キュアマン

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梗 概

キュアマン

 難病を患いながらも今年で70歳になる遠藤守は、かつて国立感染症研究所に勤務していた。専門はワクチン製造と抗ウイルス薬開発。26歳で入所して研究部門で感染症対策の最前線で懸命に働き、5年前に定年を迎えた。40年におよぶサラリーマン生活だったが、彼には心残りがあった。だが過去を悔いても現実が変わることはない。現役を退き、社会から孤立した老人は、やるせない「思い出」を忘れてしまいたいと願っていた。

 10年前の2057年、60歳の遠藤は国立感染症研究所のスーパーバイザーを務めていた。スーパーバイザーといっても現場OBの名誉職に過ぎず、直属の部下はひとりもいない閑職である。既に妻は他界し、子供もいない遠藤にとって、人生で一番大切なのは自分の存在価値を示す「実績」だったが、研究所からは冷遇されていた。
 実はこの頃の日本は、世界経済にほとんど影響力のない小国に落ちぶれていた。財政難からインフラ整備もままならず、政府は都市中心部へ人口を集中させる社会の極点化を進めた。秋田、青森、島根、岩手、和歌山、徳島、鹿児島の各県では、もはや県庁所在地以外の市町村は消滅して存在しない。
 なぜ日本は衰退したのか? そのきっかけは2027年に発生した強毒性の新型インフルエンザ禍だった。その年の冬、日本国内で鳥インフルエンザから変異した新型インフルエンザのヒトへの感染が探知され、爆発的大流行が発生した。一般的にインフルエンザ発生からワクチン製造までに半年から1年かかると言われるが、その間に新型インフルエンザは凄まじい勢いで広まり、世界各国は日本からの旅客便を拒否し、最終的に日本国内だけで400万人以上が死亡した。少子化が進んでいた日本で、さらに多くの子供の命が失われ、日本の衰退は決定的となったのだ。遠藤の幼い一人息子も犠牲者のひとりだった。もしも2027年のパンデミックを防いでいたら、日本は未だ豊かな国であり続けたかもしれない。
 そんなある日、遠藤は厚生労働省から呼び出しを受ける。同じ年の春に東京大学脳ネットワーク研究所が、過去の記憶を10年づつ回想化することで過去にメッセージを届けるタイムマシン「ニューラルメッセンジャー」の開発に成功すると、政府は密かにこの技術を用いた国の再興に取り組み、新型インフルエンザ大流行の阻止計画が実行されることになった。そのために選ばれたのが、かつて国立感染症研究所の研究部門に勤務した遠藤守だった。コードネーム「キュア」と呼ばれる彼の使命は、30年前の自分にメッセージを届けてワクチンと抗ウイルス薬製造方法を伝えること。彼は実験装置に入り、過去の記憶を想起する。最初の回想は感染研の免疫部長だった10年前だ。

 50歳の遠藤は、ウイルス感染症に関する病原の特定と予防衛生の責任者だった。かつて日本を襲った新型インフルエンザのワクチンの備蓄も進み、抗ウイルス薬エンダミビルも開発した。彼は国内外の研究機関と積極的に共同研究を行うため、自由になる時間はなくなったが、妻と過ごす時間が、何よりも彼に活力を与えていた。彼の人生で一番大切なのは「家族」であった。そんな遠藤に老遠藤は「息子と豊かな暮らしを取り戻すためにも、ワクチンや抗ウイルス薬製造の技術を過去にもたらすのだ…」とメッセージを残す。50歳の遠藤は、家族を顧みないで仕事に没頭していた10年前を思い起こす。

 40歳の頃は、毎日自分の好きなことに打ち込んでいた。平日はしばしば翌朝まで研究室に閉じこもっていたし、土日も実験結果が気になって感染研に顔を出した。妻のことなど顧みず、自分のために時間を使っている日々が充実していたのだ。当時の彼が人生で一番大切にしていたのは、お金では買えない「時間」だった。50歳の遠藤は「ワクチンを製造してパンデミックを防げば時間も金も手に入る」と伝える。40歳の遠藤はかつて「時間」よりお金に興味があった頃を振り返る。

