手ぶくろをはめたチェリスト

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梗 概

手ぶくろをはめたチェリスト

チェリストで作曲家のジトムィール・シェウチェーンコが亡くなって一年が経ち、その追悼記念コンサートで、ウクライナの首都キエフにある国立音楽院のホールは、異様な熱気と静けさに包まれていた。音楽院出身のチェリストたちが集い、ジトムィールのオリジナルナンバーを全曲演奏。彼の曲は奏法上あり得ない和音が散見されるのが特徴で、そのほとんどはチェロ二重奏で再演されたが、ジトムィールは生前それらをソロで演奏していた。彼は決して生演奏をしなかったので、二人がかりで演奏しないと再現できない曲をどうやって一本のチェロで演奏していたのかは謎だ。(それが一本のチェロで演奏されていることは、音源を聞けば明らかだ。)それだけではない。彼がメディアに露出するときに必ず左手に手ぶくろをはめていたのも、謎のひとつだった。彼が『I, ROBOT』というタイトルのアルバムを発表した折には、様々な噂が飛び交ったものだ。

演奏が終わると、一人の白髪老齢の男がステージに現れた。ジトムィールの録音技師兼マネージャーを務めた人物だという。彼はステージの中央にひとつ置かれた椅子に腰掛け、おもむろに話しはじめた。

ジトムィールは、「私が死んだら、本当のことを世間に話して欲しい」と言っておりました。しかし、それによって演奏の価値がどのように変わるのか或いは変わらないのか、私は未だに確信がもてません。

50年前のことです。カルパティア山脈でスキー縦走を行ったソ連の冒険家がいました。彼が縦走中、巨大な手ぶくろを見つけたという話があります。それもちょっとやそっとの大きさじゃない、二メートル四方はあったと言います。その冒険家は、カルパティアの森には巨人が住んでいるのではないかと半ば本気で信じていたようですが、今日は皆さんに、その真相をお話するつもりです。

まずひとつ、お伝えしなければならないことがあります。これがすべての事の発端でもあるのですが、ジトムィールの左手は巨大でした。もちろん例の二メートル四方の手ぶくろが彼のものだったというわけではありません。流石にそこまで大きくはない。とは言え、手首から中指の先まで50cmはありました。いや、しかし、テレビで見た彼は普通の大きさの手ぶくろを左手にはめていたじゃないかと、あなた方は言うでしょう。そう、その通りです。

彼の左手は、音楽院を卒業した二十代半ば頃に、急に大きくなりました。理由は分かりません。正直恐いですよ、それだけ大きいと。彼はそのことで悩み苦しんでいました。以来、彼は外に出なくなりました。整形手術も考えましたが、結局しませんでした。彼はチェリストですから、下手に手術をして手が使いものにならなくなっては困りますし、また、大きな手だからこそできる演奏の可能性に魅せられていたことも確かです。
 でも、なんとかその大きな手を上手いこと隠して、外出くらいは普通にできるようにしてあげたい。私たちは色々な方法を考えました。しかし結局どれも上手くいかず、途方に暮れていたところ、ある日町の占い師にこう言われたのです。「冬になったらカルパティアの森に行って手ぶくろを探しなさい、目当ての手ぶくろは一目見ればそれだと分かるはず」、と。ただその時に、二メートル四方の手ぶくろを用意して行くよう言われました。ですから、冬が来るまでの間に、私たちは二人で協力してそれを縫い上げました。使い道はそのときが来れば分かるとのことでした。冬になると、私たちはすがるような思いで森へ向かいました。
 私たちは来る日も来る日も、雪の中を歩き回りました。そしてついに見つけたのです。それは一見なんの変哲もない普通の手ぶくろでした。ところが拾い上げるなり、中からネズミとカエルとウサギとキツネとオオカミとイノシシとクマが飛び出してきたのです。それを見たときは、私たちもついに疲労で頭がおかしくなったのかと思いましたよ。でも次の瞬間、二人ともほぼ同時に「ああ!」と合点がいきました。小さい頃に聞いていたウクライナの伝承に『てぶくろ』という話がありました。その「手ぶくろ」だ、と! 見た目は普通の大きさ、でも中にはどんな大きなものでも入ってしまう、不思議な手ぶくろです。これこそジトムィールが求めていたものでした。私たちは早速動物たちに交渉しました。そのときに役立ったのが、例の二メートル四方の手ぶくろでした。巨大手ぶくろをあげる代わりに、私たちはその不思議な手ぶくろを手に入れたのです。

彼は話を終えると、ゆっくりと立ち上がった。ホールは静寂に包まれている。
「ある朝目覚めて、もしもあなたの左手が巨大になっていたら、それでもあなたは自分は人間だと確信がもてますか。彼は、人間と人間でないものの狭間で苦しんでいました。そんな彼の遺作には、『I, HUMAN』というタイトルが付けられています。聴いてください」

文字数:1990

内容に関するアピール

私がいわゆるSF小説に最初にハマったのは小学4年生の頃で、星新一でした。ですが、記憶をもっともっと掘り起こしてみれば、SF的な感覚を初めて体験したという意味では、ウクライナ民話の『てぶくろ』こそ、私の「初めてのSF」だったのではないかと思うに至りました。
 ご存知の方も多いでしょうが、簡単にあらすじを紹介しておきます。雪に覆われた森の中で、おじいさんが片方の手ぶくろを落とします。その手ぶくろの中に、ねずみが潜りこみ、かえるが加わり、うさぎも来て、さらにきつね、おおかみ、いのししと増え、ついにはくままでもがぎゅうぎゅうと入り込みます。しばらくしておじいさんは、片方の手ぶくろがないことに気づきます。おじいさんの犬が先に手ぶくろのところへ駆け戻って吠えると、手ぶくろの中にいた動物たちはびっくりして、森のあちこちへ逃げていきます。そうして後からやって来たおじいさんは、何も知らずに手ぶくろを拾って帰る、というお話です。
 普通の手ぶくろの中に、どうやったらこんなにたくさんの動物たちが入ることができるのか、それが不思議で、面白くて、幼稚園児の頃に繰り返し読んでいた記憶があります。そんな『てぶくろ』の世界とリンクしたSFを書いてみたいと、『手ぶくろをはめたチェリスト』の話を考えました。

