拝啓、摩天の龍より指先の君へ

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梗 概

拝啓、摩天の龍より指先の君へ

2056年、香港西部・青衣島。

その西部にある公営住宅は、自律建築ロボット「ボクセル」導入により、泡状の住居ユニットセルが複雑に絡み合う、全高600m、四方4kmの巨大構造物を成していた。俗称を「泡沫城市」。あるいは、かつての巨大スラムの名にちなんだ「百十九龍城」。都市群の屋上には違法建築の村があり、外国からの出稼ぎ労働者たちが暮らす。

住民である日系ハーフの少女、竜胆ラガのもとに、ひとりの日本人が迷い込む。彼女の名前は折口みやこ。日本特別行政区からやってきたという。

ラガが詰問すると、みやこは自分の両親に手紙を送りたいのだと告げる。それはこの場所からでしかできないのだと。

みやこの両親は「ネフィリムの指」と呼ばれる、衛星軌道上に再配置された小惑星から地表へ吊り下げた高層タワーで暮らしている。ゆっくり移動するタワーは一週間後にこの都市を通過予定。タワー下端の展望スペースから村までの距離はわずか50メートルで、通過の瞬間にメッセージを届けたいのだとみやこは言う。

なんやかやと難癖をつけるラガだが根はお祭り好き。さらに生まれてから親と顔を合わせたことがないというみやこの境遇を聞き、住民らと共に手伝うことを決める。

ラガたちはあれこれと頭をひねる。凧揚げ、ドローンでの運搬、花火で打ち上げ、etc…

警察の立ち退き勧告を突っぱねながら、計画は完成する。タワーを構成するボクセルの高度制限ロックを一時的に解除し、タワーまで届く階段を無理やり作るというものだ。決行前夜、礼を言うみやこにラガは、自分は親が市民権を得るためだけの道具であったこと、遺児となり、ラガという名前も自分でつけたことを告げる。

決行当日。警察との争いが激化するなか、ラガは巨大な階段を形成。だが次の瞬間、射撃がみやこを撃ち抜く。呆然とするラガに、みやこは耳のピアスを外し、かわりに届けるようラガに頼む。タワーは目前。ラガはピアスを受け取り階段を駆け上る。

頂上に着くのと、タワー下端が通過するのはほぼ同時だった。逆光の中、手をのばす人影にピアスを渡したラガは、相手の顔がみやこと瓜二つなことに気づく。だが、次の瞬間にはタワーは通り過ぎていた。

のちに、ラガは知る。

撃たれたみやこは、タワーに住む本物の折口みやこの粗製クローンであり、彼女がうっかり地表に落としたピアスを拾って届けるためだけの存在だったことを。スラムの住民はそれに利用されたのだということを。

「……にしても、誤算だったわぁ。プログラム上は活動停止と同時に自己崩壊するはずだったのに」

「ったりめーだバーカ。百十九龍の技術力なめんな」

一ヶ月後。

泡沫城市の入口、ふたりの少女がバイクにまたがっている。ひとりは竜胆ラガ。そしてもうひとりは、みやこ。死んだと思われた彼女は、スラムの違法技術により一命をとりとめていた。

「で、ほんとにいくの?」

「あァ。オトシマエってやつを教えにな」

中国を出た「ネフィリムの指」はいま、インドを通過中だ。彼女の故郷をコケにし、友人を殺しかけた本物の折口みやこはそこにいる。

拝啓、摩天の龍より指先の君へ。

復讐の拳を届けるために、バイクは西へと走り出す。

文字数:1298

内容に関するアピール

自分がもっとも衝撃を受けたSFは、テッド・チャンの「バビロンの塔」です。

それは「見たこともない、わくわくするような冒険世界」であると同時に「もしかしたら本当にどこかに在るかもしれない」と思わせるようなリアルな世界でもありました。

天に届く塔の代わりに、天から降りる塔を配置しつつ、ルーフトップスラムに九龍城と、あの日の自分がきっとワクワクするような、そんな要素をできるだけ詰め込んだ内容にしました。

本編では、マンション構造をハックし、スラム街を「泳いで」戦うといった住民たちといったアクションも考えています。

 

文字数:253

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拝啓、摩天の龍より指先の君へ

PDF原稿(推奨)

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

白民の南、建木の下、日が中すれば影は無く、声を呼(さけ)べど響きは無い。

蓋(けだ)し、天地の中心なり。

――『山海経』

 

 

 

 

1.

 

 

――はッ、はッ、はッ、はッ。

 

走狗のように荒い息が反響する。

ひとりの少女が、ワンピースをひるがえらせて走っていた。

沸騰した水面のような地面に、足をとられながら。

悪夢のような空間だった。

少女が走る道以外の空間はすべて、泡沫(あぶく)のような形をした奇妙な住居で埋め尽くされている。それらは天地も左右もあべこべに無秩序に折り重なって、五階建てほどの集合住宅(アパート)らしきものを成して連なっていた。空には雲一つないが、道は薄暗い。頭上で無数に絡み合ういくつもの空中回廊が、日を遮っているからだ。

長い影が足元をかすめ、少女はぎくりと振り返る。つやのある黒髪がなびき、まだ幼さの残る顔がその下から覗く。しみのない肌。乾いていない唇。仕立ての良い服に、退廃に濁っていない瞳。淀んだ空気をこばむような姿は、この街にあってあきらかに異質だった。耳のピアスが、わずかに射した陽光を受けて、きらりと青く光る。

刹那。

しゅうっと空気を裂く音とともに、少女の足元に、錆びの浮いたナイフが突き刺さった。

一歩後ずさった彼女は、足を取られてしりもちをつじゅ。

――ひひ、ひひひひ……。

 頭上から嘲笑が降り注いだ。必死に恐怖の叫びを押し殺す少女を、空中回廊のそこかしこでうごめく影が見下ろし、距離をじりじりと詰めてゆく。少女はきっとそれを睨み、地面を蹴ると再び身をひるがえして走り出した。老人の静脈のような路地を、右へ、左へ。

