カボチャのたまう

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梗 概

カボチャのたまう

週末菜園の畑は山間部にあった。夏の終り、いつもより大きな台風で、山道は1ヶ月通行止めになった。

 

8月の半ば、明るく照らされた太陽の下で、まだ小さい茄子は漆黒の黒曜石、ピーマンはヒスイ石、それぞれ光沢をもって枝の先に光っている。キュウリは水を蓄えるための胃袋だった。どの野菜も間もなく訪れる収穫の時期を鼻歌が聴こえてきそうに長閑に待っていた。

 

9月、畑に続く道路の途中で、殿様バッタがミンミン蝉の死骸を食べていた。蝉は既に胸の真ん中に大きな穴が空いている。その穴からは背中の透明の羽が覗き、羽は視界を遮らずに、すぐ下の灰色のコンクリートの地面を透かしている。蝉の穴の中身は、すでにバッタのお腹の中に納まってしまっているが、秋の空は高く、蝉の胸の真ん中の漂う空気も、周辺に広がる空気もどちらも澄んでいた。

 

過去が朽ち果てた畑は、皮と内臓の世界だった。荒れ果てた畑は、トマトの実は、枝からひっそりと姿を消して、長雨で腐って植物の機能を失って干からびた株だけが残る。

茄子は株についたまま実は大きくは成ったものの、収穫されずに長い事放置されていた。腐った皮は、クジラの皮に似ている。岸に打ち上げられたクジラの死体は、充満したメタンガスで外壁である皮膚が抑えきれずに爆発し、赤い内臓とそこに含まれるバクテリアやウイルスを周辺にはじき出して汚臭を放つことがある。茄子の皮は爆発せずに、木にぶら下がったまま、ただ腐って重たく溶けていく。

シシ唐は土の上に落ちて、果肉は既に腐り果てて跡形もなくなり、薄皮だけが半透明に白く残る。中の小さな種の粒が透けている。バッタの抜け殻の様だ。

胡瓜に至っては、畝に沿って張られたネットに広がり絡まった蔓も葉もすべて枯れ、干からびたミイラだった。内臓が取り除かれたミイラには、2種類の死後の世界がある。死んだ者を後世に再び生き返らせるための保存としての世界である。もう1つは、死後も生きているものとして振る舞うための継続の世界である。いつまで経っても時間は流れ続け、物質として強烈に生き続ける。

 

しかし、未来の畑は、見えない土の中の世界だった。

蔓の葉の絨毯や、大きな傘の葉の影を落とす地面の下、サツマイモやサトイモは、密やかに、霜が降りる直前までの、まだ来ぬ時期を待っている。落花生の小さな二つコブの実は、次第に皺にまみれた厚い皮を形成する。

 

そして、現在でも希望のある畑は、蛇と鳥によって、接触と俯瞰で世界を眺める。

山蕗とマムシの迷信の傍には、白い品種のカボチャが出来ていた。玉手箱を開けたあとの浦島太郎の白髪の様だった。浦島太郎はその後更に、頭の赤い鶴の姿になって飛んで行った。永遠の命を携えて、竜宮城の乙姫の元へと移動する。玉手箱には、時空を超える手段が詰まっていた。浦島太郎が過去に手に入れた永遠の未来は、現在の今の瞬間でもある。

そして、カボチャはかつて祖先がいた大陸の記憶を語りだす。

文字数:1200

内容に関するアピール

【アピール文】

言葉を絵具の様に置いていく、風景画の様な小説を試みました。文学では俳句程の短い言葉の連なりが風景描写では適任だとは思うのですが、小説としての風景画を書けないものか、また、自分の文体の特性に合った方法の物語の書き方を探す事が、「SF=理を詰めて物語を構成する」方法に取り組むことの近道ではないか、とも思いました。

物語の筋としては、カボチャ栽培の発祥地メソアメリカの歴史や神話や文化を通した、現代と過去の考察です。

 