 遠藤が30歳の頃、人生で一番大切なのは「お金」だった。20歳の自分にとって、一番は「友達」だったけれど、社会に出ると人間関係はすべて利害絡みで、友達などいないことに気づいたのだ。自分の可能性を広げてくれるのは、お金だった。
 そんな彼の意識に、40歳の遠藤が語りかける。10年後の未来から来た自分自身だと名乗る男が、まだ確認されていない新型インフルエンザのワクチンと抗ウイルス薬のデータを送ってきたのだ。そんな与太話を信用できないと拒否したものの、その抗ウイルス薬エンダミビルの特許も自分の名前で申請しろという。それが本当なら特許は数千億円の価値がある。研究者としてさして成果を上げていなかった遠藤は、その申し出にとびついた。その上で老遠藤は言った。
「道路のマンホールに落ちた子供を救えば英雄だ。だが子供が落ちる前にマンホールを蓋で塞いだら、誰にも知られることはない。ある程度流行が始まってからワクチンを配れば、おまえは大富豪になれる」
「初期の患者たちを見殺しにしろと?」若き遠藤はきいた。
「そうだ」
「金は大事だが、俺は金のために研究してるわけじゃない」
「お前は経験を積んでないからまだわからないのだ。若さは愚かさでもある」
 結局、彼は甘言に耳を貸さなかった。早急にワクチンと薬剤を製造し、新型インフルエンザによる死者を0に抑え込んだ。彼は人が落ちる前に、マンホールの蓋を塞いだのだ。

 ばらばらになったマトリョーシカが再びひとつに戻るように、回想が巻き戻り、60歳の遠藤の使命は達成された。パンデミックはもともと存在しないものとなり、彼は英雄として迎えられることも、祝福されることもなかった。過去の思い出は霧のように霞み、自分がどうやって日本を救ったのかも忘れようとしていた。

 70歳になった遠藤の記憶も大きく書き換わった。10年前に日本を救った誇らしい経験も覚えていない。彼には2人の息子がいて、それぞれ独立して自分たちの人生を歩みはじめている。妻と2人だけになった家に帰るのは寂しいが、充実した子育ての日々は、無くなることのない美しい「思い出」となって彼の人生を彩っている。

文字数:2504

内容に関するアピール

 自分の人生において最も大切なものは、年を経ることに変わっていきます。わたしたちは人生を終える時に一番大切なものはなんでしょうか?
 今回のテーマである拘束条件は、全編「回想」にしました。それぞれの回想はマトリョーシカのように入れ子になっています。物語では、回想を重ねて、より遠い過去にたどり着き、そこにメッセージを届けるタイムマシンの一種であるニューラルメッセンジャーが登場します。それを用いた国家の存亡をかけたプロジェクトに平凡な免疫学者の主人公が選ばれ、日本を救う時間旅行に出発します。主人公は、国の命令に反して過去の自分に自分本意なメッセージを残しますが、若き遠藤はそれに反して正しい選択をします。そのことが現代の主人公にも変化をもたらします。

文字数:325

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マトリョーシカの伝言

 診察室22番は絶望に満ちていた。目の前が暗くなった。私は国指定の難病に罹患し、いつ心臓が止まってもおかしくないのだと担当医から告げられた。この1ヶ月間というもの、心臓と冠動脈MRI検査、アイソトープ検査、ホルター心電図検査と、毎週のように病院に通い続けた。その結果、わずかばかりの望みも絶えたのだった。
 今年で70歳になる私は、5年前まで国立感染症研究所に勤務していた。専門はワクチン製造と抗ウイルス薬開発。26歳で入所して研究部門で感染症対策の最前線でウイルスやワクチンに関して様々な検査、検定業務に就き、65歳の誕生日に定年を迎えた。40年におよぶサラリーマン生活だったが、リタイアしてのんびりする間もなく人生の終焉が訪れるとは正直思っていなかった。
 ただ、医師が話す今後の方針を聞きながら、私が身じろぎもしなかったのは、病名に驚いて虚脱していたからではない。不完全燃焼で一酸化炭素を吐き続けてきた自分自身の人生と、私を置いて死んでいったものたちの遺恨にはさまれて、立ち上がる気力が失われていたからだ。妻は7年前に死んでいたし、息子も5歳になる前に事故でいなくなり、私は一人残されていた。過去の出来事のことなんかちっとも思い出したくないのに、忘れることができない。老人になれば、家庭菜園でトマトやナスを育てながら、あるいはミツバチを飼育して蜂蜜を集めながら、郷愁を感じて生きていくものだと思っていた。しかし私にとって過去の記憶は、自分がしでかした取り返しのつかない失敗のことで、それが消えない限り、後悔の海に溺れながら生きていかねばならない。もはやこの世に心の平穏はなく、いつ逃げ出しても構わなかった。
 だからこの世に別れを告げることにしたのだ。