文字数:542

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手ぶくろをはめたチェリスト

 

あれは夢だったのかもしれないと、長いこと思っていた。夢ではなかったと分かった後も、それを誰かに語ることはなかった。誰にも言わない約束だったし、たとえそのような約束がなくても、やはり私は誰にも言わなかっただろうと思う。言ったところで誰にも信じてもらえなかっただろうし、そもそも私自身合点のいかないことがたくさんあり、語ろうにも上手く語れなかったに違いない。事実、多くのことをやはり私は知らなかったのだ。
 しかし、真実を知っているか否か、もっと言えば、たとえそれが本当に夢であろうとも、そんなことは私にとってさして重要な問題ではなかった。私があの「手」に人生を救われたというのは、紛れもない事実なのだ。世の中には悲劇と不条理しかないと子どもながらに感じていたあの頃、はじめて絶対的な安心感というものを与えてくれたのが、あの「手」だった。私はあの「手」に必死にしがみつき、あの「手」は私の全身の震えを徐々に癒してくれた。
 私が義肢装具士として義手をつくる道に進んだのも、あのとき「手」というものに深く魅せられたからだ。義肢装具士になったおかげで、私は再びあの「手」と出会うことになったわけだけれども。

 

* * *

 

今からちょうど二年前の二〇一六年十月二十二日、チェリストで作曲家のジトムィール・シェウチェーンコは、ウクライナの首都キエフの東部に位置するブロヴァルィーの森にある自宅兼スタジオの一室で、静かに息を引き取った。齢七十九だった。
 その日の朝早く、ジトムィールのマネージャーであるイヴァンから、数年ぶりに電話があった。その電話がジトムィールの訃報であることは、受話器を取る前からなぜだか分かった。彼がもう何年も闘病生活を送っていることは手紙で知っていたし、仕事の電話なら携帯にかかってくるはずだし、セールスの電話がこんな朝早くに鳴ることはない。果たして瞬時のうちに私の無意識が下した判断は正しかった。外は曇り空で、陽の差し込まない薄暗い朝だった。
「久しぶりだね、ユーリイ。朝早くに電話をして申し訳ない。でもすぐに君に知らせたかったから」
 イヴァンの話し方は淡々としていて、その低く乾いた声からはどんな感情も読み取れなかった。しかし、一瞬の間があいて、「ジトムィールが亡くなった」と呟いた彼の声には、明らかに動揺の色が混じっていた。彼自身、その言葉を口にすることで、ジトムィールが亡くなったという現実をその時はじめて認識するに至ったかのように、うろたえる様子が電話越しに伝わってきた。
 ジトムィールとイヴァンが、単なる音楽家とマネージャーを超えた関係にあったことは、周知の事実だ。一つ屋根の下に暮らし、五十年もの歳月を共に生きた。現在の私の年齢が四十八である。自分のこれまでの人生よりも長い年月を誰かと共に過ごすというのがどれほどの重みをもつことなのか、私にはまだ上手く想像できない。かけるべき言葉を咄嗟に思い付けなかった私は、随分と気の利かないことを言ってしまったと思う。あるいは私自身、薄々覚悟していたとは言え、ジトムィールという大きな存在を失った事態に、思った以上に困惑していたせいもあるかもしれない。
「私のつくった義手も、これでもう御役御免ですね」
「……そうだな」
「結局このまま、一切を公表しないおつもりですか」
 それに対して彼が何と言ったのかは上手く聞き取ることができず、そのまま電話は切れた。

 

あれから一年、昨年の十月二十二日に、キエフにある国立音楽院のホールでジトムィールの追悼記念コンサートが開催された。音楽院出身のチェリストたちが集い、ジトムィールのオリジナルナンバーが全曲演奏された。彼の曲は奏法上あり得ない和音が散見されるのが特徴で、そのほとんどはチェロ二重奏で再演されたが、ジトムィールは生前それらをソロで演奏していた。彼は決して生演奏をしなかったので、二人がかりで演奏しないと再現できない曲をどうやって一本のチェロで演奏していたのかは謎だった。
 それだけではない。彼がメディアに露出するときに必ず左手に手ぶくろをはめていたのも、謎のひとつだった。彼が『I, ROBOT』というタイトルのアルバムを発表した折には、様々な噂が飛び交ったものだ。
 異様な熱気と静けさに包まれたホールの一階後方中央の席で、私は年代順に演奏されていく曲の作風の変遷に心を奪われていた。
 「前期」と言われる一九七〇年代の彼の曲は、「人間/ロボットの時代」とも称されるように、基本的に超絶技巧の見せ場の連続なのだが、その裏では、雪の上を舞う紋白蝶のごとく密やかに幻想的な旋律が流れており、聴く者の脳裏には、なぜか懐かしい光景が次々と浮かんでは消える。不思議な作用をもたらす曲目群である。
 「中期」と言われる一九八〇年代の曲は、「天使/悪魔の時代」とも称され、天上の雲の切れ間から光が降り注ぐように、あるいは地中奥深くからマグマが突き上げるように、音が鳴り響く。それらの音楽は、ふとした隙に均衡が破れると、一方の極からもう一方の極へ容易に反転するのが特徴で、聴く者は恍惚感と畏怖心とを交互に味わわされる。この時期のジトムィールの音楽は、この世ならざるものの高みにまで達しており、どことなく空恐ろしい。
 そして数年の空白期を経た後の「後期」と呼ばれる一九九〇年代の終わりから二〇〇〇年代にかけては、「無垢の時代」と称される。見せびらかしの技巧や装飾がすべて削ぎ落とされ、シンプルで時に無骨な旋律や和音の進行は、しかし聴く者の心を強く揺さぶる。一般に一番人気があるのは、この時代の曲目群である。
 私は改めてジトムィールの作風の変遷に興味を抱くとともに、やはり演奏そのものは本人に勝るものはないと、かつて幼い頃に耳にしたジトムィール本人のチェロの音色を懐かしく思い出していた。一九六五年、彼が二十八歳のとき、彼は人前で演奏することを一切やめたという。マネージャーのイヴァン以外で、それ以降の彼の生演奏を聴いたことがあるのは、この世界におそらく私しかいないだろう。私はそのことを誇りに思っている。そしてそのことに深く感謝している。私は文字通り、彼の演奏に人生を救われたのだ。