【補足】

・SFっぽいもの(空想、幻想的設定)=SFではない。(先日京都で大森先生の登壇されたイベントで話を拝聴して、ようやく勘違いに気付きました。)

・人物描写=物語ではないのではないか。→物語に登場人物が必要なのは、読者との共通項の提示に共感という解かりやすさの為で、言葉の連なりに時間と空間の流れを通した、読者との共通項があれば、登場人物を通すことで物語を進めなくても良いのではないか。

 

 

【先生方への質問】

小説初心者です(SFも初心者です)。物語を書けるようになりたいと思い、講座に通っています。普通、物語は人物が登場して、その人達が何か意志を持って行動しないといけないと思い、毎回無理矢理、登場人物のいる世界設定を考えて、実作を3回書きましたが、結局いつも「よくわからない」という意見を頂きます。

私自身、人物描写が苦手で、小説を書けなかった所もありました。

そこで、今回一度、自分の書きたい小説を書いてみようと思い、人物が出てこない小説の梗概を書きました。

王道のエンタメ的SF小説を目指すための講座の主旨としては、亜流だと思うのですが、

このまま、人物が出てこない小説を書く方法を探求するというのはありでしょうか。それとも、やはり小説を書くには、下手でも人物が登場する小説を書くようにした方が良いでしょうか。また、どちらを選択するにせよ、注意点などありますでしょうか。ご指導いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

文字数:822

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カボチャのたまう

大地言語学者のマリは夫である植物人類学者のユキトと家庭菜園をするのが趣味だった。週末菜園の畑は山間部にあった。休閑地の段々畑を利用したもので、都会から車で40分離れた所にある。週末に1度出掛けて作物の世話と収穫すれば、それは十分に畑として機能したし、楽しみをもたらすものだった。そしてまた、山の中の畑に行く事は2人にとっては野菜の収穫以上に実益も兼ねた新しい発見をもたらすものだった。なぜなら、山の畑の風景そのものが、マリにとっては大地言語学者として、ユキトにとっては植物人類学者として、分析する対象そのものだったからだ。大地言語学とは、植物をはじめとする大地や自然の発する言語を研究する学問である。植物人類学とは、植物を中心に自然が人類とどのように繋がり持とうとしているかを研究する学問である。研究対象を同じとしていながらも、双方の研究のベクトルは別のものとなっている。

この文章は、あまり知られていない彼女たちの職業がどのようなものかを、結果として紹介するものになれば良いとも思って書いている。そしてそのことが、若い読者にとっては、将来の職業の選択肢の一つに加われば、尚の事良いと思う。この文章は、彼女たちの共通の研究方法の基礎である自然風景をいかに観察するか、という手法を取り入れているため、少々報告書めいた書き方をしている。読者の中には退屈に思う人も多分にいるかもしれないが、ご了承いただきたい。

 

その年も夏の終りの秋の初めに大きな台風がやって来た。台風が来るのは毎年の事である。しかし、台風の大きさは毎回定かではない。今年の台風の後は、道がしばらく通行止めになった。道が塞がれてしまうことは、それでもたまにある事だったが、ここまで期間が長く通行止めになったのは、ここ数年のことでは初めてだった。原因は、いつもの土砂崩れの補強作業かと思われた。けれど、今回の大型の台風は、山の木がなぎ倒されて、引っかかり切断された電線の修復工事による作業の通行止めだった。車一台通るのがようやくという場所もある山道を、電気経路回復作業をする作業車一台が常に占領してしまう為、どのみち通れないものとして、予め山道は通行止めになった。その道が再開するのは結局一ヶ月後になった。2人は早速車に乗って、山に出掛けた。

 

思い出してみると、台風が来る前に2人が最後に畑を訪れたのは、8月の半ばの夏のまだ盛りの時だった。畑は明るく照らされた太陽の下で、キラキラとにぎやかだった。山間部は都心部よりも8度程気温が低いにも関わらず、朝の早い時間でも、身体を動かしているとすぐに夏の暑さが体中に押し寄せて来た。