 10年前の2057年、60歳の私は国立感染症研究所のスーパーバイザーを務めていた。スーパーバイザーといっても現場OBの名誉職に過ぎず、直属の部下はひとりもいない閑職である。期限のある仕事を与えられることはないし、肩書きと違って何もスーパーバイズしない。研究所に出勤して、何をするわけでもなくただ5年間を漫然と過ごしていれば晴れて退職となる暢気な身分のことだ。サラリーマンにとって、こうした時期は完全変態前のサナギのようなものだろう。日本の会社員の多くは60代でリタイアするが、会社にいる頃は湖水の魚のように溌剌と仕事に勤しんでいたのに、退職後に会ってみると別人のように老け込んでしまうということが少なくない。それまで会社という人間関係の暑苦しいムラ社会に住んでいたのに、突然、ひとりぼっちで自活しなければならない自由競争社会に放り出されて、強いストレスを受けてしまうからだ。メンタル耐性が弱まって、廃人のようになったり、ヤケをおこして滅びの道を突き進むこともある。だから、夢中になって仕事に没頭してきた従業員のうち、管理者に不適な者にはリタイア後の暮らしに慣れる期間を用意するというわけだ。人家も田畑もない荒野に置き去りにする前に、居所はあるが業務には必要とされない環境でリハビリさせる。今では70%のサラリーマンが無役のまま職場を去るというから、メンタルトラブルを起こさないようケアする必要があるのだろう。私も、人生で一番大切なのは、職場で築き上げた実績だと思っていたけれど、組織からすればそれも大した実績ではなかったということだ。これからサナギの中に閉じこもり、その後の新生活に備えて自分自身を作り直さなければならない。
 日本も私が就職した頃とはずいぶん変わってしまった。いまや日本は、世界経済にほとんど影響力のない小国で、財政難から研究所の予算も昨年に比べて6%も減らされたし、年取った将来性のない研究者に十分な賃金を支払う余裕もない。リハビリ期間に入る従業員の給料は3分の1ほどに減額されるのが普通だ。金がないのは研究開発機関ばかりではない。ほど近い田舎町にドライブをすればわかるとおり、都市のインフラ整備もままならず、政府は都市中心部へ人口を集中させる社会の極点化を進めている。秋田、青森、島根、岩手、和歌山、徳島、鹿児島の各県では、もはや県庁所在地以外の市町村は消滅して存在しない。

 こんなふうになってしまったきっかけは、今から40年前の2027年に発生した強毒性の新型インフルエンザ禍だった。その年の冬、日本国内で鳥インフルエンザから変異した新型インフルエンザのヒトへの感染が探知され、爆発的大流行が発生した。一般的にインフルエンザ発生からワクチン製造までに半年から1年かかると言われるが、その間に新型インフルエンザは凄まじい勢いで広まり、世界各国は日本からの旅客便を拒否し、人間のみならず日本からの物資の輸出もできなくなり、最終的に日本国内だけで400万人以上が死亡した。少子化が進んでいた日本で、さらに多くの子供の命が失われ、日本の衰退は決定的となった。幼い私の一人息子も犠牲者のひとりだった。私自身がインフルエンザから人々を守る最前線にいたにもかかわらず、いたいけな子供ひとり守ることができなかった。妻からも責められ、とげとげしい言葉を浴びせられた。幸せだった家庭は粉々に砕け、やり場のない恨みが体の隅々にまで充満して、しばらく何も考えられなくなった。何週間も考えをまとめられないまま時間だけが過ぎ、これ以上平穏だった過去の暮らしに囚われてはいけないと、私たちは子供との思い出がつまった家から逃げ出した。そうしなければ妻との関係も完全に壊れていたに違いない。それからの30年間は、この新型インフルエンザによる悲劇を繰り返さないよう、抗ウイルス薬製造に打ち込むことにした。もしも2027年のパンデミックを防ぐことができていたら、日本は未だ豊かな国であり続けたかもしれないし、私も平凡な家庭を持てたかもしれないし、人生をこんなふうに嘆いたりしなかったかもしれない。

 私がこの世に別れを告げる決心をしたのは、過去の自分にメッセージを届けられる国のプロジェクトがスタートすることになったからだ。正式名は忘れてしまったが、関係者はマトリョーシカ・プロジェクトと呼んでいた。心にとどめている一定期間の記憶をパッケージにして、それをロシアのマトリョーシカ人形の入れ子構造のように、繰り返し回想化していく。回想を畳み込むときに、その経験を共有する過去の自分にメッセージを伝えることができる。ただ、パッケージ期間は10年が限界だそうで、30年前の自分に伝言するには、10年前の自分に20年前の自分へのメッセージを託し、20年前の自分に30年前の自分にメッセージを託すという伝言ゲームを繰り返さなければならない。もちろん、私は40年前の自分に、鳥インフルエンザのワクチンと抗ウイルス薬製造方法を伝えるつもりだ。政府も全面的な協力を約束してくれた。