 かれこれ半時間ほど、追跡は続いていた。

 もはや少女は、自分がいまどこを走っているのかわからなかった。事前に手に入れた地図など、足を踏み入れた瞬間から役に立たなくなっている。『四隅天地に標(しるべ)無し』。この土地を訪れる者への警句を、彼女はいま身をもって味わっていた。隧道(トンネル)が空を塞いだかと思えば、次の瞬間には先ほど通った道が下方にある。ぐるぐると同じ場所をめぐっていたはずなのに、まったく違う場所を通っていることもあった。ねじれ傾いた住宅群はゆらゆらとうごめいているようにも見え、平衡感覚がだんだんとおかしくなってくる。

 足がもつれ、息があがった。走る速度は半分以下に落ち込んでいた。だが、追っ手たちは一向に追いつく気配がない。時には路地裏の闇から白刃をのぞかせ、また時には四つ辻で脅嚇(きょうかく)の声をあびせながら、一定の距離を保ったまま、どこまでも追いかけてきた。彼女をなぶるように。

 だが、その時間にも終わりがやってくる。

視界が唐突にひらけた。

突き刺すような光が少女の網膜を焼く。

「……ッ!」

 目が慣れると同時に飛び込んできた情景に、彼女は立ち止まる。

 抜け出た道の先は、狭い帯状の広場となっていた。足元の地面は、先ほどまでの凹凸が嘘のように滑らかになり、下りの傾斜を描きながら、ある一点でぷっつりと途絶えている。

笑い声に急かされ、彼女はよろよろと夢遊病者のように、そこへと歩かざるを得ない。道が、消えていた。

ある一転から指数関数的に傾斜をきつくした地面は、そのまま下方へと落ち込んでいる。

……はるか足元に広がる、雲海の底まで。

香港新界葵青(クワイチン)區・自律建築式超高層住宅群。

通称、『摩天神樹』。

地上六百メートルの高さを持つ超々高層マンション、その先端に違法居住者たちが築いた頂屋集落(ルーフトップスラム)の辺縁に、少女は追い詰められていた。

 吹きあがってくる凍てついた気流が、少女の額に浮かぶ汗を吹き散らす。所在なく左右に首をめぐらせても、同じような断崖が視界の彼方へと消えていくばかり。

ようやく知る。

自分がここへ誘い込まれたことを。

「満足か? お嬢ちゃん」

 振り返る路地の奥。ゆっくりとした足音が近づいてくる。

「観光ツアーとしちゃ、悪くなかっただろ」

 禿頭に紅の刺青をした、長身の男だった。全身にぴっちりと張り付いた合成皮革のボディースーツが、油を塗ったように鈍く輝く。肌も、服も、浅黒かった。ただその顔から頭頂までを覆う渦のような紋様だけが、毒々しいほどに赤い。右手に握られた鏢(ひょう)が、陽光を受けて鈍い光を放つ。

 無表情のまま、男は切り込みのような目をわずかに細め、少女を値踏みする。

「足元に気をつけろよ……。うっかり落ちて、煎餅みたいになられちゃ、困る」

 彼の背後の住宅には、配下のならず者たちがびっしりと張り付いていた。サディスティックな視線が、追い詰められた少女に集中する。

 もはや急ぐ必要もない男は、道で知り合いにでも出くわしたような気軽さで、少女に向かって歩み寄った。

「怖いことはない。少しばかり、茶でも飲みながら世間話をするだけだ。なあ?」

 あとずさる少女の踵は、すでに踏む地面を失っている。それでもなお、彼女は顔を上げ、近づく凶賊の顔を、正面から見据える。

 それを見て――能面のようだった男の表情が、変わった。

 薄い唇が開き、頬が耳元まで吊り上がる。

「いいね、悪くないぜ。そういうの。その調子で頑張れ。まだ泣くなよ? 攫(さら)って、連れて帰って、それからたっぷり、『もう許してください』って言わせてやるからよ」

 男の手が伸び、身をすくませる少女の体に触れようとし――

 

「ふあぁああああああぁああぁあ」

 

 バカでかいあくびの声が、あたりに響いた。

 反射的に少女は、声の方向へ視線を向けた。

 少女の眼前にそびえ立つ、無数の住宅。ならず者たちが鈴なりになった一角から少し離れたバルコニーに、声の主はいた。

 わずかに緑がかった蓬髪と、つぎはぎだらけの襤褸を風にはためかせ、朽ちかけたサーフボードを枕にしたひとりの女が、寝惚けた眼をこちらに向けていた。

「いい陽気だなァ、嬢ちゃん。下界のガスも昇ってこねえし、散歩にはちょうどいいやな」

 そう言って、雑に包帯を巻いた右腕を、ひらひらと少女に向かって振ってくる。

 振り返った禿頭の男が、いまいましげに呟いた。

「ラガ……!」

「よーォ、虯(キュウ)」ラガと呼ばれたその蓬髪の少女は、男の名を呼び返した。

「ずいぶんな大騒ぎじゃねえか、ええ?」

「お前にゃ関係ねえだろ」虯の声から温度が消える。

「ここは俺のシマだ。お前にどうのこうの言われる筋合いはねえ」

「へえ?」軽く笑って、ラガはサーフボードを小脇に抱え、地面に飛び降りる。先ほどまで追い詰めた少女へ下卑た視線を向けていた男たちが、それを見ていっせいに息を吞む。

「怯むんじゃねえ!」

 虯の鋭い一喝が、浮足立つ配下を制した。

 無表情を保つ彼の額にはだが血管が浮き、瞳に凶暴な光が浮かんでいる。

「なぁ、ラガ。珍しいじゃねぇか。お雨がそんなヒューマニズムにあふれた御仁とは思わなかったぜ。薄汚ェ婊子(ビッチ)がいまさらになってヒーロー気取りか? それともあれか。男のナニに飽きたからメスガキの味見でもしようってか」

「あぁーあ、これだから頭にカビの生えたクソヤクザはさァ」売り言葉に買い言葉、笑うラガの口から、鋭い犬歯がぎらりとのぞいた。

「男のナニだの女のアレだの、いま西暦何年だと思ってんだ? 人工子宮生まれの黒孩子(おやなし)が、訳知り顔に上っ面ぶっこいたところで薄ら寒(さみ)ィんだよ笨蛋(バァカ)」

