で昔の鬼の絵の模写を始める事となった。
 吾輩は現代の鬼の端くれとして自己の起源を知っておくのもよかろうと考え白敷の本を興味深く眺めた。古代の鬼はどれも妖怪じみていて、現代の感覚からすると到底鬼とは呼ばれ得ぬものも多くある。現代の漫画とは筆遣いが根本的に異なっている。たしかにそれは新しいデザインを生み出すためのアイディアの宝庫である。白敷の方策は案外功を奏するのではないかと期待を込めて乗鞍のかく絵を見れば、しかし、妖怪じみた鬼を縁取る曲線がもっと別の意味で妖怪じみていて目も当てられぬ惨状であった。これ以上乗鞍のかく絵を眺めていても得るものはないと判断した吾輩は再び本の方へ視線を戻した。中でもとりわけ興味深かったのは、古代の鬼が必ずしも角を持っている訳ではなかったという事実である。絵図に添えられた文章を見てみると「角をもった鬼の顔が刻み込まれるようになるのは、鎌倉時代以降のこと」と書かれてある。鬼の鬼たる所以は角にある訳ではない、その事に思い当たった吾輩はこれまで眼前に立ち込めていた霧がサーッと一気に晴れる思いがした。吾輩はこの大発見を是非とも乗鞍に訴えたい衝動に駆られた。しかし授業中に鬼が私語をすると教師に摘み出されかねない。吾輩は次の休み時間の来るまでじっと辛棒しんぼうしておった。それでも嬉しさは隠し切れなかったようで、ついつい口元がゆるんでしまう度に吾輩は教師から厭な目で睨まれた。
 心待ちに待った休み時間が来ると吾輩は早速乗鞍に云った。「古代の鬼には角のない者が沢山あるね。と云う事はつまり鬼にとって角というのは本質的なものではない訳だ」「ナール」と乗鞍は引張ったが「ほど」を略して考えている。乗鞍が自分の考を纏めるよりも早く、様子を見に来た白敷が云った。「確かにさ、乗鞍はせっかく角のない鬼を持ってるんだから、そっちの方向で攻めた方がいいかもね」何をどう攻めるのかは解せぬが、結局角コンテストの話はこれにて立ち消えとなった。乗鞍も画において望のない事を早々に悟ったものと見える。

 