 私は東京大学の研究所に出向いて、何層もの殻に覆われたマトリョーシカ型のポッドに入り、10年前を回想することになった。初めて呼びかける相手は、2057年の11月の自分だ。過去の人にメッセージを伝えるには決められた手順がある。意識を集中し、自分がいた場所をできるだけ正確に、設計図面を書くように3D空間に再構築し、そこに立っている当時の自分の目に映る光景を、現代の自分の網膜に投影するようにする。建物の凹凸や肌触り、耳に届く環境音、空気の匂いなど、できるだけ正確にイメージしたほうがいい。思い描いた空間にはxyzの座標を設定し、画角30度程度のカメラを配置し、そのカメラの映し出す画面を映像化する。空間内にカメラから極端に近い物体や、無限遠の背景などを置いてはいけない。
 私はまず、家の前にある教会の前庭に立っている大きな楓の木から舞い落ちる紅葉を思い浮かべた。時間がたった血液のような暗い朱色の葉だ。蜂蜜色の石が積まれた教会の塀は、別の種類の赤紫の楓の葉で覆われている。時折吹き付ける乾いた風によって、電気自動車がアスファルト道路を走るような音を立てて葉がこすれ合い、プロペラ形の楓の種が舞い上がる。道の反対側に立っているのは黄色く色づいたイチョウだ。路上はまるで赤と黄色の絨毯が敷きつめられたように葉で覆いつくされている。その上を初老の男が、絨毯の文様をできるだけ汚さないように、足を置く位置を選びながらひょいひょいと歩いている。あれが60歳の私。そう、たしかクリーニング店に夏物の衣類を出したあと、帰ってきたところだった。衣類を詰め込んだIKEAの買い物袋の底に、楓の種が飛び込んできたことを記憶している。そのときの私は、楓の種をつまみ上げ、他にも路上に落ちていないかと楓の葉を掻き分けて、種を探したのだ。コンクリートの歩道には、片翼ごとばらばらになったプロペラたちが落ちていた。私はいくつかをつまみあげてビニール袋に入れて持ち帰り、日のよくあたる出窓の上に並べた植木鉢に植えることにした。家に帰ると、妻がインスタントコーヒーにお湯を注いでくれた。私は採集した種をひとつひとつ白い皿の上に取り出してみせる。焦げくさい香りのするコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎながら、皿の上に並べた秋の収穫物を眺めていると、突然種から芽が出て、茎は枝となり幹となってたちまち天井を突き破り、家じゅうが鮮やかな秋の色で埋め尽くされる…と、そんな空想にふけってみる。
 70歳の私は、60歳の私の妄想を共有しながら、静かに語りかけた。あなたの住んでいる10年後の世界では、時間を超えて意識を共有することができるようになった。私はその時代からあなたに呼びかけている。目的は2027年に発生した鳥インフルエンザの被害を防ぐことだ。協力してくれないか、と。

 窓を風に吹かれた木の枝がやさしく叩いている。60歳の私は柔らかな気持ちで、未来からの呼びかけを聞いていた。一瞬、体中が痺れるような感覚があったが、どうやらそれはメッセージを受け取る時の副作用らしい。けれど、60歳にもなれば、あちこちが痛むのは日常茶飯のことなので大して気にならない。70歳の彼は鳥インフルエンザのことを持ち出してきたが、その話は思い出したくないし、恐ろしいから聞きたくない、と私は言った。
 では、違うことを話そう。何がいい?
 もっと希望に満ちた物語はないのか。
 あなたの時代に希望がなければ、10年後にも希望はないさ。
 さしずめ死期も迫っている自分の恐怖と失望を話しにでもやってきたのか?
 過去のパンデミックを防いで、我々の人生を希望に満ちたものにしたいのだ。
 もうあれから30年がたつ。いまさら私に何をしろと?
 我々の時代にはワクチンも抗ウイルス薬もある。同じものを30歳の私に伝えることができれば、鳥インフルエンザを防ぐことができる。そのために力を貸してほしい。そして新しい人生を手に入れるのだ。
 その頃の私は、リビングの布張りのソファに身を埋めながら、かつて体験してきたことを懐かしく思い起こすことがよくあった。私にとってノスタルジアに浸ることは唯一無二の幸せな時間だったが、もう噛みすぎて味のなくなったガムのようなものだった。だから、新しい思い出が手に入るのなら、ガムを吐き出したって構わない。私はテーブルの上を一瞥し、近所のデパートで購入した惣菜パックを見て急に現実のことをあれこれ考えた。今日は地下の食品街でローストビーフを買ってきたのだった。毎日、晩酌のことを考えてつまみを買い込むのだが、正直言って家での食事は退屈なのだ。メニューは決まったものの繰り返しだし、妻は家事をするだけで話し相手になってくれない。退屈なのは食事だけではない。老眼が進んで本を読むのは面倒だし、週末を楽しみにするような趣味はないし、家の壁は薄いから底冷えがするし、酒をいくら飲んでも気分は高揚しない。そう言えば、ウイスキーを割ろうと炭酸水を買ってきたのに、冷蔵庫に入れるのを忘れていた。早く冷やさないといけない。私は立ち上がってキッチンに向かった。冷蔵庫の扉を開けると、4段の棚は1週間前から入っているカレーや肉の切れ端や頂き物の菓子折りがぎっしりで、どこにも隙間がない。いったいどこに入れればいいというのだ。私は自分の暮らしにぶつぶつ不平を唱えてから言った。
 もちろん協力する。こんな社会から逃げ出すことができるのなら。私は上機嫌で、過去の自分と意識を共有する方法を10年後の自分に尋ねた。彼は私に、10年後の自分への伝言を依頼してきた。マトリョーシカは5重構造になっているが、一番外側の殻が上下で分割されて開き、中から一回り小さいポッドが姿を現すと20年前の自分への接続が開始された。