 そして、そのまま好奇の目を少女に向けて、

「なァあんた、大陸の生まれじゃねえな。もしかして日本人?『ハジメマシテ、ボクドラエモンデス』……あってる? ガキの頃によく見てたんだよあのアニメ」

 いきなりの日本語にきょとんとした表情の少女に向けて軽口を続ける。

「にしても嬢ちゃんは運がいいなあ。虯に目ェつけられてここまで五体満足でいられるよそ者なんて初めて見たぜ。新記録だ」

 ピクリと、虯の肩が動く。

「知ってるか? コイツは生粋のサディストでよ。女の皮を生きたまま剥ぐのが大好きなド変態ときたもんだ。こいつのシマに紛れ込んだ余所者は、は五分ともたずに捕まっちまう。いいか嬢ちゃん、五分だぞ? あんたはいったい、何分逃げ回った?」

「二度は言わねえぞ、ラガ」虯が低い声で唸った。「失せろ」

ラガは意に介さない。「なあ、虯。ずいぶん行儀がよくなったもんだな?」バカでかいサーフボードを器用に回しながら続ける。「先月に外国人ジャーナリストだかなんだかの殺戮影片(スナッフフィルム)を撮ったときには、あんなにハイだったじゃねえか。お前こそ、急にヒューマニズムに目覚めたか? それとも――そいつを殺しちゃいけない理由でもあるのか?」

「シャァッ!」

 気合一閃、銀色の光を散らして、虯の投げた刀がラガへと襲い掛かる。それを避けたラガの目線がそれたと見るや、虯は少女の腕をつかんで思い切りよく引き寄せようとする。

 がっ、ぎぃん!

 だがその目論見はかなわない、お返しとばかりに投げつけられたラガのサーフボードが、重たい金属音をたてて虯の腕を勢いよく弾き飛ばした。

 大きく態勢を崩した虯が再び身を起こしたときには、眼前にいたはずの少女の姿はすでに消え――いつの間にか、離れたラガの腕の中に収まっていた。

「ラァァァガァ!」

 血走った眼を見開き、ついに怒声を上げる虯。「邪魔を! するんじゃ! ねぇッ!」

「ギャハハハハハハ!」

 彼女は哄笑する。ざんばら髪が風にあおられ、宙を舞う。

「甘ェんだよ虯。どれだけボンクラどもの目を盗もうが、どれだけ周到にカネの匂いをごまかそうが、このあたしが、この竜胆(りんどう)ラガが出てきた時点で、なんもかんもぜェェェェんぶご破算なんだっての。いい加減わかれよ、なァ?」

「殺す!」

 それが合図だった。

鈴なりの配下たちが、雪崩を打ってラガと少女のふたりに襲いかかる!

 だが、その光景を見てなお、ラガは楽しげな笑みを絶やさない。

 まるですべてが望み通りとでも言いたげに。

そして彼女は、いましがた助けた少女のほうを振り返り――包帯だらけの片手を下して、そっと地面に掌をつけた。

「同郷のよしみだ。助けてやるよ、嬢ちゃん」

ラガのざんばら髪が、帯電したかのようにぶわりと逆立った。暗緑色の表面で、炭火に息を吹き込んだような朱色の脈動(パルス)が渦を巻く。それは頭頂部から、顔へ、首へ、胸へ、服の下からでもそれとわかるほど発光しながら、奔りまわり、接地した手のひらから黒色の地面へ向かって、勢いよく流れ込む。

地面が、どくんと脈を打った。

 同時に、先陣を切った太った男が、柳葉刀を彼女の首に向け水平に振り抜き――

 手応えなく、刃を空に泳がせる。

「ハ!」

 嘲笑うラガの身長が、縮んでいる。

 否。

 その足元が、地面の下へと沈んでいた。

 返す刀で垂直に刃を振り下ろされるその一瞬前に、彼女は地面ごと足を蹴り上げた。ばしゃあと重たい水音がして、さっきまで固形だったはずの地面が、黒いしぶきとなって男の視界を塞ぐ。そして、男が一瞬あとに視界を取り戻したとき、今度こそ、ラガの姿は完璧に消え去った。

少女と共に。

 残された地面で、ラガの全身に浮かんでいたものと同じ、赤い渦模様がみるみる広がり侵食していく。

 同時に、耳をつんざく悲鳴。

地面が沼と化し、男たちの体をずぶずぶと沈めていく。

「下だ! 足元を刺せ!」

 喧騒の中心で、虯が唾を飛ばして怒鳴り散らしていた。彼は歯を食いしばり、自らも腰まで沈みながらも、刃を地面に向かって手あたり次第に突き立てる。

 その背後から、しぶきが上がった。

 虯が振りかえる間もなく、斧のような一蹴が、虯の背を横なぎに蹴り飛ばす。吹き飛んだ虯は水切りのように地面を二跳ねしたあと、頭から住宅の一棟にぶちあたった。硬質の音がして壁が砕ける……かと思いきや、その瓦礫さえもまた、水飴のようになってどろどろに溶けてゆく。支えを失ったアパートがにぶいきしみをあげながらゆっくりと傾き、真下にいた男たちが恐怖の叫びをあげて逃げ惑った。

倒壊するアパートは、そのまま空中で重油のような液体と化し、粘性の奔流と化してならず者たちを吞み込む。なすすべもなく流されていく群衆。別のアパートが同じように溶け、形を失って流れてゆく。

だが、濁流が広場の縁から垂れ落ちそうになった瞬間、それは急激に向きを変え、螺旋を描きながら引き絞られるように情報へと伸びはじめた。デコレーションのように、その壁面に人間たちを埋め込みながら。

 ――やがて、一本の巨大な塔と化したその頂点で、ふたつの影がずるりと立ち上がる。

「あっはっはっはァ。楽しいなぁ、おい」

 まとった液体をぼたぼたとこぼしながら、ラガがばさりと髪をかき上げる。その左脇にはサーフボードが、右脇には、陸にあがった魚のようにパクパクと口を動かす少女を抱えていた。

「へへへ、びっくりしたか嬢ちゃん? このあたしにかかりゃあ、チンピラの百人や二百人程度、ざっとこんなもん――」

 びぎぃん!

