梗 概
外から失礼します
いつものRなら死ぬ前に、次に生まれるにふさわしい場所を選べたはずだ。もう何度も生まれ変わりだったのだから。けれど、今回は選択肢が無かった。
Rは涼子と名乗っていた生の終わりを、気づけなかった。体内の管の小さな粒は脳に酸素を送らせず、意識を失うまでは一分足らずだったから、一番近くにいた妊婦の中に飛び込むことにした。先客の胎児は別世界に送った。Rは今生では礼文として生まれた。
前世では何人かの仲間もいて、互いに助け合って来た。できることはわずかな電子的移送能力だけだが、人間の中に紛れてうまく生きることがRたちの至上任務だ。
けれど今生のRは失敗した。環境が悪すぎた。
両親が自分に与えるものは気に入らなかったから、礼文は両親の運命に干渉し、恵まれない環境を改善することに力を傾けた。仲間も頼った。生後半年の乳児が電話を掛けるのは大変だった。
両親に新たな職を与え、更に大金を与えた。数字選択式の宝くじ二回当選は、やりすぎだったかも知れない。一度目は自分の誕生日を当選させたが一週ずれ、当選額が少なすぎた。二度目は洗濯機にこっそり知育玩具を入れた。凹凸が組み合わさる玩具が自然に噛み合って数列に見える塊を作った。母はその数字をくじに記して当選したが、礼文を恐怖の目で見るようになった。
親との関係が悪くなり、住む場所はマンションの最上階となり、礼文はつまらなかった。隠れてできることが少なすぎた。
乳児から幼児となり、祖父母が訪ねて来た日、礼文は怯えた。老人になるまで生きたことなど無かったから。老人の背後には膨大な可能性がついえ、前方には死だけがあるように見えて何も干渉できないと思えた。しかし祖父母はお構いなしに礼文を公園に連れて行く。
公園の子供たちは礼文の異質を見抜き悪意を向ける。子供の意識は不安定で正確に干渉することが難しく、礼文は追い立てられるように遊具から離れる。茸が道を作っているのに気づく。奥の木立まで茸を追うと終点は輪になって真ん中に子供がいる。仲間だった。
仲間は自分の欲望を追求できない環境なら親を取り替えろと言う。新しい親の手配は簡単だし、今の親は息子を助けるために死ぬのだから幸福だろうと。ためらう礼文は、育ちが悪すぎて決断できないのだと言われる。
ベンチに座る祖父母の元に戻る。二人は公園中のどの幼児よりも生命力が弱い。しかし公園中のどんな恋人たちよりも自然に寄り添っている。
普通の子供の演技をしてやろうと思う。
「おじいちゃんは、子供の頃、なんになりたかった」「運転手さんだな」
「おばあちゃんは」「宇宙飛行士」「ああおじいちゃんもそれだ」
礼文は祖父母が望んだ通りに生きていないこと、それなのに自分の過去に絶望していないことに驚愕する。欲望を実現する以外に生命には何か意味があるのだろうか。
家に帰る途中、自動販売機でジュースを買ってもらうと、販売機の電子掲示板に「人生は一度だけ? いいえ何度でも、お好きな味を好きなだけ選んで」と文字が流れる。仲間の悪戯だ。
家では両親が泣いている。異常な子を育てる辛さに打ちのめされている。
宅配便で絵本が届く。中に仲間から送られた毒薬が入っている。「お好きな味を選んで」というカードと共に。使いたくないと礼文は思う。
でも明日には、違う親を選ぶかも知れない。親を死なせることと、自分が死ぬとしたらどんな死に方がいいかを考える。地球外に行ったら自分の移送能力は無効だろうなと。
今日だけでも普通の子供の演技をしてやろうと礼文は思う。まず今日だけは。そして明日も続けば。もしそれがずっと続けば。
その晩、街中の電飾が「Rは老人になりたい」と文字を流した。
文字数:1518
内容に関するアピール
20代で子持ちの未亡人になった従姉妹は、子供を寝かしつけた後にコージーミステリを一冊読まないと眠れないのだと言いました。私はそれを聞いて、(自分の辛さから逃れるために、自分と違う物語が必要なのだ)と思いました。人の内心を勝手に決めつけるのは無礼だし全く見当違いかもしれません。私は長年SFファンですが、SFを現実逃避のための読み物だと決めつけられたらかなり嫌だろうと思います(極上の現実逃避でありえるとしても)。ただ、人には切実に物語が必要な局面があるのだと思うのです。
SFに触れたことはあるけれど「SFを必要としてこなかった人」はたくさんいます。けれどそんな人たちが、大人になってから初めて物語を必要としたり、SFに感応することはあります。特に子育て中の大人は、子供の本や映画に付き合うことで、新鮮な驚きを得ているように思います。平凡な日々の生活を重ねる大人にとってSFは「子供を取り戻す試み」でもあるように思えるのです。
今回私は、家族の(心温まるお話ではなく)恐怖譚を書きます。大人にとって恐怖の娯楽となる話を企図しました。乳児が意思伝達する方法など、不気味に滑稽に書いてみたい。そして、書ける限り命への問いかけまで書きたいです。
文字数:518
外から失礼します
1
アザラシが一頭、岩に寝転がって体の斑を見せている。いかにも海獣らしく紡錘形に膨れる胴体は白っぽいまだらで、それと不釣り合いなほど小さい目鼻や前肢は黒っぽい沈んだ色合いだ。海沿いの木道から波間を眺め渡したRは、アザラシの顔は濡れた岩そっくりの色だと思い、それから気づいた。
海豹は一頭だけでは無かった。その周りに何頭もいる。岩礁に全身を乗せている一頭を囲んで、いくつもの鼻面が海面につき出ている。濡れた岩と同じ色だから見過ごしていたのだ。目に入れていた物を全く見落としていた。
その、“自分が間違っていた”という感覚は久しぶりで、Rは慰められた。Rの体はいつも若いけれど、記憶は過去五回の人生分持っている。一度きりの人生を生きて老い果てる人間らとばかり関わっていると、自分は何でも知っていて、大抵のことはできる気になってしまう。自分が知らないことは無限にあるのだという驚きの感覚はRに生気を与えた。
驚きは欲望を喚起する。欲望は生きる糧だ。
「来て良かった」
風の音に波音が混じって、けれど群れる海獣たちは何の音も立てない。波間にただのんびりと存在している動物。Rに向けて感情や思考のざわめきを語りかけないから、何も遮断しないで済む生き物。Rは、海豹が好きになった。
人間があれほど集まっていたら、気配を感じないことなどありえないだろう。
「あんなにいるのに、なぜ気配を感じないんだろうね」