 50歳の私は、ウイルス感染症に関する病原の特定と予防衛生の責任者だった。かつて日本を襲った新型インフルエンザのワクチンの備蓄も進み、抗ウイルス薬エンダミビルも開発した。私は国内外の研究機関と積極的に共同研究を行うため、自由になる時間はなくなったが、妻と過ごす時間が、何よりも日々の活力を与えていた。人生で一番大切なのは家族だった。そんな私に60歳の私がメッセージを送ってきた。
 出勤途中の満員電車で、彼の声を聞いた私は、背中を銃で撃たれたような衝撃を感じた。神経線維の1本1本がビリビリとしびれるようだった。思わずうめき声を上げ、途中駅のホームに飛び出してベンチに倒れこんだ。最初は声の主はどこにいるのかと周囲を見回してみたが、ホームのアナウンスと雑踏で、人の声など明瞭に聞こえるはずもなかった。再び声が聞こえてきたときは、私の心は緊張し、体が軽く震えた。その間、2台の列車が目の前を通り過ぎた。3度目の声が聞こえたとき、私はその声が脳梁の奥のほうから聞こえてくるのだと悟った。その声は、私しか知らないはずの記憶の詳細を語り、自分を10年後の自身であると紹介した。不可能を消去して、最後に残ったものが真実であるとすれば、その声は未来の自分であると認めざるを得ない。私は声の主に30分待ってくれるよう依頼して、研究所の敷地内まで移動すると、光り輝く陽光を木陰に避けて、柳の下のベンチに腰掛け、目を閉じて、大きく息を吐き出した。そしてメッセージを受け取った。息子と豊かな暮らしを取り戻すためにも、抗ウイルス薬製造の技術を過去にもたらしてほしい、というものだった。

