想定外の奇跡

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梗 概

想定外の奇跡

ある動画サイトの生放送に出演することになった手品師の針井筆雄は、ディレクターの摩周高貴に、視聴者にむけた種明かしを要請される。古今東西のトリックが手軽にネット検索できる現在、今更そんなものに需要はないと断ろうとするも、摩周は手品師が自ら秘密を暴露する構図こそが再生数につながるのだと言って食い下がる。針井は渋々承諾し、種明かし用のトリックを用意して本番に臨む。

針井が通常の演目をひと通り終えると種明かしの企画が始まった。彼が用意したのは普通のトランプで準備なしにできるごく単純なもの。

それではこれから見せる手品の種をお教えします、と指示された台詞を述べ、針井はトランプを何気なく適当にシャフルしてから表向きに広げた――よく混ざっていることを示すつもりだった。

すると、なんとスペードのAからクラブのKまでの計52枚のカードが、封を開けたばかりのランク順に完璧に揃っている。一同驚愕。画面を埋め尽くすコメントの嵐。

いちばん驚いたのは針井本人である。彼はかの有名な数字を思い出した。8.0658×10の67乗分の一、たったいま自らの手で引き当ててしまったこの奇跡の起こりうる確率である。

しかし、彼がいくら意図せざる結果だと説明しても、誰もそれを信じようとしない。

「絶対にありえない」「約束を破るな」と、この奇跡の“種明かし”を要求する大量の野次が降り注ぐ。針井はわずか数分の間に「嘘つき」となり「詐欺師」となった。

後日ますます話題は過熱し、様々な憶測が飛び交う。最も有力とされた説は、最先端テクノロジーの賜物であるミラーデックの使用だった。外部の光の波長を変化させて反射する表面は、そのしなやかな質感も含めて紙製のカードと区別がつかない上、デザインを変更するには表面下の粒子をスマホで遠隔操作すればOK。某企業が最近発売したこの新製品を使えば、針井の起こした奇跡も再現可能と思われ、この一件を機に注文が殺到した。

すでに誰もが針井の虚言を前提にしていたが、唯一「私は信じます」と言ってくれたのは針井の弟子であり婚約者でもある芭蓮千乃。彼女の助言をもとに、針井は自宅にこもって番組内で演じた手順とシャフルを分析し、あの日の奇跡につながる初期配列と各カードの移動経路を導こうとする。が、しばらくして針井は自殺。

ミラーデックを生んだ某企業からの入金を確認した摩周は、芭蓮に連絡する。番組前に針井が用意していたカードをミラーデックにすり替えたのは、秘かに摩周との仲を深めていた芭蓮だった。針井がそれを本物と間違えたのはなぜか。彼の愛用するデックのデザインがミラーデックでは未実装だったこと、偽物が新品の箱にパッキングされていたこと、そして彼自身がミラーデックの実物にそのとき初めて触れたことによる思い込みが原因ではないかと考えられた。

数日後、芭蓮が針井の遺品を調べていると、あの日の奇跡に至るすべてのカード配列を手順に沿って記したデータを発見する。しかも道具鞄に入っていた使用済みのカードはすべて紙製、ミラーデックは未開封のままだった。

芭蓮はデータに記された通りの初期配列を組み、あの日彼が演じた手順と、シャフルのズレまで含めて忠実に再現してから、机の上に広げてみた。

あの完璧に揃ったカードの並びがふたたび姿を現した。

文字数:1351

内容に関するアピール

「SF 苦手」などのワードでネット検索してみたところ、どうやら現実とかけ離れた世界の知らない言葉や独自の設定が、いきなり押し寄せてくることに抵抗感をおぼえる方が多いようでした。とはいえ、物語自体は楽しめるという声が大半で、世界観をつくるための言葉や設定そのものが悪いわけではないようです。この場合の抵抗感は、物語に入るために一定の”学習”を強いられるような、ハードな導入の仕方に対してのものでしょう。

したがって、さほどSFに縁がない人をこちら側に引き込もうとする場合は、まず舞台が現実に近く想像しやすい状況からはじめること、あとはすでに一定の愛好家がいる分野を題材にとり、SFならではの角度からその分野を捉えてみせること、この二点が重要だろうとの結論に至りました。

奇術の原理はそのほとんどがきわめてシンプルかつ原始的であるため、このようについうっかり(作中のケースはまず無いと思いますが)不思議な現象が起きてしまうことがあります。たとえば観客がトランプを混ぜている最中に、奇術師がテーブルに置いてあった箱を片づけておいたら「箱が消えた」と驚かれた、などといった話もあるほど、人間の思い込む力は強烈で、様々な現象を引き起こします。それによって、古くから世界中で数えきれないほどの説話がつくられてきましたし、都市伝説や心霊スポットの話題が尽きないのもそのためでしょう。

トリックを使うと宣言しておきながら、そんなふうにしてたまたま不思議な現象が起きてしまったときに、もしそれを完全再現できる科学技術が同時代に存在したら、人々はいったい何を信じるのか。テーマとしてはそんなところです。

文字数:688

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逆行者

――四

 

トリク族は正確無比な予定時刻が記された石板を携えている。ある意味、これはこの部族の伝統が生んだ確かな発明品であり、現に彼らのうち誰ひとりとしてこの石板に刻まれた厳密なスケジュールに逆らった者はいない。

彼らはすでに大地が全体としてひとつの球を成している事実を知っている。各大陸の東西には立派な石造りの橋がかかっていることも知っている。その橋を誰がどのように建設したのかはひとまずおくとして、そのおかげでトリク族を含めた人類の各部族は海岸を前にして前進を遮られることもなく、どの部族も世代をいくつも重ねながら、特定の緯線上を蛇行するように地球を周回していた。

人類はいまだにそれぞれの領地、もしくはそれに準ずる縄張りさえもってはいなかったが、時間の区分を守ることに関して彼らは異様なまでに正確だった。すくなくとも二百人を超える大人数が見事に足並みをそろえて地を行進し、これまでいかなる想定外の事態があろうとかならず予定時刻の通りに次の停留地に到着してきた。

人類が一向にひとつの場所にとどまらない原因のひとつとして、早々に各部族の間に広まった地動説の影響が考えられる。実際の地球は彼らが想像しているよりもはるかに大きいのだが、彼らが何もない虚空で回転する球の表面に乗っているだけの自分たちを想像するに、一日でも同じ場所にとどまっていればきっと空の彼方へ放り出されてしまうだろうと直感するのも無理はない。彼らに備わっていたのは、重力に対する信頼よりもむしろ遠心力に対する恐れだった。この画期的な新説を、人類の誰がはじめに言いだしたのかは定かではない。彼らは必要最低限の文字こそ使用するものの、生活を設計するのに不要なものまで記録しておくことには意味を見出さなかった。実用的な食糧確保の方法論以外はほとんど口伝すらされなかったほどだ。

では、その画期的な新説を唱える者はどうして現れたのだろう。それこそ人類が長年にわたって安住を忌避し遊動を続けた結果かもしれない。一生をかけて世界の何割かを踏破した何者かが、突如悟りを開くように発見したのかもしれない。まさにこれでは鶏と卵の関係になってしまうのだが、彼らとしてはそのこと自体、あまり気にしてはいないのだ。