 言い終わらぬうちに、閃光のような投げナイフの一撃が、ラガの右腕を根元から貫く。

「う、おッ!」

 ラガは態勢を崩しながらもとっさに左手のサーフボードを差し出し、支えを失って落下しかけた少女を受け止めた。

 視線をやったその先――まだ形を保つ一棟のアパートの屋上に立つ虯が、荒い息をつきながら叫んだ。

「女……置いてけ……!」

 彼の左手はあらぬ方向に折れ曲がり、関節部分からはひしゃげた金属質のフレームがのぞいている。それでも目に宿った戦意には、いささかの衰えもない。

「いいねぇ!」

 ラガは再び犬歯をむき出して笑った、

「今日はずいぶんと根性見せんじゃねえかよ、ハゲ!」

「しゃあァッッ!」

 鋭い声とともに残った右手から放たれる、幾条もの光。レーザーとも見紛うほどの必殺の刃はしかし、ラガの眼前に立ち上がった黒色の液体によって阻まれる。

 その飛沫の隙間から覗く瞳が、赤い光を放ち。

「でも、こっちはもう飽きちまったからよ――ここはいったん、お開きといこうや」

 失った腕を意にも介さず、彼女はサーフボードに飛び乗ると、残った左の掌を、乱雑に地面へと押し付ける。

 どくん。

 再び渦を巻くパルス。それはみるみる地面を侵食し、たったいまできたばかりの塔を、黒い濁流へと変えてゆく。

塔はスラムの外縁から内側へとなだれ込む巨大な波濤となり――

「うおおおおおおお――ッ!」

 屋上で雄たけびをあげる虯を吞み込んで、轟音とともに崩れていく。

 その波頭には、サーフボードの上で機嫌よく蓬髪をなびかせるラガと、彼女に必死でしがみつく少女が浮かんでいた。

 

 ※※※

 

「……い、よッ、と」

 薄暗い路地裏の一角にラガが降り立つと、意思あるように彼女を運んできた波が、さらさらと細かい粒子になって地面へと落ち、吸い込まれていった。

 ひと暴れを終えて落ち着いた彼女は、とりあえず連れてきた少女を見、さてどうしたものかと首をめぐらせる。

 そもそもが、特に深い考えあっての行動というわけでもなかった。

 昼寝をしていたら、たまたま喧嘩相手の虯がらしくないことをしていたから、寝起きの運動がてらちょっとからかってみただけ。あの慌てようから考えて、なにかウラがありそうなのは間違いないが、それにしたって実際のところはさっぱり見当もつかない。

 そこまで考えたところで、ラガはふと、隣に立つ少女がじっとこちらを見ていることに気付く。肩口からすっぱり切り落とされてしまった腕を。

「あァ、これか? 心配いらねえよ、ほれ」

 そう言って彼女は、肩の切断面を、手近な壁にぐっと押し付ける。

 わずかに髪が逆立ち、押し付けた部分を起点に一瞬だけ、壁に渦模様が走った。そのままゆっくりと、肩を引くと、まるで水から手を抜くように、失ったはずの手が再生される。

 残された壁のほうにはぽっかりと穴が開き、その向こうでステテコ一丁の中年男性が、目を見開いてこちらを見ていた。

「おおっと、失礼」

 男性が何かを叫ぼうとする直前、地面から壁伝いにせりあがった流れがその穴を塞いだ。

 目を丸くする少女に向かい、ラガは得意げな笑みを見せる。

「このマンションを構成する微細自律建築端子――ボクセルって知ってるか? あたしの腕や髪は、そいつの制御を奪い取ってできてんのさ」

 なめらかな無数の黒い鱗に覆われたようなその腕で、ラガはピースをしてみせた。

「で、だ。見たとこ日本生まれの、どうやらお育ちもよさそうなお嬢ちゃんが、こんな空の肥溜めに何をしにきたのかっつーのを聞きたいんだが……えーと、とりあえず中国語わかるか? キャンユースピークチャイニーズ?」

「『摩天龍姐』――」

 口を開いた少女が、以外にも流暢な公用語(マンダリン)を話したことに面食らいながら、ラガは思わず少女を見た。

「竜胆ラガ……聞いたとおりの腕と性格なんですね、本当に」

 強い意志を宿した瞳が、ラガを正面から見返していた。

 

「わたしは折口みやこ。あなたに会いにここに来ました。この街で、一番強くて、自由で、強欲なあなたに。依頼したいことがあるの――わたしの親に、手紙を届けてください」

 

 

2.

 

 

「まさか、お前に客人たァの……」

 けっけっけっと笑いながら、白髪の老人が、白磁の聞香杯(もんこうはい)の縁まで薄褐色の液体を注ぐ。その上にひびの入った茶杯を逆向きにかぶせると、くるりと天地を器用に返して、卓のうえへと滑らせた。

「またえらく、名が知れたもんだな、ラガ?」

「うっせぇよ、ジジイ」

 杯を受けとったラガは渋い顔をして、茶杯の縁をおさえつつ、もう一方の手で、その中心で伏せられた円筒を持ち上げる。こぽりと気泡の音がして、小ぶりの茶杯に液体が満たされた。湯気とともに立ち上がる香気が、室内に充満する。

 球状の狭い空間に、彼女たちはいた。中央には粗末な円卓が置かれ、壁のいたるところから、食器棚らしきものや流し台、鏡やテレビ画面といったものが、バラバラな向きで『生えて』いる。斜め頭上から顔を出す暖色光のLEDが、差し向かいにすわる二人の影を、歪に映していた。

「なかなかだろうが? 阿里山から仕入れた天然モノよ。まずはゆっくりと香りを……」

 悦に入る老人を無視し、ラガは一息に茶を飲み干した。

「あァもう、このガキは! こいつ仕入れるのにいくらかけたと思っとるんだ」

「隠居老人の道楽に付き合うほど、こっちはヒマじゃねえんだよ」

「道楽じゃなくて、教養と言え。わしらのころはこうやって茶を飲むことが……」

 がつんと乱暴に茶器をおいたラガがにらむと、老人はやれやれと首を振って嘆息した。

「……例の子はまだ起きんか?」

ラガは首をすくめる。「よっぽどお疲れらしいや」

「温室育ちにゃ荷が重い環境だろうて……」そう言って、老人は感慨深そうな顔をした。「しかし、あの『翼人』が、ラガの力をもとめてこんな掃き溜めになァ」

 その言葉を無言で聞き流しながら、ラガは考えにふけっていた。

 ラガに助けを求めたあの少女――折口みやこは、その素性を信じるならば、日本行政地区の生まれだが、ラガのように大陸籍ではない。どころか、地上のいかなる国家にも属していない。