Rは隣に立つ梨恵に声を掛けた。梨恵は咥えた紙巻き煙草を指に持ち替え、
「周波数が違うのじゃないかな。人間とは」
そう答える唇から白煙が流れた。
周波数。昔の言い回しを使っていることにRは安らぎを感じた。それは電気というものを人間が発見し世に広めてから、仲間たちが好んで使った言葉だった。前世紀までのRは、生命エネルギーは雷だと信じ、自分たちは電気を司る存在なのだと信じていた。人間の生命電気を受信して聞き取り、自分の生命電気を発信して人間の心を動かし、自分の心をそっくり新しい人間に流し込んで生き続ける。それが自分たちの力だと、仲間の誰もが信じた。
Rより長く生きている仲間たちは、“妖精の取り替え子”と呼ばれていた記憶を持っている。けれど人間に付けられたその呼び名を仲間たちはみな嫌っていたから、自分たちは人間ラジオなのだとよく言い合ったものだ。
今再び仲間たちは、自分たちが何なのかわからなくなり、その不確定さが嫌だから、否定された昔の言葉を使いたくなるのだろう。
Rが幾分冷やかすような笑いを浮かべたから、梨恵は横柄に応じた。
「この頃はさ、『私たちには受容体があるのです』って言うのは知ってるよ。言ってるのは利一郎だっけ? 説明を聞いたけど、周波数の言い換えにしか聞こえなかった」
「ふふ。『私たちは人間の存在そのものを刺激として受け取り、その情報を利用できるように変換する受容体を持っているのです』って?」
「そう。そんなこと聞かされても、何の役にも ――― まあ製薬会社に投資したけどね」
自分たちが何か、わかったところで梨恵もRも生き方を変えるわけでは無い。
Rの仲間たちはみな享楽的だ。生まれる前に選びに選んだ体を惜しげもなく楽しみに依存させる。煙草どころではない嗜好品の数々で体が病み衰えることを恐れない。それはRたちの本性の反映だった。
欲望にためらわないこと。
体の衰えを感じる頃には、次の人生に移ればいいのだから。
仲間たちの多くは、大富豪の一員や賞賛される芸術家の経験をしている。派手に羨望される人生を。
二人も以前に夭折した芸術家の典型をなぞるような一生を送った。天才画家は満州で行方不明になったし、演奏会の度に失神者を出したピアニストは作曲家への転身を成功させた途端に悲劇の事故死を遂げた。Rたちは近くにいる人間の感情や思考を、不完全にせよ誘導できるし、人間たちが求めているものがわかる。それを原料にして生産した「芸術作品」はその時々で大成功を収めたが、今では顧みられることは無かった。人間に求められるものを差し出し続けることで熱狂され崇拝さえ受けたが、それは人間の欲望の鏡であったに過ぎなかった。多分二人は創造ではなく、新奇な模倣をしたのだろう。ほかの仲間たちも度々「時代と寝た」と言われる生涯を送り、失敗して追い詰められた時点でその生涯を終えていた。
今の人生で、二人はひっそりと世の中を観察している。二人ともあと十年は今の体で生きるつもりだった。申し分ない体だし、資産形成は成功しているのだから、当分捨てる必要は無い。昨今は大人になるまで時間がかかりすぎるから。楽しんで生きられる年月は大切にしなければ。もっともその程度のことで、一つの人生に執着する仲間はいなかった。
梨恵は旅行代理店の大株主で、二人は優待旅行中だった。昔はできるだけ同じ場所にいないと仲間と連絡が取れなくなってしまったから、遠出はしなかったものだ。その習慣は残っていて、簡単にコンタクトが取れる今でも仲間の大半は住居を変えたがらない。世界中を飛び回る梨恵の趣味は珍しいもので、Rは誘われて、一年で一番不快な六月に旅することにしたのだ。
「一人旅だとトラブルを起こす男がよって来るから、君と夫婦か恋人に見えるとありがたいわけ」
梨恵はわざと軽率な言葉遣いをする。現代風に見られたいのだろうが、金のかかった見た目に反して雑な言葉遣いは、梨恵を遊び好きな資産家の娘に見せた。よくつまらない男に言い寄られるのだというが当然だろう。Rは男女どちらの性別も経験したけれど、性別と資産額は人生を左右する大きなファクターだった。
(梨恵は軽率だ)いくらでもやり直せるとしても、楽しむためには慎重さも必要だ。Rはそう思っていたが、旅に出る程度の選択は気軽にできた。
訪れた日本最北端の島の六月は、冬を終え春も梅雨も飛ばして一足飛びに夏で、起伏の多い土地に見知らぬ花々が広がっていた。
二人はしばらく海豹を見届け、それから木道を歩き出した。すれ違った二人連れは、Rたちを振り返った。
「テレビカメラ無いよね?」その声はRにも聞こえた。悪意ではない、聴かせるつもりのない不遠慮な嘆声だった。
その後Rたちは遠ざかって聞かなかったけれど、こんな会話が続いた。
「芸能人がロケやってるかと思った?」
「うん。美男美女って、あーゆーんだねー、全然人間が違う感じ」
「まあ、金持ちそうだったもんな。あっちも夫婦か?」
「うんきっと。でもさ、恋人とか新婚じゃなくて、なんか冷めてるっぽい」
そんな会話だった。
隙無い身仕舞いの男と、髪も服も派手なのに水商売には見えない女は、かろうじて夫婦に見えたかもしれないが、恋人とは見えなかったのだ。二人の歩く距離は恋人にしては離れすぎ、視線が絡むこともなかったから。
草花の斜面を縫う木道は、冷ややかな風が草の匂いを運んで来る。やがてRは、青草の匂いに重なって焦げ臭い匂いが鼻を突くと感じるようになった。
この時焦げていたのは草原では無かった。外では無かった。炎と不完全燃焼はRの体内から発した信号だった。けれどRは気付くことができなかった。
やがてRは少し疲れたなと思い、そしていきなり疲労がつのった。そんなに体力が衰えていたのだろうか、梨恵は全く速度が落ちず前を行くのに。Rはまだ気づかず、こめかみにはざわざわと悪感の前兆が集まった。
立ち止まり、柵に手を掛け、やがてその場にくずおれた。
Rは用心深い自分より軽率な梨恵の肉体の方が早く衰えるだろうと思っていた。けれどここで、Rは今生を終えることになった。
血管の中の小さな粒が、脳への血流を止めたのだ。
その肉体に残された時間は僅かだったから、Rは本当の死、一回きりの死を経験したかもしれない。経験と同時に消え失せたことだろう。けれどRの用心深さが幸いした。
Rは意識を失うに任せず、わずかな時間で新しい身体を探した。気力が弱まって自分を移せる範囲は狭まり、この島にいる人間にしか届きそうになかった。見つかった人間は凡庸過ぎたけれど、Rはためらわなかった。