 

トリク族の行列はアフリカ大陸北西の海岸に向かって西進している途中だった。列の後方に配置された注意散漫な性格のダムダムは、絶えず辺りを眺めまわしながら歩幅を乱して歩いている。彼は目に飛び込んでくる新鮮な風景に駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえ、左前方で時刻石板を両手に抱えたブイブイに声をかけた。

「ねえきみ、オルラム橋前の停留地に到着するのはいつごろだい?」

「十七時ね」ブイブイは彼のほうを振り返ることなく返答した。「あなたはその質問を何度繰り返すの? わたしは朝から一度も遅延通知を出していないのだから。いまのあなたは無駄な体力を消耗しないよう、前進に集中すべきです」

「あはは。そうだよね。きみのいうとおりだ」ダムダムはうんうんと頷いた。「ねえ、ところで名前はなんていうの?」

ブイブイは何も答えなかった。ダムダムは周囲の視線を感じて口を閉じると、平静を装うかのようにわざと力強く地面を踏んで前に進んだ。こうした彼の奇怪な言動はいつものことで、彼が何か妙なことをするたびに、誰もが自分には関わりのないふりをした。

ダムダムは生まれてから一度も、同じ風景の中で二日以上の時を過ごしたことがない。聞いた話によれば、トリク族から五千里以上の距離を行進するマジク族なる人々が、大昔に一度だけ、居心地のいい草原に居を構えて一週間もの時を過ごしたことがあるという。この出来事の顛末には二つの説があり、一つはマジク族が同じ周期を繰り返すばかりの風景に耐え切れず、ふたたび新しい刺激をもとめて旅立ったというもの、もう一つは彼らが二晩を明かしたのち、天に吸い寄せられて一人残らず消えてしまったというもの。トリク族のほとんど誰もがそうであるように、ダムダムも後者の説を信じていた。なぜなら、これまでに通過してきた停留地のどこにもマジク族という名前は刻まれていなかったからだ。

また、ダムダムは六歳の頃に父親のチムチムから、地を這う蛇の話を聞かされたのを強く覚えている。木々が空を覆い隠す密林を進む列の中で、彼の前に配置されたチムチムは唐突に背中で語りはじめた。われわれ人間に安定を阻む手足が生やされ、いまだに地を這って進めないのは、かつてこの混沌に満ちた世界を創造した蛇の誘惑を人間が拒んだためであると。したがって、われわれは手足をぶらつかせて各地を巡り続けることを強いられているのであり、ひとたび誘惑にまけて大地に腰を据えれば、たちまち天に吸い上げられてしまうという。

ダムダムは生まれてからの十七年間で一度だけ蛇に襲われたことがあるが、それは彼がトリク族の採集隊にはじめて加えられ、ケルヤシの実をひとりで五十個集めるというノルマに嫌気が差していたときだった。さいわい彼の指先に噛みついた蛇に毒はなかったが、当時十二歳だった彼がその蛇の頭を反対の手でつまんで放り投げると、母親のハムハムをはじめとした大勢の部族民たちは遠慮なく彼を責め立てた。ある者はのち数か月にもわたって後方から非難を浴びせ、ある者は睡眠中の彼の顔に闇に紛れて砂をかけた。

トリク族の行列は、はるか前方にいるコン族や、後方のモンテ族からは約三百七十里の距離を置いている。狩猟採集の状況によって幾分かの誤差は出るものの、すべての部族が正確な時間をもって各停留地にて食事や睡眠をとっていた。計画的に子孫を残すための性交渉もそこでおこなわれる。翌日の体力維持に必要な睡眠時間に支障をきたさないよう速やかに事を終えるため、男性は年齢によって射精を許される日が決められており、三十代を超えた者は三か月に一度という頻度にまで延長されていた。

オルラム橋前の停留地は広い海岸に面した荒野だ。長い草原を抜けた先の入口では、各部族の名前が刻まれた大きな岩を見ることができる――ピィク、チト、コン、トリク、モンテ、マック、ギミク、ほか多数――マジクの名前はない。オルラム橋はきれいに成形された石積みの橋で、夕焼けに溶けた先端は水平線の彼方まで延びていた。

先頭を歩いていた族長のギアギアが停止線に合わせてゆっくりと減速し、皆の衆もそれに合わせて歩調を緩めていく。やがて最後尾の者が「よおおお、ほっ、ほっ、到着してしまった!」と大声で叫ぶと、それをなぞったトリク族全員の合唱が辺りの空気を激しくふるわせた。半里離れた茂みの陰から小鳥の群れが飛び去った。

「諸君、われわれはついにここまで来てしまった!」ギアギアが荒野の中央に埋まった巨岩によじ登って叫ぶ。自ら誰よりも高い場所に登るのは彼が勇敢な証だった。「ここまで来てしまったということは、明日はあそこまで行ってしまうということだ!」ギアギアはオルラム橋の橙色に光る先端を指さした。「何が待ち受けているかはわからない。わからないからこそ進むのだ。諸君!」

「ほっ!」皆の衆が返答するのに合わせてその場で軽く跳ねた。

「われわれには真実しかない。われわれはわれわれであるということ以外に何も残さない。おととい見た景色をおぼえているか?」

「ぬう」

「わたしも同じだ、諸君。だからわれわれは振り返らない。忘却こそ最も偉大であり、時刻石板の枡目こそわれわれの生きる世界なのだ!」

「ほっほっ!」

ダムダムは無言のまま、周りに合わせて二回跳ねた。彼はこれまでに何度も繰り返されたこの儀式が嫌いだった。族長はどの停留地でも同じように高台へ登り、同じ内容の言葉を、同じ口調で叫んでいた。生活のほとんどがただ繰り返されるばかりのこと。未知の風景だけが彼にとって唯一の楽しみだった。その新鮮な出会いも――彼の先祖が全く同じ工程を繰り返してきたように――やがて記憶から失われるとわかってはいるが、彼がトリク族の青年であり、それ以前に人類の一員である以上、この忘れては出会い、また忘れては出会うといった先祖伝来の風習から逃れるとの考えにはまだ至っていなかった。

皆の衆はギアギアの号令とともに食事の準備をはじめようとしている。大勢の集団が幾何学的な陣形となって、自分に与えられた動線にしたがって正確に作業をこなした。太い薪が何本も中央に運び込まれ、数分の間に立派な炎がそそり立った。その近くには大木から切り出されたいびつな木材が調理台として並べられ、三十人ほどのトリク族が腰をかがめながら野草や木の実に石斧を叩きつけている。

みんなせわしなく、まるで立ち止まることを恐れているみたいだ、とダムダムは思った。

彼の母親であるハムハムが、その場にぼうっと立ったままの息子の背中を通りすがりに小突く。リンザイの肩肉と梨型の土器を抱えた状態での流れるような身のこなし。ダムダムは一瞬、誰に背骨を突かれたのかわからないまま辺りを見まわし、遠ざかるハムハムの背中を発見してすぐに自分が彼女の動線上にいたことに気づいた。