女子高生の間では何とか吾輩の面目も保たれた格好だが、鬼の世界に入ればそうもゆかない。角のないせいで馬鹿にされる事もしばしばである。
 乗鞍の家の裏に図書館がある。建物の前には広くはないがさっぱりとした心持ち好く日の当る噴水広場がある。乗鞍が両親にがみがみと叱られて楽々昼寝の出来ない時や、休日に乗鞍が昼過ぎまで寝ていて退屈した折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然の気を養うのが例である。ある初夏の爽やかな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの図書館前広場へと歩を運ばした。噴水の飛沫の上に掛かる小さな虹を眺めながら、池のほとりの大きな欅の木の根元までくると、横に置かれたベンチの上に大きな鬼が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾をして長々と体をよこたえて眠っている。人間用に置かれたベンチの上でかくまで平気に睡られるものかと、吾輩はひそかにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒鬼である。わずかに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上にげかけて、はち切れんばかりに盛り上がった腹より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。彼は小鬼中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して余念もなく眺めていると、静かなる初夏の風が欅の枝を軽く誘ってはらはらと一枚の葉が黒鬼の顔面に落ちた。大王はかっとその真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて、御めえは一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが何しろその声の底に獅子をもしぐべき力が籠っているので吾輩は少なからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑だと思ったから「吾輩は鬼である。角はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大いに軽蔑せる調子で「何、鬼だ? 鬼が聞いてあきれらあ。全てえどこに住んでるんだ」随分傍若無人である。「吾輩はここの女子高生の家にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠せてるじゃねえか」と大王だけに気焰を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の鬼とも思われない。しかしそのあぶら切って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己れあ桃太郎の絵本の鬼よ」昂然たるものだ。桃太郎の鬼はこの日本で知らぬ者なき乱暴鬼である。しかし日本一の乱暴鬼だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って下の問答をして見た。
「一体桃太郎と女子高生とはどっちがえらいだろう」
「桃太郎の方が強いに極っていらあな。桃太郎はこのおれを倒すんだぜ」
「君も桃太郎に狙われる鬼だけに大分強そうだ。鬼ヶ島にいると御馳走が食えると見えるね」
「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも学校ばかり行ってねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし歌舞伎町の〈鬼ヶ島〉に集う女子高生達は今や日本経済を動かす程の力があるように思われる」
「何だい、その歌舞伎町の〈鬼ヶ島〉ってえのは」と黒鬼が訊くので、吾輩がかくかくしかじかの状況を説明すると、
篦棒べらぼうめ、洋服や雑貨なんていくら買ったって腹の足しになるもんか」
 彼は大いに肝癪に障った様子で、寒竹をそいだような角をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が桃太郎の黒鬼と知己になったのはこれからである。
 その後吾輩は度々黒鬼と邂逅する。邂逅する毎に彼は気焰を吐く。
 或る日例のごとく吾輩と黒鬼は暖かい池のほとりのベンチに寝転びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話をさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下のごとく質問した。「御めえは今までに宝をいくつとった事がある」智識は黒鬼よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底彼の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかった。けれども事実は事実で詐る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだとらない」と答えた。彼は鋭い牙を剥き出しにして非常に笑った。元来黒鬼は自慢をする丈にどこか足りないところがあって、彼の気焰を感心したように謹聴していればはなはだ御しやすい鬼である。吾輩は彼と近付になってから直にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すにくはないと思案を定めた。「君などは日本一の鬼であるから大分とったろう」とそそのかして見た。果然彼は墻壁しょうへきの欠所に吶喊とっかんして来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「大人供の百や二百は一人でいつでも引き受けるが幼児ってえ奴は手に合わねえ。一度幼児に向って酷い目に逢った」「へえなるほど」と相槌を打つ。黒鬼は大きな眼をぱちつかせて云う。「今年の節分の時だ。度胸試しのつもりでおれが保育園へ這い込んだら御めえ幼児の野郎が豆をぶつけてきたと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「幼児ってけども己れの少し大きいぐれえのものだ。こん畜生って気で追っかけてとうとう一人を園庭の隅へ追い込んだと思いねえ」「うまくやったね」と喝采してやる。「ところが御めえいざってえ段になると奴め大泣きをしやがった。うるさいの何のって。それだけじゃねえ鼻水は垂らすわ涎は垂らすわ、汚ねえったらありゃしない。それからってえものは幼児を見ると胸が悪くならあ」彼はここに至ってあたかも数ヶ月前の粘液を今なお擦り付けられたごとく両手で顔面を二三遍なで廻わした。吾輩も以前眼にした幼児の相貌を思い出して、黒鬼が少々気の毒な感じがした。ちっと景気を付けてやろうと思って「しかし大人なら君に睨まれては百年目だろう。君はあまり宝を取るのが名人で御馳走ばかり食うものだからそんなに肥って色つやが善いのだろう」黒鬼の御機嫌をとるためのこの質問は不思議にも反対の結果を呈出した。彼は喟然きぜんとして大息していう。「考げえるとつまらねえ。いくら稼いで宝をとったって——いってえ桃太郎ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。人のとった宝をみんな取り上げやがって爺さんと婆さんにくれやがる。奴らは己の御蔭でもう随分と儲けていやがる癖に、お礼の一つも云った事はありゃしねえ。おい桃太郎てものあ体の善い泥棒だぜ。しかも手下にゃ団子の一つきり渡さないけちん坊ときた」さすが無学の黒鬼もこのくらいの理窟はわかると見えてすこぶる怒った容子で両の牙を剥き出している。吾輩は少々気味が悪くなったから善い加減にその場を胡魔化して家へ帰った。この時から吾輩は決して宝をとるまいと決心した。なまじ宝をとって桃太郎なんかに狙われるよりも、学校で教師や乗鞍に対してさして害のない悪戯をしていた方が気楽でいい。女子高生といると鬼も女子高生のような性質になると見える。要心しないと今にのらくらになるかもしれない。

 