妊娠時期を選べなかったから、今回の体はもう意識を持っていた。(ごめんね。)Rはそれを蹴飛ばして胎児の体に入った。すっぽりと。
外からいきなりの侵入者に蹴飛ばされた心は、誰も知らないどこかへ。
それからゆっくり、Rは新しい体と接続した。すぐに産まれてもいいくらい発達していたから、操作できることは少しだけだった。神経との同期が滑らかであることを優先させて少しずつ動作確認し、最終調整を済ませた。そして最後に、自分が自分の種族である印を体内から母体に送信して、――――切り離した。
この世に産まれたということだ。
2
Rの新しい名前は笹原礼文になった。礼文島はRの意識が胎児に宿った場所で、両親にとっても思い出の場所だったというわけだ
母の笹原翔子は、妊娠後期に入った時点で旅行を思い立った。安定期の今行かなければ、出産後は何年も旅行を楽しめないだろうと思ったのだ。梅雨入りの時期だったから、日本最北端の島を行き先に選んだ。さわやかな気候の島なら一層旅を贅沢に感じるだろう。
無邪気なほど簡単に翔子は旅行を決め、それから夫に伝えた。
夫の笹原翼は妻の急病や出産を心配して有給を取っておきたかったのだが、妻の言いなりになった。できないことではなかったから。そして正直なところ、妻の肉体変化が急すぎて畏怖を感じていたから。人間を一人増やすのだから、想像もつかない変化があるのは当然だと翼は自分を納得させようとしていた。
結婚前から楽しんで来た女の体が、予想もしない膨張や変色をし続けていた。覚悟していた腹部だけでも驚愕の変化だった。風船のように膨れた腹は、皮膚にひび割れた縞模様が入り ――― 色彩は違うがスイカの皮そっくりだった―――、臍が日に日に飛び出して果実のヘタそっくりに突き出した。それが胎動とともに内側からぐるぐると動くのである。翔子の体が破壊されてしまうような心細さを、翼は誰にも言えなかった。妻にも子供にもどうしてやりたいのかわからなくなり、妻の望む通りにしてやればいいと思うようになっていた。出産前、妻に反対したのはただ一つ、子供の名前だけだった。
翼は地方の、更に田舎びた街で育った。そこの住人は二種類に分かれていた。同い年の者たちは育つにつれ、次々とその二種に振り分けられ、たとえ友人であろうとも気が付くと別の種類の人間になって行く。その二種類は定義できないのに、逃れようなく強固な隔たりで、それは善人悪人といった区分けでは無かった。多分、軽率な刹那の楽しみに生きる人間と、将来のために生きる人間。その中で自分は物堅い選択をし続けて来たと翼は思っていた。未来を見ない人間は年を取るほどに未来から見捨てられて行く。一生を視野に入れて、人生の後半に不安を持たない生き方をしたかった。翼は三十歳までにまずまずの仕事を得て、気の合う女と結婚し、今は子供を持とうとしている。穏当な人生だ。翼という名前が小心翼翼の意であるとしても、当人に不満はなかった。
しかし翼は自分と妻の名を会社で笑われたのだった。翼と翔子。「ヤンキーっぽいよね」そう笑われてショックだった。自分が避けてきたもう一方の側の人間だと言われたようで、翼は足元を掬われるような思いがした。
妻は子供に奇抜な名を付けたがるのではないか? 人から笑われるような名を。予感は的中し、妻は飛翔と書いてショーンと提案し、寿羽里安と書いてジュリアンなどと言った。
自分の息子がジュリアン? それは翼の想像範囲を超えていたから、妻が次々と提案する名に賛同できず、日は過ぎた。
出産予定日が迫った日、いきなり翔子が言った。
「レイモンて、どうかしら」
「何? 何のこと?」それを人名とも思えなかった。
「この子の名前。礼文島の礼と文で、レイモンにしたい」
翼は思った。文字は普通だ。普通の人名に見えるだろう。
「それなら、さ」翼は言った。
「字はそのままで、ノリフミってどう?」
「ヤダ。レイモンとかリチャードとかリョージとかがいい。ねえ、」
最後の呼びかけは自分の腹に対してだった。表情には恍惚感があった。
リョウジだけ違うと翼は思い、しかし口にはせず、翔子の腹に手を当てた。なぜその時そうしたのか自分でもわからず、しかし自分の仕草が完全に受け入れられているのを感じた。
腹に耳を寄せた。腹は柔らかくは無い。空気を入れたてのボールのように固く張っている。
すっかり馴染んだはずの妻の体が、今では見知らぬ慣れない物体と感じられる。女の体に触れているのに一切の性的興奮は無い。けれど。
けれどその一切を愛しているのだと思えた。
もうすぐ出勤する慌ただしい時間なのに、特別なことなど何も無い時間なのに、この時の記憶を自分は一生忘れないだろう。
「レイモンがいいんだね」声は自分でも穏やかに思われた。
「うん。レイモン」
「じいさんになったら変かな」
「つばさお父さんもつばさおじいさんになるでしょう」
「うん」
それで決まった。父と母になる人間の脳梁には幸福感を刺激する電流が流れ、オキシトシンレベルは高まっていた。
それはRの仕業だった。Rが懐胎されているのはこの日が最後だったから、母体と自分を切り離す仕上げに、自分の名前を自分に贈ったのだ。Rは胎児ながらわずかな電流だけは操れたから、父が体に触れてくれたのは幸いだった
この時、胎児が二人の感情を操っていたと知ったら当人たちはどう思っただろう? 多分全くかまわなかった。子供に幸福を贈られるのは当然のことだった。
それがどんな子であろうと。
ひと時の幸福の記憶が一生を貫くことがある。
記憶だけは残る。
けれどその幸福そのものは消えてしまう。必ず。
3
R≒礼文は生まれ、それから数ヶ月耐えた。好きなだけ食べ、眠り、体を鍛えた。体は新しい世界を見聞するための新しい窓で、礼文はあらゆる刺激を楽しめ。泣くことさえ大抵は面白かった。新しい体の能力を実験する楽しさで、耐えた。
今回の親は礼文の基準では余りにも貧しかったから、礼文は贈り物を与えた。
生後四ヶ月だった。それまではいくら体を動かそうにも首一つ持ち上げることさえ難しかったのが、寝返りできるようになった。親たちは昼夜なく授乳や排泄の世話に追われて、憔悴しきっている。
その日、礼文は哺乳瓶をくわえながら眠ったふりをした。母も気を失うように寝入った。礼文は母に抱かれたまま安心の信号を送り、腕の外へ寝返りを打った。