畑の植物は、些細な部分ですら色が鮮やかで、新緑は濃いものだった。幾つも緑色の実が付き始めたトマトの枝のうち、先に色付き始めた赤いトマトの実は、突っ張った表面はむちむちした頬っぺたのようだ。まだ少し小さい親指ぐらいの茄子は漆黒の黒曜石、ピーマンはヒスイ石、それぞれ光沢をもって枝の先に光っている。キュウリは水を蓄えるための胃袋であり、根から吸い込んだ水でそのまま大きく伸びていく。どの野菜も間もなく訪れる収穫の時期を鼻歌が聴こえてきそうに長閑に、同時に生命の勢いを持って、待っていた。

しかし、そんな日は来なかった。

 

9月も半ばになった畑に続く道路の途中、農具を仕舞う倉庫の横のあたりの路上で、殿様バッタがミンミン蝉の死骸を食べているのを、2人は発見した。殿様バッタの後ろ足は、他の足よりもサイズよりも太くて長い。後ろ足以外の残り4本の細い腕は、器用そうに、ミンミン蝉を掴み、離さない。そして、常に顎を動かし、ただ黙々とミンミン蝉を食べている。ミンミン蝉はすでにだいぶんと食われて、胸の真ん中に大きな穴が空いている。その穴からはミンミン蝉の背中の透明の羽が覗き、ミンミン蝉の羽は視界を遮らずに、すぐ下の灰色のコンクリートの地面を透かしている。あごを動かし続ける殿様バッタの目は、真っ直ぐ向いた顔の横に複眼が二つ付いている。顔の真ん中に三つも単眼がある。それだけ目が付いているにもかかわらず、どれも無表情の目は、どこを見ているのかもわからなかった。殿様バッタの顔の周りの堅い外皮はとてもクールな質感で、より一層ロボットの目の様である。ミンミン蝉の穴の中身は、すでに殿様バッタのお腹の中に納まってしまっている状態でも、殿様バッタはいつまでも食べ足りず、穴のあいたミンミン蝉をしがみついて離さない。機械的な欲望は、とても強欲で、一心不乱で、無邪気なものだった。

そして、夏が終わろうとして、秋は始まっていた。空が高い。ミンミン蝉の胸の真ん中の漂う空気も、周辺に広がる空気もどちらも澄んでいた。

 

殿様バッタとミンミン蝉を後にして、マリもユキトも畑に続く坂を登りながら、1ヶ月も手を入れていない畑は、荒れ果ててしまって見る影もないだろうと話し合った。

 

2人が辿り着いた畑には、ところどころで8月の記憶の残像が蘇る。

豊富に実が付きながら熟す時期を待っていたトマトの実は、枝からひっそりと姿を消して、長雨で腐って植物の機能を失って干からびた株だけが残る。少しだけ地面に残されたトマトは、色づいてトマトの形をしていたけれどどれも、皮の力で中身を支えながら辛うじて球体を保っているだけで、触ると腐ってぐじゅぐじゅして、持ち上げると土に触れていた部分は白く黴が生えている。

茄子は株についたまま実は大きくは成ったものの、収穫されずに長い事放置されていたので、みすぼらしくぶよぶよ腐った皮が皴をつくっている状態だった。ぼってりとした腐った茄子の皮は、クジラの皮に似ている。ユキトは目の前のそれが、茄子ではなく本物のクジラだった場合を考える。岸に打ち上げられたクジラの死体は、腐敗の過程でバクテリアによって作り出されたメタンガスで充満する。内側のガスを外壁である皮膚が抑えきれずに、赤い内臓とそこに含まれるバクテリアやウイルスを周辺にはじき出して汚臭を放って爆発する事が稀にでもなくある。クジラの内臓はクジラである。殿様バッタが食べていたミンミン蝉は、死んだミンミン蝉を、生きた殿様バッタが食べた時点で、ミンミン蝉の身体は殿様バッタの内臓の中で身体の一部になる。茄子の皮は爆発せずに、ただ腐って重たく溶けていく。台風が去って水に腐食されたまま、木にぶら下がり、置き去りにされた郷愁が辺りに漂う。