女子高生と云えば鬼ギャルの存在がもっとも世間に認知されるのは夏の海水浴場である。鬼に山鬼族と海鬼族があるように、人間界にも「山鬼ガール」と「海鬼ギャル」なる二つの種族が存在する。「山鬼ガール」は一般にファッションよりも鬼の伝承や歴史に興味関心があるとされる。鬼に所縁のある山々をあるいて廻るのを趣味とする。山ガールや仏像ガール、歴女等とも親和性が高い。乗鞍の友人で云えば白敷は「山鬼ガール」の部類に入るが、世間一般に「山鬼ガール」と称せらるる女性は女子高生に限らず二十代から四十代までと幅広い。一方の「海鬼ギャル」は「山鬼ガール」と較べて年齢層が低く十代後半から二十代前半の女子が主体である。歌舞伎町の〈鬼ヶ島〉に集って肌を異色に塗り角を付けて鬼の変装コスプレをする鬼ギャル達のほとんどは夏になれば「海鬼ギャル」と呼ばれる軍団になる。乗鞍や稲森はこの部類に属する。彼女等は平生屋内もしくは野外でも人の目にあまり晒されない場所で活動するが、夏の海水浴場では他の一般客に混じって水着姿で騒ぐ。普通の海水浴客に混じって赤や青や黄や緑や橙や紫の肌の生物が闊歩する浜辺はさながら異星人との邂逅を果たした近未来映像のようである。TwitterやInstagramを通じて海外でも大きな話題を呼んだ。さらにこの夏開発された「海鬼ギャル用サンオイル」が「海鬼ギャル」の流行を拡散させた。そのサンオイルを塗って太陽光を浴びると肌の色が赤や青や黄や緑や橙や紫に変わる。使用後は石鹸で洗えば単簡に落ちる。角と併せて購入すれば誰でもお手軽に「海鬼ギャル」になれる。海水浴に面白味を添える興として普段鬼ギャルではない女子や一部男性の間でも流行るようになった。「海鬼ギャル」が一般に浸透する以前から鬼ギャルをやっている乗鞍に連れられて、吾輩も海水浴場へは幾度となく足を運ばした。吾輩も例のサンオイルを塗ってみた。青鬼の吾輩としても赤鬼になれたり緑鬼になれたりするのは愉快であった。さらに乗鞍から角を一本拝借して鬼らしい気分を味わうこともできた。鬼の鬼たる所以は角にある訳ではないと理窟では分っていても、やはり鬼は角があってこそという感覚は単簡に否定しきれるものではないとその時思った。
 吾輩はここ最近無精な乗鞍に代ってTwitterやInstagramの管理を任されている。まず手初めに海鬼ギャル達と浜辺で撮った写真を投稿してみることにした。「海鬼ギャル」が世界的に有名になったとあれば英語で発信すべきかと考え、授業で覚えた英語を駆使して“We are Japanese monster girls hanging out at the beach!” なる文章と共に投稿したところ世界中から反響があった。しかも海鬼ギャルよりも吾等小鬼に注目が集まった事は意外であった。“Some are the real small monsters in this pic!? So cute!!!!” 吾輩もついに海外で認知せらるるまでになったのである。「そのうちに肌の色も自ら選択できる時代がやってくるかもしれない」とのコメントを読んだ時は、そんな世界を想像してまた愉快になった。
 吾輩は直にスマートフォンの操作にも慣れた。乗鞍のアカウントを使って自由に発信できるのをいいことに、Instagramでの写真投稿と並行してTwitter上で連載を始める事にした。鬼ギャルと小鬼に関するルポルタージュで「吾輩は鬼である/角はまだ無い」の一文から始まる。吾輩の生い立ちから乗鞍との出会い、鬼ギャルの生態についてまで、日々の出来事をあれこれと書き連ねるうち、相当な分量が溜ってきたのでここらあたりで一旦ブログ上にまとめる事にした。それがこの文章である。乗鞍は吾輩の連載をいつも読んでくれている。今のところ何のお咎めも無いのでこれからも好き放題書いていきたいと思う。

 