六kgの身体を制御するだけで精一杯の礼文は、まだ直接触れ合っている人間にしか干渉できなかった。母に伝えた安堵が、どれほどの時間母を眠らせてくれるかは、何度か試してあった。
多分三十分は保つだろう。離れていられるのはその時間だけだ。
寝返りして、腕に力を込めても前には進めない。うつ伏せに膝を折り、ずるずると後ろに這った。頭が重すぎて持ち上げ続けられず、額を床にこすりつけながら、這った。
電話の場所までたどり着き、電話がかなり低い場所にあることに感謝した。
記憶している番号を押すのに、三回やり直した。新生児の目はひどい近眼で、自分の指を操るのも難しいのだ。
受話器は転がしたままで発信音を聞く間、久しぶりにじれったかった。
「はい、3690です」
中年男性の声。利一郎だ。この仲間は自分たちの存在を究明したいという情熱に駆られていて、自身の老化も気にせずこの何十年か、仲間たちの中継ステーションを務めていた。
「あー。あーゆ。」
発声練習も欠かさなかったが、声帯も思うようにはならない。
「もう少し話せますか」
声が緊張を帯びた。
「あーゆ、もーどーたー」
「Rが戻った? そうなら一回アー、違うなら二回アーアーしてごらん」
いたずらっぽい、からかいを含んだ声になった。
「あー」
「うん。赤ちゃんにしては優秀だね。その発達段階では六月にリセットした、遼治君だね」
「あー」
利一郎は楽しそうに、芝居口調で話した。仲間はみな享楽的なのだ。Rは、リョージという今は去っていった名前を懐かしんだ。
「じゃ、電話番号から君の住所がわかった。君は自分がどこにいるか知ってる?」
「あーあー」
父の会社は知っているが、家はどこにあるか会話に出ることが無かった。家庭内で自分の住所を話題にする機会は少ないのだ。
「じゃ、教えるよ、」
そうしてRが訪れたことのない郊外の地名を言った。
「不意の事故だったから、仲間は気にかけている。梨恵君が後始末はしてくれた。まだ連絡してないよな」
「あー」
「ま、他のみんなにも言っておく。それから、君が必要な物は何かな、」
その後の数分で、Rは現在不自由なく成長していることを伝えられたし、親に資産を与える相談までできた。なにしろ住所だけで仲間に同情される経済状態だとみなされたから。
Rは利一郎と打ち合わせ、一週間以内に計画を遂行することになった。仲間の所有する財団を使う方法だ。
そして通話を切ってから、Rは困難に直面した。
受話器を戻せなかったのだ。外す時はただ転がせば良かったが、戻すには掴んで持ち上げる動作が必要で、生後4ヶ月の指にも腕にもその力は無かった。顎も試したが涎をつけただけだった。両足で挟むことはできそうだが高さが足りない。無理だ。
しかもRの体力は尽きかけていた。
受話器をそのままにしてこの場に転がっていたら?
電話を掛けたとは思われないだろう。乳児が動いただけだと思われる。けれどここまで動けると知られては、閉じ込められるのではないか? それは嫌だった。
受話器だけが偶然外れて気付かなかったということはありえないだろう。とすればRにできるのは次善の策だった。
まず近くのソファからクッションを引き落とし、受話器の、垂れ下がるコードを腕に掛けた。ほとんど頭を持ち上げることができない体で、これは大事業だった。
あとじさった。
クッションの上に受話器は落ち、微かな音を立てた。
この音は次の間の母親に聞こえただろうか? Rはうつ伏せて、しばらくじっとしていた。
何も起こらなかった。母は寝入っている。
うつ伏せて後ろに進もうとして、もうできないとわかった。力が入らない。息さえ苦しい。額を床にこすりつけ、生後四ヶ月の乳児は大きく喘いだ。
そして肺を開くために、最後の力で仰向けになった。
ここまでやったのに、ばれてしまう。自分が動けると知れたら、サークルやベビーベッドに閉じ込められるだろう。
Rは息を整えた。
寝床から電話まで数分、電話に十分足らず、そして息が落ち着くまでせいぜい二分が過ぎたか。母が覚醒するまで残り時間はどれほどだろう。
世の中の人間たちは、赤ん坊がただ受動的に生きていると思っている。けれどRは知っていた。何度も生まれ変わりその度に記憶は薄れて行ったけれど、新生児がどれほど能動的に世界に立ち向かっているか、Rは知っていた。
自分を圧倒する巨大な乳房に吸い付き吸引する時の、世界を征服するような高揚感。大人は乳を与えていると思うだろうが、それは欲望を満たす歓びの努力なのだ。
Rは仰向けのまま、背中と足に力を入れた。動いた。体が進んだ。後頭部を床にこすりつけ、肩を波打たせ、わずかな背筋と足の力を使って、Rは進んだ。
往路の何倍も時間をかけて、復路を進んだ。そして、母の眠る隣までたどり着くことができた。やり遂げた満足がRの身内を満たした。
翔子が目を覚ますと、礼文は布団の外に飛び出して寝息を立てていた。汗の浮いた額はうつぶせに寝ていたらしく赤くなっている。
(やっと寝返りできるだけなのに、礼文は元気)
友人たちの子育てを聞く限り、礼文は望みうる限りの良い子だった。よく寝て、よく飲んで、あまり泣かない。翔子は礼文に笑いかけてやれるのが幸運なことだと知っていた。子持ちの友人たちが新生児の愚痴を始めたら恐ろしいことになるのだから。子供の夜泣きに、皮膚病に、体重が増えないことに、母親たちは責めたてられ子供を可愛いと思えないと泣き出すことさえ度々だった。
(それでいてみんな、親の気持ちがやっとわかったって必ず言うんだ) 翔子はそれが不思議だった。
親と苦労を共有するために言うならともかく、自分は友人なのだから嘘を言う必要は無いだろう。それなのに子供に傷つけられて初めて親の気持ちがわかったと必ず言うのだ。その言葉を聞くたびに(親になんかなるものじゃないのかな) そう思った。もう自分は親だけれど。
(確かに親はたいへん。何も気が回らなくなっちゃう)
電話が台から落ちていた。服の裾にでも引っ掛けて気付かなかったのだろう。このところ子供に気を取られてうっかり続きだ。
それから二ヶ月、Rは移動できない振りをした。けれど額は擦りむいてかさぶたができ、後頭部は完全に禿げた。ドーナツ枕にしたのにと両親は語り合い、外出には必ず帽子をかぶせた。
電話の翌日、礼文は作戦を開始した。翔子は礼文を連れて日用品を買いに出かけ、なぜか普段通らない経路にベビーカーを押して進み、なぜか今まで気にも止めなかった宝くじ売り場の前で止まり、なぜか買ったこともない籤を手にした。幾つかの数字を塗りつぶして窓口に出す籤で、これは当然礼文の生年月日を塗った。