しばらくして、料理長のグスグスからひさしぶりに「獲得物に不足あり」の通知が出された。ただちに石板係のブイブイが計算をはじめる。トリク族にかぎらず、確保した食料が一定の基準に満たない場合は、部族内の誰かを食材に転化させるのが古来より続く人類全体の習わしである。毎日長距離を歩き続けるうえで食料不足以上に深刻な問題はない。予定外のさらなる狩猟や採集によって消費する体力と時間の総量を考えれば、部族民一名をその場で食材に変えるほうがはるかに効率的であるとされていた。

ブイブイは石板裏に彫られた名簿から、食材になる一名を割り出さなくてはならない。皆の狩猟採集成績や生殖能力が彼女によって客観的に査定され、明らかに最下位であると判断された者は今夜の貴重なたんぱく源になる。複数の者が僅差で並んでいた場合は、族長と料理長を交えた審議によって決まる。いずれにせよ、石板係はそれほど重要な役割なのだ。

「補填食材を決定。十五列目北、パイパイ」ブイブイはよく響く張りのある声で皆の衆に知らせた。パイパイは彼女の父親だった。

ちょうど水汲みから帰ってきたばかりのパイパイが、それを聞いて「ででーん」と返事をし、焚火のほうに近づいてくる。さっそく新しい食材の登場だ。

「ででででーん」と皆の衆が一斉に手を休めてパイパイを歓迎する。輪になって風に揺らめく炎を囲み、パイパイを「トリク族」から新鮮な「食材」に転化させる儀式がはじまった。

「おお、これは見事な大物」ギアギアがゆっくりと接近し、パイパイのたるんだ腹に触れる。

「とてもいいパイパイ」料理長のグスグスが背中から尻にかけて優しくなでる。

「最高のパイパイ」そう言って顔に触れたのはブイブイの母親、マイマイだ。

続いてほかのトリク族たちが、次々にパイパイの体に触れてまわった。「すばらしいパイパイ」「立派なパイパイ」「これ以上ないパイパイ」「文句なしのパイパイ」「完璧なパイパイ」「驚くべきパイパイ」「活きのいいパイパイ」――

ダムダムは無言のまま軽く触る程度に済ませ、人の輪から外れたところで最後の一人を見守った。というのも、この儀式の最後はかならず補填材料に選ばれた彼の実子が務めることになっているからだ。息子か、娘か――ダムダムはまだ知らなかったが、その子が最後に彼の胸に触れて、お決まりの台詞を口にすればようやくこの儀式は終了する。その瞬間にパイパイは人間でなくなり、捕獲された一頭のイノシシと同等の扱いを受けるのだ。

この儀式が最後におこなわれたのは十三年前で、ダムダムがまだ幼児用の縄につながれていた時期だった。そのときに比べれば、彼の認識に大きな変化があるのは当然だろう。ダムダムは炎の前に立つパイパイの表情をじっと観察しながら考えていた。そもそもほんとうに一人の人間が、この短時間の間にトリク族から「食材」に変わるなんてことが可能なのだろうか? 儀式を経ることで彼は変わるという。しかし、ほんとうに何かが変わるのだとすれば、いったい何が変わるのだろう?

「では、これより触知の儀、締めくくりに入る!」ギアギアが叫んだ。騒いでいた皆の衆が急激にすっと静まり返る。海岸に打ち寄せる波の音が大きくなった。

いつも皆の衆に時刻を知らせる石板係の女が輪の中心に進み出た。そのとき、ダムダムはじつに不思議な光景を目の当たりにした。彼がこれまで生きてきて、一度も出会ったことのない未知の眺めだった。いつも左前方を歩いていたあの石板係? そうではない、得体のしれない何かが彼女の代わりに視界を横切ったように感じた。草のまばらな乾いた土の地面と、頭上に覆い被さる不吉な星空と、そこへ吸い寄せられるように伸びる炎の近くに突如出現した異空間への入口が、ダムダムに自分がその場にいることさえ忘れさせようとしていた。

これは予感だ、と彼は思った。鼓動がわずかに速くなるのを感じた。きっとあそこにはすべてがあるにちがいない。自分がこれから知るべきことが、おそろしくたくさん凝縮されているにちがいない。いままで経験した数百の険しい藪の中でも出会えなかった新鮮な輝きが、きっと待ち受けているにちがいない。世界にはまだまだ知らないことがたくさんあり、思いつきも試してもいないことが山のようにあるのだ。もしかすると、これからとんでもないことが起きるのかもしれないぞ――。

「……ブイブイ」

沈黙を破るように、かすかな呟きが皆の衆の耳に届いた。誰かと思えばパイパイだ。彼はもうすでに半分以上は「食材」になっており、声を出してはいけないことになっているはずだ。ここで声を出せば、ここまでの転化儀式が水の泡になりかねない。あわてたギアギアはトリク族の族長として、その声をかき消すように大きく「でででん、でででん」と唱えはじめた。皆の衆もそれに続く。「でででん、でででん」

「ブイブイ」とダムダムは小声で、パイパイが漏らした名前をそっと復唱した。彼は世界のどこかに眠る巨大な秘密の鍵を手に入れたような気分になった。

突然の予定を狂わせる事態に困惑したブイブイは、いま目の前に立っている肉と骨で構成された「食材」と、自分との間に引かれているはずの境界線がかすかに揺らぎ、かき消されるような、奇妙な感覚に陥った。彼女がこれから口にする言葉は決まっている。それを少なくとも、あと一分以内に唱えなければ、食事の準備が遅れ、食事時間が遅れ、最悪の場合は睡眠時間が犠牲になる。睡眠時間が削られれば、明日の移動にも悪影響が及びかねないだろう。それだけは避けたかった。時刻石板を無効化するような事態だけは。

しかし、どういうわけかこの「食材」は、まるで食材ではないかのように自分の名前を呼ぶ。この新しい食材を食べることが、まるで空腹に耐えかねて自分の腕にかぶりつくといった奇怪な行為であるかのように思われて仕方がない。

「父――」と、彼女は声にならない声で呟いた。もちろん彼女はその程度の事実なら十分に把握していた。しかし、それはあくまで過ぎ去った時間に関係する話であり、彼女がいるこの現時点とは領域を異にする、この物体の位置づけにすぎない。

だとすれば――、とブイブイは思った。いままさにこの物体との間で起きている境界線の揺らぎが、そうした現時点という枠組み自体を壊すものであるなら、余計なためらいはふり払って早急に対処するべきなのかもしれない。トリク族を代表する時刻石板の番人として――。

人類に過去はなく、未来もない。ただ前に進むのみ。しかし、このときのブイブイはやはり心のどこかで別の時間を思い描いていたのかもしれない。それは彼女が儀式の完了を告げる最後の台詞を発したとき、うわずった声のふるえによって言葉の粒が乱れ、食材の表面に触れてからはしばらく何も言いだせず、ただじっとその頭部を見つめていたことからも明らかである。

「おお、おお、なんて美味しそうなパイパイ……」

 

炭火と海水を使って短時間で蒸し焼きにされたパイパイの肉は不評だった。皆の衆がとくに感想を漏らしたわけではないが、誰もが補填された食材を最後に残し、意を決したように食らいついて苦しそうに表情を歪めて咀嚼していたことは確かだ。たとえどんなに口に合わなくても食事を残すことが許されないのは、トリク族にかぎった話ではなかった。