翼人。

 その俗称は、衛星軌道上の人工小惑星から地上に向かって吊り下げられた、全高3万メートルの塔、『ネフィリムの指』に住まう住民たちのことである。

 それは一部の富裕層とその家族たちによる究極のゲーテッド・コミュニティだ。塔は軌道速度に乗って移動し、形式的には大陸の一行政区画という立場ではあるが、実質的にはあらゆる国から独立している。住民たちはオンライン通信や仮想アバターを通じて地上社会に介入し、一部の例外を除いたほとんどが、『外』の人間と直接関わらない。内部では秘密裡に不死の研究が進められているとも、惑星間移民の選別が行われているとも言われている。

「わたしの親は、『指』内部のラボ職員なんです」

 日中。

自分に依頼があると言い放った折口みやこは、そう続けた。

「わたしは生まれたときからずっと、地上に預けられてました。ビデオ通話や、仮想空間で会うことはあっても、本当に会ったことなんて一度もなくて。だから――」

 この塔から、直接会って手紙を渡したい。

 そう、彼女は繰り返す。

「一か月後……『指』は、このスラムのわずか三十メートル上空を通過するんです。本来、『指』が居住区域にこれほど接近することは禁じられているけれど、このマンション――摩天神樹には、本来は人が誰も住んでいないはずだったから」

 この巨大な塔が実質的な鬼城(ゴーストタウン)であることは、周知の事実だ。

その内部は微細自律建築素子(ボクセル)で満たされ、売買は部屋単位ではなく、容積単位で切り売りされる。政府公認のオンライン不動産購入システムに基づいて空間を売買すると、指定区域に自動的に部屋が生成・解体される仕組みだ。

いわばこの塔は、空間を基本単位とした巨大な金融商品だった。部屋はただ法律上『住居』とみなされるだけの最低限の設備しか備えておらず、実際にここに住む人間はいない。

投資家たちは、他の金融商品よりも緩い規制と高い価格変動性(ボラティリティ)によって利益を得る。一方でデベロッパーは、香港政府が販売する国有土地使用権を顧客の購入状況に合わせて売買し、その仲介手数料によって利益を得る。

そして香港政府は、土地使用権の販売価格のコントロールと売買時の税収によって利益を確保していた。いまから二十年前、二〇二〇年代に香港政府公共財政収入の四割を占めていた土地使用権譲渡に関する収入はいまや八割ちかくとなり、肥大する社会保障費の受け皿となっている。こうした図式が成立するのも、建築・改修コストが極端に低い、『ボクセル』という仕組みがあるからこそだ。

そのため、摩天神樹の人口は、ゼロのはずだった。その構造の制御を奪い取り、屋上に街を作り上げた違法居住者たちを除いて。

「政府はきっと、『指』との邂逅をニュースにして、摩天神樹の価格を高めたいんだと思います。だから通過を許可した。だから……このスラムが、唯一で最後の接点。『ネフィリムの指』の接近する空域で、なおかつ人が住んでいるところは、他にないんです」

「だからって、あたしか?」

 鋭い目で、ラガは少女をにらむ。「このあたしが誰だか、わかってんのか? てめえみたいなガキに顎で使われるほど――って、おい!」

 噛みつくような口調はしかし、最後まで続かなかった。さっきまで目を見開いていたみやこが、急に膝からくずおれ、ラガにもたれかかってきたからだ。

「おいおいおい、てめえいきなり――」

「お願い」

 か細い声が、受け止めたラガの胸から聞こえる。

「これが最初で最後のチャンスなの。お金なら……きっと、払うから……」

 うわごとにようにつぶやきながら、少女は意識を失ったのだった。

 

※※※

 

「……それにしても、天下の『摩天龍姐』にしちゃあ、お優しいな、ラガ?」

 二杯目の茶を聞香杯に注ぎながら、老人が言う。

「どんだけ金を持ってようが、ガキひとりにかかずらうお前じゃねえだろう。いつもなら、気絶した時点でおっぽりだして終(しま)いにするのが相場だろうさ」

 再び被せた茶杯の天地を返し、老人は黙したままのラガの眼前に置く。

「利用しようにも難しいネタだぜ。『翼人』どもの倫理はわしらとは違う。身代金をせしめようったって、そううまく事は運ぶまいよ。それとも――重ねたか? 自分と」

 梟(ふくろう)を思わせるその瞳に、愉快そうな色が宿った。

「親なしのガキが、貧民窟にひとりきり……お前もそうだったなあ。十五年も前になるか」

「やめとけよ、大鶚(ダーウー)」

 老人の名を呼び、ラガは不愉快そうに目を細める。「昔語りと勘繰りはボケの前兆だぜ」

「心配してくれるのか?」「他の病で苦しんで死ねって意味だよ」

 言いながら、ラガは顎に手をあてて再び思案する。

「あんたが言うことくらいわかってる――だが、なァんかひっかかるのさ」

「ほう?」大鶚が眉を上げる。「そりゃまたなにが」

「わからねえ」

 椅子の背もたれにぎしりと身を任せ、ラガは頭の後ろで掌を組む。「まだ、な」

「だから待ってる――向こうから答えが来るのを」

「答え?」

問い返す大鶚に応じようとしたラガが、言葉を切ってにやりと笑う。

 ――みしり。

 重い音が、ラガと相対する壁の奥から聞こえた。

 それはみるみるうちにたわんでゆき、ラガのほうへ近づいてくる。

 みしみしみしみしみじじじじぎぎぎぎぎぎぎい――。

慌ただしく立ち上がり逃げる大鶚を尻目に、ラガは悠然と立ち上がり、迫るそれを見つめながら、愉快そうに言った。

「遅すぎんだよてめえ」

 壁が爆散した。

 棚にあった卓が吹き飛び、無数の破片が散弾のように飛び散る。それをラガは、いつのまにか持ち出したサーフボードをかざして受け止める。

 半ば溶解した壁から現れたのは――虯。全身を白熱させ、いたるところから蒸気をあげる禿頭の男だった。失ったはずの片腕はすでに戻り、どころか背中から追加の腕が二本生えていた。頭から全身にかけて入った赤い入墨が、蒸気の中で血のようにぬらぬらと光る。

「ラァアァァアァァアガアアアアァアアァア!」

「大鶚! 切り離すぞ!」

 叫ぶが早いか、ラガは右手を床に触れさせた。

「待てラガ、おめえ、わしの茶室を――!」

 その先は言葉にならなかった。

 ラガの掌を通じて地面に流れ込んだ制御命令が、居室ユニットの接合部を液状化させる。

 ばぎん!