買い物帰りには親切な中年男性に助けられた。
「お持ちしましょう。お車ですか?」
自然なタイミングだったから、翔子は「ありがとうございます」と警戒せずに答えた。
「お子さんのお名前は? ―― ああ、レイモン君ね ―― レイモン君、アーしてごらん」荷物を抱えて、そんなことを言った。
(赤ん坊を知らないんだな、まだ答えられるはずない)翔子は思った。
「あー」
礼文は答えた。自分を覗き込む利一郎に。
「え、わかったみたい」翔子は驚いた。
「わかってるんですよ。レイモン君は何でもわかってるよね。何か助けて欲しいことあるかな?」
利一郎は目尻に笑い皺を浮かべて、けれど幾分かからかうように話しかけた。
「あーあー」大丈夫。礼文は任務を果たした。母に指定通りの籤を買わせた。
「いい子ですね」
「ええ、ありがとうございます。いつも機嫌がいい子なの」
翔子は初対面の男に礼文の自慢をした。相手の調子に乗せられたのだろう。
車のトランクに荷物を載せ、男は手を振って去った。終始ほがらかだった。
このあたりには珍しいほどおしゃれだったなと翔子は思った。髪と髭と皮膚が、丹念にグルーミングされていることがわかった。服と靴も高そうで、それを楽しんで身につけている様子だった。
きっとお金持ちだから自分を楽しんでいて、そんな人は親切なんだと翔子は思った。
それについては当たっていた。
その宝くじの財団は、実質仲間たちのものだ。ほとんどの仲間たちは資産家の家に生まれるけれど、金持ちでい続けられないこともある。礼文のような緊急事態の可能性も必ずある。
信じられないような幸運を仕組むのは簡単で、なにしろ籤の当選番号を決めるのは簡単な電気じかけの機械なのだ。仲間なら誰でも操れた。
仲間の協力で、翔子は夫婦二人の生涯賃金に相当する当選金を得た。もっと時間をかければ当選金を積み上げることもできたが、平凡な人間には十分な額だ。
家族の生活は変わった。
翔子の育ってきた街は、翼と同じく郊外の住宅地ということになるのだろうが、町並みは勝手が違う。そこは通りを挟んで二種類の住居がある。片方はゆったりとした戸建てが並び、片方には集合住宅が何棟か。双方の子供たちは随分違った環境で育ち、幼い頃は同じ学校に通い、育つにつれて違う学校や違う場所に振り分けられる。
翔子は団地の子供であることに不満は無かった。むしろ高校に進むと団地の子供がほとんどいないことに内心誇りを感じた。親が金に明かしたのではなく自分の努力で難関校に入ったと感じられたから。屈折した誇りだった。
高校の同級生にはおそろしく浪費する者がいて驚かされることがあった。校内で履く指定上履きがいつも綺麗だからこまめに洗っているのかと尋ねたところ、「洗ったりしないよ?」驚いた口調が返って来た。洗うのではなく、こまめに捨てて買い換えていたのだ。制服も体操着もそうだった。
そんなクラスメイトとも高校時代は仲良くできたことは、翔子にとって宝物のような記憶だった。
けれど今、
「翔子は本当に運がいいね」
目の前でそう言うのは、かつての同級生だった。「子供が生まれたんだって? 会いたい」目立つリーダー格だった子だけれど、特別仲が良かったわけでもないから卒業以来顔も見ていない相手だ。子持ちになったということは特別で、互いの子供を見せ合おうとする者は今までもいたから、翔子は同意した。高校時代の記憶がそうさせたのだ。
「羨ましいなあ、レイモン君はかわいいし」
その言葉はひねくれた妬みではなくただ祝福の声色だったけれど、
「みんな、そう言う。」
翔子は視線を外した。みんなに言われすぎて平常心で聞けないのだ。その通りだから。自分には運しかないように思うから。
籤が当たったことは誰にも言わなかったけれど、半年も経たずに、その噂は広まっていた。もう引っ越すしかないと夫婦で語っている。
「翔子、普段の行いがいいんだよ」
親切で言い添えたのだとわかる。でも取ってつけたような、うわすべりな言葉だ。
高校時代はもう帰って来ないんだと翔子は思う。今も自分の宝物だけれど、もう戻ってくることは無い記憶。
「でね、この服なんだけど、気に入ったら試着してくれない? アタシ、子供服のネットブランド立ち上げたとこなの」
懐かしい話がしたいからとか、母になった同級生の、その子を見たいというのでは無かった。商売だったのだ。いきなり労せず金持ちになった知り合いなら、金を払わせても罪悪感がないのだろうかと翔子は勘ぐってしまう。単に金持ちになって暇そうな翔子に売り込みに来ただけだろうけれど。
礼文は「0才からの知育おもちゃ」をふりまわして遊んでいる。礼文でも握れるほどの数字の書かれたブロックがスナップボタンで連結できるものだが、まだ礼文はくっつけることはできない。ただかじったり振り回したりして偶然に外せるだけだ。
機嫌よく遊んでいる礼文をあやしながら、翔子は子供服を試着させた。そして、相手の望みは服を一着売るよりもっと大きいのだと知らされた。
現在は無店舗だがショールームを兼ねた店を持ちたい。一部でもいいから出資者になって、できればオーナーになってくれないか。そんな虫のいい願いを、けれど懸命に語られた。
この子は高校時代顔が広かったから、きっと同級生の子持ちの子が次々やって来て楽しいかもと思いながら、でもあの頃の関係は失われたのだと思った。失われたということだけが予想通りだと。
着替えをさせたから、高校時代の更衣室を思い出した。
「高校の、更衣室って楽しかったな」
翔子はつぶやいた。
高校の女子更衣室は社交場だった。狭い場所に同い年の女の子達が数十名詰め込まれているから、普段話さない子の話も聞き合って、けれど男子には聞かれない安心の場だった。にぎやかなのに和やかな場だった。
着替える体をじろじろ見たりはしないけれど、みんなを見るでもなく見ていて、翔子はいきなり言われたことがある。
「わ、そのブラかわいい」
それまで話したこともない相手にだ。翔子もまるで気安く、
「いいでしょ、これ安かったの」と返したはずだ。そう言えた自分を楽しめた。
特に友達づきあいしていない人同士でそんな親密な会話が成立することはもう訪れない気がする。翔子の発言をみんなが聞くともなく聞いていて、何も言わない人も反応してるのは気配で分かった。