ダムダムは幼い頃からこの手の曲者を処理するのには慣れていた。自作の石斧で刻んだ小片を、無心で喉奥めがけて放り込み、丸薬のように次々と飲み下す。多少余計に時間はかかるが、そのぶんの遅れはほかをすばやく片づけることで補えばいい。もし運が良ければパイパイ以外の動物の塩漬け肉を割り当てられていたのだが、こうなったからといって彼はそれほど落ち込んではいなかった。人生には後悔に明け暮れるよりも、木々が風に身をまかせて揺れるように、単純に手だけを動かしていたほうが賢明な状況というのがある。いまがそのときだった。

食事中、彼の視線の先にはブイブイがいた。彼女は最後に残ったパイパイの頬肉を小ぶりな前歯で断続的にかじり、リスのようにせかせかと口内に運び入れている。あの手や顎の動きもまた、彼女の心とは無関係に進行しているのかもしれないな。――そんなことを考えながら彼は、パイパイの血と脂がこびりついた石斧を海水でゆすいだ。

時計が二十時を示すとともに、トリク族は全員そろって就寝した。ブイブイが首から下げる箱型の時計は、トリク族にとって唯一の時計である。この時計は地球上の各部族に代々伝わってきた古い道具で、黒い板材の表面を這う銀色の不透明な液体が変形し、模様を形成することで時刻を知らせている。模様は全部で十二種類あり、一時間ごとに更新された。

ダムダムは真夜中に目を覚ました。これは彼にとって生まれてはじめての出来事だったので、彼はしばらくそれが現実だとは気づかなかった。試しに体を起こしてみると、眠りについた二百人以上の影がミイラのように整列していた。体を起こすと同時に経験したことのない不安が押し寄せ、おそるおそる上を見上げると、満天の星空に先ほどよりもずっしりとした重みを感じた。次第に鼓動が速くなり、天空の彼方までそのまま吸い寄せられる感覚が不意に脳裏をよぎった。しかしながら、これまでに見上げてきたどの空ともちがって、地上の蛇を見下す不吉な星空にどこか魅力のようなものも感じていた。

やがて彼はそのままなめらかに立ち上がり、トリク族たちの影をすり抜けるように足を忍ばせて停留地の入口に向かった。地球を周回する各部族が何世代にもわたって踏み固めてきた大地には、はっきりとした道が出現している。停留地の入口とは、草原に切り開かれたその一本道から荒野につながる境界のことだ。

ダムダムがその近くまできたとき、突然、草むらの陰から獣の声がした。その音を察知するやいなや、反射的に狩猟時の緊張が全身に走る。彼は万一の攻防に備えて石斧を構えた。前方に位置する獲物の反撃に最も対処しやすいトリクの構え・三で接近し、声の主がいる位置を特定した。

鳴き声はダムダムにとってまるで聞いたことのない類のものだった。耳に入るだけで喉の奥がねじれそうな気分になり、どこか苦しんでいるようにも聞こえた。正体不明の敵に対する恐怖もあったが、彼は不思議なほど興奮していた。寝起きには似つかわしくない鋭い眼光で、鳴き声の主がおよそ子ヤギほどの大きさであることを把握する。やがて標的が沈黙し、かすかな移動の気配を見せた瞬間、彼は一気に間合いをつめた。が、敵は一足飛びに真横へ退避するとともに、手足をくの字に曲げて二本足で立ち、片足の先端をダムダムのほうに向けた。

ダムダムはそのシルエットに見覚えがあった。丸腰状態のトリク族が、俊敏な猛禽から逃げ延びようとする際に用いる、トリクの構え・七――。まさか、と彼は思った。

彼は試しに、森で狩りをするときに仲間と連携をとるための合言葉を唱えてみた。「ほう・ほう・ほ・ほ・ほう」

すると相手からの返答が――。「ほ・ほ・ほ・の・ほう」

「ブイブイ!」ダムダムは安堵と確信を込めて言った。

ブイブイは警戒を解く動作を見せ、ゆっくりと彼に近づいてきた。「――ダムダム?」

ダムダムは草原からの向かい風を受けて、そこにかすかな嘔吐物の臭いを嗅ぎ取った。先ほどのうめくような鳴き声は、ブイブイが胃の中に無理やり押し込んだ自分の父親を吐き出す音だったのだ。

「どうしてあなたがここに?」ブイブイが言った。

「突然、目が覚めたんだ。こんなのは生まれてはじめてだから、ちょっと知らない世界を探索しようと思ってね」

「そう」ブイブイは草原のほうを向いた。「ねえ、ここから先に行くと何があるか知ってる?」

ダムダムは困惑した。あれほど時刻石板に忠実だったブイブイがよこした質問とは思えなかった。それに、彼にとってこの質問はまさに、夜の闇に光を照らすようなものだった。長い歳月をかけて地球を何周もしてきたトリク族の先祖たちが、これまでに誰一人として試みなかったことがある。もはや気づいた途端に何もかもどうでもよくなってしまうような、あまりにも単純な発想の転換だ。

すなわち、来た道を戻るということ。ダムダムはひそかに頭の中の霧が晴れていくのを感じた。

「いや、わからない」ダムダムはつとめて冷静に言った。「でも、どうしてそんなことを?」

「いつもこの時間に目が覚めるの。そのたびにこうやって後ろに広がる景色を見ながら考えてた。もしこのまま戻ったらどうなるんだろうって」

「昼間のきみを見るかぎりでは、そんなことを考えているなんて想像もできなかった」

「朝になると何もかも忘れてしまうのよ。目が覚めた瞬間から夜になって眠るまで、わたしたちはその日にやることがぜんぶ決まっているから。トリク族にとっては、夜の夢も過去の記憶も不要なもの。来た道を逆行するなんて発想はこの時間にしか生まれないのよ」

ダムダムはパイパイについて彼女に尋ねることはしなかった。もし自分がチムチムやハムハムの肉を食べるなんてことが起きたら――そんなことを想像したのもはじめてだったが――、その先ずっと、夜に目が覚めるたびにその事実から逃れようともがくことになるだろう。忘却こそ最も偉大であるとギアギアは言っていたが、その言葉は、少なからず真実にも近いように思えた。

「言葉……」ダムダムはハッと思いついて言った。意識的にそう口にしたのも、彼にとってはまたはじめてのことだった。「そうか、ぼくはいま言葉を話しているんだ」

ブイブイがはじめて微笑んだ。「そう、来た道を戻るという発想も、言葉を組み合わせることでできたもの。わたしたちは背後に道があることも、何かを戻すということも知っていたのに、その二つはこれまで結びつくことがなかった。自分が言葉に動かされていること、言葉を操っているという事実に気づけば、かんたんにトリク族の慣習からは外れてしまう。そして何より――いつも新しい風景を探しているあなたならきっと見えるはず――、こんなことだってできるのよ」そう言ってブイブイは、胸の前に手のひらを上にして寝かせた右手の親指に、左手の人差し指を巻きつけると、そのまま静かに横へ滑らせた。

その光景がダムダムにとって、生涯忘れられないものになったのは言うまでもない。雲一つない月明かりの下で、ブイブイの右手の親指は血の一滴も流すことなく、第一関節を境に美しく切断されていたのだ。