シシ唐は土の上に落ちて、緑色だった果肉は既に腐り果てて跡形もなくなり、薄皮だけが半透明に白く残って、中の小さなぶつぶつとした種が透けている。シシ唐の薄皮は、バッタの白くてカサカサとした抜け殻にとてもよく似ている。バッタの抜け殻は8月の初め頃に山蕗の葉っぱの台の上で仰向けになって寝ていた。繊細そうな白い空洞は、足を空に向けているところに、風が吹くと一吹きですぐにコロッと落ちて辺りの草の中に消えてしまった。

胡瓜に至っては、畝に沿って張られたネットに広がり絡まった蔓も葉もすべて枯れていた。細い生気のない蔦にも、カラカラに縮んで茶色と灰色の混ざった葉っぱも、干からびたミイラだった。

 

純粋に人間のミイラとなると、内臓が取り除かれてミイラになる。文化人類学で研究されている人間のミイラには、2種類の死後の世界がある。1つは死んだ者を後世に再び生き返らせるための保存としての世界である。その場合、死後は時間が止まる。精神として淡く生き続ける。もう1つは、死後も生きているものとして振る舞うための継続の世界である。その場合、いつまで経っても時間は流れ続け、物質として強烈に生き続ける。死者は生者を従わせて、服を着せてもらい、食事の準備をさせ、生前に用意をしていた死後に住むための石を積み上げた大きな家の中にみ続ける。石を横から見ると三角形に、下から見ると四角形の建物だった。死者が生者の生活の中で変わらず振る舞うので、生者は自らの財産を新しく得るために引き継いだ権力を利用して、陣取り戦争を繰り広げる事になる。

他の人類学と同様に、ミイラや皮や内臓といったものは、植物人類学上でも重要なモチーフだった。人間のミイラが一個人の生命時間の拡張のために存在する一方で、植物のミイラは種の生命単位を拡張するために存在する事が多かった。

跡形に残った野菜は皮ばかりになっていた。皮、皮、皮。薄気味わるさの残骸の世界は、植物が自ら引き継ぐ生命の種を守るための、使命を帯びた皮の持つ物質的な強靭さの間に潜んでいる。

 

 

しかしながら、生命の影へと姿を変えた部分は、畑のうち半分だった。残りの半分は意外にまだしぶとく、収穫物の対象として残っていた。

収穫物として残る植物の、そのうちの更に半分は、まだ収穫時期ではない。そしてそれらの植物の世界は、土の中の世界と繋がっている。さつま芋の蔓に伸びた葉や、サト芋のズイキの大きな傘のような葉の影を落とす地面の下で、密やかに、まだ来ぬ時期を待っている。

落花生は初夏の頃に黄色い花が咲き、その花が終ると花が付いている柄の部分がゾウの鼻の様に伸び始め、地面に到達すると、そこから地下で実をつける。小さな二つコブの実は、次第に皺にまみれた厚い皮を形成する。

植物人類学では、地上に見えない土の中は、さらに冥界へと繋がっている事が判っている。生命の予備軍と死後の世界が繋がっていることは、いかに丸い地球がその目に見える地上の世界だけでなく、地球の中までも広い世界を蓄えているかを物語っているに他ならない。

完成された落花生は、冥界専属の軍隊として、冥界への来訪者と対峙する。しかし、落花生は、正月の獅子舞の様に、一見するとひとつの生物の様だけれど、実は殻の中で実際の中身が2つ、もしくは稀に3つに分かれている通りに、別々の意志を持つ。そのため、それぞれが同時にしゃべりかけ、来訪者を質問攻めにする。落花生への聞き取りは、大地言語学者のマリにとっても困難を極める作業になる。しかし、それは厳しい冥界の門番としての役割を果たすためには、必然の事でもあるようにマリには感じている。