 新型インフルエンザの蔓延で息子を失った私は研究を続け、50歳になるまでに同じことが二度と起こらないような対策をほぼ終わらせていた。ここに至るまでの研究は決して平坦な道ではなかった。ところが声の主は、その研究成果を何の見返りもなく、差し出すようにと依頼してきた。
 私は言った。あなたは抗ウイルス薬を製造するための情報をと言う。だがそれは本当に30年前の日本に伝えることができるだろうか。いや、確実にできるとあなたは言うだろう。しかし、それをすれば私が、私の研究チームがやってきたこの間の血のにじむような努力は不要になるだろう。時はリセットされ、過去の誰かがこの研究を達成することになる。そうなったら、現在の我々は今よりも意義深い研究テーマを見つけられるだろうか。時間を遡ることができるということだけでも信じがたいのに、その研究成果を過去の自分とはいえ、自分以外の人格に渡すということにどうしても抵抗がある。常識的に、そんな提案を真面目にとりあう人間はいない。企業が、10年地道に開発を続けてきた新製品の設計図を何の見返りもなく公開するだろうか。それはまるで、論文を書き終えたときに、10年前に同じことが書かれた論文が突然現れるようなものだ。想像しただけで身震いする。だがあなたは、それがあの惨禍を防ぐ唯一の方法だと言う。私は10年後の自分の言葉を信用すべきだろうかと悩んでいる。
 私はさらに続けた。あなたは10年後の自分だと言うけれど、いや、そのことは真実なのだろうが、抗ウイルス薬を過去に持ち込んだら歴史が書き換わってしまうのではないか。60歳の彼は、それはその通りだと答えた。さらに、現在自分が経験していることは上書きされるともつけ足した。そのときに私がどこで何をしているか、どんな研究をしているのかも全くわからない、と。
 あなたは自分の経験が消えてしまってもいいと思ってるのか、と私は彼に尋ねた。
 彼は言った。10年後も、20年後の日本も、残念だけれど我々は幸せじゃない。だから昔はよかったと記憶を美化して追憶の糸を手繰っているわけだけれど、ノスタルジーに浸って生きることは立派なことではない。遠くから変わらない過去を見つめていても何も生み出さないし、何も変わりはしない。そして、こう続けた。逆にあなたは、あなたのいるその社会のままで時間が経過すればいいって、本当に思っているのか。
 もちろん、このままでいいなんて思っていない。彼が20年後の話をしたので、その先の未来もわかるのかときいてみた。
 実はこの私も10年後の私から依頼されたメッセンジャーに過ぎない。10年後の私から、やっぱり退屈な未来だと聞いたよ。
 あなたはただ自分の言葉を信じ、社会的な使命を自覚して、私の研究成果を渡してくれというわけだ。それが確実に30年前の世の中を変えるということは保障できないけれども。
 ああ、そうだ。ただし、渡すといっても、相手は過去の自分だ。彼ならやってくれると私は信じている。
 私は、そんな無理なことを言い出す男を冷静に観察していた。私は少し寂しそうに語る彼に、落ち着き払って言葉を投げかけた。あなたはどうして10年後の自分が言っていることを信じたのですか? 私からしたら20年後の私はどんなことを伝えてきたのです?
 彼は毅然と、確信を持って答えた。彼の、70歳の彼の妻は死んでしまったのです。私もあなたも家族を失うことになるのです、と。
 私は聞いてはいけないことを聞いてしまったと思った。彼の思考の渦が私の頭に流れ込んでくるようだった。このまま自分はさして研究所で評価もされず、窓際に追いやられ、20年が過ぎてしまうなんて本当だろうか? すっかり年老いた彼はそんな人生をやり直すために、過去を書き換えようとしている。本当なのか? 息子のみならず、妻も亡くなってしまったという。本当なのか? 今は、毎朝台所に立って卵とベーコンを焼き、妻と焼きたてのブラウントーストと熱いコーヒーの朝食をとり、ニュースに耳を傾け、窓外の百日紅の木に止まる小鳥の声を聞き、つまらない冗談を言い合ったり…そんな彼女がいなくなるというのか? 息子のみならず、彼女も私をおいていってしまうのか。
 私は、曇った表情でもう一度きいた。私の妻は、彼女はどうして死んでしまうのか。それは本当なのか?
 60歳の彼の頬は紅潮し、まるで死病に取り付かれたかのように、あえぎながら言った。だから、やり直さなければならない、と。
 私は思い出していた。子供を幼稚園に送っていくとき、水上バスの走る川にかかった橋を自転車で渡ったことを。川の流れは緩やかで、水面は朝日を照り返していた。カモメが橋の上に飛来するやぎゃあと鳴いてカラスや鳩を追い払い、私の妻はベランダに出て、私と子供の姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っている。
 研究所の前庭のベンチに腰掛けていた私は、体を起こして立ち上がった。その目からは涙がこぼれ落ち、赤く血走っていた。泣いているのか、と彼がきいたが、私はだまっていた。家族が心のより所だった50歳の私は、家族を顧みないで仕事に没頭していた10年前の自分を説得することに同意した。
 再びマトリョーシカの殻が上下で分割され、中から一回り小さいポッドが姿を現した。そして30年前の自分への接続が開始された。

 40歳の私は、毎日自分の好きなことに打ち込んでいた。平日はしばしば翌朝まで研究室に閉じこもっていたし、土日も実験結果が気になって感染研に顔を出した。時間さえあれば研究のことを考え、妻のことなど顧みず、自分のために時間を使っている日々が充実していたのだ。当時の私が人生で一番大切にしていたのは、お金では買えない時間だった。そんな私に50歳の彼は伝えたのだ。抗ウイルス薬を製造してパンデミックを防げば時間も金も手に入る、と。30年先の人間からメッセージを受け取るなんて信じられない!と、私は叫んだ。