 

父が自殺したのは、一九七九年、私が九歳の春だった。
 ソ連体制下のウクライナは、当時めまぐるしい情勢変化に晒されていた。一九五三年のスターリンの死、フルシチョフによるスターリン批判、そして一九五八年の全ソ教育改革という一連の動向がウクライナのナショナリズム運動に火を付け、一九六〇年代はウクライナ文化復興の時代となった。しかし、一九七〇年代に入ると状況は一変する。過度なナショナリズムが引き締め対象となり、一九七二年には知識階級が大量に逮捕されるという事件が起こった。ウクライナ社会が危機に陥る中、一九七五年の全欧安全保障協力会議における「ヘルシンキ宣言」を受けて、一九七六年に民主主義と人権擁護をうたう「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」が結成されるが、彼らの運動は当局の弾圧を受け、一九八〇年代頭にはメンバーが軒並み逮捕されることとなる。
 当局による反体制派の弾圧により、私の父は一九七三年に教師の職を解雇された。私が三歳の時のことだ。以降父は警備員の仕事をしながら、反体制派の活動を続けた。そして一九七六年、「ウクライナ・ヘルシンキ・グループ」に加わった。当局の弾圧は年々激しくなり、母や幼い息子の私にまで圧力をかけてくるようになると、父はこれ以上家族に危害が及ばないようにと、自害の道を選んだ。
 母はいつも私に言った。
「いいかいユーリイ、お父さんは最後まで信念を曲げずに戦った、立派な人だったんだよ」
 そう言う時の母は強い目をしていたけれど、私を寝かしつけた後、こっそりと泣いていたことを知っている。
 父が死んでから、母は毎日朝から晩まで働きづめだった。日中ひとりぼっちだった私は、よく近所の森を散歩した。森ではよく拾いものをした。剣になりそうな木の棒を拾って腰にさしたり、きれいな青い鳥の羽を拾って羽根ペンにしたり、木でできた汽車のオモチャを拾ったこともある。
 その森の小径を進んだ先に、緑色の屋根の家がぽつんと建っていた。その家からはいつもチェロの演奏が聴こえてきて、私はよくその家のそばまで行って、時には何時間も演奏に耳を傾けた。当時の私はチェロという名前すら知らなかったが、こんなにも多彩な音色を出せる楽器があるのかと、心惹かれ夢中になって聴いた。チェロの音色は、森の音そのものだと思った。豊かな低音の響きは森の木々の太い幹と共鳴し、中音域の細やかな音階は葉のざわめきや小動物たちの足音と重なり、高音で奏でられる旋律は鳥や虫との会話を楽しんでいるようだった。森と一体化したチェロの音色を聴いていると、私は全面的な味方を得たような心強い気もちになって、なぜだかよく涙が出た。
 一体どんな人が弾いているのかと気になり、何度か家の中を覗いてみたが、人の姿はいつも見えなかった。しかし、時折笑い声や話し声が聞こえるので、男性が二人いることは分かった。
 そんな初夏のある日、私が学校から帰ると、家の玄関の前に軍服姿の男が三人立っていて、仕事に行っているはずの母が彼らに囲まれ何かを必死に訴えている姿が目に入った。私が身構えるが早いか、私の姿を見つけた母は、あらん限りの声で叫んだ。
「ユーリイ、来てはダメ! 早く逃げて!」
 私は咄嗟に駆け出した。どこへ行く当てもなかったが、身体は自然と森の奥のチェロの家へ向かっていた。「助けて!」と叫びながらがむしゃらに叩いた木の扉の奥から、すらりと背の高い色白の男性が出て来た。当時三十五歳のイヴァンだった。私は追われていることを早口で説明し、強引に家の中へ上がり込んだ。
 私はそこで、初めてジトムィールと対面した。鷲のような鋭い顔をした大柄の中年男だった。彼は左手に、季節はずれの手ぶくろをはめていた。

 

あの時そこで起こった出来事を思い出す度、あれは夢だったに違いないと思っていた。後に夢でなかったことを知ってからも、それを誰かに話すことはできなかった。しかし今、ようやくそれを語れる時が来た。ジトムィールの追悼記念コンサートで、演奏が終わった後に、イヴァンが素晴らしい講演をしてくれた。彼は公に話す覚悟を決めたのだ。
 ジトムィールの謎と人知れぬ苦悩について。また、彼と生涯を共にしたイヴァンの志と愛情について。イヴァンはステージの中央にひとつ置かれた椅子に腰掛け、おもむろに話しはじめた。年老いてもなお美しい佇まいのイヴァンの姿に、会場は水を打ったようにしんとなった。