「すごい、すごすぎる! これは大発見だよ、ブイブイ!」ダムダムは瞬時に彼女の言わんとしていることを理解した。彼女の親指はほんとうに切れているのではない。各指の配置と、それを眺める角度によって、あたかも切れたように見えているだけなのだ。

ブイブイは落ち着いて言った。「そこに何かがあるときには、つねにその裏に何かを隠している。言葉だって同じよ。それが石板に刻まれたり、声に出したりしないと伝わらない以上、そこにはかならず別の何かが隠れているの。いま周囲にあるすべてが、そうした部分的なものにすぎないと知ったとき、わたしたちははじめてこの不思議な作用があることに気づく」

「そうか」とダムダムは言った。「ぼくたちは知らず知らずのうちにその不思議な作用にかかっていたというわけだ」

「ええ、わたしたちは知らないうちに、ある秩序の中に閉じ込められていた。トリク族もほかの部族も互いに出会ったことはないし、それぞれの位置関係はずっと変わらない。空模様や海面の高さは変化するのに、わたしたちには当然のように時刻に合わせて前進を続ける以外の選択肢がなかった。つまり、大昔の時点ですでにその不思議な作用に気づいた何者かが、わたしたちを言葉や物のように操っていたとしてもおかしくないと思わない?」

「もしかして」――蛇? とダムダムは言いかけた。だが確信はなかったので「いや、なんでもない」と言って香ばしい笑顔を見せた。

「とにかく行きましょう」とブイブイは言った。「これをつくったのが、いったい誰なのか気にならない?」彼女は胸元にぶら下がった箱型の時計を手で持ち上げて揺らした。その時計は変人扱いをされてきたダムダムでさえ、一度もその詳細に関する疑問を投げかけたことのないものだった。彼もまた、ただ何となく、そういうものだと思ってきたのだ。

「もちろん」ダムダムは軽快にうなずく。

二人は地平線の彼方を見据えてから、ゆっくりと過去への第一歩を踏み出した。

 

時計を失ったトリク族が、族長ギアギアの叫び声とともに一斉に目を覚ましたのは、東の空に日が昇りはじめてから五時間以上経過した後のことだった。ギアギアは巨岩の上からダムダムとブイブイがいなくなったことを知らせ、原因は不明だが、両名は夜のうちに天に吸い込まれてしまったのだと説明した。

「とにかく諸君!」とギアギアは発作を起こしたような顔で叫ぶ。「われわれは時刻を確認する手立てを失った。もうおしまいだ。わたしがいま、この高みに立っているおそろしさがわかるか。ああ、じきにわれわれは天に吸い寄せられるだろう」

トリク族たちは停留地の方々に散らばって嘆きの声を上げた。やがてギアギアが奇声を発して海岸のほうへ駆け出すと、皆の衆がわれ先とそれに続いた。幅にして大人三人分ほどのオルラム橋の上を、秩序を失った二百人余りの群集が駆けていく。拘束された小さな子供たちは荷物のように運ばれていった。何人かは海に落ちて這い上がるすべをなくし、何人かは後続勢に踏みつぶされて圧死した。

彼方の沖合にある次の停留地まで一目散のトリク族は、武器や道具の類をもれなく海岸近くの荒野に置き去りにした。そのうちの一つ、鋭利に研がれた大型の石包丁を握りしめ、焚火の跡の近くに穴を掘りはじめたのはブイブイの母、マイマイである。彼女とほか二名、チムチムとハムハムだけはどういうわけかこの停留地に立ち尽くしたまま、太陽を背に驀進する皆の衆を遠くに眺めた後、やがてそれぞれの行動を開始したのだった。

チムチムは狩りに出かけた。どうせ天に吸われるなら、最後に旨いものでも食べておこうという魂胆なのか、彼は落ち着き払った顔で石槍を手に取り、近くの森まで歩いていった。

ハムハムは穴を掘るマイマイの様子をじっと見ていた。彼女が他人の行動の意味について考えるのはこれがはじめてで、本来は動物の骨を断ち切るのに用いる大型の石包丁を使って、わざわざ穴を掘る理由を、あれこれと自身の記憶を探っては目の前の光景に照らし合わせていた。そもそもマイマイの行動には何か理由があるものと確信している自分を不思議にも思ったが、最後までその確信から逃れる気にはなれなかった。とはいえ、彼女の記憶に残っている事柄はさほど多くもない。そのほとんどは普段の生活を円滑に回すための、体に染みついた手順であり、あとは各停留地の名称と到着予定時刻くらいだった。

ハムハムの視線が何気なく焚火の跡に向かうと、まるで霜の降ったような炭と灰の中に、とりわけ白い奇妙な形をした石のようなものが埋もれているのを見つけた。彼女が生まれてはじめて、自ら考えることによって一つの答えを導きだすことに成功したのは、まさにその瞬間である。

「骨……パイパイ……」とハムハムは呟きながら、彼女が愛用していた石包丁を手に取って、マイマイがいるほうへ歩きだした。穴掘り作業を手伝おうというのだ。

この日、人類ははじめて一人の仲間を埋葬した。パイパイをわざわざ地中におさめた理由は、マイマイからすれば彼が天に吸い込まれないようにするためだった。何よりこの出来事によれば、マイマイはすでにそこに――あるいはどこかに――パイパイの存在を感知していたことになる。前日の晩に「食材」としてきれいに消費されたはずのパイパイが、まだ一人の「人間」としてそこにいると彼女が信じているのなら、そのような人間の不思議なあり方を彼女が発見した原因は、まさに言葉の作用にほかならない。生活にかき消されることなく奇跡的に彼女の記憶に残された、あの肉と骨で構成された物体の姿と、「食材」以外のさまざまな言葉との組み合わせによって、パイパイはあたかもその向こうにいるかのようにして蘇ったのだ。それはいわば単なる空想であり、自然による詐術にすぎないのだが、いまではもうそれを抑えつける慣習は水平線のはるか彼方に去っていた。

 

森を散策していたチムチムは、生まれてはじめて蛇を殺した。

彼はこれまでずっと、トリク族に真実を見出して生きてきた。大昔の人間が蛇の誘惑に逆らったがゆえに、誘惑と嘘にまみれたこの混沌の世界に放り出されたわれわれは、つねに安定を維持するために動き続ける手足と引き換えに、けっして道に迷うことのない真実を授かったというのが人類の各部族に共通する昔話だ。彼はそのすべてを信じて生きてきた。

だが、と彼は思う。いまの自分はどうだ。生まれてからずっと身を委ねてきたトリク族の行進に乗り遅れ、そのわりには大した動揺もなく、むしろ解放されたような気分さえ味わっているではないか。これがほんとうに真実で動いている人間の反応なのかと、考えれば考えるほど疑わしくなった。狩りに使う槍を担いで森に来ているとはいえ、彼の目的は曖昧なままだった。課せられたノルマもなく、時間の制限からも解放された状態で、いったい何を狩ればいいのか――?