何か一つの出来事でがらっと変わってしまったかも知れないけれど、女の子たちは本当に和やかだった。
意地悪な子が人の悪口を大声で言うこともあって、たいてい面白く話して笑いを取ろうとしたけれど、あの時もみんなの反応は素敵だった。
「面白い悪口」は勢いがあるから考える前に笑ってしまう。けれど、その先には進ませないようにさっと笑いが引いて、後は無反応になった。みんなそんな話聞きたくないよって示したのだった。
教室の休み時間に人目を集めるのが得意な子が、女子更衣室では大きな顔をできなかった。あの子と友達はもう悪口で人気を取ろうなんてしなくなっていたはずだ。
高校生のみんなは、中学時代にひどいいさかいを経験したり見聞きしていた。だからあの場所で、ほんの少しの善意や快活さで手に入る親和こそ楽しいのだと知っていた気がする。
でもそんな時がずっと続かないんだとも知っていた。知らない未来、知らない場所に詰め込まれるんだと知っていた。
「高校生の頃は、みんな独身のまま死にたいとか言ってたよね」
翔子は感傷的になって、相手のセールストークを遮った。
「ああ、そうだったねえ。自分がおばさんになるなんて想像できないもんね」
ある日更衣室で、「私五十歳過ぎてまで生きるのヤだ」と言った子がいた。そうしたら「私も」「私も」「私は四十」と大合唱状態になった。翔子は同級生たちを、元気で可愛くて優しくて頭がいい「ステキな女の子」だと思っていた。内心自分のことは、力が無くて醜くて自分勝手で馬鹿だとも思っていた。
あの時、駄目な自分よりもあの子たちの方が年を取るのを怖がっているのだと知って驚いた。
素敵な女の子が年を取る。
それはひどいこと、ひどい仕打ちに思えた。
あれから時間が過ぎた。
「時間は絶対に過ぎるもんねえ」
あの更衣室にいた仲間たちのほぼ全員が生きておばさんになっている。せいぜいきれいなおばさんになっている。事故や病気で亡くなった子もいるけれど。
未来なんて全然わからない。
礼文は何着か着せ替えをさせられても機嫌よく、むずからない。脱がせた服を脱いで畳もうとすると、「お客様にはさせられないから」と遮るので翔子はお茶を入れ替えに台所に下がり、戻った。
かつての同級生は荷物を片付けており、湯呑を受け取ると、
「年取るのもさ、」先程までとは違う口調になった。
「年取るのって、全然悪くないと思うの。悪いこともあるけどさ」
その荒っぽい口調で、翔子はこの子も団地の子だったと思い出した。中学は別のクラスだったけれど高校で一緒になって、きびきびとした快活な子だった。
「うん」
「これから先どうなるかわからないけどね」
あの子達も自分も大間違いだった。今も間違ったまま生きているんだ。
「あのね、ネットショップのアドレス教えて」
同級生は名刺を置いていった。長話をしたのに、結局強く売り込みはしなかった。
「お金があるから困ることも、あるんだねえ。レイモン」
それから、
「もっとあったら良かったのかな」と言った。ふざけて。
礼文はブロック玩具をかじっていた。
次の朝、翔子は洗濯機から洗濯物を取り出して干そうとし、驚いた。
蓋を開けた途端に目に飛び込んだのは数字の列だった。
ブロック玩具が六つ、横一列に繋がっている。
六つの数字の列。うっかりおもちゃに気づかず洗濯機に入れてしまったらしい。水流でスナップがくっついたんだ。
(ただの偶然。きっと)
その日翔子は大して用もないのに買い物に行き、何の用もないはずの宝くじ売り場に足を止め、番号籤のカードを手に取った。
ブロックと同じ数列を塗りつぶした。
「ふざけているだけ」翔子はベビーカーに向かって言った。
けれどまた、当選してしまった。
翔子は未来に復讐されている気になった。自分を操るものがいるように感じ、それから、一番愛している子供が怖くなった。
「幼児塾って、あるんだって」
「何だそれ」
「できるだけ早くからいい塾に行かせないと一生が決まっちゃうって」
翔子と翼は子供が生まれて以来、人生観を塗り替える経験のしどおしだった。
翼は生まれついた地域社会の中で、よりましな方を選択し続けて成人したと思っていたが、それは自分の属する場を出るものではなかった。礼文が生まれて以来、夫婦には降って沸いたような幸運が続き、それは二人を思いもよらない世界へと導いた。
翼にとっては宝くじよりも、社内コンペグランプリを取ったことが大きかった。支社採用だった自分が本社企画部に配属されるという異例の人事を受けたのだ。
どこのメーカーも社員の定着に悩んでいるが給与レベルを引き上げたくない。しかし内部留保は潤沢であり、地方の製造部社員は常に不満を抱いている。そこまでは誰でも知っていることだ。翼は製造コストの削減ばかりに向けられていた設備投資を、製造部員の意欲改善に繋げる方策として提案し、全支社で採用されたのだった。
本来、物を作ることは楽しいものだ。しかし会社組織は製造コストを下げることだけを主眼としてきたから、製造部員は勤務そのものに対して喜びを持てなくなっている。自分が作ったという満足が失われているのだが、その部分は現場外の管理職にはわからなかったのだろう。
翼の改善案の一つは作業状況の改善で、動線を徹底的にモニタリングすることで作業者の負担を減らしどの製造現場でも多い腰痛退職を減らしたと評価されたが、実のところ座ってできる労作に椅子を導入しただけのことだった。なぜか全作業を立って行う慣習になっていたのを改めただけだ。
更に、各支社に一台配備され受付業務を期待されていた人工知能搭載のマスコットロボットを利用したことが評価された。一年もしないうちに無用の長物に成り下がっていた機体を、同期のエンジニアと組んで製造現場で巡回させたのだ。ロボットは人の視線を受け取り、かなりの精度で人の機嫌を汲み取れる。それに応じて賞賛、励まし、注意といった単純な言葉をかけさせたのだが、これが良かった。正規非正規パート請負と雑多な雇用が混じって会話が成立しにくい中、単純な言葉で話しかけてくる人間でない存在は、人間同士の会話と交流を促したのだ。
リース契約期間遊ばせておくのももったいないという発想だったのに、労働シフトを組むことが容易になり、離職率が減ったとされSEと共に社長賞を受けた成り行きは異常な幸運としか思えなかった。
「出世は運のものだから」そう言われることが続き、しかし「運も実力のうち」と付け加えられた。