 

* * *

 

この音楽院の設立は一九一三年ですが、第二次世界大戦で当時の建物はすべて破壊されました。戦後十年経って一九五五年にようやく再建され、このホールはその時に新しく建てられたものだと聞いています。ジトムィールは、一九五五年、戦後の一期生としてこの音楽院に入学しました。
 実は、私も若い頃チェリストになることを志し、一九六二年にこの音楽院への入学を希望しましたが、金銭的な事情により残念ながらそれは叶いませんでした。チェリストになる夢が絶たれたショックでやさぐれ、一時毎晩のように飲み歩いていたのですが、ジトムィールとはその時期に出会いました。
 ある晩ふらりと立ち寄った酒場で、彼はチェロを演奏していました。労働者や学生の多い騒がしい店で、彼の演奏を聴いている者など誰もいませんでしたが、私は一目見た瞬間から彼の演奏に釘付けになりました。周囲が騒がしいのをいいことに、BGMとしては到底相応しくないバルトークのラプソディーを彼は一人で黙々と弾いていました。その演奏は美しくもなく軽やかでもなく、猛獣の突進のようにひたすら荒々しかったのですが、技術は間違いなく一流でしたし、何より彼の全身から発せられる強い意志のようなもの、すべてをなぎ倒して進もうとするその力に圧倒されました。彼が酒場で演奏していた時代の録音は一切残っていませんが、実は彼には「人間/ロボットの時代」と言われる一九七〇年代よりも前に、「猛獣の時代」があったのです。
 彼が演奏を終えると、私は彼に声をかけました。酔った勢いも手伝って、私はその時咄嗟に彼のマネージャーとなることを申し出ていました。その日から、私たちの五十年に及ぶ二人三脚の時代が始まったのです。

 

皆さんご存知のとおり、一九六五年以降、ジトムィールは決して人前で演奏をしませんでした。カナダ人のピアニスト、グレン・グールドは三十代前半でコンサート活動を引退し、以降レコードの録音ばかりやっていましたが、ジトムィールの場合、生涯ただの一度もコンサート活動をしませんでした。
 おかげで、彼がレコードやCDを発売する度に様々な噂が飛び交いました。「ジトムィールは、ゴーストライターならぬゴーストプレイヤーを抱えているのではないか」「でもそうだとして、ゴーストプレイヤーを隠す目的は何か」「いや、ジトムィール本人にしろゴーストプレイヤーにしろ、あんな曲を演奏できる人間がいるとしたら、そいつは化けモンだよ」「あれはロボット演奏に違いないね」「でなけりゃ、手以外に足も使って演奏しているとかね」「でもそんなに面白い演奏法をしているなら、生で見せてくれればいいのに」などなど。本日皆さんがお聴きになったように、彼のオリジナル曲は、奏法上あり得ない和音が散見されるのが特徴です。
 それから彼には、もうひとつ謎がありました。彼はなぜメディアに露出するときに必ず左手に手ぶくろをはめていたのか、ということです。それを訊かれると、彼は決まって「チェリストにとって左手は命だからね」と答えていました。しかし、弦楽器の経験者なら首を傾げるでしょう。弦を押さえる左手と同等かそれ以上に、弓をもつ右手も大事じゃないか、と。その疑問は正しい。別に彼は怪我をしないように手ぶくろをはめていたわけではありません。
 彼がなぜ左手に手ぶくろをはめていたのか、そしてなぜ生演奏をしなかったのか、今日はそのことを皆さんに洗いざらいお話するつもりです。ジトムィールは「私が死んだら、本当のことを世間に話して欲しい」と、折に触れて言っておりました。しかし、ジトムィールの望んだことだと分かってはいても、私自身話す決心がつくまでに随分と時間がかかってしまいました。
 ジトムィールが亡くなって、今日でちょうど一年が経ちます。私の命もいつまでもつか分かりませんので、ある日私がぽっくり逝ってこの謎が迷宮入りする前に、ジトムィールの願いを叶えてやらなければと思い、今日は生まれてはじめて公にマイクを握った次第です。

 

ところで皆さんは、カルパティア山脈をご存知でしょうか。東ヨーロッパのスロバキアからポーランド、ウクライナ、ルーマニアにまたがる全長約一五〇〇キロメートル、高さ二〇〇〇メートル級の山々です。そのカルパティア山脈にまつわるウクライナ伝説について、まずはお話しましょう。伝説とは言っても、そう古いものではありません。五十年程前の、とある冒険家の目撃証言が元になって生まれたものです。
 一九七〇年に、カルパティア山脈で一五〇〇キロメートルのスキー縦走を行ったソ連の冒険家がいました。彼が縦走中、ウクライナ西部に差し掛かったところで、あり得ないほど巨大な手ぶくろを見つけたと言うのです。それもちょっとやそっとの大きさじゃない、二メートル四方はあったと言います。形はミトン型で、分厚い革と毛皮でできた、巨大な手ぶくろだったそうです。その冒険家は、カルパティアの森には巨人が住んでいるのではないかと、半ば本気で信じていたようです。その地方の人々も、口では何かの見間違いだろうと言いながらも、ひょっとして、ひょっとすると、という思いを拭い去れませんでした。その地方の言い伝えに、巨人伝説の類が幾つかあったのが、あるいは完全否定できない理由だったのかもしれません。
 でも皆さん、安心してください。巨人の手ぶくろ説は、一冒険家の単なる憶測にすぎません。その巨大手ぶくろは、ちゃんとした理由があってそこに置かれていたのです。