彼が気の向くままに歩きまわっていると、木陰に蛇があらわれた。従来の狩りであれば対処方法は決まっている。近づかないよう、触れないよう、迷わずその場から離れるだけだ。迂闊に手を出してトリクの秩序から外れれば、天に吸い寄せられてしまうとか。

「ふん。蛇ねえ」と彼は言った。そう口にした途端、その言葉の意味するところがわからなくなったのは、彼がすでにトリク族ではないからだ。「蛇」という言葉が宙に浮かび、それにまつわる昔話のすべてから、真実が離れていくような気がした。

「真実ねえ……」と彼は言った。とにかく何でも口ずさんでみたい気分だったのだ。すると、自分自身に対して抱いていた疑念が一気に増幅するとともに、生来まとっていた透明な拘束具に鮮やかな彩色が施され、ひとりでに外れていくのを見た気がした。彼は思わずほうと叫んだ。叫びながら天を仰いだ。蛇と真実――彼はその二つが等しく言葉であることを発見したのだ。

自分を動かしていたのは真実ではなく、「真実」という言葉にすぎない。彼はその場でぷるぷるとふるえた。顔が溶けそうなほどの笑みがこぼれた。全身の力が抜けて、立ち尽くしたまま失禁した。その様子を蛇が木陰から見ていた。

彼は幼い頃に封印されていた悪戯心に全身を委ねるようにして、トリクの構え・一によく似た自己流の不格好な体勢をつくった。そして、アマガエルを模した大胆な跳躍からのすばやい身のこなしで、瞬時に逃げようとする蛇の頭を砕いた。

 

ダムダムとブイブイは十日の間、トリク族として歩いた過去の道を遡った。二度と訪れることはないと、何の疑いもなく信じていた場所と再会するたびに、彼らはそのときの自分自身や互いの様子をつぶさに観察し、あたかも直近の出来事が一時的に記憶から抜け落ちてしまったような、じんわりとした独特の内面状態をあらわす言葉を探していた。

昼間の彼らは気の向くままに道から外れてさまよい、水分の豊富な果実を見つけては採取し、捕獲した小動物は太い枝にぶら下げて歩いた。夜は互いを知り尽くし、何度も未知の感触に出会った。オルラム橋前停留地を抜け出したあの日以来、二人が現在時刻を確認したことは一度もない。

十日目の朝にダムダムが起きたのは、そろそろ正午が迫る頃だった。昨晩まで湿っていた地面はすでに乾燥してひびが入っている。彼が寝床にしていた草場を這い出ていくと、ブイブイが箱型時計を揺らして内部の液体を観察していた。

「時間水がわずかに青く変色してるのよ」と彼女は言った。

「まさか」ダムダムはそんな事例を聞いたことがなかった。いつも時刻を正確に知らせてくれるこの魔法の液体に異常が発生したとすれば、十日前ならトリク族の全員が大騒ぎしていたことだろう。「いったい何が原因で?」

「わからない。でも、考えられるとすれば太陽の光かなって」ブイブイは冷静に答えた。

「太陽の光なら昔から何度も浴びてるじゃないか。それに――」ダムダムは空を見上げた。「ここ最近の太陽は雲で隠れてる」

「ねえ、わたしたちが海辺の停留地を出てから、何か変わったことはない?」

「しいて言うなら、その時計を見なくなったことくらいかな」ダムダムは軽く笑いながら言った。そのまましばらく沈黙が流れ、突如ブイブイにひらめきが舞い降りた。

「時刻石板……」と彼女は言った。「もしかして、石板とのズレに関係が……」

「たしかに石板は置いてきたけど、でも十日目にしていきなり変化が起きるのはおかしくないかい? ぼくたちはすでに何度も予定時刻からズレた行動を取ってきたはずだよ?」

「いえ、そうじゃない」ブイブイは時計を地面に置いた。「予定された移動距離よ」

「そうか」ダムダムはとっさに理解した。「ぼくの考えは逆だったんだ。つまりその時計は、時刻石板に書かれた時刻と現在時刻を照らし合わせるために与えられたのではなく、元はといえば、その時計を絶え間なく移動させる目的で、後から時刻石板がつくられたってことだね?」

「まさに」ブイブイが食い気味に答える。「大昔のトリク族には、おそらく最初にこの時計があった。そして時計の変色を避ける目的で時刻石板が彫られ、やがてわたしみたいな石板係が設置された――」

「とすれば、今朝になって変色しはじめた理由も明らかだ……」

「ええ、わたしたちがこの逆行の旅で最も長い時間、移動せずにとどまっているのは、まさに昨日の昼から今朝にかけて過ごしてきたこの場所でまちがいない――」

 

時計をそこに置いたままにして、二人は夕方まで待ち続けた。銀色の液体は時間が経つごとに変化の速度を増し、やがて粘性を帯びはじめてから鈍く光り、数分のうちに球体の形に凝固した。彼らは箱の中の青く丸まった塊を注意深く観察し、いったい誰がこんなものをトリク族の手に渡したのだろうかとあれこれ話し合った。

ちょうどそのとき、箱の中の変化があまりに劇的だったがゆえに彼らは気づかなかったのだが、すでに東の方角からやってきた数百人の足音がすぐそこまで迫っていた。

その行列の先頭に立つ人間の姿が、二人の視界に入ってから二秒と経たないうちに、ブイブイが箱の上部に結わえつけられた縄を首にかけつつ、流れるような動きで体の形をトリクの構え・三に変化させる。彼女のすばやい動作で軽く舞い上がった土埃が地面に落ちるか否かの間に、同じく狩りの姿勢に構えたダムダムは、あと十秒もしないうちに自分たちの間合いに踏み込もうとしている目の前の集団が、方角から考えてモンテ族であることを察知した。二人がトリク族以外の人間に出会ったのは、これまた生まれてはじめてのことだった。

モンテ族の族長は両膝を覆うほど長く伸びた白髪で顔を隠しており、その規則正しい歩調からは一向に動揺の気配が感じられない。彼の後ろを歩く人々も同じように、誰もが道を塞ぐ二人の異人に対する反応がまったくもって見受けられなかった。

しかし、ダムダムとブイブイにとって最大の関心事はいまやそこにはない。行進するモンテ族の進路に立ちはだかる形でほぼ同時に狩猟態勢に入った両名が、全身をトリクの構えに移行し終えてからその動作によってかすかに揺らいだ視点をふたたび前方に固定するまでのほんの一瞬、突如として出現した謎の青い光線が、彼らの注意を迫りくるモンテ族から奪ったのだ。

青い光線はまるで地面に彫られた溝が鮮やかに燃えているかのように、ゆるやかな曲線を描いて二人のまわりを囲んでいる。彼らに後ろを向いて視認する余裕はなかったが、それは密集した人間十人を囲んで余りあるほどの広さをもった一つの円を成していた。

モンテ族の族長が光でできた円の一歩手前まで差し掛かったとき、ダムダムとブイブイは道の両端に退くか、威嚇をするか、あるいは友好的に声をかけるかの判断に迷っていた。相手の様子を見るかぎり敵意は感じられず、むしろこちらに対する関心は微塵も示していなかった。

事態は思わぬ展開を見せる。モンテ族長は光線の前で立ち止まると、すぐに体を横に向けて二人を囲む円を迂回した。後続の人々も同じように視線を前にやったまま、族長と同じように次々と円の手前で左右に分かれ、あたかもそこに大きな水たまりでもあるかのように、自然な流れで異人たちを避けて通過していった。