 どこかで鈍い音がし、部屋が傾きはじめた。

頭を抱えた大鶚が、悲鳴をあげる。

 だが、その嘆きがラガに届くことはなかった。一瞬で間合いを詰めた虯が、ラガに拳を叩きこんでいた。空中で一回転したラガが壁に突っ込んだところに間髪を入れず、四本の腕による追撃が残像を引くスピードで降り注ぐ。

「女ァどこだ! ラガァアアァ!」

 狂ったような衝撃と叫びが、半壊する部屋をびりびりと震わせる。

 だが。

「じゃかァしぃんだよボケェ!」

 一瞬の拳の間隙に、虯の脇腹を強烈な蹴りがとらえた。踏みとどまる虯が再度拳を振りかざそうとする一瞬、部屋が大きく傾き、ふたりの上下が逆転する。

「ふんッ」

鼻血をまき散らしながら宙を舞うラガが、髪を逆立たせながら壁に手を当てる。ばしゃっと音を立てて部屋の調度品すべてが形を失い、重力に従って垂れ落ちた。真下にいる虯のほうへ――その形を、無数の拳へと変えながら。

「拳打っつゥのは、こう、やるんだよ、ボケェ!」

 回転しながら落ちていく部屋の中で、跳ねまわる無数の拳が虯の体を捉える。それは部屋が地面に接地するまで続き、

 ばしゃあん!

 巨大な水音と共に、部屋ごとすべてが飛沫となってかき消えた。

 ……沼と化した地面から、ほどなくしてふたつの影が身を起こす。

「よーォ、虯。ずいぶんとご執心じゃあねえか。あの小娘によ」

「うるせェ。てめえにゃ関係ねえだろう。邪魔すんじゃねえよ……」

立ち上がったふたりは息ひとつ乱さず、互いに殺意の視線を交わし合う。

「邪魔ならぶっ倒してみろよ。ま、百年たっても無理だろうがな」

 ラガの軽口に歯ぎしりをする虯だったが――一瞬後、気を取り直したように首を振り、その指を口に寄せる。

「今回は、てめえの気まぐれに付き合ってる暇ァ……ねえんだよ……!」

 スラムに響く指笛の音。

 わらわらと、無数の影がそこかしこから集まってくる。不意打ちだった先ほどと違い、向けられる戦意に迷いは見えない。

「それが望みなら、なりふり構わず殺してやるぜ」

「ハ! いいねェ……」

 凶暴に笑いかけたラガの膝が――カクリと一瞬抜けた。

「うぉ? ……っとォ……」

 たたらを踏んで態勢を整えるその表情に、一瞬の驚愕が浮かび……笑みが戻った。

「その腕……てめえ、やっぱり……」

「ジャアッ!」

 意に介さぬとばかりに、虯が間合いを詰めた。四本の腕にいつのまにか握られた柳葉刀が、バラバラのタイミングで襲い掛かる。ラガはそれを間一髪で避けながら、内心で冷や汗をかいていた――いつもより、明らかに速い。ボクセルに腕で干渉する隙が、ない。

 がっぎいん!

 タイミングよく四本の刃を、サーフボードで受け止める。

「ガアアアアアアアアッ!」

四本の腕による膂力は、片手では抑えきれない。サーフボードの裏面に両手を添えて歯を食いしばるラガは、すでに虯の狙いに気付いた。

身動きが、とれない。

すでに遅かった。固まったままのラガに、白刃をひらめかせた部下たちが一斉にとびかかる。

ラガはそれを見ていることしかできなかった。

頭上で交錯する刃が、スローモーションのように自分のように落ちてくる――。

「やれやれ」

 老人の声が聞こえた。

 時間が凝縮されたままの世界で、梟のような目をした白髪の老人が、すたすたとこちらへと歩いてくる。

「これだから、まだまだ未熟だというに」

 ぶつくさと文句をいいながら、大鶚はスローに動く刃を、子供からおもちゃを取り上げるようにひょいひょいと回収すると、その事実にすらまだ気づいていないだろう虯の手下たちを優しく地面へと転がした。