本社勤務となった翼は、子育てにほとんど参加できなくなったし、育休明けから復職するつもりだった翔子は宝くじを当ててすぐ退職した。
二人とも、何かばかばかしい幸運に弄ばれている気がして、しかしその中で自分は努力をしたから幸運が舞い込んだのだと自分を納得させていた。そうしなければ自分の人生が無意味に見えてしまう。
幸運のおかげで人生に失望するなど馬鹿げている。
なにより礼文を幸福にするためにその運を使うべきだろうという点では二人の意見は一致していた。
初めのうち、籤の当選金は礼文のために使おうと翔子は言い、九桁の数字が並ぶ預金に手を付けなかったのに、二回目が当選するなり、翔子は言った。
「このお金は残しておくの、いや。怖い」
確かに気味が悪かった。二回当選させたのは妻なのだが、翼は翔子を気味悪く感じることは無かった。
今では翔子よりも愛していると感じる礼文が、翼には気味悪かった。
同じ不安を翔子も抱いていると感じるのに、それを口にすることはできなかった。
礼文は手がかからないいい子で、夜はぐっすり眠る。
けれど翔子が泣いていることがあるのを翼は知っていた。深夜に声を殺して。
塾に入れてどんな一生に決めたいというのか、翼は翔子に尋ねた。
「わからない、ただ、」
翔子は視線を彷徨わせた。
「あの子、家にあんまりいない方がいいんじゃないかな」
そんな言葉を聞くのは辛かった。
4
「いらっしゃいませ」
もうすぐ四歳の礼文はやってきた祖父母に挨拶した。
「ああこんにちは。おりこうさんだねえ」
「こんにちは。本当にレイモンはいい子」
そう、礼文はこの四年間、ずっとお利口さんの良い子だった。それは大人の要求に難なく応えられる、大人にとって都合の良い子ということなのだが、礼文はそれを窮屈には感じなかった。昨日できなかったことが今日はできるようになる。幼児の毎日は充実していた。もっとも礼文には問題が二つあった。
両親と、子供たちだ。
礼文は現在、都内のタワーマンションの最上階に住んでいる。大抵の欲求は親を操れば満たせたが、保育園や塾の幼児たちは恐ろしかった。
子供の脳は個人差が大きく未発達過ぎて、正確に干渉できない。自分に好意を持つよう仕向ければ一日中べったりと追い回され手を握られるし、僅かに距離を取らせようとすれば噛み付かれた。
そして父と母は ――― 礼文を恐れていた。
仲間と通信したり、一人っきりでやってみたいこともある。礼文は用心深いが欲望を我慢したことはなかった。努力や忍耐は欲望のためにあった。それで両親は、何度も恐ろしい思いをすることになった。胃の腑に氷が落ちるような思いだ。
なぜかケーキを買いたくなり、残業せずに行ったこともない駅に降り立って知らない菓子店で土産を誂えると、妻が、昼間テレビで紹介していた品だと言う。礼文と見たテレビだと。
現在の住まいはタワーマンションの最上階なのだが、たまに出会う他階の住人に、「レイモン君、今日はひとりじゃないのね」と言われたりする。
「偉いわねえ、ママがエントランスで待ってるって、一人で行けるんだものねえ」驚いて聞き返すと、背中にリックを背負って帽子を被った礼文が、エレベーターに一人で乗り込んでいたのだという。
「レイモン君、何歳なんですか?」
三歳です、と翔子が答えた時、相手の顔は笑顔から一瞬に歪んだ。
両親の脳裏から、忘れられることは忘れさせ、心を慰撫し続けているのだが、しかしそれでも間に合わず、礼文は親の心を傷つけ続けているらしかった。
今日祖父母が来たのはそのためである。
翔子がいろいろなことに傷ついていて(と伝えたが、自分もだとは言えなかった)礼文を預かって欲しいと頼んだのだ。その連絡を翼は、自宅から離れた場所でした。自宅で何かしたら全て礼文にわかってしまうのではないか、そんな気がすること自体、自分が異常にも思えた。
祖父母は翼たち夫婦が、急に住む世界が変わって辛いのだと解釈していた。田舎育ちの人間が都会で立派な仕事や上品な住まいに入って慣れないのだろうと。このマンションにたどり着いて、なおさらそう思っていた。
「おじいちゃんおばあちゃんの家に泊まりにおいで」
祖父母の感情は極めて穏やかだったから、礼文はその提案を受けてもいいかと思った。しかし礼文は、祖父母が恐ろしくもあった。返事をためらっていると、母が泣き出した。
「レイモン君、どこか遊びに行こうか」
「この下の公園に行きましょう。紅葉がきれいだった」
「すみませんお父さんお母さん、お願いします」
礼文は一言も言わないうちに、祖父母にさらわれた。
祖父母を恐ろしく思うのは、老人になるまで生きたことがないからだった。礼文は二人の倍も生きてきたけれど、老いに怯えた。祖父に抱き抱えられていると、その心が伝わる。老人の過去には膨大な可能性が潰え、未来には惨めな死だけがあるように思えた。
祖父母はこちらの思惑などお構いなしに礼文を公園に連れて行ったし、お構いなしにベンチに腰掛けた。礼文は「遊んでくるね」と言うなり、ベンチから遠ざかった。
遊具には同い年くらいの子供たちがいた。見かけない子らと見かけない親たちだが、心に干渉する気にはなれなかったから、遊戯から離れて、遊歩道を歩いた。
そして道の端に茸が生えているのを見つけた。一本、その先に一本。
昔、茸は仲間の通信に使われた。胞子は至る所にあるものだが、微弱電流を与えると菌糸を伸ばすから。雷の後に茸は良く生えるものだ。礼文は懐かしくなって、茸の道をたどった。歩道を外れ木立の中に進んでいく茸の道。それは太い木を回り込むように急に曲がって、そして ――― 終点は妖精の輪だった。茸が完全に円をなして生え、中に、女の子が立っていた。
「あなた、毎晩信号を垂れ流してるのよ」
鮮やかな赤いマント。毒キノコのように、多分それは意図した装いで、女の子は立っていた。
仲間だった。初めて会う見知らぬ、けれど仲間だった。
「あの人たち、私がここに呼んだの」
遠くに見える祖父母を指差す。
「ありがとう。初めまして」
「あのね、君、自分の状況がわからなくなってるでしょう」
「状況?」
礼文には確かにわからなかった。最初に言われた信号のことも何かわからない。
「私、助けに来たの。他にも何人か協力してる」
「助け?」
それから女の子はじれったそうに、
