梗 概
3.4996倍の人生
産業革命による工業化が進んでいた1830年、スコットランドの国立加齢医学研究所で、人間の寿命を飛躍的に延ばす方法が開発された。技術のカギとなったのは、動物によって生命の長さが異なること。動物が1回脈打つ時間は、ゾウの場合は3秒、ヒト1秒、ネコ0.3秒、ハツカネズミは0.1秒で、大きな動物ほど心臓はゆっくり拍動する。こうした心周期のみならず、呼吸するのにかかる時間、物を食べて消化するまでの時間など、生きるのに必要な単位時間は大きな動物ほど周期が長い。時間と体重には相関があり、体重の4分の1乗に比例して時間が長くなる。時間は絶対的なものではなく、生物の大きさによってそれぞれ独自の「時計」があるのである。たとえば30gのハツカネズミと60kgの人間では体重が2000倍違うから、人間の時間はネズミに比べ6.6874倍ゆっくり進んでいると考えられる。加齢医学研究所のトキー博士は、細胞の老化スピードを変えることなく、体重をおよそ150分の1に縮小する装置を開発し、縮小された人間は今までの3.4996倍の人生を生きることができるようになった。
博士と研究室のスタッフ、長寿を望む100人のボランティアは、実験台となって自分たちを縮小し、研究所の名前から自分たちをアグリ (AGRI:Aging & Geriatrics Research Institute)と称して、地下にミニチュアの村を作って共同生活をスタートさせた。地下に住むことにしたのは、通常サイズの人間と一緒に生活したところ、椅子から落ちて怪我をしたり、コップで溺れたり、蹴飛ばされたりする事故が多発したからだ。
アグリの一族はいずれも身長12センチ、体重は男性500グラム、女性400グラムほどで、人間の世界と同じように、その文明を発達させていった。さらに縮小時の副作用であろうか、彼らの感覚器官は、大きかった時よりも鋭敏になった。1850年ごろにはアグリの村に機械設備をもつ大工場ができて大量生産が可能になり、スコットランド北部のハイランドにある大きな洞窟は工場地帯として、さまざまな新製品が作り出された。さらに20年後の1870年、ライト兄弟の初飛行に先んじること30年、飛行機の父トビー博士によってアグリの世界に飛行機がもたらされた。飛行機の製造と操縦は、アグリの村が誕生してから生まれ、人間社会を知らない若者5人が任命された。その5人とは…
誰よりも足が速い、ハヤテ
遠くのものを見分ける目を持った、センリガン
かすかな音を聞き分ける、フクロウ
おいしそうな臭いに敏感な、カオリ
村一番の力持ち、コンゴウ
である。
試験飛行の日、飛行機は滑走路を走り大空へ舞い上がったものの、操縦していたフクロウが何者かに襲撃されてしまう。海からの強風に流された機体は、海岸沿いの道を走っていた馬車の荷台に緊急着陸し、発送票を貼られて、港の外へ運ばれていく。ロンドンと書かれた控え票を手に入れた4人のアグリは、フクロウの救出に旅立つことを決意。翌日から旅の準備をスタートさせ、フクロウがいなくなってから2日目の朝、2機の飛行機に分乗し、向かい風を受けて飛び立った。
町を離れた4人は、鉄道の走る牧場を超え、蒸気船の浮かぶ海を渡り、人間の住む大都会ロンドンにやってくる。すると人間社会にも、トキー博士の教え子だったロビー博士が作り上げたアグリのコミュニティが存在していた。実はロビー博士は、産業革命による急速な地球環境の悪化を防ぐため、人類全員を縮小すべきだと主張したものの、カルトとしてトキー博士から追放された人物だ。彼は自身の支持者とともにアグリの村を離れ、弟でレギュラーサイズの人間ロバーと共に、自分の王国を築き上げる策略を巡らしていた。兄弟はウェールズの無人島を買いとって小人の国を建設し、人間を強制的に縮小して移住させ、自分たちが終身大統領として君臨する計画である。たしかに19世紀以降の工業化と石炭燃料の使用により、ロンドンでは史上最悪の大気汚染が進んで数万人が死んでいたし、工場制機械工業の拡大は多様な汚染物質を大地や河川に撒き散らしていた。農業生産も拡大して、19世紀初頭には2億人弱であったヨーロッパの人口は100年で倍増するペースで増加し、兵器の近代化は大規模殺戮を可能にした。こうした変化はいずれ地球レベルの大規模な環境汚染や戦争の拡大につながることは確実だ。ロビー博士は、人間を縮小することが、環境を守り、植民地の争奪や、戦争を減らすことに役立つと主張する。縮小薬をロンドンの水道水に混ぜるため、飛行機を奪ったのもロビー博士だ。
4人のアグリはフクロウを救出し、人間社会を壊そうとしているロビー博士とロバーの兄弟を捕らえ、彼らの悪だくみを阻止する。しかし、兄弟のやろうとしていたことは間違ってはいなかった。それから200年後、小さくなることで時間を獲得したアグリの歴史は3.4996倍早く進み、699年が経過した。アグリの世界では科学技術も3.4996倍早く進歩する。最終的に彼らは鋭い五感と優れた科学技術力で高度な文明を築き上げて人間を圧倒し、地球はアグリの国になったからだ。
文字数:2117
内容に関するアピール
不老不死は人類の永遠のテーマである。始皇帝は徐福に命じて不老不死の薬を探し、インドでは乳海と呼ばれる海から不死の飲み物「アムリタ」が作られ、ヨーロッパでは錬金術によって不老不死の薬「賢者の石」が生成された。しかし、動物は例外なく細胞の再生能力の衰えとともに老化し、死に至る。老化を食い止めることはできない。この物語の主人公は、科学で老化を乗り越えようとした人々である。
想定する読者は、図書館で初めて小説を手に取る子供たち。ただ、彼らが学校で学ぶテクノロジーはデジタル機器やソフトウェアではなく、針金や釘やハンマーである。そこで、製鉄や加工技術が発達した時代を舞台に、自然の中で暮らし、知恵を絞って便利な機械を作り出していく人々を描くことで、機能を形にする面白さを伝えてみようと考えた。子供たちが冒険心を育み、遠い世界への憧れを抱き、ものづくりに挑戦したくなるような話になればと思う。
一方、大人の読者に対しては、誰もが避けられない死をどう迎えるかという問題を投げかけたい。人生100年とも言われる、世界一の長寿社会に住んでいる日本の老人が、いまひとつ楽しそうに見えないのはなぜだろう。ロビー博士は、アグリたちに「なぜ長生きしたいのか?」と尋ねるが、それはそのまま読者への問いでもある。
文字数:544