海鬼ギャルが大注目を浴びた夏休みが過ぎ学校が始まると校内は文化祭の準備一色になった。乗鞍のらくら稲森いねむり白敷はくしきの三人はミスコンや歌唱力コンテスト等全校生徒を対象とするイベントの企画班に所属し〈鬼コン〉担当となった。〈鬼コン〉とは今年から新たに始まったミスコンの向こうを張る目玉企画である。ミスコンは投票で一番の美人を決めるコンテストだが、〈鬼コン〉はエントリーした女子高生全員が鬼の面をかぶって登場する。まず中央のステージで鬼の面をかぶった女子高生達が一人3分の持ち時間で単独パフォーマンスを行う。さらにステージ横に設けられた「鬼コンルーム」で投票者は鬼の面をかぶった女子高生達とおしゃべりをする事ができる。顔を隠して行う合コンのようなものだ。投票者はステージ上でのパフォーマンスと鬼コンルームでの合コンをもとに気に入った女子高生に一票を投じることができる。
 この新企画を実行する上で最大の障害となったのは「鬼コンルーム」設置の是非について教師の認可を得る事であった。しかしあの手この手を使って教師を説得するのは悪智恵の働く女子高生達の得意とするところである。くだんの件も生来悪戯好きの稲森と智恵者の白敷の二人組が大いに力を発揮した。「鬼コンルーム」の発案は単なるその場の思い付きではなく日本の伝統風俗に根差したものであるという。二人は現代において日本の伝統風俗を見直す事の意義を訴える主意の文書を拵えた。その文書によれば〈鬼コン〉は江戸時代の〈面喰い婚〉に着想を得ているとの事である。吾輩はちっとも知らなかったが〈面喰い婚〉とは次のごときものだそうだ。少々長くなるが例の書面から全文引用しよう。

顔立ちの美しい人を好むことを「面喰い」というが、この語はもともとは正反対の意味で使われていた。
 士農工商の身分制度が敷かれていた江戸時代、人々の結婚スタイルは、身分によって大きく異なっていた。武家では政略結婚が、商家や職人の家では有能な跡継ぎを長女の婿に迎える指名スタイルが主流で、お見合い結婚や恋愛結婚というものは、農民にのみ許された風習であった。結婚に限って言えば、この時代にもっとも自由を享受していたのは農民である。
 この農民の間で行われていたお見合い結婚のひとつに、〈面喰い婚〉というものがあった。お見合いの席に男性が面をつけて臨み、女性は面を被った男性と話をする。このような席を同じ相手と三度設け、女性は相手のことを気に入った場合、三度目の席で「面を外していただきとうございます」と伝える習わしとなっていた。この一言は結婚承諾の意思を示す決め台詞で、つまり、女性は一目も相手の男性の顔を見ないまま結婚を決めなければならなかったのである。女性が男性の面を外すことを「面喰い」と言い、容姿に左右されずに人となりを判断すること、という意味であった。
 男女平等が強く謳われる昨今では、〈面喰い婚〉は男尊女卑の悪しき風習として批判されるかもしれない。しかし、女性が男性を顔で選ぶとろくなことがないという先人たちの知恵から生み出された方策だったのだろう。〈面喰い婚〉は、恋愛結婚や一般的なお見合い結婚に比べ、その後の結婚生活が上手くゆく確率が高いとして、評判がよかったようだ。
 とはいえ、やはり面を外した瞬間のショックが大きいケースも間々あったであろうことは、想像に難くない。「気絶され 男はふたたび 面をつけ」という当時の川柳には、可笑しみをこえて悲愴感が漂う。驚き慌てることを「面喰らう」と言うが、由来はこの〈面喰い婚〉にある。
 結婚相手となる男性の顔をはじめて目にした瞬間の女性の心中は計り知れないが、儀式というものは滞りなく進められるよう手回しがなされているものだ。三度目の見合いの席でめでたく婚約が成立した場合には、すぐにその場で仲人が祝いの膳を用意し、麺がふるまわれる仕来りとなっていた。〈面喰い婚〉ゆえに〈麺喰い婚〉との当て字から生まれた風習であろう。
 結婚後は、見合いの席で使った面を、床の間横もしくは寝間の柱に掛けるのが一般的だった。人によっては「あなたの顔など見たくないから」と、結婚後もずっと面を被らされていた夫もいたのではないかと想像するが、幸いにもこのような記録は残っていない。
 夫が亡くなると、面も一緒に棺桶に入れ火葬する習慣であったので、現存している面はほとんどない。しかし「庄屋」と呼ばれる豪農の中には先祖代々の面を保管してきた家があり、それらを見る限り、〈面喰い婚〉の面は鬼の形相を真似てつくられていたようだ。