 当時、私は肉食獣のように飢えていた。組織の中で揉まれ、それなりの狡さも身につけた。あとは足をすくわれないように慎重に、しかし研究は大胆に成果を挙げなければならない。メッセージを受け取った私は、言葉通りに意味を理解するほど素直ではなかった。30年後の私が不幸だなんて、信用していいのだろうか? 70歳になってすっかり年老いた彼は、欲望なんていうものはすっかり枯れ果てて、仕事の面白さを忘れ、若い自分から開発の動機を奪って過去に持ち去ろうとしているようだ。その目的はなんだろうか? 私は声に出した。
 10年後の自分よ、答えてほしい。なぜ、あなたは私から生きがいである研究を奪おうとするのか? 自分が研究を奪われたら、いったい何をして過ごしていけばいいのだろうか。
 50歳の彼は答えた。その研究はあなたの手を離れるわけじゃない。過去のあなたが研究を継続し、あなたはその成果の上にさらに新しい研究を積み上げることができる。あなたは10年という時間を手に入れることができるわけだ。
 そう言われた私は、心拍数があがり、手先がじんと熱くなるのを感じた。そして暖房の効いた研究室から出て、明るくて広々とした廊下を足早に歩き、南端の階段踊り場までやってきた。私の研究室は8階建てのビルの7階にある。天井から足元まで一面ガラスの踊り場からは、クレーンが立ち並ぶマンション建設現場と、その隣を走る電車の線路を見下ろすことができる。線路を滑る15両編成の電車を見下ろしていると、まるでジオラマを手にした子供のような気分になることがある。10年前の自分に話しかけることで、研究は飛躍的に進歩し、ひとつ上のステージに進むことができるときいたとたん、逸る心を抑えることができなくなった。時間も金も手に入るのか。私は、かつて時間よりお金に興味があった頃を振り返ることにした。
 再びマトリョーシカの殻が上下で分割され、中から一回り小さいポッドが姿を現した。そして40年前の自分への接続が開始された。

 私が30歳の頃、人生で一番大切なのはお金だった。20歳の自分にとって、一番は友達だったけれど、社会に出ると人間関係はすべて利害絡みで、友達などいないことに気づいたのだ。自分の可能性を広げてくれるのは、お金だった。
 そんな私の意識に、40歳の私が語りかけてきた。10年後の未来から来た自分自身だと名乗る男が、まだ確認されていない新型インフルエンザのワクチンと抗ウイルス薬のデータを送ってやるというのだ。私は話の内容を聞いて反吐が出た。
 私は研究所の屋上に駆け上がり、「それは素晴らしい!」と声を張り上げた。素晴らしい…当時の私は誰にでもそう言う。そういう時の私の顔はぎこちない作り笑顔で、誠実さのかけらもなかった。他人に言うならまだしも、相手が自分なのにそんな台詞を吐くなんて迂闊にもほどがある。こいつに頼むのは間違いかもしれないと、40歳の彼は思ったことだろう。私もまた、10年後の私のことを詐欺師だと感じていた。
 若い私は、こいつは信用できないタイプの人間だ…という第一印象を持った。脳の奥の方から聞こえてくるその声は、人生とか実績とか家族とか、生ぬるい同情を引くような言葉ばかり口にして、終身保険を売りつけにやってきた営業マンのようだった。最初にその声を聞いたときは、自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと焦ったのだが、その話は論理的で筋が通っており、未来との通信経路が確保されていることは間違いないようだった。しかし、それは確かに自分なのか? 仮に自分だったとして、未来の自分はマトモな精神状態でいるのか? 未来で利益を得るために、過去の私を陥れようとしている可能性はないのか? そうではないことを証明させることはできないのか? 未来の自分がどうなろうと構わないのではないか? 無視していれば、そのうち話しかけなくなるだろう。そのとき、私が失うものはあるのだろうか。
 私は言った。あなたは70歳になり、人生が終わることが確実になって、自分が死ぬ前に日本の没落を食い止めようと言って、過去の自分たちを巻き込むことにした。環境が変われば、苦難の人生も好転するかもしれない。それであなたはこの時代まで伝言しにやってきた。世代を遡りながら、それぞれの私が考えていることを予想しながら説得し、ついに私のところにまでやってきた。今も、あなたの意識を頭の奥深くに感じることができる。その意識はまるで曇ったガラス窓についた水滴のように、一滴づつ落ちてきて、私の耳に言葉が伝わってくる。でも私はあなたの言うことは100%正しいとは思わない。あなたは日本を救うために過去を変えたいんじゃなくて、自分の人生が終わろうとしているから、生き直したいだけなんじゃないか?

 マトリョーシカの内核にいた70歳の私は大きく目を見開いた。同時に内核を覆う4層の殻がガタガタと軋み始め、スタッフの動きが慌しくなった。このまま振動が収まらなければ部品破損につながる危険があり、実験を中止しなければならないかもしれない。