「君、栄養失調だよ。保育者を変えたら? 使いやすい人間に自分を育てさせなきゃ駄目じゃない。ずっと異常なんだったら、××みたいに(と女の子は前世紀に戦争を引き起こした仲間の名をあげた)、残念だけど処分なのかと思ってたよ」
××は権力欲にとりつかれたのだとも、世界を改変できると誤認したのだとも言われている。仲間たちが罠にかけ捕まえて記憶を抜き、新たに管理環境で育て直したと聞いている。
それから、礼文はこの近隣一体に、夜中思念の放電を行っているのだと教えられた。仲間たちは安眠を妨げられ、悲鳴をあげているという。
「今は酷い鼾や歯軋りみたいなものね。でもだんだんひどくなってるから、君、快適な生活してないでしょう」
「僕が、放電現象を起こしてる?」
「そうよ。範囲がどんどん広がってるみたい。人間みたいに親子ゲンカでもしてるの?」
「喧嘩じゃない」
「あのね、君の今回の環境が過酷なの、みんな知ってるから。今時誰でもいいから親にしましたなんて仲間誰もいない。もうさ、親を取り替えなさいよ」
それは、親を殺せということだった。人間は消耗品として利用するものだから。
「……ヤダ」
「やっぱり。情緒障害を起こしてる。新しい親の手配は簡単だよ。今の親だって、普通の人間ならさ、息子を助けるために死ぬのだから幸福だと思えない?」
「……ヤダ」そう、ただ嫌だった。
「君ね、多分今回は育ちが悪すぎてわからなくなってるね。でもね、毎日信号の垂れ流しがひどくなってるんだからね。忘れないでよ」
女の子は茸の輪を出た。
「今日のとこは教えたげただけ。仲間がいること忘れないでね。じゃ」
上げた片手の指をひらひらさせて、女の子は歩み去った。そうして散策する大人を追い抜きざまに「Trick or treat ! 」と甲高い声を立てた。
礼文は落ち葉を踏みながら、祖父母の元に戻った。次第に近づく祖父母は、公園の中にいるどの幼児よりも生命力が弱く感じられた。消耗品。取り替え。
「取り替えっ子は、一人」
不意に、見知らぬ子供の声が礼文の耳を打った。取り替えっ子はひとり。
礼文にではなく、それは腰掛ける祖父母に向けて子供が言ったのだった。子供は繰り返した。
「とりっかー、とりー。とりっこあ、とりー」
「ああ、もう十月だものねえ。何かあったかしら」
怪訝そうな祖父の横で、祖母はバックを探り、飴の個包装を取り出した。
「はい、よければどうぞ」
「とりっかー、とりー」
飴を握った子供は繰り返して、遊具に走って行った。
「あら礼文。お帰り。あのね、今よその子が、ハロウィンの言葉、なんていうの? 合言葉? を言いに来たの」
祖母の声はしわがれて弱く、優しかった。公園の肌寒いプラスチックベンチで、遠くから来た息子夫婦の住まいを追い出されるようにしてここにいるのに、その声はのんびりと響いた。
「ああ、ハロウィンか。この頃聞くな」
「流行りね。子供はお化けが好きだから。礼文はお化け好き?」
祖父母は体を寄せ合うように座っていた。恋人であれば身動きが取れないほどに寄り添うが、それとは違う自然な距離。
いつかの、アザラシたちのように、ただのんびりと存在できる距離だ。
礼文は年老いることが怖かった。仲間で老いた者など聞いたことが無かった。利一郎でさえ、老人になる予定は無い。利一郎はいつでも生まれ変わるための候補をリストアップして、生まれるために好ましい条件付を考えている。
「多分ね、」
以前、利一郎は言ったものだ。
「もうすぐ我々は人間ではなく、純粋にデータとして生きるようになり、より不死に近づく」
「それは生きてるってことになるの?」
「今と何も違わないだろ? より可能性が広がるのだ」
多分それは不老不死の完成なのかも知れない。仲間の望む到達点なのかもしれない。
――― 取り替えっ子はひとり。
礼文は怖かった。近くにいると、祖父母の体は衰えあちこちが傷んでいることが伝わる。動くことは喜びでなく苦痛で、耳は遠く目は霞み舌は鈍り、一番愛しているはずの相手にさえ情熱は無い。皮膚を重ねる強烈な快感は失われているのだろう。見知らぬ老いが礼文は恐ろしかった。
そしてただ嫌悪でなく恐ろしいと思うことには理由があった。礼文には今までわからなかつた恐ろしさの正体が今こそわかった。
「ああ、もうおうちに戻ろうね、寒そうな顔をしている」
祖父は怯える礼文の表情を誤解した。
「温かいものを買ってあげる。ホットココア買いましょう」
祖母はベンチのそばの自動販売機を見やった。
「僕買う。お金ちょうだい」
礼文は普通の子の演技をしてやろうと思った。
祖父母のことを今も怖い。けれど恐怖の正体はもうわかっていた。
硬貨をもらって自販機の正面に立つと、それまで販売機の一番上で「あったかーい」という文字を流していた電光掲示の帯が色変わりした。
「人生は一度だけ? いいえ何度でも、お好きな味を選んで」
文字はゆっくり流れた。仲間の悪戯だ。投入口に硬貨を入れ、背伸びしてボタンを押す礼文を、祖父母は微笑んで見つめていた。
缶ががたんと落ちると、文字の流れは再び「あったかーい」に戻った。
マンションの最上階に戻る間、礼文はずっと混乱していた。自分の欲望するものがこんなにもわからなくなるのは初めてだった。
エレベーターの中で三人は何も話すことなく、礼文は祖父母の気配だけを受信していた。
自然に動物のように寄り添って、多分病み衰えている二人。しかしその中に、礼文は見つけてしまったのだ。二人には信頼があった。穏やかに信頼を寄せ合い、弱い命いっぱいに老人たちは ――― 冒険しているのだった。
その夜、礼文は祖父母に引き取られ、その陋屋に泊まった。
父が祖父母と礼文を車に乗せ、道路を走る間、道路の両脇には見るに値するものが次第になくなった。父の故郷に近づくにつれ巨大なフランチャイズ店の看板が立ち並ぶだけの俗悪な賑わいになり、それも絶えた住宅街に礼文は降りた。
父と別れるとき、父は自分をぎゅっと抱きしめた。親から体を触れられるのは久しぶりで、父の心は礼文に流れ込んだ。
同じだった。礼文の心と父の心は同じだった。愛し、恐れていた。同じだけれど父の方がずっと強い。
礼文は知らなかったけれど、その夜、街中の電光掲示板はある文字を流した。駅で、路上で、閉店したモールの外壁で。街で一番大きな掲示板はパチンコ屋のイルミネーションで、いつもは夜空いっぱいに打ち上げ花火のまがい物を見せつけている。けれどその夜は違った。
「Rは老人になりたい。」
文字は流れ続け、やがて絶えた。
文字数:19233