『日本民俗学大辞典』をはじめとする参考文献も数多列挙された文書はさながら研究レポートのようで本業の方ではついぞ見たことのない程の出来栄えであった。上のごとき伝統風俗の継承という側面を前面に打ち出す事を条件に〈鬼コン〉企画はついに教師の許諾を得ることに成功した。稲森と白敷の作成した書面を捲りながら、乗鞍はしきりに感心する。稲森は笑いながら「これはデタラメだよ」と頭を掻く。「何が」と乗鞍はまだいつわられた事に気がつかない。「何がってこの〈面喰い婚〉だよ。これは全部私たちが捏造した話だよ。乗鞍がそんなに真面目に信じるとは思わなかったハハハハ」と大喜悦の体である。吾輩はこの対話を聞いてTwitter連載のネタにしようと思わず笑みが溢れた。稲森はこんな好加減な事を吹き散らして人を担ぐのを唯一のたのしみにしている女である。「参考文献も全部嘘だからね。『日本民俗大辞典』も『日本民俗学辞典』もあるけど、『日本民俗学大辞典』っていう本はない」「そんなデタラメを書いてもし先生が気づいたらどうするつもり」あたかも人を欺くのは差支ない、ただ化の皮があらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。稲森は少しも動じない。「そうなったら民俗学者の親戚に聞いた話でたしかに諸説あるらしいとは云っていたようなとか何とか言って誤魔化すよ。参考文献は慌ててたから写し間違えたとでもすればどうにでもなるし」と云ってけらけら笑っている。この稲森は金縁の丸眼鏡は掛けているがその性質が桃太郎の黒鬼に似たところがある。乗鞍は黙って私にはそんな勇気はないと云わんばかりの顔をしている。「〈面喰い婚〉は冗談だけど、巷の結婚相談所では鬼の面を付けたお見合いパーティーを実際にやってるらしいよ」「また欺してるんでしょ」「いや、これだけはたしかだって。ヨーロッパじゃ昔から仮面舞踏会とか普通にあるじゃん。顔を隠すっていうのはやっぱり一つ有効な社交上の手段なんだよ」「たしかに有効には違いないね」と乗鞍は半分降参をした。
 〈鬼コン〉の実施が決まったからには出場者を募らねばならない。各クラスから一人ずつ候補者を出すこととなり、乗鞍のクラスでも誰を推すかで目下協議中である。〈鬼コン〉出場者はステージ上でパフォーマンスを行わなければならない。口も達者でなければならない。その上優勝した暁には面を外すため、その時にがっかりされない容姿を持ち合わせていなければならない。〈鬼コン〉の候補者に選ばれるとは実は大変に名誉な事なのである。ミスコン以上に盛り上がる事を期待された乗鞍等〈鬼コン〉企画班の面々は近頃は活き活きとその準備に勤しんでいる。

 

桃太郎の黒鬼はその後びっこになった。幾度目かの鬼退治に遭い、幾度目かの一文無しになった。吾輩が琥珀よりも美しいと評した彼の眼には眼脂めやにが一杯たまっている。ことに著しく吾輩の注意を惹いたのは彼の元気の消沈とその体格の悪くなった事である。吾輩が例の噴水広場で彼に逢った最後の日、どうだと云って尋ねたら「幼児の涎と桃太郎の鬼退治には懲々だ」といった。
 校門前の銀杏並木が黄金色に輝く時期になると女子高生達は俯き加減であるいて行く。それは時折吹き抜ける風の冷たさのせいではない、足元に無数に転がる銀杏の実を踏まないようにするためである。彼女等が庭先に咲く山茶花に目を留めることはないし、道端に転がるコナラやクヌギの実を拾うことも最早ないが、段々に日脚の早くなる季節の変化は敏感に感じ取っている。彼女等の外套のポケットにはそろそろリップクリームが常備される頃だ。
 乗鞍はマフラーで自分の首と吾輩を共にぐるぐる巻きにして毎日学校へ行く。授業が始まると漫画を読む。休み時間になると、友達と勉強が厭だ厭だという。絵はもう滅多にかかない。週末になると感心に休まないで〈鬼ヶ島〉へかよう。肌を塗って、角を付けて、時々吾輩の頭に「鬼ピース」をかざして写真を撮る。
 吾輩は大した悪さをしないから鬼仲間からは別段尊敬もされないが、まずまず健康で退治もされずにその日その日を暮している。宝は決して取らない。教師は未だに嫌いである。乗鞍のスマホでInstagramやTwitterを使いこなし、連載も続けている。角はまだ付けてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この女子高生の肩の上で無名の鬼で終るつもりだ。

 

 


参考文献
小松和彦『鬼と日本人』角川ソフィア文庫、2018年
夏目漱石「吾輩は猫である」『夏目漱石全集I』ちくま文庫、1987年
ヒサクニヒコ『オニの生活図鑑』国土社、1991年

文字数:15872

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