樽の中の一滴

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梗 概

樽の中の一滴

 僕たちの住むニップランドはたぶんユートピア。衣食住は保証され、病気もないし死ぬこともない。哀しみもない楽園。もっともそんなありがたみは、これっぽっちも感じたことがない。
 知識はアトモス経由で得られるというのに、僕たちは学校というスペースに集められ、退屈な授業、月並みな恋愛、吐き気のするいじめなどで毎日を過ごしていたんだ。その日の標的は僕、放課後、嫌な3人組に追われて逃げ込んだ高架下の公園で、変なその爺さんと出会った(そもそも年寄りなんて見るのは初めて)。眼のつぶれた黒いニャーニャー鳴く奴(猫という生き物らしい)を抱えて、僕に言う。
「お前さんは飛び出していくのかね、それともここでこのまま時を送るのかね?」
 急に言われても、気の利いた答えを返せるわけもなく、僕は黙って黒猫を見つめていた。そいつは見えない目で僕をじっと見据え、それから、満足そうにゴロゴロうなり始めた。
「時間はない。見ろ、その時は来た」
 爺さんが顎をしゃくる方の空、遠くに見える軌道エレベーターの細い絹糸のような輝きが、突然、荒れ狂う幾千本もの稲妻を一つに束ねたような圧倒的なエネルギーの奔流でかき消される。まばゆい光に包まれ、何も見えなくなる。ふと、あたりを見回したら誰もいない。軌道エレベーターは何事もなかったように上空を縁取っている。ただ、僕の左腕に黒い猫の形をしたあざが増えていただけ。
 それでもそれから、ニップランドの毎日は少しずつ変わっていく。街中のあちこちに不可視領域が表れ始める。わざと存在させない空間のことだとアトモスは言うが、よくわからない。というよりアトモスの在り方が今まではまさに空気のように体の外にあったはずなのに、今では体感的に後頭部と舌の間くらいに存在を感じる。たくさんの人々が静かに消えていき、誰もがそれを静かに受け止め、世界が少しずつ薄暗くなっていった。猫のあざは心なしか大きくなっている。
 その日僕はいじめる側で、ほかの二人と獲物を狩っていたのでけど、路地裏で追い詰めたその相手が突然に消えてしまう。かすかに聞こえた音声メッセージは「永遠よりも一度の人生」。怯えと強がってみせる白けた雰囲気の中僕らは別れ、ふと、僕は帰るべき場所のないことに気付き、愕然とこれまで生きてきた時間を思い返した。それは何世紀にもわたるようでもあり、たった今、刹那に終わった時間のようでもあった。
 グラスに注がれるのを待ちわびているワインのような僕たちの心。そして満たされていくグラス。
 そこはテラフォーミング後の火星。そして僕たちはこの火星に最適化した体(コンテナ)を持つ火星人類。巨大な全長の爬虫類のようなものもあれば、体長20センチにも満たない妖精のようものもいる。人型やそれ以外の形でも、お望み通り。新しい身体、新しい社会、新しい人生。
 このゲートの向こうの火星の大地へ、僕は優雅な黒猫の姿で駆け出していく。

文字数:1200

内容に関するアピール

 戦闘メカザブングルが好きで、あれは凄くSFだと思ってる。イノセントとシビリアンの設定の部分だけど、対立する2つの種族っていうのがいい。
 テラフォーミング後の火星、コンテナンと呼ばれる入植者たちとVR界に意識だけを残して生きるクラウディアンというのを設定し、その手前、初めて火星の大地に踏み出す意識たちを書きたいと思った。
 とにかく、窮屈な思いで生きる子供たちがすっきりした、と言って決して楽園ではない世界で強く生きていくというストーリーがどうやら昔から好きなので、こういう梗概になる。
 と言ってもこの主人公が少年かどうかは決めてなくて、案外爺さんなのではないかとうがっている。

文字数:289

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