 

まずひとつ、皆さんにお伝えしなければならないことがあります。これがすべての事の発端でもあるのですが、ジトムィールの左手は巨大でした。でももちろん、例の二メートル四方の手ぶくろが彼のものだったというわけではありません。流石にそこまで大きくはない。とは言え、手首から中指の先まで五〇センチはありました。それも左手だけ、右手は至って普通です。いや、しかし、テレビで見た彼は普通の大きさの手ぶくろを左手にはめていたじゃないかと、あなた方は言うでしょう。そうです、その通りです。順を追って説明しますので、どうか焦らずに聞いてください。
 彼の左手は、一九六五年、二十八歳の時に急に大きくなりました。理由は分かりません。はっきり言って恐いですよ、それだけ大きいと。彼はそのことで悩み苦しんでいました。以来、彼は外に出なくなりました。整形手術も考えましたが、結局しませんでした。彼はチェリストですから、下手に手術をして手が使いものにならなくなってしまっては困りますし、また、大きな手だからこそできる演奏の可能性に魅せられていたことも確かです。
 でも、なんとかその大きな手を上手いこと隠して、外出くらいは普通にできるようにしてあげたい。そう思い、私たちは色々な方法を考えました。しかし結局どれも上手くいかず、途方に暮れていたところ、ある日町の占い師にこう言われたのです。「冬になったらカルパティアの森に行って手ぶくろを探しなさい、目当ての手ぶくろは一目見ればそれだと分かるはず」、と。ただその時に、二メートル四方の手ぶくろを用意して行くよう言われました。ですから、冬が来るまでの間に、私たちは二人で協力してそれを縫い上げました。使い道はそのときが来れば分かるとのことでした。冬になると、私たちはすがるような思いでカルパティアの森へ向かいました。
 私たちは来る日も来る日も、雪の中を歩き回りました。そしてついに見つけたのです。それは一見なんの変哲もない普通の手ぶくろでした。ところが拾い上げるなり、中からネズミとカエルとウサギとキツネとオオカミとイノシシとクマが飛び出してきたのです。それを見たときは、私たちもついに疲労で頭がおかしくなったのかと思いましたよ。でも次の瞬間、二人ともほぼ同時に「ああ!」と合点がいきました。小さい頃に聞いていたウクライナの伝承に『てぶくろ』という話がありました。その「手ぶくろ」だ、と! 見た目は普通の大きさ、でも中にはどんな大きなものでも入ってしまう、不思議な手ぶくろです。これこそジトムィールが求めていたものでした。私たちは早速動物たちに交渉しました。そのときに役立ったのが、例の二メートル四方の手ぶくろでした。巨大手ぶくろをあげる代わりに、私たちはその不思議な手ぶくろを手に入れたのです。

 

なぜジトムィールは生演奏をしなかったのか、なぜ彼はいつも左手に手ぶくろをはめていたのか、また五十年前に冒険家が見つけた巨大手ぶくろの正体についても、これでお分かりいただけたかと思います。
 ある朝目覚めて、もしもあなたの左手が巨大になっていたら、それでもあなたは自分は人間だと確信がもてますか。彼は、人間と人間でないものの境界で苦しんでいました。そんな彼の遺作には、『I, HUMAN』というタイトルが付けられています。録音はありませんが、譜面が残されていました。最後に演奏していただきますので、聴いてください。

 

* * *

 

私が当局の追っ手から逃れ、ブロヴァルィーの森にあるジトムィールの家へ駆け込んだのは、彼らが手ぶくろを手に入れてから九年が経った頃のことだ。「どうしたんだい?」と言いながら奥の部屋から出てきたジトムィールは、左手に手ぶくろをはめていた。季節はずれの片方だけの手ぶくろに違和感をもちつつも、それどころではなかった私は、早口で自分の置かれている状況を説明し、助けてくれと懇願した。ジトムィールは落ち着き払った様子で、「安心しなさい」とだけ言った。大柄で鷲のように鋭い顔の近寄りがたい風貌とは反対に、その物言いが思いの外やさしく、私はそのとき一気に緊張がほどけたことを覚えている。
 しかし安心したのも束の間、すぐに家の戸を激しく叩く音が聞こえた。
「当局の者だ、開けなさい」
 こわばった私の肩を抱くようにして、ジトムィールは私を奥の部屋へ連れて行った。
 そこは録音室だった。部屋の奥にグランドピアノが一台横向きに置かれ、その手前に椅子が二脚と譜面台、椅子の脇の床にチェロが寝かせてあった。左手には大きな録音機材がある。
 ジトムィールは右手を私の肩に乗せると、ゆっくりと落ち着いた声で
「安心しなさい」
 ともう一度言った。それから、
「いまから目にする光景に驚いてはいけないよ。これから私がすることに抵抗しなければ、坊やの安全は保証する。分かったかい?」
 と言った。私は無言で頷いた。
 そのやり取りを見届けると、イヴァンは玄関の戸を開けに部屋を出て行った。
 部屋にジトムィールと私の二人きりになると、ジトムィールは左手にはめていた手ぶくろを外した。手ぶくろの下から出てきたのは、見たこともないほど巨大な手だった。私はワッと声を上げそうになったが、慌てて口を抑えた。ジトムィールは、
「この手にしっかりと掴まって」
 と言いながら、その巨大な手で私の胴体を掴んだ。私の身体はふわりともち上がり、それから私は、その手と一緒に手ぶくろの中に入った。
 そこは不思議な空間だった。狭くもなく広くもなく、暑くもなく涼しくもなく、明るくもなく暗くもない。曇りの日の朝に、陽が差し込まない窓辺にいるような明るさだった。一切の抵抗がない、無色透明の空間。外界の刺激が著しく希薄な場所だ。
 反対に、自分の身体の内側の感覚は研ぎ澄まされていった。心臓の脈を打つ音がはっきりと聞こえ、全身をめぐる血液の流れすら感じられるようだった。私はこわくなって、ジトムィールの手に強くしがみついた。
 その手の温もりは、鋭敏になり過ぎた私の神経を徐々に癒してくれた。大きな手に守られているという安心感は、私が今までに感じたことのない種類の感覚だった。
 部屋のドアがカチャリと開く音がする。手ぶくろの中にいても、外の音は聞こえた。
「少年を出せ」
 ドタドタと足音をさせて部屋に入ってきた男が乱暴に言い放った。
「誰のことです?」
「とぼけるな!」
「とぼけてなんかいませんよ」
「ちょっと前に少年が逃げ込んで来ただろう。別に危害を加えたりはせん。二三聞きたいことがあるだけだ」
「この家には誰も来ていません。嘘だと思うなら、家中探してもらって構いませんよ」
 ジトムィールがそう言うと、男は「じゃあそうさせてもらう」と言って、バタバタと歩き回りはじめた。しばらくすると、男は諦めて帰ったのか、何の物音もしなくなった。