 40歳の私は、それは協力できないということか、ときいた。
 本当の目的は何なのか知りたいということだ。
 目的はひとつじゃない。こうして話しかけている私は、10年後、20年後、30年後の自分になり代わって喋っている。時間とともに、生きる目的なんて変わってくるものだ。私は違うが、あなたの目的は金だろう?
 その通り。突然神からの啓示があって、世界を救えって言われても、そんな与太話は信用できない。私には今しかない。昨日も明日もあるけれど、それは今の影のようなもので、はっきりしないし当てにもならない。ただし、こっちにメリットがあるなら別だ。
 メリットならある。その抗ウイルス薬エンダミビルの特許を自分の名前で申請すればいい。特許は数千億円の価値がある。
 30歳の私は屋上広告板の足場にもたれかかっていた。所詮人生なんて博打みたいなものだ。成功するも失敗するも結果は偶然の産物で、いくら思慮深く行動しても将来への影響は限定的だ。数千億円の価値に比べれば、将来どうなろうとオレの知ったことじゃない。私は言った。その申し出を受け入れよう、と。
 ありがとう。40歳の私はそう言って、さらに続けた。目的は金だと言ったな。あなたは道路のマンホールに落ちた子供を救えば英雄だ。だが子供が落ちる前にマンホールを蓋で塞いだら、誰にも知られることはない。ある程度流行が始まってから対策を実施することで、とてつもない大富豪になれる。
 つまり初期の患者たちを見殺しにしろと?
 そうだ。10年前、私はあの惨状を目の当たりにした。日本中のすべての都市が機能を停止し、死んでしまったようだった。街のあちこちには自動車が捨て置かれ、にぎやかだった通りからも人の姿は消えてしまった。人々は家に籠もって、息を殺して嵐の通り過ぎるのを待っていた。見えない敵はどこからともなく忍び寄り、ひとりまたひとりと身内を殺していった。どこからも助けは来なかった。あの恐怖を経験しなくなったら、人々は我々の仕事の意義を今ほど認めないだろう。
 あなたは、いや、あなたは10年後の私なんだろうが、どこまでも自分勝手な男だな。私は自分の名誉のために研究しているわけじゃない。もちろん金は大事だが、俺は金のために研究してるわけでもない。研究するために金が大事なんだ。
 あなたは経験を積んでないからまだわからないのだ。若さは愚かさでもある。私の話を聞いたほうがいい。

 結局、30歳の私は甘言に耳を貸さなかった。早急にワクチンと薬剤を製造し、新型インフルエンザによる死者を0に抑え込んだ。彼は人が落ちる前に、マンホールの蓋を塞いだのだ。

 私の乗ったマトリョーシカの殻が一層づつ順に内核を包み込んだ。ばらばらになった記憶がしまい込まれるように、回想が巻き戻り、60歳の私の使命は達成された。パンデミックはもともと存在しないものとなり、彼は英雄として迎えられることも、祝福されることもなかった。過去の思い出は霧のように霞み、自分がどうやって日本を救ったのかも忘れようとしていた。意識が朦朧とする中で、過去の自分が見事に目的を達成できた満足感に浸り、自分の人生を回想した。10年前の自分は暖かい家族とともに暮らしているだろうか。20年前の自分はさらに先進的な研究に着手できただろうか。そして私は十分な実績を評価されるだろうか。
 過去から波のように押し寄せる記憶が、現在を追い越していく。60歳の私は会議室の扉の取っ手を握って押し開けた。国立感染症研究所の54階建ての新棟の最上階にある会議室は高い天井からシャンデリアが下がり、著名な洋画家が陽光に照らされたスペインを舞台にして描いた油絵シリーズが壁面を飾っている。室内には40人ほどの各部門の責任者が一同に介している。彼は思案顔で会議テーブルの中央の席に着いた。ソファーの革は滑らかで、磨かれたテーブルの上にはウェッジウッドのカップに注がれたコーヒーが運ばれてくる。このコーヒーも、会議室の横に作られた小さな厨房で、サイフォンの蒸気圧を使って抽出されたものだ。サイフォンのガラスボールは国立感染症研究所を示すNIIDのロゴ入りだ。人生で一番大切なのは自分の存在価値を示す実績であり、それが認められて政治力も備わった彼は、今や日本の公衆衛生を担っているという自負がある。現在の日本は、経済規模でも世界4位に位置する成熟した先進国として、各分野でリーダーシップを発揮している。彼自身も昨年、国際学会の会長に就任したばかりだ。

 70歳の私はマトリョーシカからゆっくりと外に出た。私の記憶も大きく書き換わったらしく、日本を救った誇らしい経験は覚えていない。私には2人の息子がいて、それぞれ独立して自分たちの人生を歩みはじめている。妻とふたりだけになった家は寂しいが、充実した子育ての日々は、無くなることのない美しい思い出となって人生を彩っている。私は思い出す。これらもずっと思い出して幸せを感じ続ける。
 私は今、川沿いに立つ病院のベッドで天井の木目の数を数えている。担当医の話では、もうあまり長くないらしい。他人はわたしを幸せな人生だったと言う。だがこの人生が、本当に私の望んだものだったのだろうか。いやきっと、もっと波乱に富んだ一生があったはずだ。
 だからこの世に別れを告げることにした。

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