数分かけて長い行列の最後尾が過ぎ去ると、二人は同時に構えを解き、青く光る円が自分たちを囲んでいるのを確認した。円の内側と外側で地面の色がわずかに違っていることにも気づいた。

「モンテ族……」とダムダムは小声で言った後、ブイブイの胸元にある時計を見た。

「この時計が中心になっているみたい」ブイブイが時計を軽く左右に揺らすと、光の輪もそれに合わせて動いた。「いったいこれは……」

 

チムチムは大事に隠し持っていた玉の色が青く変化していくのを見て、思わずハムハムとマイマイを呼んだ。その玉は、チムチムが十日前に殺した蛇を解剖し、体内から取り出してきたものだった。

チムチムは殺した蛇の胴体を揉むように触り、場所によって硬さの違うことを確かめた。拾ってきた鋭利な形状の石で、腹部の硬くなっている表面を力ずくで裂いたところ、ほかの動物と違って出血はなく、代わりに溢れてきたのは、熱した脂のような透明な液体だった。体内の内壁には彼が見たこともない材質の細い線が張り巡らされており、つやつやした骨のような組織が、親指の爪ほどの大きさの玉を包んでいた。

彼がそのとき想像したのは、石板係のブイブイが管理していた時計の中身である。古くから時間水と呼ばれるあの謎の物体と色がよく似ていたのだ。彼は蛇の体内から玉をはぎ取り、上半身を包む毛皮の中におさめた。

十日間を経て、三人の生活は海辺の停留地にすっかり馴染んだ形式に変わっていた。草で編んだ屋根を重ねて雨をしのぎ、石を積んだ蔵の中に食料を蓄えるようになった。パイパイがここに眠っているかぎり、おそらくこれから先もこの場所を動くことはないだろうとの思いが、いつしか三人それぞれに共有されていた。

「この火の動きは、まるで誰かが話しているようだねえ」

ある日の夜、ハムハムが何気なく漏らしたこの言葉は、明らかにわざわざ言わなくてもよいことだった。食事と睡眠の間で、生活には一切不要なこの言葉の連なりが彼女の口から聞こえたとき、隣にいたマイマイは、遠くに去っていったブイブイと、地中に眠るパイパイの声色を同時に焚火の炎に重ねた。意味をもたない声の響きが頭につまった記憶を粟粒のように混ぜ返し、古いものから新しいものまでが次々に風景として目の前に浮かんできた。高く天を目指して伸びる橙色の輝きは、次第に水平線やオルラム橋といった背景を消し去ってしまい、まさに――ブイブイでもパイパイでもなく――この炎が自分に向けて語りかけているのだという、じつに奇妙な言葉の並びを彼女に想起させた。すると、炎は彼女に応えるかのように勢いを増し、そのせいですっかり新しい生き物にしか見えなくなってしまった。突然、ハムハムが鳥の鳴きまねをやりはじめる。彼女には炎が鳥に見えたのだろう。ハムハム鳥は炎の揺らめきを煽るように声色を変化させ、やがて同じような変化の波を繰り返した。行進による足踏みの繰り返しとは異なり、その響きは人間を、この場所にとどまらせるための音だった。このままずっと、ここでこの音を聞いていられたら、とマイマイはすこし先の未来を想像した。そして、自らも勢いをつけて立ち上がると、高らかに声を響かせ、炎の近くで優雅に羽ばたいているハムハムに続いた。

 

チムチムは二人に蛇の体内から採取した玉を見せながら、あっと声を上げた。いつのまにか周囲に青い光の輪があらわれ、三人をうっすらと青みがかった透明な半球が包んでいたのだ。ハムハムが半球の内壁に近寄ろうとしたそのとき、三人の体はふわりと宙に浮かび、それに合わせて半球も上昇した。半球はどうやら地面の下にその下半分を隠していたようで、上昇するにつれて完全な球体としての姿を見せた。

三人はまともに身動きがとれず、チムチムが落下する恐怖に耐えながら、おそるおそる空を見上げるまでは、何が起きているのか見当もつかなかった。いずれの脳裏にもよぎったのは、トリク族から離れて十日間も一つの場所にとどまった結果、とうとう天に吸い寄せられる日が来てしまったという仮説。しかし、チムチムはとうにそんな迷信にすがる態度を放棄したはずだった。ハムハムとマイマイも、現に安定を手に入れてみせた自分たちの生活に対して、もはや移動の必要性など見出してはいなかった。それでも実際に体が宙に浮いているとなれば話は別である。

上を見上げたチムチムの目には、空を埋め尽くす灰色の雲と、その下に浮かぶ巨大な岩が飛び込んできた。だが岩にしては表面が滑らかすぎる、と彼は思った。

同様にその物体を見たハムハムとマイマイも、ただ言葉を失ったまま、体をこわばらせるしかなかったが、ふと地上を見下ろしたマイマイが目撃したのは、十日前までに歩いてきた草原から停留地を横切って、オルラム橋上のはるか彼方まで延びる、二本の半透明な線だった。線の色はちょうどこの三人を乗せて浮遊する球体よりもわずかに濃く、とはいえその存在だけははっきりと視認することができる輪郭をもっていた。

彼女が驚愕したのはそれだけではない。同じく半透明な青色の、無数の線と平面によって構築された奇妙な物体が、地上のそこらかしこに乱立していたのだ。雲まで届くほど高いものから、異様に広く平坦なものまでさまざまである。場所によっては互いに重なり合い、色の濃くなっている箇所がいくつかあった。彼女がふるえながら指を差すと、変わり果てた地上の景色に、ハムハムとチムチムが思わず窒息しそうな声を漏らした。

三人を包む青い球が接近していくと、やがて「岩」の底が開き、わずかに中から光が漏れた。

 

ダムダムとブイブイは、すでに空に浮かぶ大きな船の中にいた。吸い込まれるときに想像していた内部の光景とはまるで異なり、ほとんど地上と変わらない、ずいぶんと見慣れた森が広がっていた。空はうっすらと青白く光る曲面でできており、あれが本物の空でないことくらいは二人にも容易に理解できた。戸惑いながら森の小道を歩く二人に、見知らぬ老人が座ったままの姿勢で近づいてくる。彼がどこにどう腰かけているのか、二人には見当もつかなかったが、その椅子は彼の腰まわりをしなやかに包んで全体重を受けとめ、客人たちの目線に合わせて、ちょうどいい高さに浮遊させていた。

「ようこそ」笑顔の老人から、カラスの鳴き声を模したような不思議な声が聞こえた。口は動いていなかった。「あなたたちはトリク族ですね。ぼくはマジク族のデアデア。ここで暮らしている者です」

「マジク族!?」ダムダムが大声を出した。「あの伝説はほんとうだったのか――」

「そうです。ほんとうです」デアデアから陽気な声が出た。「とりあえずご案内します。どうぞこちらへ」

デアデアに導かれて森の奥へ進むと、丸太と動物の皮でつくられた円錐状の物体がたくさん並べられていた。「あれはぼくたちの家。つまり、生活するところです」デアデアは得意げな笑みを見せた。「ぼくらの先祖はずっと昔にここへやってきました。あなたたちもご存知のとおり、移動する生活をやめて、一つの場所にとどまったからです」