それから呆れたような顔をしてラガに向き合うと、

「これは、人の私室をぶち壊した罰」

 そういって、身動きのとれないラガの額を指で弾く。

 次の瞬間、時間の流れが戻った。

 ラガは首どころか背骨が折れんばかりの勢いでのけぞって吹き飛び、そのまま十数メートル先のアパートの壁へ、派手な音を立ててぶち当たる。

 虯の配下たちの怒声は一斉に困惑へと塗り替わり、ラガを抑えたままの勢いでつんのめった虯は、一瞬事態をはかりかねたあと――大鶚を見て硬直した。

「ら、老爺(ラオイエ)……」

「よーォ、虯。家族は息災か?」

 気安く片手をあげて挨拶をした大鶚は、

「くっそ、ジジイイイイイイイイ!」

 こだまするラガの叫びによって中断される。

「相変わらず、うるっせェガキだの」

一拍遅れて飛来するサーフボードを、ため息をつきながら片手でとらえる大鶚。

……の、背後の地面から、目を血走らせたラガが派手な水音を立てて飛び出し、拳を振りかぶる。

「てめえ、よくもあたしの邪魔おぼフッ」

 だが、彼女は次の瞬間には地面に伏し、その頭には大鶚の尻が乗っていた。

「ちったァ静かにしろ。隠居老人ひっぱり出しゃアがって」

「ぐぬぬぬののうぬぬぬぬお」

 じたばたと尻の下で暴れるラガをいなしつつ、大鶚は虯へと視線を向ける。

 びくりと身を震わせる彼の四本の腕は、あれだけの戦闘があったあとにも関わらず傷ひとつなく、銀色に輝いている。

「なるほど、その腕……軍の正規品か。昨日の今日ので手に入るようなシロモノじゃねえ……それ、どこで手に入れた?」

 だが虯は全身を緊張でこわばらせながらも、唇を噛んで答えない。

 大鶚の目が鋭くなる。

「わしに言えねえようなことがあるってわけか? 坊主」

「勝手に吹きあがってんじゃねえよ、ジジイ」

 虯にかわって答えたのは、ラガだった。

「もう、そいつから聞くこたァなにもねえ。だいたい読めたぜ」

「なに?」

 大鶚がいぶかしげに問うと同時に、虯が静かな声で笑った。

「もう遅い……。俺の仕事は、終わりだ」

 言うが早いか体を白熱させ、脱兎のように逃げ出してゆく。追おうとする大鶚の足元が、ずぶずぶと沈んだ。

「やめとけよ」とラガ。「どうせもう『縮地』もできねえだろ? でしゃばりやがって」

「ああせんと死んどったろうがお前」

「本蛋(バァカ)、あんなもんお遊びだよ。――もともと向こうにゃ殺す気もなかったしな」

「なに?」

「家に戻ってみな。あのガキ、たぶんもうとっくに攫われてるぜ。あいつは陽動。本命は別。あたしらはまんまとおびきだされたって寸法だ」

 そう言ってラガは、地面にうつぶせたまま、ため息をつく。

 

「……ま、ようやく楽しくなってきたな」

 

 

 3.

 

 

 深夜。

 ひとりの男が、音もたてずに街を歩いていた。

 入り組んだスラムの内奥には、月の光もまた届かない。だが男は慣れているのか、道に迷うことも、なにかにぶつかることもなく、すたすたと歩いていく。

 やがてたどり着いたのは――スラムの縁。ただし、みやこが追い詰められたところとは、反対側だった。

 建物が消えると、強い風と共に、土のにおいが漂う。

 そこはひろい菜園だった。ボクセルで固めた偽物の地面ではない、本物の土が敷き詰められ、芋類や白菜やその他多くの野菜が葉をしげらせている。

 もはやさえぎるもののない月光が、菜園を区切るあぜ道をゆく男の顔を照らす。大立ち回りの末、命じられた陽動を果たした虯――だが、その顔に明るいものはない。むしろ、より強まった緊張が、その表情には見て取れる。

 菜園は全体として円形をしており、その中心部にはまたもう一回り狭い広場があった。見慣れた黒いボクセルではなく、なめらかな銀色の金属が足元を覆っている。

「来たぞ!」

 広場にたどりついた虯は、闇に向かって小声で叫ぶ。

「約束通り、あのガキを攫う手助けはした。だから……」

「こんな面倒な手続きを踏まなければならなかったのは」

 闇の奥から響く声が、虯の声をさえぎった。

「そもそも、君の不始末のせいなんだがね」

どこからか耳障りな羽音が聞こえ、街灯のもないはずの広場を、強烈な光が照らした。

 スーツを着た、体格のよい男が立っていた。その周囲には、強化骨格で武装した兵士たちが控え、無表情な目で虯を見据えていた。

「しかしまあ、嘆かわしいことだよ。我々が作り上げた偉大な事業を、こういう形でかすめとっていく輩がいるのだからな」

 大きく嘆息した男は、虫でも見るような目つきを虯に注ぐ。

「さらに加えて。ろくに仕事をこなすことすらできない。狗のほうがまだ使い道がある」

「仕方ないんだ!」悲痛な叫びが闇に響く。

「あいつは……竜胆ラガは災害みたいなもんなんだ。巻き込まれたら最後、なにもかもを滅茶苦茶にされる……だから」

「まあ、いい」男性はひらひらと手を振って虯を制した。

「君らの間にあるヒエラルキーがどうなのかは知らんが、結果として、目的は果たせた。もはやここにいる必要もあるまい」

 男が目くばせをすると、ひとりの軍人がひとつの箱を捧げもって出てくる。

「約束通り、報酬をくれてやろう」

「玉(ユイ)!」

 虯の眼が開き、走り出そうとするのを、兵士の持つ銃口が制した。それを見て、男は意地悪くあざ笑う。

「しかし、学のないものの価値観はわからんな。こんなものの、どこが家族なのだか」

 男が持っていたのは、アクリル製の容器に箱詰めされた脳だった。

「妹の脳を保存し続ける、家族思いのマフィア――聞けば先日も、興味本位で撮影したジャーナリストを惨殺したそうじゃないか。こんな、とっくの昔に死んだ人間のために」

「玉は死んでない」

 虯は言う。「知ってるんだ。脳さえあれば、人はいつか復活することができる」

 心底不愉快そうに、男は顔を歪める。

「それがマフィアの信仰か。愚かしいな。こんな保存状態の悪い脳を再生するくらいなら、新しく人間を作ったほうが早かろう。効率の悪い」

「返せよ」虯は懇願する。「返してくれ。頼む」

「やれやれ」男は嘆息すると、その箱を乱雑に宙にほうった。

虯はそれを必死で受け止めると。それを抱え込んでうずくまった。

「よかった……よかったなあ、おかえり、玉……」

「ああ、それから」その様子を意にも介さず、男は言った。

「我々が貸したものは、返してもらうぞ」

 瞬間、破裂音と共に、虯の両腕と背中が爆ぜた。

「あがっ! ぐっ!」

 突然の激痛にもだえ苦しむ虯。その意思に反して動かなくなった腕から、血まみれの箱がずるりと地面におちる。

 つかつかと革靴の音を響かせた男が、その箱に足を乗せて、虯を見下ろした。

「家族に会いたいなら、こんなものに執着するより死んだほうが早かろう。……もっとも私は、死後の世界など信じていないがね」

 虯がうつぶせた地面の底から、ごうん、ごうんと、なにかが上がってくる音が聞こえた。

 広場のそこかしこから円筒状のエレベータが出現し、虯と男を取り囲んだ。

「ともかくこれで、われわれは安心してこのスラムを一掃できるというわけだ」

 そう言って彼は、薄く笑う。

「こんな薄汚れた街を、『翼人』に見せるわけにはいかん。まったく、あの子供の気まぐれさえなければ、もう少しスムーズにことが運んだだろうに」

 男の脇をかためていた兵士たちがにわかに慌ただしくなり、あたりに指示が飛び交う。

「まあ、協力に感謝するよ。君のおかげで、われわれの作ったシステムは、正常な形に戻る。君は英雄だ。胸を張ってくれ」

「どけよ……」

「ん?」

 虯は、男のほうを見てすらいなかった。「その足、どかせ……!」

 嘆息して首を振った男は、近くの兵士を呼び止めて言った。

「殺しておけ」

 軽くうなずいた兵士が、すぐさま虯に銃口を向ける。だが、虯はそれすら気にも留めず、ただひたすら、目の前のアクリル詰めの脳だけを見つめている。

「ああ、玉(ユイ)……汚れてしまって……きれいにしないと……」

 兵士の指先が、引き金を引く――

 