 

 

地上の畑にまで再び戻る。収穫時期が継続されている地上の敷地のその他の半分は、手入れされずに放置され、植物は作物というよりも、どちらかというと、野生化した様な状態だった。しかし、荒れているけれど、そこが畑である以上は、収穫を目的としているため、作物が採れることにこしたことはないとマリもユキトも思っていたので、何にしても収穫物を発見出来る事はとても嬉しい事だった。

その具体的な1つは、ツルムラサキだった。ツルムラサキは、名前由来の紫色の蔓の品種ではなく、緑色の蔓だった。太さのある蔓はそれだけで存在感があり、そこに更につややかな質感を持つ丸みのある形の葉が交互に生える。1つの起点から方々に延びていく蔓は、とぐろを巻いた1つの体にいくつも顔を持つ青い蛇の様だった。隣のさつま芋の畝を覆う蔓の方へと向かう。

そしてもう1つの蛇は、カボチャの蔓だった。カボチャもどこまでも蔓が伸び広がる。蔓が伸びる事は、植えられる前から2人の了承済であったため、あらかじめカボチャは畝の端に植えられていた。カボチャの蔓が伸びた先は、畑の中ではなく段々畑の段になっている畦の一角の、山蕗が自生している場所だった。山蕗の丸い形の葉は、カボチャの大きな尖った形の葉と、形は違えど大きさはとてもそっくりだった。

 

山蕗の話を少々。なぜなら山蕗を巡る研究は、マリの得意とするところだからだ。山蕗は野草で、冬になると休眠し、地上部は枯れて根の状態で冬越しする宿根草だ。根だけで冬を越すのだから、根が力を持ち、有毒なのは想像に早い。3月春ごろになると、その根が再び目を覚ます。やさしいキミドリ色をした丸いぼんぼりが地面にニョキっと現れる。フキノトウは土を持ち上げるために、固くて詰まっている。近くでは、他にも至る所にニョキニョキと冬の間は見なかった生物が現れる。低い頭のツクシはどれもすぐに伸び、背比べをし始める。トカゲも新しくてつややかな鱗を見せびらかす様に、ひなたの暖かい石垣を行き来する。3月の空気はまだ冷たい。小川や用水路を流れる水の音すらも、春のリズムで流れていく。フキノトウは周囲に春が来た事を、その春の新参者の動植物たちと一緒になって告げ始める。フキノトウは雌株と雄株に分かれて生え始め、すぐに成長して花を咲かせる。その後、4月5月とぐんぐんと伸びた長い茎の先で、丸い葉が次々と開く。広がる勢いも盛んなこの頃、山蕗は採取されて、きゃらぶきという佃煮などになる。茶色く醤油と砂糖で茶色く炊かれたきゃらぶきが白いご飯と共に、食卓に並ぶ。

6月梅雨の長雨も手伝って、山蕗の葉はさらに勢いよく広がっていく。しかしその頃に山で聞こえて来る会話は、「梅雨の山蕗は食べない方がいい」というものだ。山に住む人が誰とも言わずに言い出すけれど、今は言い出した本人たちが自ら、「科学的根拠はない」と言い添える。言葉だけが残ってしまい、いかにも迷信じみた言い方を、自分たちで抑制する。言葉の背景に、山蕗とマムシの関係性が取りざたされる。