「ねえ、気になっていることを率直に訊いてもいい? ここはいったい何なの? どうしてその……移動をやめると、ここに吸い寄せられるわけ?」ブイブイがすこし苛立ったような口調で訊いた。ダムダムも隣でうんうんとうなずく。

デアデアは黙って背中を向けた。二人にはどうしても、彼がこの森でほんとうに生活しているようには見えなかった。狩猟採集生活に身をおいてきた者による野生の勘をはたらかせなくとも、この老人が森で暮らしていないことは明白だ。

「ぼくらは、四代目の人類なんですよ」デアデアは言った。

「四代目?」とブイブイ。「そんなことはないでしょう? もっと昔から人類はいるはずよ」

「そういうことではありません。あなたの想像している、大昔から続くいくつもの世代交代、それを含めた人類の歩みのすべてが、これですでに四度目なのです」デアデアは二人のほうにすこし椅子を回転させた。「できるかぎり、お話ししましょう」

しばらくして、彼はゆっくりと語りはじめた。「初代の人類には、この船の持ち主がずいぶんと手をかけましてね、じつにいろいろなものをつくらせることに成功しました。ですが、彼らが呑気に放っておいたせいで、いつのまにか初代人類たちは、自分たちの代わりといって新しい疑似生命をつくってしまったのです。それが理由で、設計者である彼らによって消去されました。もったいないですね。でも、そういうものなのです。ちょうど、この星ができてから四十五億と五千年ほど経過した頃の話ですね。

そもそも人類というのは、この船の持ち主が星を開拓するためにつくった道具の一つ。肉や骨や神経といったものは、すべて彼らの発明品なんですよ。彼らはその星にある物質を上手に組み合わせることで、彼らのような『生命』によく似た疑似生命――自動開拓機をあっというまに用意してしまうのです。この地球における最初の疑似生命が蛇で、最後につくられたのが人類です。人類はこの星に設置したどの種よりも、生命の機構に近いかたちの物質的な再現に成功した、いわば規格を満たした疑似生命でした。まあ、そもそも生命を物質で完全再現しようというのが無理な話ではあるのですが――。

初代を消去した彼らは、二代目の人類を設計する際、『意識』から言語の発生に必要な入力を一部省略することを試しました。しかし、あまりに極端な改変だったために長持ちせず、二代目は狩猟の技術すら会得することもなく消去されたのです。

それに比べると、三代目はなかなかでした。食事と排泄と性をなくした疑似生命を、この星ではじめて実現したのです――初代人類の発明品からも影響を受けました。ですが、その結果、三代目は九百年も費やして星を一周する鉄道なんてものをつくってしまいましてね。しかも動力が蒸気と石炭のみ。これではだめです。もうすこし生命に近づける必要がありました。とはいえ、大陸同士を結ぶ橋はよくできていましたし、おもしろいので実体のまま残されたのですが、彼らは悔やんでいましたね。

とにかく、二代目と三代目は総じて明らかな失敗とされました。初代が優秀だったので仕方ありません。初代人類のために、彼らがわざわざ設計した『意識』は、無限に拡散していく生命の機構を、物質世界に巧妙に落とし込んで再現するためのソフトウェアです。意識を起動させることで、初代人類は思考の帰結としてさまざまな情報を言語に集約してきました。疑似生命が生命の無限機構をなぞろうとして起こる不思議な挙動に対し、後から適切な言葉の組み合わせを導いて安定させてくれるのです。なので、放っておいても勝手にいろいろな法則性を発見し、疑似生命を物質世界の中で存続させてくれます。

ただ、彼らはいたずら好きでもありましてね。地球の至る場所にわざと偽の物的証拠を隠しておいて、初代人類に『自分たちはサルから進化した』などといった架空の歴史を信じ込ませていたのです。ぼくとしては、それが初代人類に疑似生命をつくらせてしまった原因なのではないかと考えているのですが、実際のところはわかりません。

そして、四代目があなたたち――。

ぼくはあなたたちを設計するにあたって、初代人類の設定を忠実に真似て、その中である部分を反転させました。初代が試行錯誤の末に発見したものを、あなたたちには最初から与えてみることにした。このプログラムは、ぼくらにとってはじめての試みだったのです。

初代人類がなぜ自らの手で疑似生命をつくってしまったのか? なぜ自らを生命と勘違いしてしまったのか? そんな疑問に執着したのは、ぼくが疑似生命の体に乗り込むことで、生命と物質のさらなる関係に迫ろうとしたことが原因です。生命の彼らに逆らい、彼らが三度の開拓失敗で手放した地球に残って、この船をつくり、疑似生命の体をつくり、ぼく自身が疑似生命として思考し、生命から可能なかぎりの距離をおいた四代目の人類と生態系を設計したのです。――おかげで生命から最も遠い蛇は、ほとんど抜け殻状態になってしまいました。

初代人類がなぜ自らの手で疑似生命をつくってしまったのか? なぜ自らを生命と勘違いしてしまったのか?――この疑問に何らかの答えを得ることが、この星に残ったぼくにとって最後の目的でした。そして、それは果たされた。

もうおわかりですね? ぼくはマジク族ではありません。そんな部族は実在しないんです。

四代目の人類はまもなく地上からいなくなりますが、初代人類が最初から授かっていたもの――物質を生命に見せかける巧妙なからくりを、ぼくの与えた手がかりを頼りにとうとう自らの手で見つけてくれたあなたたちだけは、この船に避難させようと決めていました。あなたたちの親ももうすぐここに来るでしょう。先ほどはこの船に持ち主がいると言いましたが、ほんとうは誰のものでもありません。ぼくがただ用意しただけ、あなたたちと同じです。ぼくが去った後、この船はふたたび地上に降りて、しばらくすれば自然に分解されるでしょう。

生命には時間も空間もなく、目的も方向も無限にある。だからこそ物質世界は、ぼくにとってあまりにも魅力的だった。ぼくら生命がはじめて物質世界にやってきたとき、地球はおろかこの宇宙もまだずいぶんと若かった。ずっと疑似生命を単なる道具――それも使い道が無限にあって途方に暮れてしまうような道具――にすぎないと思ってきたぼくらにとって、疑似生命の体と意識に集約され、一人の人間に化けたぼくが、こうして最後にあなたたちと出会い、言葉を交わせたことは、これまでに巡ったどの時空にもないはじめての経験でした。

あなたたちがぼくの話していることの意味をほとんど理解できていないことはわかっています。なにせ年代の区別というものに不慣れなものですから、許してください。それに、慣れない疑似生命の体を転々としながら、何千年も独りで待ち続けるのは、想像以上につらかった。一方的な独り語りしかできないのはきっと、ぼくがまだ人類としては未熟なせいでしょう。あなたたちのように相手の話し方や、表情や、声や、そこに流れている時間や、誰かがそばにいるその空間を存分に堪能するには、もうすこし練習が必要なのかもしれませんね――」

デアデアが話し終えて目を閉じると、彼の体から一気に腐臭が立ち込めてきた。手足は急激に痩せ細り、干からびた皮膚はぼろぼろと剥がれ落ちていった。開けた胸元でむき出しになった肋骨の間からは、黒ずんだ内臓にまじって、つやつやした青い玉が覗いていた。

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