 

その日以来、私はしょっちゅうジトムィールの家へ遊びに行った。彼は色々な曲を弾いて聴かせてくれた。「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」など、私が知っているような曲も演奏してくれた。ピアノもチェロも弾けるイヴァンとジトムィールで、二重奏をしてくれることもあった。
 私はジトムィールたちのことを母に教えてあげたかったが、ジトムィールが
「この手のことは誰にも言わないでほしい、お母さんにも内緒だ」
 と言うので、私は約束を守り誰にも言わなかった。
 それから間もなく、冬が来る前に、私と母は引っ越すことになり、ブロヴァルィーの町を出た。以来ジドムィールとは一度も会っていない。
 手紙は頻繁に書いた。新しい町のこと、学校のこと、友達のこと、母のこと、勉強のこと。大学に入って、義手の技師になる勉強をはじめたことも報告したし、はじめての彼女ができたことも。手紙を出す頻度は年々減っていったが、クリスマスカードだけは欠かさず送った。

 

一九九一年、私が二十一歳のとき、イヴァンから手紙を受け取った。私が送った手紙の返事をもらうことはあっても、向こうから手紙を書いてくることはまずなかったので、一体何があったのかと疑問に思いながら手紙を開いた。

ユーリイへ
元気にしていますか? ブロヴァルィーの町は、もうすっかり木々の葉も落ち、あとは冬を待つばかりとなりました。丸々と太ったリスやウサギも冬眠の準備を終えたようで、近頃はあまり姿を見かけません。
学業の方は順調ですか? 前回もらった手紙では、ゼミナールの研究発表が忙しくて大変だと言っていましたが、真面目で賢いユーリイのことですから、きっとしっかりとこなしていることでしょう。
さてこの度は、あなたにお願いがあり、お手紙を差し上げました。
単刀直入にお尋ねします。ジトムィールと同じ大きさの左手の義手をつくってもらうことは可能でしょうか? それをはめてチェロが弾けるような義手を、です。
すぐにとは言いません。何年かかっても結構です。研究開発や製作に必要な費用は、もちろんすべてお支払いします。ただし、この義手の製作に関しては、完全に秘密裏に進めていただきたいのです。
なぜこのような義手を必要としているのかということについても、現段階ではお話できません。いずれお伝えできる時が来るかもしれませんが。
失礼を承知でのお願いです。でもユーリイ以外に頼める人はいないのです。ジトムィールと私にとって、あなたはたった一本の頼みの綱です。
もしあなたが引き受けてくださるなら、これ以上に嬉しいことはありません。
お返事をお待ちしています。
イヴァンより

この手紙を読んでまず思ったのは、九歳のときの出来事は夢ではなかったのだ、ということだった。父が死んだショックで、あの時期の私は幻覚を見ていたのではないかと、自分の記憶に確信がもてなかったのだが、あれは夢ではなかったのだ。
 それから私は、四年の歳月を費やし、何とか巨大な義手を秘密裏につくりあげた。「無垢の時代」と呼ばれる一九九〇年代終わり〜二〇〇〇年代にかけてのジトムィールの演奏は、おそらく私のつくった義手を用いてなされたのだろう。技巧的な見せ場や装飾を極力削ぎ落としたシンプルな演奏は、晩年の精神的な円熟によるものと一般には受け止められているが、おそらくは義手を用いた演奏という制約上の理由によるものだったと思われる。

 

なぜ義手が必要だったのか、私は聞くつもりなどなかった。実際義手をつくったときには、理由など何も知らずにいたのだから。私はジトムィールへの恩返しのつもりでそれを引き受けたのだ。
 しかし、昨年の追悼記念コンサートで、イヴァンの講演の後にジトムィールの遺作が発表されたとき、私は自分の耳を疑った。『I, HUMAN』と題されたその曲を、私は知っていた。
 私がジトムィールの家へ遊びに行っていた、あの数ヶ月の間の出来事だ。その日はたまたまイヴァンが外出中だった。私とジトムィールの二人で他愛のないおしゃべりをしていると、彼が突然言った。
「ユーリイ、ひとつ頼みがあるんだが」
「なに?」
 と軽い調子で聞き返した私に彼は、
「君は私の証人になってくれるかな、私がこの世界に生きたということの証人に」
 と真面目な顔で言った。その表情はいつになく強張っていた。彼の鋭い眼差しは、私の瞳の奥深いところをじっと捉えていた。正直何のことだかさっぱり分からなかった私は、それでも彼の真剣な眼差しに応えて、「うん」と返事をした。
「いまから演奏する曲を覚えておいてほしい」
 それが彼の頼みだった。
 ホールに響き渡る『I, HUMAN』は、まさにそのとき私が聴いた曲だった。これが遺作とはどういうことなのか。
 私はイヴァンの講演が終わった後、二十年ぶりに彼の元を訪ねた。私はそこで、講演会では語られなかった「その後」の話を聞くことになる。