マムシは8月下旬から9月に交尾し、メスは翌年6月に遅延受精する。卵生ではなく胎生のマムシは、口から生む子どもが傷付かない様に、牙を落とすために積極的に植物を咬み、その咬む植物というのは、特にマムシが好む草陰を創る場所に生えている山蕗の様な植物で、その咬んだ植物に毒がうつり、うっかりとマムシの毒が染みついたものを採取してしまい、料理しようものなら、大参事に陥る危険性を孕むことを示唆する。このマムシの特徴「口から産んだり、牙を落とす」というのは、単純にマムシは妊娠時期で気が立っているため、山蕗の近くを好むマムシに注意することに置き換わる。6月に入ると山蕗がただ固くなり、食べても美味しくなくなる事実が、「梅雨の山蕗は食べない方がいい」話について、一番の説得力を持つ。以上が大地言語学から考察されるマリの山蕗とマムシに関しての研究結果となる。

 

そして、今、マリとユキトの2人の目の前にあるのはカボチャである。7月になって晴れた空の下、山蕗の葉の広がる方向に、カボチャの蔓も地面を這って伸びる。カボチャの手を開いたような大きな葉が広がる。山蕗の葉とカボチャの大きな葉は、ぶつかると開いた手をお互いに握り合って、固い握手で互いの友情を確かめ合いそうな勢いがある。

どちらの葉っぱも大きく開いて、影をつくり、その葉っぱの影に隠れてカボチャの花は咲いている。カボチャも山蕗と同じで雄花と雌花の雌雄分離型の繁殖をする。黄色い花は葉の上に咲くので目立つが、花が落ちた後は、授粉しなければ、雌花の根元についた青い実はすぐに茶色く腐って枯れ落ち、無事に授粉すれば、引き続き蔓の先で大きくなり実は葉の影に潜む。どちらにせよ重力に従う。1ヶ月前の最後に見た時は、授粉した実もまだ青くて大きさも中途半端な緑色の球だった。

それが9月になると、すっかり大きな球体のごつごつとしたカボチャが出来上がっていた。カボチャの表面はごつごつとした、不器用そうな表面だった。大きくなったカボチャは、蔓と雑草とが伸びた込み入った場所でも、すぐに実を見つける事が出来た。なぜなら、大きくなっていたのは、白いカボチャだったからだ。植物にはさまざまな種類ごとに固有の名前が付いている。その色は白皮砂糖南瓜という固定種の品種によるものだった。白い実は緑色の草の中でも見つけやすい。その白色は、浦島太郎が玉手箱を開けた後の、おじいさんの白髪の様だった。マリはその事をユキトに話す。ユキトはマリに浦島太郎の話の続きを知っているかと聞いた。マリは自分が知っている浦島太郎の話をユキトに話す。浦島太郎の話では、玉手箱の中には、太郎が竜宮城で乙姫と過ごしていた700年の時間と魂が霧になって詰まっていた。そしてそれを開けた浦島太郎は、白髪の老人になってしまった、というものだった。しかしユキトが言うには、その話にはその後の続きがあった。その後、浦島太郎は更に頭の赤い鶴の姿になって永遠の命を携えて、竜宮城の乙姫の元へと飛んでいったのだ。浦島太郎の開いた玉手箱には、時空を超える手段が詰まっていた。浦島太郎が過去に手に入れた永遠の未来は、現在の今の瞬間でもある。

 

ユキトの話を草葉の陰から、カボチャは聞いていた。浦島太郎の話を聞きながら、カボチャは自らも遠い先祖からの記憶の時空をさかのぼり、今現在の狭い島国の山の中ではなく、かつていた別の大きな大陸の半島の事を思い出していた。その半島は、「あなたがなにをいっているのかわからない」という意味になる。それは、「(私は)あなたがなにをいっているのかわからない」のかもしれないし、「あなたが(私が)なにをいっているのかわからない」かもしれない。しかし、そもそものところ、言葉とはそういうものではないか。いっそうのこと、カボチャである私の話を聞いてみる気はないか、とカボチャはマリとユキトに提案した。

興味深いカボチャの話を、マリは大地言語学者として翻訳し、ユキトは植物人類学者として解釈することを試みる。こういう場合、2人が2人でいる事を、2人にとって最高の出来事に思わせた。