「んなこったろうと思ったよ、本蛋(バァカ)」

 

 突如現れた黒い波濤が、虯の前にいる兵士を吞み込んだ。

「な……ッ!」

「待て、なんだ貴様は……うわッ!」

「ひいいッ!」

 交錯する悲鳴。混じる銃声はすぐにくぐもって消え、ドローンの羽音が甲高く響いたと思えばまた消える。

 突如出現した狂乱の意味がわからずうずくまる虯のもとへ――

 その女は現れる。

 

 その蓬髪は朱に輝き。

 力をふるえば天地が変わる。

 その眼に睨まれれば逃げられず。

あらゆる企みも計画も、すべて呑み込まれる。

 それは人の形をした災厄。

 あるいは、神樹の頂点で気ままに吠える龍。

 

『摩天龍姐』。

 

「よーォ、虯。ずいぶん楽しそうじゃねェか」

 

 右脇にはサーフボード、左脇にはさらったはずの少女を抱えて、彼女は笑う。

 こともなげに。

 楽しそうに。

 

 ※※※

 

 雌雄は、すでに決していた。

みやこを攫って降りてゆくエレベータと、増援部隊を積んで昇ってくるはずの部隊は、ともにその途中でラガの濁流に呑み込まれ、タワー内のボクセルの海に叩きこまれていた。

そのかわりに到着したエレベータから現れたのは、ラガと、虯の配下たちである。

その力を全力で振るうラガに、数のうえで勝るはずの部隊は、なすすべもなく沈められていった。

「さァて、と」

 右腕にまとわせた濁流を巨大な腕に変えて男を持ち上げたラガは思案する。

「とりあえず目的はわかった。が、さてどうしたもんかね」

「愚かなガキだ」

 背広をつままれ、ぷらぷらと宙に浮かせた無様な姿をさらしながらも、男は冷静な表情を崩さない。

「これで貴様らは、明確に政府に敵対したことになる。貴様らの先代どもが交わした不可侵協定もこれで終わりだ。本格的に貴様らの排除に動くことになるだろう」

「もともとそのつもりだったんだろーが」

 傲岸に言う男の顔に全力の拳を浴びせて、ラガは鼻息を吹いた。「上等だよ。そっちが売ってきた喧嘩なら、喜んで買ってやるぜ」

「でも……」と、おずおずと返す声。救出されたみやこだった。

「きっと世間は、こっちが先に攻撃をしたと思うでしょうね」

 そう言って目を伏せ、うつむく。「ごめんなさい。私がここに来たばかりに……」

「アホかてめェは」と、ラガは少女の頭を小突く。

「お前っていうストッパーがいなけりゃ、問答無用で不意打ちをカマされてたってことだろうが。むしろお手柄だぜ。……あのバカに依頼した政府の奴もな」

 目線の先には、手足がもげたまま、手下に命じてアクリル詰めの脳を手入れさせる虯の姿があった。

「そこに吹き残しがあるだろうが。もっと良く見ろバカ野郎。ああ……玉(ユイ)……ここにも小さな傷が……家に帰ったらちゃんと修理をしような……。おいてめェ! 誰がそこまで顔を近づけていいって言った! 殺すぞ!」

「クール気取ってるが、あいつは単なるシスコンだ。『妹』さえ取り戻せりゃ、おめえにこれ以上なにもしねえだろ。……って、おいおい」

 止める間もなく、虯にすたすたと近づいていくみやこ。部下たちが振り返り威嚇するが、意に介す様子もない。

「……妹さんのため、だったんですね」

 虯はゆっくりと、無表情でみやこを見る。

「だったらなんだ? 失せろ」

「生き返らせたいんですか?」

 虯の目が血走り、その額に血管が浮いた。「玉(ユイ)は死んでねえよ」

「そりゃあ、そうかもですけど」みやこは、意に介さない。「だったらせめて、体とか作ってあげたら、いいんじゃないでしょうか」

「……あァ?」

 激昂した虯が、体が動かないのも構わずみやこに向けて身を乗り出した。

「んだァ? てめえ……体が作れてりゃ、そうしてるんだっつうんだよ」

「えっと、作れますけど……」

 みやこは右耳のピアスに触れ、ついでそのまま、地面に触れる。

 青い渦が地面に奔り――人の形を成していく。

 ラガが目を見開く。「てめェ、あたしと同じことできんのか」

「ううん、ラガさんみたいに大規模なのは無理だけど。でもこのくらいなら」

 やがて地面に、少女の姿をした義体が現れた。

「これなら、どうですか? あの、もちろん、顔とかは自由に作れなおせますけど……」

 言葉を失った虯に対して、みやこは慌てて付け足す。

「あ、もちろんいまのままじゃだめですよ! 欠損とか劣化したぶぶんをうまく再生しなきゃいけないし、そのためにはちょっといろいろと必要なものがあるんですけど……でも、ほら、時間さえあればまた違うかなって」

 

 唖然としていたラガは、わたわたと慌てるみやこと、まだ硬直している虯を見比べる。

 

 ――あんな精度の操作、あたしどころか誰にもできねェぞ。

 

 みやこと出会った日、ラガがスラムから見つめていたのは『ネフィリムの指』が来るといわれている方角だった。

 ずっとあこがれていた。

 翼人の技術。

 不死の力。

 この屋上の世界で、すべてを欲しいにしてきたラガにとっても、未知なるもの。

欲しい。

笑いながらひとり夜空を見上げるラガの目は、獰猛に光っていた。

 

 

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