 

* * *

 

ユーリイ、まさか君が『I, HUMAN』を聴いていたとはね。『I, HUMAN』は私も聴いたことがない。譜面は、ジトムィールが亡くなってから見つけたんだ。
 いいでしょう、すべてをお話しましょう。きっとはじめから私は君にこの話をすべきだったんだ。
 彼の左手が大きくなってからしばらくは、ジトムィールも私も、なかなか現実を受け入られず苦しんだ。これから二人で世に出て行こうと勢い込んだ矢先の出来事だったからね。でも、君は義手をつくってくれたから分かると思うが、手首から中指の先までが五〇センチというのは、ギリギリ人間が器用にコントロールできる範囲の大きさなんだ。それより大きいと駄目だろうね。彼は徐々に自分の手の扱いに慣れてくると、むしろ演奏を楽しむようになった。普通ではできない演奏法に挑戦し、演奏の可能性をどこまで広げられるかあれこれと試す日々は楽しかった。大げさかもしれないが、その頃ちょうどアメリカとソ連が競って有人の月面着陸を目指していて、私たちもそんな人跡未踏の地に踏み出していくような気分だったんだ。その後例の手ぶくろを手に入れて、適度に外出ができるようになってからは、ジトムィールの調子はさらに良くなった。
 しかし、いい状態は長くは続かなかった。彼は独自の世界を究めるうち、段々と精神的に不安定になっていった。彼の音楽は誰とも共有し得ない域にまで達していて、孤独だったのだろうと思う。ユーリイ、君が家によく遊びに来ていた頃、実はジトムィールの容態はかなり良くなかったんだ。彼が君の前で演奏した『I, HUMAN』は、彼の魂の叫び、彼が人間としてつくり得た最後の曲だったんだろうと思う。あの頃の彼は、「自分が人間の世界からどんどん離れていくようで不安だ」と、よく訴えていた。でも、彼にとってユーリイと過ごす時間はいい気分転換になったみたいで、君と会ったあとはいつも少し体調がよくなっていたんだよ。君にはとても感謝している。私にとっても楽しい時間だった。けれど君が引っ越していなくなってから、彼の落ち込みようはひどくて、日に日にふさぎ込むようになった。
 そんなある日、ジトムィールが私に言ったんだ。「イヴァン、君ももういい年だろう、そろそろ結婚したらどうだ」ってね。私はショックだった。私は、彼と彼の音楽を心の底から愛していた。私は彼と暮らすことを自ら望んでそうしていたし、彼の音楽を聴ければそれだけで満足だった。しかし彼は、自分の手がこんなになってしまったせいで私の人生を縛り付けているのではないかと、気にしていたんだ。彼が精神的に不安定になったのは、そのせいもあるかもしれない。でも、あんな状態の彼を一人で放っておけるわけはないし、第一私は結婚するつもりなどなかったしね。だから私は彼に言った。「僕は結婚なんて望んでいない。今の生活に十分満足しているんだ」って。そういうやり取りが何度かあって、それは嘘偽りのない本心だったのに、ジトムィールは私を信じてくれなかった。自分に気を遣ってそう言っているのではないかという不安を、彼は消し去ることができなかったんだ。
 それから間もなく、ジトムィールは姿を消してしまった。ある朝目覚めると、彼がいなくなっていた。チェロもなかった。私はパニックになって、それこそ文字通り町中を探し回った。自殺の可能性も考えた。でも一向に見つからず、途方に暮れて家に戻ってきたとき、椅子の上に手ぶくろが置いてあることに気づいたんだ。彼が手ぶくろなしで外に出るわけがない。ひょっとして、と思った。ジトムィールはチェロとともに手ぶくろの中に入ったんじゃないだろうか、とね。手ぶくろの中を覗いても何も見えないので、確信はもてなかったけれど、その可能性が高いと思った。それから私は、来る日も来る日も手ぶくろに向かって話しかけた。姿は見えなくても、声は届くんじゃないかと期待して。「僕は君を愛している。君と一緒に暮らしたいし、君の演奏をもっと聴きたい。お願いだから戻って来てくれないか」って。手ぶくろからは何の反応もなかった。それでも私は毎日気持ちを伝え続けた。
 すると二週間ほど経ったある日、信じられないことが起こった。手ぶくろの中からチェロの演奏が聴こえてきたんだ。それはこの世のものとは思えないほど美しい音色だった。音の一粒一粒が薄い絹のヴェールに包まれたような気品を備えていて、少女のような恥じらいと喜びに満ちていた。でもなぜか全体的に物悲しい音楽だった。あれはジトムィールから私へのメッセージだったんだ。彼は私の愛情を受け止めてくれた。そして彼の愛を私に伝えてくれた。しかし、彼はすでに遠いところへ行き過ぎてしまっていた。それは精神的に、ということだけれど。彼には人間には聴こえない音楽が聴こえ、そちらの世界にすっかりと飲み込まれてしまっていたんだ。
 その日から毎日のように、手ぶくろを通して彼の演奏が届けられた。私はそれを録音して世に出した。君も知っての通り、「天使/悪魔の時代」と呼ばれる一九八〇年代の膨大な作品群がそれだよ。ある意味彼の絶頂期と言える。それはもはや人間の奏でる音楽ではなかったけれど、彼が最高の音楽を届けてくれて、私がそれを世に出して、私にとっては幸せな日々だった。でも私は知らなかったんだ。彼の身体が音楽によってどんどん蝕まれていたことを。何せ手ぶくろの中に入った彼の姿を見ることはできなかったからね。