カボチャがのたまうには、こういう事だった。

 

その大陸では、人間はトウモロコシで出来ていた。その場所では、カボチャはトウモロコシよりも随分先に、人間たちに栽培されていたにもかかわらず、後から栽培される事になったトウモロコシに人間を創る素材となる事を譲った。内臓が内臓であるのと同様、物質の素材が何で出来ているかは価値の優先順位を決める時代だった。

その代わりに、カボチャは大陸の片隅に巨石人頭像となって配置された。巨石彫刻は、火山の国に相応しい玄武岩や安山岩だった。その場所の文明がなくなった今でも、巨石彫刻は取り残されている。巨石になる前の、人間のサイズの小さな身体の頃は、球技をしていた。球技をはじめ、身体活動そのものを披露することは、儀式のひとつだった。儀式は球技に関わらず、血生臭い意味を秘めている。

儀式を一通り経過した後、巨石となって配置されたそのカボチャの上を飛び交う鳥は、ケツァルという美しい鳥だった。ケツァルは濃緑色の身体に長い尾を伸ばす鳥で、頭ではなく胸を鮮やかな赤色に染めている。この鳥も赤く染められた部分は異なれど、鶴と同様、永遠の命を持つとも言われる。永遠に失われない魅惑的な美しさによって、かつては農耕神ケツァルコアトルの使いであるとされ、コアトル、つまり蛇に羽を与える役割を果たしていた。そして、現在はその姿は一国の通貨に描かれることになり、経済という見えざる神の手の使いになっている。

しかし、そこに至るまでのケツァルコアトルを巡る話はいくつもの改編を辿る。ケツァルが自由に俯瞰し、眺めるその土地が、時代の変遷により複数の文明の興亡を経たためだ。農耕神であったことで最も知られるが、文明を司る文化神でもあり、人類に火をもたらした神という事になる時もある。趣向性格は、人身の内臓を生贄に欲する残忍な神であった時代もあったが、平和の神として人身供養をやめさせた神にもなった。そして姿すらも様々に変えた。コアトルという呼び名だけでなく、「空」を表わす意味を持つ言葉で呼ばれた双頭の蛇は、天に昇った明けの明星になる時もあれば、遠くの海の向こう側、新しい大陸からやって来た侵略者にもなった。白い神ケツァルコトアル、その化身は、古くからの神話を創った文明とは異なる威力で、その土地を完全に支配してしまい、全く別の自分たちの文明にすり替えて、その土地にあった人間の文明を焼いて滅ぼしてしまった。巨石は焼く事も煮る事も破壊する事も出来ずに、まだ半島にある。

そして、文明は移動するのだ。文明の大移動は、カボチャ自身の移動でもあった。カボチャは様々な経路で移動した。経路の一つには、南京豆と同じ経路をたどったものもあり、危うくそれに因んだ名前も用意された。しかし、あのうるさい南京豆と一緒にされるのは嫌だったので、自分の名前がこの土地では一般的にカボチャという名前で知られるようになった事は幸いだったと思っている。

 

 

カボチャの話を聞き終えると、帰る準備をするには丁度いい時間になっていた。山の陽は落ちるのが早い。カボチャは全部で4つもあった。家庭菜園をはじめて今までで一番カボチャがよく採れた年になった。収穫したカボチャをマリとユキトは2つずつ抱えて畑を後にした。

車に戻るまでの道の途中、来た時に殿様バッタがいた場所には、殿様バッタとミンミン蝉の二つの茶色く伸びた跡形が残っていた。夢中になった殿様バッタは、目が5つもあったにもかかわらず、目の前のミンミン蝉以外に目をくれずに盲目となり、車に轢かれてしまったようだった。もはや殿様バッタもミンミン蝉もどちらも内臓を持ち合わせていなくなっていた。

文字数:8515

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