 

君もよく覚えているだろう。一九九一年、ソ連が崩壊した。でも私にとっては、それ以上に衝撃的なことが起こった年だったんだ。まあ遅かれ早かれソ連が崩壊するだろうことは分かっていたしね。ソ連の崩壊以上に衝撃的なことというのは——うむ、なんとジトムィールが戻って来たんだよ。
 あの日の朝の光景は、未だに忘れられない。朝起きて、顔を洗って歯を磨いて着替えて、それから録音室の部屋のカーテンを開けに行ったんだ。いつものようにね。手ぶくろはその部屋の椅子の上に置いてあって、私は毎朝一番にその手ぶくろに「おはよう」と声をかける習慣だった。
 その日、部屋のドアを開けた瞬間、薄暗がりに人影が見えたんだ。手ぶくろが置いてあるはずの椅子の上に、やせ細った男が座っていた。見る影もなくやつれていたけれど、私はすぐにジトムィールだと分かった。「おかえり」と私が言うのと、「ただいま」と彼が言うのが同時だった。
 それから私は、無言で彼を抱擁した。しかし、彼からは何の匂いも体温も感じられなかった。まるで人間そっくりにできた人形を抱きしめているようだったんだ。私は、いよいよジトムィールが普通の状態でないことを悟った。
 会話は普通にできたし、食事もしたし、体力も徐々に回復してきたけれど、彼は一切チェロを弾くことができなくなっていた。音楽を奏でる気力というものが欠片も残っていなかったんだ。でも頭の中では音が鳴っているようで、時折五線譜に音符を書き付けてはいた。でもそれらは、これまでとは全く作風の異なる、あっさりとしたシンプルな曲ばかりだった。
 私は特に何も言わなかった。もうこれ以上ジトムィールには無理をして欲しくなかった。もう十分だった。すでに一生分以上の音楽を生み出し、演奏し、そして私の元へ戻って来てくれた。それ以上に望むことなど何もない。あとはゆっくり二人で平穏な日々を過ごせればいいと思っていた。
 でもある日、ジトムィールが言ったんだ。「イヴァン、私のためにチェロを弾いてくれないか」ってね。久しぶりに何か楽しい音楽でも聴きたくなったのだろうと思い、私は「喜んで。どの曲がいい?」と気楽に答えた。彼が何も言わないので、「グラズノフの『2つの小品』なんてどう?」と昔よく弾いた曲を挙げてみたけれど、なおも黙っているので、どうしたんだろうと思っていると、「僕が書いた曲を、イヴァンに弾いてもらいたい」と言うんだ。「いやいや、君の書いた曲は普通の手の大きさの僕には弾けないだろう」と言うと、「じゃあ書き直す」って。それでよくよく話を聞いてみると、こういうことだったんだ。ジトムィール作曲/イヴァン演奏の組み合わせで、作品を世に出したい、と。
 それはなかなか面白い提案だと思ったけれど、現実的に考えると、色々と面倒なことが起こりそうだと思ったんだ。第一に、なぜジトムィールが演奏をしなくなったのかという問い合わせが殺到するだろうということ。適当な嘘を用意することは簡単だけど、第二に、僕が演奏するとなると、ジトムィール作曲なのにちっともジトムィールらしい曲にはならないということ。普通の大きさの手で演奏できる曲にしなければならないからね。そして第三に、ジトムィールらしくない曲で、ジトムィールの演奏でもないとなると、まったく売れないだろうということ。これは駄目だ、ということになった。ジトムィールは別にそれでいいじゃないか、やってみなければ売れないかどうかも分からないだろうと言ったけれど、私が嫌だと言った。私には自分が世に出たいという欲望はもはやこれっぽっちもなかったからね。私にとっては、ジトムィールの作品をどうやったら最高の形で世に出せるかということだけが重要だったんだ。そこに自分の使命を感じていたし、それが私の喜びだった。あの大きな手なくしてジトムィールの音楽は結実化し得ない、私はそう主張した。
 そこで私たちは考えた。曲はそのまま。演奏もジトムィールの演奏ということにする。表向きはね。実際には私が弾くのだけれど、でも私の手が弾くのではない。ジトムィールとまったく同じ大きさ、同じ形の義手が弾く。そこでユーリイ、君に義手の製作を依頼することになったわけだ。義手の製作に四年、それから私が義手を使いこなせるようになるのに三年。初めての義手演奏のCDが発売されたのは、一九九八年だった。
 計画をスタートさせた時は、義手演奏というのは確かに次善の策にすぎなかった。でもやっているうちに、そうではないことが分かった。私はジトムィールの演奏をずっとそばで見てきたので、彼の指の動きは完全に頭に入っている。私がジトムィールの手で、ジトムィールの曲を演奏するという行為は、私とジトムィールが一体化する手段となることに気づいたんだ。私たちは、抜け殻同然となったジトムィールに生命を吹き込み、新たなジトムィールを誕生させることに成功した。私たち二人の愛は、そういう形で結ばれたんだ。
 愛するというのは、当人同士の密やかな行いだから、このことを誰かに話すつもりはなかったんだけれどね。でも、『I, HUMAN』の演奏を聴いてジトムィールという人間が生きたことの証人となってくれたユーリイが、今度はまた、新しいジトムィールが存在したことの証人になってくれたわけだ。ユーリイ、聴いてくれてありがとう。

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